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流山子雑録    『酔睡胡乱』

2017-08-16

どこまで殺せば。

3日前、13日のNHK、「731部隊の真実」なるドキュメンタリーを流した。

人体実験、細菌兵器、あの悪名高い731部隊である。生きた人間に病原菌感染させる。生きた人間を解剖する。おぞましい研究を行っていた。

日本敗戦後、幹部の多くは日本へ帰っていた。下っ端が後処理、証拠隠滅作業を命じられシベリアへ引っ張られた。ところが、いち早く日本へ逃げ帰った731部隊の幹部や研究者は、戦犯に問われることはなかった。研究情報と引き換えにアメリカから戦犯免責を受けたからである。戦争とはそういうものということのひとつの形であろう。

それにもまして許せないことがある。731部隊の幹部や研究者、多くの人が、京大をはじめとするあちこちの大学の教授や国の専門機関の幹部となっている。研究の名の許に多くの人間を殺した者がである。

戦争は、人の神経を麻痺させる。

昨日のNHKスペシャルは、「戦慄の記録 インパール」の再放送であった。

帝国陸軍史上最悪と言われるインパール作戦、なぜ無謀な作戦が実行され3万を超える死者を出したのか。インパール作戦、補給なき作戦である。補給は不可能と進言する参謀は更迭された。

大本営、南方軍、ビルマ方面軍、そして第15軍。指揮命令系統はこのようになる。

第15軍司令官が牟田口廉也中将である。日中戦争の発端となった昭和12年7月の盧溝橋事件にも関わっている男である。インパールの英軍を攻略するのに、無茶な作戦を立てた。しかし、上部組織であるビルマ方面軍、南方軍、さらに大本営まで、いわば黙認という形をとった。責任回避である。

で、この無謀な作戦で日本軍の兵士3万余の命が失われた。その多くが病死と餓死である。

いわば日本人兵士3万余を殺した第15軍司令官・牟田口廉也中将、日本敗戦後20年以上経った昭和41年まで生きている。晩年、「私の作戦は間違ってなかった」、と言っていたそうである。

戦争は、人の神経を麻痺させる。

3日前、13日のNHK、「731部隊の真実」の後BSで、「なぜ日本は焼き尽くされたのか」というドキュメンタリーが流された。

太平洋戦争末期、日本はアメリカにより徹底的に焼き尽くされた。B29による空爆で。

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昭和19年(1944)末からアメリカによる日本本土爆撃が本格化した。

初めのうちは精密爆撃が取られた。主に軍事施設に対する爆撃である。しかし、次第に都市爆撃、無差別爆撃となっていく。大都市ばかりじゃなく地方都市までが焼き尽くされた。

アメリカは、木と紙でできた日本家屋の模型を作り、それを焼き尽くす焼夷弾爆撃のシミュレーションをしていたそうだ。

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東京は100回を超える爆撃を受けた。

手前は東京湾。その向こう赤い濃淡の個所が攻撃目標である。東京下町の方が赤い色が濃い。

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東京への最大の空襲は、昭和20年3月10日のB29による焼夷弾爆撃。

<ルメイ自伝>とある。

カーチス・ルメイこそ東京大空襲ばかりか、日本全土を焦土と化した男である。

カーチス・ルメイ、その精神構造は、言ってみれば日本帝国陸軍の牟田口廉也と似ている。精神力で無理を通す。ルメイ、B29を駆使、日本中を火の海とした。

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昭和20年3月10日の東京大空襲、10万人以上の人が死に、100万人が被災した。

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<B29、日本の首都へ1000トンを超える焼夷弾を浴びせる>、とある。

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東京は消えた、とルメイが語る>。

<51平方マイルが燃えた>、と。51平方マイルとは、132平方キロである。この夜、10万人の東京都民、一般市民が焼き殺された。

どこまで殺せば、と思う。

が、それが戦争なんだ。

日本を焼き尽くしたカーチス・ルメイ、1964年に勲一等旭日大綬章を受けている。佐藤栄作内閣の時である。自衛隊への貢献、というのがその理由。これも現実。

彼も吾も、「どこまで殺せば」、というのが戦争である。

昨日今日、ややトーンダウンしているが、アメリカ北朝鮮のチキンゲーム、一歩間違えれば「どこまで殺せば」となる。ドナルド・トランプと金正恩というめっぽう危なっかしい二人であるからに、なおのこと。



口直しに、下重暁子著『この句 108人の俳人たち』(大和書房 2013年刊)から、8月15日前後の句をいくつか。

     戦争が廊下の奥に立ってゐた     渡邊白泉

     死にて生きてかなぶんぶんが高く去る     平畑静塔

     てんと虫一兵われの死なざりし     安住敦

     人の肩に爪立てて死す夏の月     原民喜

     夢の世に葱を作りて寂しさよ     永田耕衣

     戦争にたかる無数の蠅しづか     三橋敏雄

     死なうかと囁かれしは螢の夜     鈴木真砂女

     死ぬに似る朝顔とめどなく咲くは     中村苑子

あと一句・・・

     すこしづつ死す大脳のおぼろかな     能村登四郎

2017-08-15

8月15日。

また、8月15日がきた。

第二次世界大戦が日本の降伏により終わってから72年。

12時前、テレビの前へ。武道館での全国戦没者追悼式を見る。常の年と同じ。

今上天皇、退位の意向を表明されてから1年余。この式典へ両陛下が列席されるのも、今年と来年のみではなかろうか。畏れ多くも感慨深い。

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12時、黙禱。

私も暫し目を瞑り手を合わす。

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今上天皇は、ご父君・昭和天皇がやり残されたことのすべてを一身に引き受けられておられる。法の定めギリギリのところで平和を志向されている。私たち平成の国民は、凄い天皇を持ったと言えるであろう。

今上天皇、「おことば」を述べられる。

内閣総理大臣安倍晋三が決して口にしない「ここに過去を顧み、深い反省とともに、・・・・・」、とのお言葉を今年も述べられる。

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お言葉を述べられた後の両陛下、首を垂れられている時間が例年になく長かった、と感じたのは私だけであったろうか。

今上天皇、皇后、両陛下のお心を感じた。


1週間ほど前、8月8日の夜中、NHKBS1で流された「BS世界ドキュ選」の映像から・・・。

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<昭和20年(1945)8月15日を、皇太子明仁親王殿下(のちの平成の天皇。以下皇太子と記述)は奥日光の南間ホテルで級友66人とともに迎えた。・・・・・。このとき皇太子は11歳(満年齢)で、学習院初等科の6年生であった>。(保坂正康著『明仁天皇と裕仁天皇』 2009年 講談社刊)

その後、保坂正康はこうも記している。

<ただし、皇太子はこの放送を他の学生たちとともに聞いたのではないとの証言もある。このホテルの二階には和室の御座所があり、そこで東宮大夫や6人の侍従、それに傳育官などとともに玉音放送を聞いたというのだ。・・・・・。このときのようすについては、・・・・・ラジオの前にきちんと正座して聞いておられた殿下は、急に目を閉じ、頭を深く垂れ身動きもせず・・・・・、しっかり握りしめられた両手はかすかにふるえ、目がしらには涙があふれ・・・・・>、と。

そしてこの日、皇太子は、「8月15日 新日本の建設」というタイトルの作文を書いている。

<ここには、皇太子としてのこれからの時代への心構えが切々と綴られている>、と保坂正康は記しているが、私から見れば、とても11歳の少年が書いたものとは思えぬような心の覚悟を感じる一文である。

言葉を変えれば、ある高みにある立場にあればこそ紡ぎだせる言葉であるとも言える。しかし、時を経た現在の今上天皇のお言葉とは異なる色合いを感じる。

その時から72年が経っている。当然である。

保坂正康は同書の中で、<私は、現在の日本にあってもっとも純粋で、そして崇高さを兼ねた平和勢力は明仁天皇である、との理解をもっている>、と記している。

保坂のいう通り、まったくその通りである。

私は、ずっとそう思っている。

2017-08-13

遠州三山巡礼(1) 法多山・河瀬和世「いのり」展。

ふた月ほど前であろうか、河瀬和世さんから手紙をもらった。7月1日から8月末日まで、静岡県法多山尊永寺で和紙のインスタレーションを催すとの由。

法多山尊永寺なんて寺は、初めて聞く名である。調べてみたら袋井にある。古いお寺である模様。前夜ホテル観世に泊まり、7月5日、行った。

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法多山へ行くバスは、袋井駅前から1時間に1本出ている。10時すぎに乗った。法多山まで15分ばかり。しかし、よくぞ1時間に1本走らせているな、と思う。

何しろ客は私ひとり。途中で若い男がひとり乗ってきただけ。その若い男は、静岡理工科大学前という所で降りた。静岡理工科大学、茶畑が広がる中にあった。驚いたことに、大学の周りに喫茶店もなければ食堂もない。コンビニさえ見当たらない。それらのものは学内にあるのであろうが、大学たるもの、単に学問をすればいいという所ではないだろうに、と余計なことを考えてしまった。袋井だ。

静岡理工科大学前を除き、すべてノンストップで走るバス、15分ほどで終点の法多山に着いた。

法多山へはこっちの方へ歩くようだ。

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暫らく歩くと、立派な楼門が見えてくる。

入母屋造り、杮葺きの仁王門、室町時代のもの。重文である。

そもそも法多山尊永寺、神亀2年(725年)聖武天皇の命により行基によって建立された、と寺の略伝にある。現在は、厄除観音として知られるそうであるが、地元では名刹なんだ。

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法多山」の山号。

存在感がある。

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法多山の案内図。

ウヘー、本堂まで上り15分となっている。

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参道には誰もいない。

赤い幟には、万灯祭のほおずき市、7月9日、10日の四万六千日の文字が染め抜かれている。

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本堂の下の石段に辿りついた。

あとひと息。

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本堂。

右側に少し見えているお堂で、河瀬和世のインスタレーションが催されている。

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現在の本堂は、近年再建されたもの。

「尊永寺」の寺号。

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河瀬和世のインスタレーション「いのり」は、ここで。

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本堂と河瀬和世のインスタレーションのお堂の間の廊下には、数多くの風鈴が吊り下げられている。

そこにふたりの女性がいた。お寺の人以外にこの日法多山で見かけた人は、この人たちだけ。

四万六千日の前の法多山

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河瀬和世のインスタレーション「いのり」と向きあう。

青い竹は、結界を示しているか。

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「いのり」なんだな。

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河瀬和世、白い和紙を変幻に使う。

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灯りとのコラボ。

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作家・河瀬和世のこういう言葉が貼られていた。

和紙に関し、「いのり」に関し。

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河瀬和世のプロファイルも。

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以下、いかようにも。

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灯り、白い紙。

現実世界を離れた何処かの世界。

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河瀬和世の「いのり」、鎮魂・たましずめでもあるような。

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帰りは別な道。

このような道を下る。

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バス停へ向かう。

風鈴の廊下のお二人さん以外、法多山中では誰にも会わなかった。

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存在感のある楼門に別れ、バス停へ。

2017-08-12

時間そして命。

先ほどお通夜から戻ってきた。

仕事の先輩、歳は10歳上、45年のつき合いである。何度か共に裁判沙汰にも関わった。厳しい状況の時でも、一日が終われば酒を飲み、「あーよいよい」とか「キタカサッサー、アーソレソレ」の秋田音頭を歌っていた。

その人が死んだ。

で、今日、お通夜。

享年86である。十分に生きたであろう。

喪主の息子さんも親父さんのことを誇りにしている、という旨をご会葬礼状に記している。

十分な生、十分な命である。

ところで、実は、以前から決まっていたことであるが、今日は孫坊主のお食い初めを行う日であった。

孫坊主生まれてから3か月半となる。簡便なお食い初めを行う。

ともかくカミさん、孫坊主のバーバが張り切っている。

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おねーちゃんである孫娘、孫息子の写真を撮っている。

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おねーちゃんとママはカメラ目線。主人公のボクはそんなことには関わらず・・・

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ただ眠っている。

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スイカを食べた。

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孫坊主と・・・

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私も孫坊主とのツーショットを。

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ほっぺたをつつく。

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孫娘も呼んで3人で。

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孫坊主、私同様醜男であろう。

しかし、その顔貌、存在感がある。数多の女の子にモテるであろう。

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時間は刻々と経つ。

命が次々に生まれかわる。

2017-08-11

ふたたびのホテル観世。

3時すぎ桂春院を出た。雨脚は強くなった。

折りたたみ傘をさしているものの、それでは到底防ぎきれない。広い妙心寺の境内を抜けるころには、ずぶ濡れになってしまった。

五條烏丸のホテルへ戻り、預けていたリュックを受けとり着替えをした後京都駅へ。駅で少し休み、駅弁ビールそれに京都新聞を求め新幹線のホームへ。この日は袋井へ行く。

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6時前のひかりで浜松まで。

どのあたりであったろうか、窓の外、霞か靄がかかっていた。

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7月4日付け京都新聞朝刊に、このような記事がある。

西本願寺の唐門に関し皇室との・・・、との話。京都新聞である。

その横の記事を取りだすと・・・

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これである。若い尼さんのお話。

ライブで歌う尼さんは結構だが、「愛$菩薩」の芸名はやはり問題ありだな。ドルを愛すなんて。アイドル尼さん、「愛取菩薩」、愛をゲットする菩薩じゃまずかったのか。

いずれにしろ、京都新聞だ。

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タカタに関する記事がある。

何でタカタが、と思った。

タカタ、滋賀県が創業の地であるそうだ。

京都新聞ブロック紙ではない。しかし、準ブロック、滋賀県京都新聞のテリトリーなんだ。

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浜松でひかりを降り、在来線に乗り換え袋井へ。

駅から近いホテル観世へ入ったのは、7時半すぎ8時前。

暗闇に浮かぶHOTEL KANZE、この雰囲気、何とも言えず。まさか袋井なんて小さな地方都市のホテルに1年も経たずに再び訪れるなんて、思ってもいなかった。

昨年秋、樂土の森芸術祭へ行った折り、袋井のこのホテルに泊まった。

ホテル観世、暫らく行っていないが以前はずいぶん行ったインドのホテルを想起した。で、その模様を「袋井インド宿」というタイトルでこのブログに記した。オーナーであろうと睨んだ、私によく似た不思議な衣装の男のことも。そのことをホテル観世へメールで知らせた。暫らくした後、封書が届いた。

雄渾な筆致の3枚に亘る書簡。オーナーであろう、と私が睨んだその男からのものであった。

若い頃アルゼンチンにいて、24歳から27歳にかけて南米を皮切りに北米ヨーロッパアジアと3年余、一人旅をしていた、という。インドには行っていないが、私が「インドを感じる」とおっしゃったことにも喜びを覚える、と記されている。

だから、また行きたいな「袋井インド宿」と思いながら、そんな時がくるのかな、と思っていたのが正直なところ。それが1年も経たずに来た。

和紙の作家・河瀬和世のインスタレーションが、袋井の寺で催される。で、袋井へ、ホテル観世へとなった。

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翌朝、食堂へ降りていった。

遅い時間だったので、お客は誰もいない。食堂は昨年秋と同じよう。

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外のパティオも同じ佇まい。

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このバラの花は、まだドライにはなっていない。

昨年秋にはなかった。新しいもの。

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これはどうか。

昨年秋にもあったような気もするが。

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この落書きは昨年秋の記憶にない。あったのかなかったのか。

いずれにしろ、ホテル観世のオーナー、その手紙の中でこう言っている。

<西洋人にはオリエントを、東洋人には異国を感じて戴ける雰囲気を・・・>、と。

それがどうあれ、私にとっては「ふたたびのホテル観世」である。