70年前の学生は、戦場へ行った。

戦後70年となる今年、天皇皇后両陛下は先般、パラオ・ペリリュー島への慰霊の旅を決行された。
その両陛下が御心を曇らせるのではないか、と危惧する安倍談話を含め、夏までの今後数か月さまざまな戦後70年に関する催しがあるだろう。
昨秋、ホームカミングデーで早稲田へ行った折り、大隈記念室では「十五年戦争と早稲田」と題する展示を催していた。早稲田大学大学史資料センターの主催。軍部に飲みこまれた苦い思いと共に。その前年、2013年には、「ペンから剣へ:学徒出陣70年展」も催されている。
戦後70年となるこの春は、會津八一記念博物館での春季企画展「戦後70年 学徒たちの戦場」。

1941年12月8日、日本は米英へ宣戦布告、太平洋戦争へ突入する。翌年にはミッドウェー海戦で大敗北を喫し、1945年8月15日へ。戦後70年と言っているが、正しくは敗戦から70年である。
それ以前、1943年10月、学生に与えられていた徴兵猶予が廃止される。学徒出陣となる。中国大陸へ、東南アジアへ、フィリッピンへ、ニューギニアへ、70年前の学生たちは行った。
死と向きあう戦場へ、70年前の学生は行ったんだ。20歳少し、という年代で。
上は、本文20ページの「学徒たちの戦場展」小冊子の表紙。
以下、この小冊子から複写する。

学徒出陣、”日常から戦場へ”となる。
扇子、1943年10月10日、<市島保男出陣に際しての寄せ書き 於浅草騎西屋>。

椎根幸雄宛 椎根正の葉書。
<椎根正は1922年生れ。1943年9月早稲田大学高等師範部を繰り上げ卒業。・・・・・ 1945年6月沖縄周辺で戦死>、との説明。

<家族宛 田部達雄 葉書 1944年6月〜9月>。
<田部達雄は1923年東京出身。1943年10月早稲田大学政治経済学部進学と同時に学徒出陣となった。・・・・・ 1945年3月フィリピン・ルソン島で戦死>、と小冊子に。

<松井弘次宛 松井栄造 葉書 1943年頃>。
<支那の生活も大分慣れてきなした。支那語も次第に覚えて来ました。・・・・・ 唯本の無いこと丈が不自由です。何か送って下さい。中央公論か改造か、文藝春秋か、何か送って頂けると・・・・・、短歌研究でもいいです。・・・・・ 子供だましの様な慰問袋はゐりません。・・・・・>、と。
松井栄造、1943年5月湖北省姚家坊付近で戦死。

<今野廉司 家族宛 葉書 1944年秋頃>。
<今野廉司は1920年生れ、・・・・・ 1942年9月繰り上げ卒業。・・・・・ 1945年1月フィリピン・ルソン島で戦死>。

タイプで打ったものなので見辛いが、1945年8月10日付け聯合艦隊司令官長 小澤治三郎による布告。
<神風特別攻撃隊琴平水偵隊として、1945年6月25日から28日の4日間に戦死した9名の戦死とその状況に関する布告。9名の最初に早稲田大学高等師範部卒業生である椎根正の名前がある>、と。

<市島文子宛 市瀬宗夫書簡 1945年8月14日>。
<市島保男の友人であり早稲田の同窓でもあった市瀬宗夫より遺族に送られた書簡。市島の遺書がラジオ放送で紹介されたことを伝えるもの>。

敗戦後も、戦死した学徒兵の遺族には、死と向き合う日々が続いた。
1946年2月18日 第二復員省人事局長・川井巌から市島亀松宛の通知。
<市島保男の戦死に関する情報、及びニ階級昇進(海軍大尉)を知らせる通知。横須賀英霊安置所の案内を含む>、と早稲田大学大学史資料センター。

大西鐡之祐の1948年の手記「妄念」。
大西徹之祐、この「学徒たちの戦場展」の中で、唯一私が知る名である。
<1940年召集、近衛歩兵第四連隊に配属、フランス領インドシナに出征、敗戦をスマトラで迎えた大西は、マラッカでの収容所を経て、1946年6月に復員した。戦後は、早稲田大学教授のほか・・・・・>、と。

大西鐡之祐、1948年の手記「妄念」の冒頭にこう記す。
大西鐡之祐が祖国の再建のため、死した多くの戦友に代わって成したのは、ラグビーの世界である。
このところの大学ラグビー、帝京が頭抜けて強い。大学選手権6連覇。10連覇も固い。しかし、昔は違う。大学ラグビー、早稲田と明治が争そっていた。
タテの明治、ヨコの早稲田。「前へ」の明治、押しに押す。その明治の重量フォワードに耐えに耐え、横への展開でトライを狙う早稲田。
その「前へ」のタテへの明治を率いたのは北島忠治。そして、それに耐えヨコへの展開を図る早稲田を率いたのが大西鐡之祐である。私の学生時代は、大西鐡之祐が2度目の監督に就任したころ。早明戦、いつもしびれる。
それはそれとし、70年前の学生、戦場へと歩を進めていた。そうせざるを得なかった。
死と向きあっていた。