写楽(続きの続き)。


写楽に戻る。
松本清張短編全集の第8巻『遠くからの声』(2009年、光文社刊)の中に、ズバリ『写楽』と題する短編小説がある。初出は、昭和32年の『芸術新潮』。清張が、大人気作家としてブレイクする直前ぐらいの時期にあたる。
<寛政七年正月の半ば、午下りであった>、と書き出される。寛政7年正月半ば、といえば、写楽の姿が消える直前だ。
八丁堀の自宅を出た写楽は、絵草子屋の前を、足駄の音を忍ばせるようにして通る。しかし、その眼は敏く、店先にならぶ大錦絵や間判に走らせているんだ。
春章、春英、豊春、重政、清長がある。流行っ子の歌麿がある。北斎、豊広、豊国という写楽より若い絵師のものもある。あんなものが迎えられるのか、と思うが、それが現実。写楽自身の作品は、だんだん隅へ押しのけられている。写楽、寂しい。
碁会所で好きな碁を打っていても、芝居の噂から芝居絵の話に移った、周りの声が気になる。「わざわざ醜悪に似せることはありませんよ」、とか、「なんですか、役者衆のほうから、板元のほうへ捻じこみがあるそうじゃありませんか」、というような。
家に戻れば、二流の板元・相模屋が、鳥羽絵のようなものを描かないか、と言ってくる。鳥羽絵、写楽の嫌いな滑稽絵だ。追っ返えす。
写楽、蔦重のいうことを聞いてきた。心ならずも、受け入れてきた。雲母摺りをやめ、背色を黄土にすると言われれば、しかたないな、と思い、細絵に役者の名を入れろ、と言われれば、それにも従った。背景に舞台や小道具を入れろ、と言われれば、それにも。蔦重が言ってきた相撲絵も、結局は引き受けた。
<制作上の意欲も感興も何もない。あるのは生活のためという鉛をつめたような絶望した心であった>、と清張は書く。
<「また、能役者にかえるか。」 写楽はこれからの生活を遠く虚ろに考えて、ぼんやりと歩いていた>、で終わる。
哀しく、また、寂しい写楽の物語だ。

しかし、この中に、写楽という絵師の独自な美意識、そして、写楽が何故、忽然と姿を消したのか、という理由が詰まっている。わずか10か月で、というナゾも。
松本清張、齋藤月岑(げっしん)の『増補・浮世絵類考』で明らかにされた史実を、忠実に取り入れ、小説化している。東洲斎写楽、江戸八丁堀に住む、阿波藩能役者、齋藤十郎兵衛という、『増補・浮世絵類考』の情報を。
松本清張には、『写楽の謎の「一解決」』(講談社文庫、昭和52年刊)というヘンな本がある。文庫本で100ページに満たない薄いもの。前のほうに28ページにわたり、写楽の錦絵のカラーページがあり、後ろには、簡単な用語解説が付いている。どうも、清張の講演をまとめたもののようだが、そういう記載はどこにもない。小説『写楽』から、丁度20年後のものだ。
<わたくしは浮世絵のことはまるきり素人です>、なんてことを言いながら、江戸期の浮世絵のことに詳しい。20年前の小説では、写楽は、齋藤十郎兵衛説をとっていたが、この書では、齋藤十郎兵衛を頭に置きながらも、写楽は、写楽と言っている。
それはそれとして、講演のようなので、多くの写楽シャカリキ本と異なった事柄が出てくる。これが面白い。

「芸術家」と「職人」の問題、つまり、アーティストとアルチザンの問題も出てくる。今、芸術家と言われている浮世絵師も、大衆画家だった、つまり、職人なんだ、と。しかし、返す刀で、<おれは芸術作品をつくるんだとか、「純文学」を書くんだとか、というような・・・・・。そういう気張った人たちは、こういった職人の技術が・・・・・>、とも述べている。
国民的大作家となった後も、清張の作品は・・・・・、と陰で、純文学系の連中に言われていたであろう清張らしい言葉である。
美術評論家の展覧会評について、<抽象的言辞がならんでいるだけで、何を言っているのかよく分からない。・・・・・難解な文章になって、読者を煙に巻いているのです>、なんてことも。ウン、当てはまるな。
蔦重は、稀代のプロデューサーであったが、ディレッタントであった。それが故に、結局は商売に失敗した、とも。オーナー企業の社長には、痛いところを突かれる人も多かろう。
アナグラムをはじめ、さまざまな人が挑んでいる「東洲斎写楽」という名前に関しては、松本清張、こう言っている。
<わたくしは、「東洲」がアヅマであり、アヅマは「東」ですから、この二字で「東(とう)」と読みたい。「斎」はサイで「西(さい)」に通音します。すなわち「東洲斎」とは「東西(とうざい)」です。東西々々、・・・・・劇場での「口上」用語。すなわち、芝居のことを意味する>。続けて、
<「写楽」とは、「洒落(しゃらく)」、つまりシャレです。これで「東洲斎写楽」を一行で読むと「東西(とうざい)の洒落(しゃれ)」でげす、てなことになりそうです>、としている。
そう言えば、清張、写楽の描く役者が演じているのは、上方芝居、とも言っている。たしかに、寛政期、江戸と上方、役者にしろ狂言作者にしろ行き来している。「東西の洒落」、なるほどな。