第83回粒々塾講義録
テーマ「不安な個人・衰退する国家」
今回の講義タイトルは、今の我々、この国を表している表現。
様々な不安を抱え、国家は衰退していると思われる中で元号が変わる。
元号「令和」。
万葉集の歌集「初春の令月にして、気淑(よ)く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後(はいご)の香を薫(かをら)す。」からの引用とのことだが、出展は中国・張衡(ちょうこう)という人が書いた帰田賦(きでんのふ)からきたとも言われている。
安倍首相は会見で「梅の花のように咲き誇る花を咲かせる日本でありたい」また、「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つという意味が込められている」と述べたが、内閣発足時に明確な説明がなかった「美しい国」。
これと「令和」という元号がキャッチフレーズ的に重なり合う。
大正から明治に元号が変わったとき、明治の庶民はすぐ敏感に反応し「落首」でおちゃらかし、国に対してものを言ったというが、現代のメディアは決まった1ヶ月前からバカ騒ぎをはじめた。
やはり、この国は衰退していくのではないだろうか。
とにかく、様々なことがあった「平成」が終わるが、平成は日本にとって転落の時代だったのではないだろうか。そして、夢も希望もない話をすれば「令和」は奈落に落ちる新しい時代になるのではないだろうか。そんな不安が頭をよぎる。
平成という時代を一言で言えば天災の時代。雲仙普賢岳、阪神淡路、東日本、西日本豪雨、その他、大災害の時代だった。
哲学者・梅原 猛氏は原発事故に対して「文明災」と名付けたが、この言葉から、発展してきた文明の編成としての平成があったのではないかと感じる。
時代の受け止め方はそれぞれだが、別の視点で振り返れば、インターネット、携帯電話と共にあった時代ともいえる。
平成に入り、インターネットが登場し、パソコンというものが使われるようになった。
これは、日本にとって大きな転機であり、今も我々はパソコンを使っている。その後、携帯電話が登場した。それもスマホというしろものが。
その現象の中にあって、差別、格差が露骨に進行した時代だとも言える。
例えば、「アンダークラス」という言葉は、日本には928万人いる年収186万円以下の人をさす。日本では、約1千万人がその年収で暮らしている。
一方、テレビでは何のためらいもなく、高額所得者の豪邸番組を放送し続けている。このことに、とても違和感を覚える。
さらに、4、50代の引き籠りの大人が増えている「8050」問題。
80代の親を50代の子が面倒をみるとは逆に、80代の親が50代の子の面倒をみている。この年代が増えた理由は、バブルの崩壊後の企業の人員削減。これをきっかけに非正規雇用が生まれ、労働環境などの問題も重なり、どうにもならなくなった人が引き籠り、親の年金で暮らしている。もちろん、親の介護をしている人も沢山いる。
「8050」問題。これは、今後の日本の課題になってくると思われる。
ネットと共に平成が始まり、ネットが人間の社会を侵食し、ついにはAI、スマホが人々の生活を激変させていく。この世界、この時代をどう生き抜くか。
時代は元号によって区切られるものではないが、「昭和はどうだった」、「平成という30年は何だったのか」という振り返り方も私たちには必要なのではないだろうか。
降る雪や 明治は遠く なりにけり
元号が「令和」になったころ、我々は「散る花や 昭和は遠く なりにけり」にとでも詠もうか。
時代の認識は、その時代を生きた人達が、その元号で括られた時代を、様々な人と話す事によって、自分の中でも整理され、確認し、認識し、そこから見えてくるものがある。平成の30年間を振り返ると、日本は微量な出血が続いていた時代の様な気がする。
GDP、平均余命、寛大さ、社会的支援、自由度、政治は腐敗をもとに測る「幸福度指数」。
幸福度指数=国民がどれだけ幸せだと感じているかという指数
日本の幸福度は直近で世界58位。前年は54位。日本の幸福度指数は下がり続けている。このことをみても国家は衰退しているのだと思う。
平成経済は、バブルが崩壊し、非正規雇用を含め、はしゃいでいた人たちはバブルと共に消えていった。
以降、政治は劣化し、格差の拡大を止められず、倫理の面でも重要な閣僚達が虚言と暴言を繰り返している。そんな幼稚な政治家を支持する人たちがいるということも劣化だと言える。
また、平成という時代は異常なまでに災害が多かったが、唯一評価できる点としては「戦争」が無かったということ。
しかし、戦争には巻き込まれなかったが「オウム真理教事件」が生まれた。このオウム問題とは、いったい何だったのだろうか。
単純にオウムを悪と決めつけるだけではなく、もっとこの事件が起きた原因、本質を考えなくてはならなかったのではないだろうか。
インターネットから携帯、スマホへ。人々はSNSを通じて思いを伝えるようになった。フェイスブックでも異常に思いを述べている人がいる。しかし、それは思いであって考えではない。思いは考えではないのだ。
結果、反知性主義が世を席巻し、世論はネトウヨとブサヨの二極にわかれた。
おかしなネット訴訟も含め、この世界は一度入ったら流されやすい。
自己を持ち、情報を取捨選択し、しっかり自分の根幹の考えをもつことが重要である。
国家の衰退のもう一つの大きな事象は、少子高齢化。特に高齢化である。
出生率が下がれば国民の平均年齢が高くなることは誰でもわかる。
平成になって人口問題の警鐘を鳴らした堺屋太一氏。そういう人も次々に亡くなって行く。政治家、国は何も対策を立ててこなかった。
先進国では、フランスだけ出生率が高まった。政治家が国家の危機について真剣に考えた結果だといえる。
現在の日本は約3.5%。先進国150か国の中で114位。あまりにも低すぎる。
上位は北欧諸国、続いてフランス、アメリカは59位。
日本は私学の助成金を減らし、国立大学も減らし、将来は0にする方針。
いつから日本は子供たちの教育費を削るようになったのだろうか。
教育費とは未来への投資であり、日本人は江戸時代から教育熱心で、それによって高い識字率が生まれた。来日した外国人が、これほど庶民が本を読んでいる国はないと驚嘆した歴史がある。
この日本人の識字率から生まれた知力が、明治維新以降の文明開化の支えとなり、列強による植民地支配を知力で防いだ。
教育は長期的な国力を養う。しかし、今の日本の教師は雑務に追われ、残業を強いられ、肝心の子供たちとの時間を削られている。本来はもっと創造的であるはずなのにその余裕がない。
今では東大卒の学生でも中央省庁には行かず、民間企業に就職する。声には出さないが、忖度の統治機構と劣化した政治体質に見切りをつけている。
これも衰退している国家の一つの象徴といえる。
国の借金、債務残高も増え続けている。国債発行は次の時代への借金である。
年金問題やその他もろもろおこなわれていることも将来のツケ。大人たちは未来の子供たちの資産を食いつぶしている。
昭和の政治家は将来の理想像を持っていたが、現代は全く感じられない。政治家の国家に対する理想像は平成の時代ですっかり無くなってしまった。
この国の暮らし、出産、育児、教育といった現場から離れたところで、既得権益にしがみついている人たちが未来を食い物にしている。
政治家、官僚は日銀短観四半期の数字しか見ておらず、原発のような重厚長大産業には未来が無いということは福島で経験済みのはずなのに、未だに投資をおこなっている。
女性を押さえ、子供の資産を奪い、貧民層を増やし続ける。「保育園落ちた日本死ね」という言葉が、今後の日本への呪いの言葉のような気がしてくる。
「レタスクラブ」という雑誌がある。以前は月刊誌だったが、現在は季刊誌に変わり、この雑誌のあり方が今の時代を表している。
以前、この雑誌の特徴は毎号「こだわりの料理」だったが、編集方針を転換し「便利で簡単な料理」に変えたことによって継続している。
「簡単・便利」。これが時代を象徴するキーワードではないだろうか。
毎日のように聞く、「AI(アーティフィッシャル・インテリジェンス)」。人工知能のことであるが、今後、このAIをどう捉えていくか。
スマホでの決済、キャッシュレス社会。これもAIでの技術。便利になるのは良いのだが、高齢者はその対応に苦慮している。
今後、貨幣社会がなくなり、現金を持ち歩かずにすべて電子決済等になると言われているが、高齢化社会の中で、対応は難しいのではないだろうか。
AIの話しの中で出てくる「アルゴリズム」と「シンギュラリティ」。
「アルゴリズム」は、ゼロと1に基づいた計算方式。「シンギュラリティ」は、AIが人間の知性を超える特異点。これが2025年という人もいれば、2040年だという人もいる。
その中でコンピューターが人間の存在を否定し、人間を情報化していくとも言われる。情報としての人間。アルゴリズム的なゼロかイチの世界。
そんな社会の影響は人間の行動にも現れはじめている。
病院、医療現場では、患者の表情や様子といった生身の人間を見るのではなく、カルテやパソコンばかりを見て、人体の情報を読み取っている。
マイナンバーなどは番号そのものが国民であり、一人一人の生身の人間は余分なものでしかない。また、企業では上司がメールで報告しろとメールで指示を出している。
生身の人間が自分の言葉で話し、他の人間と接することによって、正しい情報が得られ、伝わるはずなのに、本人が要らなくなっている。
この国からどんどん「人間性」が失われていく気がする。
デジタル化を追求すると関係のないものは削ぎ落された、データだけが必要とされるようになる。人は意味のあるものだけに囲まれていると、いつの間にか意味のないものの存在が邪魔になってくる。
一つの社会現象となって現れたのが、相模原の知的障害者19人の殺害。「この人たちは人間じゃないのだから・・・・」必要じゃないものはいらないといった感覚。この余分なものを削ぎ落とすといった感覚を持った人が、これから増えていくのかもしれない。
AIが侵すことが出来ない分野に「芸術」がある。これは人間じゃなくては創ることが出来ない世界。人間はこの芸術を頭脳と知性で見分けることができる。
これから先、毎日のようにAIという言葉に出会うと思うが、その時に「人間性」、「知性」ということをあてはめて考えてもらいたい。
あらためて、このことを塾生の皆さんには伝えておきたい。
自由の森学園の卒業式、荒井達也という校長の言葉。
今日は、小川町の近くの東松山市、都幾川のほとりにある小さな美術館のお話をします。その美術館は「 原爆の図丸木美術館 」です。
画家の丸木位里さんと丸木俊さんご夫妻が共同で制作した「原爆の図」を展示するために開いた小さな美術館です。一昨年50周年を迎えたそうです。
画家同士の二人が結婚したのは1941年7月、アジア太平洋戦争開戦の半年前でした。その後、戦況がしだいに厳しくなり南浦和に疎開しているとき、広島に新型爆弾が落ちたことを知ります。広島出身の位里さんはすぐに広島に向かい、原爆が投下されてから3日後の8月9日に到着します。やがて俊さんも駆けつけ、二人はしばらくの間広島で過ごしたそうです。
敗戦から3年の1948年、二人は「 原爆を描こう 」と決意しました。それから 34年かけて「 原爆の図 」十五部作を描き上げていくのです。
「 人間の痛みを描く 」というこの原爆の図、どの作品にもたくさんの人間が描かれています。ある作品では焼けて剥けた肌を引きずりさまよっているような人々、炎に焼かれてもだえ苦しむ人々や、多くの屍の山としての人々も描かれています。この「人間の痛み」に向き合い続けた丸木夫妻は、原爆の図だけでなく、南京、水俣、アウシュビッツ、沖縄などの絵を、その生涯をかけて描き続けました。
丸木夫妻が自らの「痛みへの想像力」を広げ深めて描いた作品の前に立つとき、私たち自身も「痛みへの想像力」をもって受けとめようとします。映像や写真、文章とまた違った形で胸に迫ってくるものを感じた人は少なからずいるのではないでしょうか。
この他者の「痛みへの想像力」、今を生きる私たちにとって最も重要な「ちから」の1つだと私は思っています。
丸木美術館で長年学芸員をされている岡村幸宣さんはその著書の中で「痛みへの想像力」について次のように綴っています。
「戦争だけでなく、かたちを変えた暴力は、いつの時代も存在します。公害や原発事故、貧困、差別、偏見…。私たちの社会は、そんな構造的な暴力の上に成り立っていると言えるでしょう。人は誰でも、自分の痛みには敏感になります。けれども他人の痛みを感じることは難しく、遠い国の人の苦しみは、忘れてしまうこともあります。だからこそ、最も弱い立場の人の痛みに、想像力を広げる必要があるのだろう、とも思います。」
現在、日本においても世界においても“ミーイズム”、「自分さえよければいい」「自分の国さえよければいい」とする、利己主義、自国中心主義(自国第一主義)の風潮が広がっていると言っていいでしょう。
これは決して他人事ではありません。
全国の公立小中学校の保護者を対象に調査したところ、「経済的に豊かな家庭の子どもほど、よりよい教育を受けられるのは『当然だ』『やむをえない』と答えた人は62.3%に達した」との報道がありました。6割以上の人がこうした教育格差を容認しているとのことです。
世界を見渡しても、自国第一主義が台頭し、人権や民主主義、国際協調といった言葉が後回しにされているように思います。社会そして世界において「分断」が進んでいると言ってもいいかもしれません。
「自由の森学園の教育とは、自由と自立への意志を持ち、人間らしい人間として育つことを助ける教育」だといわれています。
この「人間らしい人間」とは「痛みへの想像力」を持ち続けようとする人だと私は思っています。人間は他者の「痛みへの想像力」をもっているからこそ、人と人が支え合ったり助け合ったりしながら社会をつくってきたのだと思うからです。
丸木美術館の岡村さんはこのようにも綴っています。
「真の現実を覆い隠そうとする『現実』の皮を引き剥がし、一見変わらない光景に潜む取り返しのつかない変化を暴き出す想像力こそ、私たちに必要とされているのかもしれません」
「痛みへの想像力」は「見えないものをみようとする力」「真実を見抜く力」へとつながっていくのだと私も思っています。
さあ、いよいよ卒業です。
どんな時でも、「 痛みへの想像力 」を持つ人間の可能性を信じ、また、自らも「 人間らしい人間 」としてあり続けるために学ぶことを続けていってほしいと思っています。
塾長が、荒井校長の言葉を読み「自分の感情を込めて、これを最後の塾の話とする。以上。」と締めくくられ、平成22年4月から続けてこられた粒々塾を、今回(83回講義)をもって発展的解消とされた。
講義録を記しながら、これまでの講義はもちろん、開塾から共に学んできた塾生、入会した塾生、退塾した塾生、そして、開塾の翌年に起きた東日本大震災。9年を振り返ると様々なことが思い出される。
粒々塾の講義内容は、本当は真剣に考えなくてはならない事なのに、普段は仕事や生活に忙殺されていることを理由に向き合わず、そのままにしているテーマがほとんどで、講義に参加することにより、物事の気づき、なぜそうなのかを考え、他の塾生からもヒントやアドバイスをもらいながら、自分の答えを見つけだす、深い学びの機会でありました。
面倒で後回しにしがちなテーマと向き合い、自分の中で結論を出してゆく。考える事によって、自分の意見や考えがまとまり、仕事や個人といった様々な場面で、自分の考えや問題に対する解決法を導きだせるようになる訓練の場でもありました。
塾長にあらためて御礼を申し上げたいと思います。
ありがとうございました。
(宮川記)
第82回粒々塾議事録
テーマ ~「考えること」を考える~
“今、我々が考えなくてはならないことは、「あまりにも」多い”
その中で何を考えなければならないのかを考えることは複雑怪奇なこと。
日常生活に横行している横文字やアルファベットの羅列。
単語の意味を知らねば、あっという間に情報の渦に飲み込まれる。
例えば、GAFAを表すのは? Google・Apple・Facebook・Amazonの頭文字を合わせたもの。では、CSとは? Customer Satisfaction, Cyber Security, Communication Satelliteなど。
同じ略字でも、複数の意味を持つ時代である。だからこそ、常に知らないコトバの意味を考えることは重要である。
“「考える」という作業は脳の中で言葉が飛び交っているということ”
それは多様な単語を知っているからこそ、物事を考えることができる。
聖書に記されている「バベルの塔」。人間が高い高い塔を天に向けて築きあげようとしたために、その傲慢さに怒り、かれらの言葉をバラバラにしてしまった。
高層ビルが立ち並ぶ姿は、現代のバベルの塔の様、そしてコトバの集合体も。
スマホの進化は、人間の思考を奪った。
言葉を使わず、ボタン一つで、「モノを買い コトを調べる」
それらはコミュニケーション能力を欠如させ、人として考える事を放棄させるに至らせる。
AIの進化により、ヒトは本来コトバが持つ意味を見失う。
例えば、「ふるさと納税」はことばの矛盾としての代表例。
本来の「ふるさと」の意味からは大きく逸脱し、「コトバの乱れ」として表れる。
どこかで考えを割り切り納得し、返礼品目当てという本来の意図とは異なる方向性へ進んでいる。
「言葉の品格」について触れてみたい。
“物を自由に考える。それには日本語を知らなくてはならない。”
日本語の仕組みや特性を理解してこそ、日本人の頭に文章が創られる
日本語で大事なモノとは、音である。音(オン)で伝わる言葉、それこそが日本語の魅力である。
ソクラテスは「書き言葉を信頼せずに、対話を続けた」とある。
言葉とは、本来社会のなかで生きる人間がコミュニケーションを図るためのツールであるが、スマホの台頭により現代のコミュニケーション力は著しく低下してきている。
新聞はコトバだ
まるごとコトバでできている
コトバは万人のもの
そしてあなた一人のもの
新聞はコトバだ
コトバは情報となり
意見となり偏見となり
まれに思想となり
詩になることもないではない
…
新聞がコトバだ
ぺらぺらの新聞紙ではない
可燃でも不燃でもない
変幻自在のコトバだから
気づかずに人を欺く
… と続く
コトバについて新聞と対話しながら、詩を綴る
「変幻自在のコトバだから 気づかずに欺く」の一文には、新聞は、裏切りやフェイクも混ざっているよという、人を欺いているよとの皮肉も忘れない。
◆平成最後の歌開始の儀。お題は、「光」。
〇天皇陛下
「贈られしひまはりの種は生え揃ひ葉を広げゆく初夏の光に」
「ひまはりの種」阪神淡路大震災で犠牲になった加藤はるかさんの倒壊した自宅に植えたひまわりの種を贈られ、皇居御所で毎年大切に育てている「はるかのひまわり」を歌う。
〇皇后さま
「今しばし生きなむと思ふ寂光に園の薔薇のみな美しく」
年を重ね不安を抱きつつも、バラの美しさに目をとめ、もうしばらく生きようと心穏やかになる様を歌う。
背景にある想いをコトバであらわす品格ある歌、そして命の尊さを汲んでいる。
反面、いじめや虐待、車の煽り運転や不適切な動画など、メディアを通して数多くの事例が発信されている昨今。深く考えずコトバを発する、また感情を抑えられず行動する。稚拙で利己的な社会。
◆(声)若い世代 心の中で生きる親友ぴっぴ
2018年12月28日 小学生 金指沙絵(神奈川県 10歳)
親友のぴっぴが突然死んでしまいました。ぴっぴはきれいな水色のセキセイインコ。わたしが登校したすぐあとにたおれていたそうです。迷惑をかけたくなかったのでしょうか。
その朝、小さな声でピヨピヨピヨと言っていたのは、今思えば苦しかったのかな。生まれたての時からエサをあげてめんどうをみてきました。まだ半年しか生きていないのに。ぴっぴはうっすら目を開いてまだ生きたい、と言っているよう。かわいそうで大泣きしました。
ぴっぴは友達の少なかったわたしの親友でした。短い間だったけど、仲良くしてくれてありがとう。ぴっぴはわたしの心の中でずっといきているよ。ぴっぴ、いつまでも大好きだよ。
庭に作ったお墓の上にユリの種をまきました。来年、きれいな白い花が咲くと思います。
(声) 優しい女の子、涙が止まらない
2019年1月29日 無職 松枝さよ子(佐賀県 76歳)
「心の中で生きる親友ぴっぴ」(12月28日)を読み、ことのほかうれいしい朝となりました。10歳の少女の悲しいけれど、こんなに美しい文章に出会えたのは初めてです。何度も読み返しました。
「ぴっぴはうっすら目を開いていてまだ生きたい、と言っているよう」というくだりには、涙がこぼれました。死んでしまったインコのぴっぴちゃんも優しいあなたを忘れないと思います。
これからも、うつろいゆく日々を書き留めてくださいね。そして、またいつか紙面であなたに会えるよう願っています。ぴっぴちゃんのためにまいたユリの花のように、美しく成長していくであろうあなたの未来を思い描きつつ。
この二つの(声)から感じること
10歳と76歳の会話が紙面を通し成り立ち、ヒトの人格が重なり合う。
SNSは文明の利器であるが、その中身はどうだろうか。
アウグチヌス「食べ物を選ぶように、言葉も選べ」
食材が食べられるものか否かを知らなければ、最悪死に至る。その食材と調理法を慎重に学び、調理する必要がある。言葉にも同様の慎重さが必要であるということである。
「コトバは人間の運命をも変えるほど大きなものです。」(三浦綾子)
慎重にコトバを選ぶことの大切さ。コトバに救われることも、ソレで殺すこともある。
コトバはそれを発した人間の人格を映し出す。
「禍は口より出でて身を破る、福は心より出でて我をかざる。」日蓮
「古人わざわいは口より出でて、病は口より入ると言えり。口の出し入れ常に慎むべし。」貝原益軒
「言葉の取扱者たる資格があるか自問せよ。」イエス・キリスト
堺屋 太一 落合 陽一のこと。
日本の政治家は馬鹿でも務まる。日本の社会システムは有能な官僚で創られてきたから。
堺屋太一の持論だった。
かつて経験したことのない時代へ突入し、今国が蓄積してきた基礎体力が一気に削がれてきている。あらゆる「偽装問題」がそれらに拍車をかけ、国の根幹を揺るがしている。以前とは大きく異なり、官僚も偽装の一端を担ぐ時代となった。
超少子高齢化の時代が来るとは思えなかった過去、そして問題化されてきても無策で臨み続けてきた現代社会。
落合陽一が文芸誌で語っていたこと。
背に腹は代えられないと、社会保障費の増大を、週末期医療の是非という極論で語る。人の命や人権をコスト削減で括ることの危機的社会状況。このような若手の論客を生み出したのは、なぜ?そして、だれ?
命や人権をもっと大切にする世の中であるべき。
次回の塾は、AIに関して。
本日の推薦図書は「AI vs 教科書を読めない子供たち」(新井紀子)
さて、個人としての感想を綴る。
ツールとは常に目的を成すための手段であり、その位置づけは「人が主」で、「ツールは副」である。しかしながら、様々な分野でのAIによる技術革新は、ツールを主とし、人を副としつつある。その代表的なモノが、スマホの出現だろう。面と向かっては言わないけれど、ネット上では論客になったつもりでコトバを並べ連ねる。特定できない個人がニュース案件の評論家になったかのように。そしてメディアも、その顔もなく本名も知らないコジンヒョウロンカ達に翻弄され、社会に要らぬ種を蒔く。メディアもいわば伝達機能のツールである。いわば、ソレを取り扱うモノによって、すべてが決まる。結局は、「ヒト」の資質である。
強大な威力を持つツールであるならば、特にソノ取り扱いには気をつけねばならない。それを認識しているか否かは、大変重要なことである。文字や言葉の羅列から感情を完全に読み取るのは非常に難しいこと。コミュニケーションという言葉の掛け合いで、喜怒哀楽を読み取り、自我を見失わないよう自らが様々なツールをコントロールする努力をし続けるべきだろう。
(記 りょーすけ)
第81回粒々塾講義録
現代にジャーナリズムを問う 〜さよならテレビ〜
報道媒体の変遷のなかでテレビ報道を取り巻く事象を検証しながらジャーナリズムとはどうあるべきかをテーマに塾は進められた。
さよならテレビ
このサブタイトルは「東海テレビ」が制作した番組のタイトル。
自社の報道局にカメラを入れて、そこから映し出される実相をノーナレーションで「問題提起」したもの。
テレビ局の派遣労働者の問題。
「上」への忖度。
取材したくても出来ない社内の風潮。
それらの姿を通して、今のテレビへの警鐘を鳴らしたものだ。
時代の変遷と今日のTV
ネット時代が黒船のように到来し、これまでテレビや新聞が主役だったジャーナリズムの世界をネットという新しいメディアが侵食してきた。現代では主役が変わりつつある状況にある。新聞やテレビとネット上媒体の違いは何処にあるのかから掘り下げて行った。
決定的違いは、従来のジャーナリズムはこつこつと取材を重ね裏付けを持った報道。
一方で、ネットから流れる情報には裏付けもないし、どこまでが事実かもわからない。あやふやな氾濫する情報。
ジャーナリズムとは権力批判が大きな一つの役割だが、今ではNHKですら権力側の情報伝達機関に成り下がっている。
塾長は、例として最近発生しているパリのマクロン大統領への抗議デモを引き合いにだした。デモでは、警察と民衆がシャンゼリゼ通りでの衝突の姿を映し出している。この状況を報道する側の立ち位置はどこから見るのが正しいのかという塾生への投げかけがあった。
装甲車まで出動している警察隊の後ろ側がら見て考えるのか、民衆の後ろに立ってものを見るのかで景色は変わる。
ジャーナリズムの定義を権力批判が役割と考えるのであれば、民衆の後ろ側にいて民衆の目線から権力の間違いを見つめ報道し、権力の“実像”を伝えていくべきか。
この問いかけをされたとき、私は綱引きの中心でジャッジをする審判のように、綱の真ん中で見るべきなのではないかと思った。が権力側と民衆側では持っている力に大きなハンデがあり、1:1の関係では勝負できない。だからこそメディアの力を発揮し権力側の横暴や誤りを指摘していくことにその意義があると思った。
また、考える材料として他の事例も話された。
昨日閉会した国会では、今後大きな問題が予想される重要案件を、短時間かつ数の力で一方的に軒並み法案を成立させた。これをNHKでは安倍内閣が大きな成果を上げた国会と報道した。これと比較し、アメリカのトランプ大統領とCNN記者とのやり取りの中で、発言を封じるためにマイクを取り返そうとした女性に対し、記者が体に触れたセクハラ行為としてCNNの記者を排除した。この一連の政府の行動に対し、大統領支持側にいるといわれている報道機関でさえもこのジャッジには異を唱える声明を出すなど、ジャーナリズムの気概は失っていない。
今のジャーナリズムのあり方を問うことや、報道を通して何が正しいのかを考える努力の必要性を塾長は強い思いを込めて説かれたように私は受け止めた。
また、最近はジャーナリズム側と政権との距離感もなくなっていることを危惧していた。
政権側の都合のいい報道内容や、「学者や専門家などによると・・・」のような主体的な意見がない報道。これはジャーナリズムではないと。
考えてみれば、記事を書いた記者の強い主張が伝わってくるような記事は最近お目にかかってないような気がする。
話は変わって最近テレビから流れる4K・8Kテレビ
「画素数が飛躍的に大きくなり、きれいな映像でテレビが見れますと。・・・」
しかし、今よりさらに映像が奇麗にみえることよりも、人やコンテンツにお金を投資するべきではないかと指摘された。報道は一つ一つの真実の積み重ねでその事柄の本質を伝えることにある。ソフトよりもハード重視、設備よりもコンテンツ、その大事なところに投資されていないことが、報道の現場が仕事ではなく、作業になってしまっている大きな原因だということ。その事実は、報道を享受する我々の知る権利や気づきにも大きく影響がおよぶことを肝に銘じなければならないことだと思う。
安田純平さんのこと
フリージャーナリスト安田さんがテロリストから解放され日本に帰国した。
待っていたのは「自己責任論」という“同業者”からのバッシングの嵐だった。
本当の考える材料は、今の時代、このようなジャーナリストが命をかけ真実に迫る報道を試みねば「真実」は伝わらないということだ。
かってのベトナム戦争時と新聞社の「社を挙げての報道」とは全く様変わりし、新聞、テレビも紛争地に記者やカメラマンなかなか出さない。なにかあったら「社の責任」が問われるからだ。それらの媒体に代わって取材しようとしたフリージャーナリスト。
塾長はこの議論に自己責任を問うべきではないという意見を示していました。本当の事実を伝える価値があるからといわれた。
自己責任の連呼は、私も違和感を感じていたが、目先の損得の議論はいかにも浅はかと感じる。価値という視点で考えることが大事だと思う。
最後に今の新聞やテレビに対し、ファクトの積み上げでしか大衆の声を引き出すことは出来ないこと。そして新聞テレビは事実を記録で残すという役割に立ち返って復権しなければならないと力説していた。
最後にポツリ「今の日本人おかしいな〜」と・・・
紹介図書 若杉 冽著「東京ブラックアウト」
(記 Mocch)
第80回粒々塾講義録
「現代にジャーナリズムを問う 〜広告と文化〜」
第80回の講義は、広告というものについて考える回であった。
*広告は何を売るのか
「広告とは「何」を売っているものなのか?」
このような問い掛けから講義は始まりました。
広告とは実は商品やサービスを直接売っているわけではなく、そのイメージを売っているものである。例えば、かつて街角に来ていた「金魚売り」などは、「金魚〜、金魚〜」の声を聞くことで、季節の移り変わりや涼しさを想像することができた。これがイメージを売るという広告の原点かもしれない。
*広告と時代背景
20世紀といえば「戦争の時代」「戦争の世紀」であり、その後は「科学技術の世紀」などいろんな顔を持っていた。そんな中、「大量生産」「大量流通」「大量消費」という大きい歯車の中に人々は組み込まれてきた。そして今や「大衆消費社会」。そのエンジンを蒸かしてきたのはテレビでありネットだ。その中に広告の存在がある。
*広告には「見張り」と「批評」の機能がある
見張り機能とは、外界に起きている出来事についていつも見張っていて、人々に関わりのあることを素早く知らせること。批評とは出来事を単に知らせるだけでなく、どう受け取ったら良いかという批評的視点を加えることで、人々に判断の手助けをすること。この見張りや批評の機能に必要なことはジャーナリスティックな感覚。そして、ジャーナリスティックな感覚とは、時代の今に共振するセンス。常に時代の空気に共振するセンスを持っていなくてはズレた見張り役になってしまう。
かつて、西武デパートで「おいしい生活」というコピーを使っていた時があった。糸井重里さんが作ったこのコピーは、時代が単なる「豊かさ」ではなく、生活全般の「おいしさ」を求めるように変わって行くことを示していた。この広告は時代が変わっていくことの見張りの機能をもっていた。
「たくあんひと切れと、松坂牛のステーキと、実はどっちもおいしいわけで。
豪華客船に乗っての世界一周旅行と、ちょいと近くの温泉へなんて旅とでは、
やっぱりどっちもおいしそうなわけで。
そんなはずはない、なんて言う人もいるかもしれないけど、要はキモチの問題であると、思うんですね。おいしさには、順位がない。
そこが、イイと、思うわけで。
だから、「おいしい生活」というのは、とても近いところにも、
遠いところにもあるはずなのです。西武、地下から屋上にいたるまで、
おいしさの素がい〜っぱいありますよ。」
このような言葉が載っていた。
それから、JR東海には「そうだ 京都に行こう」というコピーがあった。
まさに20世紀になって出来た夢の乗り物新幹線。しかし、私たちにはうっかり19世紀においてきた忘れ物がある。それはどこにあるのか?そうだ京都にいけば見つかるかもしれない。「バブルの夢がはじけた後、なにか大切なものを失ったことに気づいたという気分。」それをこの「そうだ京都行こう」のコピーが表現していた。
インスタントラーメンに「Are you hungry?」というコピーの広告があった。
インスタントラーメンのCM。我々はhungryを克服するために20世紀を費やしてきた。しかし、21世紀にも単なる不足というのではない別のhungryという感覚を生み出してしまったのでは?
*ジャーナリズムとコマーシャリズム
80回にわたるの講義の中で、何回かジャーナリズムとコマーシャリズムの一致という話をしてきた。かつて朝日新聞の福島県版にこのような文章を書いたことがある。
「いうまでもなく、民間放送の経営はスポンサーからの広告収入によって成り立っています。コマーシャルなしには成り立ちません。コマーシャルには大きく分けて「タイム」と「スポット」という二つがあります。タイムは番組の提供スポンサーとなること。スポットとは正確にはパーティシペイティブ・コマーシャル、番組と番組の問をメーンに単発的にスポンサーとなることです。
草創期はともかく、いまテレビはジャーナリズムの一翼を占めています。報道番組だけでなく、ドラマでもエンターテインメント系でも、バラエティーでも、ジャーナリズム精神が求められるべきもの−それがテレビの有り様だとおもっています。であるからこそ「ジャーナリズム」と「コマーシャリズム」の一致をはかることが、我々の存在意義をかけた「課題」として提示されているのです。
コマーシャルの提供者は企業か県などの公共団体です。企業は商品を消費者に売っています。消費者のニーズが反映されない限り商品は売れないでしょう。ということは企業は消費者—視聴者の代表です。企業に受け入れられない番組は視聴者に受け入れられないと。」(1997.10.16 朝日新聞)
広告と批評は対極にあるように思われるが、書評を読んで本を買いたくなったり、映画評を読んで映画を見に行くということがある。これは批評が広告として作用していると考えられませんか?
優れた広告には多かれ少なかれ、人々の日常生活に対する“批評”が含まれている。
例えば、ダイワハウスで一ノ瀬メイという生まれながらにして右腕のないパラリンピックを目指す水泳選手を起用したCMがある。腕がない事をヘンだと思わず水泳に打ち込んでいる姿を映したCMです。これは身障者差別に対する批評を広告ながらもっている。また、ダイワハウスのCMで大きい家に住みながらも狭い空間が好きな男性を描写しているCMがあるが、これも身の丈サイズの生活をしていますかという問いかけをしているように思える。
かつて森永製菓に「大きいことはいいことだ おいしいことはいいことだ」というCMがあった。それまで小さな暮らしをしていた人達に「おおきい」や「おいしい」などの贅沢なことの開放感を訴えたCMであった。
CMで批評というのを考えるとこんな例もある。先に「Oh!モーレツ」で有名なCMが一世を風靡し、それからしばらくして「モーレツからビューティフルへ」という風に、CMが移っていきました。時代の見張り番としての役割を広告がこのうまいコピーを通して滑り込ませている。
それから、「24時間戦えますか?」というコピーのCMがあった。これも時代が経って現在の働き方改革の話しにつながってくる。働き方についてうまく表現しているのが、BOSSのコーヒーCMの宇宙人ジョーンズさん。うまいことを言っている。
テレビには1社提供の番組がある。例えば、日立が提供している「世界 不思議発見」という番組などです。この日立のCMで有名なのは、「この木なんの木 気になる、気になる」のCMです。文明的で便利な生活を提供するというコマーシャルの中に背景に常自然を写すことで日立という会社は自然環境の大切さを忘れないでいるという無言のメッセージを伝えている。
そして、忘れられないのは富士フイルムのCM。樹木希林さんの「美しい人はより美しく、そうでない方はそれなりに」。というCMは当時の何でもより美しくなろうとすることへの警鐘を鳴らしていたのかもしれない。
広告というのは、他との差別化を図るのが本当の目的だったのだが、差別化という言葉は使われなくなってきた。差別化という言葉が世の中を席巻してしまって、何でも差別化と言われるようになってしまい、差別という言葉が、悪いことではなくなってしまった。
テレビなどが持つ影響力の大きさと世の中で使われる言葉というのは慎重でなくてはいけないと思う。
近江商人の「三方良し」に象徴されるように商人と顧客の関係は直接的な関係だった。本来、パーソナルとパーソナルな関係だったものが、今では生産者と消費者という漠然としたものに変わってしまった。そこから広告というものが重要な位置を占めてきた。
*広告批評・天野祐吉
かつて、「広告批評」という雑誌があった。天野祐吉さんと島本路子さんという方が主に編集者として作っていた雑誌。批評する広告を批評するというこの雑誌は、広告業界に関わる人間には必読の書だった。30年続いたこの雑誌はもう休刊になっている。
休刊したのは、マスメディアが終わったわけではなく、マスメディア万能の時代、テレビにCMを出しておけば、単純に商品が売れるという時代が終わったのだ。マスメディアという大きい器全体が変わろうとしている。広告だけの話ではない。マスメディアは大衆全体に大量消費、大量生産をうながし、がんがん盛り上げていく装置として機能してきた。その大枠の構造自体が変化してきている。
マスメディア広告に関していえば、Webがでてきたことで、テレビCMにふさわしい内容の広告に専念できるかという本音が出てきた。今のテレビCMにふさわしい内容は企業のオピニオン・姿勢を示すことである。「広告批評」は長年そのCMのクリエイティビティの批評者・消費者にとって広告が有益なものになっているかの見張り役としてその役割を担ってきたのだが、そろそろその役割はおわったのかなと思い、天野さんは広告批評という雑誌を休刊させることにした。
天野さんが朝日新聞に連載した「CM天気図」というコラムをまとめた本があります。3.11の東日本大震災の時のあとに書いたコラムがあります。
「阪神淡路大震災の後に流れた公共CMは、よかったように思う。とくに印象的だったのは被災地に残っている水道の蛇口を写した映像におじさんのこんな声がかぶさるCMだった。「水、出てるよ、水、持ってって、そやけどナマでのまんといて、ぽんぽんこわすよってに」ほかにも、瀬戸内寂聴さんや森毅さんが被災者の人を励ますCMも記憶に残っているが、とにかくそこには”現場”があった。単なる場所としての現場ではない。状況としての現場である。
凝った設定やコピーはいらない。みんなに親しまれている文化人やタレントが、手持ちのビデオカメラの前で励ましの一言を語る。
3.11の後にしばらく企業CMがなくて、ACのCMばかりが流れていました。このACは阪神淡路大震災の後に変身して、良くなったのです。我々が経験した3.11の時のACのCMと阪神淡路大震災の時のACのCMは少し違うのです。ACについては、このようにも書いている。
「ACのCMにタレントが続々出るようになった。それはいいが「部屋の電灯はこまめに消そう」とか「無駄な通話やメールはひかえよう」とか、スローガンを読むだけではもったいない。彼らには自分らしい言葉でエールを送ってほしい。カメラを見つめたままことばを失っている人がいたっていいじゃないか。
いまの世の中の空気とぎくしゃくしてる感じのものが多い。CMは本質的に”グッドニュース”だから、今の世の中ではどうしても浮いてしまうのは仕方のないことだろう。が、こんなときだって、ぎくしゃくしないCMもあると思う。例えば、宇宙人ジョーンズ氏のBOSSのCMやソフトバンクの白戸家のCMなどは、いま流れても違和感はないのではないか。そのわけははっきししている。そういうCMの中には、いまという時代へのささやかな批評の目がユーモアのセンスにつつまれて生きているからだ。
「いまの世の中、どこかヘンだね」とか「もっとみんな人間らしく生きたいね」とかという思いが、その奥に感じ取られるからだと思う。それはテレビの番組についても言えることだ。ま、無理とは思うけれど、この際ACのCMは、そういうところにも思いきって口を出してほしい。たとえば、テレビショッピングみたいな番組の前にこう入れる。「必要もないのに買うのはやめよう」で、番組の終わりにはこうだ。「くだらないテレビはこまめに消そう」これって、節電にもなるし。」このようにチクチクと批評していく。CMというものを文化的に捉えて、どう時代にあうかを考えている。こういう人がいて、広告というものを批評してくれると、我々は非常に勉強になるし、わかりやすくなります。
*日本の総広告費
日本の総広告費というのは、6兆3900億円程度になっています。毎年、少しずつ上がっています。全体では上がっていますが、新聞の広告費は94.8%、テレビは99.1%と下がっています。インターネットだけは115.2%という大きな伸びを示しています。テレビの広告費が下がっているということはテレビの作っているものの価値が下がっているということです。だから、同じような番組ばかりになってします。
NHKは受信料で成り立っているから、制作費に恐怖感は持っていない。ニュースはともかく、NHKスペシャルなどに大きな予算をかけて作ることができる。さらには、NHKスペシャルだけでなく、水中無人カメラを入れたりして、海の中の生態を捉えた番組などがつくれる。しかし、今の民放ではそんな番組は作れず、同じような人が出て、同じような番組ばかりになってしまう。
オリンピックを目指して、NHKは4Kや8Kなんていう放送を開始する。我々にとっていったいどんな意味があるのだろう?画像がこれ以上きれいになる必要があるのだろうか?しかし、今はそういうところにのみお金が投下されていて肝心の番組制作が疎かになっている。民間放送のテレビは唯一戦争を知らないメディアなので、戦争というものに対して真摯に取り組んで番組作りをしてほしいのだが、そういう環境ではなくなってしまっている。これから2020年の東京オリンピックを目指して、冷静になって、どこか批判的な目を持ってテレビをみていると面白いと思う。
天野さんが亡くなって、よりテレビが劣化している気がしています。今では「宣伝会議」という雑誌しかない。広告は手を替え、品を替えいろいろな広告を出してくる。
しかし、そういう広告という一つの文化に対する評論がなくなってしまった、垂れ流される広告に無反応に見ている。そういうことに気づくべきだと思う。
この広告業界の中で、大きな地位を占めているのが広告代理店という存在です。そして、日本で一番の広告代理店は電通です。電通で高橋まつりさんという女性が過労自殺した。しかし、そのことに対して、メディアの批判的論調がいかに少ないか?これは、電通を敵に回すと新聞もテレビもやっていけないくらい肥大化してしまった。今や広告代理店がなくては、成り立たなくなってしまっている。しかも、電通というのは東京オリンピックの運営も行い、選挙では政党広告を行っている。広告代理店は企業の意向は代弁するが、メディアの意向は代弁しない。いまやメディアは肥大化する広告代理店におびえ、代理店の向こう側にいる企業の意向を忖度している。しかし、広告代理店で鍛えられた優れたクリエーターでないとうまいCMつくれない。広告は時代の空気や気分をチェックしているジャーナリズムとして、今の世相をどう表現するのか?広告の送り手にとっては、あくまで広告は人々の欲望を引き出して、それを通して商品やサービスにつなげる手段ですが、受け手にとってはその商品やサービスが自分たちの日常生活をどう変えてくれるのか?自分たちにとってどんな得があるのか確かめるもの。
広告を運ぶ乗り物としてメディアを捉えたときにインターネットが急速に進歩してきました。ネットによって広告の形も大きく変わった。巨大化し複雑化し、資本集約し、暴力化した。テレビCMは、番組を見ている視聴者の意思に関係なくまさに暴力的に割り込んでくる。しかし、ネットの広告には暴力性はない。自分から見たい人だけが見に行けば良い。
テレビの広告は我々の意思とは関係なく一方的にメッセージを押しつけてくる量的な暴力と見せ方の暴力の上に成り立ってきた。それに対してネット広告は自分から働きかけないかぎり出会うことがない。これまで広告を支えてきた暴力性をすてて、それでもなお広告が広告として成り立つのかどうか?これが、今のネット時代の広告を考える上での結論ではないか?
*身の丈サイズの広告。
広告はその時代の人々の欲望の写し絵であって、時代の気分や空気の生きた記録だとするならば、今我々は身の丈に合った広告がほしいな。もう少し今の日本人の身の丈サイズにあった広告があっても良いのではないか?という感じがします。批評家目線で広告を見てみると新たな接し方が浮かんでくるかもしれない。
今回の講義では懐かしいCMの話を交えながら、広告やジャーナリズムについて考える回となった。広告が実は時代の空気をまといながら、人々の日常生活の一番近くでその時代を批評している事に気付かされました。
最近は、Webで得る情報の比率が高くなり、テレビや新聞などで広告を目にする機会が経て散る気がします。しかし、今回の講義を受け、広告を通して時代を見るという感覚を持って、広告に接していきたいと改めて考えました。
(齊藤 邦昭)
第79回粒々塾講義録
第79回粒々塾講義録
現代にジャーナリズムを問う〜テレビを考える〜
粒々塾の小林です。
8月分の講義録を送っておらず、
塾長をはじめ皆さまには大変なご迷惑をおかけしました。
本当に申し訳ありませんでした。
勝手ながら先月メールで送ったつもりでおりました。
(実際のところ送信されていませんでした。。。)
で、本題は「オウム」報道に関連したことから。
日本における極刑、死刑。今回の講義は、普段意識することのないこの制度の是非を考える機会となった。死刑はある意味「国家による殺人」といえる。国際的に死刑廃止に向かう流れの中、個人的には犯罪抑止力を制度の存在意義と捉えていたが、実際のところ抑止力はないそうだ。何のために死刑があるのか、死刑は必要なのか、考え直したいと思う。
今年7月、オウム真理教の死刑囚13人全員の死刑が執行された。通常、死刑執行は事後に明らかにされるが、今回は事前にリークされ、テレビのリポーターが今まさに死刑が行われている状況を報道する「死刑執行同時進行型報道」とも言うべき異常な形であった。しかも、執行前夜には法務大臣と首相が宴会に興じていたというから、その神経を疑わざるを得ない。
【参考】https://www3.nhk.or.jp/news/special/aum_shinrikyo/
執行後、作家・村上春樹が毎日新聞に「胸の中の鈍いおもり」と題した手記を寄せている。
【手記全文(有料記事)】https://mainichi.jp/articles/20180729/ddm/003/040/004000c
『一般的なことをいえば、僕は死刑制度そのものに反対する立場をとっている。人を殺すのは重い罪だし、当然その罪は償われなくてはならない。しかし人が人を殺すのと、体制=制度が人を殺すのとでは、その意味あいは根本的に異なってくるはずだ。そして死が究極の償いの形であるという考え方は、世界的な視野から見て、もはやコンセンサスでなくなりつつある。また冤罪事件の数の驚くべき多さは、現今の司法システムが過ちを犯す可能性を−−技術的にせよ原理的にせよ−−排除しきれないことを示している。そういう意味では死刑は、文字通り致死的な危険性を含んだ制度であると言ってもいいだろう。』
『十三人全員の死刑が執行された』との報を受けて、やはり同じように胸の中のおもりの存在を感じている。表現する言葉をうまく見つけることのできない重い沈黙が、僕の中にある。あの法廷に現れた死は、遂にその取り分をとっていったのだ。十三人の集団処刑(とあえて呼びたい)が正しい決断であったのかどうか、白か黒かをここで断ずることはできそうにない。あまりに多くの人々の顔が脳裏に浮かんでくるし、あまりに多くの人々の思いがあたりにまだ漂っている。ただひとつ今の僕に言えるのは、今回の死刑執行によって、オウム関連の事件が終結したわけではないということだ。もしそこに「これを事件の幕引きにしよう」という何かしらの意図が働いていたとしたら、あるいはこれを好機ととらえて死刑という制度をより恒常的なものにしようという思惑があったとしたら、それは間違ったことであり、そのような戦略の存在は決して許されるべきではない。』
「平成に起きた事件は平成のうちに解決するのだ」という言葉が公の立場の人から発せられたそうだ。来年平成が終わり、新しい天皇が即位する際には恩赦がある。この恩をどう取扱うかということは国家・司法にとって大変なことだが、それを避けたかったのではないか。そんな推測もできる。
オウム事件とは一体何だったのか。オウム真理教とは一体何だったのか。なぜ私たちの時代にあのような集団が生まれ、事件が起きたのか。死刑囚たちが生きていれば、もしかしたら真実を語っていたかもしれない。津久井ヤマユリ園で19人もの入所者が殺されてしまった事件があったように、こういった事件は今後も起こり得る。そのためにも、事件の真相について私たちはもっと知る必要がある。しかし、死刑囚全員の死刑執行によって私たちはその機会を永遠に失くし、真相は闇に葬られてしまった。
現在、制度と司法の判断がある以上、死刑が執行されるのはやむを得ないかもしれない。しかし、司法も判断を誤る。再審請求があちこちで出されている。死刑判決を受けながら一旦再審請求が受け入れられて釈放された袴田さんの例もある。司法という制度がどこまで完璧なのか、どこまで納得するべきなのか、どこまで信じればいいのか。
今回の推薦図書は村上春樹「アンダーグラウンド」。地下鉄サリン事件の被害者の家族、遺族、関係者の心情がそのままの形で綴られる完全なるノンフィクションだ。マスコミが取材する時は、端折られたり先入観を持たれたりするが、作者はそういうことをしなかった。『私の文章力は、「人々の語った言葉をありのままのかたちで使って、それでいていかに読みやすくするか」という一点のみに集中された。』と彼は本書で述べている。目次には地下鉄の路線名とインタビュイーの名前だけが並ぶ。この本には何の脚色もない、と示しているようで印象的だった。
本書のあとがきにはこう綴られている。
『1995年の1月と3月に起こった阪神大震災と地下鉄サリン事件は、日本の戦後の歴史を画する、きわめて重い意味を持つ2つの悲劇であった。「それらを通過する前とあととでは、日本人の意識のあり方が大きく違ってしまった」といっても言い過ぎではないくらいの大きな出来事である。それらはおそらく一対のカタストロフとして、私たちの精神史を語る上で無視することのできない大きな里程標として残ることだろう。
阪神大震災と地下鉄サリン事件というふたつの超弩級の事件が、短期間のあいだに続けて起こってしまったというのは、偶然とはいえ、まことに驚くべきことである。それもちょうどバブル経済が盛大にはじけ、右肩上がりの「行け行け」の時代がほころびを見せ始め、冷戦構造が終了し、地球的な規模で価値基準軸が大きく揺らぎ、同時に日本という国家のあり方の根幹が厳しく問われている時期にやってきたのだ。まるでぴたりと狙い澄ましたように。』
オウム事件が私たちに残したもの、それは「相互監視社会」だ。事件後、駅からゴミ箱が消えた。新幹線の車内を警官が見回り、「お近くに不審物や不審な人がいたらすぐ車掌に通報してください。」というアナウンスが流れるようになった。この時に生まれたものは今も続いている。
そしてまた、オウム事件はテレビにとって大きな汚点を残した。
1つは松本サリン事件。被害者の1人である河野義行さんは、あたかも犯人だというような報道をされ、テレビによる報道被害を受けた。
もう1つは坂本弁護士一家殺人事件。坂本一家が殺されるきっかけを作ったのはTBSと言われている。ワイドショー番組「3時にあいましょう」の担当者が早川紀代秀らオウム幹部に坂本弁護士のインタヴューテープを見せてしまったことが原因だ。取材源の秘匿、取材テープを他者に見せないという倫理規程があるにも関わらず、それを破ってしまった。ある意味で、テレビの脆弱性がそこに露呈した。
【参考】https://ja.wikipedia.org/wiki/TBS%E3%83%93%E3%83%87%E3%82%AA%E5%95%8F%E9%A1%8C
さて、今回の講義後半ではテレビについて学んだ。これまで幾度となく取り上げられた「メディアリテラシー」。テレビというメディアが発信する情報を読み解くためには、まず相手(テレビの歴史や構造)を知ることが必要だろう。
まず、テレビと災害報道について。先日の西日本豪雨では11もの府県に特別警報が出されていたにも関わらず、サッカーや歌番組などいつも通りの番組が放送されていた。キー局は東京にあり、東京の人間は西への関心が薄いのだ。テレビ放送のネットワークがある以上、地方局(準キー局と言われる大阪もいわばローカルだ)はキー局の番組を受け入れざるを得ないし、取材能力を持っていない。しかし、災害情報を求める被災地の人たちの目にはどう写ったのだろうか。
そして、災害被害をもっと減らすことはできなかったのか。テレビはもっと避難を呼びかけるべきではなかったか。オオカミ少年のように、市民はテレビや行政にどこか不信感を持っている。警報を信用せず、避難しなかったために被害者となった人たちも多くいただろう。ヘルメットを被ったリポーターが大げさに騒ぐだけの中継、今では決まり文句ともなった「不要不急な外出は控えてください」という言葉遣いなど、反省の意味を込めて報道の仕方は検証されるべきだろう。
テレビがどんな歴史を辿って来たか。1953年にNHKと日本テレビが開局し、街頭テレビの「力道山vsシャープ兄弟」プロレス中継に人々は群がった。高度成長とともに普及が進み、皇太子殿下のご成婚パレード、アメリカからはケネディが暗殺された瞬間の映像が飛び込んできた。東京オリンピックが世界へ中継され、1969年にはアポロ11号の月面着陸の様子が衛星中継された。カラー化が進む中、生中継された「あさま山荘事件」もテレビの歴史では画期的だった。こうしてテレビは歴史の出来事と共に歩んできた。
1953年 NHK、NTV開局
1960年 カラー放送試験
1963年 米との衛星中継
1964年 東京オリンピック、衛星で世界に配信
1969年 アポロ月面着陸
1971年〜 完全カラー化へ
1989年 衛星本放送
1991年 ハイビジョン
2003年 地デジ化スタート
2011年 アナログ放送終了(被災三県は翌年)
テレビの構造について。テレビは大まかに制作と営業の2つの部署から成り立っている。民放は営業が金を稼がないと番組を作れない。昔、テレビの報道にはスポンサーが付かなかったため「お荷物」と言われていた。報道番組で初めて本格的にスポンサーが付いたのがテレビ朝日「ニュースステーション」だ。電通が枠を買い取りスポンサーに売るというシステムを取ったため、電通を通さないとこの番組のスポンサーにはなれなかった。
「制作」と言ってもテレビ局が自社で制作する番組はニュースくらいのもので、大半は外部のプロダクション(制作会社)に委託している。NHKにも「NHKエンタープライズ」という別法人があり、ここがさらに外部の民間プロダクションを使っている。開局したばかりの頃は自社でドラマもやっていたが、結局はプロダクションに委託するようになり(エンドロールに出る「制作協力」がプロダクション)、外部に依存している。外部であるプロダクションが、報道番組の中で「報道とは何か?」「伝えるとは何か?」をどれだけ理解しているのか。おそらくあまり理解していないだろう。だから前述の「3時であいましょう」のような事件が起こる。さらに、持ち込み番組や通販番組といったものもある。これらは民間会社が自ら制作・パッケージ化したものを局へ持ち込むもので、これが一番問題だ。社会的・政治的な騒動を巻き起こした「ニュース女子」は、DHCの持ち込み番組である。
テレビ局には考査という部門があり、番組が放送法等に違反していないかチェックしているが、このチェック機能が弱まっている。そうでなければ「ニュース女子」のような問題は起きなかっただろう。今後、考査部門を強化し、放送番組審議会(法律で局に設置が義務付けられている)できちんとした議論をしていかないと、テレビはますます劣悪なものを作りだしたり、倫理に背くようなことが行われるおそれがある。
一方、「営業」も局のみではなく広告代理店が入っている。もともとは局がやっていたがやりきれないので、それを「代理」するため広告代理店ができた。制作もやりきれないのでプロダクションが出来た。テレビはこのような厄介な構造で出来ている。
テレビと視聴率について。その時間にどれだけのテレビがついているかが視聴率であり、実際に誰が見ているかは関係がないため「猫が見てても視聴率」と言われる。民放の視聴率の三冠(前日・ゴールデン・プライム)をここ数年キープしているのは日本テレビ。その前はずっとフジテレビが1位だったが、いつの間にか最下位になってしまった。
テレビでなぜ視聴率視聴率と言われるか、それは視聴率が高ければ金になるから。視聴率の高い番組に対してスポンサーは高いお金を払うため、視聴率が高ければそれだけ収入が増える。関係者が視聴率を気にするのはそのせいで、テレビ局では放送の翌朝には視聴率が出ている。
だから、局はプロダクションに対して「数字の取れるいい企画を出せ」と責める。いい企画を出さないとプロダクションは潰れる、そういう力関係の中で成り立っている。また、視聴率が取れるのは芸能人が出ている番組だ。ジャニーズ事務所など、大手の芸能プロダクションにいかにとり入るかが番組プロデューサーの仕事で、ジャニーズに強いプロデューサーは局の中で非常に優遇された。
なぜどの局の番組も、似たような内容・顔ぶれで個性がなく変わりばえしないのか。それは、あちこちの局に入りたいプロダクションが同じ企画を出し、同じタレントを使うから。『テレビの顔がない』そんな時代と言える。
政治家は非常にテレビを意識している。政治家にとって、テレビに映ることは最大の利点だ。例えば、安倍首相のインタビュー時には必ず傍に誰かがいるが、テレビに顔が出るということは、それだけでその人の評価を上げるためだ。だから、テレビに対して非常に介入してくる(安倍首相が官房副長官だった時には、NHKが南京大虐殺の番組を作ろうとした時にやめさせている)。
テレビ広告には、CMの他にインフォマーシャルというものもある。番組のような形をしながら、さりげなくそこに企業宣伝を忍び込ませているもので、例えば「成功した企業の〇〇」という形で社長を番組のゲストに呼び、結局はその企業の宣伝をしている。企業にとってこんないい宣伝効果はない。見ている私たちも「テレビに出ていたから」と、それだけで信頼してしまう。
これらテレビの仕組みを気に留めておくと、テレビの見方が変わってくる。テレビ番組は作り手の様々な思惑が入り込み出来上がっている。番組のシーン1つ1つに制作側の意図があり、意識しないところにも広告が忍ばされている。その思惑を読み取るつもりでテレビに相対することも、メディアリテラシーの向上に繋がるだろう。
第78回粒々塾講義録
今回の塾の冒頭、塾長は二人の学生の投稿記事を紹介してくださった。
一人は16歳の高校生。
数年前に海外旅行に行った時のこと。当時は、スマートフォンも今ほど普及しておらず、旅の間は現地の人とのコミュニケーションを楽しみつつ、いろんな情報を得ることができた。しかし、現在は困ったら何でもスマートフォンで調べることができてしまう。何気なく交わしていた現地の人との会話が恋しくなったそう。自分たちの生活は、便利になった代わりに大切なことを奪われてはいないか、という記事だ。
もう一人は20歳の大学生。
SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)についているブロック機能について。
都合の悪い相手とSNS上で二度と連絡を取りたくない時など、ブロック機能を使うと、気まずい思いをすることなく、静かに縁を切れるという。これが、「付き合う人を選べる」という傲慢な感覚を人々に根付かせていると思う。伝えたかった思いは、自分の中で反芻するのではなく、きちんと相手に伝えるべきではないか、という記事。
この記事に今日の講義の問題提起と答えが詰まっている。
*映像栄えて文字滅ぶ
スマートフォンによる撮影が、誰でも簡単にできることから、ニュースに流れる映像も、「視聴者提供」によるものも多く見られる。
インスタグラムが流行り、文字で伝えるコミュニケーションは短くなり、映像の交換が主になってきている。
スピードが求められる現代、言葉で伝えるよりも、映像で自己表現。映像を見た方が一目瞭然だ。しかし、これでは考えるという作業が欠落し、文字や言葉が、日本語が、劣化の一途をたどってしまう。日本語が衰退していく悲しさ、さみしさ。これは問題だと思う。
教育現場でも、スマートフォン。
保護者の間での連絡もライン。スマートフォンを介して「会話のようなもの」がされているが、それでは人間の生のコミュニケーションを失っていく。議論とは言わないが、対話が人間の生活には不可欠。
スマホには、生活に必要なもの、いや、必要以上の機能が満載されている。(買い物、銀行、電車の予約など)
悪いことではないが、良い面と悪い面がある。スマートフォンの中には、天使と悪魔が同居している。それを人間が使いこなせていない。
人は、非常に便利な機械を手に入れて、「スマホ文明」を開化させてしまった。そこに商業が入ってくる。(例:メルカリ、こどもの喜びそうなゲーム)
ユーチューバーなる職業も出てきた。ネットフリックス(動画配信サービス)などだ。
小津 安二郎の言葉にこんなものがある。
「 何でもないことは流行に従う
重大なことは道徳に従う
芸術のことは自分に従う 」
塾長曰く、小津さんの言葉を借りるならば、SNSを 敢えて「何でもないこと」と捉えるなら、流行に従うようにしようかな、排斥しないようにしようかな。なぜなら、それが現に今存在して、日本人の生活に定着した文化になってしまっているから、それをいくらあらがっても、今の時代を見る目を曇らせてしまうかなとも思う。小津さんの言葉を現代の生き方として受け入れるしかない。
*SNSにみる3つの社会現象
? 情報発信ツールとしてのSNS
トランプ政権がその例。ツイッターで直接発信、世界はその140文字に翻弄されている。
デマも含めてあっという間に拡散される。SNSの怖さだ。
既存のジャーナリズムには真実はなく、ネットの中には真実があると言う人がいる。
しかし、デマが生まれ拡散されるのはSNSによるものだ。
それを果たして、ジャーナリズムと言えるのか?
結局は、自分たちの不満のはけ口。今の時代、大なり小なり、みんな不満とかストレスを抱いている。どうやってそれをぶちまけるかによって満足感を得ている。その表現ツールとして、SNSが発展したのではないだろうか。
? コミュニケーションツールとしてのSNS
「SNSでつながる」とは、本当に繋がっているのか。本当にSNSはコミュニケーションを取れているのだろうか。例えば、就職試験において、企業が求めるのは、SNS能力に長けている人ではなく、あらゆる仕事にきちんと報告できる表現能力を求めている。
短い文章で思いを伝えることはできても、論理的にものを書くことが出来ない人は求められていない。書く能力は、論理的に筋道をたてて、物を考える力と重なる。
コミュニケーションに革命が起きたのは、1990年代半ば、つまり携帯電話とパソコンが発展してきた時代。バブルの絶頂期と重なっていた。あの時代は若者も物理的には豊かだった。ITが進化しスマートフォンの時代になった今、当時をうらやましがる若者はいない。スマートフォンもない時代=石器時代には行きたくないという。高級車がなくても、美味しいものがなくても、スマートフォンでつながっていれば良いという。
? 写真機能としてのスマートフォンのせいで…
スマートフォンのおかげで、誰でも簡単に発信できるような時代になった。そのせいで、自分が巨大な力を持ったような幻想を持ってしまう。(自己顕示欲の強い)攻撃力の高い人たちは、スマホを通じて何かを発信する。周りが同調や誹謗によって反応すると、自分は正しい、自分は世の中に影響力があると勘違いしてしまう。そして、書き込みに拍車がかかる。発言内容が過激になってしまう。
ネットメディアが台頭したことによって、フェイクニュースも出てきた。
既存のメディアはどう立ち向かっていったら良いのか。
調査報道→既存のメディアはシフトしていかないといけない。そのまま伝えるだけではいけない。チェックすることをしないと。
検証報道をしなくてはいけない。
これらには「考える」という作業が重ねられている。
ネットと同化してはならないのだ。
*最後に
情報がは多岐にわたって溢れている現代社会で、
喧嘩し合うのはなく、意見の異なるものを排除して、自分と似ている意見に同調しているだけではダメ。メディアに対する批判は今に始まったことではない。ジャーナリズムに対して、関心がこんなに高まったのは逆説的にいえばSNSのおかげかもしれない。
あらゆるメディアに溢れる情報をどう読み込むか、ということに加えてもっともっと、新たな観点からのメディアリテラシーが必要。
もっと対話をしようではないか。
☆今月の推薦図書☆
インターネットが壊した「こころ」と「言葉」
森田 幸孝
(幻冬舎ルネッサンス新書)
(今回の講義によせて)
わからない言葉に出会うと、すぐに検索してしまいます。先日、スマートフォンの電源が切れて使えなかった時も、私の頭の中にすぐに、「あ、検索すればいいや」と浮かびました。それは電気のように素早く、自分の中に走った反応でした。考えるよりも先に検索という感覚が、体に染みついている、と少し恐ろしく感じました。
スマートフォンがないと、何もできない、何もわからない人になってしまう。
冒頭の高校生と大学生の感覚は、とても人間らしく、救われる思いでした。対話を必要とすること、伝えるという事の大切さを感じられる若い人が、いつまでも多くいることを願います。それには、心の通った言葉を使って、私達自身が伝えていかなければいけないと思いました。
(石田庸子 記)
第77回粒々塾講義録
テーマ「現代にメディアを問う〜ジャーナリズムの向こう側〜」
前回に引き続きメディア論の続編です。
現代史の中でも、かつてないほどにジャーナリズムと言うものが問われ、試されている時代。
タイトルにて「ジャーナリズムの“向こう側”」と表記しているように、
ジャーナリズムを真正面から論じるのも良いが、少し視点を変え(斜から見て)て論じてみたい。
私たちはいまジャーナリズムに何を求め、どう位置づけるのか。
昨今の安倍政権のメディア敵視や批判に対するメディアの姿勢をみても、メディアの脆弱さが露呈されているように思う。そもそも各種メディアはもろもろ課題を背負っている。テレビは放送法で縛られ、民放はスポンサーにしばられるという脆さを持っている。
またネット上ではSNS等のメディアが自由な空間の名の元に情報が錯綜している。
我々は今、メディアと称するものの中で、何をどう受け止めて、何が本当なのか見極めるという
「リテラシー」をさらに深く求められている。
そのリテラシーを磨く我々の頭脳は著しく弱ってきてはいまいか。
昨日正しいと思ったことが、今日はそうでないということが実際おきている。
ジャーナリズムと、どう接し、どう理解していくか、どう取捨選択していくのか
今またメディアリテラシーを再度考える時にある。
メディアの問題とは、それを受ける私たちの問題でもある。
「何の為に何を報じるのか、それを考えるのがジャーナリズムの精神」
今ほどあらためて痛感した時代はない。
例)芸能界の不倫報道はあそこまで放送する価値が本当にあるのか。
昨今のニュースを賑わす「公文書」の改ざん、隠ぺいが何を物語っているのか。
今後日本の歴史の中で森友・加計にまつわる隠ぺい・改ざん問題は公文書になんの“影響”も与えないかもしれない。しかし、それで素通りして良いものかどうか。日本史を学ぶ上で、後世に混乱をきたす危惧がある。知らず知らずのうちに誤った歴史観を植えつけてしまう恐れがある。
国民は日本の本当の歴史を知る権利がある。
南京大虐殺、日本憲法の問題など、正史(公文書)がないがゆえに、“歴史”が勝手につくられたかのような思いを持つ。
声を強く上げた人の言葉がまかり通ったりする。
だからこそジャーナリズムの役割は非常に大きいのである。
さぁ再度言葉にする、
今また、メディアリテラシーを考える時にあると。
一口で言えばそれは「我々がメディアが発信する事をどうとらえるか」だ、しかしもう少し丁寧に考えてみたい。
・メディアが伝えていることへの洞察。〜メディアと読者〜
・メディアが伝えた社会事象への思索〜読者とメディアの向こう側〜
・メディアが取材対象とどう接しているか〜メディアと取材対象〜
メディアはあくまでも「伝えてくれた道具」それを、どう考察するかが大切なのだ、
だから「メディアの向こう側」なのだ。
取材者とは。
強者の側にいる記者はいかに弱者の側の信頼を得られるかが大切なのであって、
「誠実な自己認識」をもつ必要がある。
昨今、記者自らが取材をしていないという「ジャーナリズムの浅さ」が垣間見えることがしばしば。
それはジャーナリズムとは言わない。
私たちは3.11で体験してきているはずだ。
16万人の被災者の物語をすべてメディアが報じることができるはずもなく・・・しかしながら
「絵になる記事」ばかりが先行する。
被災者にとって取材者とは、その記事が自分たちの側にたった記事なのかという視点がとても大切になってくる。取材者の姿勢に「誠実な対応」がともなってこないと、真実に近づけないおかしな記事になってしまう。
3.11の取材者たちは、その土地に溶け込まなければ書けないし、時には書いてはいけないこともある。洞察も非常に大切になってくる、通りすがりの記者では書けない。
しかしながら、今のメディアには、そうしたジャーナリズム精神がが大きく欠けているのではないか。
自分たちが強者の側に居て、弱者の気持ちに寄り添う立場にいること理解しているのか。
今のメディア、これまでのメディア、これからのメディア
辞書にあるジャーナリズムとは。
新聞・雑誌・ラジオ・テレビなどにより、時事的な問題の報道・解説・批評などを伝達する活動の総称。また、その機関。と書かれている。
「ペンは剣より強し」…学校で良く習うこの一行だが、それ以上の考察もない。
しかしながら実際は、英国の作家、エドワード・ブルワー=リットンが1839年に発表した歴史劇『リシュリューあるいは謀略』が出典であり、前文がある。
まことに偉大な人間の統治(為政者)のもとでは、ペンは剣よりも強し。
本来、これで一文であるが、文末だけを習っている現実が私たちにはあり
この前半の文章が重要であって、それがなければ解釈が全く変わってくる。
つまりは、これらを日本のメディア論におきかえるなら、マスコミの脆弱性を論ずる場合
「偉大な政府」の存在前提が必要ということになる。
新聞記者は読者をどれくらい意識して書いているのか。
社内を意識して書いてはいないだろうか。
テレビも見ている側をどれくらい意識して報道しているか。
それがメディアの“向こう側”つまり創造力へも繋がってくる。
以前も紹介したが
「ジャーナリズムとは報じられたくないことを報道することだ。
それ以外のものは広報にすぎない」〜ジョージ・オーウエル〜
世界を変える主体性はジャーナリストにあるのではなく、抵抗する市民にある。
ジャーナリズムはそれを伝えるに過ぎない。〜アミラ・ハス〜
この二つの言葉を塾では「ジャーナリズムを考える時の一つの視点」として置きたいと思う。
ジャーナリズムの精神を語るうえで、我々に語り掛けてくる言葉として
下記の言葉を紹介する。
ちなみに、福島県下では各学校の校長先生が式典で生徒に何を話して、何を呼び掛けたなど
記事になることはない。これも一つの“ジャーナリズムの姿”である。
*自由の森学園高等学校 卒業式 新井達也校長の言葉
2016年度
私はずっと「 生命( いのち )の重さ 」について考え続けていました。
昨年の7月に起こった相模原の事件、何の罪もない無抵抗の障害者の方々19名が犠牲になり、また多くの方々が深い傷を負い、そしてまた、私たちの社会に大きな衝撃を与えました。
この事件の根底には様々な考え方が複雑に絡み合っていると言われています。
その一つとして「 優生思想 」があげられています。
「 価値がある人間・ない人間 」「 役に立つ人間・立たない人間 」「 優秀な人間・そうでない人間 」
といった偏った考え方で人間をとらえ、人間の生命に優劣をつける思想です。
また、この事件は「 ヘイトクライム 」( 憎悪犯罪 )の特質も持っていると言われています。
ヘイトクライムとは、人種・民族・宗教や障害などの特定の属性を持つ個人や集団に対する偏見や差別にもとづく
「 憎悪 」によって引き起こされる暴力等の犯罪行為を指す言葉です。
この事件の問題を「 常軌を逸した加害者の問題だ 」として、
軽々に判断し押し込めてしまってはいけないように私は感じています。
全盲と全ろうの重複障害を持つ 福島 智( さとし )さん( 東京大学先端科学技術研究センター教授 )は次のように書いています。
「 こうした思想や行動の源泉がどこにあるのかは定かではないものの、
今の日本を覆う『 新自由主義的な人間観 』と無縁ではないだろう。
労働力の担い手としての経済的価値や能力で人間を序列化する社会。
そこでは、重度の障害者の生存は軽視され、究極的には否定されてしまいかねない。
しかし、これは障害者に対してだけのことではないだろう。
生産性や労働能力に基づく人間の価値の序列化、人の存在意義を軽視・否定する論理・メカニズムは、徐々に拡大し、
最終的には大多数の人を覆い尽くすに違いない。 」
「 役に立つ/立たない 」といった人間や生命を価値的に見ていく考え方は、
いずれは自分も含めた全ての人の生存を軽視・否定することにつながっていくのだと福島さんは述べています。
人間の価値、生命の価値、生きる価値、そもそも人間や生命という言葉に「 価値 」という言葉をつなげるべきではない、私はそう思っています。
人間には、そして生命には「 尊厳 」があるのです。
尊厳とは「 どんなものによっても代えることができないもの・存在 」と言うことができるでしょう。
あなたは何ものにも代えられないのです。あなたの代わりはどこにもいないのです。
人間をそして生命をも、取り替えることが可能なものとして「 価値的 」に見てしまう現代社会において、「 価値 」ではなく「 尊厳 」という言葉で自分をそして自分の人生を見つめていくことが大切だと私は思っています。
当然その視線は、自分以外の他者やその人生をも見つめることにもなるでしょう。
そしてそれは「 どのような社会を目指していくのか 」ということにもつながっていくと私は思っています。
今、社会には、ヘイトクライム、ヘイトスピーチ、ヘイト文書など、ヘイト・憎悪という言葉があふれています。
この「 憎悪 」に対するものは「 学び 」だと私は思っています。
学ぶということは本来、さまざまなことをつなげていく・結びつけていくことだと思います。
学ぶことによって、自然とつながり、社会とつながり、芸術とつながり、他者とつながり、そして、自分とつながる、
そんな学びをみなさんにはこれからも続けていってほしいと願っています。
最後に、ある詩をみなさんと共有したいと思います。
吉野弘さんの「 生命( いのち )は 」という詩です。
『 生命 ( いのち ) は 』 作:吉野 弘
生命 ( いのち )は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で 虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命 ( いのち )は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分 他者の総和
しかし 互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず 知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときにうとましく思うことさえも許されている間柄
そのように 世界がゆるやかに構成されているのはなぜ?
花が咲いている
すぐ近くまで
虻 ( あぶ ) の姿をした他者が
光をまとって飛んできている
私も あるとき
誰かのための虻 ( あぶ ) だったろう
あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない
ジャーナリズムを考えるうえで、取材者側にも、我々にもこの「メッセージ」を、思想を大切にしてもらいたい。
2017年度
「生き方としての進路」、進学や就職にとどまらず、その先にある「どう生きていくのか」ということを考えていくことを大切にしたい、そのため「生き方としての進路」について話をします。
最近「君たちはどう生きるか」という80年前に書かれた作品が原作となった漫画が、ベストセラーになっています。原作者は、雑誌「世界」の初代編集長の吉野源三郎さん。15歳の「コペル君」というあだ名の少年が叔父さんとの対話を通じて、貧困やいじめ、暴力という社会に横たわる大きな問題と向き合いながら成長する物語です。
この作品が書かれたのは1937年。その前年には2.26事件が起こり、軍国主義が台頭し、言論が統制され、1937年夏に盧溝橋事件が勃発し日中戦争が全面化、そしてアジア太平洋戦争へとつながっていく、そんな時代を背景とした作品です。
そんな時代と現代との共通点を指摘する人もいます。
「同調圧力のような、ちょっとでも政府の方針に違反すると、売国奴とか非国民とか、そういうことを言われるようになってきた重苦しい雰囲気。今なにか政府を批判すると、それだけで反日とレッテルをはられてしまう。ネットですぐ炎上したり、なんとなく若者も空気を読む。まわりを見て忖度(そんたく)をして、という形で息苦しい思い。当時と、共通したようなものがあるのかなと思う。」と。
原作者の吉野さんは1931年に治安維持法違反で検挙され、1年半も投獄されながらも、この本を子どもたちに届けようとしたのでした。
文芸評論家の斎藤美奈子さんも「コペル君が生きた30年代と現代の空気に通じるものがあるのかもしれない。」と書いています。そのうえで「見落とされがちですが、コペル君は、先の大戦での学徒出陣で命を落としていく世代なのです。」と続けています。
1937年に15歳ということは、学徒出陣のはじまった1943年に21歳。コペル君は、まさに第1回学徒兵として戦場に向かうことになったのでしょう。
人間とは何か?社会とは何か?どう生きるべきか?悩み考え続けた多くのコペル君たちは20歳そこそこで戦場へとかり出され、生きることを断念しなければならなかったのです。
若者たちが生きることを断念せざるを得ないような状況、つまり戦争をくり返してはならない。そうして日本の「戦後」はスタートしたはずです。
「平和に生きること」「自由に生きること」が揺れている今だからこそ、私たちは何を学び、考え、どう生きていけばいいのか、一人ひとりが問われているのでしょう。
「君たちはどう生きるか」と似たタイトルの本があります。
「いかに生き、いかに学ぶか」昭和を生きた数学者遠山啓さんの本です。
人間とは、生きるとは、愛とは、戦争とは、働くとはどういうことなのか。
その中で、遠山さんは「観の教育」の大切さについて書いています。
「僕のいう観というのは1人ひとりが自分で苦労してきずきあげていくものなのだ。1人ひとりがそれまでに自分の体験したこと、身につけた技術、学んだ知識を総動員して人間とは、世界とは、生命とは何か、あるいは人間は、とくにこの自分はどう生きていったらいいかを考える。そうしてえられた人生観・世界観・社会観などをぼくは観と言っている。
これまで観を持つ人間は政治家や学者などごく少数のエリートと呼ばれる種類の人たちだけでいいという人もあった。それは間違いだと思う。日本人のすべてが、みな自分自身で創りだした人生観・世界観・社会観・政治観…などの観を持つようになってほしいのだ。」
一部の政治家や学者、マスコミの言葉を鵜呑みにするのではなく、自分で考えて判断していくことの大切さを、「自分自身の観を築くことだ」と遠山さんは言っています。
これは、「君たちはどう生きるか」で吉野さんが提起している「僕達は自分で自分を決めるちからを持っている」ということとつながっているのだと思います。
「生き方」は誰も教えることなどできません。
早く、効率よく、なるべく楽に あたかも近道を探すように生きるのではなく、自分にとっていい方法とは何かを考えて模索して選択していくことを大切にしてほしいと私は思っています。
限られた時間内で効率よく正解を出していくという「テスト学力」と「生きる」ということはイコールではありません。
世の中の常識や社会の風潮に流されるのではなく、自分の学んできたことをベースとした「観」に基づいて自分自身を生きるということを大切にしていってほしい。そして、そのような一人ひとりが尊重される社会を形成する一人であってほしい。私はそう願っています。
最後に遠山啓さんの言葉をみなさんに贈ります。
「ほんとうに強い精神は、固体よりも液体に似ている。どのような微細な隙間にもしみ通ることのできる柔軟さを、それは保っている。液体はどのように変形し流動しつつも、体積の総和は不変であるが、精神の強さというものも、そのような種類の強さではなかろうか。」。
上記の校長先生の言葉も立派なジャーナリズムだと思う。
突き詰めていくとジャーナリズムとはそれぞれの人に内包されている感覚だ。
それをどうやって熟成させ、自分の立ち位置を確立するかだ。
あなた方自身がジャーナリズムであり、ジャーナリストだ。
つまり例えるなら、粒々塾生がそれである。
今回の推薦図書
「君たちはどう生きるか」著者 吉野源三郎 文庫本
所感 塾長が仰った「あなた方自信がジャーナリズムである。」という言葉はやはり重いと
感じます。この数日もメディアでは官僚のハラスメントや芸能人のワイセツ行為が延々と
流されています。「もっと他に放送することがあるだろうに…」と思う反面、
このニュースを知りたいという潜在的欲求が国民に、そして私に少なからずあるからこそ、これらのニュースが大量に流れるのであろう、そう捉えることもできます。
情報過多の昨今、流れるニュースの何が真実かわかったものではない。しかもツイッターもFBも「垂れ流し」である。一国の大統領が平気で株価を左右するような垂れ流しの暴言を吐く世の中になっているのが現実です。
そのような中で、塾長がおっしゃるように、現代史上、ここまでメディアリテラシーが、そしてジャーナリズムが問われる時代もないと本気で思のです。
今回懇親の席で「私は日経新聞しか読まないです」と申し上げましたが、
良い悪いではなく、日経新聞を読んでいても、心を動かされるような言葉に出逢う
ことはほぼないと感じる自分が居ました。でも、日経を読まないとどこか取り残され
そうでそうしているのです。結局日経を読んでいてもメディアリテラシーはあまり養われないと思うのです。だからこそ、もっと広い視野で、情緒ある素晴らしい言葉と出会っていく必要と思います。だからこそこの塾に足を運んでいるのだとも思うのです。
纏まりない所感となりましたが、最後に、
「メディアの向こう側」は対岸の火事にしてはいけない、いつか私たちの発した思考や言葉は、いつか後世の子孫という対岸に届くのだから。
私たちは言葉でできている。
(野地数正記)