アンディ・ウォーホル展(続き)。

この春、3か月余に亘り、森美術館でアンディ・ウォーホル展が催された。
日本では、ひとりの作家の展覧が3か月余に亘ることは、とても稀なことである。

地下鉄の六本木駅で降り、六本木ヒルズへの道を歩く。
ヒルズへの途中の円柱には、このようなポスターが貼られている。

アンディ・ウォーホルの国内史上最大の回顧展、とある。確かにそうである。
探したら、1974年10月に東京駅の上の大丸で催されたウォーホル展の図録が出てきた。細かなことは忘れていたが、大がかりなウォーホル展である。
その後もウォーホルがらみの展覧会、さまざまなもの、その都度観ている。
この春の史上最大のウォーホルの回顧展、まさしくそうであった。

森美術館の1階下、六本木ヒルズ52階のエントランスに、レーシングカーがあった。
BMWのレーシングカー。

1979年のこと。
このようなことらしい。

ウォーホル、BMWのレーシングカーへペイントしている。

会場内へ入る。
もちろん≪キャンベル・スープ缶≫がある。

≪花≫がある。

≪ドル記号≫がある。

マリリン・モンロー、エルビス・プレスリー、ジャクリーヌ・ケネディー、キミコ・パワーズ、マオ・毛沢東、マイケル・ジャクソン、ミック・ジャガー、その他多くの有名人のシルクスクリーンによるポートレイト作品がある。
上は、坂本龍一(先般、癌であることを告白。今年一杯活動を休止、癌との戦いを続ける、とコメントしていた。是非ともその戦いに勝ち、復帰してもらいたい)のポートレイト。
なお、「美術手帖」の抜き刷りだという「ウォーホルとクリスティーズの歩み」には、マオ・毛沢東の作品は、2006年11月のニューヨークでのセールにおいて1737万ドル(約20億円)で落札された、とある。
「死と惨事」シリーズの作品では、例えば≪緑の自動車事故(緑の炎上する車)≫は、2007年のクリスティーズのオークションにおいて、7172万ドル(約86億円)で落札されたそうである。
この値、コンテンポラリー・アート(現代美術)の作家としては、やはり突き抜けている、と言えよう。

六本木ヒルズの森美術館、もう10年になるんだ。速いものだ。
今、探したら、その時の小さな冊子が出てきた。
開館展は「ハピネス アートにみる幸福への鍵」、」というものであった。「モネ、若冲、そしてジェフ・クーンズへ」、ともある。
それから10年経ったのか。ウーンという思いのみ。

しかし、この春のウォーホル展、今までのウォーホル展とは異なっていた。スーパースター・ウォーホルのさほど光の当たらぬ部分のことごとも展示されていた。
これは作家としてデビューする前の1950年代の作品。
ウォーホル、ネコの絵を多く描くいているが、これもそう。≪サム≫。味がある。

ストリート・アートの寵児・ジャン・ミッシェル・バスキアとのコラボもある。
しかし、≪Don't tread on me(私を踏みつけるな)≫、とのバスキアの文言、何を表しているのか。ジャン・ミッシェル・バスキア、58歳で死んだウォーホルよりもはるかに短く、27歳でこの世を去った。薬物を濫用し。

ウォーホル、はじめてその名を知ったのは、映像作家としてのウォーホルであった。
これは≪エンパイア≫。
ウォーホル、ひたすらエンパイアステートビルを映し撮っていた。

ウォーホルのアトリエと言うより工房、工場でもあるファクトリー。銀色のホイルなどで覆われたシルバー・ファクトリーでのアンディ・ウォーホル。
1968年6月3日、アンディ・ウォーホル、シルバー・ファクトリーで狙撃される。
狙撃犯は、ヴァレリー・ソラナス。かってウォーホルの映像作品に出た女。弾丸はウォーホルの内臓を打ち砕いた。しかし、ウォーホルは生還する。ウォーホル神話が弥増した。

アンディ・ウォーホル、その時々のさまざまな物をダンボール箱に詰め込んでいた。
いわば、ウォーホルの私的アーカイブ、タイムカプセルである。その中にこのようなダンボール箱がある。
週刊朝日がある。表紙は、ルパング島から生還した小野田少尉。長嶋茂雄の写真が表紙の報知グラフがある。カラー歌舞伎の魅力というものや、北斎漫画、写楽、室生寺金堂の十一面観音も見られる。
先述の1974年の大丸でのウォーホル展には、ウォーホルのこのようなメッセージが記されている。
<1955年、私は東京と京都へ行った。・・・・・>、との。
同じ図録でのウォーホルの略歴には、1956年6週間で世界を一周する、との記載がある。1955年に東京や京都へ来たとのウォーホルの記述、おそらくその翌年の記憶違いであろう。

シルバー・ウィッグを逆だてたウォーホルの自画像である。
おそらく死の前年、1986年の作品。
ウォーホル自身、なんらかのものを感じていたことであろう。
そう思う。