流作場どっと萬代

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万代校ができたころ(流作場のおいたち−14)

このように交通が便利になったり、港がさかんになったり、新潟がはってんするにつれて、流作場もだんだんはってんしてまいりましたが、万代校のできたのも流作場の発展に大いに関係があります。明治6年義務教育のきまりができて、どんな人でも学校にはいらなければ、ならなくなりました。そこで今まで寺子屋で勉強していた人たちも、又、そうでなかった人たちも、みんな学校へ行くことになりました。流作場の人たちは沼垂校へ通っていましたが、沼垂校だけでは生徒が多すぎて勉強がよくできなくなりました。そこで流作場に新しく学校をたてることになり、大正11年池をうめて今のこの地に万代校ができたのです。
すると学校のまわりには次々と家がたちはじめました。ところがその翌年、沼垂に大火事があって、やけだされた人々がどっとばかりにやってきたので、わずか2、3年の中にみちがえるほど家がたちならびました。そのころ今の万代校へは、今の栗の木川から、西の方全体の人たちがかよっていました。その後昭和6年長嶺校ができてから、古信濃川から西の方一つ、つまり今の区域になったのです。