敗北を抱きしめて〈下〉― 第二次大戦後の日本人

敗北を抱きしめて〈下〉― 第二次大戦後の日本人

敗北を抱きしめて〈下〉― 第二次大戦後の日本人

 かなり前に上巻は読み終えたのだが、下巻の方は長いこと「つんどく」していた。何とか、がんばって読み終えた。
 上巻はどこに仕舞ったのやら、見つからない。敗戦直後の日本は飢餓と無政府状態で危機的な状況になっており、無気力が蔓延しどうしようもないことになっていた。そこにやってきた占領軍を、複雑な思いを抱きつつも日本人は歓迎した、というようなことが書かれていたように記憶している。
 この本の題名は占領軍を相手にした「パンパン」をモチーフにしている。敵を愛するという屈辱をかみ締めつつも、解放された新しい世界に踏み入ろうとする。それを筆者は、日本が民主主義を受け入れていく様に例えて、「敗北を抱きしめて」と、上巻で形容していたはずだた。
 下巻はダグラス・マッカーサーに視点が当てられる。戦前の早い段階からアメリカは、戦後も天皇制を残して日本を統治していく計画を立てていたことはよく知られている。マッカーサーはその方針を押し進め、天皇の戦争責任をとにかく回避するために気を配っていたことが、この本で明らかにされている。たとえば、GHQが憲法草案をかなり早急に起草したのも、極東委員会や日本国民からの天皇への批判をかわすため、「象徴」という地位を確立させるためであった。東京裁判においても、天皇の戦争責任に対する言及を極力、排除した。(先日のNHKスペシャルでも、統帥権のために軍事に関与できるはずがなかった文官、広田弘毅が極刑に処されたのは、天皇の責任を回避させるため、詰め腹を切らされた、というような解釈が見て取れた)

 それにしても、この本を読むとマッカーサー天皇に対して愛着とまで言えるような感情をもっていたような気がしてくる。
 多くの日本人からの感謝されて母国に帰った後、マッカーサーは以下のような発言をする。

 近代文明の尺度で測れば、われわれが四十五歳で、成熟した年齢であるのに比べると(日本人は)十二歳の少年といったところlike a boy of twelveでしょう。

 これが日本に伝わって、それまでの人気が落ちてしまったということだ。でも、案外、マッカーサーの日本人、そして昭和天皇に対する、正直な気持ちだったのではないか。封建的な(?)父親のような感覚をもっていたんだろう。

 冷戦がはじまり、GHQが植えつけた平和主義、民主主義はすぐさま、逆コースをたどりはじまる。ここで取り上げた「あたらしい憲法のはなし」、「戦争放棄とは日本が今後決して陸軍も海軍も空軍ももたないという意味だ」と書かれた本は、1951年には使われなくなる。

 下巻のトビラに以下のような文章が書いてある。本文にはなかったと思う。訳者か誰かが書いたんだろう。

敗北を抱きしめながら、日本の民衆が「上からの革命」に力強く呼応したとき、改革はすでに腐食しはじめていた。身を寄せる天皇を固く抱擁し、憲法を骨抜きにし、戦後民主改革の巻き戻しに道をつけて、占領軍は去った。日米合作の「戦後」がここに始まる。

 現在の我々の親のどちらかは、まぎれもなくアメリカであるということが、よく分かった本だった。
 あと、「言論の自由」を掲げつつ占領時にGHQの行った検閲の厳しさ、そして敗れて日本人は戦死者をどのように捉えようとしてきたのかという重大な問題が取り上げられている。