自民党はなぜ自壊するのか
自壊する自民党
自民党がひどいことになっている。いつまでたってもビジョンは出てこず、内部抗争を続け、選挙で自分が勝つことしか考えていない。そこには「日本の危機的な状況」よりも、「自民党の危機的な状況」が大変な事態であると各政治家達が認識していたことがと浮き彫りになっている感がある。
私の自民党に対する認識は、「政権にとっている」こと自体が存在価値の政党であり、政権から離れれば、おそらくは自壊する政党ということだ。
その原因は極めてシンプルで
『何かを実現したければ、自民党以外の選択肢が無い』
という環境が長く続きすぎたことにある。
政治家を志せば、選択肢はふたつ
日本では、長らく自民党政権が続きすぎていた。例えばあなたが大学生の時に政治家を本気で志し日本を良くしていこうと理想に燃えていたとしよう。
その時、日本では野党に入ってもどのみち政権は取れない。例え選挙で当選し、幾つかの政争とは無縁の法案を通すことが出来たとしても、結局は”絵に描いたモチ””負け犬の遠吠え”になるのである。
このことが政治家を一生の仕事と考えた人に次の2択を強いることになる。
- 自分の考えている政策をいつか総理大臣となり実現したい。→ 自民党で地道に出世を目指す。
- 実現できなくても構わないので、自分が正しいと思う主張を存分に主張したい。→ 野党で自己満足の言いたい放題。
この人材の流れが長く続いた結果、野党には空想に近いほどの現実とはかけ離れたビジョンを声高に主張する人達が集まり、他方、自民党には、現実主義という点のみでは一致しているが、同じ政党とは思えないほど主義主張の違う人達が、派閥をつくり「政党内政党」として抗争を繰り返すことになった。
この抗争により、自民党政権が続いても実際には政権交代に近い形は起きていたのだが(そしてそのことが単独政党の長期政権を容認していた最大の理由であるのだが)、この方法がまずかったのは、その交代の多くが国民の選択ではなく、政党内政治のパワーゲームに基づいて動いていたことにある、
さしたる信念もビジョンも無いが、調整力や政治力がやたらある森元総理などが力をもつのもここが根本的な原因である。そして、調整だけしていれば国が回った時代が終わったことにより、この弊害が無視できなくなったのが昨今の状況である。
政権が追われる可能性が高まった前回は、「非自民党」を掲げた小泉政権が擬似政権交代を実現させることにより回避することが出来たが、今回ジョーカーはもう無い。
自民党は自民党支持者により政権を追われる
実際のところ民主党は「自民党で無い政党」である一点において支持されているのであり、政策のバラバラさや、自民党と違い、夢想家集団も多く抱えている点から、自民党がここまでひどくならなければ政権をとるのはもっと先の政党だっただろう。
結局のところ、自民党は自民党支持者によって政権を追われることになると思う。(既得権益と繋がっていない)自民党支持者が期待しているのは、自民党に政策によって求心力を持つ本来の政党の姿に戻ってほしいという意味でのお灸であり、現実主義者が集まる自民党が派閥ごとに別政党として分裂してくれるのではないかという期待だろう。
その期待から今回は民主党政権というリスキーな劇薬に賭けようとしている。この判断が吉と出るか凶と出るか分からないが、他に選択肢は無くなったようである。
経済成長ではなく、多様化を目指すべき。
経済学に対する疑問
という提言は何か役に立っているのだろうか。
操作できるパラメータと今見える指数に注目が行くのは、やむをえないのだろうが、今日の株式相場のニュースで、予想を超えて上がると「市場の予想を上回ったため。」、変動しないと、「市場は織り込み済み」というのとあまり変わらない気がする。
私がそう思う原因は、たぶん下記のような理由だろう。
- 経済について、定量的に現状と過去の分析はするが、そこに本質的な法則を見出していないため、定量的な予測まで至っていない。
- したがって、今回の議論や提言が経済の仕組みを言い当てているか、検証できない。
- 検証が不可能なため、PDCAが回らず、誰もが言いっぱなしになり、その中で当たり外れを言っている。
- その結果として、結局「全てが後付なのでは?」という気が否めない。
つまり、バブル期に、現在起こっているのがバブルだと指摘し、それを”定量的に”示し、安全なランディング方法を提言した経済学者が見当たらない。
ソニーショックのような話も経済学者から事前の予測が出ていない。
「危ない」ことを指摘していた経済学者はいると思うが、なんというか競馬新聞の予想のようなもので(これも定量っぽいことは、やっている。過去5戦の勝率、体重が減っていた、長距離では元々強かった。等など)、各自が各自の理論で論理を積み上げていくので、「それだけ様々な意見があれば、誰か当たるのは当たり前だろう」のレベルを脱していない。
つまり、論理に完全な客観性と、様々な要因を超えた本質論を追求姿勢が足りない気がするのである。
経済成長の本質は、多様性
そういう本質論が強い学問分野からの話だと、スチュアート・カウフマンが書いた下記の本が本質を言い当てていると思う。
スチュアート・カウフマンという人は、複雑系研究の中心地であるサンタフェ研究所のエースのひとりであり、主に生物学、進化論の研究を自己組織化という観点から研究している人で、「ジュラシックパーク」に出てきた、カオス理論学者のモデルになった人でもあります。
ただ、僕のイメージは、少し異なります。
カウフマンは、愛娘を交通事故で亡くしてから、「生命とは何か?」、ということにこれまで以上に没頭し、
「我々生命は偶然の産物なのだろうか? いや、なるべくして現在の形になったのではないか?確率に支配された無秩序は、自己組織(触媒)化というスパイスにより、自然と秩序を生み出すような仕組みになっていたのではないか?」
という結論を導いています。
このエピソードから、僕の中でのイメージは完全に「鉄腕アトム」のトビオを失った天馬博士のイメージになってしまってます。
話がそれました・・・。
さて。この本は、かなり生命の進化、宇宙論、熱統計力学、経済学、哲学と多岐に及んでいます。この本の「9章 常に革新する経済圏」において、カウフマンは、
- なぜ、経済は成長するのか?
- 我々の祖先が、石器を発明した時代と比べて、現在の様々な道具、商品、サービスにみられる多様性はなぜ生まれたのか?
といった問題提起をしています。
そして、経済成長の理由は、多様性の増大に本質的な理由があり、それは進化のシステムと本質的に変わらないという結論に至ります。
具体例としてあげているのが自動車産業です。
自動車産業という新しい種が表れたことにより、
- エンジン、鉄鋼、バッテリー、など部品産業
- 道路整備事業
- ガソリンスタンドなどのインフラ
という新しい生態系が生まれ、その後、個人の行動範囲を広げたことにより、
- 商圏の拡大による大規模小売業
- ロジスティクス
- レジャー産業
といった部分まで自動車というインフラがあることが前提とした新しい産業が興ってきます。
一方、この結果、
- 馬車
- 馬の蹄鉄の加工
など、馬車を基盤とした産業は衰退することになります。これは自動車が基点となった種の登場により、自動車産業を中心とした生態系が構築された結果、既存の馬を中心とした生態系が衰退を余儀なくされたことを意味しています。
ただ、馬車のあった時代の生態系に比べて、自動車が作り出した生態系の多様性の方が遥かに高いことは、間違いないでしょう。
この多様性の拡大こそが、経済が成長しつづけた本質だとしています。
そうなると、最初の議論も変わってきます。
経済成長を生み出すには、いかにトータルでの多様性を上げる(例え、衰退する産業があっても)方向にもっていくかが、本質ならば、
- 商圏の拡大に繋がらない道路整備(A市からB市に買出し先が変わる)
- 溶接を教える再就職支援
- メディア図書館の建設
などは、新しい生態系の登場は全く引き起こさないことからやめる。
変わって
- 車が走る道路整備から、情報が走るネットワークの整備(物流のみから、情報流通の生態系へ)
- ハイブリッドカー、電気自動車などの支援(石油エネルギーから電気エネルギーの生態系へ。やがて自動車内でネットワーク化された電気製品の需要へ。)
- 都市間の鉄道整備から、市街地を柔軟につなぐLTE(大規模店に中心から、町全体で多様性を目指す生態系へ)
といった方向性が考えられるのではないかと思います。
JASRACの主張は、Googleならつぶせる。
「徹底的に争う」とJASRAC加藤理事長 排除命令、YouTubeやニコ動に影響は (1/2) - ITmedia NEWS
この記事を読んで、考えた解決案を少しまとめてみます。
この記事を読むと、JASRAC の主張は、一理あるように思える。
ただ、曲の使用数に関わらず、放送事業の売上収入から一律聴取するというのは、やはり乱暴なやり方だと思う。
JASRACが主張しているのは回避措置
既得権益に守られた経緯から圧倒的なシェアを握っていることそのものが、他社の市場参入を妨げている企業は他にもある。
例えば、エネルギー関連や、昔のNTT・郵便局のような存在であるが、これらの企業には一定の公益性が求められてしかるべきである。そして、その公益性を支えるのは、一般的に情報開示であり、上記のやり方はそれに真っ向から反している。
つまり、
- 本来あるべき姿(今回の場合、使用曲数に応じて、料金を徴収すること)
が、
- 運用上コストが掛かりすぎる(今回の場合、全使用楽曲を把握する)
が為に、現在の方法が取られているのである。
そして、JASRAC側も、自分たちの主張が現時点での回避措置であることを、下記発言から半ば認めていることがうかがえる。
「全曲報告の取り組みは、民放連とも合意しており、放送局の協力を得ながら03年から進めてきた。キー局はすでに全曲報告になっているが、地方局などが対応していない」
そして、このような「コストが掛かりすぎるために、本来あるべき姿が実現できない場合」の解決策としては、得てして”技術”がこれを解決することになることが多い。
例えば、技術が解決すると仮定した案を下記にまとめる。
Googleなら、番組を「検索」出来る。
ここでいう”Google”とは、あくまでもGoogleの様な技術を持っているようなところと考えてもらえれば良い。
つまり、今回の問題は、下記のように考えれば、技術的に解決できるような気がする。
まず、放送されている番組で使われている音声を、Webページなようなものと考えよう。このとき、1ページは、1番組。ページの上から下まで、番組上での音の周波数情報が時間に沿って書かれているようなイメージである。
このように考えると、
- ある曲が使用された
ということは、
- そのページに、あるキーワード(ある曲)の一部分が含まれていた。
ということを意味している。
つまり、番組放送上でどの曲が使われたかを把握することは、基本的に「検索」技術で解決できそうである。
解決に向けて
では、どのようなステップで今後進めていくのがいいのだろうか。
まず、国はJASRACなどの音楽著作権管理業者に、管理対象の全ての音源データを国が管理・管轄するデータベースに提出することを義務付ける。
次に、そのデータベースにアクセスし、インデックスキー作成のために限定して使用出来る事業者を認可制で認める。
そして、その事業者は、放送局から発注を受け、その放送局の放送されたデータで使用された楽曲データを自動的に抽出し、その楽曲がどの管理業者のもつ権利かを紐付けた上で、放送事業主にリストを納品する。
といった流れでいいだろう。
図にしてみると
のようになる。
このやり方のメリットは、放送局とJASRACとの間に仲介業者が入ることで、複数の著作権管理業者が混ざった場合の効率的な処理が可能になることである。
これならば、放送局はどの著作権管理業者の楽曲を使ったかを気にしないで、コンテンツ作りに専念できる。
また、定期的な報告から、管理業者間でのコストの違いも明確に把握でき、市場の透明化につながるのではないだろうか。
[politics]人口は都市に集中すべきか?それとも地方を育てるべきか?
人口の都市集中が必要だ – 池田信夫 – アゴラ
を読んで、少し思ったことを書く。
極端な両論
この手の話で議論が出る時、得てして、二つの意見が出がちだと思う。
つまり、
- 賛成:高い生産性を持つ経済システムの構築のためには都市への集中は避けられない。地方を守り、都市を滅ぼせば、それは悪しき平等主義であり、結局全員が不幸になる。
- 反対:過度の集中は都市機能の低下をもたらす。それに地方を完全に切り捨てることが出来ない以上、日本は元気にならない。第一、美しい日本の田園風景を破壊するのか。
の2点である。
この2点は、どちらも筋が通っているように思える。
すなわち、この両論が共に弊害の多い極論であることが問題なのだろう。
答えは真ん中に
上の両論は、どちらも正である。都市への過度の一極集中は、空中と地下をフル回転しても限界がある。
東京は、ビジネスにとって間違いなく効率的な都市だが(NHKスペシャル「沸騰都市」TOKYO は面白かった。 http://www.nhk.or.jp/special/onair/090216.html)、1時間以上掛けて通勤するビジネスパーソンが多いことを考えれば、通勤時間をどれほど有意義に使ったとしても、ひとりあたりの無駄な時間はどうしても発生していると考えるべきであろう。
ならば、答えは既に多くの人が指摘しているように、やはり間をとった策ではないのか?
つまり、
分散された中核都市への強い集中と、その衛星都市としてのコンパクトシティへの弱い集中である。
過度の集中を避けつつ、人口密度が低い非効率的な地域を減らす。逆に、人口密度が減った地域では、大規模の専業農家や林業を配置することで、効率を高める。
これが、良策と思われる。
そのための施策
では、そのような状態を実現するのは、どうしたら良いだろう。
一番、簡単な方法は税制で動かすことである。つまり、コンパクトシティとしたいエリアを地価や面積あたりの消費税収入などに基準に設定し(恣意的に設定すると、クレームを取りまとめられなくなるため、客観的な数字が必要。)、自然と動かすようにする。
例えば、
- 指定市街地内で暮らした場合の税金を控除する。
- 引っ越してきた場合には補助金。(ここあたりは、携帯のMNPと同じ)
- 郊外では分散した農地に対して負荷が掛かるような税制を引く。(面積あたりの純利益で控除額を設定するとか。)
といった税制が考えられるだろう。肝心なのは、人口を集中させたい市街部と、ひとりあたりの所有地を集めたい郊外部に対する施策を”同時に”実行することである。
特に高齢化の中では、世代交代の際に、狙った方向へと誘導する施策が重要である。相続税が払えなくて、大規模郊外型スーパーに変わってしまっては元も子もない。
また、無理やり動かされた商圏に商店街が安心して、高価格で日常品をただ売るだけの街となってしまっては、それもわざわざ移ってきた人が不便になるだけである。
中核が出来てくれば、西側と東側が争うようにしても良いし、守られた中での商売なのだから、税率を上げても良い。いずれにせよ、競争する環境を作る必要がある。
青森などが成功した例だが、こうした例を増やしていくことが必要である。
http://www.city.aomori.aomori.jp/compactcity/machi.html
注意点
こうしたことを実現するためには、地域への権限委譲が必須条件となるだろう。
なぜなら、全国一律似たような形でショッピングモールやマンションが立ち並ぶようになれば、それは多様性を失わせることになる。(日本中の似たような公園のように。)
多様性を失い、日本中にそっくりの街が出現すれば競争軸はひとつとなり、結局相対的に大きな街への魅力が増大し、再び一極集中が始まってしまう。
簡単に比較できない多様な競争軸の中で、個々の要素に魅力を感じる人が、移動し、定着し、それぞれの都市独自の文化を生み出すことが、結果的にソフト時代の日本の競争力を築くことになるだろう。
CGMについて考える前に、CEMを考えよう
CGM(消費者発信型メディア:Consumer Generated Media)やUGC(ユーザーがつくったコンテンツ:User Generated Contents)という言葉があちこちで使われるようになってから、もう数年が経つ。
CGMとは、古くは2ちゃんねるなどの掲示板に始まり、@cosme、価格コムなどの評価サイト、ブログやSNSに含まれる日記系コンテンツ、OKWaveなどのQ&A教えてサイトなどといった一般のインターネット上のサービスを指し、消費者が情報を作成・発信することでメディアとして機能しているものの総称をいうわけだが、そこには「消費者が消費者視点での独自の情報を発信している」というニュアンスがこめられる事があり、どうも違和感があった。
消費者がコンテンツをどの程度作っているのか?
そもそも、YouTubeやブログなどのCGMの代表選手の中で、独自にコンテンツを作っているといれるものというのは、どのくらいあるのだろうか?
多くのCGMでは、マスメディアの発信した情報を切り張りしているだけのように思える。特に動画や時事ネタなどの取材力や作成コストの掛かるコンテンツについては、その傾向は顕著だ。
結論から書く。消費者はコンテンツをあまり作っていない。マスメディアに代表される従来どおりの1次コンテンツを元に、加工・編集し、時に評価する。このような行為が実際は大きなウェイトを占め、しかもその点こそが大きな影響を社会に与えていると思われる。
言葉をつくろう
「そんなことは、言われなくても知っている」という話でもあるとは思うのだが、ここで問題提議したいことは、CGMという便利すぎる言葉の弊害である。
つまり、CGMという言葉が1.消費者がコンテンツをかなりイチから作る場合と、2.切り張りや評価のみを行っている、という両方を含んでしまったことにより、CGMという言葉を使った議論が、時に論点が曖昧になってしまうのではないかということである。
ならば、きちんと言葉から分離をしてみたらどうか?という提案なのである。
言葉 としては、CEM(消費者に編集されたメディア:Consumer Edited Media)、UEC(User Edited Contens)とかでいいと思う。また、他に既に言葉があるのなら、そちらでも構わないので、その場合は教えて欲しい。
CEM/UEC には、テレビ番組の面白かったポイントのみを切り出して、YouTube に投稿したもの。面白かったマスメディアの記事に評価とコメントを加えたはてなブックマークのようなもの、関心を引くニュースを切り出してコメントをつけあう2chの板などが上げられる。
一方、CGM/UGC には、クッキングレシピを公開したものや、今日あった面白いことをブログに書いたもの、ギターの速弾きYouTubeに上げたもの、などが上げられる。
まとめ
これら一連のCEM/UECは、例えば、新聞の1面にどれを載せるか。テレビ番組のハプニング大賞としてクリッピングするにはどこが一番面白いか、また、どういう字幕を出すと面白さがより引き立つか、など従来マスメディアが「オススメ」として限られた枠内を配分したり、より分かりやすく伝えるための付加情報といった編集権を消費者が肩代わりを始めていることを意味している。
これからのメディアは、どの程度、編集権をユーザーにうまく渡せるかが、協力関係を築けるのかといった点、すなわち、CEM/UECに使ってもらうことが、既存のコンテンツにより高い価値を持たせるための鍵になるのではないかと思う。
そして、そのような議論をスムーズに行うために、CGMのより狭義な言葉を作った方が良いのではないかと言うのが、今回の意図だったりします。
テレビ局は「視聴率」の窪地にはまって動けないのでは?
悪化するテレビ局の売り上げ
テレビ局の収益が急激に悪化しているようだ。
テクノロジー : 日経電子版
このことは、アメリカの動向などから以前から予測可能だったこととはいえ、業界関係者でもスピードの速さには戸惑っているのかもしれない。
私はテレビ局が本来のコア・コンピタンスを見つめなおせば、今回の波は大したことではないと思っている。素人の浅はかな考えなので、きっと多くの見逃しがあるのだろうが、素人だからこそしがらみに思考が邪魔されないというメリットもある。
視聴率の窪地
今回起きたことには、先例がある。言ってみれば、DVDが出るときに映画業界が大騒ぎをしたのと似たような構造であるように思える。
要は
「映画館で見てもらえなくなる」→「(youTubeなどに上げられてしまい)テレビの放送時に見てもらえなくなる」
の理論であり、
テレビ局に本来望まれている
A. 「視聴者の望むコンテンツを届けること」
を軽視し、
B.「特定の時間で特定の場所で見てもらうこと」
を重視した結果が今のインターネットや携帯などに追い込まれた状態だと思う。
映画と同様に優良なコンテンツを作れば、コンテンツ販売で後から結果は付いてくる。勿論、そう単純にはうまくはいかないだろうが、アマゾンのように関連したコンテンツをうまく繋げることで、視聴者の興味・関心空間を拡大させることができ、マッチング精度を上げることができれば、最終的なパイは増えるはずなのである。
なぜ、Bを重視してしまうるかといえば、それは番組の評価尺度である「視聴率」(から計算されるGRP)が下がるからである。
では、本来のテレビ局にとっての番組の評価とはなんだろうか?
タイムスパンの違いで考えてみると、番組の評価は以下の4段階があるように思う。
- 放送時の番組の視聴率
- 放送後の番組の視聴率(HDDレコーダー、投稿)
- DVDや関連コンテンツの売り上げ
- 長期的な放送したコンテンツの世界観に対する興味関心の拡大、マッチング精度を上げるための視聴者データ
勿論、2を利益に繋げるためには、何らかの仕掛けがいる。
この仕掛けは、依然書いた
youTubeとテレビ局は最高のパートナーになれるのに。 - 情報流の流れに身を任せ。
あたりがいいと思う。
こういう考え方をしてみると、現在の視聴率は、本来測定しなければならない利益貢献力とは次第にずれはじめたものになっているのではないだろうか。
つまり長期的には利益が出せる方法があるのに、測定指標が著しく短期的に偏っているために、正しい行動を起こせない。
いわば『視聴率の窪地』にはまった状態とも考えられるのである。(これは、人事考課尺度を失敗し、企業組織が崩壊する場合ともよく似ている。)
今後に向け
最後にまとめると、テレビ局への提案は以下の2点である。
- 非同期を前提としたビジネスプランに転換するべき。
- そのためには、測定尺度を視聴率からもう少しタイムスパンの長いものも含めた汎用的な形に変えること。
ここでいう同期は、時間を発信側と受けて側が合わせる意味であり、非同期とは、発信側と受けて側が自由な時間で発信・受信をすることである。
携帯での通信量でメールが通話を逆転したように、「応酬によるすり合わせ」を必要としない場合、メールのような非同期通信の方が利用者の負荷は低くなる。
「何時からの放送を見てくれ」
というテレビ局側の要望は
「何時何分に電話するから、必ず取ってくれ。取ってくれなければ、二度と掛けない」
という身勝手な企業側の要望に過ぎないのである。(ただし、スポーツやニュース速報など同期性が重要なコンテンツは別。)
予想
視聴率に変わる長期的な視野も含めた指標への転換には、広告主からの圧力でおそらく始まるだろう。その時、長期的な広告の露出が出来、効果が測定できるよう手法を用意できたところが、テレビ局の中で勝ち組になるだろう。
それが、テレビ局単体で実施することになるのか、Googleなどの専門家と組むことになるのかは、まだ、分からない。いずれにしても今年年末には何らかの動きがあると思う。
なぜタワーレコードはiPodデータ販売をしないのか?
前回書いた
2008年に起こりそうな事 - 情報流の流れに身を任せ。
の別版のようなものです。
タワーレコードに限らず、HMVでもどこでもいいのですが、『なぜ、店舗で音楽データの販売をしないんだろう?』というのが、以前から疑問としてあったので、そのことについてちょっと書いてみたいと思います。
データ販売が、CDやDVDといったパッケージ型から、データそのもののみを渡す通信型へとシフトする流れは、強まる一方でしょう。
そう考えたときに、不思議なのが、『なぜ、店舗でデータ販売をしないんだろう?』という疑問です。
想定しているシナリオは、例えば、下記のようなことです。
- タワーレコードで、欲しいCDをみつける。
- 店舗においてあるデータ配信用の端末にCDをもっていき、バーコードを読みとらせる。
- ○○○円です。iPodをつなげてください。と表示。
- 料金を入れ、iPodを繋げるとデータ転送開始。
- 終了。接続解除。
これの利点は、とにかく、すぐに聴ける。ということです。
あとは、音楽が聴ければいいだけの人にとっては、CDは不要なので、もつ必要が無い。
実現を阻んでいる要因として考えられることとしては、iTunes とのシンクロの不整合の問題があるくらいかと思いますが、これは、
- データ購入時にチケットを発行し、iTunes Music Store から、全く同じデータなら一定期間内に限り、ダウンロードできるようにする。
- シンクロ時に例外種別として、ラベルなどのインデックス情報の編集だけ許すような扱いにする。
のどちらかで対応をすればいいと思います。
特に、二つ目なら、データは「そのiPod」でのみ利用となるため、金額を下げて、より音楽販売を小分け・多頻度といった新しい(着うたのような)形態へとすることができます。
ただ、実現するプレーヤーとしては、タワーレコードはDocomoと組んでしまっているので、同じ大規模点でかつ、タワーレコードに水をあけられている「HMV」あたりが最適かと思います。
これによって、CDショップは、単なる「CDを販売する場所」から、「新しい音楽情報に直に触れることの出来るイベント空間である」メディアという位置づけに、業態の変化ができます。
これは、特に都心の大規模店では、現在の時代の流れにあっているような気がするのですが、これも今年あたり実現しそうなことのひとつに上げておきたいと思います。