タクシー

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ぐったりとした体をタクシーが右左と揺らしている。暗い車内。暗い窓の外の世界。


サイド・ミラーには運転手の口元。遠くを見ている目に自動販売機の明かりが入る。運転手に行き先を告げてから、深海のカプセルの中みたいだ。


ただ静かな時間が漂っている。


気遣って黙っているのか、それともただそういう性格なのか、分かる術は無い。


機械の魚がガラス越しに通り過ぎて行く。


ただ、メーターがあがる音がカチ・カチと聴こえてくる。終電が無いことにはもう気付いている。ラジオから知らないポップソング。踏み切りを待っている指示機がリズムを刻む。微妙にずれてるそのリズムが心地いい。


目を瞑って、吸い込んだ空気に少しガソリンの匂いを感じる。大きなバッグが自分にもたれ掛かってくる。


踏切の段差で体が上下する。ふかふかのシートに身をまかせている。こんなふかふかなシートにしているのこの人はいい人に違いない。


心が微笑んでも表情は微笑まない。今日の笑顔を使い果たしてしまっている。こんな深夜から会う予定があるわけが無いからいい。


明日も平日で朝が早いのに、ここまで深夜になると開き直ってしまうからいい。




「疲れていらっしゃいますね」突然、運転手が口を開く。



「…」返事のタイミングが掴めずに黙ってしまった。



「そうですよね、急で驚かしてしまいましたね。」


「いや…そういう訳ではないのですが。」


「私も昔サラリーマンをやってたんですが、早すぎる時間についていけなくなりまして、今こうやってタクシーの運転手をやってるんですね。」


「そうなんですか。」


「えぇ、あなたは時間の流れにに上手く乗れているように見えますね。」


「そんなことないですよ、だからこそ、こうやって終電も無いのに駅に向かってタクシーに乗っているんです。」


「夜中のタクシーのお客様を見続けているんで、それぐらい分かりますよ。あなたは上手に時間に乗ってらっしゃいますね。」



「…」サイド・ミラーに写る運転手の口元が少し笑って見えた。



「お客さん、あなた、私と一度会ったことがありますね。」


「そんなこと言われても、乗ったタクシーの運転手の顔なんて覚えていませんよ。」


「違いますよ、運転手とお客さんという立場で無い時にですね、一度会ったことがありますよね。」


「そんなこと言われても、こんな暗い車内じゃあなたの顔も良く見えませんし、そういうあなたこそ私の顔がはっきり見えていないのではないですか。」


「間違うはずがありませんよ、あなたを乗せるためにあの場所で毎日毎日待っていたのですから、私、今日という日をずっと待っていたんですね。」


「もし本当に、この私を待っていたのなら、それはどういう理由からなんですか。あなたにそんなことをさせている理由なんなんですか、私はタクシーの運転手の知り合いは一人もいないし、ましてや、人にずっと待っていられるような理由なんかこれっぽっちもないはずだし…」


「理由はありますよ、でもそれを聞いたらあなたはすごく驚くでしょうけどね。」


「なかなか駅に着きませんね、混んでるわけじゃないのに。」


「それはそうですよ、駅なんかに向かっていませんよ。分ってますね。」


「分かりませんよ。駅に行ってくれないなら降りますよ。急いでるわけじゃいですけど。」


「降ろす訳にはいきませんね。まぁ、ひとつ話を聞いてやって下さい。人って死ぬじゃないですか、人って死ぬときに思うらしいですね。また、生まれてきたいって。それは分かりますよね。」


「分かりません。」


「いやそんなことありませんよ、分かりますよ。ただ生まれてくるだけじゃなくて、ある職業になりたいって思うらしいです。」


「私は死んでもタクシーの運転手にはなりたくないですけどね。」


「よく分かりましたね。そうなんです、生まれ変わったらタクシーの運転手にみんながなりたいと思うんです。毎朝、家を出るとき憂鬱じゃないですか、タクシーの運転手なら家を出ても車の中、個室の中なんです。それに、こんな時代お金が欲しいですか、いや絶対欲しくありません。大金持ちにならない限り、ちょっとしたくらいのお金を持っていても無くなるのが不安でそれどころじゃありません。お金必要ですか?」


「いや、特にお金に執着があるわけじゃないですけど。」


「お客様の数を勝負するなんて、したい人だけに任せておけばいいです。そんなふりな目をしている人ばかりなんですから。それに、時間がゆっくり流れます。会いたい人に会いに行くことができます。待ちたい人をいくらでも待つことができます。家の前で待ち続けるのとは側から見ても違いますからね。」


「何が言いたいんですか。」


「私が生まれ変わってでも会いたかった人はあなたなんですね。」