生まれ変わり (上)

  
七月七日

どこに向かおうとしたのか。目標もないままただ突き進んだ二十三年前。
誰になびくわけもなく、自分中心で地球が周っていると思い込んでいた十九の頃。

大人達に真正面から反発し英雄気取りで背伸びをしていた夏。離婚した親の生き方を否定し父を呪い、貧乏というレッテルに笑うことしか出来ない自分に怒りをおぼえていた。全てのものを壊してしまいたいほど憎むことにより、もうひとりの自分を必死に作り上げようとだけしていた。女手ひとつで家計を支えようと必死に働く母のホステス姿をあざ笑うかのように軽蔑しながら、自分がそのスタイルへと染まっていくことに苦笑いがとまらなくなっていた頃である。

社会に対する道義的責任というものを、どのように考えていたのか、今は思い出すことも出来ない。たとえこの時代、それを知っていたからとして、その根底にある狂気が消滅することはなかっただろう。七月七日に生んでもらいこの日新たな自分が生まれていった…。

 

   

音の区別だけをするポケベルを持たされ、時刻など関係なく呼び出しベルは鳴る。
最近、手に入れた女のヤサで眠りについていた俺の枕元から運命の音が鳴り響いた。

―ピピッーピピーッ― 

「竜、竜ったら、ポケベル鳴ってるわよ」
真佐子は横で寝ていた俺の肩に手をかけ軽くゆすりながら、そう言った。
「ああ、すまん今何時だ」
「まだ朝方の五時よ。こんな時間に誰から?」
「会社さ。いつもこうなんだ。真佐子、悪いが電話をとってくれないか」
女の部屋の寝床について二時間ほど二人で眠っただろうか。まだ真佐子と飲んだ酒が残っているようで、上体を起こすと体がやんわりと揺らいだ。飲んでいる時は酔っているとは思わなかったが、結構な量を飲んだようだ。その分、今になってひどい頭痛に悩まされていた。自分の後頭部を左拳で軽く叩くと、受話器に手を伸ばしダイヤルを回した。

プルルルル…、ガチャッ!
電話はいつものようにワンコールでつながった。受話器から聞こえてきたのは、かすれた男の声だった。
「もしもし、こんな時間に申しわけないが急ぎの用事がある。ラ・モールのほうへすぐ来てくれ」
会社組織の部長、長山からだった。部長の上には常務と専務もいたが現場の指導権はこの長山がほぼ仕切って動いていた。
「はい、すぐに向かいます。…で、何があったんでしょうか?」
「それは、ここに来ればわかることだ。ほかの連中も集めてあるから、できるだけ急いで来い」
「わ、わかりました。すぐに‥」
そう、短くいい電話を切った。夜中の呼び出しは特にめずらしい出来事でもなかった。いや、めずらしいというより夜中のほうがポケベルはよく鳴っていた。俺はいつものように黒のスーツに袖を通し、ベルト腰の左側にポケベルを取り付けた。

「真佐子、頭痛薬があったら、もらえないか。もし無いなら生理痛の薬で十分だ」
真佐子は黙って常備してある薬箱から白い錠剤とグラス一杯の水を持ってきてくれた。それを口に放り流し込むと、ゆっくりと深呼吸しながら彼女の不満そうな顔を見つめた。
「誕生日、祝ってくれて嬉しかったよ。それじゃあ、行ってくる」それだけ言って部屋を飛び出した。
マンションの地下にある駐車場に愛車となった白のニッサンセドリックを止めて置いた。もともと真佐子の車だったが、いつの間にか自分のもののようにあつかっていた。
キーを差込みエンジンをかけ、アクセルを何度か噴かした。アイドリングを下げてやらないとギアがうまく噛まない車だ。ダッシュボードからアートブレーキのミュージックテープを取り出し音楽を流した。ちょうど、Jazzに興味を持ちだした頃だ。三曲目のAre You Realの曲が終えたころ、ネオン街に到着し従業員専用のパーキングへ車を停めた。急いで着替えをしてマンションを飛び出し、ここまで三十分と掛かっていない。上出来である。俺は内ポケットから誕生祝いに真佐子からもらった“ダンヒル”のライターを取り出しタバコに火を点けた。二日酔いと寝不足の脳細胞にニコチンがまわり、思考能力は大いに減退させられていた。何で呼び出されたのか?余計なことは考えられなかった。

さっきからゴミ捨て場に群がるカラスが泣きやまない。たぶんこちらのことが気になるのだろう。煙草も吸い終わった。俺は車から降りるとカラスの横を駆け足で通り過ぎ次の曲がり角まで一気に走った。そこからは一本道の細い路地だった。その細い道を真っ直ぐに行くと飲食店の看板が縦にずらりと張りつけられた雑居ビルがみえてくる。その一角に「クラブ・ラ・モール」があった。
入り口の手前から床や天井もふくめ、すべてが鏡張りになっておりビルの一階すべてが一軒のクラブになっていた。この町では有名な高級クラブ店だ。
店の前に立つと俺を感知したスリガラスの自動ドアは、いつもと変わらず静かにスライドし開いた。俺は指で髪をながしながら、ゆっくりと店の中へ入ると、すぐに大理石のカウンター越しに立っている部長の姿に視線がいった。

「ご苦労様です。遅くなってすみませんでした」ありきれた挨拶をした。
「クックックッ…いやいや、思ったよりも速やかったぞ、上出来だ。まあ、そこの椅子にでもかけろ」
低い声で長山は笑いながら奥にあるソファーの方を指差した。当時の長山は三十代後半でリーダー的立場にいた。特徴はまず、青白い顔にコケた頬、髪はパンチパーマである。痩せ細った貧相な体つきで少々うち股歩きをする。見た目の弱々しさとはべつに冷酷で頭の切れも群をぬき、数多くの分野の人脈をうまく利用し権力を持ち続けていた。もっとも青白い顔というのは夜の世界では、ありきたりの顔でもあったが、それとは違い死人のような不気味さがあった。ネオン街の連中からも一目置かれていたひとりだ。そのくせ夢想家の一面も持っようなところもあった。彼が話すとその内容が正しくなくとも、いつのまにか聞いているほうは納得してしまうのである。説得力があったというのとは少し違う。だが反論するものは少なかった。まあ、そんな具合の人物だ。
「はやく、いけ」
長山が、かるく顎を浮かせた。
はい、と小さく頭を下げ、支持されたボックスの方へ歩き出すと、おい、とどこからか低い声がした。自分にかけた言葉だとは思わず無視していると、「おい、そこの僕、なかなか大したもんだなぁ。おまえってヤツは、あはははっ」と笑いが聞こえた。少し苛立った声だった。声のする方へ目を向けると、白いグランドピアノの椅子に座っているマネージャーの内田の姿が視界にはいった。
首を大きく左右に揺さぶりながら、なにやらニヤリとしている。笑ってはいるが目つきは鋭くこちらを睨みつけている感じがした。歳は俺より五、六歳ほど上でしかないのに、バーバリーのスーツをうまく着こなすキザな男だった。特技は格闘だ。争いごとがあれば常に先頭にたって動いていた。動いていたというより人の血を見るのが好きだっただけなのかもしれない。
奥のソファーに、ずんぐりと腰をおろしている元宮の姿も目についた。ホステスを集めてくるスカウトを本業としていた男だ。知っていることといえば、会社の中で新たなグループを作っていたことと、店のホステスの半数以上をひとりでスカウトしたということぐらいだ。年齢はまだ三十台前半だっただろう。
元宮の座っていた長椅子の後ろには、なぜか俺とは気の会わない黒服のボーイが異様な雰囲気で七、八人立っている。相変わらずチンピラ風情を意識しているようにも見える面構えと態度だ。こいつらが元宮を慕っているグループの連中だった。
俺は一言もしゃべらず奥のボックスまで歩くと、コの字形に設置されたプルーの椅子に深々と腰をかけた。
「竜クン、こんな時刻に呼び出して迷惑だったろう。ずいぶん眠そうな顔をしてるようだが‥、気持ちよく寝てる最中だったかなあ?」長山がテーブルを挟んだ向かい側のソファーに腰を下ろしながら口にした。

「いえ、大丈夫です。それよりも部長、えらく人数を集めているようですが、なんなんでしょう?」
「いやいや、店のホステスのことでちょっとな。これから調査でもしながら動こうかと考えている。内田!元宮!お前たちもこっちに来んか!」
部長の指示にしたがい内田と元宮がこちらのボックスのほうにゆっくりと歩いてきて、俺を挟むように両端に座りこんだ。
「第一渉外部」という場所に回され、ちょうど四ヶ月目の出来事である。


華麗に映るネオン街の裏側で雑用として扱われた「第一渉外部」は、ホステスのスカウトをメインとしながらも借金の取り立てやトラブルなどの後始末も仕事の一部としていた。
昭和60年頃、ネオン街に生きる者たちは派手な生活を余儀なくされていた。女は日々、身だしなみに金を使い見栄の張り合いをしていた。ライバルの多いホステスたちが自分を売り込んでいく為には、常に磨きつづけていくしか生き抜けないからだ。もっとも時間給さえ貰えればそれでいいというアルバイトまがいなホステスも中にはいたが、そんな女はすぐにいなくなってしまう。荒稼ぎが出来ると言えるほど水商売は甘くなく、金を貯めこむホステスなんて一握りしかいなかった。たとえ、パトロンに援助してもらったからといって、飽きられればそれまでのことだ。金が流れなくなってしまった女は店から借金(前借)をするしかすべがない。借金が返済できなくなればとうぜん他所へ売られるか、それが嫌なら逃げるだけのことである。しかし、そんな逃げ惑う女がいるおかげで、メシが食えたというのも事実のところだった。第一渉外部は言い方を変えれば借金取りだと言われても、おかしくはなかった。

店内の空気が一瞬、みだれたように感じた。内田が両足を大理石テーブルの上にあげ眉を寄せ口をひらいた。
「なあ、あれは中々の代物だ。お前もそうとう楽しんだんだろうがなあ、それも今日で終わりだ。残念なこったよ‥」

「なにが‥?」言っている意味がまったくわからなかった。

長山は少し考えた後、重く口をひらいた。
「なにが‥?、じゃないだろう、お前さんが一番詳しいだろうと思って呼びつけたんだがなぁ」
やはりなんのことか理解できない。
苦笑いを隠すように内田がテーブルの上に腰をかけ直し、顎をしゃくった。
「竜よ、てめぇはホントに女にもてんだな」

「モテる?モテるだって?内田さん、冗談は止めてくれ、俺はあんたみたいにモテやしねぇよ、騙すんだよ」
「ほう?騙すねぇ?味方も平気でか…。

ほれ、この写真を見てみろ!なんだよなぁー、お前がどうして、この女の部屋に出入りしなきゃなんないんだろう。たしかにホステスの送り迎えは頼んだりもしたが部屋の中まで入る意味がわからん。そこんとこが、どうもわからんのよ」
内田が投げつけた数枚のポラロイド写真がテーブルの上に散りばめられた。どれも真佐子が住むマンションの駐車場のなかでの二人の写真だった。

「ドクン!」心臓が一瞬音をたてた。

「おいおい、この女、うちに勤めている真佐子に似てねえか。似ているように俺たちには見えるんだがなぁ。どうなんだろうか竜クン、答えてくれないかい」
知らず知らずのうちに詰めていた息を大きく吐き出しながら床に視線が傾いた。

店の女(商品)に手をつける事は、このネオン街では御法度である。俺はクラブで二番指名の上物のホステス真佐子に手をつけていた。それがバレていたとも知らず、その女の部屋から出向いてきたバカな男だった。上司や社長からも可愛がられていた真佐子はネオン街では大変な人気者だった。

「竜、聞いてんだがよ。聞こえてねぇのか、それとも震えがきて答えれねぇようになったか、どっちよ?」内田は自慢げな顔で俺の顔をのぞき込むと、突然、

「ちゃんと説明せいや!」大声を張り上げた。

黒服たちがいっせいに内田の声に反応すると同時に俺を取り囲んできた。他の上司たちも立ち上がりじろりと見ている。どうやら危険を避けることは無理なようだ。今さら謝ったところで、どうにかなるものでないことぐらいは知っていた。この世界の掟だ。開き直るしか思いつかなかった俺は小さな舌打ちを残すと内田に噛みついていた。

「ちぇ、説明?何をどう説明したら納得すんだい。時間さえくれりゃ、納得のいく説明もできんだがなあ、いきなりすぎんだよ」
「ははは これ以上、俺を笑わすな。相変わらず生意気なクソ男だ。もう、わかったからはっきりと、自分の口で認めてみろ」
俺はため息をついてから、内田を睨み返した。
「ケッ 真夜中に人を呼び出しておいてよぉ。なんのことかと思えば、こんなことかよ。これだけ人数を集めとかなければ、俺に質問のひとつも出来んかったんやなあ‥」


― これから何がはじまるのかは確信できていた。それが意味のないただの暴力という制裁だということも知っていた。暴力を恐れないものはいない。だが、この時だけは違った。この場の恐怖より違和感のほうが大きかったのかもしれない。俺の頭の中では、いろいろな図式が並べられたからだ。俺と真佐子がプライベートで外出したことは一度もない。俺達の関係は絶対にしゃべるなと堅く口は閉ざしていた。どれだけ隠したとしても長く付き合えばバレるのは最初から分かっていた。しかし、いくらなんでも早すぎた。

「部長、そろそろいいですか?竜クンたいへん図にのっているようですから、」
上着を脱いだ内田が嬉しそうな表情を浮かばせた。その微笑んだ内田の顔を見上げながら心の中で叫び睨み返した。
「クソッたれが!」俺はソファーから腰を上げようとした。その時だった。元宮の手が横から伸びてきて、立ち上がるのを制するように肩を押さえつけた。さらに彼の左腕が俺の首にまわり込んだ。声を出す暇もなかった。両足を踏ん張り力をこめて立ち上がった。元宮もそのまま立ち上がったが左腕はさらに力がこもり首に食い込んでいった。目が熱くなってきた。その体勢で目の前の内田を睨みつけた。内田の眼つきが変貌した。獲物に最初に攻撃を加えるときの野獣の眼だ。
「竜、意気がるのも終わりだ。坊やがいつまでも浮かれてんじゃねえ。やれー!」
内田が吼えた。黒服達は一気に俺をたたみかけにきた。瞬時、元宮の横腹に肘打ちをかませると首から彼の腕がほどけた。ソファーから離れ、拳を上段に構え周りをみた。ドアの前にも男たちが立っている。逃げ場もなさそうだ。これまでだと思った。実際そのとおりになった。黒服のひとりが拳を突き出してきた。振りが大きすぎる。上半身を後ろに反らしてスウェーしパンチを避けると同時に左拳を軽く突き出した。顎にまともにヒットした。次に一歩踏みこみ腰に力をため右ストレート。相手の鼻にめり込んだ。のけぞった黒服の顔面を蹴り上げた。鼻先の折れた感触があきらかに伝わった。黒服は叫びながらしゃがみこんだ。不意に、また誰かに後ろから両脇を抱えこまれた。突き出る内田の拳が視界に飛び込んできたのが見えとっさに首を横へ動かした。左頬をかすったかに思えた瞬間、拳は脇腹にめり込んだ。俺の体はくの字に折り曲がり、後ろへ倒れこんでいった。その瞬間、元宮が突っ込んできた。すぐに革靴がうねりを上げて飛び込んできた。革靴があばらに食い込み嫌な音がした。これはこたえた。息が止まった。身体が海老のように折り曲がった。内田がゆっくりと袖口を上げている姿が見えた。その時、立たせろ、という声が聞こえた。黒服の二人に両脇を抱えこまれ力ずくで立たされた。

「誰だ?」
俺は、必要以上に大きな声を張り上げ叫んだ。身動きがとれない。ところ構わず蹴りが入ってきた。
‥五発、六発と数えた。しだいに目の奥がおかしくなり下半身の力が抜け、崩れ落ちそうな気がした。二人の腕に“どっしり”と俺の体重が覆いかぶさっていたのがわかった。息苦しさがあった。浅くしか息ができない。男たちの手がゆるんだ。両足に力が入らない。俺のカラダは崩れるように男たちの腕をすり抜けた。
倒れこんだ俺の姿を満足げに微笑む内田の姿がみえた。
「坊や、なんで真佐子と寝た?店の商品には手を付けないのがルールだろうが」
「は、はずみさ」
「ふっ。はずみね」
内田の左手がテーブのほうへのびた。テーブルには分厚いガラスの灰皿が置かれている。内田が灰皿を握り締めた。
「はずみなら許されるとでも思ってんのか」
四角い灰皿が俺にめがけて飛んでくるのが見えた。

“グシャッ”
‥鈍い音とともに風景が消えさり、そのまま記憶が飛んでいた。


(気絶したのか?)
ほんのしばらく意識が飛んでいたようだ。目をあけ最初に見た風景は白い天井に吊るされたシャンデリアのライトだった。意識がもどるにつれ躰全体に痛みが走り回った。ワイシャツの胸元は引き裂かれ、あちこちに血がにじんでいる。こだました内田の声が聞こえた。
「目が覚めたかよ?寝るには早すぎる。さっきだした質問にちゃんと答えてもらおうか。なんで真佐子の部屋に入った。車の中で何をしていた。もう二人は寝たんだろ?」内田はライターの炎を俺の顔に近づけ、そう言った。
「そう、言われても困るなぁ。よく憶えてないしぃ‥」
「そうか、憶えてないのか。それじゃぁ、思い出させてやるから気絶するんじゃねえぞ」
内田の左足が上がったのが見えた。
「嵌められたも知らずに‥ふんっ!」

(畜生め‥)
正気を取り戻した俺に待っていたものは、殴られ続けられることだけだった。
「立て!」と言われ立ち上がり、またフクロにされる。それをくりかえし俺の肉体は彼らに遊ばれた。いっそのこと気絶してしまえばいいものをどうしても立ちあがってしまう。内田の一言が、嫌が応でもそうさせた。
「嵌められたも知らずに‥、バカめ」小さくささやいた内田の口から漏れた言葉はしっかりと聞こえていた。そして、すべてが暗転しだしてきた…。

―最初に真佐子の送りを依頼してきたのは内田だった。ただ俺を試しただけだったのか。いや、内田は確かに「嵌められたともしらずに」と言った。罠だという意味だ。俺は単純な罠も読めず見張られていたことにすら気がつかなかった。俺のバカさ‥、いや甘さを見抜いていたというだけのことだ。心の叫びは虚しくも空回りしていた。俺が甘い飴玉に必ず喰いつくことを予測し楽しんで見てたに違いない。俺の脳裏に過去の出来事が映像となって、まざまざと浮かんできた。

なぜか、ガキの頃、父に言われた言葉を思い出していた。
「お前の考えてることなんてすべてわかるのだ。目先の損得ばかり考えやがって!この、バカタレが」
自分の馬鹿さ加減にあきれはてた。近寄るべきか、近寄ったならばどうするべきかを考えるべきだった。‥どうやら、やられてもしかたのない安い男でしかなかったようだ。


(しかしな、少しやりすぎだぜ、内田よ)
もう立つことも出来なくなっていた躰は、床の上で男たちに蹴り転がらされるだけだった。気張ろうにも、体に力はまったく残っていない。
「ざまぁねぇな、ガキのくせして商品に手をつけるからだ」
内田は追い討ちをかけるように俺の顔に唾を吐きつけた。

「てめえ、そこまでやんのかい…」
「なんだって?よく聞こえないぞ」
吠えようにも声にはならなかった。手も足も動かない。血だるまにされた口の中は鉄さびの味と屈辱の味が入り混じりワイシャツは赤黒く血で染まりボロボロに破けていた。身体は神経がうまく通っていないのか痛みは感じない。まるで他人の躰というところだ。おかげで痛みから少し逃れることだけはできた。

「よし竜はこれでいい、お前らはもう帰れ。内田、若いもんらにこれで飯でも食わしてやれや」長山の声だった。
クッ!俺を痛めつけたことが、こいつらにとってのご褒美か。
内田はニヤッと笑った。
「おまえ、部下がいなくて本当によかったな。部下がいたらその姿は見せれんだろう。まあ、これから先もお前の器量じゃ部下など無縁だがな」
その挑発に答えず内田から視線をはずした。
瞬時、誰かが脇腹をひと蹴りした。力がこもった蹴りだった。俺に鼻先を折られた男かもしれない。別の男がそれをとどめる気配があった。それから内田と男たちの声が遠がざかっていくのがわかった。


長山と元宮が見下げるように見ていた。
「これで良かったんだ、お前の場合は…」
「部長、良かったってなにが‥」まだ声にならない。惨めだった。口の中で折れた何本かの歯を床に吐き出した。それが精一杯の反抗だった。
女(商品)に手を出したことの制裁は覚悟した。しかしこれが制裁だったのか‥?反省するどころか憎しみしか芽生えてこなかった。濡れた白いおしぼりを床に投げつけ二人は、となりの部屋に入っていった。

投げつけられたおしぼりを手に取り顔を拭おうとしたが動かすことができない。顔すらも動かない。力を振り絞りもう一度、腕を動かそうとしたら、おしぼりが床に落ちた。やっとのことで右手を顔までもってきた。ぬるぬるとした赤黒い液体が手のひらにまとわりついた。指先は真っ赤な血で染められていた。奥の部屋で長山と元宮の笑い声が聞こえる。重苦しい疲労感のなか急速に力が抜けていく腕を無理に動かして、しびれるような痛みのある頭にそっと触れた。髪は水をかぶったように濡れている。髪に触れた手を目の前にもってくるとドロドロとした血のかたまりがへばりついてきた。
ひどく嘔吐がこみあげた。うつ伏せになろうと躰をねじってみた。脇腹から激痛が走る。肩をおもいっきり振って横になろうとした。脱力感が躰を襲った。ゆっくりと動かし続けていると、なんとかうつ伏せになれた。少しだけ休もうとまぶたをとじた。


――しばらく本当に眠ったようだ。
笑い声も消えていた。奥の方から二人の会話が少しずつ近づいて来るのがわかった。先に見えたのは元宮だった。後ろから赤い牛革のアタッシュケースを持った長山の姿が見えた。元宮は俺のほうに歩いてくる。長山はガラスの小ケースからウイスキーを取りだすと入り口付近のカウンター席に黙って座った。後姿だけが見えていた。煙草をふかした元宮が俺の前で立ち止まった。ゆっくり腰をおり、血のついた俺の髪をためらうこともなく握り締め軽く捻じった。
「ひでえな」
「ああ、ひでえよ」やっと声が出た。
元宮の左腕に巻かれたロレックスがやけに輝いて見えた。もう七時過ぎか‥

「竜、しっかりと聞け。お前は明日から裏方で皿洗いをしていればいい。傷が治ったらここのボーイでもさせるつもりだ。ただのボーイだ、余計なことはせんでいい。月給はやるから安心しろ。ただし残業も含め七万だ。あたるだけ有難いと思え」軽くうなずいた。
「安月給だからといって、逃げ出すようなことは考えるな。面倒なことになることぐらいお前もわかるな。かわりといっちゃなんだが、真佐子との付き合いは許してやる。部長がそう言ってくれたんだ、感謝しろ。ただし、これは例外ちゅうの例外だからな」
「ふん、いまさら例外もないでしょ」俺は答えた。

元宮は短い時間をおいて話をつづけた。
「だが、ひとつふたつ条件がある。これを断ることは許されん」言葉は丁寧であった。
「条件?」
「そうだ条件だ。素直に言うとおりにしてれば、それでいい簡単なことさ」
元宮は俺の目をじっとみつめタバコの煙を吹きかけた。
「腫れ上がってきたな。ふっ、自業自得だ。ルールを守れないヤツ、もしくはドジを踏んだヤツはそうなるもんだ。この業界でおまんまを食っていくなら覚えておけ。今のお前なら、よーくわかるな」
「分かりすぎて忘れそうでもあるよ」
「あまり笑わせるな。だが、お前の生意気さは決して嫌いなほうではない。まあ、いずれ一杯飲ませてやるさ。さて本題にもどそうか。おまえも少しぐらいスカウトのことはわかるな」
「…………」
「ホステスが店と契約するときに使うあれだ、あれ。契約金だよ」
「契約金がなにか」

「真佐子には多額な契約金を積んでんだ。それ、知ってるわなあ」
「ああ、契約ね。契約金ならわかるが真佐子の契約についてまで詳しくは知りませんよ」
元宮の手が俺の髪からはなれた。
「灰皿」
「えっ」
「そこにある灰皿を取れと言ってるんだ。灰が落ちるんだよ」
元宮の視線を追うと、さっき投げつけられたガラスの灰皿が薄い紫色のカーペットの上に転がっていた。灰皿にこびりついていた血はすでに乾燥している。
「はやくしろ」
少しばかり手を伸ばせば届く距離に灰皿は転がっていた。だが手足が思うように動いてくれない。ゆっくりと腰を斜めに曲げ灰皿に手を伸ばしたがとどかない。こんどは薄紫のカーペットの匂いを嗅ぐように上体を床に伸ばした。指先に冷たいガラスの感触が伝わる。どうじに肋骨に痛みが走った。カーペットの上を滑らすように灰皿を引き寄せると元宮のほうへそっと差し出した。
「はいよ、これですかね」
「ああ、それだ」
元宮は吸っていたタバコを灰皿の中でもみ消しながら言った。
「いいか、わかるように説明してやるからよく記憶しておけ。お前は店の大切な商品を汚したんだ。汚したからお前はそういう姿になったんだ。だが、お前がそうなったからといって汚れちまった商品はどうにもならん。本来なら弁償もんだよな」
「カ、カネかよ」
「ふん。そんな大金が今のお前に払えるとでも思ってんのか」
「へぇ、おれの有り金まで調べたってのか」
「まあ、黙って聞いてろ。真佐子なぁ、あと二ヶ月でこの店との契約が切れる予定だ。契約が切れたからといって店を辞めるといわれちゃあ困るわけさ。困るといっても、あいつも馬鹿なホステスじゃねぇからなぁ。そのぶん厄介なもんだ。何らかの駆け引きは当然してくるだろう」
「それは真佐子の問題で俺には関係ねぇ‥」
「テメェのオンナだろ!辞めないように言い聞かせるのが筋ってもんだ。そこまで言わせるな。話にはまだつづきがあるから黙って聞いてればいい。真佐子は店に借金が二百万程ある。だが、あいつの借用書には保証人がついてない。とりあえずその連帯保証人にお前は選ばれたわけだ。嬉しいか悲しいかは知らんが黙って判は押せ。いいか、真佐子の連帯保証人に判を押すこと、それと真佐子をこの店に縛ること、決して辞めさせたりしてはならない。お前も辞めようなどと思わない、話はそれだけだ」
元宮は上着のポケットからタバコを取り出し椅子に腰を下ろした。
俺は黙り込んで元宮の話を聞きながら頭の中を整理していた。


―そういえばつい最近、真佐子から「今より、いい条件でスカウトされている」と聞かされたことがあった。きっと真佐子は契約が終われば店を移ろうと考えているのだろう。
契約金とは、ホステスを専属で働かせるための年間契約を結ぶものだった。契約を結んだホステスは契約期間中、店を辞めることは出来ない。ほかの店でバイトをすることも違反行為にあたる。ただ契約期間まで勤めあげれば、その金は返さなくていいが、何らかの事情で辞めることになった場合は契約違反となり、受け取った契約金の1.5倍を店に弁済することになっていた。契約金の受け渡しに対して書類上では契約書と借用書、領収書の三枚から作られていた。
百万円の契約を結んだ場合は契約書に100万と記載されるが、それとは別に、もう一枚の借用書には150万を書かされてしまうのだった。二つの書類には割り印がつけられている。この契約規則を破った場合には契約書というよりは借用書が効果を発揮するという単純な仕組みである。かりに民法上、訴訟を起こせば済むことでも、それがこの世界では当然のように使われていた業界のシステムというか決まりごとという鉄則でもあった。

この契約金をチラつかせ他の店から有力なホステス達を引き抜いてくるのが、スカウトマンの仕事だ。目の前にそれなりの札束を積んで見せれば、すんなりと受けとってしまうのも人間の心理といってもかまわないだろう。真佐子もそのうちのひとりにすぎない。あと二ヶ月ほどで真佐子の契約は終わってしまう。そうすれば他のクラブと契約を交わそうとするのは自然である。たぶん、ラ・モールも新たに年間契約を結ぼうとするだろうが、他の店の契約金と日給を引き合いにしながらの話し合いになってしまうだろう。契約金だけではなく給料も上げなくては店として真佐子を引き止められなくなる。要するに、やっかいなことを俺になすりつけ、話を簡単明細に終わらせようとした絵図的なことだったのかもしれない。余計な金を使わずに真佐子を店にくい止める方法としては、たしかに面白いやり方かもしれない。深いため息がでた。

そっか、俺は適当な当て馬にされたということか。もし、そうなら長山か元宮の絵図だろう。内田のおつむで絵図などかけるはずはない。まして、あいつの性格ではとうてい無理なことだ‥。


「ほら、今日は送ってやっから立ちな!」元宮が血のついた自分の手のひらをおしぼりで擦りながら言った。
「汚れをふき取ったばかりだが、立てないなら手伝ってやってもいいぞ」
「いや、いいですわ」

痺れていた傷口が痛み出してきた。手のひらを床につけ腕を伸ばしながら上体を起こそうとした。ゆっくりと右足に力を込め真横にあったテーブルに手をかけると、息を止めながら腹に力をいれた。額から水滴のようなものが流れてきたが汗なのか血なのかよくわからない。両膝を曲げてクッションにしながら地面を軽く踏みつけると、両足首に鋭い痛みが走った。我慢しながら両足をゆっくりと伸ばしてみる。なんとか立つことまではできたが足を前に踏み込むと激痛が襲った。
「ツッ‥」
「もたもたするな。そろそろ通勤ラッシュになんだよ。少しは急げ」
「いまさら、急いだところでラッシュはさけられねえよ」
「ふん。内田の言ったとおり生意気な小僧だ。肩でも貸してやろと思ったんだがな」
「いや、こちらから遠慮します」
「なら、はやく歩け」

二日酔いはいつの間にか消えていた。真佐子から貰った薬が効いたのか。こうなるなら、もう少し痛み止めを飲んでおけばよかった。
外に出ると、すでに日差しがまぶしかった。使いものにもならない曲がりくねったグラサンはドブに投げ捨てた。赤黒い手でポケットの中にあるキーを取り出すと、それを元宮の方に投げた。
「おい、目上の人に運転してもらうときは、お願いしますぐらい言うもんだ」
「目上ね、チェッ!あっ、そうそう、その車アクセルを何度か噴かしてやって下さいよ。アイドリングを下げないとギアが噛んでくれないんでね」
「ふん、ポンコツかよ。車も飼い主に似てひねくれたポンコツか」元宮の表情に笑いが浮んだ。
俺は助手席のシートに吸い込まれるように座り込むと、ほっと息をついた。
「さて、どこに送ればいい。帰るヤサは結構あるらしいじゃねえか」
「…………」

「なんだ、しゃべる元気もなくなったか。ははっ、それじゃあ好きなように走るぞ」元宮は煙草に火をつけると車のエンジンをかけた。アクセルを軽く数回踏み込みギヤを入れた。右手でハンドルをしっかりと握り締め、アクセルをググッと踏み込んだのがわかった。タイヤはアスファルトの上をすべるように音をたて急速に走り出した。フロントガラスの先に赤茶色に錆びついた鉄のポールが見えた。
「おいおい、あぶな‥」
ガシャーン!

「あちゃぁ、やってもうた。わりぃ、怪我はしなかったか?ははっ、それもおかしな話だな。もっとも怪我はとっくにしてるんだったわなぁ。はははっ」

俺は体をかがめ、落ちたライターを拾い上げると黙って煙草を銜えた。なんとなくだが驚きもせず腹も立たなかった。元宮の行動にそれほど抵抗を感じなかったのは、たぶん自分にも似たようなところがあったからなのかもしれない。
「まあ、あれだ。ついでに腫れたそのツラは事故だっうことにしておけば丁度いい」
「ええ、はなからそのつもりだったんでしょ。真佐子にもこれでうまく説明が出来きる」
「そうだ。そういうことにしておいたほうが利口だ」
元宮はそう言うと、今度はゆっくりと車を走らせた。足回りとエンジンに支障はないようだ。すんなりと車は動いてくれた。
「すまんな、車には悪いことをしてしまった」
「いえ、かまわんですよ。予測できましたから」
「ほう、予測ね。お前って、なかなか計算高いのか」
「何が言いたいんです」
「賢いほうかと聞いたんだ」
「聞いて何が言いたい」
「べつに、小僧に言いたいことなどないわ。ただ、予測もできんかった者が偉そうに予測と口にしたからだ。それともこれはお前にとって計算済みだったとでもいいたいか。ずいぶん内田に痛めつけられていたようだがな」
「いや、これは想定外だった。何よりもはやすぎた。それに内田にじゃねえだろ、あんたも同じさ」
「そうだったな。ふっ、はやすぎだったか。なるほど、すこしは賢いかもしれんなぁ」
元宮は首を傾げ言った。
「お前の言うとおりさ。はやすぎたのは確かだ。どうしてはやすぎたと思う」
「そんなこと、今はいい。それに話たくない」
「そうか、ならヒントだけ言ってやるわ」
「へへっ、おかしなひとだ。なにがヒントだよ」
俺は上目づかいで元宮を見つめ、こいつ俺をおちょくっているのか……と、思っていた。それは所詮、小僧は大人には勝てないのだからじたばたせず諦らめろというようにも聞こえた。
「真佐子がお前に関心を持ったのは送り迎えをお前がしてからではないのさ。そう、その前からだ。それがある日、ワシらの耳に偶然にはいった」
「なんですか、そのはなし」
「聞きたいか?お前もただ、やられてばかりもつまらんだろう。それじゃぁ、俺もつまらん。お前が計算高いなら少しは考えてみろ」
一瞬戸惑って、俺は思っていることを少し口にした。
「それを知って真佐子の送り向かいを俺にさせた。そしてバカな俺は当て馬にされているとも気ずかず、いずれ女に手をだす‥。そういうことでしょ」
「ふふっ、おもしろい想像だ。まあまあだ。だがな、何度も言うが、それがどうであろうとお前が商品に手をつけた事実は曲げられん。それに俺はそんなことを言ってるんじゃない。真佐子も女だってことさ。言わなくてもいいことまでペラペラと話すのが女という生きものだ。それを同じ店の典子に漏らしたりするからおかしくなったんだ」
「典子?」
「へへっ、そう典子だ。典子と真佐子はホステス同士でも仲が良かったようだな。しかし、女同士ってのは何処まで仲が良いのか男には分からんもんだ。お前もこれからは“女の口”には十分に気をつけることだ」
「どういう意味ですか?」
「あとは勝手に想像しろ、勝手に想像して脳みそを鍛えろ。ただ、お前が俺たちのことをどう思っているか知らないが、いずれにしろお前と真佐子はデキていたと俺は計算していたがね。あいつは若いがホステスのプロだ。気に入ったものは必ず手にする。お前ごとき男なんてすぐに落とすだけの器量とテクはもっていたさ。それが店の契約が切れてから行動しようとしていたのか、切れる前に思っていたのかまでは知らんが、お前たちは契約が切れる前に絡み合ったということさ。契約が切れほかの店にいってからだと、お前さんもそんな姿にならんですんだのにな。わかるか?」
俺は沈黙していた。正しいとも間違いだともとれる沈黙が、今の自分には都合がいいと計算したのだ。それはやりきれない気持ちを隠すものでもあった。
今の自分に成せるものはない。権力はこいつらに握られた。支配する側とされる側の関係が出来たとき、命令する者と服従する者の間に権力という力が成りたつ。俺は服従する側にいるのか‥。
元宮はさらに皮肉混じりに言った。
「お前は、長山かそれとも内田か、どっちになりたいと思っている。俺はどちらでもないがな」
元宮が顔を向けると俺はニヤリと笑った。
「ずいぶん、おしゃべりな方だな」
「そうか、どうやら俺も女と変わらんか。悪いが俺はここで降りるから後は自分で運転して好きなところで体を休めろ」元宮はそれを言い終えるとウインカーをつけ車を路上わきに停めた。
俺は考え込んでから元宮に聞いた。
「なぜ、そんな種あかしのようなことを言う必要があるんです」
「種あかし?種あかしじゃないさ。だが仮にだ、もしそうだとしても計画は完了したんだ。罠にはまったウサギは食われるのが落ちだ。今さら分かったからといってこちらに支障はない。それに頭を冷やせば考えれることばかりだろう。大人ってのはな、そういうのを種あかしとは言わんもんだ」
俺は微笑している元宮から顔をそむけた。
やがて元宮がドアノブに手をかけドアをひらいてから小さく言った。
「スカウトをやるなら女になれろ。そしてじっくりと観察することだ」
それを言うとドアを閉め後方からついてきていた長山の車に乗り込み元宮たちは去っていった。助手席に座りながらバックミラーに映っていた長山の車が見えなくなるのを確認してから、ようやくダッシュボードからタバコを取りだした。
タバコを咥えながら、しばらく真佐子のマンションには行かないほうがいい、そう思っていた。直接、彼女の口から聞ききたいことは山ほどあるが、この感情のまま会ってしまうとまともな会話にならない。きっと彼女を質問攻めにしてしまうだろう。せまい部屋に二人きりで居ても息が詰まる。逆に彼女から問われても隠し通す余裕もなさそうだ。それに店を辞めるなんて言い出されたら元も子もない。そんな複雑な気持ちが交差していた。
もう、上司から真佐子の送りをしろとは言わないだろう。真佐子から送ってと言われたにしても愛車は修理中である。
ポケットから真佐子にもらったライターを取りだし咥えていたタバコに火をつけた。車内からみえる景色がにじんで見える。煙なのか涙なのだろうか。いつもの風景がゆがんで見えていた。

まぶしい、まぶたに焼きつくように太陽の光が、まぶしい。月のひかりとネオンの明かりがいつのまにか体に染み付いていた。ほんとうにいつからだろう太陽を嫌うように成りだしたのは…。

喧嘩をし、薬物に染まり、不良と呼ばれる行為はひととおりこなしてきた。欲望もあった。女は人並み以上に抱いた。それなのに女を抱くほどに嫌悪感と抵抗を覚えていった。そして女を見下す態度をおぼえた。家計を守るためとはいえ母が勤めた夜の世界には抵抗していた。過去にとらわれた、ただのマザコン男だというひと言で済まされたこともあった。人が思うことなどどうでも良かった。金がほしかった。なんとしても金を手にしたかった。美しいものに憧れて、それを求め、美しいものに失望した。それでもまだ美しいものを探している自分がいる。悪夢のような想いしかいつも残らない。はやく離脱したいという強い願望があるにもかかわらず、それではどこに行きたいのかとなれば何のひらめきも無かった。もしかしたら、そこでなければどこでも良かっただけなのかもしれない。現実から逃げていただけだった。いつしか夜の町をふらつくようになっていた。そして夜の世界に足を踏み込んだ。そろそろ目を覚まさなければならない。もう坊やでは生きていけない。時がきたのだ……。 
                            

――中心街から徒歩5分、昔ながらの商店街が並ぶ大田口通りを横切るとラブホテルがある。その角を曲がり100メートルほど路地裏を歩くと老朽化した木造二階建てアパートが見えてくる。そこの二階が寝床だった。六畳と四畳半の二部屋で、ひとりで住むには適度な広さだ。町からも近い。家賃は三万でおつりがきた。早朝、真佐子の部屋を出てからここへ帰るまでに相当体力は消耗していた。部屋に入るなりベットの上に倒れこむと、そのまま眠りについてしまった。


「‥サチコです」
電話が鳴ったのは昼の十二時を少し過ぎた頃だった。カーテンごしに眩い光が差し込んでいる。真夏の太陽はとくに苦手だ。
「早智子?」と、もう一度繰り返し声を確認すると意識が少しずつ回復し始めた。
「竜ちゃん、私、今日休みなの。そっちに行ってもいいかしら」
「ああ、もしかしたら寝てるかもしれないが、ドアの鍵はあいてるから勝手に入ってきてくれ」もともと高価な貴金属などない。盗まれて困る書類もない。男物の下着を盗むような変態もいまい。だからめったに帰らない部屋でも鍵を掛けたことは無かった。
寝ていると言ったものの、自分の行動が一つ一つ思い出されてくると眠れなくなってしまい、そのうち早智子の足音が近づいてくるのがわかった。
早智子は部屋に入るなり、そっと俺のそばに近づき顔を覗き込んできた。
「竜ちゃん、起きてる?」小さくささやいた。
「早かったな、悪いがもう少し寝ててもいいか」
「え、ええ‥」一瞬、腫れ上がった顔にためらったようにも見えたが、とくに早智子は何も聞こうとはしなかった。余計なことは言わない、そんな女だ。ただ、着替えをせずに寝ていた俺のネクタイとベルトを黙って外し終えると、そんなことはお構いなしに部屋の片づけをはじめだした。男の一人暮しなんて、すぐに散らかってしまうものだ。掃除などめったにしない生活は自然にホコリまみれになる。銀行の支店長のひとり娘だった早智子が、こんな男くさい部屋に来るようになったのは去年の春ごろからだった。
「親がひいたレールの上を歩くのは、もうウンザリ」と言っていたことがあったが、それは裕福な家に育ったがゆえの不満でしかない。お嬢様育ちの正義感からなのか、たまにやってきては掃除をしてくれた。早智子の手際良さは三十分もするとすっかり綺麗になった。いや、むしろ以前より整理されていた。それが居心地よかったのかまた眠気が襲い夜まで眠ってしまっていた。


右腕にはめていたロンジンの腕時計は午後八時をさしていた。
どうやらこれは壊れずにすんだようだが、文字盤のガラスを血しょうが曇らせていた。非防水であるため水で洗い流すことは出来ない。時計の皮ベルトを外そうとするがどうも左の中指に支障があるようだ。ただの打撲なのか骨折なのかわからないが、小刻みに震えてなかなか思うように外せない。濡れタオルで拭き取ろうかとやっとの思いで身をあげるとテーブルに置かれたケーキの箱に目がいった。
そうだ、今日は俺の誕生日なんだよ‥。

血まみれのワイシャツは、あらゆる傷口にべっとりと張り付いていた。体中の傷を確認するかのようにそっとはがしてみる。時間はかかったがなんとか、ひとりで脱ぐことは出来た。風呂がない部屋では体をふきとるしかない。だが、水でいいから髪くらいは洗おうと洗面台でこびり付いた汚れを落とした。
頭が冷えたせいか、ふと、別れ際に元宮が言った言葉が浮かんできた。
「お前もただ、やられてばかりもつまらんだろう。それじゃぁ、俺もつまらん」
そうだな。たしかにこのまま終わらせるわけにはいかない。まずは真佐子の借金とやらを詳しく調べなくては・・・
それと、典子のことも引っかかる。


部屋を出るとき早智子はソファーに横たわり眠っていた。かすかな寝息を立てる早智子の顔に手の平をかざしてみてもまったく気がつかない。声ぐらい掛けていこうかと迷ったりしたが、やはり話をする気分にもなれず、黙って部屋を出ることにした。アパートの右角を曲がるとそば屋の看板が見えてくる。そういえば朝から何も口にしていない。これといって旨いものがある店でもない。ただ好きな銘柄のビールがあったので月に幾度か立ち寄っていた。いつもはビールと枝豆しかたのまないが何か食おうかと店の引き戸に手をかけた。


「いらっしゃい」
店に入ると、すかさずカウンターの中から店主が声をかけてきた。
店主は五十歳を少し越したくらいの小男でエビスビールを持ち、これですよねと目で合図した。
何か注文しようとしたが、店主の笑顔につられ「まあ、いいか」と軽くうなずいた。仮にほかのものを注文したとしても、口の中が傷だらけでは喉まで通らなかっただろう。誕生日というのに、ひとりで酒を飲むのも虚しいものだ。だが女と飲む気にはなれない。クルマも無く歩くことも少々辛い。今からやりたいこともある。
こんな時、誰が頼りになるのか、そう考えていると頭に浮かんできたのが、ひとつ年下のマサトだった。富田正人だけは信頼できる友と認めた男だ。
スーツの胸ポケットから薄い手帳を取り出すと、カウンターの右端に置かれていた公衆電話のほうへ向かい、そこで腰をおろしマサトとカタカナで書かれている電話番号を確認しながらダイヤルを回した。
だが、受話器からは呼び出し音がするだけで誰も出ない。普段なら4、5回のコールで間違いなく電話を切ってしまうが今日は我慢した。何度か呼び出し音が繰り返され留守番電話に切り替わった。
「はい、富田です。ただいま外出しています。御用の方は発信音のあとメッセージをどうぞ‥」
「正人か、竜だ。また、あとから連絡す……」
「もしもし、、、なんだ竜さんだったか?申し訳ない、ちょっと出たくない相手がいたものでさ」
受話器から、まるで体格のよさがわかるくらいの図太い正人の声がした。
正人は身体が大きく服を脱げば胸の筋肉が盛り上がっている。
ロシア人と組んで中古車の売買をしていたが、やはりトラブルは多いようでロシア人相手に殴り合いをすることも多かったみたいだ。それも彼流の仕事方法なのかもしれない。優秀なのは彼が負け知らずというところだ。もともと喧嘩好きの変わり者でもあったが‥。
「なんだい居たのか。相変わらず妙なことしてるようだが、もし時間があるなら付き合ってもらいたい所があるんだ。そっちの都合はどんなもんだい?」
「ふっ。暇ですよ。‥で、どこに行けばいいのです?俺ならすぐ出られますけど、それとですね、何かご馳走してくれますか?腹が減ってしょうがないんですよ」
「ああ、わかったよ。好きなものたらふく食わしてやるさ。じゃあ、俺のアパートの近所のそば屋の前でクラクションを鳴らしてくれ。蕎麦じゃ腹もふくれんだろうしな」
「了解。十分ほどで着きますから‥」
正人の電話を切ると店主がビールを席に運んできた。
店の店主は腫れあがった顔のことに好奇心がありそうだったが、それにはふれずにいてくれた。
「おやじも一杯どうだ?それとな、ちょっと頼みがある」そう言って、ポケットにあった赤いマッチ箱を店主に手渡した。誰が見ても飲み屋のマッチとわかる派手なマッチ箱だ。そば屋の店主もすぐに察したようだった。
「悪いがこの店に電話を掛けて真佐子って名の女を呼び出してもらいたい。女が電話口に出たのが確認できたら黙って俺にかわってほしい。もし、いなかったら適当な名前でも言って電話を切ってもらえればいいから」
「へぇーこの店高いんだろ?クラブって書いてあるけど、こんなところワシなんて、どう転んでもいけねえよな」
「ああ、高いよ。高くて俺も飲みになんて行けないよ。だから電話で話すのさ。これなら10円ですむ」
「そうか。そりゃ安つくわな。じゃあ電話したるよ」店主は柔らかく笑いかけながらダイヤルに手を掛けた。
「あのぉー、真佐子さんお願いします‥」

「‥はい、真佐子ですが」
店主の持つ受話器から真佐子の声が響いて聞こえてきた。店主は黙って受話器を俺に手渡した。一瞬、何から話そうか迷った。真佐子は今日のことを知らずにいるのか?契約書の内容や典子とのことも聞き出したい。が、今話題にするのはまずい。他に話題にすることがなければ当たり障りのない会話をしながら店の状況を確認するまでだ。
「真佐子か。今朝はすまなかったな。今日もそっちに行こうかと思っていたんだが、どうも仕事が長びきそうなんだ。それと、クルマなんだが、ちょいと事故っちゃてさ」
「えっ、事故?か、からだのほうは、どうなの?」
「ああ、骨でも折れてるかと思い、さっき病院に行って来たよ。だが、ツバでも付けとけば治るだろうなんて先生に笑われたくらいだ」
「そ、そう無事なのね。よかったぁ。クルマくらいどうにでもなるけど体には気をつけてくださいよ」
「ああ、気をつけるよ」
「それで、今度はいつ会えるのかしら。あなたの誕生祝もやり直しね」
「そうだな。あさってくらいだと思う。ああ、内田だが今店には居るのかい?」
「ええ、店にいるけど、なんか用でもあった?」
「べつに用ってわけでもないが、またこちらから折り返し連絡するから何もいわなくていい。それじゃあ、あさってな‥」
真佐子はまだ何か話したそうだったが、結局そのまま電話を切った。普段なら、お世辞の言葉もひとつふたつは思いついただろう。しかし、これ以上話を長びかせてしまうと、刺々しい言葉がでてしまいそうだった。
真佐子の電話を切ると、すぐさま今度は受話器を首に挟みこみ、震えのおさまらない指でなんとかダイヤルを回し、長山部長がいるナイトクラブ・バハマに電話をした。
「あ、部長ですか。お忙しいところを申し訳ありません。今日のことをあらためてお詫びしようかと思い電話しました。本当に反省していますので今後もよろしくお願いします。それと借用書の保証人のほうも納得しています。約束どおり明日にでも印鑑を持っていこうかと思いましたが、どうも体を動かすのがやっとでして、出来れば二日ほどでいいのですが、店のほうは休ませてもらえないでしょうか?体が動かせるようになればすぐに印鑑も持って出勤します」
「ほう、そうか。どうやら逃げ出す様子もないようだし体が動かないなら仕方がない。まあ今回だけは特例として二日間だけ休みをやろうか。そのかわりちゃんと明後日にはハンコを忘れずに持ってこい」
「わかりました。ありがとうございます。それと本宮さんがそばにいるなら代わっていただけないでしょうか?」
「あいつなら今、下のスナックでスカウトしてるが何か伝えておこうか」
「いえ、本宮さんにもひと言、休みのことを言っておかねばと思いまして」
「それなら俺が伝えておいてやるから心配するな。ああ、そうそう、真佐子にはこのことは話してないだろうな」
「はい、それは口が裂けても言えません。それでは、本宮さんにもよろしくお伝えください‥」そう言うとあとは決まり文句の挨拶を並べたてて電話を切った。

これで事務所に彼らが居ないことだけは確認できた。黙っていても翌々日には契約書と借用書は目を通すことになる。が、その前にどうしても確認しておきたい事があった。普段、この時刻に事務所に人が居ることはなかったが、確認することで安心感が沸いて出ていた。


株式会社大国は不動産部、起業部、興産部と三つの子会社に分かれ、不動産部が何らかのかたちで土地建物を安く買い上げて起業部がそれらをラブホテルやリースビルへと変えていった。
興産部はネオン街を拠点にする俺たちが所属しているところだ。当時、夜の街も人があふれキャバレーやナイトクラブが盛んに広がりをみせていた。売上げを伸ばす一方、不動産や動産とは違い税制から逃れるのも簡単だったようだ。要するに裏金というヤツを作るにはもってこいの子会社だ。売り上げの半分は裏帳簿に回されていたとおもう。バブル期だったこともあるが興産部は社員、ホステスも頭数に含めると100名を軽く超えていた。
毎日が忙しいわけでもない雑用係だった俺は、事務所の隅にある渉外部と書かれたデスクのイスに座りながら、上司たちの売り上げ伝票を操作する姿を横目に暇を潰していたことが幾度かあった。昼間から怪しげな人物が頻繁に出入りしていた事務所だったが、不動産部に所属する人物だけは一度も顔を合わせたことはなかった。後になり知ったことだが、違う場所に不動産事務所の看板を構えながら街金もどきのことをしていたようだ。
長山は必ず、日に二度は事務所に顔を見せていた。クラブ七店舗のつり銭袋を取りに午後三時に一度、全店の営業が終わり売上金を運んでくるのが午前二時、時間に正確な男だった。今から事務所に向かい帳簿に目を通すには四時間はある。普段、何気に立ち寄っていた場所だが妙に武者震いが止まらなかった。
(なにも盗みをするわけでない、誰も居ないことは確認しただろ、落ち着け)そう自分に言い聞かせながら残りわずかなビールをグラスに注ぎ足し、一息に飲み干した。

店主が何か話しかけてきたが上の空で聞いていた。適当に相槌を打ったが気のない様子に店主も話すのを途中で辞めてしまった。多分、真佐子とはどんな関係なのかと聞いたのだろう。「知り合いだ」と、だけ答えた気がする。

表で到着したことを知らせるクラクションが鳴ったので店を出ると、旧式の真っ赤なアウディーが歩道に乗り入れられていた。
ロシア人と絡んで車両の売買をする正人に自分が所有するクルマは必要ないのだろう。先月会ったときはシルバーのボルボだった。いつも違う車を乗りまわしているが、どれも密輸車でしかなかった。
商品に傷さえつけなければ多少は乗りまわしてもかまわないということなのだろうが、皮肉にも数時間前、店の商品に手をつけヤキが入った俺には正直うらやましくも思えた。
助手席の窓が半分まで降りると見覚えのないロシア風の女の顔が現れた。
ブルーの瞳に栗色のロングヘアー、胸元が見えそうなシースルーのキャミソール姿の女はドストエフスカヤと言った。名を聞いてすぐさま誰だか見当がついた。通称『ドメス』まわりでは、そう呼んでいた。苗字の『ド』からつけたのか『ドメスティック』だからなのか、そんなことは知らない。
ほっそりとしたボディに大ぶりの乳房。いい女だが態度が悪い薬売人だった。くわえタバコで話す女と薬中は好みではない。
「正人、おまえ女の趣味が悪くなったな」
「ふっ、あんたと同じだよ」
そう正人に言われたことが癪にさわった。が、同時に武者震いは止まった。
薄暗い車内でわずかに見えた女の顔は笑っている。後部座席に乗り込むと、むっとする悪臭に襲われた。とくに夏のむし暑い夜にはなおさらだ。暑さが悪臭を車内に充満させていた。
トルエンか?」
「ああ、純トロだ」

昭和60年、シンナー等の薬物による検挙者は二万八千人、うち未成年が八割近くをしめており少年を中心に“純トロ”がまん延していた。純トロというのは、純粋トルエン99.9%のことをいい別名アンパンやスリーナインといって、シンナーのなかでは最高品に扱われていた。トルエン等の有機溶剤は錯覚、幻覚など精神に異常をきたすことから暴力犯罪を引き起こす危険性が高く薬物中毒に犯されると、より強い薬効を求めだし覚せい剤へ走りだしす若者も多かった。これらをディスコ、ナイトクラブ等で市価の約20倍の価格で販売し薬事法違反等で検挙されたものは数え切れない。
                                         

    
ディープ・パープルの浮かれた曲が流れていた。
ロシア女は曲のテンポに合わせくびれた腰をくねらせながら煙草の煙を吹きかけた。後部座席の俺の足元には茶色の紙袋が口を空けたまま置かれている。ドリンク剤の瓶が見えた。トルエンはこの瓶に詰め込まれているのだろう。

「密輸車に純トロね、大したもんだ。それよりこのドブネズミとやらも同乗するなら俺は遠慮しとくが‥」
「ふっ、ドストエフスカヤですよ、まったくそんな腫れた顔でよく冗談がでるもんだ」
「なんでもかまわない、どうなんだ」
「いえ、駅の北口で降ろします。窮屈だとは思いますがそれまで辛抱してもらえませんか。傷の手当はそれからってことで」
「ああ、傷のことはいいさ。それより女を降ろしたら事務所まで頼むよ。そこで少しばかり手伝ってもらいたいことがある。その後ゆっくりメシでも食おうや」
正人はかるくうなずくとヘッドライトを点け、すぐさまアウディーを走らせた。街中を通り過ぎ、すこし遠のくと地鉄線のガード下をくぐり抜け駅の北側に入った。まだ九時をまわったばかりだというのに、このあたりは人通りも絶えひっそりと静まり返っている。車が駅の北口前に着くと正人はアウディーを道端に寄せ、停めた。
しばらくすると改札口から男が走り出てきた。日本人ではない。正人はパワーウインドゥを下げ茶色の紙袋を男に手渡した。紙袋の中からガラス瓶の重なる音がした。男は折曲がった札束を隠すように正人に手渡すと、急ぎ足で車から遠ざかっていった。
「取引終了ってとこか」
「まあね、そんなとこさ」
「なあ正人、こんなこといつまで続けんだ」
「いつまでって?飽きるまで続けるつもりなんですけどね」正人は受け取った札束を指で弾きながら、そう言った。
「べつにこんなことしなくても、おまえならほかに稼ぐ方法ぐらいあるだろうが。おとなしく親に頭でもさげればそれなりになるんじゃねえのか」
「わかりきったこと言わんで下さいよ。今さら家に帰る気も頭をさげる気もありません。昔はともかく今の俺は考え方がまったく違うんだ。たった一度の人生だから愉しまなきゃ損でしょう。それにこのドストエフスカヤは儲け話をけっこう知ってるようでね」
ドストエフスカヤは時々、二人の会話をさえぎった。
「ホント、二ホンハ稼げるんだけど、ビザと身元引受人がいないとダメなのヨ」
女の言葉に苛立ちをおぼえた。バックミラーごしに自慢げそうな女の表情が映っている。
「ほざくな、クズ女!」自然に女の背に声を投げていた。
女は体ごと振り返り大声を張り上げた。
「アナタ・ヤバンナ・オトコネ」
「ああ、何とでも言ってくれ、おまえに好かれようなんて思ってもいないんだ。ようが済んだならさっさと降りろ」
女は顔をしかめた。
「ちっ」正人が舌打ちし女にいくらかの金を掴ませた。女は受け取った金を胸ぐらに押し込みながらも俺から目を離さない。
「いつまで見てんだ、もう見飽きただろ。はやく降りろ」
正人が煙草に火を点けながら首を斜めに滑らせると、女は黙って車から降りた。
一瞬、助手席のドアが激しく音を立てた。ドアの向こうで女が何か息巻いている。
正人は吸いかけの煙草を灰皿の底で捻り潰すと、慌しく車を走らせた。
「クソッタレメが」
「クソはお前だろっ」
「ケッ、なんなんだ、まったく。何が気にくわないってんだい」
「そう熱くなるな」
だが、正人は熱くなっていた。
「奴らとツルんでるのが気に入らないのか、それともコレを売買してんのが悪いってのか。誰がどうだとかなんて俺には関係ないぞ。薫が強姦されたことを覚えてっか。まわりに何人か野次馬がいたらしいが、誰も薫を助けようとしたヤツなんていなかった。俺が学んだことはそういうことだ。他人がどうであれ楽しければいい。それだけだ」
「そうか、楽しいか。それじゃもう何も言わんよ」会話は途切れた。

たしかに他人がそれでどうなるかなど関係なかった。人生なんて面白ければ良いんだ。捕まりさえしなければ罪でない。そう思っていた。
正人は格闘技が好きで中学から空手道場やボクシングジムに通っていた。喧嘩が得意で、この辺りじゃ名は知られていたが昔から荒んでいたわけではなかった。祖父は警察のお偉方で父もそのあとを継いでいた。それなりに裕福な家庭に育ち地元でも有名な進学校に入学し、そこそこの教養もあった。高校を卒業すると東京の大学に行くと言っていたが、二つ歳上のOLと恋に落ちてから彼の人生は狂っていった。

薫という名前だった。それからの正人は彼女の実家に住みつくようになっていき、そのうち彼女は妊娠した。正人はいずれ薫と正式に結婚するつもりでいたが、それを知った正人の父は激怒し、その日のうちに相手方の両親を呼び寄せるとその場で二人は別れさせられてしまった。その二日後、両親達の説得により薫は正人に相談もできないまま子供をおろすことになる。それを知った正人はひどく親を憎むようになっていった。

薫から俺のほうに連絡が入ったのは、それから一ヶ月ほどたった日曜の夜だった。電話口の向こうで薫が少し戸惑っている様子が伺えた。
「もう誰も信じられません。私一人です。正人の自宅に何度も電話してみたのですが、取り次いでもらえません。一度でいいから会って話がしたかった。子供をおろしたことで正人が私に対して怒ってることは知っています。でも、あの時は親の言う通り従うしかなくて・・・、わたし、今も後悔しています」
彼女は電話口で泣き崩れた。

「それで、どうしろと‥」
薫の声は聞き取りできない程小さくなった。
「私がすることは後悔ばかりです。いまさら誰にも相談できません。わたし…」

薫は数日前、日系ブラジル人たち数人に連れまわされたあと、街中の地下駐車場で強姦され遊ばれたことを泣きながら語った。薫はひどく傷ついているようだった。ただ、得体の知れない男達に連れまわされたと薫から聞かされても、それをどのように受け止めたらいいのか正直迷っていた。いきなり彼らの車に連れ込まれるとはどうしても考えられない。薫にもスキはあったろう。なぜ日系ブラジル人と知り合ったのかを追求しようかとも思ってみたが、それらを聞いてしまうと返って彼女を攻めてしまう言葉を吐きそうな気もしたので思いとどまった。
だが、ことを知った以上まったくの他人ではない。済んでしまったことはどうにもならないにしても、正人に会わせることぐらいはしてあげたかった。
それに、やはり一度くらい二人は会っておくべきだ。俺を頼って電話をしてきたのだから、それぐらいしなくてはならないと思った。

「分かった。とにかくこれから正人に連絡してみる。薫は自宅で待っていればいい」薫の電話を切り終わると、すぐに正人の実家に電話をかけた。
電話は薫の言っていたとおり、正人に取り次いではくれなかった。止む無く受話器を置き車に乗り込むと正人のところに向かった。
正人の家の前でクラクションをかるく二度ならした。運よく正人が気づいてくれた。部屋の明かりが消えたり、ついたりと合図をしてきた。しばらくすると正人が助手席のドアを開けた。派手なブルゾンを着こなし黒髪だった正人の髪は茶髪に染め上げられていた。正人が黙って助手席に乗り込むとそのまま車を走らさせた。
薫の自宅方面に向かいながら薫のことを話してはみたが、正人は会うつもりはないと言い張るもので引き返すことになった。結局二人は話もしないままに終わっていった。


翌々日、警察から電話があり事情聴取を受けた。薫が死んだ。自宅の部屋でシンナーを吸ったあと首を吊っての自殺だった。正人は大きなショックを受けた。
強姦されたことも警察に話してみたものの、警察は強姦グループを逮捕するどころか探そうともしなかった。死人に口無しというところだ。証拠もなければ話にならないからだろう。
この数ヶ月で正人は二つの命を失った。だが、そのどちらも罰せられることはなく自殺の原因だけが様々に憶測されるだけだった。神経衰弱や薬物からの幻覚症状、家庭的憂苦、罪意識からの恐怖、そのどれも当てはまるのだろうが、その死因には残余が残った。そしてこの残余こそがそれまでの正人の人生観を一変させてしまった何ものかでもあった。数日後、身内だけで行なわれた葬儀が済まされた。正人は一階の奥の和室に安置されていた薫の遺骨の前に正座すると、静かに線香を手向け一分ほど合唱した。薫の母から最近の日記を見せてもらった。書かれてあったものは正人のことと強姦のことばかりだった。
自殺した薫が遺したものといえば身勝手に十九年の生涯を清算したということだけで、残されたものは深い虚脱感に襲われていた。
正人は人の命の儚さをつくづく思い知らされた。地道に生きようと努力しても、それが報われる保証はない。ならば一日一日を思い切り楽しむべきだろう。そんな想いが日ごとに強まり、口癖のように言葉に出すようになっていた。通っていた学校を辞め、適当に職につきながら正人は女遊びにうつつを抜かした。一晩に何人も女を抱いたこともあった。女たちと過ごすには、それなりに金が必要となる。まっとうな稼ぎではとても遊興費をひねりだせない。それ以来、危なげな外国人たちとつるむようになり自然に金になる犯罪を身につけていった。



過去を振り返っているうちに、車は駅の南側に進み国道41号線に差し掛かろうとしていた。いたち川と書かれている橋を渡った。事務所に到着したのは、およそ十五分後だった。車は目立たないように事務所のビルの裏側にある雑居ビルの横に止めた。
「正人、着いたよ。ここに用事がある」
正人が上着の襟を立てて言った。
「すまなかった、さっきは俺も言いすぎたと思う。でも、あのロシア女と切れるワケにはいかないんだ。あっ、誤解しないでほしいが、決して金のことを言ってるんじゃない。あの女と接していれば必ず会えると思ってるからさ」
「意味がよく理解できないが、何のことだ」
日系ブラジル人だ。必ず捕まえてやる」
(まさか強姦グループを探していたとは思いもしなかった)
「正人、おまえそんなことして薫が‥」
「ありふれた言葉なんて聞きたくない。俺はあの件に対して自分なりのケジメをつけたいだけだ。何かしなくては悪夢から目が覚めない。その時は手伝ってくれますよね」
「そうだな、こちらも今から手伝ってもらいたいことがたくさんある。お前も俺を必要だと思ったらいつでも声をかけてくれ。それだけは約束する」
「それじゃ、そろそろ降りましょうか」正人はくわえ煙草で歩き出した。
心なしか男の眼は潤んでいたようにも見えた。

薫が死んで以来、正人が涙を見せたことは一度もない。だが彼のうしろ姿には、はっきりと悲しみが滲みでていた。心の動揺を隠し通せるほどの歳ではない。まだ十代である。愛した女と子供の死。それは十代の正人にとってはあまりにも残酷な現実だったはずだ。あれからいろいろ思うこともたくさんあっただろうが、それに対して、あえて触れることはしなかった。正人自身もめったなことで他人について詮索することもなかった。俺の仕事のことをくわしく聞いたことがない。なぜ、ここにやって来たのかさえたずねない。そもそも正人にとっては、薫のこと以外は関心がなかっただけなのかもしれないが‥。

事務所があるオフィースビルの前に二人は立った。正面入り口の横に自販機が一台置かれている。ズボンのポケットから小銭を取り出し、缶コーヒーのボタンを二回押した。普段はブラックコーヒーしか飲まない。だがこの頃の缶コーヒーは甘ったるいものしかなかった。栓を切り、缶コーヒーに口をつけるとそれをいっきに飲み干した。喉を通りすぎ甘さだけが口に残る。香りなどない。いつも飲むものとはまったくの別ものだ。やはりコーヒーはブラックにかぎるな。そう呟きながら正人に笑いかけた。うつむいていた正人は顔を上げ微笑した。
自販機の明かりによって暗闇に立っていた正人の顔がはっきりと見えた。ほんのりと目を赤くしている。どうやら、本当に涙していたようだ。
「目が腫れてるぜ。少し甘いが冷えたコーヒーでもどうだ。冴えるぞ」そう言うと、正人はそれを隠すようにかるく目がしらを押さえ、おちついた声で返してきた。
「腫れてるのはあんたのほうだよ。ひどい顔だ。いったいどれだけの衝撃をあたえるとそうなるんです?」
自分の顔のことはすっかり忘れていた。今まで正人が傷のことに触れなかったからだ。同時に記憶が呼び起こされた。まだ二十四時間も経っていない。脳裏に内田が口走った言葉だけが走馬灯のように駆け巡る。

“お前、嵌められたんだよ。わかんねえのか、バカめ”

その言葉のあと俺はすこし笑ったように思えた。そう都合よく記憶を刷りかえることで少しでも惨めさから逃れようとしていたのかもしれない。俺は息をついて言った。
「ふっ、これか。大人のルールってもんを教わったらこうなったってわけよ。大人ってのは、ひでえ生きもんだ。しかし、そんなに腫れてっかな?」
「ええ、情けなくなるくらい腫れてますよ。俺の経験上どう見てもそれは勝利の傷跡には見えませんね」
「ああ、敗北だったよ。だが敗北の中から学ぶこともあった。獲物を捕らえるには、どんなエサなら飛びつくのか、それがどんな性質をもったものなのかを最初に考えるべきだってことが、しっかりとこの躰に叩き込まされたからな」
正人が煙草に火を点けた。
「エサね。なんのことなのかよくわからないけどさ、そのままじゃ、笑われるだけですよ。ちゃんとしたお返しは、それなりに考えているんでしょうね?」
「今からすることが、そういうことになるだろうな」
ワイシャツの胸ポケットから煙草を取り出し口に咥えた。最後の一本だった。ほろ苦い味がした。やんわりと吐き出した煙は蒸し暑い夜の空気と混じり合い、灰色の霧となって恥ずべきこの傷を隠くすように曇らせてくれた。
赤いラークの空箱を左手でひねり潰すと正人が微笑んで言った。
「なんか楽しめそうだ。ちょうどこのあたりは俺の縄張りだし人数がいるなら声をかけますけど」
煙草を咥えながら正人が拳をならした。
(正人は勘違いをしているのかもしれない)

午後十時になった。周りを見まわしたが知っているクルマはない。打撲している太ももの裏側(大腿ニ頭筋)が今ごろになって急激に痛みだしてきた。わずかに左足を引きずりオフィースビルの横手に回りこんだ。正面入り口と非常用階段の両方が見える。事務所の窓もすべて確認できた。明かりは点されてない。通りを隔てた向こう側に電話ボックスがあった。そこに正人を張り込ませようと思ったのである。ベルトに装着してあるポケベルをバイブモードに切り替え背後にいる正人に言った。
「なあ、正人。頼みがある。しばらくの間、そこの電話ボックスで見張りをしていてくれないか。もし、誰かがこのビルに入るようだったらすぐに俺のポケベルを鳴らしてほしい」
正人は煙を吐き出だしながらぼやいた。
「おいおい、そりゃあない、ガッカリだぜ。なにを企んでいるのか知らないけど、そんなもん別に俺じゃなくてもいいでしょう?あんたが付き合ってる女のどれかに手伝わせればいいじゃねえの。俺はてっきりすぐにでも乗りこむのかと思っていたぜ」
(やはり正人は勘違いをしていたか)
「おまえの気持ちはうれしいが今日のところは黙って俺の頼みを聞いてくれないか。たとえ今そうしたところで戦車に竹ヤリで突っ込むようなもんだ」
「ふん。臆病風にでも吹かれたようですね。いったい誰が竹ヤリだって?」
「なあ正人。負け惜しみだと思ってもかまわないが、俺は殴り合いで負けたわけじゃない。もっともそうして負けていたほうが、まだ気分は楽だ。情けない話だが‥」
正人の大きな吐息が聞こえた。
「なにを言っても負けは負けだ!不様な話なんて聞きたくなんてない。こそこそ相棒に見張りなんてさせる暇があったら、さっさと報復してくるのが男ってもんだろ」
苛立ちをおぼえた。
「うるせえんだ!俺がこのまま引き下がるなんていつ言った。早とちりしてるのはおまえだ。ここには誰もいやしねえよ。俺はな、ただ下調べがしたいから来てるだけだ」
しばらく沈黙がつづいた。

「まあ、少しだけ黙って俺の頼みを聞いてくれないか。もとはと言えば俺のオツムの悪さが原因なんだ。何の疑いもせず目の前にぶら下がったエサに喰らいついてしまった。罠とも知らずに、うかつだったよ。だがな、おまえの言うとおりこのまま終わらせるつもりなんてさらさらない。これは勝つとかだけの問題でないんだ。どうすれば俺の気がおさまるのかが重要視されている。殺るにあたっては屈辱と恐怖をとことん味あわせて遣るつもりだ。急いてはことを仕損じるって言葉があるだろ。それをじっくりと考えながら、泣き叫ぶやつらの姿を見ていきたい。いくら力があるとほざいてみたところで所詮ガキでしかないんだぜ。まして学歴もない俺たちが大人相手に勝ち続けていくには金が必要だ。おまえが売人まがいなことをして金を稼いでいても、口を挟むことはやめた。俺も今日から少しずつ変わっていくつもりさ。さっき勝ちにいくのが男じゃないか、といったよな。そんな当たり前の言葉など吐いてほしくなかったぜ。とりあえず今日は捜しだしたいものがあるんだ。その捜しものがうまく見つかれば金にできる可能性がある。もちろんタダでおまえを巻き込もうってつもりはない。実行させるには時間と信頼できるおまえがぜったい必要なんだ。報復はそれからたっぷりとやるつもりでいる。話したいことは山ほどあるが今は時間がない。午前一時までには捜しだしたいんだ。ここまで聞いても気に喰わんってんなら仕方がない、遠慮なく消えてくれてもいいさ」
俺は、一気にしゃべりまくっていた。

正人は迷っているようだったが、やがて決心したように口を開いた。
「捜しもの?傷口に塗る薬でも捜そうってえの?」
「ふっ。なんとでも言え。たしかにそれが見つかれば傷の痛みも消えるかもな」
「なるほどね、銭儲けが絡んでるってことだな。なら悪くねえ話さ。まあ売人の俺としてはその薬がいくらに化けるのかが楽しみだ。しばらくあの電話ボックスで金の勘定でもしながら見ていてやるか」
「そう言ってくれるのはおまえだけだ、助かる」
正人が煙草を取り出した。
「煙草、もう持ってねえんだろ?もう一箱あるから、これでよければ吸ってくれ。俺は煙草だけは切らしたことがないからね」
「すまんな、さすが売人だよ。薬(ヤク)は切らしたことがないってか?」
「またバカなことを言う。売人が薬をしてどうすんの。俺はそこまでアホでねえよ」
正人は煙草をくわえると電話ボックスのある方向に歩き出していった。七月の初めだというのに真夏の始まりを予感させる蒸し暑い夜だった。どうやら今年の夏はとてつもなく暑くなりそうだ。


                                 
―つづく―

生まれ変わり 「上」…つづき

グレーのタイルに覆われた七階建てのオフィースビル。その四階に株式会社大国の事務所がある。ネオン街から車で五分そこそこの距離だというのに辺りはひっそりと静まりかえっていた。革靴の足音だけが響く。
ビルの正面入り口をぬけるとすぐ右手に管理人室がある。まだ明かりがついていた。小窓に白いカーテンがひかれているが、中からこちらの様子を覗いているような気配を感じ、とっさに左手に握っていた細い針金をスラックスのポケットの中へ押し込んだ。鍵穴を解除するための針金(ピッキング)だ。
小窓から六十代半ばの男が顔を半分ほど出して軽く頭を下げながら言った。
「なにか御用ですか?」
平日の夜十一時ごろまで勤務している管理人だった。いつもなら愛想笑いでもしながら応じるが、今夜は苦虫を潰したような表情で管理人にいった。
「晩くまでどうもご苦労様。ちょいと忘れ物があって取りに来たんだ」
「おっ、あんただったか。たしか大国さんの方でしたよね」
管理人は軽く咳払いをしたあと、戸惑い気味に話を続けた。
「し、しかしあんた、その顔どうしたんよ。そうとう腫れとりますけど何あったん?」
「いや参ったよ。急いで走ってきたら、すぐそこの電柱に顔面からぶつけちゃってさ。もう痛いのなんのって」とっさに思いついたくだらない嘘だった。
「ありゃりゃぁ、この辺は暗いからね。気いつけなあかんって」
「おっさんの言うとおりだ。目先が見えないってのは危ないもんだわ。気をつけなきゃな。そうそう、事務所に来たついでに、残ってる仕事も片付けていこうと思うんだが、おっさんは何時ごろまでいるんだい?」
「ああ、わしかい?わしは十一時半ごろまでならいるけどね」
「微妙だな。それまでに仕事が終わればいいが‥」
そう言ってエレベータのボタンを押すと背後から呼び止められた。
「ちょ、ちょっとあんた、そのまま事務所にいっても鍵がかかってますよ」
「あ、ああ、そうだった。鍵がかかってることなんてすっかり忘れていたよ。おっさん!申し訳ないがドアを開けてくれないかな」
「じゃあ、あんたにカギ渡しときますわ。仕事が済んだらちゃんと戸締りをして、ここの管理人ポストに入れといてえや。それと火の後始末だけはしっかりしといてくれんと困るよ」
「ええ、なるべくはやく終わらせますから‥」そう言って、管理人から鍵を受け取るとエレベーターに乗りこんだ。
四階に到着しエレベーターから降りると独特の緊張感に襲われた。事務所の前まで来て正人から貰った煙草を取り出し封を切るが、口に咥えただけで火は点さなかった。煙草の匂いを残すことはまずいと思ったからだ。
事務所のドアに鍵を差し込み静かにドアを開け中に入った。十坪ほどの室内に事務用デスクが七台、正面にはひとまわり大きい木製の机が置かれている。社長専用デスクだ。右手には六畳ほどの客室がひとつと、その奥にもうひとつ社長秘書の部屋があった。秘書は社長の実の娘である。ドア際のスイッチを押し明かりをつける。一番手前の事務員用デスクの椅子にゆっくりと座りこむと辺りを見渡した。壁には棒グラフで書かれたクラブ七店舗の各売上が張られている。
(ふん、雇われ店長どもめ、このグラフを見ながら売上を競ってやがる。こんなもんで騒いでるなんて保険屋のババァとなんらかわらねえな)
デスクの上には売上帳簿と出納帳がある。白いユリの花も飾られていた。どこの事務所にでもある平凡な光景だった。
左腕に巻かれているロンジンの文字盤を見た。

十時十五分
(さて、そろそろ始めるか)
机の引き出しは三段ある。鍵はかけられていない。書類を取り出し一つ一つ点検したが目ぼしい書類は何も見当たらなかった。
二十分がたった。他のデスクも調べたが、これといった書類はない。
事務所の窓ガラスを開け外の風景を眺め溜息をついた。電話ボックスの中で見張りをする正人が見える。まるで自分が見張られている気にもなった。奴らはどこで俺を見ていたのだろう。上着を脱ぎ、ワイシャツの袖をめくると小さく肩をまわした。何となく肩の力が抜けた気がした。もうすこし落ち着かなくては‥。気持ちの切り替えはできた。
社長の机の引き出しを開けようと足を踏み出した。‥が、すぐに立ち止まった。
(そういえば、あの戸棚から‥)
以前、事務員があそこの戸棚から借用書類を出していたのを思い出したからだ。急ぎ足で戸棚の前に立ち下段の引き戸に手を掛けた。鍵がかけられている。だがそれも予測の範囲内だ。俺は胸ポケットから針金(ピッキング)を取り出し鍵穴に合わせゆっくりと回した。こんなものは簡単だ。事務製品のロックはすぐに外れた。戸棚の中には、給料明細帳と書かれた台帳が1冊、そして目的にしていた前借(借金用)台帳と厚さにして三センチほどの契約書と、借用書かつづられた束が二冊あった。予想は正しかった。
(人数にして100名分はかるくあるな。真佐子の借用書もきっとこの中に混ざっているはずだ。確認は作業しながらでいいだろう)
俺は書類の束を手に取ると、急いでコピー機の電源を入れ機械が温まるのを待った。その間、床下に腰をおろし評判がいいホステスやこれから伸びそうな女など、目ぼしいホステスの書類を抜き取った。中には典子の借用書もあった。真佐子の契約書と借用書が目にとまったのは、すでに何枚かコピーをはじめてしばらくたってからだった。
(やはり、思ったとおりだ。これなら何とかなる‥)
契約書を眺めながら微笑した。ほかのホステスたちの契約書そのものの内容も、さほど複雑なものでない。名前と住所、契約期間(何年)あとは金額が書き込まれた単純なものだった。
(ふっ。真佐子どころの騒ぎじゃ終われねえな。内田よ、じっくり時間をかけておまえを落ち目にしてやるから待ってろ)
抜き取った書類はすべてコピーし元通り引き出しに仕舞い込むと、鍵穴にピッキングを差し込んでみた。カチリと回ってロックされた。

十一時半
窓際に立ち正人がいる電話ボックスに目をやった。正人と目が合う。両手を伸ばし「後15分だけ待ってくれ」と指で合図をおくると、つまらなそうな表情を浮かべながらも正人は右手の親指と人差し指をつけOKサインを見せた。(本当に感謝するよ。もし、おまえがいなければ俺はこんなに冷静な感覚でいられなかったよ)そう心の中で礼を言った。その時だった。

突然、ドアをノックする音がした。不意を衝かれたように背筋を伸ばして椅子に座り直した。
(誰だ‥)


緊張が走った。自分の顔の表情がこわばっていくのがわかる。とっさに上着をはおり、コピーした書類の束を丸め背後に隠しこむ。デスク上に置いてある電話機を手前に引き寄せ受話器を持ち上げると耳に当てた。どこに電話するわけでもなく、ただあせりを隠すかのように無意識に出た行動だった。身がキュッと引き締まる感覚に襲われていた。息苦しい。窒息しそうな気分だ。
(正人は何をしている。見張っていたはずだ。うっかりよそ見でもしていたというのか?)
ドアはゆっくりと開いた。姿より先にかすれぎみの男の声が聞こえた。
「あ、あの、これで私は帰るけど戸締りのほうしっかりと頼むよ。それとシップ薬があったんで持ってきたんやけど、よかったら使ってくださいな。けっこう腫もひどいようやし早めに冷やしといたほうがええよ」
管理人だった。生唾を呑んだ。俺は受話器をやんわり戻すと両手のひらを頬にこすり合わせながら立ち上がり、ドアのほうに足を向けた。
「なんだ、おっさんか。こんな時間に誰かと思ったぜ。俺もあと二、三十分で終わりそうだ。そのシップ薬は遠慮なく使わせてもらうよ」
こわばった表情を隠すように意識的に笑顔をつくった。だが笑顔とは複雑なものだ。純粋に笑うのとは違い悟られぬために浮かべる笑顔は頬が引きつってしまう。俺は管理人からシップ薬を受け取るとすぐさまデスクへと戻った。
管理人はそのまま帰るかと思ったが言葉を付け加えた。
「なあ、あんた。人間ちゅうもんはなあ、痛みを知って覚えてくもんなんや。あんた人様に対して悪さでもしたんやないやろなあ。自分で気がついとらんでも神様はちゃんと天から見て下さっとるんや。悪さしたり人を傷つけたりしたらそれなりのバチがあたるようになっとんのやよ」
馬鹿らしい。俺は軽い舌打ちをした。
「おっさん、シップ薬はありがたいが、宗教的な勧誘文句には興味がないね。だいたい罪のない人間なんていねぇだろうよ」冗談交じりに釘をさすと、ふうん‥‥、と管理人がつぶやいた。俺は苛立ちをおぼえ、ちいさく咳払いした。
「いやいや、すまんなぁ、なんか仕事の邪魔をしてしまったようや。やはり若者は元気があっていい。年寄りはこれでおいとまするとしようか。それじゃお先に‥」
そう言いのこしドアは静かに閉められた。遠ざかる管理人の足音だけが、かすかに聞こえた。   


筋肉のこわばりがほどけてきたのか、それとも気後れしているのか‥
小刻みに震えている指先を眺めながら、ほんのしばらく自分と会話した。
いったいなんだってんだこれは。何にびくついてるんだ。上司たち大人によって屈辱の味を知らされたせいで弱者にでも成り下がったというのか。そうではない。弱者とは自分が生きていくすべを見失った奴のことだ。俺が弱者になるわけがないだろ。俺にはちゃんとした自己意識と目的がある。では管理人が言ったように人を傷つけようとする悪意があるから後ろめたいというのか。そんな道徳じみた意識なんてのは、つねに個人の考え方でしかない。宗教や思想などをかたくなに信じ信奉することが道徳とも思いたくない。正しいとか正しくないとかなんて結果生じるものだ。戦争も政治も同じことだ。勝てば正しいという事実に変わる。

子供の頃、母に進められ宗教団体の少年部に信仰したことがあった。毎週、土曜日になると自転車に乗り、そのつど決められた会館に足を運んでいた。母から言われたからだけではない。好意を抱くクラスメートの女子が女子部にいたからだ。何か言葉を掛けたりしたわけではない。けっして可愛いと言える顔立ちの少女でもなかった。転校してきたばかりの俺に、一番最初に親切に校内を案内してくれた、それだけの少女であった。いつの間にかあこがれの女子になっていた。
彼女のその親切な行動は、たんに学級副会長という役割を果たしたにすぎないのだろうが、友達も兄弟も居ない少年の俺は、しだいに寂しさから逃れられた気がしていた。
温もりを求めていただけなのかもしれない。いや、初恋だったのだろう。だが、それもすぐに壊れ果てた。勇気を出して書いた一枚のレターが、クラス中に回し読みされていた。

転校を繰り返すたびに思うことがあった。転校生というレッテルは、クラスの中で新しい見世物が現れたように興味をいだかれ人気者になる。その後の行事は決まっていじめという結末が待っていた。何が正しいとか、それが嫌がられることだったとかの話ではない。新しいものに興味を持ち飽きが来ると何らかの刺激を求められ標的にされる。そういう流れになっていくだけだった。意義ができ自覚が生まれる。そのあとに目覚めるのが良心という正義であり、それは本人が決める問題であって、他人が決めることではない。誰かに認められたいなんて思ってもいないさ。そんなことなど、子供の頃からわきまえていたはずだ。こそこそと恐れながら身を隠して生きていると、何ともいえない嫌な味がする。その味こそが悪というものではないか。恐怖は勝ちさえすれば消えうせる。それが正義だと信じ、自分に言い聞かせていた。

ふうっ‥‥と、ちいさく吐息をついた。右側の肋骨あたりに鈍い痛みが走る。上司や黒服たちによる有形無形の圧迫に、我ながらよく耐えたと思う。しかし、時間が経過するにつれ心身の痛みは強まってきたようだ。のんびりしている場合ではない。とりあえず、ほしい代物は手にした。正人も退屈だろうし、そろそろ退散しようか。ディスクの椅子から足をかばうようにゆっくりと立ち上がるとコピー機の電源を落とし事務所をあとにした…。
                 


――雨の降る音が聞こえる。
蒸し暑かった昨日とは打って変わり今朝は少しばかり肌寒い。窓際に置かれた時計の針は午後一時をさしている。昼過ぎか。小さくつぶやいた。
自然に眠りから覚めるのはいつも正午をまわっている。布団をはがし裸のままベッドからやんわりと起き上がると全身を眺めた。すり傷だらけの皮膚と腫れあがった打撲のあとが赤黒く褐色している肉体が視界に入った。現実がぼんやりと戻ってくる。手のひらを前頭部にあて軽く押してみると激痛が走った。頭部の傷口はふさがっているようだが変わりに石ころほどのコブができている。
傷の痛みは何とか耐えられるが躰はひどい疲労感に襲われていた。まるで年老いてしまった男の肉体に成り下がったような気分だった。

雨の降る音は激しさを増した。
外の風景は見ていないが、ボロアパートの階段に張られたトタン屋根がそう知らせてくれる。部屋の窓に掛けられたカーテンに触れることはない。日差しが苦手だった。たとえ天候が悪く太陽が隠れているにしても昼間という感覚の中では同じ意味のことだった。蛍光灯の明かりをつけ椅子に掛けてあったグレーのガウンを羽織る。薄手のシルクものだ。肌触りがいい。
キッチンに向かい冷蔵庫のドアに手を伸ばす。最初の一杯は冷えたブラックコーヒーと決めていた。それからヤカンに水を張り火をかけたまま洗面所で顔を洗う。湯が沸くとインスタントコーヒーをティースプーン二杯半カップに入れ湯を注ぐ。少し濃い目だがその割合の香りが好きだった。気まぐれな男にもいくつかのパターンはあるものだ。どこに泊まってもこの習わしはすませていた。
バスルームでもあれば、かるくシャワーでも浴びたい気分だが、時折帰るこの部屋にそんなものはない。だからと言って、ひとけの多い銭湯に出向き傷だらけの肉体を披露する勇気もない。さらし者になるだけだ。
コーヒーを半分ほどすすると、もう一度ベッドに横たわった。
部屋の隅にオレンジ色の包装紙に包まれた箱がある。早智子が置いていったものだろう。ひとり善がりかもしれないが多分、誕生日のプレゼントだと思った。だがオレが帰宅した時にはすでに彼女の姿はなかった。何も聞いていないものを勝手にあける気にはならない。そう思いながら事務所から勝手に拝借してきた書類を横目に苦笑いしていた。
床に空になったウイスキーの瓶が転がっている。テーブルの上には今ほど飲んでいたコーヒーカップとロックグラス、それと事務所から持ち帰った書類が広げられたままになっている。しばらくその光景を眺めながら昨夜のことを思い出していた。

持ち帰ってきたものといえば、コピーした借用書と契約書、それとホステスたちの給料明細帳だけだ。そんなものに何の興味も示さなかったオレが、価値を見出したということは知恵が付いたということなのだろう。この書類があれば女達がいくらで雇われているのかがよく分かる。メモをする暇などなかった。給料明細など事務員が頻繁に目を通すものでもない。二、三日中に返せばよいと思い借りてきたものだ。欲を言えば社長秘書のデスクの中も拝見したかったのだが時間がなかった。次の機会にしようとあきらめた。
事務所を出たのが午前零時にさしかかるころだった。外に出ると想像していたとおり、正人の不機嫌そうな表情と対面したが表情以外は何もなかった。欲しいものは手に入った。落ちついた場所で旨い酒が飲みたい。そう言い車に乗り込むと正人は駅前とは反対方向の南に車を走らせた。

いたち川沿いに赤ちょうちんがぶら下がっている古めかしい居酒屋の前に正人は車を止めた。にぎやかな通りなら決して目立つこともない。そんなたたずまいの小さな店だ。正人が言った。「オレは黙って二時間も見張りをしたんだ。こんなとこでは気がおさまらないが今日はここで勘弁してやるよ。あらためて後日、おごってもらいますから」オレは、そういうと思っていたよ、と答えた。

店内に入ると不機嫌そうな七十過ぎの老婆が調理していた。調理といっても手持ち網の上で干物を焼いている簡単な作業だった。「いらっしゃい」と声も出さない。目だけで何を飲むのかと訴えているような愛想ないムードだった。
六席ほどのカウンターにねずみ色の作業服を着た客がひとりだけいた。競輪新聞をひろげながらビールを飲んでいる五十代そこそこの男だ。彼もまた愛想のいい表情には見えなかった。
黒いボードには厚揚げと干物、それにお新香だけが書かれている。多少あっけにとられたが、気分的には適していた場所だった。そうでも思わないと飲む気にもになれない雰囲気の店だ。冷や酒とお新香を頼んだ。ほとんど日本酒は呑まない主義だったが横にいる作業着の男と同じものを注文する気分ではなかった。
先にコップ酒がカウンターの上に置かれそれを口にした。硬い表情が和らいだ瞬間だった。次に白菜のお新香が出された。箸をつける前に正人が話を聞かせてくれといった。オレはあらためて正人に礼をいったあと、真佐子との成り行きと契約書のこと、その借金の連帯保証人にさせられてしまうこと、上司たちの罠にハマり暴行されたことをポツリポツリと話した。事務所から持ち出した書類を何に使うのかまでは口には出さなかったが、これからの考えを簡単に説明すると正人はかすかな笑いを浮かべ言った。
「男ってのは女を守るもんだって言うが、その女の影にひざまずかせられてしまうのも、また男なんですかね。オレも悩まされ傷ついているひとりの男ですし何となくだが、今のあんたの気持ちがわかる気がする」
どうやら薫のことを思い出しているようだった。
しばらくすると正人の長い大きな溜息が聞こえた。そのあと、もう一杯どうですか、と言ってきたが、それを断りゆっくりと腰を上げ席を立った。
「まあ、オレとおまえは少しばかり違いがありそうだが、そういうことで今回は金が絡んでるってことだ。今日のところはこれくらいでいいかい?少し疲れた、詳しい話は明日の夕方にでもゆっくり話そう」そう言うと、正人はグラスを軽く持ち上げ黙ってうなずいてくれた。

店を出て正人の車で送ってもらいアパートに帰ってきた。腕時計の針は午前二時を少しまわっていた。
すきっ腹にいれた酒が効いたのか正人は少しばかりろれつが回っていなかった。ちゃんと無事に帰れたのだろうか。
正人に疲れていると言ったのは嘘ではない。だが、部屋に帰ると眠れなかった。
カラーボックスからジム・ビームのボトルを取り出しロックグラスに注いだ。アルコールを流し込みながらキッチンに視線がいった。溜まっていた食器がタオルの上にきちんと並べられていた。早智子が洗っていってくれたのだろう。
冷蔵庫を開けグラスに氷を入れるとウイスキーツーフィンガーほど注いだ。やはり日本酒よりバーボンが好ましいようだ。グラスとボトルを持ちながらキッチンから部屋に移った。床に座るとグラスの中のウイスキーをすすりながら真佐子の借用書と契約書のコピーを眺め考えていた。
うまくことが進めば真佐子の借金からは、逃れることが出来そうだ。真佐子には多少悪い思いもさせることになるだろうが仕方がない。事務所にあった書類すべてを抹消することで法律上、真佐子は借金を支払わなくても済むことになっただろう。だが、大騒ぎになることは目に見えている。それは返ってこちらが面倒だ。そんなことをするつもりなら指紋など残さない。それに管理人に見られた時点で失敗に終わっていた。とりあえず荒っぽい方法は後からでいい。どこまでうまく行くのかは分からないにせよ、当面はあせらず真佐子の契約が切れる二ヶ月間を待つだけだ。
ウイスキーボトルが空になると睡魔が襲ってきた。時間は覚えていない。服を脱ぎ捨てベッドに寝そべったところまでは記憶している。やがて痛みも忘れ眠りの中に引きずり込まれていた。

痛みから逃れられたのはアルコールを流しこみ眠りについた数時間だけのことだった。結局、目が覚めると傷の痛みもまた目覚めてくるのだ。それが生きているという証拠なのかもしれない。オレは昨夜の記憶を頭の中で整理し終えると、ベッドから起き上がり白いワイシャツに手を伸ばした。

ryus2006-09-12

相変わらずであった‥。
「みんな、メシ食えてるの?」「カラダは‥?」
もう六十代になろうとしているにもかかわらず、朝から夜中の二時過ぎまで働いている。純粋に自分のことよりも人のことばかり気にかけ、周りの幸せを心から喜ぶ女性である。二十代の頃、しばらくこの家庭の食卓で育てられたと言っても同然であった。訳があり七年ほど会っていなかった家族だが、昨夜は男女9人で飲み明かしながら昔話に花を咲かせた。
「わたし頑張ってるんよ。誰にも言えないけど‥、少しだけね‥、頭なでてくれるだけでいいのよ。 よしよし、って」

懐かしい食卓の味に思わず涙ぐんでしまった一日である。
しかし、熱狂的な矢沢永吉ファンだとは知らなかった・・・(汗


先日の花火大会は綺麗なものだった。
というか、ベランダからなのだが‥(汗
夏の夜に、夜空に打ち上がる花火を見上げながら賑やかな人の群れに混じって歩く。ひとつ年上の女の子と恋のまね事をしていた僕は、川原へとむかい、僕の背よりも高いススキ野原をあてどもなく歩いた。白いゆかたを着たその子と川原に腰をかけて夜空に打ちあがる花火を見ていた記憶がある。下くちびるの右下に、ポツンと筆で突いたような小さなほくろのある可愛い子だった。遠い遠い昔の記憶だ。

今となれば、年に一度ぐらい見に行きたいと思う花火も、あの人混みを考えると観たいが帰りたいという気持ちに負けてしまう。ドーンという響きとともに、のんびりとビールを飲みながら眺められるところが知りたいものだ。

黄金色に輝く光の中で「明日はマグロのタタキと生タマゴをゴハンにのせてみよう」と考えてしまう独身男であった。しかし安易なメニューだが素直にうまいのである。

ryus2006-07-12

井の頭公園や上野公園内をブラリと歩いていると、ふと自己表現の天才たちと出会うことがある。
自然な空の真下で、『大道芸人』の彼らは自分たちの体を使い自分たちの世界を表現し自由な空間を見出していた。閉塞的な世界の中で束縛された日常を生きるモノたちとは違い、それはとても新鮮な輝きを放っているようにいつも思える。


「もっと高く見たいですよねぇ」と、大きな声を出しながらディアボロ(中国のコマ)を空中高く投げ上げ拍手喝采を浴び、喜びという手ごたえをちゃんと感じとっているヤツらだ。たとえ収入は不安定だとしても、自分が決めた道を着実に歩いている自信が、好きなことを続ける原動力になっているのだろうと教えられた日でもあった。会社の仕事は結果が大きい反面、何をやっているのかが見えなくなる時があるものだが、どうやら彼らの場合はそんな迷いなど無い顔つきである。

大道芸人は、芸を見て喜んだ人の気持ちで生活の糧を得ている。芝居や映画などは決められた金を払って見るものだが、見るつもりのなかった大道芸はそうではない。“定価”が決められてないぶん、いくら払えばいいのかがわからない。大道芸を見る側(自分)が逆に個々の価値観を問われる瞬間でもある。人間とは定価のないものに対する価値には、なかなか判断と決断ができないものだ。

たまたま出会った人たちと笑い合い、人を差別せず、管理せず、だれでも分かち合える原点がそこにあった気がする。「自分は何をしたいのか」「自分は何ができるのか」、自分のやりたいことを自然体で続けながら気持ちのバランスを保っている彼らの姿に定価をつけることを恐れた自分の足は、あとずさりしていたようだ。

構造計算書
6月26日(布基礎)(給排水ガス配管工事)
6月30日(内部土間)(足場)
7月10日(建前)
7月17日(造作工事)
7月21日(水切、見切)
8月10日(内外装)
8月16日(器具取付、照明)
⇒      

映画館で邦画は観ない性質(たち)なのに、今月になってからつづけざまに邦画を観にいっていた。過去の記憶を引きずり生きるものと記憶を忘れてしまうものの対照的な二作品であった。
明日の記憶 嫌われ松子の一生
  

記憶というのは不思議なものだと思っている。つい先ほど会った人の特徴や服の色を聞かれても、まともに答えることができないのに、何十年も前に、すれ違っただけの女がつけていた香水の匂いは、今でもはっきりと憶えていたりする。そうやって削除されずに正確に憶えていたと思えば、幼い僕の眼で見た風景と実際の風景ではまるで違っているということもある。以前、車を運転していて祖父が住んでいた村に、偶然迷いこんだ時もそうだった。幼いころの僕はその風景をまちがいなく見ていた。ここでいとこ達と缶蹴りをして遊んで、すぐ先にある川で水遊びをしたんだよな。あの広い田舎道も、先にあった大きな川も、どこも変わってないのに、僕が今、目にしている風景は、とても狭いあぜ道で小さな小川でしかなかった。記憶ってのはおかしなものだ。