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2007年03月07日 労働への努力

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日本高校生大学生に、「なぜ人々を平等にしようとした社会主義は結局失敗してしまったのか」という問いを行うと、おそらく圧倒的に多い回答が次のものだろう。「社会主義では、お金が平等に分けられるので、人々は努力をしなくなった。だからみんな怠けてダメになった」この見解は、日本では通俗化されたもので、「だから競争の中で努力しなければいけないんだ」という日本人の勤勉な意識が透けて見える。

同じ質問をヨーロッパ人にすれば、どう回答するだろうか。

私は留学中に「ソ連などの社会主義国が失敗した原因は何か」という問いをヨーロッパ人に対して3回ほど行ったが、各人に差はあれど、「失敗した社会主義国」の代表格であるソ連が結局は独裁の横行する危険な国家になってしまったことに言及した。結局は、社会主義スターリン粛清を生み出してしまった。それは社会主義者の一部が(もしくは社会主義者の多く)が暴力的で革命や暴動を好むからだ。「マルクス系の社会主義暴力的だからいけない」というのがヨーロッパ人の社会主義に対する通俗的な理解となるだろう。

両者の、社会主義に対する通俗的な理解はおそらくそれなりに当たっている部分もあるだろうし、外れている部分も多いだろう。しかしそれについては今は触れない。私が気になるのは、社会主義の崩壊、ソ連の崩壊という歴史的な出来事を、人々の「努力」不足に繋げてしまうような想像力である。この「努力」とはつまり、アーレント的な「労働」に対する「努力」なのである。

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

アーレントは『人間の条件』の中で人間の活動力を「活動」(activity)「仕事」(work)「労働」(labour)に分類し、近代では生存のためになされる「労働」が圧倒的に重視されており、何らかの具体的な結果を生み出さない「活動」が最も軽視されていることを指摘した。一般的にアーレントはこの「労働」を強く批判し、古代ギリシアアテネ市民が行っていた「活動」を復権させるべきだ、と主張したことになっている。ただ、アーレント政治学者の志水速雄に対しては「3つの活動力の変遷を描いただけで、これらのどれが優位にあると主張したわけではない」と言っており、私にはこのアーレント言葉が最も優れた『人間の条件』の読解への手引きとなっているように思われる。

私はこの書の3つの活動力の区分について、以下のような感想を持った。「活動」「仕事」「労働」のどれが優位にあるわけではない。私見では、キリスト教の「生命の尊重」は、必然的に生きるために最も「必要」でない「活動」を貶める結果となったのだと思う(最もその「活動」への蔑視が始まったのは近代なのだが)。そして、この宗教が生み出した近代的な「生命の尊重」や「人々の平等」を守るためには、やはり、生きるために最も「必要」な「労働」が重視されなければならない。だから現代の大衆が内に持つ「労働仕事ー活動」というヒエラルキーは崩せない。古代ギリシアのような「活動ー仕事労働」というヒエラルキーに戻すことは不可能である。ただそのようなヒエラルキー可視化することで、「労働のみが人間の活動力だ」などという謬見を防ぐことができるのではないか。それが、20世紀最大の政治学アーレント現代社会に対して鳴らした警鐘の内容のはずだ。

日本に戻ろう。私は労働に対して努力するのが悪いとは、決して思わない。しかし、「努力努力」言う近現代の日本労働者が不気味である、とも思う。それは彼らが「労働」を最も重要視しているからではなく、まるで人間の活動力が「労働」以外に何ものも存在していないかのような認識を持っているからだ。そもそもアーレントのような区分け自体が頭にない。だから時に「経済的な利益のために働くか、死ぬか」という二択を迫られる。

働いて、働いて、働き抜いて、もう遊びたいとか、休みたいとか思うたら、一度でも思うたら、はよ死ね。それが人間ぞ。それが男ぞ

有名な海援隊武田鉄矢)の「母に捧げるバラード」からの引用である。この母親言葉を文字通りに取ることはできないだろう。ただ、旅立つ息子にハッパをかけただけかもしれない。決して母親は「死ね」などとはホンネでは思わなかったはずだ。

しかし、それでもこのような、文字通り読めばおそろしい言葉労働への絶対的服従だ!)を、「母と息子の美談」に仕立ててしまう感性は怖い。この上の言葉が象徴するような日本人の「労働への絶対的服従」は、本当に美談として「勤勉」として、解釈されてしまって良いものなのだろうか。

「働いて、働いて、働き抜く」ことは、私は悪いことだとは思わない(アーレントがどう考えるかは別として)。しかし、「それが人間」ではない。「それが男」でもない。アーレントがなぜ『人間の条件』の中で、3つの活動力を区分し、それを該博な知識のもとで説明したか。「母に捧げるバラード」の恐ろしい歌詞を読めば、端的にわかるような気がする。

このような文章を書いた後で、偶然↓の記事を見つけた。

http://mellowmoon.blog93.fc2.com/blog-entry-21.html

日本の美しき伝統 『働けない奴は死ね』」

松尾匡松尾匡 2007/03/17 23:55 はじめまして。偶然拝読し、最近私が書いたことと共通するご指摘があって、やっぱりそうかと思っています。
http://www.std.mii.kurume-u.ac.jp/~tadasu/essay_70126.html
ついでにこちらも。
http://www.std.mii.kurume-u.ac.jp/~tadasu/essay_70315.html

ryotoryoto 2007/03/18 21:20 こんにちは、コメントありがとうございます。「ソ連イメージ」の話、興味深く読ませていただきました。私の世代(80年代前半生まれ)だと、「ソ連」を、ほとんど「歴史上の国家」という感覚で把握してしまう人々も少なくありません。