イクシゴ論(8)「卒園を間近にして」

3月も残り2週間を切った。それはすなわち、子供の保育園生活も残りわずかということだ。卒園に向けて、子供自身にとってはもちろん、親である自分にとっても、過ぎていく1日1日のかけがえのなさと重みを、ひしひしと感じている。

 

子供が保育園に入園したのは2018年11月、満1才3ヶ月のときだった。今月末の卒園時点で満6才8ヶ月だから、5年5ヶ月もの長きにわたって同じ園に通い続けたことになる。ほぼ小学校と同じ長さであり、3歳から通い始めた自分自身と比べると倍の期間である。子供の人格形成や、知育、運動能力、社会性などを育む面で、保育園生活がいかに大きな存在であったか、物心つく前から一緒に過ごしたお友達や先生方が本人にとってどれだけ大きな存在であるかは、自分とは比較にならないものであるはずだ。子供自身もそれを意識していて、この前は、卒園式で歌う歌の練習をしていたら、さびしくなって泣いてしまったと話していた。我が家も含めて、通っている子供たちの家の地区はバラバラで、進学する小学校もほとんどの子が別々になる。保育園から小学校に友人関係がそのまま持ち上がりになった自分と違い、交友関係が進学を境にリセットされてしまうのは、親にとっても不安な要素である。

 

小学校で新しいお友達ができて、楽しく元気に平穏な学校生活を送って欲しい・・・。自分が今もっとも子供に望むこと、願うことは、ただそれだけだ。成績だとか、出発時間を意識して身支度をするとか、持ち物を整理整頓するとかいったことはもちろん大切ではあるが、何が何でも今できなければいけないことではない。「小1プロブレム」という言葉もあるように、小学校に進学するこのタイミングでうまく適応できずにつまづいてしまうと、その後が大変なのは目に見えている。だから、年度替わりや、人の入れ替わり、自分自身の部署異動などで、仕事がアップアップになっている中でも、子供の気持ちに寄り添い、今まさに大きな壁を越えようとしている子供に対して、正面から向き合う態度を大事にしなければならないと強く感じている。それは本当に難しいことだ。だが、仕事は何か不備があっても、最悪あとでリカバリーすることもできるが、子供の問題は取り返しがつかないこともありうる。仕事と家庭の両立で常に意識してきた「優先順位(プライオリティ)」の考え方が、今ほど強く求められる場面もあるまい。

 

子供が生まれてから現在までの約6年8ヶ月を振り返ってみて思うことは、「本当に長かったし、壮大な道のりだった」ということだ。妻は「もう小学生だなんて、あっという間だった」と言うが、自分の感覚は全くその逆だ。自分が生まれてから子供が誕生するまで30年よりも、子供が誕生してから現在までの日々のほうが遙かに長かったように感じる。なぜかと言えば、理由は二つあると思う。一つは、子供の成長のスピードとそれによる変化があまりにも劇的だったからだ。子供の幼児期の成長というのは、本当に目を見張るものがある。乳児の頃は、オギャーと泣いて、ミルクを飲むくらいしかできなかったのが、ハイハイで移動できるようになり、二足歩行ができるようになり、オムツが外れて自分で用を足せるようになり、今では大人もたじろぐほどのおしゃべりマシーンになって、ひらがな・カタカナまで書けるようになった。例えは変だが、地面から姿を現したタケノコが、立派な竹になったと思ったら、そのまま伸びに伸び続けて大気圏を突き抜けてしまったくらいに、これは異次元で想像を超えた変化だった。誕生当初から録り溜めてきた子供のビデオには、その足跡がしっかりと刻まれている。これに比べれば、自分の十代、二十代の成長なんて、吹けば消し飛ぶほどの微々たるものでしかない。だからこそ、過去30年より、この6年余りの方が長く感じるのだ。そしてもう一つの理由は、自分の日常の歩みがつねに子供とともにあったからだ。子供が生まれて満1才になるまでの頃は、妻が育休を取っており、自分が長時間労働のブラック部署で働いていたこと、趣味への情熱がまだ冷めていなかったこともあり、残念ながら今より子供と接する時間は少なかった。しかし、満1才を過ぎたころを境に、「妻ではなく自分が中心になって育児をしよう」と改心し、仕事以外の時間はほとんど全て子供と過ごすことに充てるように劇的に転換した。それは自分の人生にとって、コペルニクス的転回というべき、非常に大きな、かつ不可逆的な変化だった。従来は仕事に支配されていた平日の夜は、家で育児・家事をする時間に変わり、休日もほぼ24時間、子供と過ごすようになった。時間の使い方が「家事育児のスキマ時間で仕事・趣味をする」というスタンスになり、限られた時間を最大限効率的・効果的に使うためのタイムマネジメントや段取りのスキルが急激にレベルアップした。これは「育児あるある」としてよく言われるとおりである。気づけば保育園の送り迎えの7割は自分が担当し、子供を児童館や公園で遊ばせるのも、カラオケに行くのも、雪遊びをするのも、妻不在で自分が専ら担当するようになっていた。子供を医者や床屋に連れて行ったり、保育園の参観に行ったりするのも、妻の同行は必要なく、自分だけで問題なくこなしている。そうして子供とずっと過ごし、常に傍らで見守ってきたからこそ、子供は今でも「おんぶして!」とせがんで甘えてくるし、喜怒哀楽を包み隠さず自分にぶつけてきてくれる。自分のやりたいことは後回しで、子供のために今自分が何をすべきか、何ができるかを考える中で、自分自身が年を取ることへの関心や時間感覚は希薄になり、子供が大きくなることに時間の価値を見いだすようになっていった。だからこそ、自分の人生の時計の針が、子供が生まれた2017年から動き出したような錯覚を覚えるのである。

 

10年ほど前に、飲み会の場で上司が語っていた言葉をよく思い出す。それは「自分は子供のおかげで『親という経験』をさせてもらっている」というものだ。「親は子供に『親』にしてもらった」と言い換えると分かりやすいだろうか。それは自分自身の実感とも、全くもって重なるもので、120%共感せざるを得ない。子供がいなければできなかった経験をたくさんできたし、考えもしなかったことをたくさん考えるようになった。子供のいる日常は、自分にとって非日常の世界へ足を踏み入れることだった。今の職場である青少年教育施設で働く上でも、自分が親であることで得られた経験や意識は、様々な場面で役立っている。子供がいなければ、ペールオレンジ色のことを未だに肌色と呼んでひんしゅくを買っていたかも知れないし、ここで子供が転んだら怪我をしそうだとか、この重さは子供は持てないだろうといった「子供目線」のKY(危険予知)の発想が瞬時に浮かぶこともなかったかも知れない。それと同時に、自分が社会を見る目、見ず知らずの人々に向ける視線も、かつてに比べると丸くなったように思う。20代の頃までは自分中心に物事を考え、世の中に対して不満ばかりで、他人に対してあまり関心を向けていなかった。だが、子供を持ってからというもの、たまたま出くわしただけの人たちが、様々な場面で子供に優しく親切に接してくれるのを目の当たりにして、「自分が思っていたよりも、世の中には優しい人が大勢いる」という素朴な気づきを得るに至った。それによって、自分は以前より他人に対して寛容になったと思うし、自分もまた我が子以外の子供にも優しく親身でありたいと思うようになった。「思いやり」という言葉の意味や意義に気づかされたのは、子供ができたおかげに他ならない。そうして、現在進行形で、自分は子供によって、親として成長させてもらっているのである。子供が成長し続けること、子供とともに様々な経験をすることが、自分が成長するための最大の源泉だと言えるだろう。

 

そうした子供中心の日々を送っていた自分の日常も、小学校進学を機に、大きな節目を迎えることになると思う。子供は、自分一人でできることがますます増えていくことだろうし、今までほど親にべったりということはなくなってくると思う。「親がいなくても生きていけるようになる」ことが真の「自立」であり、育児の最終目標であるとすれば、それは歓迎すべきことだ。我が子は、無口で人見知りな自分とは正反対に、おしゃべりで賑やかで、人懐っこくて、初めての場面や初対面の人にも物怖じせずに飛び込んでいく。誰かとお別れするときには「タッチとギュー」を欠かさないが、これがとりわけお年寄りには効果絶大で、「いい子だ、いい子だ」と好かれまくる。この生まれついての「人たらし」スキルという強力な武器を装備している限り、世渡りに困ることはないだろう。知能的にも、自分が6歳だった時よりもよっぽど先に進んでいる。ただ、そうして子供の成長に気を取られているうちに、気づけば自分も年を取っていた。これからは、子供と一緒にやりたくても、自分の体のほうがついて行かないことも徐々に多くなってくるかも知れない。子供にとっても、自分にとっても、ちょうどいい距離感を探っていくステージに入るタイミングが、今なのだろうと思う。子供には、親孝行だとか世間体なんて一切考えなくていいから、自分のやりたいことを見つけて、目標に向かって突き進んで欲しいと心から願っている。ただ、その反面、天真爛漫で、絵に描いたように子供らしい我が子の姿を見ていると、それはもう少しだけ先のことであって欲しいとも思う。

 

今の自分にとって、子供のことを考えることは、自分の生き方・考え方と向き合うこととほとんど同義で、語り出すと際限が無い。なので、思いは尽きないが、この辺で一旦終わりにすることにする。電車賃や入館料が無料とか、ミニうどんが無料だとか、幼児限定のサービスを受けられるのもあとわずかだ。名残惜しむより、今を楽しむ気持ちをもって、卒園までの日々を子供とともに大切に過ごしていきたい。

 

(170分)

年度末クライシス

1月は行く、2月は逃げる、3月は去る・・・と言えば、各月の頭文字に引っ掛けた有名な定型句だが、3月中旬の今、自分の仕事は年度末進行で多忙と混迷を深め、心身は限界に達しつつある。肉体的な業務負荷の重さと精神的な余裕の無さは、連日の深夜に及ぶ長時間労働と休日出勤でカオスの様相を呈していた2018年3月を彷彿とさせる。

 

例えば、昨日から今日にかけての勤務・生活時間の内訳は、以下のような内容だった。

 

<3/11(月)>
17時00分 定時
18時00分 退勤
18時30分 帰宅
   夕食、家事(皿洗い、トイレ・風呂そうじ、洗濯物干し)、子供の風呂
22時00分〜23時15分 在宅ワーク(次年度行動計画・数値目標案作成)
23時17分 眠気の限界でコタツで失神、そのまま朝までコタ寝

<3/12(火)>
4時00分 起床
4時00分〜6時10分 在宅ワーク(次年度行動計画・数値目標案作成)
   家事(洗濯物取り込み、子供の朝食準備)、身支度
7時00分 出発、眠気に耐えかね、通勤途中で駐車場で10分仮眠
7時45分 出勤
8時45分〜10時15分 雪上を歩き回り樹木の折れ枝の切断・除去作業
     電話、書類チェック
12時〜12時55分 昼休み:在宅ワークで作った資料データを自宅に忘れたため、片道20kmを高速道路を使って往復。PCごとデータを回収
13時25分〜16時00分 会議
16時00分〜45分 在宅ワークの資料を完成、施設の広報用SNSに記事を執筆・投稿
17時00分〜30分 資料を所長・次長にレク、一部修正指示を受けるも内容について了承を得る
18時00分 退勤
18時40分 帰宅

 

・・・とまあ、こんな具合だ。睡眠時間が5時間と短いこと、帰宅してから深夜と早朝に計3時間持ち帰り残業をしているのが、非常に不健康で労務管理上も大いに問題な部分である。単純な労働時間であれば、6年前のほうがずっと長かった。休日も含め毎日6時間超勤をしていたが、まだ若かったのと、家事育児を負担していなかったこと、不摂生ながらも「規則正しいリズム」を続けていたことから、まだ何とか耐えられていた。しかし、それから時は流れ、自分ももはや36歳。今回のような無理な働き方をすると、1回で非常に大きなダメージを受けるようになってしまった。今日は朝から疲労しており、呂律も回らなければ思考も回らないという「酩酊状態」が一日続いた。心臓は動悸がして左胸は時々傷んだ。頭がぼわーっとして、離れたところにいる人の声がよく聴こえない。パフォーマンスは低かったが、翌日が公休日ということで無理やり乗り切った。とてもではないが、毎日続けられることではない。しかし、公休日の明日も、残念ながら休日出勤して仕事をしなければ首が回らない状況だ。モグリではあるが、営業日なので同僚の多くは出勤しているので隠れることはできない。公然と休出する人は、「見てはいけないもの」「話しかけてはいけないもの」になぞらえて職場では「お化け」と呼ばれている。

 

家事育児最優先で帰宅のタイムリミットを至上命令として厳守する生活の中で、かつてのように残業することができなくなり、仕事は翌日に後回しが基本になった。しかし後回しにも限界がある。締め切りが迫りどうにも時間が間に合わなくなると、家に持ち帰って家族が寝たあとの深夜や早朝に仕事を処理せざるを得なくなる。同じ3時間の「超勤」でも、宵の口である定時の17時からスタートするのと、家事育児でエネルギーを使い切った22時からスタートするのでは疲労度に大きく差が出る。効率も落ちるし、自宅で勝手にやっている以上、いくらやっても無給なので当然モチベーションも下がる。何一ついいことはない。でも、こうでもしないと到底処理できないほど、年度末の様々な案件が同時進行で立て込みまくっている状況なのである。

 

自分の仕事のことだけでもアップアップになっているが、子供は卒園・入学を間近に控えて準備や課題も色々あるし、妻も仕事のストレスで体調やメンタルを崩しがちで大変と、我が家は今まさに内憂外患の極みにある。仕事で手一杯、と言ってみたいところだが、仕事にかまけていられるほどの余裕もないほど何もかもが切羽詰まっている。そして、ほとんど全ての問題の締切は、3月31日の年度末に向かって収束することになる。ああ、早く乗り切りたい、でもがんばらないと到底乗り切れない。果たして、生きて4月1日を迎えられるだろうか・・・。そんな不安にかき立てられながら、必死に手を動かし続ける自分の苦労を知ってか知らずか、年度末の時計の針は刻一刻と進んでいくのである。

 

(70分)

H3打ち上げ成功

日本の宇宙開発の切札となる新しいロケット、「H3」の2号機が、今日午前、打ち上げに成功した。ニュースで結果を知ったときは本当にうれしくて、仕事中だったが周りの同僚にも声をかけて知らせずにはいられなかった。

 

昨年の初号機で人工衛星を軌道投入できなかった挫折をバネに、この1年間再挑戦に向けて努力してきた関係者の方々には本当に頭が下がる思いだ。ロケット開発に失敗はない、失敗から学ぶことで成功により近づくのだ、というのはよく聞く言葉だし、科学技術の発展の道のりはまさにおびただしい失敗の歴史にほかならない。失敗は恥ずべきものではなく、乗り越えるべき課題である。だが、殊に日本では失敗は(それがいかに挑戦的なものであっても)社会的に大きな批判に晒されることが多いし、責任論に終始して「次はどうすれば上手くいくか」という前向きな議論への切り替えにものすごく時間がかかることが往々にしてある。この1年、JAXAを始めとした関係者の方々も、そうした日本社会の壁にぶち当たりながら四苦八苦してきたに違いない。そうした困難の末の大きな成果であるからこそ、打ち上げ成功を知って涙を流す関係者の映像をニュースで見たときには、自分も思わずもらい泣きせずにはいられなかった。

 

帰宅して家族が寝静まった夜、2010年6月13日の探査機はやぶさの地球帰還の映像を、以前録画してあったNHKの「アナザーストーリーズ」で再視聴した。何度も何度も見た映像なのに、大気圏再突入で光の筋となって燃え尽きたはやぶさの姿は、やはり何度見ても涙が抑えられなくなる。自分にとって今回のH3の打ち上げは、あの伝説の「はやぶさの日」に匹敵するほどの感動があった。2024年2月17日、この日は新たな記念日として、自分に胸に深く刻まれることだろう。日本のロケットがさらなる挑戦を続け、新たな成果を出し続けてくれることを心から願っている。

(40分)

シン・職場百考(6)~宿直勤務

今の職場の働き方には、3つの大きな問題がある。1つ目は「休日が完全ランダムなシフト勤務であり、家族と休日が合わないこと」、2つ目は「シフトの都合で全職員が揃う日がほとんどないので、情報共有や業務の進捗管理に難があること」だ。これらは以前にも書いたとおりである。そして、3つ目の、最大の問題とも言えるのが、「宿直勤務があること」である。

 

職場の宿直勤務は、宿泊利用がある日に職員1人が施設に泊まり込みで翌日まで勤務するもので、管理職を除く常勤職員13人が交代で担当している。自分はこれまで21ヶ月勤務して35回ほど担当したから、平均で月1.5回程度の頻度になる。ただし、繁忙期になるとほぼ毎日宿直が必要になるので、月3回発生することもある。法令上の限度は「週1回まで」となっているので、Maxで月4回まで可能だが、これは現実的には無理がある。なぜなら、精神的・肉体的な負担が極めて重いからだ。その具体的な理由を以下に挙げる。

 

(1)労働時間の長さ

宿直日の始業から、翌日の「宿直明け」の終業までの労働時間は以下のようになる。
1日目 通常勤務 8時15分~17時
    宿直勤務 17時~23時
    仮眠時間 23時~翌6時30分
2日目 宿直明け 6時30分~15時15分 
つまり、休憩・仮眠時間を含めると、始業から終業まで「31時間ぶっ通し」で職場に滞在することになる。ここ数年対応が求められている「勤務間インターバル」(労働者保護のため退勤から翌日の出勤まで9~11時間を空ける制度)はまるで無視か、こんな勤務で大丈夫なのかとツッコミを受けそうな話だが、法令上は宿直勤務は以下のように規定されており、これでも形式上は問題はないことになっている。

労働基準法
(労働時間等に関する規定の適用除外)
第四十一条 この章、第六章及び第六章の二で定める労働時間、休憩及び休日に関する規定は、次の各号の一に該当する労働者については適用しない。
一 別表第一第六号(林業を除く。)又は第七号に掲げる事業に従事する者
二 事業の種類にかかわらず監督若しくは管理の地位にある者又は機密の事務を取り扱う者
三 監視又は断続的労働に従事する者で、使用者が行政官庁の許可を受けたもの

【昭和22年9月13日発基17号】
原則として通常の労働の継続は許可せず定時的巡視、緊急の文書又は電話の収受、非常事態発生の準備等を目的とするものに限つて許可すること。

つまり、宿直勤務は労基法第41条第3号に該当するため、労働時間・休日に関する規定が適用されないし、宿直中は「通常の業務」ではなく「特定の対応のみを行う断続的業務」であり、ほとんど待機時間に過ぎないため、割増賃金や休憩を与えなくてもよいということになっている。ただ、「形式上」はこういう建前だが、実態としては定時の17時以降も多くの職員が通常の業務をそのまま継続しており、優雅に読書をしてのんびりしたりしている訳では決してない。残業中のほかの職員と同じように事務室の自席にいなくてはならないから、利用者からの内線電話による問合せや窓口対応も結構頻繁にあるし、単なる待機時間とは程遠いのが現実だ。しかも、仮眠時間の7時間30分の間に、シャワーや就寝前・起床後の着替え、身支度も済ませないといけないため、実際の睡眠時間(横になっている時間)は6時間あるかないかであり、とても十分とは言えない。さらに、仮眠中にも、火災報知機が誤作動を起こして非常ベルが鳴動して確認や館内放送の対応をしたり、コロナ禍のときは夜間に発熱者が出て別室を用意する対応に追われたりといった「業務」が発生することがある。仮眠スペースである宿直室は、4畳ほどの和室で狭くて冷暖房も十分ではなく、共用の布団はいつクリーニングをされたのかも分からない年代物だ(自分は嫌なので私物のシュラフで寝ている。夏用なので冬は寒すぎてほとんど使い物にならない)し、真冬のシャワールームは凍えるほど寒くて体はいつまで経っても暖まらない。こんな劣悪な条件では、余程図太い神経の持ち主でもない限り、ぐっすり熟睡することなど不可能だ。したがって、実際には、徹夜で丸二日働くのに近く、宿直は極めて過酷な勤務なのである。

 

(2)2日目の日勤

宿直明けで疲労した体にさらに追い打ちをかけるのが、宿直明けの日勤である。宿直が終わった朝にそのまますぐ退勤ならまだ体も休まるが、この日も15時15分までほかの職員と同じように勤務しないといけない。宿直明けメニューの仕事になる訳ではなく、いつもどおりの1日である。ただ、通常の定時より1時間45分早いとはいえ、元々「徹夜明け」なので、朝からすでに頭は回らず、場合によっては呂律も回らず、酩酊に近いヘロヘロ状態になっている。基本的には疲れ切っているが、場合によっては寝不足でハイになっていることもあり、いずれにしても利用者の窓口対応に求められる「元気さ」「さわやかさ」は期待できない。こんな状態で昼食をしっかり食べると午後は眠気で気を失う可能性があるので、宿直明けの昼食はごくごく軽めに済ませるのが基本だし、あえて食べないこともある。また、何とか夕方の退勤まで乗り切ったとしても、家にたどり着くまではさらに30分の車の運転が待っている。運転中に意識が薄くなり、やむを得ず途中で駐車場に停めて仮眠するケースもある。本来運転してよい状態ではないと思われるが、休むにも車がないと家に帰れないのだから、もはや詰んでいる。労働生産性が極めて低い状態で働かなければならない、宿直明けの勤務は人的リソースの浪費だと言わざるを得ない。

 

(3)家族への負担

こうした宿直勤務が本人のみならず家族にも負担を与えるかどうかは、各家庭によってケースバイケースではあるが、我が家にとっては深刻な問題となっている。なぜなら、自分が宿直するときは「宿直勤務日の夜」と「宿直明けの朝」に、子供の世話の負担が妻に集中することになるからだ。こうなってしまうと、妻は「家のことを全部丸投げした」と苛烈に非難してくることになるから目も当てられないし、宿直中も家のことが気になっておよそ平静を保てたものではない。火曜~水曜のような「平日ど真ん中」の宿直は、地雷原でダンスを踊るがごとき目も当てられない危険行為である。かといって宿直を自分だけ無しにできるわけでもない。従って、自分の場合は「金曜~土曜」または「平日~祝日」のいずれかの曜日で、「休前日」を宿直日にするように配慮してもらっている。これは、翌日が休日であれば、「宿直明けの朝」に子供を保育園に送る身支度や送迎をしなくてよいからというのが理由だ。この曜日設定をデフォルト化してからは、宿直中と、宿直明けの帰宅までの精神安定度が格段に改善した。妻も、宿直日の夜や翌日の昼は、子供を連れて外食したり、惣菜で済ませたりして割と好き勝手するようになったので、基本的にはさほど大きな波風は立っていない。宿直日の夜にLINEで連絡すると、子供が回転寿司を食べて喜んでいる写真が妻から送られてくることがあるが、こういう夜は平和である。とはいえ、休みに引っかけると言うことは、少なくとも土曜日は丸1日勤務日でつぶれるということで、土日だからといって家族で遠くに出かけるといったことはほとんどできなくなる。宿直で疲れきってほうほうの体で家に帰ってきたのに、妻から家庭軽視、育児放棄だと罵倒されたときの精神的ダメージは計り知れない。この意味で、家のドアを開けて妻の顔色・声色を実際に確かめるまで、宿直明けの不安は消えない。

 

(4)リカバリータイム(回復期間)の長さ

さて、宿直明けの勤務が終わって家にたどり着き、幸いに妻も子供も元気でご機嫌であれば、これで晴れて一件落着かというと、そうでもない。なぜなら、宿直による体への大きなダメージが残っているからだ。寝不足ということもあり、その日の夜まではヘロヘロ状態が続くし、場合によっては翌日もぐったりしている。そのため、自分は宿直明け翌日に必ず公休日を入れるようにしているし、多くの職員も同様にしている。20代の職員でさえ宿直明け翌日は疲れて午前中いっぱい寝ていることがあるほどなのだが、自分の場合は、家族を放って寝ているわけにもいかないし、自分の心情的にも遅起きは嫌なので、宿直明け翌日は休日であっても7時台には起きるようにしている。通常より長い7~8時間程度は睡眠を取ることになるとはいえ、前日の寝不足のリカバリーはできていないことが多く、この日も頭も体もすっきりしない状態で過ごすことになる。おそらく、思い切り体を動かして目一杯疲れてから、ぐっすり眠れば体力気力ともぐーんと回復するような気がするのだが、自分の曜日設定上、宿直明け翌日は基本的に日曜日であり、家族と過ごすことが基本なので、そういう過ごし方は不可能だ。ましてや、30代後半ともなると、加齢でただでさえ疲労の回復期間は長くなってきている。「週1回」のペースで宿直が続くと、だんだん回復もままならないようになってきて、負の循環に陥ってしまう。

 

・・・という訳で、宿直勤務は労働者の側面からは「百害あって一利なし」であり、実態を考えると「そもそも宿直させていい業務ではないのでは?」という疑念も浮かんでくる。多くの職員は、宿直を嫌がっているし、少なくとも好きではない。残業は原則禁止の職場なので、23時まで「勤務できる」ことを「宿直チャンス」と呼んでいる職員も稀にいるが、これは例外である。宿直手当が1回6100円(全職員定額)というのも安すぎて割に合わない。出向期間中だけの特殊な勤務とはいえ、制度的に可能であれば、宿直は廃止するか、少なくとも22時から仮眠時間にするように緩和すべきだと強く願っている。

 

(120分)

ある日のテーマ曲 その4

公休日の月曜の朝、子供を保育園に送った帰り道、自販機で缶コーヒーを買おうと車を停めた公園で、何の気なしに思い立ち、園内を少し散歩した。辺り一面に雪が積もり、人影もない園内の静けさの中に溶け込み、青空を背景に白銀輝く山々を遠目に眺めながら、自分の中で「無限と有限」、「永遠と一瞬」が交錯するような不思議な感覚が湧き上がってくるのを感じた。

ピンと張り詰めた空気の冷たさ、眩しく光る山々の神々しい美しさ、それを感じることができる、生きている今この時の尊さと、かけがえのなさ・・・。どこにでもありふれていそうで、またいつでも出逢えそうで、けれどももしかしたら、これが人生最後になるかもしれない、取り返しのつかないこの一瞬。人生は最初で最後の一瞬の連続であり、その一瞬をつかまえて心の奥底に刻み付け、想いに耽ることこそが、人が有限の時間の理を抜け出して永遠の世界に触れる方法なのかもしれない・・・。そんなことを考えたのだった。

 

その帰り道、公園で感じた心の「揺れ」が車内で増幅し、冷え切っていた心の氷を溶かしていった。自宅に着くと、とうとう感情があふれ出し、堰を切ったように涙がボロボロと落ちて止まらなくなったそのとき、カーステレオから流れていたテーマ曲。

 

BEGIN 見上げてごらん夜の星を(「ふたつのスピカ サウンドトラック」より)

 

あまりにも長く、自分の心の自由を押さえつけ過ぎてしまったのかもしれない。感情にふたをしすぎてしまっていたのかもしれない。心の痛みを我慢することを当たり前のように続けてきたことで、無感情、無欲求、低反応が自分の中でデフォルトのようになってしまっていた。でも、それはやはり無理があった。何をしても楽しめない、何も欲しいものがない、昔から大切にしていたものをもう価値がないからと逡巡もなく手放す。それらは、自分の本当の心に嘘をつき、これまでに自分が積み上げてきた生き方を軽視し、未来の自分に対しても不誠実を働く行為だった。あふれた涙は、その限界がたたった反動だった。心を殺して生きるのは、半分死んでいるのと同じだ。波風無く平静を装って心を早死にさせるより、人生が短く終わったとしても波に正面から立ち向かって戦ったほうが、生きていると言えるはずだ。途方もなく大変なことだが、自分の前に立ちはだかる人生の辛さと苦しさに、今ここで改めて、正面から向き合わないといけない。

(70分)

抱負2024

2024年が始まり、はや半月が過ぎた。自分の勤務先では、冬季の積雪を利用して雪遊びやスキー目的で宿泊する団体が多く、仕事は繁忙期を迎えている。つい一週間ほど前までは、真冬の1月だというのに施設周辺にほぼ雪がなく、スキー場でさえブッシュや土が露出するほどの見るも無惨な状況だったのだが、この1週間でまとまった降雪があり、敷地内もようやく1mほどまで積雪が増えた。スーパーエルニーニョ現象で記録的な暖冬と言われ、絶望的な気分に陥っていたこともあり、一晩で50cm積もったときには、雪が「資源」どころか「宝」にまで思えたほどだった。まさに天から届いた「恵みの雪」だった。雪遊びの団体にどうやってソリコースを提供するか、雪不足でキャンセルを申し出てくる団体をどう説得するかといった少雪対策で年末からヤキモキしっぱなしで、年末年始も気が休まらなかったので、その心配が目の前から消えたことにはひとまずホッとしている。

 

↑スキーの初滑りは1月の三連休に行ったAKAKANだった。

ただそれでも、あの日以来、つかみどころのない漠然とした悲しみ、この世界が無常であることへのやりきれなさのようなものが、心の中にはずっと漂い続けている。1月1日に起きた能登半島の震災のことだ。2011年に東日本大震災が起きたときは、津波やその後の原発事故の映像で世界観がひっくり返るほどの衝撃を受けたのを覚えているが、今回はそのときよりもさらに「痛み」を感じるし、報道を通じて被災した方の姿や言葉に触れるたびに心が締め付けられるような思いになる。それは、被災地が日本海側の北陸地方で、自分の住む地域に地理的に近いこと、そして震災当日の16時10分の地震の「直前」まで、震源となった能登地方のまさにその場に自分がにいたという事実に起因している。

 

2024年1月1日、自分は家族とともに宿泊していた輪島市のホテルで新年の朝を迎えていた。恒例となった大晦日からの家族旅行で、泊まっていたのは海沿いの高台にあるホテルだった。チェックアウトした後は、車で七尾湾沿いを能登島を横目に眺めながらドライブし、七尾市内の神社で初詣をした。そして、12時前に帰途に就いて、帰宅したのが15時半ごろ。それからわずか30分ほどで、大地震が発生し、自宅も震度5強の激しい地震に襲われて30秒ほど揺れ続けた。点きっぱなしだったテレビでは、ついさっきまでいた場所や建物が壊れ、走っていた道路が崩壊し、海沿いに津波が押し寄せる光景が、ニュース映像で次々と目に飛び込んできた。もし、日程をもっと遅らせてゆっくりしていたら、もし、地震があと半日早く起きていたら、自分も家族も無事では済まなかったかもしれない・・・。そう考えると、背筋が凍るような思いがした。まさに紙一重の差の出来事だった。実際、我が家が泊まったホテルは、地震の被害を受けて、復旧することなくそのまま「営業終了」(廃業)になってしまった。自分たちが朝まで泊まった「最後の客」になった訳で、家族旅行の思い出の宿が姿を消してしまったのは残念でならない。また、直接地震の被害を受けていない自分の勤務先でも、地震への不安を理由とする宿泊のキャンセルが増えていて、地震は仕事にも暗い影を落としている。

 

そんな今回の震災を目にしてつくづく思ったのは、「当たり前ではない日常を大切にすること」と、「今日が『人生最後の日』のつもりで、1日1日を丁寧に過ごすこと」である。自分が健康であること、温かい部屋で過ごせること、温かいお風呂に毎日入れること、ベッドで眠れること、家族がみな元気であることが、決して当たり前ではなく、どれほどかけがえのない特別なことなのか・・・。今日という1日を一つの人生だと思って過ごし、感情が揺れ動いた一瞬を永遠のように深く噛みしめて自分と向き合うことが、どれだけ大切なことなのか・・・。そのことに、改めて気づかされたのだ。だから今年は、よくある1年の抱負などというものは立てず、「毎日を誠実に、全力で生ききる」ということだけを目標にすることにしたのだった。今年がどんな年であろうと、たとえ自分が1年後に生きていなくても、今日が充実していればそれでいい、それだけでいい人生だったと満足できる・・・。そんな心を忘れずに、毎日をただ、駆け抜けていきたいと思っている。

 

(120分)

眠いけど眠りたくない病

春眠暁を覚えず・・・というにはまだ早すぎる、年の瀬の迫る12月最終盤の今。自分は常に、眠気でどんよりした頭を抱えて、日々を送っている。最近は、深夜23時~24時半頃に就寝して、6時過ぎには起床しているから、睡眠時間は5時間半から長くて7時間といったところだが、先日買った新しいG-SHOCKによる計測では、中断を除く実質睡眠時間はこれより1~1時間半ほど短い。従って、しっかり眠っているのは4~6時間程度ということになる。眠気が脳内に常駐するのも至極当然のことだ。寿命も縮むだろうし、仕事のパフォーマンスもそれなりに低下(具体的には、人の名前などの固有名詞の「ロード時間」が長くなって話し言葉が冗長になったり、しばしフリーズしたり)する。特に眠気の強い日は、風呂上がりには意識が朦朧とし始めて、すぐにでも眠りたくなる。だが、睡眠時間を伸ばすことは中々できない。というか、そんなに長く眠りたくはない。夜、早々と眠ることに、抵抗感があるからだ。

 

なぜ、そんなことになるのか。1つ目の理由は、「妻が寝付く前に寝室に行くと、高頻度で「自然発火」するから」だ。その実態は、以前の記事で書いた当時から何も変わっていないので、詳細は省略する。もう1つの理由は、「仕事のような夢や、おかしな世界の夢をよく見るから」だ。仕事が嫌いなわけではないが、今の仕事はとにかく悩むことが多く、その悩みは夢の中でも同じように繰り広げられる。夢に出てくる登場人物も、職場の面々だ。夢の世界ならではの、破天荒で突拍子もないピンチにも襲われ、現実世界並みに悩んだり困ったりさせられる。こうなると、体はそれなりに休まるにしても、心はぐったり疲れて朝を迎える。眠りも浅く、特に早朝には頻繁に目が覚める。こうした安眠とはほど遠い状態に晒されているから、「眠いけど、眠りたくない」のである。

 

そもそも、自分はこれまでの人生で、睡眠に関してずいぶんと苦労してきた。学生時代は、朝起きられず、「早起きして片付けよう」と思った宿題や試験勉強(時には試験当日さえも!)をどれほど「スルー」してしまったことか数知れない。結婚してからは、妻と同じベッドで寝るようになって、音楽をかけて寝るとか、音楽をタイマーで鳴らして起きるとかいったように、自分の好きな睡眠習慣を作ることも叶わなくなった。睡眠中に叩き起こされることも少なくない。昔も今も変わらないのは、「寝付けない」という悩みはなく、妻曰く「お休み三秒」で眠れることだが、それは単に恒常的に睡眠不足だからに他ならない。今の自分にとって、睡眠は癒やしではなく、安眠は手の届かない贅沢品なのである。

 

この劣悪な睡眠状況を改善する手段は、2つ。悪夢を軽減するため出向から戻って「職場環境が変わること」と、別の住居に引っ越して「自分だけの寝室を持つこと」である。最近はメンタル不調も一層波が激しくなっており、仕事が休みの日でも、心が安まることはない。心から笑えることも少ないし、色々なことに追われ、悩まされて、自分らしさを見失いかけている。質の高い睡眠が取れないことには、体も心もいい加減、保たないのは明らかだ。残念ながら今すぐ変えられる状況ではないが、安らかな眠りを取り戻すためにも、来年中には、自分の家を持てるように動いていきたいと思っている。

 

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