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2013-01-17

「18 大炭砿王」 (『満州の陰謀者 河野大作の運命的な足あと』(1961年、平野零児、自由国民社)より)

[#4字下げ]大炭砿王[#「大炭砿王」は中見出し]


 昭和九年五月、全満の炭砿を統合したいわゆる国策会社満州炭砿株式会社が創立され、初代理事長には満鉄理事だった十河信二が就任した。満鉄理事を兼任したが、三カ月で満鉄理事の任期が満了したので、河本がその後任になった。
 資本金は千六百万円だが、そのうちの千三百万円は砿山とその設備が現物出資の評価だから、運用する現金の出資額はわずかに三百万円に過ぎなかった。
 本社の社屋も新京南広場の一隅にあって、民間の商社の二階借りという有様で、技術者も事務員も、撫順炭砿から拾い集めた者、それに民間から新らしく募集した、いずれも経験のない者を充当した。
 定款を見ると堂々とした国策会社だが、まことに貧弱なものであった。
 そこで河本は満州国側の炭砿を順々に買収し、北票、阜新、鶴崗、密山(明治絋業経営)等を包合し、初めて全満の石炭砿業の統合ができた。
 技術陣も、明治砿業から窪内、林秀寛、撫順から平石、前島、坂口らの専門技術者を入れて強化し、資本金も昭和十一年には一挙に八千万円に、さらに同十五年には三億円と増資し、出炭量も創立当時は年四、五十万トンだったのを一千八百万トンまで躍進させた。従業員も日満人職員数九千余名、労務者十二万に達した。当時としてはまさに東洋一の大炭砿会社となった。
 河本の最も得意時代がきた。一陸軍大佐で予備役に入ったが、今は大炭砿王となった。かつては満州大陸の王を夢み、ハンニバルの伝記に心を躍らせた英雄主義は、幾分満足することができた。張作霖事件で、彼自身、救国の英雄となったことをひそかに自負もしていたが、今は剣を棄てて、豊富な大陸の資源を掘る建設者として君臨するようになったのは、いっそう満足なことであった。けれども永い間の軍人生活は軍服は脱いでも、日本陸軍とは離れられない彼であった。かつての同期生や、後輩の多くは将官となり、同志は陸軍の要略についていた。
 五・一五、二・二六等の事件を経て、国内には革新の空気が起り、国内の世論は大陸進出に同調するようになった。時潮は、彼や同志の描いた方向に向ってきた。けれども安心はできなかった。陸軍部内の旧同志らの中心勢力は、なおいっそう固めて置く必要があると思った。その暗躍のためには、かつて河本自身が、その陰謀活動のために、資金の入手にいろいろと苦労した覚えがある。
 河本は今度は自分が進んで、彼らの活動の兵站を引受けることを、ひそかに任ずるようになった。大尽大陸経営のために軍備を整えるための、軍事産業の基礎である石炭の増産は急務だと考えた。だが、最初に、満州炭砿株式会社の持っている現金が三百万円とあっては、何ともしようがなかった。
 炭砿を二つずつ買収し、その設備を整えて行くだけにも多数の資金が必要であった。そのためには増資するより外はなかった。国内からの資金を流入せねばならない。
 しかし、満州国の最初の出発に際して、石原らは、日本の旧財閥には、締め出しを食わしたので、日本の旧財閥は、満州への投資を嫌っていた。
 ことに「張作霖を殺した大佐」としか見ていない財界人は、一予備大佐の炭砿経営などは片腹痛いことだ、と冷やかに見ていた。
 最初の五百万円の増資が、ただちにその反映を露骨に浴びた。東京へ乗り込み、日比谷の「ひいらぎ屋旅館」に泊り込んだ満炭理事長河本大作は、けっきょく五里霧中であった。 そこで彼は神戸に行った。そこから九州高岡達也に電報を打った。高岡九州帝大医科の教授で、医学博士、河本の妹婿永井家の緑につながっていた。
 博多産婦人科医院を経営していたが、その他に多くの事業や投機に広く手を出していた。昔蔡鍔の喉頭結核を治すため、日本に送った時は、高岡にいっさいを依鎖したこともある。遊興の方でもよい相手であった。参謀時代には大陸の情報を与えて、高岡投機を助けたこともしばしばであった。
「俺は、石炭のことはウンと勉強した。俺を兵隊上りだと馬鹿にしている奴らもあるようだが、ソンな奴らよりも、この俺の方が今では数倍も玄人だ。だが何といっても金だ。金には相当苦労もしたが、今度の金は、そんな生やさしいものじゃない。黒木親慶の金魂(セミヨノフの運動資金、荒木大将らの兵站をつとめた男)くらいじゃ間に合わない。どうしたって一流銀行から社債を引受けさせねばならぬが。さっぱりこれには手がかりがない。貴公は大分この方面には顔が広いから何とかならぬか。将来は何倍の大会社になることは眼に見えているんだ。一肌脱いでくれないか」
 河本は神戸の常盤花壇の一室で、高岡に金策を申し出た。
「さア、僕も一流銀行には取引がないし、そんな大金は僕の力ではできそうもないが、ひとつ当って見ましよう」
 高岡とは同郷の友人に、元内務官吏で、県知事で辞め、神戸市長から実業界に入った黒瀬一郎があった。河本も高岡を通じて、黒瀬とは満鉄理事時代、内地へ来ると共に遊び、ゴルフをやったりする仲だった。
 黒瀬はそれを聞くと、黒瀬の親しい大阪野村銀行の重役横山某に持ち込んだ。野村は関西では有数の証券会社を持ち大銀行家でもあった。
 横田の斡旋で、案外すらすらと話が進み、野村銀行が、単独でまず三百万円の社債に応じた。
 河本は大手を振って帰満した。一時は苦力の行金支払にも苦しんだ会社は、これでまず窮地を脱した。続いて今度は一千万円の社債募集を試みた。
 野村銀行が単独で、満炭の社債に応じたという消息は財界の心を動かしていた。野村が中心となって、住友、三井、三菱、安田の五銀行を引受銀行にする、興業銀行がまとめているシンジケ―ト団に働きかけた。
 興銀のシンジケート団は主として、従来は満鉄の社債を引受けていたが、満鉄の保証ならばというので、初めて満炭の社債をも引受けることになった。
 河本はシンジケート団代表を集めて、興銀の一室に、社債募集の説明に当った。
 大佐の炭砿社長、張作霖暗殺者が、背広のショウシャな姿で、爽やかな弁を揮うのに意外の感じを与えたのが、非常に効果的だった。その夜は柳橋の柳光亭で、銀行団代表者を満炭側が招いて宴を設けた。ただし、満鉄社債の利子は六分二厘だったが、満炭には六分五厘をとるという差別はされていた。
 満炭は河本の独裁あった。相当のワンマン理事長であった。けれども一方に人心の収纜《しゅうらん》も巧みであった。博覧強記が物をいった。重役の理事の専門的な知識に圧倒されないような勉強をしていたので、一同を心服させることに成功した。
 昼は理事長室に座っていたが、夜は新京の料理屋で毎晩過した。奉天や、大連へ出張するときは、必らず形影相伴うように、寵妓が別の車に乗っていた。旗亭では小唄か、長唄を唄い続けるか、麻雀卓を囲んで深更におよんだ。
 束京では、下谷の梶田屋、京都では松園などが、ひそかなかくれ場所で、祇園の名妓の一人を手に入れていた。
 梶田屋に出入する長唄師匠に杵屋五郎という男がいた。河本はこの師匠を満炭の嘱託にした。後に河本が中国の山西産業会社々長となった時も、改めて会社の嘱託にした。
 五郎嘱託は、一等車で国民服を着てしばしば新京本社に出張した。嘱託の仕事は理事長に長唄を教えることであった。
 浪人河本を最初に満鉄理事に推したのは、本庄将単と荒木大将と妻の親類の磯谷廉介将軍であった。河本はその恩を忘れなかった。増資の交渉に上京するたびに、挨拶することを忘れなかった。
 最初の社債に応じてくれた野村銀行の松田、斡旋した黒瀬一郎、高岡達也らへの報恩のために、河本は会社の職員、工員の住宅請負会社をつくらせもした。
 昭徳興業株式会社が創立され、横田を社長に、黒瀬、鳥岡が専務であった。満炭が資金を貸し社宅を建て、会社は昭徳興業にその家賃を支払ったから、何の苦もない会社であった。その他に、満炭の石炭の一部を日本内地に輸入する独占権も昭徳興業に持たせた。
 満州太郎から、アラビア太郎となった現在の山下太郎は、満鉄の社宅請負をつとにやっていたが、河本が満炭理事長となると、いち早く、同様の利権を河本から掴んでいた。
 社宅請負のうまい汁を吸わせてもらった男に、もう一人橋元組があった。橋元文言も山下と共に早くから満鉄と結んでいた。橋元は、日露戦争直後に満州に渡り土木請負をやり、営口付近で遼河の護岸工事で味をしめた男であった。
 厳寒の遼河の河岸に泥土を積んで置き、河水をかけるとたちまちに岸には凍てついた鉄のような土堤ができたんだから笑いがとまらないと自慢話にする男であった。剣道師範で、武徳会の役員だったので、陸軍の将軍の家庭に出入し、武徳会長を将軍連の中から常に退役大将を引張り込んで顔を利かせていた。河本の妻久子の姉婿の本郷房太郎大将を武徳会長に推した関係で、河本とは本郷の家で早くから知り合っていた。
 外にゴルフ友達に出光興産出光佐三があった。出光も陸軍の将官に早くから取り入り、河本とは高岡を通じて知った。西陣の川鳥甚兵衛とは祗園の遊びを通じての粋友であった。
 河本は川島の錦織のじゅうたん[#「じゅうたん」に傍点]やカーテンを、満州皇帝となった溥儀の宮殿に納入させた。
 直接河本と親近するドルの人間は、まだこのくらいの者に過ぎなかった。大炭砿王を自負しても、既成財閥が、要路の大官と結んでいる堅陣とは比較にはならなかった。
 利権を与えて、そのリベートを懐に納めるという芸当は河本にはできなかった。取り入ることのうまい、山下太郎や橋元文吉らは河本の性格をよく知っていた。
 河本が東京に出て来るということを知ると、駅の出迎え、見送りには万障を排して、駅に現われるのは、山下、橋元であった。満炭の東京支社の社員よりも早くその動静を掴んでいた。東京の定宿にしていた山王ホテルには、河本の自動車が到着する以前に、匂いの高い西洋蘭の生花がカットグラスの花瓶に挿されて、花屋をして飾らしめてある。築地辺りの高級料亭に、綺麗どころを昼の宴に侍らせ用意かしてあるといった調子であった。
 彼らが満州へ行く時は、一足先に下関のフグ料理が氷詰めにして、私宅に飛行使で送り届けられる。河本の御機嫌はこれだけで十分に取り結ばれることを知っている彼らであった。
 ところが資木本金八千万円の満炭の独裁者の誇りが、曇らされて来るようなことが起った。重なるファッショの嵐に、政党政治が影をひそめたので、いち早く変貌した政友会の惑星久原房之助は、軍部の一部と結び、新官僚群と通じて新らしい勢力を築いて行った。しかし久原の経済基盤である「日産」が蹉跌《さてつ》し、久原自身は準禁治産になった。それを巧みに同族の鮎川義介に渡したが、依然日産には久原がその奥座敷に座り込んでいた。そして日産は鮎川のもとに満州の重工業を独占して、日産の頽勢を盛り返そうとした。いずれも血縁のつながりを持つ者とスクラムを組み、満州へは新官僚岸信介や、星野直樹などを送り込み、経済学者の吉野信次などとコンビを結んだ。
 まだ張学良勢力を一掃し、臨時自治政権を立てた頃、関東軍参謀として画策していた頃の石原参謀の鼻息はまったく荒かった。
 満州が、完全に日本の勢力に移ったと見ると、日本内地の財界、政治家の一部の者は、軍服さえ着てていれば、関東軍にコネがつけられるかも知れぬと、予て飼い殺しにしたり、捨て扶持を与えていたような、旧軍人の将官級を、石原のところへ訪問させるものが多かった。石原はまだ大佐になったばかりだから、ベタ金の肩章をつけてさえ行けば、古い軍服の色はあせていても、一目は置かせるだろうと思っていたが、そんな手合いは、片端から門前払いを喰わせたり、或る時には物欲しそうな古将軍を、立向から、からかい、ひどい時は痛烈にやっつけなどした。
「亡者みたいな奴が、閣下面をして何たるざまだ。全く喪家の犬だね」
 悄然と東拓ビルにあった関東軍の部屋を出て行く後姿を見ながら、筆者に感慨を洩らしこともあった。
 一方既成財閥を締め出すと力んだ石原莞爾の独壇上と見られた、関東軍の中にも、石原の反ソ論と反米の鈴本貞一中将が対立し、東条が陸相になると、陸班中央部も、荒木派に拮抗して、寺内、杉山らが対立した。そして長州軍閥と、長州財閥の久原は、満州国に送り込んだ新官僚、星野、岸、吉野らと策応して、鮎川の日産をそのまま満州に持ち込み、「満州重工業株式会社」を創設することに成功した。
 長州閥は明治維新の風雲に乗って、旧藩時代毛利藩の軽輩であった下級武士の山県有朋を始め幾多の者が、明治から大正時代へは、長の陸軍の名をほしいままにしたばかりでなく、山県は政界の大御所として永く君臨し、軍、政両面に大きな勢力の根を張ったが、その申し子の一人である田中義一と結んだ。怪物久原房之助は、大正、昭和へかけで、覆面で或はその正体をむき出しにして、一時は久原財閥を形成していたが、日産の蹉跌で、政界、財界を退いても、久原は一族の鮎川義介等を表に立てて、三井三菱を凌ぐ勢力を保持して、既成財閥が、昭和維新を唱える革新軍部によってひっ息したのを好機として、久原はそれにとってかわろうとするためにはあらゆる手段を借しまなかった。そのためには、共産主義を心から れ憎む、日本の上層階級のなかにあっても、久原は大胆に、ソ連とさえ結ぶことを辞しなかった。革新軍部にも金を撒いた。狡兎三屈という言葉がある。狡い兎は常に抜け穴を三つ持っている。天下がどっちに転んでも、どれか時の勢いを得たものと通じる穴を持つように、予め周到な手を打つのであった。久原はそれをやった。
 日産が非運に逢った後は、革新勢力のファッショ的満州進出をやったのに、逸早く渡りをつけた久原は、満州の開発などという地道な道よりも、先ず日産自動車工業をここに移し、当時は内地で得られぬ外資を、主としてアメリカから得ることを最初にはねらった。次には無限の地下資源を包蔵する砿鉱山である。そして最初の間は、河本の君臨する満州の石炭などは物の数でなかった。ところが、永年の張軍閥の下にあった東北の鉱山の開発は、一朝一夕には久原のねらうように、安々と巨利を獲るように経営はできなかった、
 満州で、実物をともかく堀り出しているのは、満炭の石炭だけである。
 久原はこれに眼をつけないではいなかった。満州重工業株式会社をデッチ上げ、東北に乗り込み、鮎川を総裁として送り込んだ時には、鮎川は満炭に対しては一切手をつけぬようなことをいった。だが何といっても、お山の大将を自任した河本にとっては、大きな脅威であった。鮎川の満炭のもとには、当然満炭はその傘下に入らねばならないからであった。
 負けん気の河本も、組織の上ではこれを認めないわけには行かなかったが、河本はこれを冷然と迎えた。けれども、河本は満重の理事で、満炭の理事長となったが、鮎川は満重の理事長である以上、その風下に立たねばならなかった。
 倨傲に構えていても役者は鮎川の方が一枚方上であった。
 密山炭砿分離問題が持ち出された。これは満炭にとっては外堀を埋められたような、大阪城落城の第一歩と同じであった。河本は荒木大将らを後楯てに反対したが、久原一派の老獪《ろうかい》には勝目がなかった。密山炭砿は満炭の所有する炭砿の中でも、最も良質な粘結炭を掘っていた。粘結炭は製鉄には欠くことのできない石炭であった。
 非常時の掛声に、軍備を整えるために、軍器を製造する八幡製鉄所は、密山の粘結炭にかねてから目星をつけていた。
 密山炭砿は満炭から分離して、八幡製鉄所の経営に移すことになった。河本の必死の防戦は破れた。そこで河本はその買収交渉で、頑張るより外はなかった。
 買収の交渉が始まった。しかしその折衝の陣営にも、満炭側と八幡側とには格段の相違があった。
 買収側の代表者は、八幡製鉄社長平生釟三郎で、日本財界の本山日本倶楽部を牛耳っている大御所である。その下に、具体的な折衝に当る者に、吉野信次があり、渋沢の御曹子渋沢秀雄があり、日本商工会議所会頭、台湾製糖会社々長藤山愛一郎という、いずれも財界のベテラン揃いであった。
 これに対して満炭は、河本の下に長井祖平、土橋、笠井などという、内地の大会社では課長級がせいぜいという顔触れで相対したのだから、歯が立たなかった。
 密山譲渡問題は、相当永い間、新聞の経済面なども賑わせたが、けっきょくは河本側の敗北となり、密山炭砿はやすやすと奪われてしまった。外濠は完全に埋められたわけである。
 鮎川は静かに時期を待っていた。昭和十五年十月、河本理事長の任期が二回目を終った時、株主総会は鮎川の策謀で、理事の改選で完全に河本を閉め出してしまった。
 或日、突然関東軍参謀長から、河本に逢いたいといってきた。
 満炭の重役理事達は、この会見が容易な問題でないことを察して、河本の帰ってくるのを待っていた。そこへやがて帰ってきた河本は、理事達を一室に集めた。固唾《かたず》を呑んで、河本の顔から何かを読みとろうとする一同は、シンとしていた。
「僕は、辞表を出すことにしました」
 とただ一言を吐いた。
 理事達は半ば予期していたが、騒然とした。河本自身も、河本のため、満炭経営に協力した理事達も、同本の満州での地位は動かし難いものだと信じていた。殊に関東軍は河本にとっては、古巣である。張作霖に一撃を加えて一時は責を負ったが、今日の満州のもとをひらいたのは河本だ。現在の参謀長はもとより、関東軍司令官にしても、河本とは軍部としても、個人的にも先輩である。その関東軍が河本に一本でも指をさせる筈はないと自負していた。それだけに、一同の忿懣は強かった。
関東軍が、理事長に辞職を強制するんですか」
 理事達はいきまいた。
「いや、関東軍が強要したのではない。内地の政府から、満州国に満重へ、満炭の合併を許したから、僕が辞職するより外はあるまいというんだ」
「それでは、関東軍から異議を申込ませれば好いのではありませんか」
 理事達も、河本の盟友石原が関東軍参課長を追われ、関東軍の中堅軍人には、河本の先輩的存在を煙たいとは感じているものも少なくないのを知っていたが、矢張り関東軍に尻押させたらとの気持があった。
「僕が関東軍に、そんなことを頼み込むようなことは、絶対に僕は好まない」
 満州国行政の実権を握っているものも、殆ど内地の新官僚といわれた、鮎川、久原の閥と相通ずる者であった。
 関東軍でも内地の中央部でも、石原らの勢力は昔日のものではなくなっていた。
 河本は大連の南山々麓に退いた。二度目の浪人となった。
 満州大陸経営は、この俺ならではとの自負が破れた。悶々の情絶え難いものがあったが、もう時は流れていた。
 初めて家庭の人に帰った。星ケ浦のゴルフと、夜は料亭湖月に老妓を呼んで小唄を唄った。そしてその正月は、珍らしく老妻を連れて九州別府に遊んだ。
 別府から帰連すると、妹婿の多田駿から電報がきた。多田は当時北支派遣司令官をしていた。

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