第78回粒々塾講義録

今回の塾の冒頭、塾長は二人の学生の投稿記事を紹介してくださった。

一人は16歳の高校生。
数年前に海外旅行に行った時のこと。当時は、スマートフォンも今ほど普及しておらず、旅の間は現地の人とのコミュニケーションを楽しみつつ、いろんな情報を得ることができた。しかし、現在は困ったら何でもスマートフォンで調べることができてしまう。何気なく交わしていた現地の人との会話が恋しくなったそう。自分たちの生活は、便利になった代わりに大切なことを奪われてはいないか、という記事だ。

もう一人は20歳の大学生。
SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)についているブロック機能について。
都合の悪い相手とSNS上で二度と連絡を取りたくない時など、ブロック機能を使うと、気まずい思いをすることなく、静かに縁を切れるという。これが、「付き合う人を選べる」という傲慢な感覚を人々に根付かせていると思う。伝えたかった思いは、自分の中で反芻するのではなく、きちんと相手に伝えるべきではないか、という記事。

この記事に今日の講義の問題提起と答えが詰まっている。

*映像栄えて文字滅ぶ
スマートフォンによる撮影が、誰でも簡単にできることから、ニュースに流れる映像も、「視聴者提供」によるものも多く見られる。
インスタグラムが流行り、文字で伝えるコミュニケーションは短くなり、映像の交換が主になってきている。
スピードが求められる現代、言葉で伝えるよりも、映像で自己表現。映像を見た方が一目瞭然だ。しかし、これでは考えるという作業が欠落し、文字や言葉が、日本語が、劣化の一途をたどってしまう。日本語が衰退していく悲しさ、さみしさ。これは問題だと思う。


教育現場でも、スマートフォン
保護者の間での連絡もライン。スマートフォンを介して「会話のようなもの」がされているが、それでは人間の生のコミュニケーションを失っていく。議論とは言わないが、対話が人間の生活には不可欠。

スマホには、生活に必要なもの、いや、必要以上の機能が満載されている。(買い物、銀行、電車の予約など)
悪いことではないが、良い面と悪い面がある。スマートフォンの中には、天使と悪魔が同居している。それを人間が使いこなせていない。
人は、非常に便利な機械を手に入れて、「スマホ文明」を開化させてしまった。そこに商業が入ってくる。(例:メルカリ、こどもの喜びそうなゲーム)
ユーチューバーなる職業も出てきた。ネットフリックス(動画配信サービス)などだ。

小津 安二郎の言葉にこんなものがある。
「 何でもないことは流行に従う
重大なことは道徳に従う
芸術のことは自分に従う 」

塾長曰く、小津さんの言葉を借りるならば、SNSを 敢えて「何でもないこと」と捉えるなら、流行に従うようにしようかな、排斥しないようにしようかな。なぜなら、それが現に今存在して、日本人の生活に定着した文化になってしまっているから、それをいくらあらがっても、今の時代を見る目を曇らせてしまうかなとも思う。小津さんの言葉を現代の生き方として受け入れるしかない。

SNSにみる3つの社会現象

? 情報発信ツールとしてのSNS
  トランプ政権がその例。ツイッターで直接発信、世界はその140文字に翻弄されている。

デマも含めてあっという間に拡散される。SNSの怖さだ。
既存のジャーナリズムには真実はなく、ネットの中には真実があると言う人がいる。
しかし、デマが生まれ拡散されるのはSNSによるものだ。
それを果たして、ジャーナリズムと言えるのか?
結局は、自分たちの不満のはけ口。今の時代、大なり小なり、みんな不満とかストレスを抱いている。どうやってそれをぶちまけるかによって満足感を得ている。その表現ツールとして、SNSが発展したのではないだろうか。

? コミュニケーションツールとしてのSNS
SNSでつながる」とは、本当に繋がっているのか。本当にSNSはコミュニケーションを取れているのだろうか。例えば、就職試験において、企業が求めるのは、SNS能力に長けている人ではなく、あらゆる仕事にきちんと報告できる表現能力を求めている。
  短い文章で思いを伝えることはできても、論理的にものを書くことが出来ない人は求められていない。書く能力は、論理的に筋道をたてて、物を考える力と重なる。

コミュニケーションに革命が起きたのは、1990年代半ば、つまり携帯電話とパソコンが発展してきた時代。バブルの絶頂期と重なっていた。あの時代は若者も物理的には豊かだった。ITが進化しスマートフォンの時代になった今、当時をうらやましがる若者はいない。スマートフォンもない時代=石器時代には行きたくないという。高級車がなくても、美味しいものがなくても、スマートフォンでつながっていれば良いという。

? 写真機能としてのスマートフォンのせいで…
スマートフォンのおかげで、誰でも簡単に発信できるような時代になった。そのせいで、自分が巨大な力を持ったような幻想を持ってしまう。(自己顕示欲の強い)攻撃力の高い人たちは、スマホを通じて何かを発信する。周りが同調や誹謗によって反応すると、自分は正しい、自分は世の中に影響力があると勘違いしてしまう。そして、書き込みに拍車がかかる。発言内容が過激になってしまう。

ネットメディアが台頭したことによって、フェイクニュースも出てきた。
既存のメディアはどう立ち向かっていったら良いのか。

調査報道→既存のメディアはシフトしていかないといけない。そのまま伝えるだけではいけない。チェックすることをしないと。
検証報道をしなくてはいけない。
これらには「考える」という作業が重ねられている。
ネットと同化してはならないのだ。

*最後に
情報がは多岐にわたって溢れている現代社会で、
喧嘩し合うのはなく、意見の異なるものを排除して、自分と似ている意見に同調しているだけではダメ。メディアに対する批判は今に始まったことではない。ジャーナリズムに対して、関心がこんなに高まったのは逆説的にいえばSNSのおかげかもしれない。
あらゆるメディアに溢れる情報をどう読み込むか、ということに加えてもっともっと、新たな観点からのメディアリテラシーが必要。
もっと対話をしようではないか。

☆今月の推薦図書☆

インターネットが壊した「こころ」と「言葉」
森田 幸孝
(幻冬舎ルネッサンス新書)

(今回の講義によせて)

わからない言葉に出会うと、すぐに検索してしまいます。先日、スマートフォンの電源が切れて使えなかった時も、私の頭の中にすぐに、「あ、検索すればいいや」と浮かびました。それは電気のように素早く、自分の中に走った反応でした。考えるよりも先に検索という感覚が、体に染みついている、と少し恐ろしく感じました。
スマートフォンがないと、何もできない、何もわからない人になってしまう。
冒頭の高校生と大学生の感覚は、とても人間らしく、救われる思いでした。対話を必要とすること、伝えるという事の大切さを感じられる若い人が、いつまでも多くいることを願います。それには、心の通った言葉を使って、私達自身が伝えていかなければいけないと思いました。

(石田庸子 記)