学校をどう思ってたか
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id:remmy:20040224#p2
お二方とも学校へ行きたくないと思ったことが無い。ひょっとすると、我々は学校というものを学び舎というよりも、今で言うコンビニの駐車場前とか、駅周辺のロータリーとか、ルイーダの酒場とか、とにかくそういう。まあいいや。
親のせいだと思ってました。
協調性も、学習能力も、建前であれそれを高める場所が学校だと思うのですが、それが低い、低いと感じる人にとってはとても行きにくくなるという異常な状況が現実としてあるということなんでしょうか。
親のせいだと思ってました、学校にひとりも理解者がいてくれないのもつらかった、同世代の友達の興味関心と私の興味のベクトルが全然違ったのも一因ではあったと思う。そうやって何かのせいにしていられるうちはまだ良かったのです。
なによりもおのれの協調性のなさ、そういった事にかけての学習能力の低さが致命的なのだと思い知らされた時から、私は学校に行けなくなりました。
ボクらが育った時代の高校と我が子が行く(かもしれない)高校とは考え方が違うかもしれないのに、昔の自分と重ねて子に無理強いをするというのは避けないとまずいですね。やはり親としては、子どもの現状を子どもの口から教えてもらう努力か。
でもなー、うちの子暴走族に入りそうな気が今からするのはなぜなんだろう。特にボクへのあてつけで。
親に「空気読め」と言えないのはなぜなのだろう
ああそうか、一人の人間としてみるならば親としても一人の人間として接しなければならないということを言うのを忘れてました。
そうは言っても、年さえ取れば自動的に成長するというものでもないし、疲れていれば心のバリアが弱ってることもあるし、しつこく言われ続ければ影響無しという訳にもいかないだろう。
親心がよくわかる子どもほど、その過干渉を無碍に嫌と言えないという悪循環はよくわかるのですが、わかるのであれば、それを拒否する態度をとっても良い年齢じゃないかとは思うんですよね。結局なるようにしかならないので贅沢な期待といわれればそれまでなんですけども。
しかし子どもと接する距離感というのはお互いが自然に掴むものだと思うのだけれど、そうはいかないのでしょうか。
なんか、家族ゲームを思い出してしまいました。
久々に発言の責任ネタ
- http://nanasisan.air-nifty.com/ramen/2004/02/post_32.html
- http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20040228#p1
ボクはボク自身、間違った発言には責任をとる努力をするつもりですけれども、他人に対して発言の責任を求めるのは、とにかく何がなんでも人類平等の自己啓発セミナーへ連れ込むみたいで気持ち悪かったりします。
むしろ我々素人は基本的に間違ってるから笑え面白いんだろ、みたいな。
対象となるサイトにツッコミ欄が無くたって、言論の囲い込みがあったわけでもなし、自分のサイトで意見をいくらでも述べられるのですから、そこまで腹を立てるのは如何なものでしょう。
批判する価値があるから議論したいのですから、まず相手を尊重しないと、とボクなんかは考えてしまいます。
しかし、コメントやトラックバックが無いと卑怯者呼ばわりですか…。時代が明らかに変わりましたね。昔のWeb日記は卑怯者の集まりだったのかもよ。<がはははh。