中国一の裏切り男(八)

 蒋中正は数の上で優位な軍閥モグラ叩き式に打ち破ったが、これは勿論偶然でも天の助けによるものでもない。国共合作時期にソ連を訪ねた際、彼が注目したのはソビエト共産党の組織管理手法だった。つまり、特務工作政治である。
 北伐前の広州で共産党ともめていた頃から、陳立夫とその兄陳果夫の兄弟による中央倶楽部を活用し、国民党内に紛れ込んでいる共匪の炙り出しに精を出し始め、これが上海クーデターの頃、中国国民党中央調査統計局に発展した。これを略して中統と称す。
 武漢の軍官学校で学生の派閥背景洗い出しに貢献した周仏海先生も、当然立派な中統の一員である。中統の調査方法は、周仏海先生とも縁浅からぬ日本特高警察が参考とされた。追われる側から追う側になったわけである。
 蒋中正直系の弟子たる黄埔軍官学校出身者からも、戴笠を中心として連絡小組なる特務機関が組織された。その成果については戴笠本人が「軍閥の連中は、雑な人間が多い。常識がなく、謡言を容易に信じ、目作の利益に飛びつく。情報工作が非常にやり良い」と、ほくそ笑んでいる。

 中原大戦はどうやら片付いたものの、非常会議派の連中は依然として広州で頑張っている上に、蒋中正に軟禁されて逃げ出した胡漢民まで合流して、国民党左派から右翼から西山会議派から、更には桂系軍閥まで、さながら百花繚乱の勢いを見せている。
 江西省福建省の山岳地帯では、毛沢東朱徳を首魁とした共匪が山村を支配している。国民政府がこれに討伐軍を差し向けること既に二回、いずれも失敗に終わっている。

 三度目の正直ではないが、蒋中正が今度こそはと第三次討伐軍を率いて江西省首府南昌の軍営に在る時、俄かに南京から至急電報が陸続と転送されて来た。
「昨晩、倭寇ハ故ナク我ガ瀋陽兵工廠ヲ攻撃セリ」
「我ガ北大営ハ突如占領サレリ」
瀋陽既ニ占領サル」
長春既ニ占領サル」
 時、民国三十年九月十九日である。

 ちょうど同じ頃、東京でも閣議が開催されていた。こちらの暦では昭和六年の同日である。
関東軍の今回の行動は、支那軍の行動に対し、真に自衛のためにとった行動であると信じてよいのかね」若槻礼次郎総理大臣が問えば、南次郎陸軍大臣は「もとよりそのとおり」と答えたが、幣原喜重郎外務大臣は南陸相へ冷たい目線を送った。
「外務省が得た情報を報告致します」
 朝刊で事変の発生を知り、大慌てで登庁して情報収集をした外相の報告によれば、撫順独立守備隊が十七日出動の予定で列車の手配もしていたのを、わざわざ十八日に変更していたり、関東軍司令部は十八日夜半に出動準備をしていたり、関東軍に停戦を求めた領事が軍刀で脅かされていたりと、どうやら極めて怪しい。
陸相は苦虫を噛み潰したような顔を浮かべながら沈黙せざるを得ず、閣議は不拡大方針に決した。
 ところがその日のうちに今度は市谷台の参謀本部へ、朝鮮軍司令官林銑十郎から関東軍増援の為に出動するとの報告が舞い込んだ。越境には大元帥陛下の裁可が必要であり、明らかな越権行為である。
 参謀本部は当然出動中止を命令したが、朝鮮軍は気にせず列車に乗ってどんどん国境の新義洲へと集結する。こうなれば、朝鮮軍を応援する奴も出てくる。参謀本部内で揉めに揉めた結果、「出動命令を前提として大命の発令を準備中」と打電、果たして朝鮮軍鴨緑江を渡河して満州へ入った。
この事件を、中国では「九一八事変」、日本では「満州事変」と呼ぶ。

 中国国内では、日本関東軍の東北侵略を受け、済南事件以来燻っていた抗日輿論が爆発した。全国の主要大学に抗日救国会が組織され、学生はことごとく授業をほったらかして抗日学生運動を開始した。
「国民政府はただちに対日宣戦し、倭寇を撃壌せよ」
「学生軍事訓練を実施せよ」
 学内で叫ぶだけでは物足りなくなった学生らが外交部に押し入って、王正廷にインク瓶を投げつけ、見事命中させる事件もあった。
 滅茶苦茶である。
 国民党中央委員会は「戦うべき時に戦わず国を滅ぼしたなら、政府が罪を負う。しかし、戦うべきではない時に戦い国を滅ぼすのもまた、政府の罪になるのだ」との声明を発表して学生らを戒めたが、国民の怒りは日本と弱腰の政府だけではなく、当然国内政治の不一致にも向かった。これには蒋中正主席も同感である。
「私は国事を司って三年経つ。過去の事の是非曲直については、私一人がこれを甘んじて受けよう。諸同志は党国の存亡の秋にあたり、各自反省し、誠を以て相まみえ、中山党徒は内部で争うばかりで国難を救おうとしないなどと、外部の人から言われないようにしようではないか」
 徹底的に下手に出た手紙を蔡元培、張継、陳銘枢らに持たせ、香港にて広東側と統一に向けた談判をさせた。
 蒋中正主席側の主張と謂うべきか態度としては、「広東側がこの国難を担えるなら、自分は譲るから南京へ来い」、「国難を担えないなら、広東政府を撤収して南京へ合流せよ」と、至って簡単である。
 汪兆銘先生も簡単に「蒋中正が下野するなら考える」と返し、それに南京が応じる構えを見せると、更に軍人が国民政府の要職に就くのを禁じるよう要求した。蒋中正復帰防止策である。
 交渉している間に、南京側の連中がしびれを切らし、蒋中正主席辞任に反対をし始め、これまでのパターンでは決裂するところではある。
しかし、日本軍が馬占山軍を攻撃し始めたため「何でもいいから早く統一して国難に当たれ」との輿論が高まり、とにかく双方別個に第四次代表大会を開催し、同数の中央委員を選出して南京で改めて全体会議を開催する線で合意に到った。
 南京の代表大会はちゃっかりと「蒋中正同志に抗日の責任を付与」する旨を決議、広東側は当然これに従わず、「蒋中正主席が下野しない限り南京へは行かない」と頑張った。
 一方、毛沢東は討伐軍が来なくなったのを幸い、福建省の山岳地帯に瑞金中華ソビエト共和国を成立させた。
 日本軍は錦州への攻撃を開始、万里の長城へと迫っている。