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粒々塾

2018-07-10 第78回粒々塾講義録

第78回粒々塾講義録

今回の塾の冒頭、塾長は二人の学生の投稿記事を紹介してくださった。

一人は16歳の高校生。
数年前に海外旅行に行った時のこと。当時は、スマートフォンも今ほど普及しておらず、旅の間は現地の人とのコミュニケーションを楽しみつつ、いろんな情報を得ることができた。しかし、現在は困ったら何でもスマートフォンで調べることができてしまう。何気なく交わしていた現地の人との会話が恋しくなったそう。自分たちの生活は、便利になった代わりに大切なことを奪われてはいないか、という記事だ。

もう一人は20歳の大学生。
SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)についているブロック機能について。
都合の悪い相手とSNS上で二度と連絡を取りたくない時など、ブロック機能を使うと、気まずい思いをすることなく、静かに縁を切れるという。これが、「付き合う人を選べる」という傲慢な感覚を人々に根付かせていると思う。伝えたかった思いは、自分の中で反芻するのではなく、きちんと相手に伝えるべきではないか、という記事。

この記事に今日の講義の問題提起と答えが詰まっている。

*映像栄えて文字滅ぶ
スマートフォンによる撮影が、誰でも簡単にできることから、ニュースに流れる映像も、「視聴者提供」によるものも多く見られる。
インスタグラムが流行り、文字で伝えるコミュニケーションは短くなり、映像の交換が主になってきている。
スピードが求められる現代、言葉で伝えるよりも、映像で自己表現。映像を見た方が一目瞭然だ。しかし、これでは考えるという作業が欠落し、文字や言葉が、日本語が、劣化の一途をたどってしまう。日本語が衰退していく悲しさ、さみしさ。これは問題だと思う。


教育現場でも、スマートフォン
保護者の間での連絡もライン。スマートフォンを介して「会話のようなもの」がされているが、それでは人間の生のコミュニケーションを失っていく。議論とは言わないが、対話が人間の生活には不可欠。

スマホには、生活に必要なもの、いや、必要以上の機能が満載されている。(買い物、銀行、電車の予約など)
悪いことではないが、良い面と悪い面がある。スマートフォンの中には、天使と悪魔が同居している。それを人間が使いこなせていない。
人は、非常に便利な機械を手に入れて、「スマホ文明」を開化させてしまった。そこに商業が入ってくる。(例:メルカリ、こどもの喜びそうなゲーム)
ユーチューバーなる職業も出てきた。ネットフリックス(動画配信サービス)などだ。

小津 安二郎の言葉にこんなものがある。
「 何でもないことは流行に従う
重大なことは道徳に従う
芸術のことは自分に従う 」

塾長曰く、小津さんの言葉を借りるならば、SNSを 敢えて「何でもないこと」と捉えるなら、流行に従うようにしようかな、排斥しないようにしようかな。なぜなら、それが現に今存在して、日本人の生活に定着した文化になってしまっているから、それをいくらあらがっても、今の時代を見る目を曇らせてしまうかなとも思う。小津さんの言葉を現代の生き方として受け入れるしかない。

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SNSにみる3つの社会現象

? 情報発信ツールとしてのSNS
  トランプ政権がその例。ツイッターで直接発信、世界はその140文字に翻弄されている。

デマも含めてあっという間に拡散される。SNSの怖さだ。
既存のジャーナリズムには真実はなく、ネットの中には真実があると言う人がいる。
しかし、デマが生まれ拡散されるのはSNSによるものだ。
それを果たして、ジャーナリズムと言えるのか?
結局は、自分たちの不満のはけ口。今の時代、大なり小なり、みんな不満とかストレスを抱いている。どうやってそれをぶちまけるかによって満足感を得ている。その表現ツールとして、SNSが発展したのではないだろうか。

? コミュニケーションツールとしてのSNS
SNSでつながる」とは、本当に繋がっているのか。本当にSNSコミュニケーションを取れているのだろうか。例えば、就職試験において、企業が求めるのは、SNS能力に長けている人ではなく、あらゆる仕事にきちんと報告できる表現能力を求めている。
  短い文章で思いを伝えることはできても、論理的にものを書くことが出来ない人は求められていない。書く能力は、論理的に筋道をたてて、物を考える力と重なる。

コミュニケーションに革命が起きたのは、1990年代半ば、つまり携帯電話とパソコンが発展してきた時代。バブルの絶頂期と重なっていた。あの時代は若者も物理的には豊かだった。ITが進化しスマートフォンの時代になった今、当時をうらやましがる若者はいない。スマートフォンもない時代=石器時代には行きたくないという。高級車がなくても、美味しいものがなくても、スマートフォンでつながっていれば良いという。

? 写真機能としてのスマートフォンのせいで…
スマートフォンのおかげで、誰でも簡単に発信できるような時代になった。そのせいで、自分が巨大な力を持ったような幻想を持ってしまう。(自己顕示欲の強い)攻撃力の高い人たちは、スマホを通じて何かを発信する。周りが同調や誹謗によって反応すると、自分は正しい、自分は世の中に影響力があると勘違いしてしまう。そして、書き込みに拍車がかかる。発言内容が過激になってしまう。

ネットメディアが台頭したことによって、フェイクニュースも出てきた。
既存のメディアはどう立ち向かっていったら良いのか。

調査報道→既存のメディアはシフトしていかないといけない。そのまま伝えるだけではいけない。チェックすることをしないと。
検証報道をしなくてはいけない。
これらには「考える」という作業が重ねられている。
ネットと同化してはならないのだ。

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*最後に
情報がは多岐にわたって溢れている現代社会で、
喧嘩し合うのはなく、意見の異なるものを排除して、自分と似ている意見に同調しているだけではダメ。メディアに対する批判は今に始まったことではない。ジャーナリズムに対して、関心がこんなに高まったのは逆説的にいえばSNSのおかげかもしれない。
あらゆるメディアに溢れる情報をどう読み込むか、ということに加えてもっともっと、新たな観点からのメディアリテラシーが必要。
もっと対話をしようではないか。

☆今月の推薦図書

インターネットが壊した「こころ」と「言葉」
森田 幸孝
(幻冬舎ルネッサンス新書)

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(今回の講義によせて)

わからない言葉に出会うと、すぐに検索してしまいます。先日、スマートフォンの電源が切れて使えなかった時も、私の頭の中にすぐに、「あ、検索すればいいや」と浮かびました。それは電気のように素早く、自分の中に走った反応でした。考えるよりも先に検索という感覚が、体に染みついている、と少し恐ろしく感じました。
スマートフォンがないと、何もできない、何もわからない人になってしまう。
冒頭の高校生と大学生の感覚は、とても人間らしく、救われる思いでした。対話を必要とすること、伝えるという事の大切さを感じられる若い人が、いつまでも多くいることを願います。それには、心の通った言葉を使って、私達自身が伝えていかなければいけないと思いました。

(石田庸子 記)

サトウナオミサトウナオミ 2018/07/10 14:18 なかなか、出席出来なくて残念です。
議事録の中に、今、私が抱える問題を見ました。
以前、lineのやり取りで、一方的に
ブロックされた経緯があり、人間恐怖症になってしまいました。
けれど、子供の学校関係者でしたので
つながりは今後もあります。
小津さんの言葉を教えていただきまして
とても、数十年前の言葉とは、思えない
言葉。
けれど、真理を言っていると思いました。

そして、先日海外に行く機会がありましたが、
あえて、スマホは使えないようにしました。
それで、良かったと思います。
議事録にあるように、現地の方とのコミュニケーションが取れ、忘れられない思い出となりました。

次回の塾、とても楽しみにしております。

2018-05-01

第77回粒々塾講義録

テーマ「現代にメディアを問う〜ジャーナリズムの向こう側〜」

前回に引き続きメディア論の続編です。

現代史の中でも、かつてないほどにジャーナリズムと言うものが問われ、試されている時代。

タイトルにて「ジャーナリズムの“向こう側”」と表記しているように、
ジャーナリズムを真正面から論じるのも良いが、少し視点を変え(斜から見て)て論じてみたい。

私たちはいまジャーナリズムに何を求め、どう位置づけるのか。

昨今の安倍政権メディア敵視や批判に対するメディアの姿勢をみても、メディアの脆弱さが露呈されているように思う。そもそも各種メディアはもろもろ課題を背負っている。テレビは放送法で縛られ、民放はスポンサーにしばられるという脆さを持っている。

またネット上ではSNS等のメディア自由な空間の名の元に情報が錯綜している。
我々は今、メディアと称するものの中で、何をどう受け止めて、何が本当なのか見極めるという
リテラシー」をさらに深く求められている。
そのリテラシーを磨く我々の頭脳は著しく弱ってきてはいまいか。

昨日正しいと思ったことが、今日はそうでないということが実際おきている。

ジャーナリズムと、どう接し、どう理解していくか、どう取捨選択していくのか
今またメディアリテラシーを再度考える時にある。

メディアの問題とは、それを受ける私たちの問題でもある。
「何の為に何を報じるのか、それを考えるのがジャーナリズムの精神」
今ほどあらためて痛感した時代はない。

例)芸能界の不倫報道はあそこまで放送する価値が本当にあるのか。

昨今のニュースを賑わす「公文書」の改ざん、隠ぺいが何を物語っているのか。
今後日本の歴史の中で森友・加計にまつわる隠ぺい・改ざん問題は公文書になんの“影響”も与えないかもしれない。しかし、それで素通りして良いものかどうか。日本史を学ぶ上で、後世に混乱をきたす危惧がある。知らず知らずのうちに誤った歴史観を植えつけてしまう恐れがある。

国民は日本の本当の歴史を知る権利がある。

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南京大虐殺、日本憲法の問題など、正史公文書)がないがゆえに、“歴史”が勝手につくられたかのような思いを持つ。
声を強く上げた人の言葉がまかり通ったりする。
だからこそジャーナリズムの役割は非常に大きいのである。

さぁ再度言葉にする、
今また、メディアリテラシーを考える時にあると。

一口で言えばそれは「我々がメディアが発信する事をどうとらえるか」だ、しかしもう少し丁寧に考えてみたい。

メディアが伝えていることへの洞察。〜メディアと読者〜
メディアが伝えた社会事象への思索〜読者とメディアの向こう側〜
メディア取材対象とどう接しているか〜メディア取材対象〜

メディアはあくまでも「伝えてくれた道具」それを、どう考察するかが大切なのだ、
だから「メディアの向こう側」なのだ。

取材者とは。
強者の側にいる記者はいかに弱者の側の信頼を得られるかが大切なのであって、
「誠実な自己認識」をもつ必要がある。

昨今、記者自らが取材をしていないという「ジャーナリズムの浅さ」が垣間見えることがしばしば。
それはジャーナリズムとは言わない。

私たちは3.11体験してきているはずだ。
16万人の被災者の物語をすべてメディアが報じることができるはずもなく・・・しかしながら
「絵になる記事」ばかりが先行する。

被災者にとって取材者とは、その記事が自分たちの側にたった記事なのかという視点がとても大切になってくる。取材者の姿勢に「誠実な対応」がともなってこないと、真実に近づけないおかしな記事になってしまう。
3.11取材者たちは、その土地に溶け込まなければ書けないし、時には書いてはいけないこともある。洞察も非常に大切になってくる、通りすがりの記者では書けない。

しかしながら、今のメディアには、そうしたジャーナリズム精神がが大きく欠けているのではないか。
自分たちが強者の側に居て、弱者の気持ちに寄り添う立場にいること理解しているのか。



今のメディア、これまでのメディア、これからのメディア

辞書にあるジャーナリズムとは。
新聞・雑誌・ラジオ・テレビなどにより、時事的な問題の報道・解説・批評などを伝達する活動の総称。また、その機関。と書かれている。

「ペンは剣より強し」…学校で良く習うこの一行だが、それ以上の考察もない。
しかしながら実際は、英国の作家、エドワード・ブルワー=リットン1839年に発表した歴史劇『リシュリューあるいは謀略』が出典であり、前文がある。

まことに偉大な人間の統治(為政者)のもとでは、ペンは剣よりも強し。

本来、これで一文であるが、文末だけを習っている現実が私たちにはあり
この前半の文章が重要であって、それがなければ解釈が全く変わってくる。
つまりは、これらを日本のメディア論におきかえるなら、マスコミ脆弱性を論ずる場合
「偉大な政府」の存在前提が必要ということになる。

新聞記者は読者をどれくらい意識して書いているのか。
社内を意識して書いてはいないだろうか。
テレビも見ている側をどれくらい意識して報道しているか。
それがメディアの“向こう側”つまり創造力へも繋がってくる。

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以前も紹介したが

ジャーナリズムとは報じられたくないことを報道することだ。
それ以外のものは広報にすぎない」〜ジョージ・オーウエル〜

世界を変える主体性ジャーナリストにあるのではなく、抵抗する市民にある。
ジャーナリズムはそれを伝えるに過ぎない。〜アミラ・ハス〜

この二つの言葉を塾では「ジャーナリズムを考える時の一つの視点」として置きたいと思う。


ジャーナリズムの精神を語るうえで、我々に語り掛けてくる言葉として
下記の言葉を紹介する。

ちなみに、福島県下では各学校の校長先生が式典で生徒に何を話して、何を呼び掛けたなど
記事になることはない。これも一つの“ジャーナリズムの姿”である。

自由の森学園高等学校 卒業式 新井達也校長の言葉
2016年度

私はずっと「 生命( いのち )の重さ 」について考え続けていました。
昨年の7月に起こった相模原の事件、何の罪もない無抵抗の障害者の方々19名が犠牲になり、また多くの方々が深い傷を負い、そしてまた、私たちの社会に大きな衝撃を与えました。

この事件の根底には様々な考え方が複雑に絡み合っていると言われています。
その一つとして「 優生思想 」があげられています。

「 価値がある人間・ない人間 」「 役に立つ人間・立たない人間 」「 優秀な人間・そうでない人間 」

といった偏った考え方で人間をとらえ、人間の生命に優劣をつける思想です。
また、この事件は「 ヘイトクライム 」( 憎悪犯罪 )の特質も持っていると言われています。
ヘイトクライムとは、人種・民族・宗教障害などの特定の属性を持つ個人や集団に対する偏見や差別にもとづく
「 憎悪 」によって引き起こされる暴力等の犯罪行為を指す言葉です。

この事件の問題を「 常軌を逸した加害者の問題だ 」として、
軽々に判断し押し込めてしまってはいけないように私は感じています。

全盲と全ろうの重複障害を持つ 福島 智( さとし )さん( 東京大学先端科学技術研究センター教授 )は次のように書いています。

「 こうした思想や行動の源泉がどこにあるのかは定かではないものの、
今の日本を覆う『 新自由主義的な人間観 』と無縁ではないだろう。
労働力の担い手としての経済的価値や能力で人間を序列化する社会。

そこでは、重度の障害者生存は軽視され、究極的には否定されてしまいかねない。
しかし、これは障害者に対してだけのことではないだろう。
生産性や労働能力に基づく人間の価値の序列化、人の存在意義を軽視・否定する論理・メカニズムは、徐々に拡大し、
最終的には大多数の人を覆い尽くすに違いない。 」

「 役に立つ/立たない 」といった人間や生命を価値的に見ていく考え方は、
いずれは自分も含めた全ての人の生存を軽視・否定することにつながっていくのだと福島さんは述べています。

人間の価値、生命の価値、生きる価値、そもそも人間や生命という言葉に「 価値 」という言葉をつなげるべきではない、私はそう思っています。
人間には、そして生命には「 尊厳 」があるのです。
尊厳とは「 どんなものによっても代えることができないもの・存在 」と言うことができるでしょう。

あなたは何ものにも代えられないのです。あなたの代わりはどこにもいないのです。

人間をそして生命をも、取り替えることが可能なものとして「 価値的 」に見てしまう現代社会において、「 価値 」ではなく「 尊厳 」という言葉で自分をそして自分の人生を見つめていくことが大切だと私は思っています。

当然その視線は、自分以外の他者やその人生をも見つめることにもなるでしょう。
そしてそれは「 どのような社会を目指していくのか 」ということにもつながっていくと私は思っています。

今、社会には、ヘイトクライムヘイトスピーチヘイト文書など、ヘイト・憎悪という言葉があふれています。

この「 憎悪 」に対するものは「 学び 」だと私は思っています。
学ぶということは本来、さまざまなことをつなげていく・結びつけていくことだと思います。
学ぶことによって、自然とつながり、社会とつながり、芸術とつながり、他者とつながり、そして、自分とつながる、
そんな学びをみなさんにはこれからも続けていってほしいと願っています。

最後に、ある詩をみなさんと共有したいと思います。
吉野弘さんの「 生命( いのち )は 」という詩です。

   『 生命 ( いのち ) は 』        作:吉野 弘

  生命 ( いのち )は
  自分自身だけでは完結できないように
  つくられているらしい
  花も
  めしべとおしべが揃っているだけでは
  不充分で 虫や風が訪れて
  めしべとおしべを仲立ちする

  生命 ( いのち )は
  その中に欠如を抱き
  それを他者から満たしてもらうのだ

  世界は多分 他者の総和
  しかし 互いに
  欠如を満たすなどとは
  知りもせず 知らされもせず
  ばらまかれている者同士
  無関心でいられる間柄
  ときにうとましく思うことさえも許されている間柄
  そのように 世界がゆるやかに構成されているのはなぜ?

  花が咲いている
  すぐ近くまで
  虻 ( あぶ ) の姿をした他者
  光をまとって飛んできている
   私も あるとき
  誰かのための虻 ( あぶ ) だったろう
  あなたも あるとき
  私のための風だったかもしれない


ジャーナリズムを考えるうえで、取材者側にも、我々にもこの「メッセージ」を、思想を大切にしてもらいたい。

2017年度  
「生き方としての進路」、進学や就職にとどまらず、その先にある「どう生きていくのか」ということを考えていくことを大切にしたい、そのため「生き方としての進路」について話をします。

最近「君たちはどう生きるか」という80年前に書かれた作品が原作となった漫画が、ベストセラーになっています。原作者は、雑誌「世界」の初代編集長の吉野源三郎さん。15歳の「コペル君」というあだ名の少年が叔父さんとの対話を通じて、貧困いじめ、暴力という社会に横たわる大きな問題と向き合いながら成長する物語です。

この作品が書かれたのは1937年。その前年には2.26事件が起こり、軍国主義が台頭し、言論が統制され、1937年夏に盧溝橋事件が勃発し日中戦争が全面化、そしてアジア太平洋戦争へとつながっていく、そんな時代を背景とした作品です。

そんな時代と現代との共通点を指摘する人もいます。


同調圧力のような、ちょっとでも政府方針に違反すると、売国奴とか非国民とか、そういうことを言われるようになってきた重苦しい雰囲気。今なにか政府批判すると、それだけで反日レッテルはられてしまう。ネットですぐ炎上したり、なんとなく若者も空気を読む。まわりを見て忖度(そんたく)をして、という形で息苦しい思い。当時と、共通したようなものがあるのかなと思う。」と。

原作者の吉野さんは1931年に治安維持法違反で検挙され、1年半も投獄されながらも、この本を子どもたちに届けようとしたのでした。

文芸評論家斎藤美奈子さんも「コペル君が生きた30年代と現代の空気に通じるものがあるのかもしれない。」と書いています。そのうえで「見落とされがちですが、コペル君は、先の大戦での学徒出陣で命を落としていく世代なのです。」と続けています。

1937年に15歳ということは、学徒出陣のはじまった1943年に21歳。コペル君は、まさに第1回学徒兵として戦場に向かうことになったのでしょう。

人間とは何か?社会とは何か?どう生きるべきか?悩み考え続けた多くのコペル君たちは20歳そこそこで戦場へとかり出され、生きることを断念しなければならなかったのです。
若者たちが生きることを断念せざるを得ないような状況、つまり戦争をくり返してはならない。そうして日本の「戦後」はスタートしたはずです。

「平和に生きること」「自由に生きること」が揺れている今だからこそ、私たちは何を学び、考え、どう生きていけばいいのか、一人ひとりが問われているのでしょう。

君たちはどう生きるか」と似たタイトルの本があります。

「いかに生き、いかに学ぶか」昭和を生きた数学者遠山啓さんの本です。

人間とは、生きるとは、愛とは、戦争とは、働くとはどういうことなのか。

その中で、遠山さんは「観の教育」の大切さについて書いています。

「僕のいう観というのは1人ひとりが自分で苦労してきずきあげていくものなのだ。1人ひとりがそれまでに自分の体験したこと、身につけた技術、学んだ知識を総動員して人間とは、世界とは、生命とは何か、あるいは人間は、とくにこの自分はどう生きていったらいいかを考える。そうしてえられた人生観・世界観・社会観などをぼくは観と言っている。
これまで観を持つ人間は政治家や学者などごく少数のエリートと呼ばれる種類の人たちだけでいいという人もあった。それは間違いだと思う。日本人のすべてが、みな自分自身で創りだした人生観・世界観・社会観・政治観…などの観を持つようになってほしいのだ。」


一部の政治家や学者、マスコミの言葉を鵜呑みにするのではなく、自分で考えて判断していくことの大切さを、「自分自身の観を築くことだ」と遠山さんは言っています。
これは、「君たちはどう生きるか」で吉野さんが提起している「僕達は自分で自分を決めるちからを持っている」ということとつながっているのだと思います。
 
「生き方」は誰も教えることなどできません。

早く、効率よく、なるべく楽に あたかも近道を探すように生きるのではなく、自分にとっていい方法とは何かを考えて模索して選択していくことを大切にしてほしいと私は思っています。
限られた時間内で効率よく正解を出していくという「テスト学力」と「生きる」ということはイコールではありません。
世の中の常識や社会の風潮に流されるのではなく、自分の学んできたことをベースとした「観」に基づいて自分自身を生きるということを大切にしていってほしい。そして、そのような一人ひとりが尊重される社会を形成する一人であってほしい。私はそう願っています。

最後に遠山啓さんの言葉をみなさんに贈ります。
「ほんとうに強い精神は、固体よりも液体に似ている。どのような微細な隙間にもしみ通ることのできる柔軟さを、それは保っている。液体はどのように変形し流動しつつも、体積の総和は不変であるが、精神の強さというものも、そのような種類の強さではなかろうか。」。

上記の校長先生の言葉も立派なジャーナリズムだと思う。

突き詰めていくとジャーナリズムとはそれぞれの人に内包されている感覚だ。
それをどうやって熟成させ、自分の立ち位置を確立するかだ。
あなた方自身がジャーナリズムであり、ジャーナリストだ。

つまり例えるなら、粒々塾生がそれである。

今回の推薦図書
君たちはどう生きるか」著者 吉野源三郎 文庫本

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所感  塾長が仰った「あなた方自信がジャーナリズムである。」という言葉はやはり重いと
感じます。この数日もメディアでは官僚のハラスメントや芸能人のワイセツ行為が延々と
流されています。「もっと他に放送することがあるだろうに…」と思う反面、
このニュースを知りたいという潜在的欲求が国民に、そして私に少なからずあるからこそ、これらのニュースが大量に流れるのであろう、そう捉えることもできます。

情報過多の昨今、流れるニュースの何が真実かわかったものではない。しかもツイッターもFBも「垂れ流し」である。一国の大統領が平気で株価を左右するような垂れ流しの暴言を吐く世の中になっているのが現実です。

そのような中で、塾長がおっしゃるように、現代史上、ここまでメディアリテラシーが、そしてジャーナリズムが問われる時代もないと本気で思のです。

今回懇親の席で「私は日経新聞しか読まないです」と申し上げましたが、
良い悪いではなく、日経新聞を読んでいても、心を動かされるような言葉に出逢う
ことはほぼないと感じる自分が居ました。でも、日経を読まないとどこか取り残され
そうでそうしているのです。結局日経を読んでいてもメディアリテラシーはあまり養われないと思うのです。だからこそ、もっと広い視野で、情緒ある素晴らしい言葉と出会っていく必要と思います。だからこそこの塾に足を運んでいるのだとも思うのです。

纏まりない所感となりましたが、最後に、

メディアの向こう側」は対岸の火事にしてはいけない、いつか私たちの発した思考や言葉は、いつか後世の子孫という対岸に届くのだから。

私たちは言葉でできている。



(野地数正記)

2018-03-02

第76回粒々塾講義録

テーマ「現代にメディアを問う〜デジタル時代とメディア〜」


今まさに我々は多メディア時代に暮らしている。
メディアとは何を指すのか。
テレビ、新聞、ラジオインターネットSNS、出版物、写真など。

オリンピックの開催前に一人の作家が亡くなった。石牟礼道子さんである。
「奇病」と言われた水俣病患者の姿を伝える「苦海浄土」を書き、文学を通して世の中の差別営利主体の企業、国に異を唱えてきた。文学というものがジャーナリズムであることを実証した作品だ。

石牟礼道子さんと写真家藤原新也さんの対談集「なみだふるはな」という本がある。詩人文学者の石牟礼さんと写真ジャーナリスト藤原氏との対談と小文。

水俣病告発に生涯をささげた石牟礼。2011年東日本大震災での福島悲劇。藤原さんは震災後2ヶ月間に渡って福島取材を行い写真に記録した。

この本を通して見える国の欺瞞、怠慢。それを表現することは立派なジャーナリズムだ。

大晦日に放映される国民的行事 NHK紅白歌合戦。紅白の視聴率はかつて約80%もあったそうだが、昨年は平均38.2%という数字だった。

この背景には何が考えられるのか?この数字の変化から何を読みとるか。

高齢化社会と言われて久しい。昔の紅白は演歌が多く、高年齢層にも親しまれていた。現代では若年の歌手が多く出場している。演歌離れが進んでいる。高年齢者には見ようとする番組では無くなった。
また、昔は他のメディアが無い上、テレビも一家に一台という環境だったが、今は違う。選択肢が広がっている。
紅白歌合戦と言う番組を通して、社会構造の変遷を読み取ることが出来る。

アナログからデジタルに変わったテレビ。現代ではハイビジョン、薄型、壁掛け、多くの種類が出回っている。
デジタルに変わった事で映像の高画質、高音質、データのスピード化、情報量の拡大、更にはそれに伴うネットとの融合、ツイートなどが可能になり、メディアを通して新たなテレビとの接触方法が出来上がっている。

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デジタルテレビのチャンネルは地上波BSCS。その他のネットTVなども出来た。それらの「テレビメディア」とどう接触するか。「選択と集中」というメディアへの関わり方が必要な時代。
そして、デジタル化により画像までもが加工できてしまう。「虚像」と「実像」がないまぜになっていく。
4K・8Kなどの超高画質のテレビがNHKでは盛んにPRされている。
それらは果たして必要なことなのか。我々が望んだことなのか。

「進化」という言葉でテレビメディアを語りたくはない。
その内容に「進化」はみられないし。

デジタルが進化を遂げるにつれ「メディア」も多様化し、発信のツールが広がってきた。
SNSでは各人が“ジャーナリスト”になりうる。ウソ、デマの懸念ももちろんある訳だが、当の本人が功罪を見極められているかが疑問だ。

今に始まった話ではないが、「伝えたいこと」(報道されること)と「知りたいこと」の乖離が大きいと感じる事が多い。TVで放映されると直感的にそれを真に受ける。知りたい事に関しては現象だけが伝えられている。それらの現象に対しての「解説」が無い。

メディアの役割とは何なのだろう?「知りたいこと」の間に温度差が生まれてしまっている。

スマホ片手にテレビを観る光景がある。
一億総カメラマン時代がやってきたようにも思える。スマホの驚異的な普及で誰もがどこでも気軽に写真を撮れるようになってきたからだ。
生活に欠かせないコミュニケーション手段になった。
それだけに“写真リテラシー”はより重要さを増してきているのではないか。一億総ジャーナリスト現象スマホの普及で価値観や捉え方が変わってきている。時代の流れだろうが、本人がどれだけ理解しているかどうか。
我々のリテラシー能力が問われる時代。それに伴いメディア側のリテラシー能力も問われてくる。
メディアの側にもリテラシー能力が涵養されなければ。

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2018年干支は「戊戌(つちのえいぬ)」。今までの流れが変化する年ともいわれる。
「変化」のヒントを得る為に、60年前(西暦1958年)の時代を振り返ってみる。時代の「還暦」として。戦後10年ほどで、高度成長が予感される中で、人々の暮らしも変わってきた。
60年前にあたことのいくつか。
国立競技場設立
・今の天皇陛下の婚約
岸信介政権(今の安部政権祖父
東京タワー日本電波塔)の設立
・テレビ受信契約数が100万台を突破
日本劇場による洋楽、邦楽の混在
聖徳太子像の一万円札の発行
・消費生活の革命
・団地族の普及(和式から洋式へ)
ロカビリーブーム
フラフープが流行
インスタントラーメンの誕生(日清
スバル360軽自動車)の生産(富士重工業

「変化」という点に着目すれば、今を考え、今後も考えなければならないこともみえてくる。。
家事や軽自動車フラフープインスタントラーメンに於ける共通して言える事は、時間の確保と時間の拡大。
いわゆる「時短」(時間の短縮)が可能になってきた。それによって価値観も変貌する。
この様な「変化」の変貌をメディアは見通せてはいなかったし、誰もが想像していなかった。60年前が6年後の今を。
メディアの立ち位置、メディアの精神、そして政治も自分達も。
「変化」の把握と分析、そして展望。

橋本久美江記)

2017-12-22

第75回粒々塾講義録

今回のテーマは『現代を考える〜この国は何処へ行くのか〜』 

講義録を書くにあたり、考えさせられたこと、伝えたいことは多々あったが、私なりにとても心に残った部分をまとめてみた。


◆たくさんの『なぜ?』があっても、答えのない『戦争』

冒頭、塾長から頂いたお話は12月8日、真珠湾攻撃の日についてだった。日米開戦
火ぶたを切った重要な日であるにも関わらず、世の中の関心は低いと塾長は述べた。

戦争はなぜ始まったのか?
負けると分かっていた戦争に、日本はなぜ加わったのか?
なぜ未だに戦争の総括が出来ていないのか?
戦争についてくるたくさんの「なぜ?」に、私たちはもちろん、日本という国は答えを
持たない。あるいは出そうとしないのか、それはなぜなのか?

塾長は勝者によって歴史は作られるが、歴史はそもそも『期間限定の常識』だという。
歴史はしばしば美化され、勝者の側からしか語られない。果たしてそれが真実と言える
だろうか。
今、私たちが常識や正しい、誤りと感じていることは、未来の人にとってはそうではない
かも知れない。私たちも歴史、特に近代・現代史を学び直さねばならないし、特に敗者に
よって語られる歴史も学ぶべき価値がある。
また個人的な解釈で『なかったこと』にするのも許されることではない。歴史は常に書き
換えられるもので『絶対』ではないのだと学んだ。

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◆未来を語れる人、語れない人

『未来を語る、未来を示す政治が無い。いや、政治は未来を語らない。語れない』
という項目では、日本は過去(戦争)を清算していないから、未来を語れない、ゆえに
政治は目先のことをどうするかだけに腐心している、と塾長は述べていた。

確かに、少子高齢化も今に始まった問題ではない。変化する時代に対応しきれない法律
仕組みといった窮屈な囲いの中で、私たちは歪んだまま生きるしかないのか。
政治だけを責めても仕方がないし、自分自身においても、未来を語り、創れる力があるのだろうかと不安になってしまった。
そんな気持ちを見抜いていたのだろうか、塾長は、朝日新聞「声」欄のある投書を紹介した。塾では要点のみの紹介だったが、全文を読みたくなって検索した。
(こういう時、文明の利器に助けられますね…)

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(声)大切な日を行事化しないで 2017年11月2日
 高校生 清藤日向子(青森県 16)

 かつての大きな自然災害や事件が起きた日が近づくと、「あの日から○年」といったタイトルや言葉がテレビ番組などでよく使われる。色々なメディアが特別企画を立てるが、私はその伝え方は間違っていると思う。

 被災者のための募金への協力や事件の新たな真相を伝えても、「その日」が過ぎると何もなかったかのように切り替わる。テレビの情報番組では、誰かの不倫や新しいドラマが話題の中心となる。まるで忘れてはいけない日が、行事化されているようだ。これではただのお祭り騒ぎに過ぎない。

 地震テロなど非日常的なことが度々起こる世の中で、人は命の尊さや他人を思いやることの大切さを学んでいく。大きな社会の変化があった日を年に一度の「ネタ」にするのではなく、今、当たり前に暮らしていることの幸せに気づく「タネ」として、普段から様々な切り口で被災地被災者、被害者の現状などを伝えていって欲しい。そうすることで、災害に対する意識を変えたり、犯罪を減らせたりする効果があるはずだ。

 「その日」のために何かをするのではなく、その時にあったことのために何かができるように、世の中の今を見ることが私たちには必要だと思う。

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塾長は、この投書に感銘した大人が、声欄に投書を寄せたと教えてくれた。そちらも全文を
検索したので以下に紹介する。

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(声)未来を拓く言葉を待っていた 2017年11月7日
大学教員 坂本正彦(静岡県 61)

 青森県の高校生の投稿「大切な日を行事化しないで」(2日)を読んだ。

 「『その日』のために何かをするのではなく、その時にあったことのために何かができるように、世の中の今を見ることが私たちには必要だと思う」

 何と普遍的な価値を持つ言葉であろうか。私たちは未来を拓(ひら)く言葉を長く求めてきていた。この投稿を読んで、改めてそういう気持ちでいる自分を知ることとなった。例えば、ケネディ米大統領が就任演説に「祖国が諸君に何をするかを問い給(たも)うな。諸君が祖国に何をするかを問い給(たま)え」と言ったフレーズは、今でも国を越え、時代を超えて引用される。そういう普遍的な価値をもつ言葉に、私たちは希望を見いだしてきたのだ。

 この国もまんざら捨てたものではない。だが本当は、「選良」といわれる立場の人からそういう言葉を聞きたいのだ

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選良」とは、代議士の美称であり、選び出された立派な人物のことを表す言葉だ。ゆえに
これは皮肉である。自らの言葉、未来を示す言葉を持たない政治家しかいない現在の日本において、もはや子どもたちにとっての夢や憧れの中に「政治家」は存在しない。

それでも、青森の一高校生のように、社会やメディアの作った空気に流されず、自分の櫂を
持って、大海に漕ぎ出そうとする若い人の存在は希望そのものである。
けれども一方で、彼女をジャンヌダルクのようにとらえてはならないと思う。たった一人の人が社会を動かすのではなく、彼女のような自分の意志、考え方を持った人たちこそが、社会を動かす力になるのだ。
それが彼女の言う「その日のために何かをするのではなく、その時にあったことのために、何かができるように、世の中の今を見る」ということなのだと私は思う。
日々、さまざまなことに関心を持ってアンテナを張り、情報を集め考え選択する。そういうことの積み重ねが、その日にも、今日にも、そして未来にも力になるのだ。

レジュメの最後は司馬遼太郎さんの書かれた「21世紀に生きる君たちへ」の全文が載せられていた。歴史を研究してきた司馬さんらしい視点であると同時に、ここに記されている
ことは22世紀でも、23世紀になっても色あせることはないだろう。
子どもに向けて書かれた文章ではあるが、司馬さんはむしろ、大人に読んでもらいたかったのではないかとすら思う。

最後に、最近読んだ日野原重明という方の「生きていくあなたへ」という本の中で、心に残った言葉があったので、ご紹介する。

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    得たものではなく、与えられたものをどう使うか。

自分に与えられた命、時間、お金、物…(あるいは「病気」も与えられたものの中に入るのかも知れないが)、それらの使い方によって、人生の豊かさが決められると著者は言う。そして彼はそれらを「他者のために捧げる」と決心し、105歳の天寿を全うした。

この本の冒頭には、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」という、新約聖書ヨハネによる福音書からの言葉が記してあった。死は命の終わりではなく、新しい始まりであると述べる著者の想い。そして、はからずも粒々塾の理念へとつながったことは、偶然ではないだろう。だって「すべてのことに時がある」のだから。

今、自分に与えられているこの時に、塾長や塾生のみなさんとの出会いがあり、学びを通して、知らない自分を発見出来る喜びがあることに、心から感謝を申し上げます。


(盒桐杙辧Φ)

2017-11-09

第74回粒々塾講義録

テーマ「現在を考える〜強者と弱者〜」

強者とはナニか?ダレなのか?では、弱者とは?

自らの入退院の経験から、強者と弱者の関係性を改めて考える機会になった。医療分野においては、強者は医者・看護師であり、弱者は患者である。という塾長の問題提起。

原発から南に約22辧福島県広野町にある高野病院(内科精神科)。東日本大震災で起きた原発事故以降も、自らが避難することなく診療を続けていた高野院長が、昨年末の火災で死亡。高野氏が患者ひとりひとりと向き合い同じ目線に立つことで、強弱という極端なバランス関係ではなく、お互いを尊重しあう関係が築かれていた。高度な先進医療技術の有無ではなく、高野先生の人柄に魅了された人々が自然と集まる場所となっていたようだ。現在、様々な苦難があり、継続することが非常に厳しい状況に置かれている。

以前、話をしたと思うが、「四苦八苦」という言葉がある。

人としてこの世に生を受けたからこそ、すべての人が同様に経験する苦しみの四苦「生」「老」「病」「死」。この四苦に、人であるからこそ感じ得る苦しみの四苦「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五陰盛苦」を合わせたものが八苦といわれる。四苦と八苦は、異なる意味を持つ。
片や逃れられない自然の所為。片や人間の感情や欲望

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苦しみの感じ方は一人一人で異なる、だからこそ希望を常に持ち続けることが何よりも重要。

いま、「キボウ」という言葉は、どこか汚されたコトバになってしまった。

「希望」に関する書籍や映画といえば、下記代表作。

1)「この国には何でもある。… だが、希望だけがない。」で有名な、著者村上龍の「希望の国エクソダス」。国に絶望した中学生が「希望」を夢見て起こした変革が壮大なスケールで描かれている。
2) 園子温氏の「希望の国」は、東日本大震災で起きた原発問題を取り上げ、震災後の「絶望」を、あえて「希望」という言葉に置き換えた内容となっている。
3) 金子修介監督によって製作された「希望の党」は、2005年に総務省明るい選挙推進協会により製作された20分の短編映画。
選挙には全く興味がない父と母、真逆に政治への意識が非常に高い娘。
画内で登場する「希望の党」が政権を奪取すると、恐るべき方向へ流れが進んでゆく。ふたを開けてみれば、とんでもないファシスト政権だった。この映画は、選挙が決まってから、ネット上では削除されている。

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「…70代の男性が、わたしとのあいだの空間に、両手で三角と直線を描きました。『あんたには在る。おれたちには無い。在るひとに、無いひとの気持は解らないよ。』柳美里氏の「JR上野駅公園口」からの引用。

戦後の上野駅は、浮浪人のたまり場。ノミ。シラミ。目はギラギラ、獲物を狩るかのような雰囲気を醸し出す「浮浪児」。
カレラは、集団疎開から産みだされた人。集団疎開で地方に移り、空襲東京に帰ってみたら家がなかった。両親がいなく、家もない。当時は浮浪児狩りが横行し、白い粉を吹き付けられ(シラミ対策)トラックに乗せられどこかに連れて行かれた。。

現代社会で「元浮浪児でした」と名乗り出た人はいない。

現代に目を移すとホームレスとどこかで合致する。
全国で1万人といわれているが、実際のところ国は正確には把握していない。東京オリンピックまでには排除されるであろう。

ホームレスは“社会的な弱者”と見られがちだが、考えようによっては、時間的また精神的にみると誰よりも「自由」を持っているのかもしれない。生き方からみれば、もしかすると強者なのかもしれない。

朝日新聞歌壇欄で注目を浴びた「ホームレス歌人公田耕一氏。「柔らかい時計を持ちて、炊き出しカレーの列に2時間並ぶ」。柔らかい時計とは、ダリの時計を意味している。「ダリ」を知るだけの高い知識をもちつつも、ホームレスになる。その心は、自由を求めてなのか。

ホームレスに関連した書籍
・拾った新聞で字を覚えた「セーラ服の歌人鳥居」。
壮絶な人生を歩むも、今は歌人として名を馳せる。
藤原新也の「東京漂流」の光景がその本から浮かんでくる。
彼女の一首。
「書きさしの遺書、伏せて眠れば死をこえて会いにおいでと紫陽花の咲く」
太宰治の「遺書」と通底するものがある。

・原作は村上たかしで、著者原田マハの「星守る犬」。
信号が黄色になったときに、ブレーキを踏んで止まった。電光掲示板に、“白骨化した遺体が見つかった。そのそばには、犬の死体があった。男性は、死後2年。犬は、数か月”と言う字を読んだ作者のモノローグで始まる本。

犬は捨て犬だった。娘が拾ってきたが、その後は男性が世話をした。男性は(おとうさんとハッピーと名付けられた犬は呼んでいる)。リストラ、持病悪化。家族崩壊。男と犬は車で旅に出てたが、お金を盗られ、車のガソリンも底が尽き・・・。
犬と人間の暮らし。困った人や悲しみのどん底にいる人に、語りかける本。

さて、話が変わるが、と塾長。

座席が埋まり、立っている人もちらほらの電車に、ハイキング帰りの50代の男性1人と女性2名が乗ってきた。
3人掛けの席には、茶髪の男性二人。中年男性はこれ見よがしに、「最近の若い者は、年寄りを立たせるのか」と、嫌味をはなつ。
若者は、「あなたがたは今まで山歩きをしてきた。山を歩いたのに電車では立てないの?
おれたちは、これから仕事なんだ。休日働いて、あんたたちの年金をつくっているんだよ。おれらの時代は、優雅に山登りをして、年金をもらってなんて時代は実現しないんだ。どこかの空いてるシルバーシートを探して来たら?」と返答。

塾生に「ある休日の電車の中での話」として、こんな問いかけを。

「さぁ、あなたは、どちらの言い分が正しいと思う?」

世代間。年金。寛容さ。人間力。価値観。未来。過去。世界観。環境。

正解はない。強者と弱者、このようなシチュエーションでは、答えの出ない質問。
人は、様々なシチュエーションで、弱い自分と強い自分を使い分ける。

ぜひ、ご家族で、こんなお話をしてみてはどうだろうか?
いろんな考え方や価値観がみえてくる。

さて、近づく2025年問題団塊の世代が、後期高齢者。その時に何が起きる?
介護医療費個人負担。地域包括ケアシステムシニア施設の人材確保。

日本人だけでは、クリアできない問題がすでに山積している。

国会議員は普段は強者だ。選挙になると、途端に弱者に変身し頭を下げまくる。当選し、バッジをつければ、また強者に戻る。
選挙のときだけ、国民は強者になれるのだ。今回の選挙は大儀のない選挙。国民だけではなく、政治家もわかってない。明確な理由をあげれば、もっと意味のある選挙になるしそうあるべきなのに。
誰も投票するに値する立候補者がいない場合は?投票所に行きましょう。誰もいなければ、白紙で出してもよい。比例で党をかく。政治に参画することが何よりも重要。

Ask not what your country can do for you, ask what you can do for your country.
ジョン・F・ケネディの言葉。名言。若い世代に向けて発せられた言葉である。
若者を魅了するような言葉を今の政治家は持たない。

一つの社会現象として、「分岐点」は常にある。
例えば、昭和は、スターの時代。石原裕次郎美空ひばり
平成は、アイドルの時代。AKB48の顔ぶれを見分けられる人は、一体どのくらいいるのだろうか?

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この50年間、日本の政治家は、「言葉」を持っていない。
現代の政治家の言葉といえば、英語をカナ読みにすることが大流行。
ダイバーシティー・ワイズスペンディング・リセット、アウフヘーベン「何もご存知ないのね、辞書で調べてごらんなさい」と記者に言い放つほど。

映画から本からことばを盗み取り発する。残念ながら印象に残る言葉は何もない。国民に心から発せられた言葉はどこにもない。誰にもわかる言葉で、伝えなければ伝わらない。きっと、それは伝えたい「ことば」が持たないからだろう。

分岐点といえば、下記も代表的な例であろう。
国内の分断。

9.11 アメリカ同時多発テロにおいて、宗教観差別が生まれ、3.11 東日本大震災においては、地域の差別が生まれた。価値観を変えられた人たちの差別が、新しい強者と弱者の流れを作り出している。

近年では、ミャンマーのロヒンギ族。アウサン・スーチは、民主化運動を進めた人間だが、その弾圧に関しての一切のコメントがない。スペインカタルーニャ独立運動なども一例である。世界各国で、様々な事例が増えつつある。

常に社会のしわ寄せは、弱者に来る。

年収1000万の人間が、200万の生活を語れない。若者を踏み台にして、その上の世代が逃げ切ろうとしている。社会の持続可能性のためにも、早くバトンを次世代に渡すべきだ。

昭和から平成、人口が増えない中、与えられたパイの中で、どのように生きるのか。
内閣府の調査では、今の生活に満足していると答えた若者は73.9%であった。その数値は何を物語るのか?
70%を超えているからいいのか?意図的なメッセージが込められているような。色んな意味で日本という国は、「溶けだして」いる。

塾生の一人から、こんな詩が紹介された。20年前、当時、小学6年生だった子が書いた詩だ。

「私の席」
満員のバスに
おばあさんが乗ってきた
ポニーテールの女の人が
「すぐ降りますので」
と席をゆずった
でも その女の人は
次の停留所でも
四つ目の停留所でも降りなかった
私は胸がいっぱいになって
いつもより一つ早い停留所で
バスを降りた
あのポニーテールの女の人
私の席にすわってくれたかなあ

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今回の講義は、選挙前に開催されました。改めて、講義録が大変遅れて申し訳ありません。
いろいろ書きたいことが、たくさんありますが、短めに。

明確な答えが出ることはなくても、常に国の在り方の意見を交換する機会を持つことは大変重要であるかと思います。それは、己の価値観だけではなく、世の中にある多種多様な価値観を学ぶことで、自分の世界観をひろげることができる。
明確な意思表示がなくとも、そのココロを理解できるのが過去から息づいているはずの日本のココロ。
表裏のない「おもてなし」を筆頭に、日本の伝統・文化・慣習などの「ニホンらしさ」は間違いなく世界でも評されるモノである。西洋の考え方や言葉が国内に流入し、日本の良さは希薄になり続けている。
希望という言葉を使うことに躊躇いを感じる自分がいる。本来の意味を失わせられたような違和感はなんだろう。個人的な意見ではあるが、映画「希望の党」は現代版に利用された。「希望の国エクソダス」の一文に関しても同様である。本来、書籍や映画で使われていたソノ意味を、政治に利用し奪い去った罪は大きい。
講義の中で、様々な書籍や映画のオススメを紹介していただきました。時代背景や人物像など、それらに登場するコトバ一つ一つは、作者のメッセージ性を多く含んだものとなっているはずです。主人公の目線に自らを合わせることで、新たな世界観を学びえることができるのだろうと考えます。
「星守る夜」と言う本をを読んで、印象の強かった一文がある。
“見えないくせに、届かないくせに、星を追い求めて夜空を見上げていた私の犬を想った。望んでも、望んでも、かなわないから、望み続ける…人は皆、生きて行く限り、「星守る犬」だ”。
何かを望むことは、長い人生の中で最も重要な要素である。そこに辿りつくまでに、山があり谷がある。だからこそ、ソレを望むのだと。
 強者弱者という構図ではなく、相手を慮る心を持ち、相手の目線に自らが合わせる事が簡単なようで非常に難しい。いつの時代も「言うは易く 行うは難し」。自らを律しながら、私も邁進してまいります。
(菊池亮介記)