第74回粒々塾講義録

テーマ「現在を考える〜強者と弱者〜」

強者とはナニか?ダレなのか?では、弱者とは?

自らの入退院の経験から、強者と弱者の関係性を改めて考える機会になった。医療分野においては、強者は医者・看護師であり、弱者は患者である。という塾長の問題提起。

原発から南に約22㎞。福島県広野町にある高野病院(内科・精神科)。東日本大震災で起きた原発事故以降も、自らが避難することなく診療を続けていた高野院長が、昨年末の火災で死亡。高野氏が患者ひとりひとりと向き合い同じ目線に立つことで、強弱という極端なバランス関係ではなく、お互いを尊重しあう関係が築かれていた。高度な先進医療技術の有無ではなく、高野先生の人柄に魅了された人々が自然と集まる場所となっていたようだ。現在、様々な苦難があり、継続することが非常に厳しい状況に置かれている。

以前、話をしたと思うが、「四苦八苦」という言葉がある。

人としてこの世に生を受けたからこそ、すべての人が同様に経験する苦しみの四苦「生」「老」「病」「死」。この四苦に、人であるからこそ感じ得る苦しみの四苦「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五陰盛苦」を合わせたものが八苦といわれる。四苦と八苦は、異なる意味を持つ。
片や逃れられない自然の所為。片や人間の感情や欲望。

苦しみの感じ方は一人一人で異なる、だからこそ希望を常に持ち続けることが何よりも重要。

いま、「キボウ」という言葉は、どこか汚されたコトバになってしまった。

「希望」に関する書籍や映画といえば、下記代表作。

1)「この国には何でもある。… だが、希望だけがない。」で有名な、著者村上龍の「希望の国エクソダス」。国に絶望した中学生が「希望」を夢見て起こした変革が壮大なスケールで描かれている。
2) 園子温氏の「希望の国」は、東日本大震災で起きた原発問題を取り上げ、震災後の「絶望」を、あえて「希望」という言葉に置き換えた内容となっている。
3) 金子修介監督によって製作された「希望の党」は、2005年に総務省明るい選挙推進協会により製作された20分の短編映画。
選挙には全く興味がない父と母、真逆に政治への意識が非常に高い娘。映
画内で登場する「希望の党」が政権を奪取すると、恐るべき方向へ流れが進んでゆく。ふたを開けてみれば、とんでもないファシスト政権だった。この映画は、選挙が決まってから、ネット上では削除されている。

「…70代の男性が、わたしとのあいだの空間に、両手で三角と直線を描きました。『あんたには在る。おれたちには無い。在るひとに、無いひとの気持は解らないよ。』柳美里氏の「JR上野駅公園口」からの引用。

戦後の上野駅は、浮浪人のたまり場。ノミ。シラミ。目はギラギラ、獲物を狩るかのような雰囲気を醸し出す「浮浪児」。
カレラは、集団疎開から産みだされた人。集団疎開で地方に移り、空襲後東京に帰ってみたら家がなかった。両親がいなく、家もない。当時は浮浪児狩りが横行し、白い粉を吹き付けられ(シラミ対策)トラックに乗せられどこかに連れて行かれた。。

現代社会で「元浮浪児でした」と名乗り出た人はいない。

現代に目を移すとホームレスとどこかで合致する。
全国で1万人といわれているが、実際のところ国は正確には把握していない。東京オリンピックまでには排除されるであろう。

ホームレスは“社会的な弱者”と見られがちだが、考えようによっては、時間的また精神的にみると誰よりも「自由」を持っているのかもしれない。生き方からみれば、もしかすると強者なのかもしれない。

朝日新聞の歌壇欄で注目を浴びた「ホームレス歌人公田耕一氏。「柔らかい時計を持ちて、炊き出しのカレーの列に2時間並ぶ」。柔らかい時計とは、ダリの時計を意味している。「ダリ」を知るだけの高い知識をもちつつも、ホームレスになる。その心は、自由を求めてなのか。

ホームレスに関連した書籍
・拾った新聞で字を覚えた「セーラ服の歌人鳥居」。
壮絶な人生を歩むも、今は歌人として名を馳せる。
藤原新也の「東京漂流」の光景がその本から浮かんでくる。
彼女の一首。
「書きさしの遺書、伏せて眠れば死をこえて会いにおいでと紫陽花の咲く」
太宰治の「遺書」と通底するものがある。

・原作は村上たかしで、著者原田マハの「星守る犬」。
信号が黄色になったときに、ブレーキを踏んで止まった。電光掲示板に、“白骨化した遺体が見つかった。そのそばには、犬の死体があった。男性は、死後2年。犬は、数か月”と言う字を読んだ作者のモノローグで始まる本。

犬は捨て犬だった。娘が拾ってきたが、その後は男性が世話をした。男性は(おとうさんとハッピーと名付けられた犬は呼んでいる)。リストラ、持病悪化。家族崩壊。男と犬は車で旅に出てたが、お金を盗られ、車のガソリンも底が尽き・・・。
犬と人間の暮らし。困った人や悲しみのどん底にいる人に、語りかける本。

さて、話が変わるが、と塾長。

座席が埋まり、立っている人もちらほらの電車に、ハイキング帰りの50代の男性1人と女性2名が乗ってきた。
3人掛けの席には、茶髪の男性二人。中年男性はこれ見よがしに、「最近の若い者は、年寄りを立たせるのか」と、嫌味をはなつ。
若者は、「あなたがたは今まで山歩きをしてきた。山を歩いたのに電車では立てないの?
おれたちは、これから仕事なんだ。休日働いて、あんたたちの年金をつくっているんだよ。おれらの時代は、優雅に山登りをして、年金をもらってなんて時代は実現しないんだ。どこかの空いてるシルバーシートを探して来たら?」と返答。

塾生に「ある休日の電車の中での話」として、こんな問いかけを。

「さぁ、あなたは、どちらの言い分が正しいと思う?」

世代間。年金。寛容さ。人間力。価値観。未来。過去。世界観。環境。

正解はない。強者と弱者、このようなシチュエーションでは、答えの出ない質問。
人は、様々なシチュエーションで、弱い自分と強い自分を使い分ける。

ぜひ、ご家族で、こんなお話をしてみてはどうだろうか?
いろんな考え方や価値観がみえてくる。

さて、近づく2025年問題。団塊の世代が、後期高齢者。その時に何が起きる?
介護費医療費個人負担。地域包括ケアシステム。シニア施設の人材確保。

日本人だけでは、クリアできない問題がすでに山積している。

国会議員は普段は強者だ。選挙になると、途端に弱者に変身し頭を下げまくる。当選し、バッジをつければ、また強者に戻る。
選挙のときだけ、国民は強者になれるのだ。今回の選挙は大儀のない選挙。国民だけではなく、政治家もわかってない。明確な理由をあげれば、もっと意味のある選挙になるしそうあるべきなのに。
誰も投票するに値する立候補者がいない場合は?投票所に行きましょう。誰もいなければ、白紙で出してもよい。比例で党をかく。政治に参画することが何よりも重要。

Ask not what your country can do for you, ask what you can do for your country.
ジョン・F・ケネディの言葉。名言。若い世代に向けて発せられた言葉である。
若者を魅了するような言葉を今の政治家は持たない。

一つの社会現象として、「分岐点」は常にある。
例えば、昭和は、スターの時代。石原裕次郎美空ひばり
平成は、アイドルの時代。AKB48の顔ぶれを見分けられる人は、一体どのくらいいるのだろうか?

この50年間、日本の政治家は、「言葉」を持っていない。
現代の政治家の言葉といえば、英語をカナ読みにすることが大流行。
ダイバーシティー・ワイズスペンディング・リセット、アウフヘーベン「何もご存知ないのね、辞書で調べてごらんなさい」と記者に言い放つほど。

映画から本からことばを盗み取り発する。残念ながら印象に残る言葉は何もない。国民に心から発せられた言葉はどこにもない。誰にもわかる言葉で、伝えなければ伝わらない。きっと、それは伝えたい「ことば」が持たないからだろう。

分岐点といえば、下記も代表的な例であろう。
国内の分断。

9.11 アメリ同時多発テロにおいて、宗教観の差別が生まれ、3.11 東日本大震災においては、地域の差別が生まれた。価値観を変えられた人たちの差別が、新しい強者と弱者の流れを作り出している。

近年では、ミャンマーのロヒンギ族。アウサン・スーチは、民主化運動を進めた人間だが、その弾圧に関しての一切のコメントがない。スペインのカタルーニャ独立運動なども一例である。世界各国で、様々な事例が増えつつある。

常に社会のしわ寄せは、弱者に来る。

年収1000万の人間が、200万の生活を語れない。若者を踏み台にして、その上の世代が逃げ切ろうとしている。社会の持続可能性のためにも、早くバトンを次世代に渡すべきだ。

昭和から平成、人口が増えない中、与えられたパイの中で、どのように生きるのか。
内閣府の調査では、今の生活に満足していると答えた若者は73.9%であった。その数値は何を物語るのか?
70%を超えているからいいのか?意図的なメッセージが込められているような。色んな意味で日本という国は、「溶けだして」いる。

塾生の一人から、こんな詩が紹介された。20年前、当時、小学6年生だった子が書いた詩だ。

「私の席」
満員のバスに
おばあさんが乗ってきた
ポニーテールの女の人が
「すぐ降りますので」
と席をゆずった
でも その女の人は
次の停留所でも
四つ目の停留所でも降りなかった
私は胸がいっぱいになって
いつもより一つ早い停留所で
バスを降りた
あのポニーテールの女の人
私の席にすわってくれたかなあ

今回の講義は、選挙前に開催されました。改めて、講義録が大変遅れて申し訳ありません。
いろいろ書きたいことが、たくさんありますが、短めに。

明確な答えが出ることはなくても、常に国の在り方の意見を交換する機会を持つことは大変重要であるかと思います。それは、己の価値観だけではなく、世の中にある多種多様な価値観を学ぶことで、自分の世界観をひろげることができる。
明確な意思表示がなくとも、そのココロを理解できるのが過去から息づいているはずの日本のココロ。
表裏のない「おもてなし」を筆頭に、日本の伝統・文化・慣習などの「ニホンらしさ」は間違いなく世界でも評されるモノである。西洋の考え方や言葉が国内に流入し、日本の良さは希薄になり続けている。
希望という言葉を使うことに躊躇いを感じる自分がいる。本来の意味を失わせられたような違和感はなんだろう。個人的な意見ではあるが、映画「希望の党」は現代版に利用された。「希望の国エクソダス」の一文に関しても同様である。本来、書籍や映画で使われていたソノ意味を、政治に利用し奪い去った罪は大きい。
講義の中で、様々な書籍や映画のオススメを紹介していただきました。時代背景や人物像など、それらに登場するコトバ一つ一つは、作者のメッセージ性を多く含んだものとなっているはずです。主人公の目線に自らを合わせることで、新たな世界観を学びえることができるのだろうと考えます。
「星守る夜」と言う本をを読んで、印象の強かった一文がある。
“見えないくせに、届かないくせに、星を追い求めて夜空を見上げていた私の犬を想った。望んでも、望んでも、かなわないから、望み続ける…人は皆、生きて行く限り、「星守る犬」だ”。
何かを望むことは、長い人生の中で最も重要な要素である。そこに辿りつくまでに、山があり谷がある。だからこそ、ソレを望むのだと。
 強者弱者という構図ではなく、相手を慮る心を持ち、相手の目線に自らが合わせる事が簡単なようで非常に難しい。いつの時代も「言うは易く 行うは難し」。自らを律しながら、私も邁進してまいります。
(菊池亮介記)