岩手あちこち(6) 遠野(『遠野物語』続き)。


『遠野物語』は、”日本民俗学の誕生を告げる記念碑的な書”と言われている。
そうではあるのだろうが、単に面白い書物であることも事実。だから、100年もの間、多くの人にこの書は読まれてきた。また、それ故に、この書に関し、研究者ばかりじゃなく多くの人が、さまざまな視点からの書を著わしている。
神話、伝説、世間話といった捉え方に釈然としない思いを抱いている、という人もいる。東雅夫は、その著『遠野物語と怪談の時代』(平成22年、角川学芸出版刊)にこう書いている。<遠野物語は、民話集でも、伝説集でも、世間話の本でもなく、より直截に怪談集である>、と。
妖怪愛好家にとってはそうであろうが、その捉え方はあまりに狭い。里の神、家の神、山の神、天狗、山男、山女、また、河童、猿、狼、狐、その他妖しげなモノたちが出てくるが、それを単に怪談と捉えることはできない。
『遠野物語』を書く前の柳田國男を追っている人もいる。井出孫六の著『柳田國男を歩く 遠野物語にいたる道』(2002年、岩波書店刊)には、主に柳田國男の青年時代のことごとが記されている。
田山花袋や島崎藤村などと交流する文学青年・柳田國男。柳田の詩も多く載せられている。ひとつだけ引いておこうか。「野の家」という題の初めのところのみを。
     足引のやまのあらヽぎ、
     たヽ一もと摘みてもて来て
     我妹子がたもとに入れし
     あし引きのやまの蘭(あららぎ)
     いまもなほさやかに匂ふ、
     あなうれし我をばいまだ
          忘れたまはじ、
この後、まだ長々と続くが、要するに悲恋の終わりが告げられる詩、つまり、失恋を詠ったもの。『遠野物語』については、終わりの方になって、ページも残り少なくなってからやっと出てくる。まあ、”柳田國男を歩く 遠野物語にいたる道”というタイトルに嘘偽りはないが。
『遠野物語』にインスパイアされた書も多い。皆さま、それぞれの”遠野物語”を書いている。中で頭抜けているのは、やはり手練の書き手・井上ひさし。9話から成る『新釈 遠野物語』(1976年、筑摩書房刊)、面白い。
第1話は、「鍋の中」というお話。冒頭から柳田國男の『遠野物語』の「序文」をパロってるんだ。少し長くなるが、そこを引くと、
<これから何回かにわたって語られるおはなしはすべて、遠野近くの人、犬伏太吉老人から聞いたものである。昭和二十年十月頃から、折々、犬伏老人の岩屋を訪ねて筆記したものである。犬伏老人は話し上手だが、すいぶんいんちき臭いところがあり、ぼくもまた多少の誇大癖があるので、一字一句あてにならぬことばかりあると思われる。・・・・・>と書き出される。
聞き手の”ぼく”は、東京の大学を休学して、今は・・・・・、いや、こんなことを書いていたら長くなってしまう。井上ひさしの”遠野物語”も面白い、ということのみにしておこう。柳田國男に佐々木喜善を引きあわせ、『遠野物語』誕生の立役者と言ってもいい水野葉舟に触れなければならないので。
横山茂雄はその著『遠野物語の周辺 水野葉舟』(2001年、国書刊行会刊)に、<明治文学史の一頁にその名をとどめているとはいえ、葉舟を知る読者の数は多くないと思われるので・・・・・>、と記す。それよりも、この書には、水野葉舟の作品が載せられている。
「北国の人」、この短編は、水野葉舟が始めて佐々木喜善と話を交わした時のことが書かれている。いわば、柳田國男の『遠野物語』の「序文」に相当する、と言ってもいい。
水野葉舟の文章、まどろっこしい。石井正巳はその著『「遠野物語」を読み解く』の中で、<水野は明治の流行作家でしたが、次第に忘れられてしまいました>、と記し、<水野が消えていったのは、作家としての力量だと言えばそれまでですが、・・・・・>、とも書いている。
ずいぶんはっきりとしたもの言いではあるが、たしかにこの水野の「北国の人」は、駄作である。柳田の序文に較べようもないものだ。
しかし、葉舟の「遠野へ」という作品は面白い。花巻から遠野まで、葉舟が佐々木喜善を訪ねていく話である。
朝9時10分に花巻を乗り合い馬車で立つ。<遠野へ着くのは、早くも10時過ぎだろう>、という記述があるので、花巻から遠野まで乗り合い馬車で13時間ぐらいかかったんだ。雪が降る中でのその道中、とても趣き深い。
なお、「北国の人」は明治41年1月、「遠野へ」は明治42年4月に発表されている。柳田國男が佐々木喜善から聞書きを始めたのは、明治41年の11月。始めて遠野を訪ねたのは、翌明治42年8月。『遠野物語』が刊行されたのは、明治43年6月である。
水野葉舟の「北国の人」や「遠野へ」は、それに先立つ。このところ、微妙ではあるが、乱暴に言えば、作品が持つパワーの差、ということになろう。それほどに柳田の『遠野物語』、不思議な力を持つ。
なお、水野葉舟は、「『遠野物語』の思い出」、「遠野物語を読みて」という文も発表している。もちろん、柳田國男の『遠野物語』への賛辞を記している。それと共に、「そういう気持ちがあっても当然だよ。おかしくないよ」、ということも思わせる文でもある。
それにしても、『遠野物語』に関しては、多くの人がさまざまなことを書いている。
手許にはないが、『柳田國男「遠野物語」作品論集成』(1996年、大空社刊)という書がある。石内徹編、第1巻から4巻まで。普通の市の図書館にはない。恐らく、よほどの柳田フリークか大学図書館以外買うヤツはいなかろう、という書。何しろ、4巻で6万円する。
実に多くの人が、柳田の『遠野物語』について述べている。藤村や花袋、折口信夫や芥川の頃から、つい十数年前の頃までの人。私は、時折り通う近所の大学図書館で何度か読んでいた。小さな学校であるが、そうは言っても大学図書館、このような書は備えている。
今回、改めてこの書を読もうと思い図書館へ行った。しかし、今月は試験期間中ということで、学生以外の立ち入りは認められていなかった。残念だが仕方がない。以前はボーとしていてほとんど憶えていないが、三島由紀夫が激賞していたような憶えがある。