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2007年11月29日

[]『経済の文明史』

マルセル・モースの贈与・交換論やマリノフスキーの文化人類学に依拠しながら、新たなる経済人類学という学問領域を作り出した、ポランニーの著作である。

昨日、ファシズム相対主義の話を書いたのだけど、今日カール・ポランニーの『経済の文明史』を読んでいたら「ファシズムの本質」というポパーに位置の近い論考があって驚いた。この「ファシズムの本質」も、キリスト教個人主義ファシズムは絶対的に相反するものだと考えている。ヒトラームッソリーニキリスト教を排除しようとしたが、独裁政治のためにはキリスト教個人主義はあってはならないものだった。ファシズムヘーゲル以上に反個人主義だという。ヘーゲル国家を絶対視し、個人は国家の中でこそ精神弁証法的な発展を遂げると考えた。ファシズムヘーゲルの反個人主義を更に徹底化したものであり、それは神を概念の地位にまで引き摺り下ろしたヘーゲル以上に非キリスト教的なものであった。ポランニーはファシズムを反社会主義的とも考え、ボルジェヴィキ的な社会主義に信頼を置いているが、この辺りはハイエクとは意見の別れるところだろう。

ポランニーの『経済の文明史』は近代の市場経済歴史的に普遍システムではなく、近代特有のものに過ぎないことを論証しようとしたものである。イギリスに自由な労働市場が登場したのは、1834年の救貧法改革以降であり、それほど古いものではなかった。労働・土地・貨幣はそれぞれ市場主義を形成する重要な「擬似商品」であるが、労働や土地は決して元々は商品とされていたものではなく、これは市場経済の歪みを示している。

アリストテレスによる経済発見」において、ポランニーは、古代中世経済システムを近代の市場経済に至るプロセスと考える学者たちを批判している。ポランニーはアリストテレス経済発見者として重視し、アリストテレス見出した「経済」が今日市場経済とは根本的に異なるということを論じていく。例えば、アダム・スミス以降の思想家たちは経済システムの中で個人が利益追求のために経済活動することをほぼ自明のものとして見なしているが、古代においては、個人が共同体の存続を個人の利益以上に重要視して経済活動を行っていた例もあるという。ハイエクの主張するように自由主義市場経済はほぼ同時期に始まった。そのどちらもが永続的なものではなく、始まりもあれば終わりもあるものなのである。

レヴィ=ストロースは文化人類学を用いることで西洋中心主義を揺るがし、ポランニーは文化人類学を用いることで市場経済・資本主義を揺るがした。

[]『サイエンス・ウォーズ』

普遍性へのバックラッシュ」を読んだ。トッド・ギトリンの『共通の夢の黄昏』に触れつつ、アカデミック左派普遍性批判に疑問を呈している。

アカデミック左派マルクスのように、強者が弱者を抑圧していると指摘する。白人が黒人を、男性女性を、異性愛者が同性愛者を、更には白人を相手にする同性愛者が黒人を相手にする同性愛者を……。強者の弱者に対する抑圧を指摘するポストコロニアリズムフェミニズム(60・70年代頃の)は重要なものである。しかし、強者の弱者に対する抑圧に注目しすぎると、学問の(特に自然科学の)普遍性が疎外される恐れがあるのではないか。

近代の科学は主に白人男性の手によって研究されてきた。だからこそ、白人以外の者や女性によって、そのような科学の形態が批判されることがある。そのような批判の有効性を否定するわけではないが、初歩的なレベルにおいては、白人男性が学ぶべき数式と黒人女性が学ぶべき数式に差をつける必要があるだろうか、といった問題が提起される。