主従二人(旅立ち 深川〜千住)。

<弥生も末の七日、明ぼのヽ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし・・・・・>、と書きだされる旅立ちの場面も心地よい。
<・・・・・前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそヽぐ>、と続く。
上野や谷中の桜花は、いつまた見ることができるのだろうか、とか、これからの3000里に及ぶ旅の思いに、胸がいっぱいになり、この儚い世の別れに、涙を流した、と書いている。
大旅行だったんだ。わずか320年前のことじゃないか、と思うことがあるが、奥への旅、やはり、大旅行だ。
また、これでもか、というくらいに文章を創る。作為は、大あり、虚構もある。「奥の細道」には。ともかく芭蕉、練りに練る。和漢の古典籍と仏典からの引用をも駆使して。
しかし、読むに心地よい。芭蕉独自の、かろみがあるからであろう。おそらく、歌仙などの約束事と関係があるのでは、と思うが、省略の上手さでもあろう。読む人に、省いた言葉を思わせる、という技であろう。誰にも、真似はできない。
なお、1週間前の9日(旧暦3月20日)、曽良の『旅日記』にある<巳三月廿日、同出、・・・・・>、について触れたが、『おくのほそ道』の校注者・萩原恭男はその補注で、杉風の詠草からみて、出発が予定より遅れた事情が判明する、と記している。なんでもこの年、元禄2年は天候が悪く、寒かったので、3月末まで、杉風が芭蕉を引きとどめていたそうだ。
やはり、実際の旅立ちは、今日、旧暦の3月27日が、定説だということが解かる。
深川から千住まで、舟で見送りについてきた弟子たちと、”この儚い世の別れに、涙を流し”、別れた芭蕉は、この句を詠む。
     行春や鳥啼魚の目は泪
弥生末、春を惜しむ心と、弟子たちとの別れを惜しむ気持が表われた句である。
山本健吉は、<「鳥啼き魚の目は泪」というのは、激しい表現である>、と書き、さらに、<だが、とにかく、この句のリズムの波の起伏はすばらしい。一句の地色も、またすこぶる濃淡の変化に富んでいる>、と評する。
激しい表現、というのは、解かるな。だが、リズムの波の起伏だとか、濃淡の変化に富んだ地色だとかといったことまでは、山本に言われるまでは、気がつかないな、私などには。漢字が多いな、この句には。それも角のある漢字がとか、かなは、や、の、は、の3つしかないな、なんて、句の本質とは関係のない、くだらないことしか気がつかないな。
曽良の『旅日記』にある通り、主従二人の深川出立は3月20日であり、千住に1週間留まっていたんだ、という説を曲げない嵐山光三郎は、面白いことを書いている。
千住の町中をあちこち歩き回った嵐山、町中に魚屋が多いことを発見する。
<「魚の目は泪」は、魚屋に並べられている魚の目が泪を流したように濡れている、という写生句ではないか、と私は考えた。・・・・・と、突然、「魚とは杉風のことではないか」と気が付いた。杉風は幕府御用達の魚問屋である>、と書き、<「行春や・・・・・」の句は、杉風と別れるにあたっての餞別句でもあるのだ>、と記している。
”でも”、という助詞を使っているように、魚屋のこと、杉風のことばかりでなく、<過ぎゆく春と親しい友人との別れを鳥と魚に託している>、とも書いているが、もちろん。
なお、俵万智は、先般亡くなった立松和平との共著『新・おくのほそ道』(河出書房新社刊)で、『おくのほそ道』の序章と出立の二つの句、「草の戸も・・・・・」と「行春や・・・・・」に対するお返しの歌として、このような一首を詠んでいる。
     見慣れたる部屋の景色とゆく春に別れを告げて、旅がはじまる     万智