以前辛い食文化について調べた時に肉食文化との関連が出てきた.大和では早くから肉食が禁じられた結果,肉食が一般化したのは明治以降のことだ.
だがそれ以前でも一切食べなかったのではなく,何らかの食べ方があったり,滋養強壮(薬用)に用いられてたてなハナシがある.その明治以前のこととなると,肉の保存法としてはせいぜいただの干し肉か燻製あたりだったらしい.
ところが少し違った処理方法として「みそ漬け」てのがある.彦根藩が将軍家に牛肉の味噌漬けを献上してたてのがルーツくさい(ただ塩蔵の場合と違って,それ程長期保存向けではなかったらしい).何故そーなったかってと,面白いことが分った.
時代が下がると、肉食禁止令も徐々に色あせ、彦根藩(滋賀県彦根市)では将軍家の太鼓の皮を献上する目的で、独占的に牛の屠殺が認められ、副産物の肉を加工し、食用や薬として利用し、将軍家にも味噌漬け牛肉を献上していました。これは井伊直弼が藩主になるまで続いています。 江戸末期の享保3年(1718年)には、江戸最初のももんじ屋が店を開き、半ば公然と商いを始めています。
http://www.in-ava.com/hosoku11.html
「ももんじ屋」つーのは獣肉を売ったりジビエ料理を喰わせる店とのことで,ここではあまり保存法との関わりは無さそうだ.
一方世界を見ると歴史的に牛は珍重されてこなかったのに対し(肥育に大量のエサと時間を要するワケで),豚肉に関しては各地に様々な保存食が有る.共通するのは塩漬け乾燥,燻製て処理の仕方だ.ご存知中国の「金華ハム」(金華火腿),イタリアの「プロシュット・ディ・パルマ」,スペインの「ハモン・セラーノ」を世界の三大ハムとゆーのだそうで.
金華ハムの歴史は12世紀辺りまで遡るらしい(金華に限らず火腿を作るのが,これまた緯度的には奄美から台湾くらいの比較的南部のエリアだってのが不思議なトコロなんだけど高地なのかな?).
冊封使(中国使節団)は15世紀から19世紀半ばだから,使節団によって伝えられてても不思議ではない.ただし前にも書いたけど,それ程の頻度ではなかったので,航海用の保存食としての塩漬けだけが伝わって「スーチカー」となったのかも知れない.
しかし沖縄で養豚が盛んになったのは18世紀に入ってからだから,庶民はまともな肉を口にすることがそもそも稀なため肉を保存する必要性自体が無く,加えてやはり気候的な条件が有る所為だろうけど,熟成させてハムに至る技術までは発展しなかったのだろうか.
ところでここにもう一つ疑問が残る.
那覇市の鰹節・削り節の年間購入金額全国一(昆布の消費量でも全国一)
(1) 鰹節だし
沖縄が全国一の消費地であるのは、江戸の初期から外国船により長崎港・平戸港を発して南方もしくは中国(明・清)へ輸出される鰹節の中継港であったのと、薩摩藩が領内産の鰹節の中国向け輸出基地としたことにより、沖縄の食文化に根付く要因となっています。(中略)
(3) 昆布だし
海上交通が盛んになった江戸時代には、北前船は山陰沖・関門海峡・瀬戸内海を経由して、直接商業の中心地である「天下の台所」大阪まで運ばれるようになります。(西回り航路)その後こんぶロードは、江戸・九州・沖縄・中国(清)へと伸びていきました。沖縄は、鹿児島と中国との貿易の中継地として、重要な役割を果たしました。こんぶロードが伸びて新しい土地に昆布がもたらされると、そこにだしとしてだけでなく、独自の昆布食文化生まれました。大阪では醤油で煮た佃煮ができました。沖縄ではブタや野菜と炒めたり、煮こんだりして食べられるようになりました。
一方、関東地方は昆布ロードの到達が遅かったため、全国的に見ても昆布の消費量が少ない地域となっています。こんぶロードが日本の食文化に影響を与えていることが分かります。
http://www.ninben.co.jp/004katuo/08dashi/index.html
とあるよーに(昆布の方はついでだが),現在の沖縄でも鰹節の消費が盛んであるが,実は「カビ付け」による鰹節製造は日本では沖縄が最古であるらしい.
この「カビ付け」による熟成は実はハムと共通する技法なのだが,問題は何故沖縄の「スーチカー」が他の地域に見られる様な,単なる塩蔵以上の発展をしなかったのかということだ.