第42回粒々塾講義録

第42回目の粒々塾は「東北学その11 〜あらためて“知る”と“学ぶ”と〜」と題しての講義でした。

まず、あらためて「学ぶことの原点」を、論語の中から教わりました。

論語の述而編(第7編)に「不憤不啓 不悱不発」という言葉があります。
一般的に、不憤不啓とは「自分から発憤しなければ、物事は啓かない。自ら発憤する者でなければ、啓き教えることはしない。怒るくらいでなければ啓蒙・教育をしない。」、不悱不発とは「もどかしくてうまく言えない、言い悩むような者でなければ教えることはない。いらだって(悱はいらだつの意)、悶々とした気持ちがなければ、教えることはない。」と解釈されています。学問に臨む者に対する態度を説いた言葉ではないかと思います。
それを、塾長は「今の世の中に怒りの感情を持たなければ、自分の中で何も得るものはない。世の中に対して苛立つ気持ちを持たないと、何も自分の方から発することはない。」と解釈しました。「怒りの感情を持たなければ、自分自身を啓蒙できない。」と。

自分を取り巻く世の中に対する飽くなき怒り、そして疑問。それらが学びの動機につながるのではないでしょうか。「何で?」と疑問を持つことは、次のステップに進めるということ。疑問を持たないと、次に進むことはできない。

「高校時代、論語について書けという試験で「先生の解釈は間違っている。おかしい。」と徹底的に批判したら、成績に5をくれた。」という塾長のエピソードがありましたが、先生は、教えを鵜呑みにせず疑問を持つという姿勢に対して満点をくれたのではないでしょうか。「論語は行間にいろいろな意味が込められている。それを読み解くことは難しくも面白いこと。」と塾長が仰っていました。間違ってもいい、自分が納得できる自分なりの解釈を持ってみる。そんなこともできるからこそ、論語は魅力を持ち続けているのではないかとも思いました。

「不憤不啓 不悱不発」の後には「挙一隅、不以三隅反、則不復也(1つのことを挙げて3つのことが返ってこなければ、教える必要はない。)」と続きます。1つを学べば、更なる疑問が湧いてくる。突き詰めて物事を考えれば当然のことです。子どもは、何か物事を教えると「なんで?なんで?」と際限なく倍返しで聞いてきます。大人(私)は分かったフリをして物事をスルーしてしまいがちですが、子どもを見習いたいものです。

また、論語の第1編、学而編の始めに「学ぶということはどういうことか」を述べています。
「子曰、学而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎。(子曰く、学びて時に之を習う、また説ばしからずや。朋遠方より来たる有り、また楽しからずや。)」意味は、「学んだことを繰り返し習っていると、理解が深まって自分のものとなる。それは非常に楽しい・嬉しいことではないか。学んでいると、必然に志を同じくする朋がいて、遠くから自分を慕ってやってきて、学ぶということについて朋と語り合う。これもなんと楽しいことではないか。」ということです。

まさに粒々塾の原点はここにあるのではないかと思います。月に1度、同じ志を持つ者が集い、学びを受け、皆で語り合う。論語は、孔子が弟子達に言った言葉を、弟子達が記録したものです。これを粒々塾に置き換えてみると、塾長が孔子で我々塾生が弟子達として、塾生が書くこの講義録は現代版論語、というのは言い過ぎですが、似ているように思えます。これは塾長が意図していたものなのか非常に気になるところです。
大変未熟者ですが、「学ぶことは喜ばしく楽しいものであるということ。」を感じ、実践していきたいと思います。

さて、「何で?」と疑問を持つことからの流れから、「安積開拓は“何で”初の国営事業として行われたのか。」をテーマに、私達の住む郡山の原点とも言える「安積開拓」について教わりました。安積とは、元は「安尺(あしゃく)」という地名が、この地域を治めていた「安積国造宮」から、安積となったそうです。

私は子どもの頃、開成に住んでおり、開成小学校に通っていました。当時、開誠館にも見学に行ったことがありますが、恥ずかしながら安積開拓については「全国から士族が入植して開墾を行った。」という一般的なイメージしか持ち合わせていませんでした。「こじつけ的な話」と塾長は断っていましたが、塾長から語られた安積開拓にまつわる数々のエピソードは、非常にドラマティックで、セピア色の歴史に彩りを加えてくれる楽しいものでした。
先に、紹介された人物の相関図を作りましたので掲載します。

安積開拓は明治5年に始まります。その時の福島県の県令(知事)が安場保和。熊本出身の安場は西洋の学問を学んでおり、欧米を巡る岩倉使節団の一員でもありました。安場は郡山の開拓の必要性を感じ、中條政恒を典事(課長)に任命して開拓を始めます。安場がなぜ福島の県令としてやってきたかは不明ですが、それの謎を解くエピソードがありました。
安積国造神社の第55代宮司である安藤親重の3男、安藤重信は学問が好きで、親の反対を押して学問のため江戸へ出て、昌平坂学問所に入り、佐藤一斎に学びます。いつの頃からか、重信は「安積艮斎」と名乗るようになります。艮斎は私塾(見山楼)を開きますが、その塾生の中になんと、安場保和がいたのです。つまり、“安積”国造神社出身の“安積”艮斎の元で学んだ安場保和が、“安積”開拓を始めたという事実がありました。
次に、開成社について。福島県にはお金がなく、開拓のためお金を出してもらおうと、中條たちが商人を説得して開成社を作ります。その初代社長が阿部茂兵衛です。
その開成社の名のいわれについて。安積艮斎が学んだ昌平坂学問所林羅山が営んだ私塾が起源)は、後に“開成”学問所と言われるようになります。現在、郡山にある“開成”という地名と繋がります。「開成」とは何か。元々郡山にあった地名ではありません。四書五経の1つ、易経の「開物成務(物を開き務めを成す。学問をして、世の人知を開発し、事業を完成させること。)」からきています。

経営学ピーター・ドラッカーの言葉「知識とは、それ自体が目的ではなく、行動するための道具である。」と一致するものです。
「行動するために知識を得る。」「学ぶということは、知識として蓄えるのだけではなく、次に行動するための道具である。」と理解すると、開成社と名付けられた理由がよく分かってきます。今の我々にもあてはまるような気がします。

安積開拓が始まった当時の郡山の人口は5千人でした。その少し前の東京の人口は100万人、そのうち遊女は2万人(郡山の4倍!)だったそうです。そこに全国9藩から士族2千人が入植しましたが、最初に入植したのは二本松藩のたった20人だったそうです。
他にも様々なエピソードがあります。開成山大神宮が出来た理由、それは入植者の精神的な拠り所として、遠くからでもお伊勢様(伊勢神宮)を拝める遥拝所が欲しかったからだそうです。開成山公園の五十鈴湖(開拓のため池)の名称は、伊勢神宮の外宮と内宮の間に流れ、身を清める五十鈴川が由来です。

中々開拓が進まない中で、大久保利通明治天皇行幸の先遣隊として郡山にやってきます。大久保利通と安場保和は岩倉使節団の仲間。安場は大久保に安積開拓を国で面倒を見てくれないかと頼み、大久保はそれを受け、国営事業としての安積開拓がスタートしたそうです。国営事業となり、安積疎水も始まりました。その時に土木技師であるオランダのファン・ドールンを招聘しました。その縁から、郡山市とファン・ドールンの故郷ブルメン市は姉妹都市となっています。(ちなみに、十六橋水門にファン・ドールンの銅像がありますが、第二次大戦中に金属類の強制供出命令が出た際、敵対国人であっても安積疏水の恩人を戦場へ送ることはできないと銅像を埋め隠し、憲兵隊の度重なる追及にも「知らぬ存ぜぬ」で通した逸話があります。)

なぜ安積開拓が行われたか、という疑問に戻ります。
明治政府が安積開拓を国営事業とした理由、それには治山・治水の他に「治安」という狙いがあったのではないか、ということです。明治維新後、刀を捨てた侍達が食うに困り、西の方では不平不満から小さな反乱がたくさん起こっていました。反乱を治めるため、職を与える公共事業として、そして、蝦夷の地、東北の入口である福島県に明治政府の威光を示すために、安積開拓をやる必要があった。明治天皇行幸もそういった意図があったのかも知れない。また、自由民権運動を抑え込むという目的もあったのかも知れない。もし安積開拓が必然であったとするなら、と考えてみるのも面白いかと思いました。

安積開拓が始まった明治5年、これは福沢諭吉が「学問のすすめ」を書いたのと同じ年です。そして、東京・横浜に汽車が走ったのも同じ年。明治5年は、文明開化の出発点とも言うべき年です。この頃、皆が西洋の学問・思想を吸収し、そこに東洋の学問・思想を合致させていた。「学問のすすめ」には、西洋の言葉(アメリカの独立宣言)が引用されている一方で、儒教(東洋)の精神「仁・義・礼・知・信」も説かれています。このような時代背景の中で行われた安積開拓は「知」の開拓だったとも言えます。



学問のすすめ」には、「天は人の上に人を作らず 人の下に人を作らずと言えり」という言葉があり、「言えり」とは、「そういうことが言われている。」という意味ですが、どこで言われているか、それはアメリカの独立宣言の言葉です。自由民権運動に繋がる思想が、独立宣言には全て入っているとのことです。
学問のすすめ」には「学問を頑張り、物事を知る人は社会的な地位が高く富める人になり、学ばない人は貧乏で地位の低い人になる」とあります。しかし、と塾長。「貧乏でも立派な人もいるし、偉い人でもろくでもないない奴はたくさんいる。学問のすすめは、当時通用した思想かもしれないが、それが現代には似つかわしくない学問になっているのではないか。」という疑問を呈しました。

福沢諭吉が書いた本だからといっても、正しいと鵜呑みにせず、間違っているのではないかと立ち止まって考えてみる。「不憤不啓 不悱不発」の気持ちで読んでみると、また新たな視点が見えてくるのではないか、と。

台風被害の後、略奪が頻発したフィリピンの人々と、3.11の後でも略奪なくキチンと並んでいた東北の人々の違いはどこからくるのか。東北人には学問があり、フィリピン人には学問がないのか。それは「いかに貧しくとも東北の人間には学問があった。」のではないのだろうか。貧しくとも勉強することができる環境にあった東北に比べ、フィリピンには勉強ができる場がなかった。極端な貧しさは、勉強する環境やチャンスまで奪ってしまうのではないのだろうか。

「なぜ安積開拓、明治維新があったのか」を考え直してみる、「明治維新による文明開化が日本にもたらしたもの」それを考えてみるのも面白いのではないか、と投げかけたところで講義は時間切れとなりました。

正直、今回の講義の後半、「学問のすすめ」が出てきた以降の部分は理解しきれず未だ悩んでおります。ですので、講義録もトンチンカンで全然まとまっていません。申し訳ありません。次回、塾長に聞いてみたいと思っていますが、皆さんのご意見を伺えれば助かります。
しかし、安積開拓はとても楽しく学ばせていただきました。安積開拓には多くの苦難があったことと思います。開成山公園には「一尺を開けば一尺の仕合わせあり 一寸を懇すれば一寸の幸あり」という碑があるそうです。「開物成務」の精神で事業をやり遂げた先人達がいたからこそ、現在の「経済県都」と呼ばれる33万都市への発展があります。先人達に思いを馳せながら、旧郡山村から旧桑野村へ向けてさくら通りを通勤する。塾長がふと漏らした「何にしても、自分の足元を知るってことは大事なことだ。」という言葉に感じ入った次第です。

ps.塾長、塾生の皆さん、講義録が遅くなり大変ご迷惑をおかけしました!
(小林宇士記)