追われている幻想

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小さい頃から、よく二つの夢をみた。


一つは、夏休みも、もう今日までとなった日に、理科も算数も漢字ドリルも真っ白だった。悪気があったわけじゃない、まして確信犯になれるほどの度胸もない。夏休みの最後の日から、突然話が始まるものだから、その日を脅えて暮らし、先生の前で小さくなって嫌味に堪えるしかなかった。


もう一つはというと、僕は静かな夜の遊園地にいた。赤や青や緑、黄色の電球が動きながら点滅を繰り返していた。すれ違う人もいなく、ただ一人で華やかに輝くアトラクションの間を歩いていた。ふと見上げると、大きな観覧車が、大きな花火みたく見えた。係員の姿はなく、ただただぐるぐると廻っている。そして僕は、子供が扇風機によくやるように、それに手を差し込んで、観覧車を止めてしまう。静けさの中でサイレンが鳴り響く。電球の色は一斉に消え、真っ暗になる。サイレンが鳴り続ける。しゃがみ込んで耳を塞ぐ。それでも音は大きく鳴り続ける。


今年の夏は、去年の秋を思い出させてしまうほどの気温が続き、何だかずっと、鼻の奥と目頭が痛かった。


そんな涼しい八月に、僕は車に引かれることになる。正確に言うと、「引かれた」のではなく、「跳ね飛ばされた」だ。ぶつかり方が良かったようで、車の車輪に巻き込まれずに、5メートル離れた植え込みに、自転車共に飛ばされた。気が付くと、知らない病院のベッドにいた。


体中が痛かった。でも、少し位なら動かすことができる。また、目を閉じる。


そして、宿題と観覧車の夢を連続上映で観た。


何かに追われるように、生きている意味を探す。実は誰も追って来てはいなく、誰もこちらすら見ていないことを知る。道が続いているわけではなく、自分で道を付けていることを知る。そして、ふと立ち止まる。


此処を休憩点と決めた。でも、胸の中に、罪悪感を感じた。何故?何故?何故?自分で決めたことだ。なら、ただそれに従えばいい、それなのに心から安らげていない。表情は楽しめていても、心が楽しめていない。


また、歩き始める。足の裏の親指の付け根が、リズムを忘れている。心がリズミカルな身軽さを忘れている。思い出すために、思い切り土を踏み付けた。土の音が身体を通り、頭から抜ける。痛みだけがじんと残った。


人の目を気にしたり、人と比べたりすることに、意味がないことは分かっている。他人の全てを知れるはずもないのに、その人の一場面の一面を羨んだりする。人のことが全て理解できないように、僕のことを全て理解できる人は、誰一人としていないはずだ。人は独りで生きていかなければならない。いろいろな幻想に打ち勝ち、自分自身を盛り上げてだ。
アイロンがけが楽しくなるように、新しいアイロンとアイロン台を買って帰ろうか。病院帰りの道でそう思った。