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2006-07-23

母の戦争体験

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皆さんコンニチワ

暑い中、東京品川区大間窪小学校から5年生、先生方、父兄の方ようこそお出かけくださいました。以前にも、わざわざ両校の先生方がお願いに来てくださいました。大間窪小学校の5年生の方たちはこのお寺について、たくさん勉強されていると聞きました。知っていられることもあるかと思いますが、少しお話させていただきます。私はこのお寺に生まれました。戦争当時3歳から4歳だったので、今話すことは大半が私の母から、そして当時疎開児童として来ていらした方から訊いたことです。悲しい思い出が多かったのか、あまり皆さん話されませんがただこのお寺が故郷のように思え懐かしく、感謝の思いで訪ねてくださいます。

このお寺は真宗大谷派、玉永寺といいます。本堂は大正4年、庫裏(生活するところ)は昭和8年に建てられました。ですから、本堂は100年近く、この姿を保っていますので 皆さんのような年齢でこのお寺に戦争の時、疎開児童としてきておられた方々は、先ほども言いましたが故郷に帰った思いが致します、とおっしゃいます。当時6年生だった方も今は73歳です。

 昭和19年8月30日 大間窪国民学校より雷久保 巌先生の引率で3年生から6年生まで51名の方がこられました。このお寺で泊まってこのお寺から学校へ通ったわけです。

 私の母が皆さんのお母さん代わりの寮母という仕事をしていました。まだ他にも作業員の方もいました。

 毎朝、本堂でお参りしたそうです。疎開に来ていた方が宝物を今も大事にしていますと、見せてくださったのは、それは母が作った半紙にガリ版で印刷した小さな教本と子どもが持つおねんじゅでした。今もお経を覚えていられるそうです。

 学校に行くときもっていくお弁当は、アルミの弁当箱でした。ご飯を持っていくのですがお昼に開けると片方にかたむき、農家の子どもたちの真っ白なご飯がいっぱい詰まったお弁当が本当にうらやましかったそうです。ひもじい思いをされたのですね。暑い季節になるとノミ、シラミがいて、みんな外に出て順番にDDTという白い粉をかけられていました。

 庫裏の5つのお部屋に蚊帳をつり寝ておられたのでしょうね。

 また、冬になると雪はとっても多く降り本堂の後ろにお部屋が2つありました、その屋根から田まで雪が一続きになりスキーをしたことが楽しい思い出と話されました。しかしどんな靴を履いていたのか、手足がしもやけ、雪やけになり、富山日赤病院へ入院した方もおられたと聞いています。6年生の男の方は舟橋駅まで一時間も歩いて電車に乗り母と食料を買出しにも行ったそうです。それからこの村が秋は10月と春は3月のお祭り そしてお正月。そのときには、それぞれが近所の家に今で言うホームステイーに呼んいただきお風呂に入れてもらったり、ご馳走をいただいたりしてお世話になったそうです。それらをお世話してくださった方々もだんだん今は亡くなり高齢になられ忘れ去られていきます。

 空腹を和らげる生活を支えたのはご門徒の方々寮母さんや炊事のお世話をなさる作業員の方たちでした。

6年生は20年の2月、中学校に入るので東京に帰られましたが、間もなく空襲にあわれ、お友達それぞれバラバラになり食べ物もなく大変だったそうです。その後1,2年生が伊藤園子先生に付き添われ4月21日、20名ほど来られたのです。小さな子達は時には東京の両親が恋しく泣く子もいたり、そして戦争はだんだん激しくなりました。

 夜になると富山にも飛行機のB29が飛んで来るようになり毎日夜サイレンがなると裸電球に黒い切れを巻いて灯火管制、防空ズキンで頭を覆いあごのところでひもを結んで前の道に一列に並び、先生の号令で地面に伏せるんです。ついに8月1日、富山の町を爆撃。すごい音をたて飛行機が飛んできた、ヒユルルー高い音がして、ピカピカの銀色や緑色そして赤いテープのようなものがヒラヒラと落ちた瞬間ドカーン。

すごい音がして、見る見るうちに富山の町の方が真っ赤に燃え上がっていました。とても近くに町が見えました。

 一瞬のうちに富山の町が焼け野原になってしまい、沢山の人が亡くなり尊い命が失われてしまいました。それからというもの、お寺に焼け出された門徒の方たち、親類の方たち、どのお部屋もいっぱいになりました。寮母だった母も病気になり、私の父はパラオ島で戦死、その後の私の記憶はまったくありません。

 全ての世の中の人を悲しみのどん底に突き落とす戦争、不幸に落とし入れる戦争、絶対、2度と繰り返してはいけないと、強く皆さんに言いたいそんな思いでお話いたしました。

 何の大義名分もない、おろかな戦争で日本人が300万人以上超す犠牲となりました。

 また、中国インドネシアベトナム、フイリッピン、韓国北朝鮮で1700万人の方が亡くなっています。

 私は今もこの寺を故郷と言ってくださる当時の疎開児童であった方々、母を慕ってくださる方々と交流しています。

 皆さんも大きくなったらこの地域に、このお寺に来てください。お待ちいたします。お話を聞いてくださった皆さん、有難うございました。

     2006年7月22日  玉永寺坊守 石川千穂子

村上絢子村上絢子 2006/07/24 22:49 「母の戦争体験」を読ませていただきました。私には戦争の記憶がないのですが、二番目の姉が学童疎開していまして、同じような体験談を話してくれたことがありました。中年になってから、同級生と疎開先に年に1回、修学旅行に行くのを楽しみにしていました。
 やはり姉も疎開先で空腹を我慢しなければならなかったので、母に手紙を書いて「お手玉の中に大豆を炒って入れて欲しい」と頼んだそうです。お手玉で遊ぶというより、お手玉をほどいて、中のお豆を食べたかったからです。
 またお友だちのお父さんが疎開先に来てくれたのがうらやましくてたまらなかったら、その帰り道でそのお父さんは機銃掃射で死んでしまったと聞いて、声も出なかったとか。
 従兄弟も、中学受験のために疎開先から帰った翌日、東京大空襲で隅田川で亡くなりました。
 ほんとうに同じような体験を日本中の人がしていたのですね。「母の戦争体験」をたくさんの人たちに読んでほしいと思います。ありがとうございました。

ryuuusei1ryuuusei1 2006/07/25 07:17 村上さん、コメントありがとうございます。
母の話を引き継いでいければと思いました。

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