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話歌と嘘 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2011-07-04

私には彼女がいた

 私は奴隷を一人(一つ? 一体?)持っていた。今はもういない。世界的に有名な牛ジョークのパロディではない。それは美しい、間違いなく私よりも美しい女だった。私より二歳年上で、私の言うことは何でも聞いた。もっとも私はそこそこ優しい女主人だったので、極端に過酷な命令をしたことはなかったが。
			

 私はそれのことをミナさんと呼んでいた。二人きりの時でもそうだ。奴隷をそんな風に呼ぶのはおかしいだろうか? 奴隷になる前は、そしてなった後も表向きはミナさんは学校の先輩だったから、私にとってはこう呼ぶのが自然だったのだ。主従関係を示す為に主人である私が苦労して呼び方を変えるなんて馬鹿馬鹿しい、というのがミナさんと呼び続けた理由の一つだ。そんなことをせずともミナさんは私の奴隷だった。

 別にミナさんの弱味を握ったわけではない。むしろ逆だった。ミナさんは自発的に奴隷になったのだ。
 ある春の日に、優しく綺麗な先輩だった彼女が私に対し多大な恋愛感情を持っていると伝えてきて、私は丁重に拒絶した。すると数日後、思い詰めた様子で、恋人なんて望まないから特別な関係にならせてほしい、奴隷で良い、と言ってきた。「本当に奴隷でも良いんですか」と確認すると彼女は期待を込めて頷いた。とりあえず自慰の頻度を聞いたり(私の品位を疑われても仕方ないが、他に侮蔑的な質問が咄嗟に浮かばなかったのだ)、軽く頬を張ったりしても、恥じらいや苦痛ばかりで反抗の素振りを見せなかったので、私は彼女を所有することにした。

 奴隷の使い方が良く分からなかった私は、まず家事をやらせた。腕は良く、嬉々として励んでいた。買い物の荷物持ちもやらせた。こちらはミナさんの細腕には大変そうだったが、じきにミナさんも私も慣れた。ゲームのレベル上げをさせた。ミナさんが持っている資格の勉強を教えさせた。キーボードを弾き語らせた。貴重品の場所は教えなかった。

 少し関係が変わったのは、私がバイトから帰ってきた日だ。立ち仕事をさせられて疲れていた私は、ベッドに横になり自分で脚を揉んでいた。しかしいまいち効果が薄く、ふと思い付いて、「ミナさんマッサージしてください」と命じた。ミナさんは従順に頷き、私の脚を丁寧にほぐし始めた。うつ伏せになっていた私は快感に少しよだれを垂らした。恐らくそれが初めてだったのだ、私がミナさんに手以外の体を触らせたのは。

 ミナさんの触り方は常に快かった。触れることを許すたびにミナさんは従順になっていくようだった。新しい奴隷の使い方を見つけた私は、頻繁にマッサージをさせるようになり、やがて、入浴中に体を洗わせるようになった。最初はごく穏当な部位だけ洗わせて退出させていたが、他人に体を洗われるのは想像以上に心地良かったせいもあり、ミナさんに許す箇所は増えていった。奴隷を活用するには、奴隷に対して恥の感情を持たない方が良いのだと気付きつつあった。ミナさんは毎日私の入浴を楽しみにしているようだった。

 私たちはもう一歩深く沈む。あまりにミナさんが喜んで私を洗うため、私は興味を持ってしまったのだ。果たして、他人の体を洗うのはそれほど楽しいのだろうか、と。勿論試せる相手はその場にいて、好奇心の誘惑に抗えないほど私は奴隷としてのミナさんに狎れていたし、必要性も感じていた。私の洗浄が終わった後、「ちょっとミナさんのことも洗わせてください」と言うと、ミナさんは何を勘違いしたのか、奉仕で紅潮していた頬を更に赤く、私に張られた時よりも朱に染めた。私は彼女の勘違いを放置し、明確な同意を待たずタオルにソープを垂らした。
 結論として、ミナさんの身体は柔らかく場所によっては弾力があって、触り心地が良かった。全身洗うのは途中で疲れたため投げ出したが、時折気の向いた場所だけ洗うのも悪くないと思った。奴隷の体を洗うことに屈辱を感じる主人がいるならば、それは主人としての自分に自信がなく不安なのか、洗うことを奉仕だとばかり考えているか、奴隷が総合的に言って触れたくないほど醜いからだ。最後の一つは哀れだし、前者二つは形式に囚われていて真実の主人らしくないと思う。私は真実の主人にならなければならない。私がミナさんを洗うのは、私にとって益があるためだった。肌触りの良い肉と温もりがそこにあるなら、触れて楽しんでも構うまい。そう扱う自由があってこそ、あるべき主従関係だ。それに、洗われるミナさんがはにかみながら大層喜ぶのも、功罪あるが短期的には良い要素だった。奴隷のストレスは皆無でも問題だが、ありすぎると当然早く摩耗する。私は道具は大事に扱うタイプだ。

 ミナさんに私の体を触らせ、私がミナさんの体に触れる空間が、浴室から寝室にまで拡大するのは時間の問題だった。私はヘテロセクシュアルとして生きてきて同性の体に強い性的興味はなかったが、意外にも直感的拒否感もなかった。恋人同士なら口付け辺りから始めるのだろうが、私たちは恋人ではないので飛ばした。
 浴室とは逆に、最初は私から触れた。私の急所に、恋人ではない、同性の指を這わせるのが怖かった。告白しよう、私はひどく臆病なのだ。
 冷静に、いたぶるように弄ぶつもりだった。成功していたかどうかはよく分からない。ミナさんとかつて関係があった人間は男性だったらしく、ミナさんは初めてではなかった。それは私にとっては気楽で良かった。私は同性はもちろん異性とも経験はなかったため動きはぎこちなかったが、ミナさんはそれなりに反応した。それでも、行為はそれほど楽しい物でもなかった。ミナさんの手触りは相変わらず良かったが、大きな反応を引き出すためには体を洗う時よりも繊細な動作が求められ、生来不器用な私には向いていないと思われた。もし私が男ならばあの器官を使うことで好き勝手に蹂躙しても快楽を得られるのだろうが、あいにくと持ち合わせていなかった。
 同性との、少なくともミナさんとの性行為に実際に及んでも嫌悪感が生まれないと分かった私は、次はミナさんから触らせた。具体的で的確な指示が思いつかなかったためミナさんに任せた所、温かな舌で触れられることが好みだと判明した。私より大分身長の高いミナさんに抱かれていると、包みこまれているような気持ちだった。一通り体の調子を確かめさせた後、本格的に奉仕され私はあっさり達した。その際にミナさんにしがみついているとより心地良いことも分かった。
 その後、私はそれなりの頻度でミナさんに私の体を触れさせた。私もたまにはミナさんに触れた。どう言い繕ってもあの我を失う瞬間はミナさんに支配されているとしか思えず、そればかりを繰り返しては流石に主従関係に歪みが生まれると考えたからだ。
 私がミナさんと性的行為に及んだのは、好奇心もあるが、それよりも私たちにはこの行為も必要だと思ったためだ。私は、ミナさんとの関係を進展させたかった。

 それから、私にとっては長い時間が経った。私の内心はかねてよりの感情で破裂しそうで、しかしよく我慢していたと思う。私の体表で名前の付いている場所は全て、唇を除き少なくとも一度はミナさんの舌を受けた。ミナさんの体表で私の指が触れなかった所もなくなった。そして、それから、それから、私はどうしたら良いか分からなくなった。
 私たちの関係をより深くしたい、いや、しなければならない。その思いだけは強くあり、けれど具体的な行動は浮かばなかった。首輪をつけさせて鞭打てば良いのだろうか。自慰行為や排泄行為を目の前でさせれば良いのだろうか。視点を変えて、ミナさんだけを働かせてその金で生活すれば良いのだろうか。それらは部分的には私の意図を叶えそうだったが、しかしあまりに歪な副作用が大きいと思われた。その道に進めば、どこまでも果てがないように思えて、その癖行き詰まりが目に見えているようにも思えて、つまり私はミナさんと私の関係に未来が見えなかった。だがそれは、性行為に及んだ時から、いやもっと最初の頃からそうだったのだ。恐らく私が臆病なのが悪かったのだろう。私は表面上は相変わらず主人らしく振舞いながら、ずるずると当てもなく、しかしミナさんを手放せずに関係を続けていた。そんなことを思われながら喜んで私に従うミナさんは滑稽ですらあった。

 私たちは二人きりで籠もっていたわけではなく、お互いそれなりに社会生活も送っていた。その中で、私は一人の男性と知り合った。一歳年上で、容姿はミナさんほどではないが整っており、学業偏差値の高い経歴を持っていた。私に見える範囲では優しい心を持ち、会話も機転が利いていて、要するにほとんど申し分のない男性であった。
 そんな男性でもよく分からない趣味を持っていたりするもので、彼は私に興味を持ったらしかった。私は元々はそのような感情に気付きにくい鈍感な女だったが、ミナさんが自分に好意を持った男性の行動を細かに私に報告していたので、察しが良くなっていた。
 彼に恋愛対象と見られることが客観的に見て羨ましがられる状況だと理解はしていたが、私は恋人を欲していなかった。私の脳の人間関係野はミナさんで一杯だった。その為彼の話には申し訳ないが適当な返事をしていたわけだが、それでも彼は積極的だった。個人的に遊びに行く誘いなどをしてきた。どうしようかと迷い、そこで閃いた。彼の注意を、私ではなくミナさんに向けさせれば良い。
 駄目元ではあったが、私は真面目に考えた。まず、私と、ミナさんと、彼と、彼の友達とで遊びに行って、繋ぎを付けた。ミナさんは容姿も所作も非常に整っているため、彼に良い第一印象を与えることは間違いないと思われたし、実際成功したようだった。一方ミナさんの方も、彼に悪感情を抱かなかったと言っていた。次いでミナさんに、彼に接近して私の代わりに彼と遊んでください、ただしミナさんが不快なことはしないこと、嫌になったら訴えてください、と命令した。可能な限りミナさんの自主性に任せることが重要だった。不自然な好意的付き合いというのは、最初は良くてもいずれ無理が出る、というのが私の持論だ。
 その後の私のスタンスは、基本的に観察だった。私も含めた前述の四人で遊びにいくこともあったし、私への誘いを、「私はちょっと時間が合わないんですが、ミナさんが暇しているので彼女を誘ってくれませんか」と押し付けたりして、様子を見ていた。ミナさんは初め彼とどんなことをしたか報告しようとしたが、私はそれをしないで良いと告げた。秘め事とは甘美な響きだと思う。
 彼は次第にミナさんに惹かれていくようだった。狙い通りだったと言える。ミナさんは彼を拒まなかったが、実際はどう思っていたか、それがいまいち不透明だった。直接尋ねても、良い人、という評価で固定されていて、本音はそれ以上なのか以下なのかがはっきりしなかった。私としては、不快だったらやめろ、という最初の命令がちゃんと生きていると信じるしかなかった。

 またしばしの時間が流れる。人間関係が変化するには時間が必要である。私にとっては焦れる時間ではあったが、焦れることができるだけ、何も見えないよりマシだったと言える。
 彼は、休み毎とは言わないが、よくミナさんを遊びに誘うようになっていた。私に声をかけることはほとんどなくなって、完全にミナさんに想いを寄せているようだった。ミナさんは相変わらずその誘いにほとんど応じていた。忙しい時にはその限りでなかったが、元々、私の世話をするために自由時間を可能な限り増やす生活スタイルを取っていたため、断ることはあまりなかった。一応私に対してこの日に遊びに行っても良いかという許しを願い、そしてこれは確実に言えるが、私はそれを全て許した。同時に、日常でミナさんに与える命令のストレスを少しずつ、慎重に加減しながら増やしていった。
 私とミナさんが一緒にいる時間は、以前と比べて随分少なくなった。その時間が愛を育てるのだと信じていた。

 私の狙いはふらふらと、しかし着々と進んでいるように見えた。残っているすべきことは、最後の一手だけだった。だが世の中にはしばしば、最後の一手が全体の八割のウェイトをしめている物事というものがあり、これもその一つだった。私はいつ引金を引けば良いのか迷いながら、はっきりしないタイミングを計っていた。
 行動する本人にも良く分かっていないタイミングは、逃し続けてどうでも良くなってしまうか、突発的な状況により好機悪機を問わず訪れるか、どちらかが多い。私の場合は後者だった。
 ミナさんと二人で街を歩いていたら、偶然彼と出会ったのだ。後ろから声を掛けられ、振り向いたら彼がいた。爽やかな笑みを浮かべた彼を視界に入れて、咄嗟に私は隣のミナさんを確認した。ミナさんは、驚いた顔になって、それから、とても華やかに笑い、弾んだ声で彼の名を呼び、そして、私を見て、静かに、落ち着いた微笑みへと移っていった。ミナさんが彼と二人きりで会う時にこっそり見に行ったことはなかったし、私と一緒に彼と会う時は当然主人である私がいるとミナさんは意識していただろうから、この瞬間が、ミナさんが彼だけに見せる表情を初めて目にした瞬間だった。私は心をざわつかせながら、どこかひどく冷静な部分を残してそれを眺めた。
 三人でしばし談笑し、また皆で遊びに行きたいね、なんて言葉に、そうですね是非と頷き、私たちは別れた。彼は礼儀正しく私とミナさんに平等に接していた。しかし私はミナさんに、ミナさんのことばかり見てましたね、と言った。ミナさんは少し慌てたようにそれを否定した。私の命令で彼の注意を引いたのだから、否定することなんかないのに。

 二人で私の部屋に戻り、ミナさんが作った美味しい夕飯を食べた。ミナさんの綺麗な喉から紡がれる歌を聞いた。いつもならその後一緒に浴室に向かうが、そうしたらタイミングを逃すだろう。意を決して、ミナさん、と呼びかけると、従順な奴隷は、もう本当に数え切れないほどしたのと同様に、指示を待った。自分の体の末端があちこち震えているのを自覚していた。こんなみっともない所に気付かないでいてくれと思った。
「ミナさん、あの彼のこと、好きなんですね?」
 声だけは、薄い紙を滑りこませるように、静かで震えもせず出せたと思う。ミナさんは弾かれたように目を開いて、とんでもない、とすぐに否定した。
「隠さなくても良いんです。咎めようというのではありません」
 安心させるための言葉だったが、かえってこちらの目的が分からなくなり、ミナさんは戸惑ったようだった。手に持っていたマグカップの中で紅茶が波立っていた。
「とりあえずマグはおろしましょう」
 頷きと共に、素直にテーブルの上に置かれる。そのカップは二人で選んで買った、お揃いの物だった。先輩後輩だった時に二人とも好きだと話をした栗鼠の柄が描かれていた。
 私の様子をうかがうミナさんに、出来る限り穏やかな笑みを返す。
「彼のこと好きでしょう?」
 またすぐに、首を振られる。
「本当ですか? これは命令です、正直に話してください」
 言ってから、必死になりすぎている自分に気付いた。これではまるで、真実がどうであれ好きだと認めろと命令をしているようだ。けれどだからって、「好きじゃないなら好きじゃないでいいんですが」なんて付けくわえたらどんどん情けなくなってこれからの主導権が失われてしまう。冷静な素振りというのは、一度崩れてしまえば修復しようという動きでなおさら崩れていくという厄介な性質を持っている。私は仕方なく黙ってミナさんの反応を待った。心臓が暴れていた。何でこんなことになっているんだろう、と心で呟いた。何もかも不条理に感じられた。ずるい、と思った。私だけが損をしている気分だった。考えてみれば、それはずっと抱えてきた感情だった。
 私が見つめる前で、ミナさんは、頷いた。その表情は、恐らく未だ人類が名付けていない感情のバランスだった。怯え、緊張、覚悟、不安、恥じらい、解放、他にも色々な心。自分の奴隷がそんな表情をすることを知らなかった。でも知ってしまった。先輩と後輩だったら、多分ずっと知らないままだった。
「……そうですか。本当に? ちょっと気になる、程度ではなく?」
 淡々とした私の問いに、迷いながらもミナさんは頷いた。それを見て、私は深い吐息を抑えられなかった。苛立ちのために発された溜息と思ったのだろうか、ミナさんがびくりとする。ミナさんから私に怯えることなんか何もないのに。私はそこそこ優しい女主人だったので、折檻などしたことはなかったのに。ミナさんに手をあげたのは、一番最初に軽く頬を張った時だけだ。肉体的苦痛を与えるなど私には出来なかった。やった方が良いかと考えたこともあったが、勝手の分からないそれでミナさんが私に反感を抱いたら、と思うと出来るわけがなかった。ミナさんに嫌われたくなかった。しかし、私たちの関係を見た誰もが(誰にも見せなかったが)誤解するであろうように、ミナさんをずっと手元に置いておきたかったわけでもない。
「分かりました」
 私がこれから何を言うのか見当がつかず、不安げな視線が向けられる。私だって不安だった。これからミナさんがどうするのか分からなかったから。今までのように、命令で何とかなる物ではなかったから。
「ミナさんは、彼と恋人になりたいんですね。恋人は何人ほしいんですか?」
 普通なら聞くまでもないようなことを聞いた。まるで望む子供の数を聞いているみたいだな、と胸の中で誰かが鼻で笑った。ミナさんは戸惑ったまま、一人と答えた。質問の意味が分からないですかね。ミナさんと私は完全に奴隷と主人ですもんね。けれど覚えているはずでしょう、最初はミナさんは、私と、恋人になりたがっていたんですよ。そして、一緒に買い物に行って、一緒に笑って、料理をしてもらって、一緒に食べて、一緒にお風呂に入って、一緒のベッドで一番綺麗な所を見せあって、他にもずっとずっと一緒にいて、常に私は主人でミナさんは奴隷として振舞っていたけれど、奴隷制度の存在しない現代社会では、私たちの関係にちゃんと名前を付けるなら、きっと、恋人以外にあり得ないと思うんです。でも。
「それなら」
 そう、それなら。ミナさんが、彼と恋人になりたいなら。彼と、特別になりたいなら。
「私は、もう、ミナさんに求められていないんですね」
 返事が怖くて、目をつぶりたかった。けれど確かめなければいけない。ミナさんは、私の忠実な奴隷は、私の美しい恋人は、少し呼吸を止めて、

 何度でも繰り返して言おう、これは私が臆病だったからだ。もちろんミナさんと私が出会ったからでもあるし、ミナさんが私に好意を持ったからでもあるが、私個人に原因を求めるならば、私が怯えてしまったからだ。そして運の悪いことに、私は愚かでもあった。愚かな臆病者は、いつだって恐怖から逃れようとしてより恐ろしい方向へ走る。私とミナさんの関係はそれだ。
 私が初めに何を怖がったか分かるだろうか? 私も本当はミナさんに好意を持っていて、しかし彼女から告白された時、理想の恋が現実になることを恐れて断り、けれど愛しの人と縁が切れることも恐れて、いけないと思いつつ主従関係を結び続けた、とか。そんな話では、ない。そんな、切なくも微笑ましい、幸せの一形態として見えなくもない話では、ない。
 私は、優しい先輩だったはずのミナさんに怯えたのだ。告白を断った後、恋人でなくても特別な関係になりたいと言ってきた、あの、想いに全てを捧げるような表情に怯えた。彼女にとって自分の恋心は神であり、彼女は盲信者で狂信者だと感じられた。自慰の頻度を聞いたのも頬を張ったのも、彼女を奴隷として品定めしていたわけではない。私は彼女の中に正気を見つけたかった。侮蔑的な質問をされ、叩かれることで、彼女の中に理性が戻るのを確認したかった。反発が見えれば、安心して再度彼女を拒絶できただろう。けれど彼女は、私の言葉と身体の暴力をずるりと丸飲みした。突然頬を張られてムッとした素振りもないなど、まともではない。私と特別な関係になるためなら何でも受け入れるという様子の彼女に、心底恐怖した。何でも受け入れるということは、何でもするということだ。何をされるか、分からない。
 私はミナさんの弱味など握ってはいない。むしろ逆だ。弱味を握られていたのは私だった。惚れた弱味ではなく、惚れられた弱味。恐怖で、彼女の提案通りであり、一番害がなさそうな主人と奴隷という関係を選んだ。私に従わせておけば危害は加えてこないだろうし、私が何かを要求されることも最小限で済む、と計算した。現代社会で他人を奴隷扱いするなど、それだけで弱味になると気付いたのは時間が経ってからだった。本当に愚かな臆病者だ。
 気付いてからは、決してミナさんが反意を抱かないように、より奴隷らしく関係の特別性を高めてミナさんを満足させ、かつ主従関係のロールプレイを強固にし従順さを強めるように進展させていくしかなかった。それにつれて、ますます行為が他人にばらされては困る物になっていった。恐怖に対応するための策が、ますます私の恐怖を増していった。私は自分への負担を極力減らすためにあくまで私の快に繋がることをさせるよう努めていたが、それでも常にミナさんに怯えながら命令を下していた。さん付けを止めなかったのも怖かったからだ。主人の演技をしてミナさんに奉仕する奴隷だった。ミナさんが望んでいるであろう肉体的関係に奉仕の名で踏み込んだのは、より深く従属させるために必要だと思ったからだが、私自身の心がこの異常な関係を受け入れ、性的好奇心が蠢く隙が出来ていたからでもある。私への調教は進んでいた。
 肉体関係が日常になって、客観的に見れば恋人と呼ばれる関係になって、私は快楽を得ながら疲弊していった。一生ミナさんを奴隷或いは恋人として側に置き、その実縛られて過ごすのかと思うと、未来が閉ざされているようで耐えられなかった。どこにも行けなかった。私からもミナさんに愛情を抱ければ、その未来も明るく感じられたのだろう。けれどそれは無理だった。どうしたってミナさんをそういう対象としては見られなかった。どうしたらいいか分からなかった。
 そんな時、彼が現れた。私にアプローチしてくる様子を見て、ミナさんがいなければ彼に応じていた可能性もあったかな、と思い、そして彼に望みを託すことを考えついた。彼にミナさんを好きにならせればいい。そしてミナさんへアプローチさせ、ミナさんが彼を好きになれば、私はミナさんの執着から解放される。自由が、手に入る。恋愛のノウハウなどなかったため手探りだった。出来る限り彼とミナさんの時間を増やし、その時間が彼らの愛を育てることを祈っているしかできなかった。希望に苦しめられる時間だった。ミナさんが私より彼に好意を向けるようこちらはストレスをかけたりもしたが、やりすぎて強い反感を持たれては元も子もなかった。綱渡りだったが、綱を渡ってでも崖の向こうに行きたかった。一人で。
 街で彼と会った瞬間のミナさんの表情に、これはきっと好いているだろうと思った。想いが育たないうちに行動に移ってはいけない。しかし時間をかけすぎても冷める。タイミングが一番重要だ。今だ、という確信など無かった。観察し待っている状況に焦れている自覚はあったから、早く楽になりたいという意識が働いているのではとも危ぶんだ。だが私は限界だった。だから、今、ミナさんの気持ちを確かめた。

 ミナさんは、少し呼吸を止めて、何故こんな話をするのか聞き返してきた。ミナさんは聡明だ、私の意図を察してもおかしくない。しかし分かっていない素振りなのは、ミナさんにとって私たちの関係があまりに当然の、強固な物として染みついているからだろう。それをこれから、破壊しなければならない。私がミナさんに弱味を握られているのは変わらない。出来る限り、穏便に。言葉を尽くして。でも、どんな言葉を?
「ミナさんを縛るのが私の目的ではないからです。ミナさんは、彼と恋人になりたい。なら、私との関係はもう、邪魔でしょう。邪魔になった関係を続けたいとは思いません。だから、」
 ああ、こんな言い方でいいのか、言い訳がましい気がする、でももう言葉が見つからない、仕方ないんだ。
「だから、私たち、おしまいにしましょう」
 とても十分とは思えない、早急で直接的な宣言。自分で目が揺れてるのが分かる。ミナさんの顔を見られない。俯いてはいけないと、ミナさんの首筋の辺りに視線をやって、目の端に入りかける表情は意識から弾く。やっと言えた言葉だった。ずっと言いたかった言葉だった。なのに解放感がないのは、そう、きっとミナさんの反応が不安だからで、ただそれだけだ。
 部屋に沈黙が落ちる。ちく、ちく、と秒針の音がする。一緒に過ごした時間は否応なく私に浸透している。この部屋の時計の音とミナさんの心臓のリズムを、私の心臓は覚えている。だが心臓を冒されても私は、ミナさんに心を預けられなかった。ミナさんは恋人として完璧だった。なのに、ただ性別が同じだというだけで、ミナさんを愛することができなかった。肉体の性別なんていう物に支配されている自分が、ひどく動物的に思えた。
 ミナさんが、零れ落ちるように私を呼んだ。続けて、私の方はミナさんを求めていないのかと、聞いた。口調は柔らかかったのに、針に胸を貫かれたようだった。空いた穴からひゅうひゅうと空気が漏れて呼吸が上手くできない。求めてなんているものか。ずっと私はミナさんに怯えて、ずっと解放されたいと願っていたのだ。この苦しさは、下手に答えたらミナさんを刺激するから、それが怖いせい、そうだろう。
 事実、答え方を間違えてはいけないという冷静な意識もあった。求めていると言えば、ミナさんが再び私に対し執着を始めるかもしれない。求めていないと答えれば、ミナさんが反感を持ち、私を害するかもしれない。じゃあ、どうしたらいいのだろうか。それが分からなくて、どうしてこんなに苦しいかも分からなくて、本当に何にもどうしても分からなくって、
「分かり、ません」
 そう答えている私の顔はきっと、親に怒られる子供のようだった。いや、先輩に窘められる後輩だったかもしれない。
 ミナさんは少し黙り、一度だけ小さく、すん、と鼻を鳴らした。そして、分かったと言った。ビロウドのように穏やかだった。分かったとは、何が分かったんだろう。ミナさんが何かを分かったということは、私が分かられたのだ。私が、ミナさんの恋心を分かって、解放してあげるという筋書きだったはずなのに。
「ミナさん、あの」
「ごめんね。ただ、あなたにとって楽しいことも、少しだけはあったって、思わせておいて。今まで、ありがとうございました」
 彼女は、花が揺れるように笑って、深く頭を下げた。
 ミナさんは、分かったのではなく、分かっていたのかもしれない。この関係が私にとって望ましくない物だと。だとすれば、私が思っていたよりずっと彼女は我儘で、私が思っていたより少しだけ優しかったのだ。自分の満足のために意図的に私を縛りつける程度に我儘で、私が嫌になったと言えばこうして笑って頷いてくれる程度に優しかった。ミナさんは、危ない人ではなく、ひどい人だった。勝手に怯えていたのは私。滑稽だったのは、私。
 私は、これで、解放される。
 安堵と情けなさで胸の中の何かがドロドロと溶けていくのを感じながら、涙だけは出すまいとしていた。泣いてしまったら、安堵と情けなさ以外の何かまで湧いてきそうで、また、怖かった。ミナさんは、私の先輩は、一瞬私に手を伸ばそうとして止め、ごめんね、大丈夫だよ、と言った。
 ぐちゃぐちゃになりながら、私は最初から最後まで、本当の主人にはなれなかったのだなあと考えていた。ならずに済んだということは、私はまだ踰えてはいけない矩を踰えず、元の私に戻れるということでもある。それならば、私は最初に嘘を吐いたことになる。私は、奴隷を一人持っていなかった。私には、恋人がいた。私には、彼女がいた。今はもう、いない。

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