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Making of Ryukoku-cha

2017-08-26

傾斜地茶園と「山津波」ノート

 下記のブログ記事は、もともと2015年8月24日「滋賀県茶業史ノート」に書いていたものですが、近年、豪雨災害が全国各地で頻発しており、「山津波」が心配になったので、再掲いたします。今回、九州豪雨災害を契機に勉強し直し、かなり書き足し改訂しています。

※※※※※※※※

「生業の景観」としての傾斜地茶園?

 「夏も近づく....」の茶摘み歌の「風物詩」的イメージからなのか、「美しい緑色」だからなのか(近年は抹茶ブームで茶の樹は黒い寒冷紗に覆われていますが)、それとも「健康に良い」飲料だからなのかはわかりませんが、茶園の景観は「自然と人間との共存・共生」の景観であるかのような印象を持たれることが多いです。

 茶の栽培が土壌保全の役割を果たす場合ももちろんありますが、他方で、森林伐採や茶園の造成が大規模におこなわれ、土地を人間仕様に大きく改造してしまうと、土砂災害につながる場合もあります。1953年8月「南山城水害」(滋賀県側では「多羅尾豪雨」と呼称)や1986年7月豪雨がその典型的な事例です。

(注)「里山」の景観も、「自然と人間との共存・共生」を示す景観かのように語られていますが、注意が必要です。水本邦彦氏は、近世の里山について、以下のような問題提起をされています。「伝統的な草肥農業を継承し発展させた近世農業においては、肥料源としての大量の草や柴を必要とした。そのため人々は、山焼きや樹木伐採などを通じて山野に対して草・柴状態を強制していたのである。『自然にやさしい循環型社会』の象徴とも見られる近世の里山は、じつは人間の生業と自然の遷移との厳しいせめぎ合いの場であり、その景観は自然を人間仕様に改造した状態だった」水本邦彦『村―百姓たちの近世』岩波新書、2015年、pp.144-145.


観光資源化される傾斜地茶園の景観

 下のポスター画像は、京都府和束町の傾斜地に「山なり開墾」された茶畑です。

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(出所) 京都府のHP

 この茶畑を含む京都山城地域のお茶づくり文化のストーリー「日本茶800年の歴史散歩〜京都・山城」が、2015年、文化庁「日本遺産」に認定されました。「日本遺産」とは、文化庁が、地域の文化財群の「パッケージ化されたストーリー」「◯◯物語」を「認定」する事業です。文化財を「活用」した「◯◯をめぐる旅」を支援し地域活性化をはかる観光振興政策、文化庁版・地方創生策のようです。

 京都府庁が作成した「日本遺産」申請書の中には、「宇治茶の近代景観」と題して、下記のような記述があります。

 「20 世紀以降、より大量の茶葉を生産するため、農家近くの山腹だけでなく、山頂まで『山なり開墾』されるようになり、天まで届くかのような独特の美しい横畝模様茶畑景観が和束町『石寺』『撰原』『原山』などに広がった。

 また、高山ダムの建設により山の中腹以上に茶園を移した南山城村『田山』『高尾』では気候を考慮し、山頂から中腹にかけ天から落ち込むような珍しい縦畝模様の茶畑が広がり、その中に茶農家が点在する独特の景観を形作っている。」

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「天まで届くかのような独特の美しい横畝模様の茶畑景観」

 和束町の傾斜地茶園(山なり開墾茶園)を航空写真で鳥瞰してみます。

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(出所) Yahoo Japan 地図

※ここでは問題にしませんが、私自身が「傾斜地茶園を世界遺産・日本遺産に」の運動に強い違和感を抱くようになった発端は、高度成長期に実施された、土地の自然条件を大きく改造してしまう「改良山成畑工」までもが「美しい景観」とされていることにあります。「改良山成畑工」とは、「現況が山あり谷ありの複雑な地形の山の頂部や斜面を切り崩し、谷部を埋めるなどの切盛土工によって地形を修正」する工法です(『茶大百科』供農文協、2008年、117頁)。人間の「生業の景観」であることには間違いないのですが....。

 南山城村 高尾地区について。下の写真は、京都府教育委員会『高山ダム水没地区調査報告書−民俗・民家−』(1966年)に掲載されている昭和30年代の南山城村の高尾地区の写真です。

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 茶園の下には水田がありますね。

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 茶園と屋根葺き用の萱。上の写真のように、萱を束ねておき、乾燥させてから刈り取られます。

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 茶園には、下草が敷込まれています。「茶の香をよくする」(同上、12頁)ためだと書かれています。

 

 

 「生業の景観」と呼ばれる《人間の活動によって人間仕様に造られた二次的自然の空間》。それは、自然にとって、そして人間や社会にとって、何を意味しているのでしょうか。

 「美しい緑色」「(畝が造り出す)美しい幾何学模様」「自然との共存」などの「観光客のまなざし」を批判的に捉えながら(印象論=主観的評価を批判的に捉えながら)、人間・社会と二次的自然との相互作用を歴史的に分析していきたいと思います。

 「ニ次的自然」から人間・社会への反作用の最たるものは、多くの生命を奪いとる大規模災害です。「二次的自然」が、被害を拡大させ、人間の命を奪う要因になる場合があります。

 また、近年は、全国の茶産地では、後継者問題等が原因で、茶農家さんの数が減少しています。下の表のように、京都府南部地域でも同様です。その結果、維持・管理がされなくなった耕作放棄茶園や荒廃茶園が増えてきており、問題視されるようになってきました。災害対策の観点から見ても、とても心配です。

宇治茶の産地で進行する廃業・耕作放棄

 表 京都府南部の茶生産農家戸数(戸)

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(出所) 京都府茶業統計より作成。

 宇治茶の主力産地 上位3町村の茶生産農家戸数の合計値を見ると、10年前の2006年に1,107あった戸数は2016年には484まで減少しました。10年間に半分以下になりました。

 町村ごとに見ると、和束町は385戸(2006年)が292戸(2016年)に、南山城村は149戸が77戸と半減、宇治田原町では573戸が115戸と、5分の1に急減してしまいました。

 《人間の活動によって人間仕様に造られた二次的自然の空間》=傾斜地茶園を誰がどのように管理してくいくのか。人間によって維持・管理されなくなった二次的自然の空間。これが今日の大問題だと思います。

 「傾斜地茶園は美しい生業の景観、自然との共存・共生の証であり、地域の観光資源である」といった、傾斜地茶園の正の外部効果(プラスの副産物)の視点からの「(人間中心の)物語」を描く観光振興「戦略」が大流行りです。

 しかし、それとは全く別の視点、すなわち傾斜地茶園の負の外部効果(マイナスの副産物)という視点から、早急に対策を講ずる必要があると思います。

 加えて、経済学の観点から傾斜地茶園やその環境再生の問題を捉えていく場合には、外部性の原理だけでなく、機会費用の原理からも検証される必要があるでしょう。

 なぜならば、今日の傾斜地茶園の多くは、高度成長期以降、政府の農業政策の一環として、森林を伐採して造成されたからです。

 機会費用の原理について、より一般的に、山間地の水田の多面的機能(および中山間地等直接支払制度)の例で説明します。標準的な経済学では、下記のように考えます。

 「・・・政策決定にとって有用であるためには、山地の水田をたとえば・・・照葉樹林にもどしたとき、どれだけの保水が期待され、そのための費用はどれほどであるかについての試算がともなわなければならない。保水だけでなく水田は、渡り鳥や蛍など多様な動植物を育んでいるのは間違いなかろう。だが自然にもっとも適した植生である照葉樹林※としたとき、どのような生命の多様性(biodiversity)が再生するのか、その価値は失われる価値と比べてどれほどのものか、こうした機会費用との比較検討なしに、外部効果の大きさのみを列挙するのは、科学的な政策論とは言いがたい。」(速水佑次郎・神門善久『農業経済論(新版)』岩波書店、2002年、p.292)

(注) 経済学には、もう一つ「過渡的調整の原理」があり、下記のように説明されます。「外部効果に比べて機会費用が大きすぎると判断される場合はすべて補助を与えるべきではないということにはならない。ある地域の水田を森林に戻したとき、そこで失われる雇用機会は代替機会の提供がなければ過疎化に拍車をかけ、コミュニティの崩壊を招くかもしれない。そのスピードが速ければ、地域に残留する住民にとって耐えがたいほどの精神的苦痛をもたらしかねない。たとえこの地域のコミュニティは長期的には維持しえないとしても、過疎化の速度を住民が経済的にも、社会的にも、精神的にも適応するように調整する必要が起こりうる。このような場合、不利な条件下にある米生産から撤退していく人々に一定の過渡的期間について援助することは社会保障政策の一環として妥当な施策といえよう。」(同上書、pp.292-293)

(注)「自然にもっとも適した植生である照葉樹林」という言葉に否定的な反応される方は、よりポピュラーに「雑木林」とお考えください。

 私自身も、農業の多面的機能の議論において、正の外部効果だけを前面に押し出して農業保護の必要性を訴える政策論議は、バイアスがかかった議論だと考えています。

 とりわけ大規模な傾斜地茶園の場合には、後に示すように、一つには防災上の問題点(負の外部効果)が存在しており、またもう一つは、今日の傾斜地茶園の多くが、高度成長期以降の、政府の農業政策の一環として、多額の税金を投入して、雑木林を伐採して造成された(森林の外部効果を失わせる)のですから、なおさら、機会費用の観点から、慎重な検証と議論が必要です。

 下の表は、2001年に発表された日本学術会議「地球環境・人間生活にかかわる農業及び森林の多面的な機能の評価について(答申)」(委員長 祖田修氏)の中に掲載されている、農業および森林の多面的機能の概略表です。

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 この表のように、「農業の多面的機能」と「森林の多面的機能」とは、理論的には別々に考えることができるでしょうが、実際の場面では、「農業活動によって、森林の多面的機能が失われる」ケースが多々あります。例えば、雑木林を伐採して大規模な傾斜地茶園を造成するケースでは、「森林の多面的機能」が失われる、と考えることができます。

 下の表は、同答申に掲載されている農業および森林の多面的機能の貨幣的評価です。

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 代替財をダムなどの「人工物」として、農業・森林の多面的価値の貨幣評価(代替財の現在価値を算出)を行っている点が、従来の農業・森林の多面的機能に関する政策論の特徴です。

 正と負の両面から外部効果をとらえる観点、そして機会費用の観点から農業・森林の多面的価値を総合的に捉える試みが必要だと考えます。


傾斜地茶園の危険性−1953年の南山城水害

 昭和28(1953)年の南山城水害の教訓を重く受けとめて、傾斜地茶園がもたらす負の外部効果について研究を進めていきたいと思います。

 昭和28年(1953年)、8月14日から16日にかけて近畿北部に停滞していた寒冷前線が原因で、京都府南部から滋賀県南部さらに三重県西部にかけての地域が雷を伴った激しい豪雨に見舞われました。相楽、綴喜地方では、特に8月15日午前1時から午前5時以降まで激しく降り、和束町湯船地域では総雨量428mm、時間雨量100mmに達するなど、正に記録的な大雨となりました。

 この大雨により、相楽郡では洪水や土石流の発生や堤防の決壊が起こり、綴喜郡井手町では大正池の堤防が決壊するなどの被害が発生し、相楽、綴喜地方で死者と行方不明者336名、重傷者1,366名、被災家屋5676戸、被害総額150億円(当時)の大災害となりました。

  この災害の特徴は、山地崩壊や土砂流出によって引き起こされた土砂災害であることです。後の調査結果によると、崩壊箇所6551箇所、崩壊土砂量は10トントラック30万台分に相当する227万立方メートル、流出土砂量140万立方メートルにも及びました。

  南山城地域は、風化した花崗岩地域であり、もともと崩壊や流出を起こしやすく、さらに被害河川には天井川が多く、短時間で増水したことも被害を拡大させた要因です。さらに、当時の社会的背景として、戦後の食糧不足を補うための開墾や燃料資源の採取等によって、山地荒廃が著しかったことがあげられます。

 (出所)京都府山城広域振興局・森づくり推進室「山城の災害記録(昭和28年)

 「開墾や燃料資源の採取」による「山地荒廃」。そして「山地荒廃」を「荒廃」と意識せず、「山地荒廃」を危険視しないような《二次的自然に対する人間・社会の認識》。その認識を形成する経済的・社会的な要因。これが問題です。


 『南山城水害誌』より和束町・南山城村・宇治田原町に関する記述を抜粋します。

【和束町】

 「和束川流域に位置し、現在は和束町をつくる上流から挙げて旧湯船村、旧東和束村、旧中和束村、西和束村の一帯では、山腹崩壊がはげしかったために山津波が多発し、各地で集落が襲われた。和束川にかかる大小96の橋梁の全てが流出したということからも想像されるように、災害はきわめて悲劇的な状況を呈した。

 まず最上流域にあたり、最高降水量が428mmにも達したとされる旧湯船村では、死傷者こそ少なかったが、一時はまったく孤立し、被害状況も判明せず、16日の午後になって米軍のヘリコプターによって連絡がついたものの、その後もしばらくはヘリコプターによる食糧投下が続けられた。

 地元の消防団員による第1報は、下流域へは行けないので、徒歩で山を越え、滋賀県側の旧朝宮村宮尻にやっとたどりついて、ようやく伝えられるという状況であった。

 犠牲者6名を出した旧東和束村も同様で、しばらくは他と連絡がとれず、『全村埋没したものとみられる』という新聞記事が出たほどである。

 和束川流域の中で、最も惨憺たる状況を呈したのは、旧中和束村である。当時戸数600戸のうち112戸の家屋が倒壊・流失し、行方不明者数・死者数は101名に及び、しかもそのうち15日に死体が見つかったのは、たった1名というありさまであった。

 なかでも、和束川べりで商店街をつくる釜塚・河原地区は特にひどく、和束川が氾濫したうえ、背後山地の砂防堰堤2か所(長さ150mと70m)が決壊し、前方と後方とから激流に挟まれるに至った。こうして午前3時10分ころのわずか3分間で、家も人も押し流されたという。

 このほか、石寺地区はほとんど跡形が無いほどとなり、また杣田地区も荒野と化してしまった。釜塚地区に位置していた役場が全壊したので、しばらくは行政機能のマヒが続いた。

 当時の和田村長談によると、昭和27年7月のヘスター台風の時でさえ、床上浸水1尺ほどであったから、少々の雨でも大丈夫だろうという安心感があった。そのため午前3時と3時20分との2回にわたる避難サイレンにもかかわらず、住民は避難しなかった(毎日新聞16日夕刊)という。ただし、異常な豪雨と和束川の激流音との中で、どれほどの範囲にサイレンが聞きとれたかを、検討しなくてはならないだろう。」

【南山城村】

 「東方の旧大河原村では、野殿地区の被害がとくにひどかった。

 田増大河原駅長談によると、豪雨中夜廻りに出た村人が、村の中央部に山奥から惹かれた暗渠の流れが急におとろえはじめたのに気づき、不審に思い、村人を集めようとした矢先、ゴォーというこの世のものとは思えないものすごい山鳴りをともなった鉄砲水に襲われ、あっという間に駅舎は流され、帯状に広がる同村は横なめにされた。さらに、もう一か所の崩壊と合わせて、一瞬のうちに全壊14戸、半壊28戸、浸水43戸、死者・行方不明者47名を出した(京都新聞16日朝刊」という。

 さらに、押原地区では、幅5メートルであった小川が、一夜明けると80メートルの大河と化しており、巨石はもとより大小さまざまの石の河原となり、石原の下には6戸の民家が埋没した(朝日新聞18日朝刊)。

 ・・・

 山間部に位置し、孤立した童仙房集落へは、20日になっても伊丹海兵隊の飛行機で食糧を投下しなければならない状態であった。

 山間に散在する集落が多い旧宇治田原村では、随所で山腹崩壊にともなう山津波に襲われ、河川は決壊して、犠牲者18名、全壊・流出家屋24戸を出した。また、茶どころだけに茶畑の被害が大きかった

【宇治田原町】

 ・・・(15日)午後3時ころからの約4時間は、山崩れと雨の音とで、耳がつんざかれるような状態が続き、湯屋谷奥山田で被害が続出した。『水による被害よりも山崩れと、上方から落下してくる木材のために多くの家屋がやられてしまった』(村会議員の葛川氏談、朝日新聞16日刊)という。なお、奥山田では、山崩れで一家8名が生埋めになっている。

 犬打川・田原川・禅定寺川などの村内を流れるほとんどの河川が破堤・氾濫したため、田畑・土木施設関係の被害は甚大で、『水害による羅災者は実に村人口の8割に達した』(京都綴喜地方事務所)ということである。

 旧田原村では、犠牲者8名、全壊・流出家屋28戸を出し、とくに茶畑の被害が大きかった。」

(出所) 井出町史編集委員会・南山城水害30周年記念誌編集委員会『南山城水害誌』(谷岡武雄 監修・編集、池田 硯 執筆、1983年)、pp.55-56.


相楽郡の町村別被害状況

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(出所) 井出町史編集委員会・南山城水害30周年記念誌編集委員会『南山城水害誌』(谷岡武雄 監修・編集、池田 硯 執筆、1983年)、pp.61-62.


近畿地区各大学連合水害科学調査団『南山城の水害』,1954年

 1953年の南山城水害に関する包括的かつ大規模な調査報告です。

 ・「南山城における、今次災害の特徴の一つは土石流である。土石流は、とくに花崗岩地帯におおくおこり、洪積層分布地がこれにつぐ。」(15頁)

 ・「調査地域にみられる植生と山くずれとの関係についての記録にとどめ、問題を将来に発展させたいと思う。

 (イ)花崗岩地帯 湯船村役場より上流は花崗岩類の山地で、マツの林が大部をしめ、小さな谷の沢地にわずかに、スギ・ヒノキの植林がみられる。この地帯は、伐採が甚だしく、7割が戦時・戦後、とくに新制中学造営のために伐られたといわれるが、川すじから展望すると、ほとんど9割まで伐られ、一面に熊手でかいたように花崗岩の白い風化面が見られる。ところどころに残された、ヒメヤシヤブシの砂防林のところでは、小規模な山くずれを防いでいる。ここでは森林の伐採はあきらかに、土砂の流出、山くずれを促進させている。

 ・・・

 (ホ) ・・・植物の種類と山くずれとの関係を考えてみたい。・・・i)茶 茶畑がくずれた例は、ところどころにみられるが、これは、茶畑の上からの土砂流によって二次的にくずれたものがおおい。新しく開拓された20°以上の傾斜地の茶畑は、流水による浸蝕が強く、山くずれをおこしている。一般の茶畑は15°以下のゆるい斜面におおいこと、段々畑になっているために、浸蝕がはげしい山くずれはおこらない。また茶には深根性であることも、くずれない原因の一つである。」

 近畿地区各大学連合水害科学調査団『南山城の水害』は、現在では入手がかなり困難なので、その調査結果の一部が掲載されている下記の谷論文を参照してください。

谷 勲「(報文)山地の荒廃と土砂の生産・流出(4)―有田川流域, 南山城地域の災害―」『新砂防』96号(『砂防学会誌』Vol.28 [1975-1976], No.1)、1975年、pp.30-39.

 谷氏は、建設省河川局砂防部長だった方です。南山城地域の地質と崩壊状況との関係を図示したものは、同論文36頁の「図−(9).1 南山城地域の地質(南山城の水害)」に掲載されています。また、崩壊状況の詳細については、38頁の「図−(9).4 南山城地区和束川流域崩壊状況」に掲載されています。ご参照ください。


和束町の崩落地分布と山林伐採・茶園との関係

・小池洋一「水害の地域的研究−南山城について」(『人文地理』6巻4号、264-278頁、1954年)の問題提起

 図 湯谷山付近の崩壊地分布

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 図 湯谷山付近の茶園と伐採跡地

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 「湯谷山付近の崩壊地分布」の図と「湯谷山付近の茶園と伐採跡地」の図とを重ね合わせると、何が言えるでしょうか。

 小池氏の論文は次のように指摘しています。

 「地表被覆図と崩壊地分布図とを重ねてみると、湯谷山西斜面に崩壊頻度が高いことが、伐採跡地や新植茶園(開墾地)が多く、そこに発生した崩壊が加わっている為と考える蓋然性が強く現れてくる。東斜面 に於ても、その関係が見られる。実際に他の地域においても伐採跡地や茶園の崩壊が多く見うけられた。」(269頁)

 両者の「因果関係」については、私自身には専門知識はありません。しかし、「相関関係」はあると言えそうです。



 下の図は、和束町の湯谷山付近の茶園(∴)の記号がある地点に赤色のマーカーを置いてみたものです。

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(出所) 国土地理院の電子国土WEBより作成

今日でも、湯谷山周辺の傾斜地には、多くの茶園が存在しています。



和束町洪水・土砂災害ハザードマップ(一部抜粋)

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(出所)和束町洪水・土砂災害ハザードマップより抜粋

 下の図は、茶園(∴)に赤色のマーカーを置いてみたものです。

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(出所) 国土地理院の電子国土WEBより作成


 和束町の茶園の分布の色別標高図で見ると、下のようになります。

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(出所)国土地理院の電子国土Webより作成



新たに発見された1953年「南山城水害」直後の航空写真

・鈴木 雅一「1953年8月『南山城災害』斜面崩壊地の航空写真についての研究」砂防学会誌、Vol.59 (2006-2007) No.4 2006年、pp.43-47.

 新たに発見された航空写真は、上記論文の44頁と45頁に掲載されており、南山城水害発生直後の「樹枝状の崩壊地」の状態を見てとることができます。京都府和束町と滋賀県信楽町との境界地域のものです。

 「同地域は風化花崗岩の地質であり、風化花崗岩地域で表層崩壊が多発した事例の典型的形状である樹枝状の崩壊地が多数生じていることが示されている。また表層崩壊発生の頻度は、写真下半分の京都府和東川流域と上側の滋賀県信楽町の区域で異なり、和束川流域ではほとんどの0次谷で表層崩壊の発生が見られる。図-3の範囲において府県境を境に地形、地質に差異はない一方で、航空写真より和束川流域の植生は森林伐採からあまり年数が経過していない植生であることが示され、この発生頻度の差異は、『植生が貧弱なところで表層崩壊発生が多い』という植生状況との対応が指摘できる。」(45頁)

 和束川流域の「植生は森林伐採からあまり年数が経過していない植生」であり、「植生が貧弱なところで表層崩壊発生が多い」ことが指摘されています。


戦後「基本法農政」(農業基盤整備などの事業)によって造りだされた傾斜地茶園

・青野英也・簗瀬好充・田中静夫「傾斜地茶園造成の実態とその環境保全的解析」日本茶業技術協会『茶業研究』報告第45号、1977年

 この論文は、傾斜地茶園の造成が地域の環境に及ぼす影響を把握するため、全国の茶産地の27府県を対象に、1965年(昭和40)〜1973年(昭和48年)にかけて造成された茶園について、その造成方法、造成上およびその後の栽培上の問題点、さらには造成茶園と地域環境との関係を、現地調査およびアンケート調査し集約したものです。

 表 造成茶園面積と傾斜地茶園面積 (1965年〜1973年)

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(出所)青野英也・簗瀬好充・田中静夫「傾斜地茶園造成の実態とその環境保全的解析」日本茶業技術協会『茶業研究』報告第45号、1977年、p.18.青野氏らは農林省茶業試験場の研究者です。

 表 地域別に見た茶園造成と原植生

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(出所) 同上論文

 青野氏らの論文の知見は下記のとおりです。

 1. 昭和40〜48年の間、わが国においては毎年1,000haを越す茶園が造成されたが、その60%は傾斜地で、1ほ場10haを越す大規模ほ場もかなり造成されたが、造成面積の90%は、1ha以下の零細ほ場であった。

 またこれらのほ場は、雑木林から茶園への転換が多く、その造成工法は斜面畑造成が最も多かった。さらにこれらのほ場は、標高200〜300mの比較的高いところに多く、傾斜度は5〜10°、傾斜面では南面が最も多かったが、規模ほ場では二方面以上の斜面方向をもっているほ場も、かなりみられた。

 2. 全国の傾斜地造成茶園のなかから、1ha以上の造成ほ場106ヵ所を選んで調査した結果、これらのほ場は平均標高約300mの地点で、約10haのほ場が多くは補助事業によって造成され、その多くは雑木林を伐採し、10a当たり約23万円の経費で、1戸当たりの栽培面積は約50aとなっている。

 またこれらのほ場は、斜面畑が比較的多く、ほ場区画は不整であるが、1区画20aを越すほ場もある。・・・排水系統については明、暗きょを中心に、一応の配置はされているが、地形改造斜面畑の埋土部等重要な部分についての排水計画はずさんである。・・・

 3. こうした大規模造成地における土壌保全対策については、園内表層土の流亡に対してはマルチ等の対策が、かなり十分とられているが、法面は不十分で、地形改造斜面畑の埋土部とともに、土砂崩壊しやすかった

 ・・・

 4. こうした茶園造成による周囲の環境への影響は,プラス面とマイナス面が指摘されている。すなわちプラス面については、このほ場造成により経営規模が拡大され、かつ農道の整備等により、省力栽培が可能になると同時に、付近の農業労働の環境をも著しく向上したことなど、地域の環境整備に貢献していることを、多くの地域で認めている。

 一方マイナス面についても数多くの指摘があったが、特に造成工法の不備、排水計画の不徹底からくる土地崩壊が、単なるほ場内だけの問題でなく、道路や田畑の埋没など、災害的な事故を起こした例がみられた

 また災害とはいえないまでも、土壌侵食や泥水の流出による河川の汚濁、およびそれが淡水魚類に及ぼす影響なども指摘され、土地、土壌の保全対策が、この場合最も重要であることが判明した。

(出所)青野英也・簗瀬好充・田中静夫「傾斜地茶園造成の実態とその環境保全的解析」日本茶業技術協会『茶業研究』報告第45号、1977年


表 京都府山城地域の茶園の地形別面積(2016年度)

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(注)「平坦地」は5度未満、「緩傾斜地」は5度以上15度未満、「急傾斜地」は15度以上

(出所) 平成28年度京都府茶業統計

 上の表に示すように、宇治茶の主力産地である和束町・南山城村・宇治田原町の茶栽培面積1,163haのうち218ha、約19%が急傾斜地にあります。


南山城村の傾斜地茶園の沿革

 「昭和43〜46年(1968〜71)の小規模特産園地開発事業での約21ヘクタールを嚆矢に、同48〜51年(1973〜76)の第2次農業構造改善事業で約38ヘクタール、同74〜58年(1974〜83)に団体営農地開発事業で23ヘクタール、同55〜58年(1980〜83)の農村基盤総合整備事業で約9ヘクタールと連続して国庫補助事業が実施され、主に山間部の傾斜面地の開拓が行われた。

 この造成事業によって、山頂から谷裾までの緩急斜面一面に広がる新たな集団茶園の景観が村内各所に広がり、動力式バリカンや、乗用型の茶園管理機(摘採機)が稼働できる畝間の広い茶木の植樹方法が拡大し、晩霜害を防ぎ機械の移動がより効率的になる、斜面に対して縦方向に茶木が植樹される縦畝景観の茶畑が増大した。」京都府教育委員会『京都の文化財』第33集、平成27年、p.33。

滋賀県における茶の栽培面積と荒茶生産量

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(出所) 農林水産省「作物統計」

 上の図に示すように、滋賀県において、茶の栽培面積は、1965年から1975年の10年間に約400ヘクタール拡大します。

 滋賀県の最大の茶産地は甲賀市で、信楽町朝宮地域を主とする山間地域と、土山・水口を主とする平地・丘陵地域とに分かれていますが、どちらの産地においても高度成長期の農業構造改善事業や開拓パイロット事業によって大規模茶園が造成されました。『甲賀市史』より抜粋します。

大規模茶園の造成

 「従来の茶園は、集落周辺の斜面などに作られた小規模なものが多く、収量にも限りがあった。

 これを打開するために朝宮地区では、昭和15(1940)年から上朝宮所有の向山松林を区民総出で開墾し茶園の造成を行った。開墾は戦時中一時中断したが、21年に完成し、区民の隣組共同茶園として管理された(『朝宮茶30年のあゆみ』)。

 戦後は茶園の復活が進められたが、昭和30年代後半には農業経営規模を拡大し、農業構造の改善・農業経営の近代化を目的として、昭和37年から農業構造改善事業と開拓パイロット事業が実施され、大規模な茶園造成や環境基盤整備が行われた。

 甲賀市域では、農業構造改善事業として

 ・水口町和野に昭和37年から39年にわたり11.4ヘクタール、

 ・甲南町柑子・野川には38年から40年に12.0ヘクタール、

 ・信楽町宮尻には41年から43年にかけて14.7ヘクタール

 ・水口町今郷には42年から44年に10.5ヘクタール、

 ・土山町山女原に47年に8ヘクタール

の茶園が造成された。

 一方、開拓パイロット事業では、

 ・信楽町上朝宮に昭和37年に36.8ヘクタール、38年に同町下朝宮に14.97ヘクタール、柞原に11.4ヘクタール、

 ・土山町頓宮に40年から45年まで83.0ヘクタール、

 ・水口町今郷に42年に10.5ヘクタール、同町虫生野に昭和44年から49年にかけて56.03ヘクタール、同町伴中山には45年から48年に18ヘクタール

の茶園が造成された。

 また、農用地開発事業などで甲賀町神地区に昭和48年から49年にかけて16.3ヘクタールの茶園造成が行われた(『茶業要覧』平成5年3月)。

 これらの事業により、昭和50年の甲賀市域の茶園面積は983ヘクタール(県内1320ヘクタール)、荒茶の生産量は1618トンと大きく増加した。」(『甲賀市史』第4巻、2015年、pp.562-563)


1986年7月豪雨と京都府南部の茶園被害

 1986年7月豪雨の際にも、和束町・南山城村など京都府南部地域の傾斜地茶園に大きな被害が発生しました。

・藤井孝夫・鳥井清孝「資料 1986年7月豪雨による京都府南部の茶園被害とその対策の実態」『茶業研究報告』Vol.1988,No.67,1988年、pp.29-43.

 「1986年7月、京都府南部一帯は局地的な豪雨に見舞われ、山崩れ、家屋の浸水、道路や鉄道の破損等、数多くの被害を被った。農地でも被害は大きく、とりわけ山間部傾斜地に分布する茶園では、土壌の崩壊や浸食による崩壊、あるいはその土砂の流入による埋没等多くの被害が発生した。このように大規模な豪雨災害は、近年まれにみるもので、当地域では1953年8月に発生した南山城水害以来の激災であった。」

 この資料論文は、京都府茶業研究所が、豪雨災害の防止を念頭においた傾斜地での茶園造成のあり方や、傾斜地茶園における防災上の留意点を検討することを目的に行った、豪雨で被災した茶園の立地条件・管理状況の調査結果です。

 これによれば、茶園の土砂崩壊面積は、和束町が24.8ha、南山城村が9.4ha、加茂町が2.3ha、南部地域合計が42.3haとなっています(p.31)。山間部の茶園に被害が集中し、平坦地あるいは緩傾斜地の茶園の被害は皆無でした(p.33)。

 図 1986年7月豪雨の際の茶園被害と林地被害の分布

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(注)図の斜線部分は茶園被害を、縦線部分は林地被害を示す。

(出所) 同上論文、p.31.



滋賀県甲賀郡 朝宮地区の茶園

 滋賀県甲賀郡の朝宮地区(旧信楽町)にも大規模に造成された傾斜地茶園が存在します。

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(注)赤色のマーカーは、京都府和束町の茶園、緑色は滋賀県甲賀市朝宮地区の茶園を示しています。

(出所) 国土地理院の電子国土webより作成。

航空写真で見ると、下記のようになります。茶園の両脇はゴルフ場です。

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滋賀県・甲賀市による「1953年8月 多羅尾豪雨」の記録(こちら)


戦後日本の自然災害による死者・行方不明者数

 下の図は、1945年〜2011年の自然災害による死者・行方不明者数の推移です。1950年代においては災害が頻発していましたが、その後、1960年代の高度成長期の中で、日本人が災害を忘れてしまったことを示しているのではないでしょうか。

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(出所)『防災白書』より作成.

 宇治茶を「世界遺産」や「日本遺産」にして農業・農村の観光資源化を進める前に、人命にかかわる防災対策を緊急に考える必要があるのではないでしょうか。

 従来の「砂防」で十分だと考えられているのでしょうか。

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