ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

人はなぜ神を要請するのか

ロゴスの小径へようこそ。

4年ほど前に書いた、こちらの記事
についてコメントをいただきました。(ありがとうございます!思考のきっかけになります!)それについて考えてみたいと思います。


カントによると、(かいつまみますと)人になぜ神が必要かというと、
神がいないと誰も道徳や倫理を守らなくなるからだということですが

ちなみにカント自身はキリスト教信者だったそうですので、
ものすごく平たく言うと、
信仰は「理性的には」説明できるものではない、
もしするとすれば、道徳のためと言える、というような意味合いかなと思います。

なぜ人間は神を信じるのかについて
無宗教者の立場である私の考えでしかないのですが

この世界ができた理由も、
人間が生きているということの意味も、

よくよく考えてみると「神さまが創ったから」か「不明」かの二択しかないですよね。
このとき「神」を特定の神と考えると宗教によって定義は別々になりますが

そうではなく、とにかくどの宗教にとっての「神」を「X」と呼ぶとすると

「世界(この世)」は「X」が創ったか、不明か

の二択になりますよね。これはどんな宗教も無宗教でも同じ答えになるかと思います。
ここまでは全人類共通の「真理」です。

で、そこから先は・・・

答えは永遠にわかりません。としたら
どちらを信じるか

しかありませんよね。

なぜ信仰心を持つか と なぜ信仰心をもたないか は同じとも言えます。

どちらも信じるかどうか、だけに依存していますから。

では神を信じる人、信仰を持つ人とはなんなのか・・と考えると

一つは、生まれた環境がありますよね。
キリスト教圏に生まれれば私も間違いなくキリスト教徒だったと思います。

日本で神社に行けば信仰心はなくても
なんとなく神聖な気持ちに(もしくは怖いような)なったりしますが

外国の方からすれば単なる「観光地」でしかなく
だから食べ物を食べたり写真をとって大声で騒いだりして
ちょっと嫌だな、なんて思うときもあるのですが

逆に日本人も海外の寺院や教会に「観光」で行ったりしますよね。
祈りを捧げる神聖な場に
興味本位で立ち入り、インスタ映え!とか言って写真撮ってアップしたりしちゃうわけですw

つまり、
生まれ育った環境で神(X)を信じるということは
非常に多いといえますよね。

そのほかに
キリスト教は「教義を信じる」という信仰のあり方です。
だから聖書は非常に重要なんですよね。
その解釈のあり方の違いから戦争まで起してしまうほどに。

個人的には、信仰をされている方は
何かしらの神秘的な体験をされたのかなーーなんて勝手に
思っていました。

実際そういう方も多く、お話を聞くと
本当に羨ましいと感じます。
神様の愛に包まれているのが実感できるそうです。

私にはそれがないので、
「選ばれし者」ではなかったんだなあとつくづく思いますw

でもですよ!

そういう神秘体験を重視するのは邪道だ、
というキリスト教の宗派もあるそうです。
(聖書の読み方によって、キリスト教はものすごく多くの宗派に分かれています。
キリスト教だけでなく仏教も同様ですが。)

教義と神秘体験は別物で
神秘体験、といっても悪魔が体験させているかもしれないと考えるそうです。

とすると、神という体験をした人だけが宗教に帰依するわけではないようです。
その場合は教義に魅力を感じた、ということになりますよね。
それはある意味「倫理的」だと思うのですが。

ちなみに、
そもそも悪魔という存在がなぜいるかという解釈も面白いんですよ。
完璧である神がなぜ悪魔を創造したのか。

人間への意地悪のためか?

そんなわけないです。神さまは意地悪なんかしません。

だから悪魔はいつも「堕天使」という形をとるそうです。
神が悪魔なんか創るわけがない、もともとは天使だったんだ、と

・・・話が逸れましたが


なぜ人が神を信じるかは
信じるしかないからとしか言えないですよね。

信じるものはなにもなく
世界には生きる理由もない

そう思って生きるのも

信仰をもって生きるのも

生きて死ぬのは同じですから

より楽に生きられる道を選んだほうがいいに決まっています。

ただ、問題は
信仰をもとう!!!と決めても

持てるものではない、というものです・・・

もともと信仰のある環境に生まれ育ったとか
あとは神秘的な体験をするか
心の底から納得できる教義に出会うか

上記がないなら、無理矢理信じるなんてできそうもありません。


このことについては非常にたくさんの細かい思考がなされていて
私などには簡単には語りきれませんが

神を信仰できる人が本当に羨ましいです。
できない人はやはり選ばれなかったんだと感じてしまいますね・・・。

死に際し、神のもとにいけるのだと思えば
怖さも半減するのではないでしょうか。勝手な想像ですが。

信仰が無いのであれば仕方ない、
思考して生きる他ありません。それがある意味哲学とも言えると私は思っています。


コメントをいただいたきっかけで久しぶりに思考ができてうれしかったです。
ありがとうございました。