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Making of Ryukoku-cha

2016-11-24

NHK「きらり!えん旅〜岩手・大船渡から陸前高田へ〜」(2回生)

 先週の2回生ゼミでは、NHK「きらり!えん旅〜岩手・大船渡から陸前高田へ〜」を見て、感想を出し合いました。

宇野

 岩手県の気仙地域でお茶が栽培されていた。

 お茶といえば京都だと勝手な想像をしていたが、東北でも手間をかけて作られていることを知った。

 気仙茶を作るのにはたくさんの手間が必要になる。

 気仙茶は、自らが飲むために作っているお茶であり、女性ばかりが集まって家族など同じ地域の人のために栽培しているため、より親しみのあるお茶であり、お茶を作ることによって周りの人との交流も深まる。

 気仙茶は、普通のお茶よりも「荒っぽく、味が厚く、深い」。

 気仙茶は2時間も揉んで作る。

 長時間かけて揉むことで、深い味に出来上がるのだろうか。

 長時間かけて揉むことで、たくさんの思いが込められているのだろうか。

 森山良子さんの歌詞はどれも心に響いた。

 明日に向かうほど 近くなる昨日がある

 忘れないで 思い出はどこにもいかない

 簡単には理解できない。

 だからこそ考えていきたい。

 いつまでも忘れない気持ちを常に持ちながらも、未来へ向かうことの大切さが込められているのだろうか。

 地域の人びとにとって、気仙茶は大事な特産物。

 震災が起きてから、気仙茶はしばらく栽培も収穫もできなくなっていたが、またもう一度、一からひとつのことに向かってみんなで取り組むことの大切さを学んだ。



上野

 先祖代々守り継がれてきた伝統のある気仙茶の存在は、地元の人々にとっての大きなエネルギー源なんだと感じました。

 気仙の人々は、東日本大震災によって、家族はもちろん親戚や友人、家、そして田畑など多くのものを失いました。

 そのような中でも、気仙茶の存在があるからこそ、気仙の町は明るくなり、人々の笑顔につながっているのだと思いました。

 映像の中で、森山さんと気仙茶の会の方々が一緒に手もみでお茶を作っているときの、あの笑いの絶えない空間に、私は、とても温かい気持ちにさせられました。

 丹念に人の手でお茶を揉むことで、お茶を飲んだ時に家族との色々な思い出や、様々な感情が溢れてくると思います。

 もし私が気仙の人々だったなら、家族を思い出すお茶を飲むことは辛いです。

 もう一緒に作ったり、飲んだり、笑ったりすることが出来ないのだ思うと、私は気仙茶を飲むことが出来ません。

 しかし、コンサートで森山さんが歌っていた歌の中で、

 明日へ向かうほど 近くなる昨日がある

 忘れないで 思い出はどこにもいかない

 忘れないで ぬくもりはどこにもいかない

という歌詞を聞いて、私は胸がとても締め付けられました。

 そして、家族との思い出がたくさん詰まった気仙茶を飲むことによって、家族と過ごした大切な時間が今の自分の生きる源になるのだと、歌詞が私に伝えてくれたように思いました。

 気仙の人々は気仙茶と共に生きていくのだ、と今回の映像を見て思いました。

 そして、地元の人々に愛され、どんな苦難に陥っても大切に受け継がれてきた茶文化に、地元の人々の強さを感じました。



松本

 日本の北方で栽培されているお茶がなくなる危機にあるというのはとても悲しいことだと思います。

 それをなくさないように活動している伊達ゼミはやはりすごいと実感しました。

 昔からの製法で、湯がいたり、手揉みしたりと、手間のかかる作業ですが、だからこそ、そこに価値が生まれるのだと思います。

 それが、津波が原因で存続の危機に立たされているというのが、なんとも悔しい気持ちにさいなまれます。

 海沿いの松原も同じです。

 奇跡的に一本だけ残った一本松は、津波に負けない「気」のようなものが伝わってきました。

 苗木を育てていた現地の人たちは、とても長い目で町の復興と松原の成長を楽しみにされていました。

 その中で大事なのは、「松が成長する50年後には私たちはいない。見届けることができない。若い人たちに任せるしかない。」とおっしゃっていた点です。

 そこには、最後まで面倒を見きれない悔しさと、これからの東北復興への期待、若い人たちへ託す思いが伺えます。

 大震災の後、たくさんの人がその土地を離れても、諦めずに復興をリードしてきた人がずっと居続けるわけではなく、いつかはいなくなってしまうということを実感させられる言葉でした。

 震災や津波の影響でなくなりつつある文化や伝統があります。

 北限のお茶もその一つです。

 一度消えてしまってからでは、再復活するのは大変です。

 その規模は縮小してでも絶やさないことが重要で、そのお手伝いができればとの思いで伊達ゼミを選んだので、今は、その期待感が高まっています。


山本

 気仙茶をはじめ、今まで色々な東北の方々の話を聞いてきて、やはり東北の皆さんの団結力、諦めない力、やっていこうという前に進む力がすごくみなさんにみなぎっていることを。

 水野さんは気仙茶を作り続け、気仙茶が復活した時の水野さんを見て、とても喜んでおられるなと思う。

 それだけ気仙茶に気持ちを込めて育ててこられた水野さんの気持ちが伝わってくる。

 聞き手も、ウンウンと、水野さんの気持ちをあげるようにしないとダメだ。

 気仙茶を通して、人と人とのつながりがあり、気仙茶が復活することで、みんなとの輪も厚くなっていく。

 水野さんは「気仙茶は家族のためのお茶だ」と言っていた。

 「気仙茶を飲んで行きなさい」と、何度も、口癖のように語っていた。

 それだけ、常に水野さんにあるのは気仙茶だ。

 森山良子さんが「被災地を訪れてエネルギーをもらった」とおっしゃっていた。

 確かに私も、ビデオを見ていて、たくさんの勇気をもらっている。

 私が水野さんの立場にいたら、そんなにも前に進もうと力強い気持ちは持てていないだろう。

 1つのことをまたみんなでもう一度取り組むことの大切さを学べた。

 気仙茶にそれだけ気持ちをのせていた分、みなさんもあれだけ楽しそうに作れたのだと思う。


後藤

  「繋がりを作るお茶」

 陸前高田で作られるこのお茶は、私たちが普段飲んでいるお茶とは違い、特別なお茶だと感じた。

 陸前高田のお茶は、手もみで作られている。

 摘んできた茶葉を、湯どうしし、茹でた茶葉を専用の道具と素手で擦ったり揉んたりする。

 そして、炭火で乾燥させる。

 手で揉むことによって、苦味や渋み、甘味までかもしだされるという。

 昔ながらの伝統だ。

 こういった作業は、各家庭や、近隣どうしでなされている。

 一緒に作業をしたり、作ったお茶を飲む時間を、陸前高田の人たちは大事にしている。

 このお茶は、家族、近所の人たちを繋がらせることから、「繋がりを作るお茶」だと言われていた。

 DVDを見て、とても素敵だ、暖かいと感じた。

 昔ながらの伝統を、今も引き継いでいることも大切だが、人との繋がりを一番に想っているからだ。

 震災前から過疎化が進んでおり、震災によって亡くなったり、他県へ移動したりと、より人口が減少している街にとって、人との繋がりは何よりも大切なものだと知った。

 これは私の想像でしかないが、震災に合い、様々な困難と苦労を経験し、様々な援助を受けた人たちは、暖かい心を持っているのだと思う。

 自分のことより、他人を一番に考えている。

 DVDでも、陸前高田の人は、森山良子さんが訪れた時、感謝の気持ちを行動で表していた。

 私も、お茶に触れるとともに、暖かい心にも触れていきたい。



中村

 森山良子さんが、津波の被害にあった陸前高田に行く映像を見ました。

 そこには、津波に流されなかった松(のレプリカ)がありました。

 また、高田松原のDNAを継ぐ苗が育てられていました。

 それらの苗は、若い人たちに松を残してあげたいという思いと、これから復興していくための象徴にしようという思いで植えられていました。

 そんな苗の中に特別な苗がありました。

 なぜ特別かというと、現在は栃木県在住の男性が高田松原の松ぼっくりを拾って帰り、そこから盆栽として育て、震災後、復興の一助になればと送ったものでした。

 陸前高田の方がそれを受け取った時はものすごくうれしかったと思います。

 お金では買えない、大切に育てられた松が帰って来て、人の温かさで涙が出るほどうれしかったと思います。

 次に森山さんが向かったのは、気仙茶を作っている古民家でした。

 気仙茶は、北限茶とも呼ばれ、その目的は、商売用ではなく、家族や近所の人達とお話ししながら楽しく作り、その後ゆっくりお茶を飲みながら井戸端会議をするためのツールでした。

 津波でたくさんの人が亡くなり、多くの家が流され、なかなか以前のようにみんなで集まりにくくなっていました。

 ですが、ひとりのおばあさんが声をかけ、もう一度集まり、お茶を摘めるようになりました。

 また、いつもの皆の顔が見れてほっとしたと思います。

 そして、以前のように、頻繁に集まることはできないかもしれませんが、みんなで楽しくお茶を作り、お話ししながらお茶会をしたいと思ったと思います。

2016-11-23

NHK 「それでも、海を信じている カキ養殖・畠山重篤」(2回生)、

 2回生ゼミで、NHK プロフェッショナル仕事の流儀「それでも、海を信じている〜カキ養殖・畠山重篤」を見て、感想を出し合いました。

 まだ二十歳の学生達なので、「プロフェッショナル」「仕事の流儀」「それでも海を信じる」などといったNHKの編集方針や、スガシカオさんの主題曲 Progressにどうしても引っ張られてしまうことは、ご容赦ください。

 もちろん、引っ張られることが悪い、というわけでは全くありません。



大橋

 印象に残った言葉がある。

 それは「天国と地獄が共存している」という言葉だ。

 この言葉はDVDの後半に畠山さんがポロっと発した言葉だったが、私にはとても心に深く残った。

 3月11日に東日本大震災が起こり、津波はお母さんの命を奪った。

 本来なら、海なんて見たくないという気持ちや、海を見るたびにお母さんを思い出してしまうだろう。

 自分であれば、家を出てがれきや、津波によってできた廃墟を絶対見たくないと思うだろう。

 また、そういった思いが自分の足を止め、海と生きることをやめたいと思うだろう。

 しかし、畠山さんは、大震災が起こった一週間後にはすでに海で作業をしていた。

 畠山さんの心情を深く読みとることはできないが、この「一週間」という短いようで長い時間の中で、相当な心の中での葛藤があったと思う。

 母の命を奪ったこの海を恨み続けるのか。

 それとも、自分を成長させ、多くの恵みを生んでくれた海に感謝し愛し続けるのか。 

 この長い葛藤の中で、畠山さんは「海が好き」だという答えにたどり着いたのだと思う。

 そんな畠山さんの気持ちが感じ取れる場面があった。

 それは「牡蠣の花が咲いた」と満面の笑みを浮かべ話していた場面だ。

 畠山さんは、牡蠣の復活を願い必死に行動していた。

 自分が体調不良になっても漁港に足を運び、その状況をずっと見守ってきた。

 こんなことができるのも、海を愛しているからだと思う。

 私は、動画を通して見る牡蠣と、畠山さんが見ている牡蠣とでは、同じ牡蠣でも全く違うように見えていると思う。

 「牡蠣は人の心を映す」と言われたが、そこには、畠山さんの海や牡蠣に対しての愛がにじみ出ていて、その愛がそのまま牡蠣に映し出されたのかもしれない。



藤永

 畠山さんは、2011年の東日本大震災において、妻と子どもたちは助かったものの、母親を津波によって亡くしてしまった。

 母の命を奪った海で「再び牡蠣の養殖を続けていく」という固い意志は、50年間三陸の海を見てきたという彼の立場に立ってみると、私にもその気持ちが少し理解できる。

 また、舞根に住む多くの人が牡蠣の養殖で生計を立てていたので簡単に諦められないとの考えもあっただろう。

 しかし、それだけではなく、畠山さん自身が「海は変わることはない」と信じていたから、牡蠣の養殖を続けようと決意したのではないだろうか。

 そこには、舞根の人々を少しでも元気づけたいという思いが溢れているように見えた。

 また、周りの人々も、畠山さんの思いに応えたい気持ちがあったのだと思う。

 病に苦しみながらも海に出て牡蠣の成長を見たとき、そして、立派に育った牡蠣を見たときの畠山さんの笑顔からは、「海を信じ続けてきて良かった」という思いがあったように感じられた。

 この笑顔は、畠山さんだからこそのものだと言える。

 舞根の子どもたちに、故郷をありのままの様子を心に焼き付けて欲しいと思う。


上野

 津波によって、漁船や加工場などたくさんのものが失われてしまった中で、稚貝が奇跡的に見つかったとき、私は畠山さんと牡蠣との間に「絆」のようなものあると感じました。

 そして、漁師でありながら丹念に森を育て、自然を最大限に生かした牡蠣養殖を行っている畠山さんの牡蠣への愛情がとても伝わってきました。

 このことがまさに、畠山さんがおっしゃっていた「牡蠣には人が映る」という言葉の意味なんだなと思いました。

 伊達先生が映像を見ながらおっしゃっていた、「牡蠣を育てていくのは海で、また畠山さんのお母さんの命を奪ったのも海だ」という言葉がずっと頭から離れませんでした。

 確かに我が子のように可愛がって育ててきた牡蠣には海がなくてはならない存在で、それと同じようにこれまでそばで支え、励ましてくれていた小雪さんも、畠山さんには大切は存在だったと思います。

 さらに漁船など多くのものも失われ、私が畠山さんならば何もかも失い、気力さえ失ってしまうだろうと思います。

 しかし映像の畠山さんは生き生きしていて、牡蠣を見る目はとても輝いていました。

 「自分のやり方を貫きなさい」と励ましてくれた小雪さんが海のせいで失ってしまったとしても、小雪さんから貰った海は守り続けたいという気持ちが映像越しに伝わってきました。

 畠山さんが体調を崩されてからは、息子さんがその後を継いで、私は“海を受け継ぐ”ことへの重みを感じました。

 自分の父親が大切に守り続けてきたものを今度は自分が守り続けていかなければならない責任は、苦しいぐらい大変なことだと思います。

 私が畠山さんの息子さんの立場ならば、自分一人の判断で家族や従業員の将来がかかっていると思うと、父親にたくさんアドバイスを求めてしまうし、駄目だしをしてほしいと思ってしまいます。

 しかし、畠山さんは一切、息子さんに口を出していませんでした。

 だた静かに見守っているだけで、そこには畠山さんを陰でいつも支え続けていた小雪さんの存在が重なりました。

 最後に、畠山さんが息子さんの採ってきた牡蠣を食べたときのふたりの笑顔をみたときに、どんな苦難があってもそれを受け入れて信じることによって、苦しい状況の中でも生き抜いていくことができるのだなと思いました。



小林

 畠山さんが住んでいた町は、東日本大地震で起きた津波に、カキを育てるために必要なイカダや、稚貝などが流されてしまい、カキ養殖を諦めるという声も上がっていました。

 その中で、畠山さんは、「海がすき、仕事を辞めようとは思わない。意地でも復活させる」とおっしゃっていました。

 その決断は、畠山さんの利益だけを考えて決めたことではなく、3分の1以上の世帯がカキ養殖で生計を立てている集落を復活させるという強い意志がありました。

 もし、私が畠山さんと同じ経験をしたとしても、復活することを信じきれず、自分たちのことだけを考えて町を出てしまうと思います。

 すべて流されてしまって、カキ養殖をもう一度できる確証はなかったけれど、海を信じて、自分たちのやっていることを信じて行動していた畠山さんが、本当にすごいと思いました。

 赤潮が発生し、カキにも影響が出たときには、フランス訪問で学んだ知識から、山に木を植える活動を8年間続け、海を取り戻しました。

 当時は、山と海が関係していると考える人は少なく、実例もなかったので、困難も多かったと思います。

 いまでは、この活動に子どもから大人まで多くの人が参加しており、畠山さんはたくさんの人に影響を与えたと思います。

 私は、畠山さんのお母さんの「常に笑顔で。下をむいてはいけないよ」という言葉が印象に残りました。

 この言葉は、何事も前向きに変えてくれると感じ、私も、ツラいことがあってもその言葉を思い出して、笑顔でいれる人になりたいと思いました。

 畠山さんは、今まで支えてくれたお母さん、応援してくれた町の人を津波で亡くされました。

 大切なひとも、町も、流されてしまったけれど、それでも諦めずに、親子でカキ養殖に取り組み、成功されていた姿に感動し、諦めず前向きに頑張ることは大切だと改めて思いました。



清藤

 牡蠣養殖の映像を見て、好きな事で仕事を出来るのが素晴らしいと感じた。

 震災の影響で、海が壊滅的な被害を受けた中で、また牡蠣を育てようと活動した畠山さんの前向きな考えを、自分も見習わなくてはならないと思った。

 多くの人々が牡蠣養殖を諦めようとする中で、だからこそ自分が牡蠣養殖を復活させて、地域の人々を少しでも助けようとするその考えは、少なくとも今の自分には無い。

 牡蠣がなんとか成長して畠山さんが口にした、

「牡蠣の花が咲いた」

という表現が、畠山さんの嬉しさや達成感も表しているようであった。

 海を守るために山の再生を試みるといった、海に対して直接的でない活動も、畠山さんが映像の中でも語っていたように、海が好きでなければできないことだ。

 好きだから、海が悲鳴を上げていても嫌いになることはないし、自分に出来ることなら、色々と取り組んでいこうという気持ちは、本当に自分にとって大切なものでないと湧いてこない感情だろう。

「牡蠣には人が映る」

 この言葉は、畠山さんと、息子の哲さんの2人に共通していて、ただ漠然と手を動かすだけでなく、まず頭で、どうすれば牡蠣にとって良いのかということを考えるといった、相手側のことも考える要素も含まれていると思う。これは人間関係でも不可欠なものだ。

 改めて大切なことを気付かされた。

 私は、まだ、生まれてから一度も牡蠣を食べたことがない。最後のシーンで、畠山さんが収穫された牡蠣を美味しそうに食べてるのを見て、「一度食べてみたい」と思った。(でも、依然として、食中毒が心配だが…)



田中

 今回の映像を見とても印象に残った事があります。それは始めから終わりまであった、畠山さんの笑顔だ。

 映像が始まって一番始めに流れた「百戦錬磨だから大丈夫ですよ」と笑顔で語る畠山さんがいつまでも頭を離れなかった。

 それくらい僕の心に残るものがあった。多大な被害を受けてもなお、屈せず笑顔でそう言い放った姿に心打たれるものがあったからだ。

 「カキには人が映る」

 そう言う畠山さんの表情は嬉しそうであった。

 おそらく、それは、自分がこだわりにこだわり抜き、一級品のカキを育て上げてきた畠山さんだからこそ言えることなのだと思った。

 東日本大震災で大事に育てていたカキを全て失い、多額の被害を受けたにも関わらず、そう言えるのは決して簡単なことではないと思う。

 家族も亡くしている。

 しかし畠山さんは諦めず、一からまたカキ養殖を始めた。

 体調が悪くなり、カキ養殖ができなくなった畠山さんに代わって養殖をされた息子さんなど、支えてくれる存在がいることも素敵なことだと感じた。

 その後、仕事に戻って来られて、カキの様子を見た畠山さんが「カキに花が咲いたようだ」と嬉しそうに笑顔で話している姿もまた印象に残っている。

 今回の映像を見る前に、「畠山さんは『森は海の恋人』という言葉をつくった人だ」と聞いていたので、その意味を探っていた。

 一級品のカキを作るには、良い海が重要となる。

 その「良い海」の条件とは、カキの餌となるプランクトンがたくさんいることである。

 そのプランクトンは森から生み出され、川を下りやがて海へとたどり着く。

 映像の中で、森に木を植えるシーンがあったが、その時の畠山さんの表情はやはり笑顔だった。

 畠山さんがずっと笑顔でおられる理由は、おそらく母親の存在であろう。

 畠山さんは津波で母親を亡くした。

 映像の中で何度も流れた「下を向いてはいけないよ」という母親の言葉が畠山さんを強くし、笑顔でいさせたのだと思う。

 最後に、収穫したカキを食べた畠山さんが「うまい!」と笑顔で言ったシーンはとても印象的だった。



松嶋

 今回も、大震災は、被災された方の人生が180度変わるような出来事であったことに間違いないということを感じまました。

 私は、実際に被災していないので、被災された方の本当の苦しみや苦労は分からないけど、それでも、その方達の気持ちが少しでも分かるように、共感できるようにと思ってビデオを見ていました。

 ビデオのテーマは、牡蠣養殖をしている畠山さんについてのドキュメンタリーでした。

 東北は、リアス式海岸などがあり、世界三大漁業などと呼ばれ、漁業が盛んな町でもあります。

 その中で、牡蠣養殖をしている畠山さんも、震災の被害を受けて、牡蠣養殖が続けられるかどうか分からない状況にまで追い込まれました。

 しかし、畠山さんは、50年間続けてきた牡蠣養殖という職業に、自信とプライドとを持って、諦めずに再開を目指し、取り組んでいました。

 その姿は、本当に格好良くて、誰もが真似できないと思うほど一生懸命に見えました。

 ビデオの中で、畠山さんは、「牡蠣は内臓ごと食べる」「牡蠣には人が映る」とおっしゃられていました。

 最初は、理解できなかったけれど、よく考えて見たら、すごく深い意味が込められているように感じました。

 牡蠣は2年の歳月をかけて、育てなければいけません。

 2年と言うのはとても長いですが、その2年間を頑張ってしっかりと育ててあげれば、牡蠣も養殖をしている人の頑張り、その期待に添って美味しくなる。

 しかし、少しでも怠れば、牡蠣はその期待には応えてはくれない。

 こういうことなんだと、私自身理解しました。

 「森は海の恋人」という言葉がありますが、これは本当に心に沁みました。

 簡単に説明すると、森を育ててあげることで、海はもっと美しく豊かになる。森と海とは一心同体だと思いました。

 畠山さんも、牡蠣をもっと美味しくするために、20年以上、木を植えるなど森を育ててきました。

 1つのことを続けることはすごく難しいことだと思うし、とても素晴らしいことだと思いました。

 それを20年も続けている畠山さんは、人生を海と過ごし、畠山さんの恋人は海なんだと思いました。

 最後に、このビデオを見て本当に刺激になりましたし、

 自信とプライドを持って仕事することは、本当に格好良くて、素晴らしいことだと実感できました。



 畠山さんは本当に海が好きなんだと思いました。

 しかし、見ていくうちに、ただ好きなだけではないんだと思いました。

 それは、畠山さんは海に母の命を奪われているからです。

 もし私が畠山さんだったら、きっと大好きだった海を見ることさえ嫌になると思います。

 しかし、畠山さんは海を信じ、美味しい牡蠣をもう一度作りたいと願いました。

 すごく強い人なのだと思います。

 そして、すごく海がそして牡蠣が大好きなのだと思います。

 畠山さんは次第に身体が弱くなり、息子さんに牡蠣の養殖を任せることになります。

 その時も、口うるさく言うわけでもなく、息子のすることを見ていました。

 そこでも、畠山さんの寛大さがわかります。

 息子さんも牡蠣の養殖に悪戦苦闘します。

 たくさんの困難もありました。

 その結果、牡蠣の養殖復活の糸口が見えるようになります。

 牡蠣を上げて持って帰った時、朝早くからハマで息子さんが帰ってくるのを待っていました。

 そして、その牡蠣を食べ、嬉しそうな顔で「美味しい」と言っているのを見て、こっちまですごく嬉しい気持ちになりました。

 畠山さんは、地元の海や牡蠣を地元の子供達に知ってもらおうと、子供達を船に乗せたりもしていました。

 本当に周りの人を明るくし、人から愛される人だなあと、このDVDをみて感じました。

 震災で母を失ったことを辛く思っているはずなのに、そんな様子も一切見せず、周りの人を元気付ける畠山さんは、私たちの手本だと思います。

 畠山さんが海を信じていたように、何か信じるものがあれば、人は強くなれるのだと思いました。



有田

 津波によってさまざまなものを失い、その中でも地域の復興、自分の仕事でもあるカキの復活を信じて前を向く畠山さんたちに強く心を打たれました。

 周りのカキ養殖の漁師たちが廃業していって、カキの養殖に必要不可欠な稚貝が無事かどうかもわからない、でも、そういった状況の中でも、養殖を諦めようとは思わないといった、そういった強い心、姿勢がとても印象に残っています。

 また、震災前から、豊かな海を守るために、森に木を植える活動を続けていたという話もありました。そうした活動をしている畠山さんを見ていると、小さい時から親しんできた海が本当に好きで、だからこそ汚れてしまった海をまた元のように戻したい、という強い気持ちを感じました。

 そんな大好きな海に、自分の母親や仕事に必要なカキなどを奪われてしまいます。

 僕がもし畠山さんなら、海のことを憎んでしまうと思います。

 だけれど、畠山さんは、海を憎むことはなく、「海が好きだから、仕事をやめようとは思わない。カキの養殖を復活させる」とおっしゃっていました。

 そして、その言葉通りに、震災後一年もたたないうちにカキの養殖を復活させていました。

 それを見て、僕は信じて行動する、ということの大切さを感じました。

 ゼミ合宿では、漁業とのかかわりがあると聞きました。

 この機会にぜひ、海とかかわっている人たちの話をしっかりと聞いておきたい、と思いました。


大西

 僕は地元が海に近いので、魚釣りが好きでした。

 だから、この映像は、なんとなくではありますが、「海」というカテゴリーで見た時に、親近感を覚えました。

 カキ養殖をしている漁師の方のお話でしたが、3.11の津波において、カキ養殖ができなくなるレベルの被害を受けてしまいました。

 再スタートを切るまでの過程。その過程では、カキの稚貝を取りに行くこと、周りのカキ漁師たちの協力が描かれており、「苦しい時こそ協力する」という言葉を最も体現していたと思いました。

 僕がもしこの東北でカキ養殖をしていたら、諦めているのは間違いないし、獲れたての、出荷できなかったカキをまわりの世帯に配ったり、協力的なことはできないと思います。

 自分が生き延びるためのことしかできないとも思います。

 「カキには人が映る」

 僕は、このフレーズが最も心に残っています。

 このフレーズは、海の水を汚すとカキも汚れ、質が落ちてしまう、自然を大切にしない気持ちがカキの出来にも影響してしまう、という意味が込められていると解釈しました。

 そんな言葉を大切にしておられたために、森づくりを、はじめは一人で行い、年を数えるにつれて、参加者もどんどん増えて、今では、森は海の恋人運動、という活動が大々的に行われるようになりました。

 森づくりにもルーツがあり、赤潮が起きてしまった時に、どうしたらいいんだろう、と考えた時に、カキ養殖の聖地、フランスに飛び、「俺達は森を手入れしている」ということを学んで、森づくりを始めました。

 すごく、すごく、驚きました。

 森を手入れしているから赤潮も起きない、ということは、「まさか」でしかありませんでした。

 「カキは、手をかければかけるほど、返ってくるものは大きい」ということも言っておられました。

 だから、森を手入れする。

 点と点が繋がった瞬間でした。

 津波でゼロからのスタートを強いられてしまったけれど、そこから大きな努力をして、再スタートを切れたところがプロフェッショナルだな、と思いました。

 冬の合宿で漁業班になるかどうかはわからないけれど、興味があるので考えてみよう、と思いました。


中辻

 畠山重篤さんは、「やっていて楽しいから」という理由だけで牡蠣の養殖をしているものとばかり思っておりましたが、決して自分のためだけに養殖業を営んでいる訳ではないということが、あのVTRを見て私が感じた事です。

 例を挙げるなら、震災後に体育館へ避難している人たちへ、出荷できなくなった一級品の牡蠣を差し入れに持って行ったり、また、傷ついた地元を活気づけるためであったりです。

 ですが、その畠山さんも、震災後にはすぐに養殖業に復帰できずにいました。

 それは、やはり心理的な問題や肉体疲労です。

 本当に無理もない話です。

 そんな時、牡蠣の養殖の復活の一役を担ったのが、重篤さんの三男坊でした。

 自分の息子が立派に成長し、美味しい牡蠣が出来た時の畠山さんのあの笑顔が脳裏に焼き付いて離れません。

畠山さんは、舞根にダムが建設されると知った時、自治体へ反対運動をしました。

 森の腐葉土に含まれる養分が海へ流れ出し、良い影響をもたらすという当時新しかった学説があったからです。

 しかし、舞根でそれを証明するには、それ相応のお金が必要でした。

 悩んでいる畠山さんへ、母・小雪さんから一通の封筒が。

 その中には、将来船を買い換えるために準備していたという大金が入っておりました。

 その瞬間、私は大変心温まりました。

 困っている息子へ母からのプレゼントです。

 とてもハートウォーミングで泣けました。(続く)

2016-10-21

陸前高田合宿レポート (4回生)

脇坂

 3度目の陸前高田での合宿。1年ぶりだが、少しでも長部漁港の漁師さんの役に立てるようにという気持ちで臨みました。

 今回は、東京から東北新幹線を使い仙台駅まで行きました。

 1時間半。

 思ったよりも早く着き驚きました。

 新幹線で東北を訪れる人がもっと増えたらいいのになぁと思いました。

9月11日(作業1日目)

 日程の都合上、活動初日が日曜日になってしまったのですが、OさんのアレンジでYさんファミリーの作業場でお世話になりました。

 BRT長部で降車し、漁港まで車で連れて行ってもらうと、磯の香りでいっぱいでした。

 この日の作業内容としては、

〕椰「真牡蠣」と、それに混じりこむ天然 「岩牡蠣」とを分別

◆嵜寝顔據廚防嫦紊靴討い詆塒冓(ムール貝・ホヤなど)を取り除く

もう一度海に沈めるために、真牡蠣を20個ずつネットに詰める。

というものでした。

 長部漁港で養殖されているのは、冬が旬の「真牡蠣」。

 真牡蠣の養殖をしていると、夏が旬の天然「岩牡蠣」も入り込んできます。

 「秋田県の山からの雪解け水が広田湾に流れ出し、牡蠣にとって良い養分がふんだんに含まれている水だからこそ、天然の岩牡蠣も採れるんだ」

とおっしゃっていました。

 2つの牡蠣の見分け方は、「色や形」と言われましたが、素人の私たちにはなかなか難しいものでしたが、中身を割っていただくと、全然違うものだということがわかりました。

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細長いのが真牡蠣(右) 全体的に丸みを帯びているのが岩牡蠣(左)


 次に、牡蠣の殻に付着している不要物を取り除く作業です。殻にムール貝などが付着していると、牡蠣にわたるはずの養分が少なくなってしまいます。

 こちらは、漁師さんの作業。鉈を用いた熟練の技。とても慣れた手つきでした。

 私たちは、綺麗になった牡蠣をネットに20個ずつ詰め、再び海へ返すための作業を行いました。

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 この作業が終わった後は、ウキの掃除を行いました。

 こちらも、ムール貝など、付着しているものを綺麗に取り除くというものです。

 私と關くんの2人で行なっていたのですが、一つ一つ丁寧に取り除こうとすると時間がかかり、なかなか進みませんでした。

 途中から漁師さんも手伝ってくださり、おじいちゃん・おばあちゃん世代とは思えないほどの超ハイスピードでこなされ、驚きました!

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 作業中は、漁師さんとゆっくり話すことはできないのですが、お昼の時間には、

 「孫と話しているようだな〜」

 「どこに泊まるんだ?」

 「夜ご飯はどうすんだ?」

 「うちに食べに来るか?」

 「就職は決まったのか?」

 「どんな仕事をするのか?」

 「今度(私の地元の)滋賀県に行くから、オススメの食べ物を教えてケロ」←「もちろん、ふなずしです!」

など、本当に自分の祖父母と話しているように楽しみました。

 でも、このような会話の中で、高齢化が進み若者がいなくなっているのだと思いました。

 昼過ぎには、漁から帰ってきた漁師さんが、

「4匹しか上がらんかったっぺ〜」。

漁師の仕事の厳しさを改めて感じました。


 先日の台風10号の影響はやはり長部漁港でもあったそうです。

 とはいえ、報道であったほどの被害はないとお聞きし、少し安心しました。

 ようやく生産量が増えてきている中で、自然災害とはいえ、漁師の方々の努力が流されてしまうことは、とても悲しいことです。


 9月12日(作業2日目)

 この日は、Oさんのところでお世話になりました。

 漁港へ向かう車の中でOさんが、

 「今日は(漁師は)3人しかいないから、来てくれて助かるよ」

と言われ、気合が入りました。

 作業は、エゾイシカゲガイ関連で、

.┘哨ぅ轡ゲ貝の住処になる養殖しかけ=発泡スチロール製タライの中に入れるエゾイシカゲ貝の数を数える作業。(貝の成長とともに、タライの中の貝の数を減らしていきます。貝の「居住環境」を良くするためです)

▲織薀い涼罎ら稚貝の取り出し

タライの砂の取り換え

 まず、,虜邏箸任垢、これは1年前にもさせていただいた作業なので、比較的スムーズに行うことができました。

 しかし、数を数える仕事なので、みんな黙々とやっていて、静かに時だけが過ぎて行きました。


 次に、タライの中からエゾイシカゲガイの稚貝を取り出す作業です。

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(1日でこれだけ取り出すことができました !)

 これも前回に経験していたので、粛々と進めることができました。

 今シーズンに取れる稚貝の数によって、2年後の出荷できる量が決まってきます。

 自然の海から稚貝を採取するので、取れる量は毎年まったく違うそうです。

 それが天然採苗方式の厳しさです。

 このエゾイシカゲガイは、広田湾の特定の場所でしか取れず、他の地域では見つからないそうです。

 とても貴重な貝で、「幻の貝」としてマスコミにも取り上げられています。

 7月にはNHKの「あさいち」で取り上げられ、クックパッドの記事「うま味が溢れだす!『幻の貝』で作る絶品炊き込みごはん」(こちら)にまでなり、その名は全国へ広がりつつあります。


 そして、最後の仕事である「砂入れ」

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 とても重労働で、關くんと汗だくになりながら、頑張りました !

 砂入れの作業をしていると、

「やはり若者がいると仕事が早いな」

と言われました。

 確かに、この砂入れを祖父母の世代の方々が行うのはとても大変だと思います。

 砂を入れる作業の効率化をはかるために開発されていた機械があるのですが、まだ実用化するのは難しそうなので、早く機械化が進むことを願います。

 砂入れは、エゾイシカゲガイの養殖には不可欠の作業なので。


 帰り際に、Oさんに、

 「前に来てから1年だけど、何か変わった?」

と聞かれましたが、

 「長部漁港での周辺では大きな変化は見られません」

と答えました。

 心待ちにしていた新設の作業所も、地盤沈下により、完成が延期になり、Oさんは、

 「ラーメン屋が一軒できたくらいだな」

と笑いながら話されていました。

 が、前回の訪問の際、「作業所ができるのが楽しみ」と言っておられただけに、残念な気持ちが強いことが伝わってきました。

 そのような中、自動車道の着工は順調に進んでおり、

「2030年には走れるようになるかなー」と、Oさんは、早く出来ることを願っておられました。

 この高速道路が出来たら、陸前高田へのアクセスが良くなり、地域経済の発展へ繋がるのではないかと思います。【流出も考えよ―伊達の補足】


 大学二回生の冬に初めて訪れてから、今回で3回目の陸前高田・長部漁港。

 ずっと伊達ゼミ漁業班でした。

 たくさんの人に出会い、人とつながる「縁」というものを改めて感じ、大切に思うようになりました。

 特に、長部漁港では、Oさん、Yさん、Kさんファミリーにお世話になり、人生の中で大変貴重な経験をさせていただきました。

 今後も、この「縁」を大切にし、陸前高田の皆さんとのつながりを持ち続け、機会を見つけてはプライベートで訪れたいと考えています。

 そして、ここで教えていただいた、「くじけても諦めない」という気持ちを社会人になっても忘れずに、信念を持って、今後も頑張って聴こうと思います。

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2016-10-18

陸前高田の消防団のDVD [1] (2回生)

 2回生ゼミが始まりました。

 初回は、自己紹介と幹事長・幹事の選出。

 2回目は、他己紹介。

 3回目は、各自の「悲しい話」を聴き、他人がそれを言葉にして発表する練習。

 そして、前回の授業では、NHK『証言記録・東日本大震災 第1回 岩手県陸前高田市〜消防団が見た巨大津波〜』のDVD(2012年1月29日放送)の前半部分を皆で見ました。

 下記のような内容のDVDです。

 「128人の団員のうち、28人の死亡・行方不明者を出した、岩手県陸前高田市の消防団、高田分団。写真店、電気店、生花店、市役所職員などのなりわいをもち、災害時に出動して危険な任務につく団員たちは、親族同然の付き合いで、町の人たちの信頼も厚かった。

 3月11日、地震発生後、団員たちは水門を閉めようとただちに海岸の防潮堤に向かったり、交差点に向かい道路の閉鎖と避難誘導を始めたりしたが、予想もしなかった巨大津波の前になすすべもなかった。団員一人一人が被災者として、大津波がもたらす惨劇を目撃し、体験した。

 消防団員としての使命ゆえに、最も過酷な現場に巻き込まれ、ぬぐえない記憶を抱えることになった。かろうじて津波から逃れた団員たちは、家族の安否すら分からない状況の中、翌3月12日から、がれきを乗り越え、生存者の捜索にむかっていった。

 消防団員たちは今、仮設住宅で生活しながら、今後の暮らしや町のあり方に思いを巡らせている。多くの仲間や家族を失うことになった現実、街を支えてきた誇りと挫折感、生まれ育った土地への愛着、葛藤など、彼らの証言を通して、陸前高田を襲った大震災の姿を記録する。」(NHKのホームページより転載)

 私(伊達)にとっても、学生達にとっても、とてもつらい内容なのですが、それが(今も)被災者の現実であると考えていますので、今年も、このDVDを見ることから「震災復興の経済学」のゼミを始めていきます。

 学生達にはまだ伝えていませんが、今後、以下のようなことを伝えたいです。

 私の意見を強要するのではなく、震災後5年半経った今の学生達の素朴な感想を大事にしながら、共に議論していきたいです。

◯◯◯◯◯

 被災者一人ひとり異なる悲しみ・苦しみ、後悔の念、罪悪感、

 それを想像すること。

 「もし私が、あの時、あの場所にいたら」ではなく、「もし私が、あの時、あの場所で、あの団長だったとしたら、あの団員だったとしたら、亡くなられた団員の遺族だったとしたら....」と(立場を置き換えて)当事者の立場から想像すること。

 すぐに「もし関西で地震や津波が起こったら、自分は....」と自己中心的立場から想像してしまうのではなく(当事者の言葉を奪いとってしまうのではなく)、

 自分のために「教訓化」することでもない。

 他人の死を、自分の何かのための「手段」にしない、「利用」しない。

 「サバイバー・ギルト(生き残った者が抱く罪悪感)」という言葉で納得して終わりにしてしまわない。


 そう心構えをした時に直面する、

 想像することの難しさ、

 それを言語化し思考することの難しさ、

 共感することの難しさ。

 心のざわめき。


 自分が体験すればわかる?

 自分が体験していないからわからない?

 体験していない人間は震災を語ることができない?


 今はとても難しくて、何をどう考えたらよいのかわからないけれども、少しでもわかろうと努力する。

 心のざわめきを大切にして、想像し、言語化し、共感しようとする努力する。

 そういう人間に私はなりたい、です。

◯◯◯◯◯

 以下は、震災当時、中学2年生だった2回生たちの「感想」です。

小林さん

 東日本大地震の大津波の怖さを改めて感じたことはもちろんだったのですが、生き残った陸前高田市の方々があんなにも自分たちの行動に後悔して苦しんでいたことを初めて知りました。

 消防団長の大坂さんのお話しは、どれもすごく鮮明で、

 『この方は、たぶんあの日のことを何回も何回も思い出していらっしゃったのだろうな。』

と思いました。

 住民に避難をさせるために団員を出動させたという大坂さんの判断は、私は間違いではなかったと思います。消防団長として自分たちが住んできた町と、そこでいっしょに暮らしてきた人びとを救いたいという思いで行動されたと思うからです。

 まさか津波が町全てを流していってしまうとは考えもしなかったでしょうし、日本では過去に東日本大震災のような大規模な津波による被害の事例もなかったので、準備も正しい判断もできなかったのは当たり前だったと思います。

 もし、私が大坂さんだったとしても、きっと地元の住民、友達、家族を救うために呼びかけたり避難を誘導するなどの行動をしていたと思います。

 しかし、すべてが終わったときに団員の多くを失ってしまった団長の気持ちは、私たちがどれだけ仕方がなかったと言っても、変わらなかったと思います。

 私が大坂さんの気持ちを考えてみても、きっとすべてを理解することはできないほどの悲しみと苦しみがあったと思います。

 DVDではまだ出てきてなかった話でしたが、奥さんと娘さんを亡くされたと聞きました。あの津波で亡くなられた方は大勢いらっしゃいます。それは分かっていても、本当に自分の家族が津波で流されてしまったと思うと、自分の無力さを感じると思います。私は、経験したことがないので、想像でしか意見は言えないですが、想像しただけでも悲しくて悔しくて、

 『なんで自分たちなん。お父さんも、お母さんも、みんなおらんくなったのに、どうやって生きていけばいいん。』

と思います。

 恥ずかしい話ですが、もし私が、私以外の家族がいなくなって取り残されたら、『自分も死にたい』と考えてしまうと思います。

 東日本大地震は、本当に多くの方々の日常と幸せを奪っていったのだと改めて感じました。

 残された方々は悪いことをひとつもしていないけれど、大坂さんや熊谷さんのように自分の無力さを感じ、自分を責めて、悲しみを背負って生きている方がたくさんいらっしゃると思います。

 なにも無くなったところから、それでも前向きに生きていかなければならない、様々なツライ事もたくさんあったと思います。

 合宿では、その方々の想いを最後までしっかりと受け止めたいです。


山下くん

 DVDを見る前に、伊達教授が『映像を見て、思い浮かんだ単語を紙に書いていきなさい』とおっしゃったことに気をつけて、映像を見た。

 まずはじめに思い浮かんだ単語は『残酷』だった。

 最初に、映像では、町の昔の景色と震災後の風景とが映し出された。

 想像を絶するような状況だった。

 全ての家が流されていた。

 そして、瓦礫や木、車などが流されていた。

 こんなにも違うものか。自分が当時、中学生の時に見た映像よりも酷いように感じた。中学生の時に見た映像で記憶に残っているのは、津波のことだけだった。

 今回は、当時の状況を説明している人たちのお話があり、感情移入できた。

 実際に足を運び、自分の目を通して見て、被災した方々のお話を聞きたい。

 次に思い浮かんだ単語は『勇気』。

 消防団の人たちの地域の人々を守ろうとする勇気。団長さんが自分よりも団員の命を優先した勇気。あの状況下で自分の家族を失いながらも自らの役目を全うした勇気。

 本当に凄い人だ。

 自分の町にも消防団はある。だが、僕には自分の命よりも人の命を優先することができない。

 とても胸が苦しくなった。

 教授のお話によると、団長さんは亡くなってしまったそうだ。

 この震災での心情を聞きたかった。

 誰よりも地域の人のことや、消防団のことを考え行動し、そして、家族を失ってしまったこの震災。

 特別な思いがあったのだろう。

 この震災のことを考え、自分たちのできることはいろいろある。

 この先、自分たちにも起こるかもしれないので、そういった準備は必要だし、特に被災された方々のお話から得るものはたくさんあるはずだ。

 来年の2月に予定されているゼミ合宿までに、多くのことをゼミの中で話し合い、そして、命の大切さを改めて感じる必要がある。


大西くん

 僕は3月11日、中2の時、卒業式で学校が午前で終わったので、テレビを見ていました。突然、地震の速報のニュース画面に変わり、焦ってテレビを見てみると、東北で地震があったことを知り、他人事のように大変だろうなあ、と思いました。

 もし、あの場に自分が居たら...ってことも何度も、テレビの特集で見たり、講演を聞いたりして学びましたが、実感はいつまでも湧きません。なんせ、現実離れし過ぎていて、自分の中で、「かわいそう」だとか、「頑張れ」とかしか思うことはできませんでした。

 でも、いざ大きくなって考えてみたら、あの場にいたらパニックになって何も出来ない自分になるだろうな、と思います。

 10mの津波も想像はつきません。僕はきっと、その場から動くことはできないと思います。

 だからこそ、「勇気」と「責任」を感じながらも、消防団員たちに指示を出し、自ら助けに行く、ということをした団長さんの話を聞いて、なんでそこまでできるんだろう、と思います。

 でもまさに、先生がおっしゃっていた、「サバイバーギルト」という言葉なんじゃないかな、というのは映像を見て、コメントを聞いて、わかった気がしています。

 実際に陸前高田を訪れた時は、自分の想像とかけ離れた話を聞くと思うと、ゾッとする思いもあるし、自分の地元でそんなことになって対処できるかな、というのも重ねて聞いてみたいという気持ちも生まれました。



藤永くん

 地震発生の際に、消防団で指揮を執っていた大坂さん、団員の熊谷さんの「自分の判断で人の生死を分けてしまう」という心の葛藤が映像を通してすごく伝わってきた。

 これまで経験したことのないような津波で「死を覚悟した」という言葉からは、メディアからは伝わってこない被災者のつらい心情を感じた。

 消防団だから「地域の人々を避難させなければいけない」という思いがあったようだが、押し寄せる津波や続く余震の中での避難誘導が行われていたことを想像すると驚きを隠せない。

 自分の目の前で人が流されていくのを見る恐怖、自分の家族の安否すらも分からない不安に駆られた状況は、言葉では言い表すことのできない気持ちであっただろう。

 実際に自分がその立場に立ったとき、消防団員のような行動はできないであろうし、怖さに押しつぶされて二進も三進もいかなくなるだろうなと感じた。

 未曾有の津波が襲った東北地方であるが、しっかりとした堤防の建設など、行政による対策が行われていればもっと多くの人が助かったうえ、避難に余裕を持つことができていたと思う。

 このような災害対策の見直し・検討は、今の日本において大きな課題である。

 地震が多い日本では、今後も大きな地震が発生するであろう。その時に、自分たちができることをあらかじめ考えておくことで減災に繋げることができると思う。

 今回の映像から、消防団員の活躍だけでなく、今後の備えについても発見することができた。



大橋くん

 今回のDVDをみて、涙が出るというよりはとても胸が苦しくなった。

 陸前高田の消防団の方たちが避難作業の呼びかけをしている際に亡くなったというのは聞いたことはあった。

 しかし、自分は悲しい話は苦手なので個人的にはあまり聞かないようにも見ないようにもしていた。

 それが今回機会をいただいて見させていただけることになって、実際の被害者の方たちの実体験や現在の気持ちなどとても生々しいところまで感じ取ることができた。

 自分が心の中に重くのしかかった言葉は、「妻と娘の死は想像はできても納得はできない」という言葉だ。

 たぶん自分もおんなじことを思うだろうと思う。

 朝まで元気に一緒にいた人が次の日なるとどこにいるかわからない。

 もしかしたら死んでるかもしれないと想像してしまう。

 でもそう思いたくはない。

 そう思ってしまう自分が嫌だ。

 このような言葉が心の中で葛藤し、心の中からにじみ出た、そんな言葉だと思う。

 「感情を押し殺して捜索活動をした」という言葉も、非常に印象に残っている。

 捜索活動をしていると亡骸が地面に横たわっている。

 そんな状況の中で、隊員たちは、わきだしそうな感情を押し殺して、必死に捜索活動を行っていたのである。

 隊員は、津波を恨んだのと同時に、自分たちが助けきれなかった命に直面して、もっと陸前高田の消防団員として助けてあげたかったと思っていたと思う。

 私は、このDVDを見てから、本当に被災者の方に寄り添い話を聞くことができるのか、本当の意味で被災者の方の気持ちを感じ取ることができるのか、とても不安になった。

 

森さん

 私が、震災の映像を見て1番印象を受けたのは、大坂さんが、奥さんと娘さんを亡くしたにも関わらず、団員には言わないでおかないと、と思ったと話されていたことです。

 自分も同じ陸前高田に住んでいて、同じ被災者なのにも関わらず、他人の命を優先し救出に向かう。

 それだけでも、誰にでもできることではないはずなのに、最愛の妻、娘を亡くしても、周りを気遣い、自分の気持ちを押し殺す、大坂さんはすごい人だと思いました。

 また、大坂さんの責任感ある行動と、とっさの判断の的確さに、消防団員は消防士ではないのにこんなことができるのか、と驚きました。

 私の父も地元の消防団の団員です。

 もし、大きな震災が起こり、救出や見回りに行かないといけないとなった時、いってらっしゃいと見送れるだろうか、と考えました。

 私はきっと無理です。

 こういう時こそ周りが一致団結しなくてはいけないと思いますが、他の人が行ったらいいのに、と思ってしまうとおもいます。

 そう考えると、救出に向かわせた大坂さんをはじめとする消防団員の家族の方たちはすごく強いんだと感じました。

 今、関西で大きな地震が起こったとすると、自分たちは十分な行動がとれるのか、そして周りを見て行動することができるのか、とても考えさせられます。

 そして、もしものことが起こった際にどうすればよいのかヒントになるものを、こうした映像をしっかり見て、見つけ出していきたいです。



清藤くん

 私は、東日本大震災の映像をニュースや新聞の一部などでしかみたことがなく、今回のように津波の映像をまじまじとみたのは初めてだ。

 建物などが並んでいたであろう場所ががれきの山となり、またそれらが処理されて、辺り一面が見渡せてしまうくらい何もない様子が、悲しみを表しているようで、心が苦しくなった。

 また、避難していない人がいる中で、消防団が津波から逃げなければならなかったということから生じた罪悪感こそが、消防団と地域のつながりの深さがにじみでていると私は感じた。

 「サバイバーギルト(生き残った者が抱く罪悪感)」

 今、私が住んでいる町に津波が襲って、私が生き残ったとして、私がこの感情を抱くのかと問われれば、素直に縦に首を振ることはできないだろう。

 地域とのつながりが薄い生活をしている私にとっては、仮にご近所さんが何かあったとしても、「サバイバーギルト」はうっすらとしか感じないと思う。

 分団長の大坂さんは、地域の方々を助けた反面、大切な家族を失った。

 私が一番心に響いたのが、

 「想像はできても、納得はできない」

という言葉だ。

 消防団員である前に、ひとりの人間だ。

 そもそも大切な人を失って平常心でいられる人なんて存在しない。

 今の私は、津波の本当の恐ろしさを想像することすらできないと思う。

 体験していないからだ。

 でも、だからこそできることや、感じることが存在するはずだ。

 それらを、これからのゼミ活動で見つけていきたい。


吉上さん

私は、熊谷さんの「家も町も無くなっても、家族が生きてさえいればなんとかなる」という言葉がすごく印象に残っていて、家族はなによりも大切だし、私も同じように思うので、命が助かるということがどれだけ重要なのか、改めて考えさせられました。

消防団の団長さんが言っていた、自分の下した判断に後悔しているという気持ちは、映像を見ていてすごく伝わったし、災害による被害というのはとても大きく、その判断によって被害が出たのだとしても、それが最小の被害かもしれないし、本来は救われなかった人がたくさん救われたのかもしれない。

 かもしれないが多くて、本当に正しい判断というのはいつまでたっても分からないです。

 けれど、判断を下した方は、どんな結果であろうと、全て自分の責任に感じてしまうし、その結果、辛い思いをすることになると感じました。

団長さんの「助かってくれて、本当に助かった」という言葉にはすごく心うたれました。

 そこには色々な想いが込められていて、助からなかった人が多く、また判断を下した側だからこそ出た言葉と感じました。

消防団の人たちはたくさんの人を助けたのだと思いますが、消防署からの指示もなく、消防団自身で考え、指示をだした結果、その責任を消防団の人が背負っているこの状況は、なんだかやりきれないなと感じました。

人間にはどうしようもないほど大きな災害で、一人の人間がそこまで責任を感じる必要はないと思うけれど、実際に被災地で活動されていた方はそうはいかないだろうし、喜怒哀楽の感情をださないように活動を続けたというのも、そのことを物語っていて、とても悲しいと思いました。

 地震や津波のような災害は皆に一生消えない傷を残すし、今回の映像をみていても、本当に悲しいという思いしかなかったです。


 後藤さん

  熊谷さんが、「私の妻は死んだかもしれない」と言った時、1番心が苦しくなりました。

 津波が去り、自分の町の状況を把握した時、とても呆然としていた熊谷さん。

 一度家の前であった妻が、逃げ切れていないと思った時、どれだけ後悔しただろう、と思いました。

 私だったら、巡回で会った時一緒に逃げればよかった、早く逃げろと強く言えばよかったと後悔していたと思います。

団長の大坂さんは、震災があった時、団員に、巡回して注意の呼びかけを指示しました。

 津波がこんなに大きいと知っていれば、絶対送り出していなかったと思います。

 自分の指示で送り出した団員が津波に飲み込まれ、少人数しか生きていないと思った時、罪悪感しかなかったと思います。

 家族もなくされ、自分自身は生き残り、ひどく自分を責めたと思います。

もし私が熊谷さんや大坂さん、団員だったら、市民のために、1人でも多くの人に生きてもらうため、巡回して呼びかけを続けたと思います。

 途中で大切な人に会っても、自分のやるべき事、呼びかけをし続けていたと思います。

 大坂さんは団長として、市民のためを思い、行動されたと思います。

 またその決断は間違っていなかったのではないか。

ビデオを見て、悲しくなり、虚しくもなりました。

 実際、震災に会った事がなく、大切な人がなくなった経験もした事がないのに、こんな感情になっていいのかと思いました。

 今、私が生きていること、今、一緒にいる人は、当たり前ではないということに改めて気付かされました。

 どんな行動をとっても後悔はすると思いますが、日々感謝はして行こうと思いました。

 そして、被災地に訪れ、被災者と関わる時、想像上ではあるけれど共感をし、少しでも被災者の傷を癒せることができるようになりたいです。

2016-10-17

陸前高田合宿レポート (4回生)

戸上

 今回で3回目の陸前高田合宿。

 一年ぶりに訪れましたが、景色の変化を感じると同時に、(就活など)自分自身多くのことが詰まった一年間を過ごしてきたなと振り返っていました。

 そして、バスの中から気仙中学校を見ると、ギュっと気持ちが引き締まりました。

合宿1日目

 飛行機で名古屋から仙台へ移動。

 台風13号の影響が懸念されていましたが、仙台駅前はお祭りで賑わっていて、ひと安心。

 その後、高速バスに乗り、陸前高田市役所へ向かいました。

 一年ぶりということもあり、気仙茶の会の皆様とお会いできることが楽しみで、バスの中は一睡もできませんでした。

 道中に見たかさ上げ工事は、1年前と見比べるとかなり高さが増した印象を受けました。

 そして陸前高田市役所へ到着。

 秋の訪れを感じさせるほど心地よい気温で、京都や名古屋に比べると東北はやっぱり涼しいなと思いました。

 その後、仮設班以外のメンバーで沼田屋さんに向かいました。

 初めての宿泊だったため、BRT高田病院から迷わず行けるか心配でしたが、無事に到着。

 新築のいい匂いがし、とても綺麗な旅館でした。【津波被害を受けたので再建】

 その後、交流会のため徒歩で菊池会長宅へ向かいました。

 新鮮な、さんま・ホタテ・ホルモンなどご用意していただきました。

 陸前高田だからこそ味わえる海の幸は最高です!!!

 ごちそうさまでした。

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 合宿2日目

 気仙茶の会の皆さんとの共同作業のため、会長宅へ徒歩で向かいました。

 雨が心配されていましたが、なんとかもちこたえての活動となりました。

 午前中は会長宅の裏庭にある茶の木の手入れをしました。

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(細かいゴミやつるを抜いていきます)


 茶木に蜂の巣が...というハプニングもありましたが、大勢でスムーズに活動を進めることができたため、車に乗り、米崎町の金園へ向かいました。

 そこでは、蜂がいないかどうかをしっかり確かめて作業開始です。

 傾斜部分に茶の木が生えており、細かな手入れはできなかったため、手が届く範囲での作業となりました。

 

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 その後、会長宅で昼食をとりました。

 お昼ご飯にも、さんまやりんごなどを出していただき、ありがとうございました。

 前日まで3回生がお世話になっていたのですが、りんごの皮むきが下手くそだったようで、汚名返上のため、戸上と寺岡とでりんごの皮むきに挑戦しました。

 前田さんや会長に、

「さすが4年生だ!」

とお褒めの言葉をいただけました。

 りんごの大きさがとても印象的でした。

 食後には、今年、河原園(小友町)で摘んだ茶葉でつくられた紅茶をいただきました。

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 実は、伊達ゼミの先輩方がずっとお手伝いをしてきたのですが、こうして出来たお茶を飲むのは私達の代が初めてだそうです。

 貴重な一杯となりました。

 前田さんに河原さんについてのお話しを少しだけ聴かせていただきました。

 「誰に対しても面倒見がよく、分け隔てなく接してくださる方だった」

 「津波犠牲者のご遺族の方とお茶を一緒に飲むことが気仙茶の会の目標」

と話されておられました。

 その時の前田さんの表情を見て、気仙茶班の活動には重大な責任があるのだと痛感しました。



 午後からは、去年と同様、及川園(小友町)での活動でした。

 すごい量の雑草です。

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(どこに茶の木があるのかわかりません)

 会長の指揮で、みんなで一列ずつ終わらしていくと、あっという間に綺麗にすることができました。

 活動人数の多さは大切だと実感しました。

 小雨がパラパラと降り始めたころで活動を終え、会長宅へ戻りました。

 休憩の合間、午前中に手入れした金園で摘んだお茶を淹れていただきました。

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 自分たちが関わりをもてた茶園のお茶を飲むことは、本当に幸せでうれしいことです。

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(気仙茶の会の皆さん、NICEの皆さんと)

 最後に、集合写真を一緒に撮っていただき、会長宅をあとにしました。


 夜ご飯の鶴亀鮨へ向かう道中、「お菓子工房 木村屋」に寄りました。

 初めてお店を訪れたのですが、お菓子やスイーツの種類が非常に多く、どれを買おうか迷ってしまうほどでした。

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 バウムクーヘンアイスは絶品です!!!

 鶴亀鮨さんでは、恒例の海鮮丼をいただきました。

 実は、いろいろあって、鶴亀鮨さんの店内で食べるのは初めてでした 笑

 

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 元気な大将に「愛のナイアガラ」もしていただき、いつも元気に歓迎して下さる鶴亀鮨さんに感謝感激です!!!


合宿3日目

 この日は伊達ゼミ初の試みとなる、「高田松原を守る会」の皆さんとの活動でした。

 まず、陸前高田市 復興サポートステーションの佐藤貞夫さんから「高田松原を守る会」についてのレクチャーを受けました。

 震災によって壊滅的な被害を受けた陸前高田ですが、7万本の松の木があった名勝・高田松原も甚大な被害を受けました。

 松原は、江戸時代の先人が田畑を潮風や高潮、飛び砂などの害から守るために、荒れた砂地に松苗を植え、苦労しながら育てたそうです。

 そんな高田松原を復活させるために、漂着ゴミの片付け、松苗育て、ポットへの松苗の移植、苗木畑の手入れなどを4年の歳月をかけて行ってきました。

 そして、今年の年末に、防潮堤(第1線堤)と防潮堤(第2線堤)との間に、松苗植栽地が完成する予定です。(イメージは下記のYoutubeを参照してください)

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 年明けから、植栽地へ松苗を移動します。

 松苗が元の松の木の高さになるまでは約50年かかるそうです。

 今回の活動は、その松の木を潮風などから守るための竹簾(たけす)を作ることでした。

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 (完成した竹簾です!!!)


 休憩時間やお昼の時間には、鈴木善久先生の思い出話を聴かせていただきました。

 善久先生は、学校の先生をされており、陸前高田に教え子がたくさんいるそうです。

 「善久(よしひさ)先生」なのですが、生徒たちからは「ぜんきゅう先生」と呼ばれていたそうす。

 この日、私たちも「ぜんきゅう先生」と呼ばせていただきました。

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(竹を割るぜんきゅう先生)


 佐藤さんもぜんきゅう先生も、幼少の頃から高田松原で遊んだいて、たくさんの思い出があります。

 「松の木が大きくなるには50年かかる。だから、僕たちは見れないけれど、これから生まれてくる子供達に名勝・高田松原を残したい」

というお話は、僕の脳裏にしっかりと刻まれました。

 本当に高田松原を愛してやまない善久先生。

 活動の終わりがけに、副会長の小山さんも合流し、結び方を何通りも教えていただきました。

 「男結び」だけでも苦戦していた私は、小山さんの知識は吸収しきれませんでした。

 ぜんきゅう先生・貞夫さん・小山さん、楽しい活動の時間となりました。

 ありがとうございました。


 その後、木村屋さんを再訪し、先生おすすめのバウムクーヘンと、窯出しポテト(スイートポテトのようなもの)をいただきました。

 どちらも絶品で、家の近くに木村屋さんができたらなと思うほどでした。

 夜ご飯の車屋酒場さんでは、気仙沼の珍味「モウカの星(サメの心臓)」をいただきました。

 電話でご予約した際には、満席のような雰囲気でしたが、快く受け入れてくださり車屋酒場さんにも感謝しかありません。

 ありがとうございました。


 気仙茶の会の皆様との活動は今回で二回目でした。

 貴重なお話を聴かせていただき、そして貴重なお茶をのませていただき、本当にありがとうございました。

 今年は1日しか活動することができず、手入れできた茶園も少なく申し訳なかったです。

 気仙茶の会が多くの茶園を管理し、皆さんで活動している姿に心打たれました。

 まだまだ茶摘みできる量は少ないかもしれませんが、いつの日か、多くのひとでお茶を囲んで笑顔でお話ができるよう、是非、今後もお手伝いしたいと思っています。

 高田松原を守る会の皆様との活動は今回が初めてでした。

 震災後、多くのボランティアを受け入れてこられましたが、震災から5年半たった今、ボランティアの数は大きく減少しているようです。

 そして、来年からは苗木を移植できるので、今後もゼミとしてお手伝いしていきたいと思いました。

 楽しく、優しく教えていただき、どうもありがとうございました。

また、必ずお会いしましょう!!!皆様ありがとうございました。