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Making of Ryukoku-cha

2017-02-23

陸前高田合宿レポート (3)

陸前高田での合宿を終えて

小林 

 3日間の合宿を経て思ったことは、「私たちに何ができるのか」ということ。そして、今年の3月で震災から6年が経ちますが、現在の町の風景、人々の生活を知らない人たちやずっと気にはなっているけれど知る機会がない人たちに「伝えたい」ということでした。

 現在50世帯の方々が、仮設住宅にお住まいになっています。陸前高田市に着いて最初に見た町の案内所や市役所、私たちがお世話になった居酒屋もいまだ仮設住宅のままでした。

 工事用のトラックも多く走り、地面のぬかるみで車には泥がはねていました。まだまだ復興したとは言えないとあらためて思いました。

 仮設住宅が建っているのは、陸前高田市立第一中学校の、本来は運動場であったはずの場所で、外で活動するクラブの練習は、時間をずらしながら限られた敷地の中で行われていました。

 私は中学生時に陸上部に所属していました。当時おもいっきりトラックを走れていたことを思い出し、陸前高田市の子どもたちは、この6年間、直線のコンクリートで練習を重ねていたのかと考えると正直つらくなりました。



 2月11日、来てくださったみなさんと、震災でお亡くなりになられた方々に哀悼の意を込めて黙とうを捧げました。

 黙とうの後、となりにお座りだったS子さんは、私に2011年3月11日のことを静かに話してくださいました。

 「地震がおきた後サイレンが鳴ったが、どうせここまでこないから大丈夫だろうと思ってた。したら、海の方から来たお兄ちゃんが『はやく逃げ!』って腕つかんで引っ張っていった。んで、高いところにあるお茶畑に逃げた。何かあったときは、お茶畑に逃げようと決めてたから。上がって、後ろ向いたら、すぐ後ろには水が来てた。あとからずぶぬれになったひとが上がってくる。こわかったよ。」

 私は、こわかったよね。、と頷くことしかできませんでした。それからS子さんはもうひとつ、当時の話を聞かせてくださいました。

 「近所に住んでいたお父さんは息子を亡くした。息子さんは消防団をしてた。お父さんは近くの人と塀によじ登って、そこで息子さんを探してた。『息子さんがお年寄りを背負ってこっちに来るのを見た』と逃げてきた人がお父さんに言ったから、お父さんは不安げに待ってた。したら、こちらの塀に向かって歩いてきていた息子さんが、お父さんの目の前で津波に流されてしまったの。」

 S子さんは目に涙を浮かべながら話してくださいました。

 自分の息子が目の前で流されているのに、なにもできない。お父さんの気持ちを考えると、すごく心が苦しかったです。

 その日まで一緒にいた大切な人がいきなりいなくなることはどういうことなのか、私に全ては分からないけれど、きっと、とても怖くて悔しくて悲しいことだと思います。

 もし私が同じ経験をしたなら、すぐには受け入られずに、何年間もあの日のことを思い出しながら過ごしてしまうと思います。

 大切な人をなくされた方はたくさんいらっしゃいますが、私たちが訪れた時にはみなさん明るくふるまってくださり、私たちの方が元気をもらっていた場面が多かったです。

 そのため、私自身なにができるのか分からず、今回の合宿では、ただ話を聞くことしかできませんでした。

 東日本大震災でつらい経験をされた方々の力に私もなりたいと思いました。

 これからの合宿でもっとみなさんに寄り添って、自分になにができるのか見つけていきたいです。



 まだ地震は頻繁に起こっています。私たちが陸前高田市を訪れた初めの日には、地面が2回揺れて怖かったです。

 私たちは、普段生活している中で現在の陸前高田市の状況を知ることはほとんどありません。気にはなっていても知る機会のない方が大勢いらっしゃると思います。

 震災から6年が経ち、新しく家を建て、仮設住宅から引っ越しをされた方もいらっしゃいますが、家に帰ってもすることがないからということで、「仮設住宅を出てからも集会所に集まってくる人がたくさんいる。」とおばあちゃんは話してくれました。

 6年も経っているのだから復興しているだろうと思っている人がいるかもしれませんが、本当にそう言ってもいいのでしょうか。

 たしかに、建物は徐々に立ち並ぶようになり、整備されてきています。住宅街と呼べるような高台もできつつあります。

 しかし、建物が立ち並び、震災前と変わらない風景になることが復興ではないと、私は考えています。

 仮設住宅を出て、今まで過ごしてきたところから別の場所に移ることで、それまで築いてきた人間関係が変わってしまいます。

 大きな地震を経験して、仮設住宅で出会い、つらい時にも支えあって生活していた人たちと離れ、新しい人間関係を築いていかなければならないのです。

 きっとすごく心細いと思います。

 仮設住宅が徐々になくなり、それぞれ新しい自分の人生を歩いていけることはうれしいことですが、これからも苦労をして生きていく人たちがいらっしゃるということも知っていてほしいです。

 合宿を終えて、学んだことや感じたことはたくさんあります。

 もし、陸前高田のみなさんが不快な気持ちにならないのであれば、今回学んだこと、陸前高田市の風景、現在の生活の様子や6年が経った今の気持ちを、京都でも伝える活動をしたいと思いました。


 今回、お忙しい中私たちの活動にご協力くださった村上食品さんと鶴亀鮨さん、集会所のお世話をしてくださった会長さん、私に震災当時のつらい思い出を話してくださったS子さん、2日間の活動に参加してくださった大勢の陸前高田のみなさん、

 本当に、本当にありがとうございました。

岩手日報「ジョニー再建へ支援の輪 陸前高田のジャズ喫茶」

『岩手日報』2月23日付記事「『ジョニー』再建へ支援の輪 陸前高田のジャズ喫茶」はこちらです。

 ジャズタイムジョニー再建実行委員会のHPはこちら、ブログはこちら

岩手日報「6割超が利用方針未定 陸前高田・中心部かさ上げ地」

 『岩手日報』2月23日付記事「6割超が利用方針未定 陸前高田・中心部かさ上げ地」はこちらです。

 「調査は昨年11月25日から1月末まで行った。昨年7月の仮換地指定(地権者への土地の割り当て)から日が浅い一方で、2018年4月から順次始まる土地の引き渡しには1年以上ある時点。市は高台の住宅地やかさ上げ部のうち商業エリアは『引き渡し後、2年以内の工務店等との建築契約』の条件を設けているが、今回の調査対象は期限などがない土地の地権者。高田地区556人(731人対象、回答率76.1%)、今泉地区270人(同340人、79.4%)から回答を得た。」

 「対象の土地は震災前、宅地だった場所が多い。地権者の利用方針が定まっていない背景には、既に別の場所で自宅再建した人が多くなっている一方、かさ上げ後の全体像が見えず『現地が出来上がらないと分からない』との声も多かった。」

 この記事を読む限り、「調査対象」は、「かさ上げ部の住宅地、準商業エリア、工業エリア」と「平坦部エリア」の地権者のようです。

 土地利用図は、陸前高田市の土地区画整理事業の概要(こちら)をご覧ください。pdfファイルです。


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 「利用方針未定」のかさ上げ地。

 復興工事が進んでも、復興しないのだろうか?

 もしそうだとすれば、何のための、誰のための復興工事なのだろうか?

 「空き地」を作るためではないはずだ。

 「既に別の場所で自宅再建した人が多くなっている」と記事に書かれているが、もしそうだとすれば、何のために、誰のために、巨額の資金を投じ、巨大なベルトコンベアで大量の土を運んでは盛土をしているのだろうか?

 市町村の首長・役場レベルの問題ではない。個々のコンサルタント会社や土建業者レベルの問題でもない。「官民癒着」論や「陰謀」論は、わかりやすいが、問題の本質を見誤るのではないか。

 復興事業は、長期にわたる所得税の増税によって、国民相互の「痛みの分かち合い」によって、まかなわれている。

 「復興交付金」の対象事業や期間を決定した国は、陸前高田市民に対してだけではなく、全国民に対して、説明責任を負っている。

 広大な面積に及ぶ浸水地を、「土地区画整理+かさ上げ」という方式で復興事業を進めることは、最善(もしくは次善)の政策だったのか?

 もともと、需要面で見ても、高台の土地利用ニーズは多いが、浸水地の土地利用ニーズは少なかったはずだ。

 戸羽太・陸前高田市長は「人口が減る中、もともとあった土地の数だけ整備する区画整理では、空白が出るのはある程度予想できた。」と述べている(河北新報2017年2月23日)

 同市長は、2016年3月に開催された日本自治学会のセミナーにおいて、以下のように述べておられる。

 「大きな課題だと思っていることが1つあります。・・・区画整理事業について、メディアの方からは『市長、こんなに広いかさ上げ地を造って、人が何人住むのですか』ときかれます。『無駄遣いではないか』というわけです。でも、区画整理事業はもともとあった土地の筆の数を当然保証するわけです。100筆の土地があったら、そこに人が住む、住まないという前提はなく、区画整理しても100筆の土地を造るのがルールです。でも、周りからはそれが無駄だと見えるとすれば、区画整理事業でもない、防集事業でもない、漁集事業でもない住宅復興のさせ方を、国にも考えていただかなければいけないと思うのです。」

 (戸羽太「陸前高田市の復興―この5年間を踏まえて」日本自治学会『【報告】公開セミナー 東日本大震災から5年〜いま問われる復興の課題』2016年3月16日、『立教経済学研究』第70巻第2号、2016年、p.121)


 新聞記者の方々には、市町村の首長だけではなく、国の担当大臣・担当官の談話をとっていただきたいです。(特に東京に本社のある新聞社)。



【参考(になるかどうかわかりませんが、過去のブログ記事です)】

・「陸前高田の巨大ベルトコンベア」(2014年3月22日のブログ記事)

・「陸前高田ゼミ合宿 3回生 仮設住宅で〜『巨大ベルトコンベアの運転は終了したけれど...』(2015年9月17日のブログ記事)

・「陸前高田に行ってきます」(2016年3月6日)

2017-02-22

【ご案内】龍谷大学 東日本大震災 追悼法要

 以下は、大学HPからの転載です。

++++++++++++

 2011年3月11日に発生した東日本大震災では15,893人*の方々が亡くなられ、2,556人*の方々が行方不明のままとなっておられます。また、地震と津波の被害、さらには福島第一原子力発電所事故により、震災から6年が経った現在も、約127,000人**の方々が長期の避難生活を余儀なくされ、家族や友人の死や生活基盤の喪失による心の傷、放射能による健康不安等、悲しみ苦しみを抱えながら生活をされています。震災以降にストレス等により震災関連死された方々は3,523人***にのぼり、今なお亡くなられる方がおられるのが現状です。

 本学では、これまで500名を超える学生や教職員が、復興ボランティアに参加し交流するとともに、復興イベントを実施・支援したり、臨床宗教師研修を開設し現地実習をおこなう等、被災者に寄り添った支援を続けてきました。また農学部による「食の安全・安心」への取り組みや、龍谷ソーラーパークによる再生可能エネルギーの活用を通して、持続可能な社会と地域のあり方を発信してきました。

 このたび、すべての被災者および関係者の方々に改めてお見舞いを申しあげ、一人ひとりの“復興”に寄り添うとともに、犠牲となられた方々をしのびつつ、いのち恵まれていることの不思議さ、有り難さに深く目覚め、学び、「真実を求め、真実に生き、真実を顕かにする」機縁として、次のとおり法要を勤修いたします。

(*警察庁2016.12.9発表 **復興庁2017.1.31発表 ***復興庁2017.1.16発表)


大宮学舎

 日時 2017年3月10日(金)9時00分〜9時30分

 場所 本館講堂

 法要 勤行 讃仏偈

 調声・法話 川添 泰信 宗教部長

深草学舎

 日時 2017年3月10日(金)12時00分〜13時00分

 場所 顕真館

 法要 勤行 讃仏偈

 調声 川添 泰信 宗教部長

 法話 赤松 徹眞 学長

 合唱 花は咲く

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(昨年の「合唱 花は咲く」の写真です。真ん中にいるのが私です。)

瀬田学舎

 日時 2017年3月10日(金)12時00分〜13時00分

 場所 樹心館

 法要 勤行 讃仏偈

 調声 道元 徹心 宗教部長代理

 講話 築地 達郎 社会学部准教授

 合唱 花は咲く

展示

 法要にあわせ、深草学舎および瀬田学舎において、ボランティア・NPO活動センター学生スタッフによる展示を予定しています。

+++++++++

 「お見舞い」「寄り添う」のような、いつもの、紋切り型の言葉でよいのでしょうか。

 死者を、行方不明者を、統計数字で表わすだけでよいのでしょうか。

 被災者にとって、「いのち恵まれていることの不思議さ、有り難さに深く目覚め、学」ぶとは、いったい何を意味しているのでしょうか。

 「讃仏偈(さんぶつげ、仏をほめたたえる歌)」の勤行は、どのような意味で、亡くなられた方々への「追悼」になっているのでしょうか。

 法然や親鸞が生きた時代は、鴨長明が『方丈記』に描いたような飢饉や疫病、地震や津波、戦乱のせいで大勢の方々が亡くなられた時代です。仏教で「末法の世」と呼ばれる時代です。

 もし親鸞が現代に生きていたら、なんとおっしゃるでしょうか。

 やはり、『歎異抄』で語られているように、「この世においては、どんなにかわいそうだと思っても、思うように助けることはできません」「阿弥陀様のお救いを信じて、念仏し、浄土に生まれ、すみやかに仏にならせていただき、その上で、仏の大いなる慈悲心によって、思いのままに、すべてのいのちあるものに救いの手をさしのべるのです」とおっしゃるでしょうか。

 震災からもうすぐ6年が経ちますが、いまだに行方すらわからない震災の犠牲者たちは、「浄土」に行ったのでしょうか。「仏」になったのでしょうか。「すべてのいのちあるものに救いの手をさしのべ」てくれているのでしょうか。

 何も葛藤はなかったのでしょうか。

 昨年から、私の心は、とてもざわついておりました。 (昨年の法要の様子はこちらのブログ記事をご覧ください。)


 他方で、法要の式次第には、「合唱 花は咲く」とあります。NHK復興支援ソング「花は咲く」は、生者と死者とが互いに語り合っている歌です(山形孝夫『黒い海の記憶』、こちらもご参照ください)。

 この追悼法要の内容を決定した方は、福島の被災地に何度も足を運ばれている方ですが、「『讃仏偈』と僧侶の『法話』だけでは足りない」と考えたのではないでしょうか。浄土真宗の門徒でも僧侶でもない、ただの「煩悩にまみれた凡夫」にすぎない私は、今はそんなふうに、(勝手に)前向きに考えています。 

(文責 伊達浩憲)

2017-02-20

陸前高田合宿レポート (2)

二川

 仮設住宅を訪問して、まずはじめに私が驚いたことは、おばあちゃんたちの元気さです。

 朝9時から、ラジオ体操を2回した後に「青い山脈」「東京音頭」「長生きサンバ」と連続で踊りました。

 私はついていくので精一杯です。

 おばあちゃん達の中には80歳を超えた方もいらっしゃったのに、笑顔で合いの手をしながら楽しそうに踊っていました。

 朝のこの時間は健康のためだけでなく、住民同士の交流の場でもあるのかなと思いました。


 その後、仮設住宅の集会所で、鍋の準備をする間、私はお茶やお菓子を用意してお話したり、おもてなしをする係でした。

 けれど緊張してうまく喋れない私に、A子さんやM子さん、K子さんが優しく話しかけてくれて、もてなすはずが私の方が癒されていました。

 お話しているうちに、話題は公営住宅の話になりました。

 公営住宅に引っ越した方で、集合住宅に慣れていないうえに、どの部屋も似たような外観なので、住んでいる部屋の番号が分からなくなって、迷う人がいるそうです。

 「私たちはずっと一戸建てで生活して来たから、今からアパートでは暮らせない。」

とM子さんがおっしゃっていました。

 慣れてない土地や家で、以前とは違う景色で暮らすことに戸惑いを感じている人ももちろんいて、仮設を出て公営住宅に住めばそれで元の生活に戻る、というわけではないのだと思いました。

 「道路はきれいに整備されていっているけど、まだ家が建てられかない。もう6年よ?」

 K子さんはかなり強めにおっしゃっていました。

 陸前高田の風景を見てみると、道路やBRTの待合所などはきれいに整備されています。実際、私も陸前高田に到着したときは道路が整備されていて、住宅もきれいなおうちが並んでいたので、考えていたより復興が進んでいるように思いました。

 しかし、まだプレハブの建物も多く、丘の上から陸前高田を見渡すと、更地が広がっていました。

 K子さんたちが元に住んでいた場所に帰れるのはいつになるのだろうと思ってしまいます。

 

 はじめは仮設住宅に150世帯ほど住んでいたけれど、公営住宅に引っ越す人や、新しく家を建てる人もいて、現在は50世帯ほどになっているそうです。

 確かに、仮設住宅を見ていたら扉に「空室」という張り紙がちらほらと見受けられました。

 震災前は別々のところで暮らしていた知らない人同士が、仮設住宅で知り合って、また引っ越していくことが寂しいそうです。

 そのことを聞くと、少し複雑な気持ちになりました。

 ただ、朝のラジオ体操や鍋パーティの際には、公営住宅から歩いてきてくださる方もいて、仮設住宅でできた「つながり」があるのだと思いました。



 鍋パーティのあと、1人でタブレットでゲームをしている女の子がいました。

 小学5年生のSちゃんという女の子です。

 鍋パーティの参加者には同年代の子がおらず、つまらなさそうでした。

 Sちゃんはゲームが好きだったので、一緒にポケモンの話をしたりゲームをやらせてもらったりしました。

 小学生にも関わらず落ち着いていて、どちらかというと私が遊んでもらっているような感じでした。

 最後に、Sちゃんとお母さんのY子さんから手作りのチョコをプレゼントしていただきました。

 とてもおいしかったです!


 2日目の手巻き寿司パーティでは、私はペンギンの飾り巻き係でした。

 そこで、手巻き寿司のテーブルにいた、Tくんという小学6年生の男の子に声をかけました。

 Tくんは、はじめあまり喋らず、遠慮しているような感じだったのですが、「太巻き作ったことある?」と聞くと「初めて。」と答えてくれたので、一緒に太巻きを作ろうと誘いました。

 初めて作るからか、太巻きを作っているときは楽しそうで、ちょっと変な形になったペンギンを見て「失敗。」と笑ってくれました。

 そのあと、好きな芸能人や、テレビなどたわいもない話をしました。

 やはり、少し遠慮している様子で、心から楽しませることができなかったかなと、少し後悔しています。

 集会所でおしゃべりをしていると、「いいところでしょ?高田は」と聞かれたので、私は「めっちゃいいとこです!」と答えました。

 すると、少し寂しそうな顔で、「いいところだったんだけどね、全部持っていかれちゃった。」とM子さんが言いました。

 その会話に私はなんて答えたら良いのか分からなくて、「そうですね。」と相槌しかできませんでした。

 「今もいいところよ。」とK子さんが言っていましたが、やはり少し寂しそうで、励ましあっているように思いました。

 事実としては分かっていたつもりですが、「全部もっていかれた」という言葉が心に重く響いて、その時のおばあちゃんたちみんなの表情がとても頭に残っています。


 陸前高田のおばあちゃんたちは、思っていたよりもすごくパワフルで、明るくて、本当に優しく迎えてくれました。

 でも、心の中では、想像できない悲しみを抱えているのだと思います。「悲しみに寄り添う」ということは震災を経験していない私にとって、とても難しいことでした。

 残念ながら、私たちが陸前高田に訪れたことで、復興工事が進むわけではないし、実質的な生活環境を変えられるわけでもありません。

 でも、一緒に過ごす時間が少しでも楽しいと思ってもらいたいと強く思いました。

 次回の合宿でもこの気持ちを忘れずに、「楽しむ」「楽しませる」ことができる企画をしたいです。

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2017-02-19

陸前高田合宿レポート (1)

矢木

 今回の合宿では、以前から授業での課題であった、寄り添うこと、相手の気持ちになることが目標であった。

 「今年もよかった」と思ってもらえるようなイベントにしたかった。

 震災直後から先輩方が代々作り上げてきた関わりを壊したくなかった。

 そのために、私は、できるだけ多くの人と多くの会話をした。

 そこで見えてきたのは、やはり一人ひとりの気持ちや経験が違うことである。

 震災当時私たちが手に入れた情報といえば、テレビで見る、家屋が崩れ波に流される様子、死者や行方不明者の数、そのようなものだった。

 それだけの情報で、一人ひとりに寄り添うことなんてできるはずがない。

 合宿前に、授業でDVDを見たりや被災者の話を聞いていたが、今までの「心に寄り添う」は甘かったと改めて痛感した。

 高田一中仮設の集会所は、仮設住宅に住む人たちにとって、とても重要な場所だ。

 仮設住宅は、それぞれ違う地区に住んでいた人たちが集まっている。

 それも、抽選で選ばれ、なかなか入居できなかったそうだ。

 震災前には当たり前であった日常がなくなり、周りの環境がガラッと変わる中、周りの人と踊ったり会話したりできるだろうか。

 私だったらできないような気がする。

 話をしてくださったおばあちゃんは、

 「毎日集会場に来るんだ。家にいても一人だからね。でも、そんな場所がもうすぐなくなる。」

と言った。

 高田一中仮設住宅は、平成31年度にはなくなるそうだ。

 それを聞いた時、これからの私たちのつながりはどうなるんだろうと思った。

 私は、仮設住宅に行って相手の心に寄り添い続けていくことが大切で、少しでも元気になってもらおうと思っていた。

 それができなくなってしまう。

 そのおばあちゃんは、仮設住宅がなくなることについて、

 「うれしい気持ちと寂しい気持ちとが混ざっている。」

と言っていた。

 ようやく、今の生活が「日常」になってきていたのに、またその「日常」がなくなる。

 仮設住宅がなくなり集まる場所がなくなった時、どのように寄り添っていったらよいのか。考えていかないといけない。

 「次に訪問した時にはどうあるべきか」を考えているうちに、出会った人とさらに近い存在になりたいと感じた。

 いろいろな話をしているとき、「○○がボランティアで来てくれた」と言っていた。

 私は、「ボランティア」の感覚がほとんどなかったために、違和感があった。

 私たちも含め、初めて来た人は所詮「ボランティアの人」なんだと。なぜだかわからないが、「そんな存在にはなりたくない」と思った。

 だから、次に会ったときには、私たちが「ボランティアでまた来てくれた」という感覚ではなく、友達と再会する気持ちで会えたらと思った。

 いつでも「またね」と言い合える存在になりたいと感じた。

 友達がいるという感覚を持つと、寂しい感覚は薄れるのではないかと考える。

 次に訪問したとき、名前と顔を覚えていてもらいたいな。

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 別のおばあちゃんから震災当時の話を聞いた。

 合宿3日目、ワカメしゃぶしゃぶの試食会をしている時、ふと話してくれた。

 その方は、震災前は、夫と孫と暮らしていた。

 夫の仕事の都合で全国各地を回っていて、ちょうど地元の陸前高田市に戻って定住しているところだった。

 孫はいつもの通り学校へ行っていた。

 夫が孫を迎えに行ったところに津波が来て、夫も孫も帰ってこなかった。

 「いつも通り見送って、いつも通りの生活をしていたから、なんか悔しい。心が癒えるまでに5年かかった。」

「震災から5年」。つい最近のことだ。

 いくら私たちが、元気になってもらおうと、イベントを開いても、心の奥底にある悲しみは私たちには癒せないのだと感じた。

 「孫の未来にはいくつもの道があった。でも、孫の運命は神様が決めたんだ。寿命は元から神様が決めていたんだ。そう思っていないと、いつまでも心が安定しない」

 そう言っていた。

 「仏壇はね、孫が中心で、夫は端っこなの。夫はどうでもいいから。」

と冗談を交えつつ、笑いながら話していた。

 実際には、つらい気持ちを隠そう隠そうとしていたんだと思う。

 「ごめん、鼻水が出る」

と笑いながら言っていたが、本当は、当時のことを思い出して泣いていたのだと思う。

 なんと声をかけていいかわからず、うなずくことしかできなかった。

 震災による心の傷は、私たちが想像している以上に深い。

 私が今まで経験した一番つらいことは、癒えるまでにそんなに時間はかからなかった。

 私の震災に対する認識は、ものすごく甘いものだと感じた。

 震災当時、何もできず、被災者の気持ちになって考えることもできなかった私は、もっと当時の状況を知りたい。

 共感することが大事だ。

 共感することで、被災者の気持ちも楽になると思う。

 それには、やはり、仮設住宅に向かい続けることが大切だと思う。

 震災から6年も経つと外部から訪れる人も減るだろうし、今、行くことで、「ずっと気にかけてくれている人がいる」という安心感が生まれるのではないかと思う。

 勝手な考えだが、出来る限り寄り添っていけたらと思う。

 この話を伺った方から、手編みのニット帽をいただいた。

 「家にいてもすることないから、ボランティアが教えてくれた手芸をずっと趣味にしてやっているの」。

 いただいたニット帽は、市販の物とは違う温かさがあり、ずっと大切にしていきたい。

 また次会ったとき、何かお返しできたらと思う。


 仮設住宅を訪問した後、子どもの学習支援「学びの部屋」を担っている大学3年生の方々からお話を聞いた。

 岩手県の内陸部の方に住んでいる方々だった。

 内陸部では、停電が1か月続いただけで、すぐにまた元の生活に戻ったそうだ。

 大学1年の時から被災地をサポートをする団体に所属している人もいた。

 大学1年の時、私は何をしているのだろう。

 常に支援して、被災者のことを思い続けているのは、程度は様々ではあるが、同じ経験をした人たちだ。

 話を聞いていると、私はつくづく考えが未熟だと感じた。

 支援の方法はいろいろあると思った。

 私たちは家族や家を失った人たちに目を向けがちではあるが、学校がなくなり学ぶ環境さえ奪われた子供たちのケアも必要だということは、少し考えただけでわかることである。

 私たち以外の支援している学生たちの考えをもっと聞いてみたいと思った。

 このような情報交換は、お互い重要になってくると思う。

 私はこの合宿を通して、自分の考えの甘さが浮き彫りになった気がする。

 私たちがやってきたことがただの自己満足にならないように、次の合宿では思いやりをもっと持って活動していきたいと思った。

2017-02-13

陸前高田ゼミ合宿 【13日】

 2月13日、陸前高田ゼミ合宿、無事に終了です。

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今回も、鈴木旅館さんにお世話になりました。

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 午前8時32分のBRTに乗り、陸前矢作駅を出発。陸前高田駅から高速バスで仙台へ向かいます。

【追記】21時30分、ゼミ生全員、無事にピーチで関空に到着しました。


 バスの車窓越しに撮った陸前高田の風景。(うまく撮れなくてごめんなさい)

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 震災からもうすぐ6年。

 この殺伐とした光景が、あと何年続くのでしょうか。

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 我慢の限界を超えて、もう何年も経ってしまったのではないでしょうか。

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 いったい何を作っているのか、私にはわからなくなってきました。

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 気仙大橋を渡り、気仙町の方面へ向かいます。

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 「よそ者」のほうが「変化」に敏感なはずなのですが、だんだん自信がなくなってきました。

 「愛宕山の岩盤は、かなり固いらしいのよ」。

 元・気仙町に住まわれていた方が、そうおっしゃっていました。

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 「死ぬまでに、一目でいいから、復興した気仙町の姿を見てみたいんだけんど...。もう無理かもしれないなあ」。

 今回、お世話になった方が、力なく、おっしゃっていました。

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 「奇跡の一本松」。陸前高田に暮らす人びとの目には、この写真のように見えているのではないでしょうか。

(文責 伊達浩憲)