「住み果つる慣らひ」考(6)。

よく長生きをした人を「人生の達人」と呼ぶことがあるが、そのような人は概ね生き死にについて、のんびりというかゆったりというか、まあ、あまり深刻に考えていない人が多い。のんびりがいいんだ。
もういい加減な年なのに、「私、なんだか死なないような気がする」と宣はっていた宇野千代は、90歳の時にこう記している。
<そして私は、後35年の人生を、存分に生きるだけ生きて行くでしょう。そのさきのことは知りません。それが寿命なのですから。寿命の尽きた日、秋になって風もないのに木の葉がポトリと落ちるように死んでいく私であると、私には思われるのです>(新潮45編『死ぬための生き方』昭和63年 新潮社刊)、と。
ここで90歳の宇野千代が「後35年の人生を」と言っているのは、中村天風から教わったという「人生125年説」によっているからであるが、どうも本気でそう思っていたフシがある。どうも人の寿命など気の持ちようと言えるのかもしれない。
宇野千代、125歳まではいかなかったが、その時から8年は生き、98歳で死んだ。長生きだ。おそらく、木の葉がポトリと落ちたであろう。
実はこの新潮45編の『死ぬための生き方』には、雑誌「新潮45」に掲載された42人の原稿がまとめられている。死ぬための云々で42人の42稿、意味深。
ま、それはともあれ、何人かの先達の「死ぬための生き方」を引いておく。皆さまあまり構えないんだ。言ってみれば、のんびりゆっくり。
森繁久彌が記す「今日もまた絢爛に」の一節。
<それが近頃、余り恐ろしくなくなったのだ。今、瞬間に死と向かいあっても、キザに聞こえるかも知れぬが左程の動揺はない。むしろニッコリ笑って”色々ありがとう”ぐらい云って終焉を迎えたいとそれのみだ>。
森繁久彌、96歳まで生きた。
白洲正子はこう記す。
<「何とかなるサ」といういささか不謹慎な題名は、私の死生観について書けといわれ、とっさに浮かんだ題である。そんな重大な問題に直面して、何とかなるサ、と思う以外にいったい何ができるだろう。・・・・・>、と。
この世のことごと、生き死にのことごとも何とかなるんだろう。そうかもしれない。
白洲正子、88歳で死んだ。
昨年93歳で死んだ鈴木清順は「死ぬも生きるも神様のあくび」とタイトルを打ち、<それほど遠くない将来、神様はあくびをなさって死は確実に私にも訪れる。逡巡したり怯えたりするようなことは、とりあえずないと思う。・・・・・>、と記している。
「神様のあくび」って、鈴木清順、その少し前に記している。
<三島由紀夫が自決したときに、故武田泰淳氏は「あれは神様のあくびだよ」とのたまわれたそうだが、至極名言である、と私は思う。・・・・・>、と。
「神様のあくび」、どのような人にも等し並に届くのではなかろうか。
朝日新聞の「天声人語」を17年余の長年月書いた荒垣秀雄は、とびきりの才人ではあるが洒脱な人でもある。
<先年、戯れに「九九斎」というハンコを作り、色紙や手紙の姓名のアタマに押していい気になっていた。・・・、お前はまだ九九歳になっているはずがない、今から白寿気取りとはたしなめられ、いや実はこれ”掛け算”でしてね、9×9=81、81歳のシャレなんですと・・・・・>、。荒垣秀雄、81歳の時。
こういう所もある。
<私は喜寿のころから、年齢を日数や時間に換算することに興味を持つようになった。私は今夏7月19日満84歳になったが、日数にするとたった3万日ちょっとだ。長生きしたように思ったが、なあんだそれっぽちか。・・・・・>、というもの。
3万日なんて、たしかにそれっぽちの時間、日数である。
が、そういうものだという気もしてくる。
今日明日ということではないが、その日はすぐそこってことであろうか。