Hatena::ブログ(Diary)

さだまさとの日記

2015-10-15

ももいろクローバーZの男祭について

03:23 | ももいろクローバーZの男祭についてを含むブックマーク

ももクロこと、ももいろクローバーZ太宰府市大宰府政庁跡で行う男性限定ライブについて、市民団体から苦情が出て、市長が名称変更等を求める事態になっています。(参照http://digital.asahi.com/articles/ASHBF51RBHBFTIPE01W.html?_requesturl=articles%2FASHBF51RBHBFTIPE01W.html&rm=381

こうした女性権利団体の申し入れが報道された場合に良くあるように、インターネット上では市民団体へのバッシングも行われているようです。モノノフ(ももクロファン)のヒステリックな反応が残念なので、ももクロファンの一人として、分かる限りの経緯と見解を書いておきたいと思います。

経緯

太宰府天満宮からライブ開催の依頼

ももクロ侍というサイトの記事(http://momoclozamurai.xxxblog.jp/archives/37553355.html)で明らかなように、太宰府天満宮宮司ももクロの運営は、ももクロを結婚式に出席させるくらい親密な関係だったようです。そして、太宰府天満宮より、ライブの開催がもちかけられたようです。

昨年、大宰府天満宮側から「ももクロを通じて歴史を知ってほしい」と開催の打診を受け(…後略…)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151013-00000128-spnannex-ent

太宰府市から誘致を受けた、というような情報も見られましたが、ももクロ運営と懇意だった太宰府天満宮から依頼を受けたということのようです。

実行委員会の結成

ももクロの男祭の会場である大宰府政庁跡でライブを行うためには、大義名分と市の関与が必要となるようです。そのため、九州国立博物館開館10周年、水城築造1350年記念といった大義名分で、市、九州国立博物館太宰府天満宮などによる実行委員会を7月に結成しました。

市によると、特別史跡でイベントを開催する場合、大義名分と市の関与が必要となるが、史跡の使用料は原則無料という。「大義名分」として今回は九州国立博物館開館10周年、水城築造1350年記念などの冠がついている。

http://digital.asahi.com/articles/ASHBF51RBHBFTIPE01W.html?_requesturl=articles%2FASHBF51RBHBFTIPE01W.html&rm=381

コンサートは太宰府天満宮、九博、市などでつくる実行委が計画。

http://digital.asahi.com/articles/ASHBB4Q81HBBTIPE00J.html?_requesturl=articles/ASHBB4Q81HBBTIPE00J.html&rm=331

市が関与し、市が実行委員として企画に関わっている以上、単なる私的なイベントということはあり得ないでしょう。また、これは推測ですが、市が管理している国の史跡をイベントで使う場合、営利目的でのイベントを禁止するような内規が存在するかもしれません。

議員協議会は非公開であった。出席議員らによると、当初7千円の予定だったチケットが最終的に8500円になったことについて、ある議員は「入場料がかなり高額。営利目的ではないか」とただした。

http://digital.asahi.com/articles/ASHBF51RBHBFTIPE01W.html?_requesturl=articles%2FASHBF51RBHBFTIPE01W.html&rm=381

議員から営利目的でないかと追及されたのは、営利目的のイベントを行わないという取り決めがあるからだと推測することができます。

いずれにせよ、実質的にはスターダストプロモーションの企画運営だったのでしょうが、大宰府政庁跡をライブ会場とするために、建前上は市が実行委員会に名を連ねて計画に関わっていることにしたのでしょう。

ももクロ運営が市の要求を拒否?

建前上は市も計画に関わっていることになっていましたが、実際には市はライブの内容を把握していなかったようです。8月に入ってようやく、男性限定のイベントだと知ったようです(http://www.news24.jp/articles/2015/10/14/07312197.htmlhttp://digital.asahi.com/articles/ASHBB4Q81HBBTIPE00J.html?_requesturl=articles/ASHBB4Q81HBBTIPE00J.html&rm=331)。九州国立博物館開館10周年、水城築造1350年記念といった大義名分では、女性を排除することを正当化できないため、市もしくは太宰府天満宮是正を申し入れたようです。しかし、ももクロ運営に拒否されます(同上)。

ただし、ももクロ運営側は、話し合いで決めたという認識のようです(https://twitter.com/teusisu/status/653873786194755584)。これも推測になりますが、「太宰府天満宮にある実行委事務局の担当者」(http://digital.asahi.com/articles/ASHBF51RBHBFTIPE01W.html?_requesturl=articles%2FASHBF51RBHBFTIPE01W.html&rm=381)という記述が朝日新聞の記事中にあることから、実行委員の実務は太宰府天満宮が担当し、太宰府天満宮ももクロ運営の話し合いの中では男性限定イベントであることが確認されていたのでしょう。

市民団体が苦情申し立て

市が計画に参与しているイベントで、女性を排除する男性限定イベントを行うとは何事だ、と市民団体が苦情を申し立て、市長が実行委員会に改善を要求することになりました(http://www.news24.jp/articles/2015/10/14/07312197.htmlhttp://digital.asahi.com/articles/ASHBF51RBHBFTIPE01W.html?_requesturl=articles%2FASHBF51RBHBFTIPE01W.html&rm=381)。

男性限定イベントは差別か?

女性限定イベントも行っているから差別ではないという主張について

そもそも男性限定イベントは差別ではない、むしろももクロ女性限定イベントも行っているのだから平等だ、という主張を見かけます。女性限定イベントと男性限定イベントが対になっているのだから、一方的な排除ではないというのです。

しかし、今回の市民団体批判は、男性限定イベント自体を問題視しているわけではありません。大宰府政庁跡でイベント開催するためには、九州国立博物館開館10周年、水城築造1350年記念という大義名分が必要でした。この大義名分から、女性を排除する理由を合理的に導き出すことはできません。合理的理由もなく女性を排除するイベントを、市が実行委員会に参与する形で行うことが問題なのです。ももクロ運営が、別の機会に女性限定のイベントを行っていようが、この問題に関係ありません。市が関与しているイベントが、合理的理由もなく女性を排除するものであった、ということが問題なのです。

都営地下鉄女性限定車両やすべての男性限定イベントも差別になるのか?

男性限定イベントに反対するなら、女性限定車両にも反対すべきだという極論も見かけました。しかし、多くの女性が痴漢と呼ばれる性犯罪の被害にあっているという事実を無視した極論に過ぎません。性犯罪から女性を守るために男性を排除するという合理的理由があります。

また、例えば「家事が苦手な男性のための料理教室」というような男性限定イベントを市が企画したとして、それが今回のように問題になるとは言えないでしょう。「女性の前では料理をしにくい人が、男性限定の料理教室でのびのびと学べる」というのはそれなりに説得的な理由になるからです。

映画のレディースデー差別だ!という主張について

同様に、一私企業のイベントで、女性優遇の施策を行うことは問題ないでしょう。ただし、普段から優遇されている側が、さらに優遇されるような施策は、「差別を強化する」と批判されても仕方ありません。現実の力関係が考慮に入れられなければなりません。

どうすればいいのか?

市民団体

市民団体側の主張に瑕疵は見当たりません。市が関与する九州国立博物館開館10周年、水城築造1350年記念のイベントで女性を排除するならば、批判をするのは当然です。「ももクロ女性限定ライブもやっているし、男性限定ライブをしたっていいじゃないか!」と言ってもは、「市や博物館と無関係のイベントで、男性限定ライブをやってください。市が女性を排除するのが問題です、民間の私的イベントととして行うなら、別にどうぞ」と言われておしまいです。

ライブ運営

市が求めるように(http://www.news24.jp/articles/2015/10/14/07312197.htmlhttp://digital.asahi.com/articles/ASHBF51RBHBFTIPE01W.html?_requesturl=articles%2FASHBF51RBHBFTIPE01W.html&rm=381)、名称の変更(冠の削除?)と女性も買えるチケットの販売を行うよりほかないのではないでしょうか。

チケットの応募は締め切られて抽選になったが、まだ入金されていない分が2500枚ほどあるという。

http://digital.asahi.com/articles/ASHBF51RBHBFTIPE01W.html?_requesturl=articles%2FASHBF51RBHBFTIPE01W.html&rm=381

この2500枚のチケットは、女性も購入可ということで改めて販売すべきだと思います。これが現実的な落としどころではないでしょうか。ももクロのメンバーが悲しい思いをしないような対応を、運営に期待したいです。

pochipochi 2015/10/15 12:42 結論が納得できない展開のままです。
ライブコンセプトの変更に伴う労力は、あと二週間しかない現時点では、なかなか捻出できるものではないことが想像できます。
トイレ問題や、警備等々考えるべきことは、ありそうで、簡単に「女性も入れて上げれば?」なんてことは簡単には言えないでしょう。
苦情を言っている団体も、コンサート自体に問題は無いことを認識しているんだから、スタダ運営とで解決すべき問題はありませんよ。
責任とするなら、許認可した担当者か、市長が負うべきものと受け取ってます。
だから市長もあわてて「なんとか運営側に変えて欲しい」だけでしょ。保身でしかないニュースですね。

774774 2015/10/15 15:26 野外で警備が行き届かないという理由はダメなんですか?
おそらく、トイレも数足りないと思うから、仮設で準備してとかしなきゃだと思うし、仮設で男女兼用だと盗撮とかの被害だって出るかもしれない
男だと小の方なら、ちょっと隠れて空きペットボトルになんて芸当もできる

キャパ、トイレの手配、警備、総合的に判断してのことだと思いますけど。

774774 2015/10/15 15:34 太宰府市のHP見たら、文化・芸術関連の講座に「女子力アップ」とかの講座があったんだけど、これはOKなの?
女性限定と明記はしてないけど、名称が問題なら、こっちも変えないとダメじゃないの?

sadamasatosadamasato 2015/10/16 19:13 >>pochiさん
コメントありがとうございます。pochiさんのおっしゃるような理由で、コンサートの変更は行われないようですね。
私も、一番責任が重いのは、市だと思います。実行委員会に名を連ねておきながら、きちんと指導もできず、こういう事態を招いてしまった。8月に男性限定だと気付いたというのも遅いですが(おそらくその前から企画書などの書類は上がっていたでしょうし)、せめてその時点で的確な指導を行い、男性限定ということをやめさせるべきだったのでしょう。

>>774さん
コメントありがとうございます。
>文化・芸術関連の講座に「女子力アップ」とかの講座があったんだけど、これはOKなの?
この質問は、私個人の意見を聞いているのか、市民団体はこの講座にも抗議すべきという意見なのか、どちらでしょうか。
太宰府市の女性センターが女性向けの講座を行うこと自体は、それほど問題ではないと思いますので、市民団体もことさら問題にしないのではないかと思います。九州国立博物館開館10周年のイベントが「女子力アップ講座」だったら、抗議もあっただろうと推測しますが。
ただ個人的には、「女子力」という言葉はあまりいい言葉だと思っていないので、女性センターの講座でも使わない方がいいとは思います。

通りすがり通りすがり 2015/10/17 03:40 まあ、結論見たけどはっきり言えば市か民間かというようなものはあんまり関係はないと思われますよ。

たとえば、外国人お断りの話ですが小樽市の公共の温泉の話と浜松市の私人がやってる宝石店の件がありますがどちらも判例はアウトです。
同じ行為でもどちらでも同じ判断になるため必ず民間だからと言って通じるというのはありません。
(ついでに、この二つの判例は迷惑行為や犯罪防止という合理的理由がなかったわけではないこともつけておく)

また、行政といっても民間と同じような行為をするというケースは存在するわけであり、行政の行為自体も
民事なのか公的なケースなのかは非常にあいまいなものです。
場所提供そのものは民事行為と同じような面が強いので、簡単に市だからと割り切れるケースではありません。

この二点から、市と民間で二元的に分ける理由は必ずしもないといえます。(判例もそこまで公的か私的化で明確に分けるべきかもかいているわけではありませんので。)

ついでに、ちょっと調べると女性限定イベントなんて言うのはほかのところでもやっているようですよ。
そういったところも件の団体が文句をつけていればいいのですが、そんなものをやっていないだろうと考えられるのも今回の問題が紛糾されるケースだと考えられます。
解決は男性も女性も認めるか認めないか。 どちらかに行かない限り解決はつかないと思いますね。

あとはおまけですが、女性専用車両は実態を知れば知るほどいろいろな原理原則に反しているダメな代物です。
詳しいことは多すぎるため書きませんが、目的が正しければ手段を問わないを地でいってますから。
(合理性があっても、何してもいいわけではないですから)

通りすがり通りすがり 2015/10/17 03:59 あと、言い忘れましたがここで問うのは僕は市が男性限定でも女性限定でも認めるか認めないかって点が重要だと思いますね。
どっちかだけならまあまずいでしょうけど、どっちもいいとかならそれはそれで問題ないという結論も出せると思いますよ。

本来一番に比べるところはここの点だと思うのですが、どうもそこはかの市民団体やほかの人にもほぼなかったようですね。

pochipochi 2015/10/17 09:42 さださん、こんにちは。
回答ありがとうございます。
現場は一応の決着が着いたようで安心ですが、どうしても、さださんの結論が「"やめさせる"、って、そこか?」という感がぬぐえないんで、もう一回来ました。
ぶっちゃけ、「男祭」は演出のひとつで、ご存じの通り、ももクロライブシリーズのひとつです。
これを開催すること自体に問題は無いでしょう。件の団体もみとめていること。
大宰府政庁跡を使う上で、市の実行委員会ができたのでしょうが、その時点で、実行委員会の仕事として、市の条例の確認や、関係各所との根回しを行うべきだった。
課題は、男祭が可能かどうか。
それを怠っていたのでしょ。
どうやら回答としては、複数年に渡るライフ開催であることが、バレてしまったわけで、サプライズ失敗は残念ですが、その辺の根回し先に、苦情団体と、市長も仲間に入れて上げて下さい。というところかな。
団体が知った経緯は不明ですが、まさか関係席に入れないから。なんて落ちは無いことを祈ってます。

2013-10-02

Gl17さんへ

23:47 | Gl17さんへを含むブックマーク

ブログなんて書く余裕がないほど生活が逼迫して、三年以上日記を放置し、たまにブックマークをつけるだけだったのですが、どうしても書く必要があると感じたので、日記を書きます。

id:Gl17さんのブックマーク

諸外国の言うことは全てプロパガンダだ!だから史実なぞ無視、というプロパガンダ。無論それを進めた先は全世界を敵に回す閉塞しか無く、日本国内の(まともな)歴史学すらどうやっても敵。行着く先は北朝鮮の鏡像。

http://b.hatena.ne.jp/Gl17/20131002#bookmark-163749206

についてです。

この「北朝鮮の鏡像」とは、どのような意味なのでしょうか。諸外国の言い分をすべてプロパガンダと主張するプロパガンダだらけで、八木秀次氏のような歴史修正主義を徹底し、歴史学を敵視し、全世界を敵に回す国家が「北朝鮮*1であり、日本もやがて「北朝鮮」の鏡像のような国家になる、という意味でしょうか。

私は、上のような発言は、「北朝鮮」を悪魔化し、朝鮮学校無償化から排除するような理屈と通じ合うものだと思っています。日本の極右勢力を「行き着く先は北朝鮮」と評する時、「北朝鮮」が悪の全体主義国家であることは当然のように前提されています。「北朝鮮」を悪魔化し、それに関わるものを悪しきものとする日本の空気こそが、朝鮮学校無償化排除などのもろもろの差別的行為を支えている以上、この前提を肯定することができません。

日本が「北朝鮮」の鏡像になるのではなく、むしろ日本の鏡像として「北朝鮮」のイメージが作られているのではないでしょうか。右翼にせよ、リベラルにせよ、自らが思う日本の悪い部分を凝縮させたものとして北朝鮮をイメージする。右翼は「左翼の理想は北朝鮮」と言い、リベラルも「右翼の行き着く先は北朝鮮」と言う。どちらも、敵の悪い部分(と信じている点)を北朝鮮と名指し、蔑称として用いる。その「北朝鮮」という言葉に実体はなく、単に相手の主張をグロテスクにしたものとしてのイメージがあるだけ。空気のような「北朝鮮差別には、暗澹とした気持ちになります。

私は、ブックマークのお気に入りにGl17さんを入れています。基本的にその言動を好ましく思っています。だからこそ、極右勢力を揶揄する言葉として「北朝鮮」を使ってほしくないのです。「北朝鮮」の単純な悪魔化をやめてほしい、という私の希望を分かっていただけるでしょうか。

*1:以下、すべて「」付きで「北朝鮮」と表記します。実体の伴わない表象としての「北朝鮮」を意味し、朝鮮民主主義人民共和国とは異なる表象のことです。

Gl17Gl17 2013/10/03 01:52 冷静なツッコミありがとうございました、確かに概ね仰る通り、安直でした。

ただ、北が相当に酷い体制に陥っている点は是認できないし、それを国民や、まして戦前朝鮮の籍である無関係の在日朝鮮籍と関係付けたがる層がいるのは別の問題とも思います。

在日と北を同列視するような層は、韓国・北朝鮮という準戦争状態の両国も区別しないとか、東側の中国と西側の韓国もセット扱いのケースが多いですよね。
民主党右派から社民共産から在日から河野談話から中共から北朝鮮まで、右手首から左方向を全て「サヨク」で括る連中。
彼等に向け「右派こそ北の政治志向に類似的」と突き返すのは、リベラルと統制志向という「差異」の指摘で、つまり何でも十把一絡げにするなという表明でもあります。

あと一応、「右派こそ統制主義で北朝鮮的」と彼等へ向けることは、彼等が「問答無用の悪」として北を悪魔化することに対する非難でもあるという感覚もあるんだけど。
お前らと同じ志向を持っているものが果たして悪魔なのか?という意味で。
今回の用法はそういうカウンター用法ではないので、言い逃れ効きませんがね。

aikoku_senseiaikoku_sensei 2013/10/04 17:29 id:Gl17 はデマばかり書くどうしようもない人間ですからね。あいつの暴言には本当に参ってます。

2010-09-05

東浩紀氏のポストモダン・哲学史理解について

| 17:03 | 東浩紀氏のポストモダン・哲学史理解についてを含むブックマーク

忙しさにかまけて、日記をかなり放置していたのですが、「どの口がそれを……PartII(追記あり)」(http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20100903/p1)というエントリに付けたブックマーク

「東氏が「カンニングは許せん」と言えても、「カンニングツイッターで告白するのはおかしい」と言うのは自己矛盾になるということ。ポモ系リベラルとは、まことにハードな立場ですなぁ…。」(http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20100903/p1

に関する補足をここで書いておきます。

ポストモダンについて

同じ記事のブックマーク内でid:y_arimさんが、

ポストモダニストが責任を問うなど笑止千万、ということか。『逆境ナイン』に曰く「それはそれ‼ これはこれ‼」とのことだが……

と書かれたように、ポストモダンは責任を問うことができないという意味で、私はブックマークコメントを書いたつもりはありません。

id:Fondriestさんが

「本来」ポストモダン相対主義や無責任と同一視できるようなものではない。これは東の個人的資質に過ぎないのでは。そんな区分けを認めないのがポストモダンだとしても。

と指摘されているように、私もポストモダン自体が相対主義とか無責任であるとは考えません。しかし東氏は相対主義的で無責任な言動をしながら、それをポストモダンの立場のせいにしているので、揶揄を込めて「ポモ系リベラルとは、まことにハードな立場ですなぁ…」と書いたのです。

東氏がポストモダン相対主義的なものと理解しているらしいことは、孫引きですが、『リアルのゆくえ』で、

東 たとえば、なぜ歴史の問題すら解釈次第という立場なのかと言われたら、それはぼくがポストモダニストだからです。ぼくにしてみれば、高橋哲哉氏が靖国問題であんなにポジティヴな話をしてしまえることに違和感がある。だからそれは、ある種の知的訓練の中でそういうポジションを取らざるを得なくなってしまったということでもある。

 

大塚 その話を聞いてしまったら、ポストモダンっていうのは、何もかもから距離を取れて、すごく楽な思想だっていう話になっちゃうよね。

 

東 楽と言えば楽ですが、楽じゃないと言えば楽じゃない……(苦笑)。

http://watashinim.exblog.jp/8879908/

と発言していたり、

デリダを通ってしまうと、歴史的真実とか言えなくなる

言うということはデリダを裏切る

左翼とかポストモダニストが言っていたことはそういうこと

という文脈で話をしていたのだが、本では南京の部分だけが残された

それがネットにコピペ

ばーっと批判

様々な見方、無限の寛容を認める

テロリストを認めるということに近い

そういうことを言っている人間が、

右翼とか保守主義に対しては、ほとんど愚直に対して真理だと言う

これは非常に難しい問題

従軍慰安婦は、軍の命令なんかはなかったんじゃないか

南京大虐殺は、あっただろうけど規模は小さかったんじゃないか

全ては解釈ゲーム

http://d.hatena.ne.jp/nitar/20081114#p1

という講義での発言から伺えます。

おそらく東氏は、デリダ脱構築という立場を、「あらゆる言説は真理ではなく単なる解釈に過ぎず、すべての言説は解釈ゲームに過ぎないフラットなものである」というような立場であると理解しているのではないでしょうか。

何のための脱構築

しかし、デリダは間違いなく「ホロコースト否定論者に発言の場を与えるべき」とか「すべては解釈ゲームなので、ホロコーストはなかったという言説もあり得る」などとは決して述べないでしょう。高橋哲哉は『デリダ』の用語解説の中で、形而上学的言説が二項対立を作り出し、ある一方の項を上位に置く形而上学的思考について、

脱構築的言説は、こうした広義の形而上学的思考を支配している諸概念の階層秩序的二項対立を解体し、現実の力関係を変形すべく介入する。

高橋哲哉デリダ』、「現代思想冒険者たち」28巻、1998年、310頁)

としています。例えば形而上学的思考は、男/女の二項対立を作り出し、男性が優位なものとし女性を抑圧する暴力的な言説を形成してしまう。この二項対立を解体し、形而上学的言説の暴力を暴露するのが脱構築の目的となります。

しかし、東氏にとって現状は、「インターネット等によりすべてがフラットになった世界」なので、脱構築における力関係の暴露と変形という目的はなくなり、脱構築はただ単にすべてを相対化するものになってしまいました。デリダにとって国家の戦争犯罪の否認は他者への暴力的な力関係を温存し強化するものであり批判の対象ですが、東氏にとってはすべてがフラットなので力関係は目に入らず許容すべき言説になるというわけです。

私は、ポストモダンとは、近代形而上学の暴力を暴露し、力関係を解体していく営みであると理解しています。それ故、ポストモダンの目的をオミットし、現実にあふれている暴力的な力関係を無視して相対主義的な立場を強弁する東氏を、本来のポストモダンとは違うという意味で「ポモ系」という言葉遣いをしてみたのですが、分かりにくかったかも知れません。

そもそも哲学史をちゃんと理解しているのか?

私は、東氏はポストモダン哲学史の理解が怪しいのではないかという疑念がぬぐえません。

そもそも大陸系の哲学の一部はとうの昔に科学ではなく文学になっている

 

強力に科学志向の論理実証主義(のち英米系の分析哲学)と、強力に文学志向のハイデガーに分化するところから20世紀の哲学は始まった。

 

したがって、「科学と文学」「論理と詩」に分化してしまった20世紀の哲学を今後どうするべきか、というのはきわめて重要な問題です

http://togetter.com/li/41085

こういった「科学と文学」、「論理と詩」という二項対立をたてることが、そもそもポストモダン的ではありません。ハイデガー哲学を「科学と文学」という二項対立でくくることを決して許容しなかっただろうし、デリダも自分の哲学が「科学ではない文学だ」と考えなかっただろうと思います。東氏がハイデガーを読んでいないだろうということは、

たとえばフランスだとわかりにくいのでドイツの例で行くと、フッサールの科学的誤謬を衝くのは意味があるけど、ハイデガーの誤謬は衝いても意味がない。あれはカルナップが同時代に正確に指摘したように科学よりも詩に近い言語だからです。

 

フッサールなんて、けっこうまじめに科学と哲学の統合を考えているのだけど、1920年代あたりにそのプログラムがどうも破綻する。それで開き直ったはてにハイデガーが出てくる。他方でウィトゲンシュタインも初期の論理実証主義を捨て、謎めいた日常言語分析に足を踏み入れる。

http://togetter.com/li/41085

という発言からはっきり分かります。ハイデガーをきちんと読めば、科学用語を哲学メタファーに用いること自体に反対しているのが分かりますから、そもそも「ハイデガーの科学的誤謬を衝く」ことができません。ハイデガーは科学的な哲学に反対しましたが、科学もそこから可能になるような知の営み全体を考察していたという点では、「開き直って詩の言語を使ったハイデガー」などという理解もあり得ません。ウィトゲンシュタインだって、確かに『論考』的な言語観は捨てましたが、「言語使用の探求を通して、形而上学的な病を治療する」という哲学理解は一貫していたように思えます。

ハイデガーデリダ哲学文学にした」という哲学史理解はどのような根拠に基づいているのか、ちょっと分かりかねます。

また、東氏のソクラテス理解もおかしなものです。

教育や大学の起源を考えるにあたって、ソクラテスという存在は外せません。でも彼はべつに弟子たちに哲学を教えてわけではない。金持ちが主催する飲み会へ参加しては、酒を飲んでツッコミを入れていただけです。彼自身に体系があったわけじゃない。でも彼がいると何となく議論が活発になる。そういう人だった。

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20100430/1272628761

普通ソクラテスと言うと、飲み会というよりも広場で議論しているイメージが強いのではないでしょうか。「町の広場で人々と問答を繰り返し、しかもそのことで人から金銭を受け取ることは一切しなかった」みたいな記述は哲学史の教科書で見かけますが、「金持ちが主催する飲み会へ参加しては、酒を飲んでツッコミを入れていた」みたいな記述にお目にかかったことがありません。『饗宴』では確かに宴会の中で議論していましたが、ほかのプラトンの対話篇で酒を飲みながら議論をしていたシーンがあったという記憶はありません。東氏は、どのような根拠で上のようなソクラテス像を描き出したのでしょうか?

 

私は、以上のように、東氏のポストモダン理解や哲学史理解はおかしいのじゃないかと考えています。しかし、東氏の理解の根拠となるようなテキストがあれば、どなたでも結構ですからご指摘いただければ幸いです。

いやっほういやっほう 2010/09/05 19:13 典型的な「ネットで調べた」ってやつですね。さすがにひどい(笑)。記事がね。

sadamasatosadamasato 2010/09/06 02:00 >いやっほうさん

ひどいと仰るのなら、具体的に論拠を挙げて下さい。デリダや哲学を詳しくご存知のようですから、是非とも浅学の私にご教示下さい。

私が知りたいのは、デリダが「全ては解釈で、歴史修正主義にも発言の場を与えるべきだ」と主張していると解釈できるような論拠、あるいは私が依拠している高橋哲哉のデリダ解釈が間違っているという論拠、ハイデガーやデリダにとって「哲学は詩・文学だ」と解釈できるような論拠、ソクラテスが金持ちの宴会で酒を飲みながらツッコミを入れていたと解釈できるような論拠です。

なお、大変申し訳ないのですが、以後、論拠にならないような「いやっほう」さんの書き込みがあった場合は、単なる荒らしと判断して削除しますので、よろしくお願いします。

FondriestFondriest 2010/09/09 08:27 はじめまして。IDコールをいただきましたFondriestと申します。私に分かる範囲でですがコメントさせていただきます。

まず、脱構築についてはsadamasatoさんと同じく、二項対立のみならず我々の認識、言語に潜む「暴力」を顕在化させる営みと理解しています。その根底には、ナイーブな相対主義とは異なり、ある不可能な「正義」が存在する。その「正義」とは簡単に言えば、他者への開け、有り得たかもしれない別のあり方の開示であり、さらにその他者への応答可能性としての責任が不可避のものとして立ち現れてくる、という事だと思います。

そうであるならば、歴史修正主義がそこから派生することは考えがたい事態です。にもかかわらず、東氏の歴史修正主義的傾向をポストモダンの帰結と捉えるようなブコメが散見されたため、あのコメントを書きました。

ポストモダニズムを、単に全てがフラットで等価値になった相対主義として把握することは、その敵対者による過度な単純化以外にはあり得ないと思います。そこでsadamasatoさんの

 >おそらく東氏は、デリダの脱構築という立場を、「あらゆる言説は真理ではなく単なる解釈に過ぎず、すべての言説は解釈ゲームに過ぎないフラットなものである」というような立場であると理解しているのではないでしょうか。

という解釈ですが、「すべては解釈ゲームである」ということと「フラット」の間に飛躍があるように感じます。少なくとも引用文中において東氏は「フラット」とは述べていないようですが、他で彼はそのような発言をしているのでしょうか。

私自身は、彼がそこで念頭においているのは、『存在論的、郵便的』における「否定神学システム」ではないかと思います。脱構築(ゲーデル的脱構築)の結果として唯一の大文字の他者を見出す「否定神学」は「単純な経験論へと回帰」(P104)するとされ、そこで、明らかに高橋氏らを指す政治的コミットメントのみならず後期のデリダの仕事からも距離をとると彼は書いています。そうであるならば、彼の立場が現実には単純な悪しき相対主義と区別できないとしても、それに到る理路は異なるのではないかと考えます。

次に哲学と文学を巡る東氏の哲学史理解についてですが、

 >たとえばフランスだとわかりにくいのでドイツの例で行くと、フッサールの科学的誤謬を衝くのは意味があるけど、ハイデガーの誤謬は衝いても意味がない。あれはカルナップが同時代に正確に指摘したように科学よりも詩に近い言語だからです。

sadamasatoさんの主張は、元々科学用語を使用しないハイデガーについて、「科学的誤謬」を指摘しても意味がないと述べる東氏はハイデガーを読んでいない、ということだと理解しましたが、ここでハイデガーの「誤謬」に「科学的」という形容詞を付加しなければならない必然性はないと思われます。カルナップのハイデガー批判は、論理的クラスの混同についてで、(自然)科学的な誤りを指摘したものではありませんので、ここは論理的誤謬を衝いても意味がないということだと解釈できます。いずれにせよ、この一文から東氏がハイデガーを読んでいないと判断することは拙速に過ぎるのではないでしょうか。

また、ハイデガーが「科学もそこから可能になるような知の営み全体を考察していた」 というのは彼のどのような仕事を念頭に置かれているのでしょうか。これはむしろフッサール的な超越論的基礎付けの試みのように思えますが。ハイデガーにとって科学技術は存在忘却のひとつの究極形であり、彼の存在論から科学が可能になるとは言い難いと思います。

さらにハイデガーの独特の文体、用語を、哲学的というより「文学的」と形容することは、肯定的であれ、否定的であれさほど珍しいこととは思えません。特に「転回」以降、ヘルダーリンへの沈潜、伝統的な哲学の専門用語ではなく日常用語を彼独自の仕方で解釈して使用するスタイル、詩作と思索の一致の追求等、新たな哲学言語を生み出したという点において、それを詩的言語に擬えることは的外れではないと考えます。

デリダについても、『フランス哲学・思想辞典』(弘文堂)から引用しますと、

 >70年代のデリダは、いわば最も「文学」に接近した面があり、そこから、脱構築は哲学を文学に解消するものだと言う(ハーバーマスに見られるような)誤解も生じた。(高橋哲哉)

とありますように『弔鐘』、『絵葉書』のような実験的テキストを「文学」として捉えることは、東氏に特有なことではありません。

ただソクラテスについては、東氏の描写の根拠は私にも分かりません。ソフィストと混同しているかのように見えますが、まあトリヴィアルな問題ではないでしょうか。

私自身は、東氏の問題は彼の哲学的議論の欠陥にあるのではなく、彼自身がそれを裏切ってしまっていることにあるのではないかと考えています。

以上、長文で失礼しました。

sadamasatosadamasato 2010/10/02 21:44 id:Fondriestさん、一か月近くたって、ようやく書き込みに気付きました。ちょっと時期遅れかもしれませんが、今更ながらお返事します。

まず、「すべてが解釈ゲームでフラット」という話ですが、解釈ゲーム=フラットとはならないのは当然で、これは私の書き方が悪かったです。解釈ゲームだとしても、このゲームの暴力的な権力関係を暴露する方向に進む可能性は脱構築にあるでしょう。

私の東氏に対する理解では、脱構築の結果、あらゆる言説が解体され、結局個々の経験や実感にだけしか依拠できない、故に各人の経験や実感はすべてフラットであるということになります。それ故東氏は、南京事件否定論に場所を与えるべきと主張するし、南京の虐殺記念館に行って「南京大虐殺に実感がわかない」というような批判をしたりするのでだろうと考えます。

ハイデガーについてですが、東氏の一連のツイートを読めば、ソーカルとの絡みでハイデガーが出てきているのは明らかですから、ここで科学的誤謬と言っているのは、ソーカル的な科学用語の濫用という文脈であることは明らかです。カルナップが詩的言語だと指摘していて、文学の科学用語の濫用を批判しても仕方がないという文脈です。そもそも、自身の哲学に科学用語を取り入れることに慎重だったハイデガーがこの文脈で出てくるのは、ちょっとでも彼の著作を読めば有り得ないことだと思います。

ハイデガーと科学ですが、『存在と時間』を読めば、基礎存在論を、科学論や人間学を含む領域存在論がそこから可能になるようなものとして構想していたことは明らかです。科学的知が立脚している存在理解をも解き明かすものとして、彼の基礎存在論があります。また、『現象学の根本諸問題』や『論理学』講義を読めば、論理実証主義や分析哲学がいかに生じるのかを、アリストテレスなどまで遡って論じています。フッサールの基礎づけ主義とは異なる形で、科学的知・命題論理的知を包括するロゴスを明らかにすることを目指していたと言えます。

また、後期ハイデガーの存在忘却としての科学ですが、これも単に否定されるべきものとしてあるわけではありません。存在の自己離去に基づく形而上学の命運として、科学的知も引き受けるべきものとしてあります。科学的知が成立する場所を、存在の自己覆蔵性に基づく形而上学の歴史の解明を通して明らかにすることが重要な課題でした。科学的知は否定されるべきものではなく、それが可能になる場所を問うことがハイデガーにとって大きな問題だったということです。

文学と哲学ですが、Fondriestさんが引用している高橋哲哉の言葉の通り、文学に解消したという「誤解」でしかないので、それが一般的な哲学史理解だと言い張られるのは問題だろうという話です。論理実証主義などの立場から見れば、詩や文学に見えるという話で、厳密で科学的な言語使用か文学かという二項対立は、かなり特殊な哲学史理解ではないでしょうか。「ハイデガーやデリダは、同時代の言語分析哲学やマルクス主義の哲学者たちから、詩や文学でしかないと批判された」という哲学史理解ならば一般的とも言えましょうが、「20世紀以降、哲学は科学と文学に分裂した」という哲学史理解は一般的でないでしょう。

以上のような理由から、やはり私は、東氏のポストモダン・哲学史理解自体がどうにも納得しかねるわけです。

FondriestFondriest 2010/10/12 07:20 ご返事ありがとうございます。

まず最初の論点ですが、結局のところ問題なのは、「全てが解釈ゲーム」から個々の実感や経験がすべてフラットなものとして立ち上がってくるかということになるかと思います。たとえ「真理」というカテゴリーが脱構築されたとしても、それが即あらゆる経験を平等に取り扱わなければならないということに繋がることにはならないでしょう。東氏がそのような解釈に傾くに当たっては、前のコメントでも触れましたが、後期デリダのアポリアとしての脱構築不可能な「正義」という概念を彼が受け入れないことにあるのではないかと推測します。結果として、皮肉なことに彼自身が「否定神学」として批判する素朴な経験論へと東氏自身が回帰している用に見えます。

東氏がハイデガーを読んだかという点についてですが、
  >ハイデガーについてですが、東氏の一連のツイートを読めば、ソーカルとの絡みでハイデガーが出てきているのは明らかですから、ここで科学的誤謬と言っているのは、ソーカル的な科学用語の濫用という文脈であることは明らかです。

sadamasatoさんは指摘しておられませんが、その文脈で言うならフッサールが出てくることもおかしいということになります。なぜならフッサールも自身の哲学に科学用語を取り入れることはしておりません。すると東氏はフッサールも読んだことがないとお考えでしょうか。

正直に言って、大学に入学したばかりの学生に向かってならともかく、南京大虐殺ではなく彼のフィールドである哲学において、彼が基本文献を読んでいないというのは考え難いと思います。原則的に批判対象には最大限のcharityをもって解釈するべきです。Twitterのような制限のあるメディアならばなおさらそれが必要でしょう。その上で彼の考えを斟酌するのであれば次の様になると考えます。

まず、フッサールもハイデガーも共に著作において一部のポストモダニストが行ったような科学用語の濫用、誤用は行っていないという事は前提として置いた上で、仮定として彼らに対して科学的誤謬の指摘がなされたと考えれば、それはフッサールにとっては有効であるかも知れないがハイデガーに対しては無意味である。なぜならカルナップが行ったような論理学的カテゴリーに基づく批判ですら詩的言語の性質を持つハイデガーの言説に対しては不毛であるからだ。

つまり、ハイデガーに対する論理学的批判の不毛さとパラレルに、ソーカルらによる科学用語の誤用という批判も無効であると彼は判断していることになります。この対置の適切さについては議論の余地があります。例えば、詩的表現として非論理的な文を書くことは、科学の信頼性に寄生する形で科学用語を濫用することと同じではありません。しかしながら、論理が科学の根底にあることを考えるならば全くの見当違いという訳でもないでしょう。論理的批判を無効にできるようなタイプの言説であれば、科学的な誤謬の指摘はそれ自体としては正当なものだとしてもトリビアルなものに留まるでしょう。

いずれにせよ、「読んでいないだろう」と判断する前に別の解釈の可能性を熟慮することが必要ではないでしょうか。そうでなければ単なる藁人形叩きに堕する危険性があります。

次に、ハイデガーにおける科学の位置づけですが、sadamasatoさんが書かれていることは私も考えてみましたが、「〇〇もそこから可能になるような知の営み全体を考察していた」という表現では、普通空欄には肯定的価値を与えられた内容が入るのが普通ではないでしょうか。例えば、
「マルクスは真に平等な社会の実現もそこから可能になるような知の営み全体を考察していた」
とあればおかしくありませんが、
「マルクスは労働者の困窮化もそこから可能になるような知の営み全体を考察していた」
とあれば、論理的には矛盾しませんが(困窮化をもたらすような社会構造を探求したという意味で)、例え、労働者の困窮化が革命の条件であるとしても違和感を感じます。

科学という知のあり方がただ単に否定されるべきものではなく、『科学的知が成立する場所を、存在の自己覆蔵性に基づく形而上学の歴史の解明を通して明らかにすることが重要な課題でした』としても、ハイデガーの目標はやはり「本来的」な存在理解の回復であり、科学自体にそれと同様の価値が与えられているわけではありません。そうでなければ彼の晩年のペシミズムはどう説明されるのでしょうか。ですから、ハイデガーにおいて科学にもっと肯定的価値を与えている記述があるのかと疑問に思ったため、質問させていただきました。

そういう訳でsadamasatoさんが述べられた意味での科学の位置づけから、なぜ『「開き直って詩の言語を使ったハイデガー」などという理解もあり得ません。 』と繋がるのか私には理解できません。

最後に文学と哲学の問題ですが、

 >文学と哲学ですが、Fondriestさんが引用している高橋哲哉の言葉の通り、文学に解消したという「誤解」でしかないので、それが一般的な哲学史理解だと言い張られるのは問題だろうという話です。

東氏も哲学が文学に解消するなどと主張しているのではなく、「文学」的哲学と「科学」的哲学という二つの方向性があることを述べているに過ぎません。そして高橋氏が「誤解」としているのは、文学に「解消」するという点であって、「文学」的であるという事ではありません。引用部の続きですが以下のようになっています。

『脱構築的経験における「文学テキスト」の範例性は明らかであるが、デリダは「哲学」のみならず「文学」の制度性をも問い直そうとしているのだから、彼のエクリチュールの散種的、彷徨的性格を「文学」と同一視することはできない。』

そもそもデリダ自身次のように述べています。

『脱―構築はきわめて控えめであると同時にきわめて野心的でもある、と言うことができます。野心的だというのは自分自身を文学テキストと同等に置くからであり、また控え目だというのは自分自身が諸々のテクスト解釈の一つでしかないことを認めるからです。』「脱構築と他者」

「文学」や「詩」であることを分析哲学からの批判として否定的にしか見ないsadamasatoさんの理解の方が特異であるように見えます。そのように「哲学」と「文学」の間に強固な境界線を引くこと自体がポストモダン的ではないのではないでしょうか。

sadamasatosadamasato 2010/10/15 20:28 id:Fondriestさん、書き込みありがとうございます。一々IDコールをするのも煩わしく感じるかと思いましたが、一応お返事のお知らせをと思いIDコールさせていただきます。

東氏が考える意味での大文字の他者としての正義を受け入れないとしても、もし「郵便的」が否定神学への抵抗であるならば、「歴史的真実なんてない」などという相対主義への抵抗としても機能してもよさそうな気もするのですが、どうなのでしょうか。「歴史的真実などない」という立場をとってしまった瞬間、現在の経験や実感が特権化される「単純な経験論に回帰」することになってしまいますから。鶏が先か卵が先かみたいな議論になってしまいますが、正義を受け入れなかった結果相対主義に陥ったというよりは、初めから相対主義的であったというほうがしっくり来ます。

基本的には、私が東氏の哲学的素養を低く見積もり過ぎているということになるでしょう。特にtwitterは140字の制限があるメディアなのだから、言葉足らずなところをこちらが好意的に補うべきだというのも確かに一つの見識です。とは言え、「ハイデガーの科学的誤謬」を論理的誤謬と読み替えて、しかもそれを「論理的クラスの混同を衝いても仕方がない」と解釈した上で、カルナップが行ったような批判は無意味だから科学的誤謬を衝くのも無意味だ、と理解するのはちょっとアクロバティックにすぎるような気がします。カルナップの名前が出てきたのは、彼がハイデガーを「詩的言語で書かれている」と評したという文脈で出ていて、カルナップが論理的クラスの混同を批判したという文脈でもありませんし、ハイデガーの「解釈学的ロゴス」の内部に入って、「論理的クラス」とは別の意味でそのロゴスの不徹底なり破綻なりを「論理的に批判する」ことは意味があるでしょう。

哲学は科学と文学に分化したというのが東氏の説で、私はハイデガーは「科学的知とその根源を明らかにする存在史的思惟」を目指していたので別に分化しているわけではないと主張しているわけです。科学自体に高い価値を見出しているか否かは関係ありません。そもそも、中世にだってアリストテレス-スコラ的な論理的な哲学と、新プラトン主義-神秘主義的な哲学の二つの系譜があり、科学と文学の分化が今更起きたというのもどうなのでしょうか?

私が、東氏が「ハイデガーは詩だ」と断ずることに違和感を覚えるのは、彼が「哲学は文学で、比喩として使っているんだから、科学用語の濫用だと言われても」という文脈だからです。ハイデガーの哲学は、思索(含む科学的知)と詩作の両方にまたがる言葉の問題を扱っていましたから、ハイデガーを詩的であるとい評することは可能でしょう。しかしハイデガーの哲学自体は、独特な造語で分かりにくいにせよ、厳密に言語を使っていますから、「比喩だから大目に見て」というものでは全くありません。ハイデガーやデリダに文学「的」とか詩「的」であるという側面はあるのは事実でしょう。しかし、彼らの哲学を「文学だ」と断じたのは東氏で、いやそれは違うだろうという単純な話です。

FondriestFondriest 2010/10/25 04:24 IDコールは気にならないので問題ありません。ただ早いリプライを期待されているのであれば、遅筆のためご希望には添えないと思いますので、申し訳ありませんが気長にお待ちください。

>鶏が先か卵が先かみたいな議論になってしまいますが、正義を受け入れなかった結果相対主義に陥ったというよりは、初めから相対主義的であったというほうがしっくり来ます。

鶏か卵かのような循環に陥ることは避けられませんが、「初めから相対主義的」だから相対主義に陥ったというのは、実は何も説明していないのと同じです。悪人だから悪をなしたと考えるより、善人でもあるに関わらず悪をなした考えるほうが思想的に「面白い」問題ではないでしょうか。

>基本的には、私が東氏の哲学的素養を低く見積もり過ぎているということになるでしょう。特にtwitterは140字の制限があるメディアなのだから、言葉足らずなところをこちらが好意的に補うべきだというのも確かに一つの見識です。とは言え、「ハイデガーの科学的誤謬」を論理的誤謬と読み替えて、しかもそれを「論理的クラスの混同を衝いても仕方がない」と解釈した上で、カルナップが行ったような批判は無意味だから科学的誤謬を衝くのも無意味だ、と理解するのはちょっとアクロバティックにすぎるような気がします。カルナップの名前が出てきたのは、彼がハイデガーを「詩的言語で書かれている」と評したという文脈で出ていて、カルナップが論理的クラスの混同を批判したという文脈でもありませんし、

 「アクロバット」というより「器械体操」程度ではないかと思いますがそれはさておき、これは東氏が誤解を招く表現をしているのですが、私の記憶に間違いがなければ、カルナップはハイデガーのテキストを肯定的に「詩」であると述べたのではなく、「詩」なら許されるかも知れないが哲学としては無意味だ、ということで一種の皮肉だったと思います。ハイデガーとカルナップとくれば後者による形式論理学的見地からのハイデガー批判というのは、分析哲学と現象学に関心を持つ者にとっては常識に属することです。ですからそこで論理的誤謬が問題になっているということは容易く予見できます。
 そしてたとえ「アクロバティック」だとしても、この解釈には大きな利点があります。それは東氏が「ハイデガーを読んでいない」という仮定が不要になることです。そのような主張はただ単に彼の哲学的素養を過小評価することに留まらず、専門領域に関わる基本的文献に目を通すことない人物でも、アカデミズムにおいて哲学者として通用するということをも含意するということを自覚されているでしょうか。東氏がハイデガーを読まずに、しかもハイデガーが著作で科学的概念を哲学的に使用しているという全くの誤解をもってこれまで論文、著作(そもそも『存在論的、郵便的』には多くのハイデガーからの引用、言及があるのですが、どうやってハイデガーのテキストを読まずにそれが可能なのでしょうか)を発表し、それに他の学者も全く気づかなかったなどということがあり得るとは思えません。sadamasatoさんが学生もしくは教員としてアカデミズム内部に居られるのでしたら、それが可能か自問されてみるべきですし、そうでないなら専門性を尊重するべきです。
 そもそも東氏が批判される原因のひとつは、彼が歴史学の研究を全く無視した上で素人の「実感」に基づき歴史修正主義的発言をしたことでした。歴史事実関係の議論以前の問題として、専門性の無視が修正主義者の特徴であることはつとに指摘されています。それだけに東氏を批判するにおいて、同様の専門性の無視は特に慎むべきです。

 >ハイデガーの「解釈学的ロゴス」の内部に入って、「論理的クラス」とは別の意味でそのロゴスの不徹底なり破綻なりを「論理的に批判する」ことは意味があるでしょう。

それは勿論そのとおりなのですが、カルナップはそもそも「解釈学的ロゴス」を批判しているのでありません。拙訳ですが、
『カルナップの批判は、思われているより専門的で根本的なものである。まず彼は、問題となっている(ハイデガーの)文が感覚与件によって確証されえないということを非難しているのではないし、中心的な問題は、その文が奇妙な新語を用いていることでも、通常の用法に反していることでもない。主要な問題はむしろ無(Nichts)の概念の論理形式が侵されていることにある。ハイデガーはこの概念を、名詞としてだけではなく動詞としても用いているが、現代の論理学によればそれはその両者のどちらでもないのである。』(Michael Friedman, Carnap, Cassirer, Heidegger. Geteilte Wege. Frankfurt 2004, S. 25)
すなわちカルナップの批判が無効であるのは、記号論理学による外からの批判は不毛であるという意味で、ハイデガーにはあらゆる論理的な批判が不可能、もしくは無意味だというわけではありません。

 >哲学は科学と文学に分化したというのが東氏の説で、私はハイデガーは「科学的知とその根源を明らかにする存在史的思惟」を目指していたので別に分化しているわけではないと主張しているわけです。科学自体に高い価値を見出しているか否かは関係ありません。

いいえ、それは端的に無理です。
『明らかにここにおいてハイデガーとカルナップは興味深い仕方で一致しているのである。ハイデガーが展開しようと試みているような「形而上学的」思考は、論理学と自然科学の権威と優越性をあらかじめ失墜させた上においてのみ可能なのである。そのような失墜を強力に支持するハイデガーとは異なり、カルナップは是が非でもそれを押し留めようと決意しているのだ。』(ibid, S. 26)
つまりsadamasatoさんはハイデガーの存在論の議論自体が、形式論理学と自然科学的方法を拒絶することで成立していることを無視しています。そのような拒絶の上で理解され位置づけられた「科学」をもって「分化しているわけではない」と主張することは不可能です。

 >そもそも、中世にだってアリストテレス-スコラ的な論理的な哲学と、新プラトン主義-神秘主義的な哲学の二つの系譜があり、科学と文学の分化が今更起きたというのもどうなのでしょうか?

東氏もその分化が20世紀になってはじめて起きたとは述べておりません。科学の飛躍的な発達によってそれが先鋭化したとも言えるでしょう。それよりそもそもその二つの系譜があることを認められているのであれば、なぜsadamasatoさんが、東氏の哲学の科学と文学という二方向への分化という哲学史理解に執拗に反対されるのか分かりません。

 >私が、東氏が「ハイデガーは詩だ」と断ずることに違和感を覚えるのは、彼が「哲学は文学で、比喩として使っているんだから、科学用語の濫用だと言われても」という文脈だからです。ハイデガーの哲学は、思索(含む科学的知)と詩作の両方にまたがる言葉の問題を扱っていましたから、ハイデガーを詩的であるとい評することは可能でしょう。しかしハイデガーの哲学自体は、独特な造語で分かりにくいにせよ、厳密に言語を使っていますから、「比喩だから大目に見て」というものでは全くありません。ハイデガーやデリダに文学「的」とか詩「的」であるという側面はあるのは事実でしょう。しかし、彼らの哲学を「文学だ」と断じたのは東氏で、いやそれは違うだろうという単純な話です。

正直に言って、どんな意味で「単純な話」と言ってられるのか分かりかねるのですが、まさか、哲学は文学ではないと言いたかっただけだという意味ではありませんよね。もしそうならそれは下らない藁人形たたきに過ぎません。前のコメントにも書きましたが、東氏も、哲学が文学そのものになり解消するなどという主張はしていません。問題は東氏の、『「科学と文学」「論理と詩」に分化してしまった20世紀の哲学』という哲学史理解が妥当かどうかということで、sadamasatoさんはその分化を認めないという意見でしたが、少なくともデリダやハイデガーに「文学志向」である側面があるということは理解されたと思います。彼の哲学史理解の妥当性という問題については本来それで議論は終わりです。彼自身が言っているようにそれは「哲学史的にかなり一般的な理解」だと私も思います。
『我々は、カルナップと共に普遍的妥当性の理念としての形式論理学を保持し、それに従って数学的に精確な哲学に自らを限定するか、もしくはその結果として真の普遍的な妥当性という理念を諦めることになるが、ハイデガーと共に論理学と「精確な」思考から自らを切り離すことができる。もし私が誤っているのでなければ、これこそが20世紀に典型的な「分析的」と「大陸的」伝統の間の裂け目の根底にあるジレンマなのである。』(ibid. S161)

そして、ハイデガーやデリダが「文学志向」であるかないかという問題と、彼らの哲学を「文学」として科学から擁護できるかどうかは別の問題です。前者を否定すれば当然後者について論じる必要はなくなりますが、、そのつもりで彼らは「文学的」ではないと主張されてきたということでしょうか。
もしそうであれば、それは不要な悪手であったと言わざるを得ません。

以上、また長文で失礼しました。

sadamasatosadamasato 2010/10/31 16:59 id:Fondriestさん、丁寧なお返事どうもありがとうございます。

>「アクロバット」というより「器械体操」程度

器械体操でも、G難度くらいの読み方だとは思います(笑)。正直、常人には無理な読みというということで。

>そしてたとえ「アクロバティック」だとしても、この解釈には大きな利点があります。それは東氏が「ハイデガーを読んでいない」という仮定が不要になることです。そのような主張はただ単に彼の哲学的素養を過小評価することに留まらず、専門領域に関わる基本的文献に目を通すことない人物でも、アカデミズムにおいて哲学者として通用するということをも含意するということを自覚されているでしょうか。

この点については私はよく分からないので、逆に詳しそうなFondriestさんに質問しますが、東氏は、哲学のアカデミズムの内部で哲学者として評価されているのですか?浅田彰や柄谷行人といった批評家の系列に属していて、哲学のアカデミズムの内部で哲学者として評価されているというイメージではなかったのですが、いかがでしょうか。もちろん、哲学のアカデミズムで評価されるというのが具体的にどういうものかというのは難しいのですが、例えば哲学の学会や学会誌に呼ばれたり寄稿したりという感じでしょうか。

>つまりsadamasatoさんはハイデガーの存在論の議論自体が、形式論理学と自然科学的方法を拒絶することで成立していることを無視しています。

ハイデガーは、形式論理学と自然科学的方法で哲学を規定することはできないと考えていますが、それが科学と文学の分化を意味するわけではないというのが私の発言の趣旨です。何度も申し上げましたように、ハイデガーの構想した哲学は、形式論理学と自然科学的方法がどこから生じるのかを射程に収めたものです。形式論理や自然科学的方法を至上のものとする態度を採らないと、分化するということになるというFondriestさんの主張が理解できません。Fondriestさんが紹介している、デリダの「文学テキストに同等に置く」というデリダの「野心的」な試みは、科学と文学を分化させたうえで文学に身を置くという意味では全くないでしょう。自然科学的方法を採らなければ、科学と文学の分化を認めたことになるということになるのか、私にはまったく理解できません。

また、Michael Friedmanは読んだことがありませんが、彼もハイデガーの哲学をして「哲学は文学になった」と評しているのでしょうか?「分析的」と「大陸的」の伝統の違いは、「科学」と「文学」の違いだというのが彼の結論でしょうか?

「詩的である」ということ「文学的である」ということと、「科学と分化した文学志向」ということは全く違うと重ねて申しあげておきます。

FondriestFondriest 2010/11/15 03:32 >器械体操でも、G難度くらいの読み方だとは思います(笑)。正直、常人には無理な読みというということで。

確かに素人が準備も練習もなしにやれば、怪我をする位の難度でしょう。しかし前のコメントで述べたようにカルナップの批判は非常によく知られたものですから、精々「部活」程度と言ったところでしょうか。例えば、英語、独語版のWikiのハイデガーの項にも言及されております。「無理」だとおっしゃるのなら、カルナップの論文は言及されることが稀で専門家にしか知られていない、等の論拠を持ってお願いします。

>哲学のアカデミズムの内部で哲学者として評価されているのですか?浅田彰や柄谷行人といった批評家の系列に属していて、哲学のアカデミズムの内部で哲学者として評価されているというイメージではなかったのですが、いかがでしょうか

東氏は現在狭義の「哲学者」として活動しているわけではありませんが、教養学部科学哲学専攻で、Ph.Dを取得しています。博士論文は『存在論的、郵便的』で、審査者の一人は他ならぬ高橋哲哉氏です。ただ浅田氏にしろ柄谷氏にしろ狭義の哲学者ではなくとも、sadamasatoさんが想定しているようなハイデガーに関する誤解を見逃すとは考えられません。

 >ハイデガーは、形式論理学と自然科学的方法で哲学を規定することはできないと考えていますが、それが科学と文学の分化を意味するわけではないというのが私の発言の趣旨です。何度も申し上げましたように、ハイデガーの構想した哲学は、形式論理学と自然科学的方法がどこから生じるのかを射程に収めたものです。形式論理や自然科学的方法を至上のものとする態度を採らないと、分化するということになるというFondriestさんの主張が理解できません。

なぜsadamasatoさんがそれを理解できないかの理由は非常に簡単です。それはsadamasatoさんはハイデガーの観点からしか哲学を見ていないからです。当たり前のことですが、カルナップ、ノイラートらの論理実証主義者を始めとして、ハイデガーの存在論の前提である論理学と自然科学的方法の否定を認めない他の多くの哲学者の存在を考慮せずに哲学史を語ることはできません。ある意味でsadamasatoさんにはそもそも「哲学史」というものが全く視野に入っていなかったということです。
ハイデガーがいくら彼の存在論から論理学と科学についてその根拠を解明したところで、カルナップらにとってはそれは全て「無意味」です。彼らにとってはハイデガーは論理学と科学を無視した結果、言語による擬似問題に囚われているに過ぎません。
例えば、物理学ではよくアインシュタインらを否定する「トンデモ」さんがいますが、彼らはまず現代の科学における基礎概念、パラダイムを全否定した上で彼ら独自の「理論」を開陳します。その「理論」がどんなに「厳密な」概念規定をしようが、既存の科学的方法を否定した時点で物理学者からまともに取り扱われることはないのは当然のことです。それと同じことです。(念のためですがハイデガーがトンデモだと言っているのではありません。)
ハイデガー以前では、カッシーラーらの新カント派にしろフッサールの現象学にしろ科学的認識の根拠とその基礎付けが目標であり、科学的方法や論理学そのものを否定することはありませんでした。ですから東氏も「フッサールの科学的誤謬を衝くのは意味がある」と述べている訳です。

 >また、Michael Friedmanは読んだことがありませんが、彼もハイデガーの哲学をして「哲学は文学になった」と評しているのでしょうか?「分析的」と「大陸的」の伝統の違いは、「科学」と「文学」の違いだというのが彼の結論でしょうか?

Friedman自身は「文学」という表現を使ってはいなかったと思いますが、引用したように論理学の普遍的妥当性をめぐって両者の乖離が決定的になったと考えています。「大陸的」というのは地理的区分ですが、当然のことながら様々な潮流がその中には含まれます(そもそもカルナップらウィーン学派も「大陸的」です)。それらのスペクトルの両極を表現するものとして「科学」と「文学」という言葉を使うことは適切です。

>「詩的である」ということ「文学的である」ということと、「科学と分化した文学志向」ということは全く違うと重ねて申しあげておきます。

Entschlossenheitの表明はたいへんハイデガー的な実践だとは思いますが、ここではArgumentationをお願いします。

2009-10-10

普遍的人権と文化・補足

| 22:20 | 普遍的人権と文化・補足を含むブックマーク

tari-Gさんへの補足

前回の記事にid:tari-Gさんから、

sadamasatoさん。今回に限らず、これまでの姿勢から彼等の多くは人権の「普遍性」については懐疑的に考えていると理解しています。今回の引用文の限りでも岡真理自身がそのように見えますし。*1

というブクマコメントをもらいました。

id:font-daさんのブログで引用された文章を読んでも、岡真理さんが人権普遍性に懐疑的であるとは読めませんでした。もちろん、文化と普遍性を対立させるような思考が否定されるという意味では、カッコつきの「普遍性」は批判されることにはなります。岡さんは以下のように述べています。

〔ある種の西洋フェミニズムの主張は=引用者注〕西洋が他者を(被)抑圧的なものとして一方的に規定するという行為によってのみ担保されているのであり、そのような「普遍的」人権フェミニズム、これら当該社会の女性たちが与しないのはある意味で当然のことだろう。*2

ここでは人権普遍性が問題視されているのではなく、第三世界の女性たちに対して差別的な眼差しでもって「普遍的」人権を唱えることが問題視されているわけです。

あくまで、差別的な眼差しに基づく「普遍的」人権が批判されているということは、以下のように「西洋が主張するような」人権と強調されていることからもうかがえます。

西洋が主張するような人権普遍性に対して疑義を表明すると、「原理主義者」「狂信主義者」というレッテルを貼る。*3

もちろん、このような書き方をしたからといって、文化擁護の立場から女性器切除を擁護しているわけではありません。

私は、女性に対する他のあらゆる暴力と同様、性器手術を許し難い暴力であると考える。*4

と岡さんは述べ、更に、

繰り返し言おう。性器手術は批判されねばならない。性器手術の習慣を批判することがレイシズムなのではない。植民地主義的なのでもない。私たちがそれをいかに語るか、その批判のあり方が問われているのだ。*5

と繰り返しています。

暴力は許さないという普遍的立場から、女性器切除は批判されるべきです。しかし、「普遍的」人権vs文化という対立図式で批判することは、文化の中から女性の抵抗が可能になるということを見落とすような差別的な眼差しを持つということ、また第三世界に対する自らの経済搾取から目をそらすということから、問題視されるわけです。

文化と普遍的人権は対立しません。文化と普遍的人権を対立させるのは、ある文化を野蛮なものとして固定的に見る眼差に由来するものです。

ハリーフェ、アブーゼイド、クレイフィらが描いているのは、一女性の抵抗によって表明される、民族の文化にほかならないと言えるだろう。そこにおいて、「民族の文化」とは、普遍的人権とア・プリオリに、相互排除的に対立するものではなく、むしろ、普遍的人権そのものの実現ではないか。*6

岡さんは、人権普遍性に懐疑的ではありません。ただ、カッコつきの「普遍的」人権と文化を対立させる眼差しに潜むものに対して、批判的だということです。

andalusiaさんにお返事

id:andalusiaさんからトラックバックをいただき、

では、

「文化を尊重しながら、その文化の内部の運動を通して女性の身体保全という人権を可能にしていくということ、そのようなことが目指されるべきではないでしょうか。」

との主張についても簡単に触れておきます。

 

南アフリカのアパルトヘイトの廃絶には、内部の運動(ネルソン・マンデラ氏のような)があったのは事実ですが、外部からの圧力(経済制裁オリンピックへの参加拒否のような)も重要な役割を果たしたのは厳然たる事実でしょう。外部からの圧力がなければ、アパルトヘイトの廃絶は行われなかったか、もしくはもっと遅れていたであろうことは想像に難くありません。

 

現在も、毎日6,000人の少女に女性器切除が行われていると言われます。このような現状で、「経済制裁のような外部からの圧力」をかけるべきか、かけないべきか、という選択(トレードオフ)はやはりあるのであって、そこに目をつぶってはいけないと思います。

 

私は、それこそが「判断からの逃げ」であって、「自らの責任を隠ぺい」しているように思います。*7

との批判をいただきました。それに対してお答えします。

一言でいえば、経済制裁などを持ち出すことそれ自体が、アフリカ経済貧困に対する当事者意識の欠如であり、自らの責任を隠ぺいしているのはandalusiaさんだろうということです。ソマリアに対して経済制裁をすれば、女性器切除を根絶できると、本気でお考えなのでしょうか?

もちろん、女性器切除に反対することは大事です。私は、前回のエントリで、「女性器切除に対して反対の声を上げつつ、アフリカ経済格差搾取)を解消していくことによって、女性の教育や経済的自立が可能になることが大事ではないでしょうか」と書いた通り、女性器切除に反対すること、切除から逃れてきた女性を保護することを通して、切除を受けなくてもよいという選択肢を提示することは大事だと考えます。

しかし、搾取差別的な眼差しによって抵抗の声を消し去っておきながら、「経済制裁のような外部からの圧力」を持ち出すのは、無責任極まりない言明だと言わざるを得ません。自分たちが、アフリカの女性たちの抑圧に加担していることはきれいに忘れ去られています。

もちろん、あらゆる外部からの圧力を許さないと言っているわけではありません。女性の抵抗の声を潰そうとする内部の動きには、厳重に対処すべきでしょう。ですが、単純に外から圧力を加えることについての弊害は、

http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20090926%231253967001

人類学者の小田さんが述べている通りでしょう。内からの抵抗の声が強くなっている時に外から働きかけるのは、有効に働くだろうと考えます。外部からの圧力自体を否定しているわけではありません。しかし、内部からの抵抗が出にくいような構造に加担しながら、「経済制裁のような外部からの圧力」を云々するのは、明らかに順序が逆であり、顛倒した議論だと思います。

*1http://b.hatena.ne.jp/tari-G/20090925#bookmark-16255662

*2岡真理『彼女の「正しい」名前とは何か』、青土社、42頁。太字部分は原文では傍点。

*3:前掲書、43頁、太字部分は原文では傍点。

*4:前掲書、119頁

*5:前掲書、139頁、太字部分は原文では傍点

*6:前掲書、111頁、太字部分は原文では傍点

*7http://d.hatena.ne.jp/andalusia/20090925#c1254358865

andalusiaandalusia 2009/10/11 02:20 それを言い出したら、南アフリカに対して経済制裁をした国連安保理なんて、歴史的にアパルトヘイトの構造に荷担した国そのものですよ。
だからといって、あの時もし経済制裁をしていなければ、マンデラ氏は一生を孤島の収容所で終えたかもしれません。

こと現在のソマリアに関しては、経済制裁なんて無力でしょう。事実上無政府状態なのですから。ただ過去には「人道目的のPKF活動」が実施はされましたね。結果を知っている今では、「ソマリアでのPKFは抑圧だった。でも南アに対する経済制裁は国連の理念に沿っている!」と言えちゃうかもしれませんが、構図はそう変わらないのでは、と思います。

念のため再度繰り返しますが、私は経済制裁やPKFをやれと言っているわけではないのです。むしろ反対です。小田亮教授のブログをひいていますが、そこでは『積極的介入によって救われた女性のなかには「強い自立した個人」として都市や海外で成功する女性たちも出てくるでしょう』とはっきり書かれています。積極的介入をする・しない、ということのトレードオフをきちんと認識していて、その上で「しない」ということでしょう。「積極的介入を持ち出すことそれ自体が当事者意識の欠如で・・・」なんて小田亮教授は言いません。

というか、私には小田亮教授は基本的に「外部からの圧力自体を否定」しているようにしか読めないのですが、どこから「内からの抵抗の声が強くなっている時に外から働きかけるのは、有効に働くだろうと考えます。」なんて出てきたのでしょうか? sadamasato さんの独自の考えですか?

2009-09-24

普遍的人権と文化

| 08:36 | 普遍的人権と文化を含むブックマーク

ちょっと待って、「女性器切除」の話題! - キリンが逆立ちしたピアスというエントリのブックマークで、id:andalusiaさんからid:コールをいただきました。ブックマークの100字では収まらないので、ここにお返事を記すことにします。同様に、id:AmanoJackさんへのお返事もここに書きます。

身体の保全と民族の知識・文化および伝統的慣行の尊重

「どんな人間も、自らの身体を誰からも傷つけられない」というのは守られるべき基本的人権だと考えてよいでしょう。同様に、「民族の知識・文化および伝統的慣行の尊重」も、文化的アイデンティティーをもった人格の保護という点で、人権の尊重であると考えられます。では、女性器切除の場合は、andalushiaさんのおっしゃるように、身体の保全と文化的アイデンティティーの尊重という二つの人権の衝突と考えてよいでしょうか?私は衝突とは考えません。

まず、人権とは普遍的なものでなければなりません。ですから私は、

andalusiaさん、「人権を侵害する民族の知識・文化および伝統的慣行の尊重=人権の尊重」 ではないと思います。さもなければ人権は文化・社会に相対的なものになってしまい、普遍的な人権はありえないことになります 2009/09/24

http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/font-da/20090923/1253674546

と書きました。ある特定の文化・慣習には適用されない人権ならば、それは普遍的な人権とは呼べなくなります。このコメントに対してandalushiaさんから、

sadamasato さんへ、だからそれが人権人権の衝突なんじゃないの? 「自己の文化を享有する権利は、人権に含まれる」ということ自体をまさか否定はしないですよね?

http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/font-da/20090923/1253674546

とお返事をいただきました。andalushiaさんの言いたいことは分かります。人権を侵害する文化を否定することは、その文化に属する人の文化的アイデンティティーを傷つける行為ではないか、ということです。しかし、それはあまりにも伝統や文化を固定的に考えているために生じる二項対立ではないかと思います。元のエントリに張られているリンクhttp://d.hatena.ne.jp/gordias/20070625/1182738048に紹介されている映画などは、アフリカの伝統の内部から女性器切除に向き合ったものとして評価されているようです。伝統の内部から伝統を変えていく動きがありうるということを見落としてはなりません。そして、そのような伝統の内部から、伝統を越えて伝統を変革していくような運動を可能にするのが、普遍的な価値なのです。単に伝統に囚われているだけでは、伝統は変えられません。伝統の中にいながら、同時に普遍的なものにコミットメントしうるからこそ、伝統の内部から伝統を刷新していくことが可能になるのです。そしてこのような普遍的な価値を、我々は人権と呼んでいるわけです。

font-daさんのエントリに引用されている岡真理さんの文章は以下の通りです。

フェミニズムイスラーム」「普遍的人権主義 対 文化相対主義」といった粗雑で安直な二分法――二分法とはえてして粗雑で安直なものだが――による議論は、したがって、問題の本質を隠蔽するための中立性、客観性を装った装置にすぎない。そこでは、ムスリム女性であることとフェミニストであることが、あるいは自文化の伝統に主体的に参与することと、普遍的人権を信じそれを実践することが、あたかも相互に排他的で、両立不可能なものとして前提されている。

文化か、普遍的価値か、という二項対立を厳しく批判している文章です。そして、この二項対立を生みだしているのは、「野蛮な文化」を啓蒙してやろうという差別的な眼差しであると岡さんは主張しているのです。彼らは野蛮な文化だから、それを否定して啓蒙してやらなければ人権が守れないという差別的な思考が、「文化を守る」vs「文化を否定して人権を押し付ける」という二項対立を固定化してしまうのです。更に、野蛮な文化の連中に人権を啓発してやるという思考が、経済格差先進国による搾取の問題)に起因するアフリカの女性たちの様々な人権問題に関する自らの責任を回避しつつ、あたかも人権の守護者のような意識を生み出してしまうことも批判されるわけです。

「文化的アイデンティティーを守ること」と「身体の保全」という二つの人権が衝突するように考えることは、アフリカの野蛮な文化は内発的に女性の人権を守るように動いていかない、という前提を含んでしまってはいないでしょうか。文化を尊重しながら、その文化の内部の運動を通して女性の身体保全という人権を可能にしていくということ、そのようなことが目指されるべきではないでしょうか。そしてそのような運動にとって、普遍的人権という価値が大きなよりどころになるのではないでしょうか。

整形手術と女性器切除との間

font-daさんのエントリの冒頭には、女性器切除という語自体にも、差別性が含まれているのではないかという指摘があります。このno titleというページに書かれているように、「一人前の大人とみなされ、自分の生活を有利にしよう」と女性器切除を受けるのと、「美人とみなされ、自分の生活を有利にしよう」と整形手術を受けるのと、どれくらいの差があるのだろうかということです。片方では非常にグロテスクな呼び方で呼ばれ、もう片方では形を整えてよりきれいになるというニュアンスが与えらています。どちらも、自らの生活を有利にしようとする目的合理性に支えられている行動にもかかわらず。同じ目的合理性に支えられた行動でありながら、前者は野蛮な印象与える言葉が選ばれ、後者は野蛮でない印象を与える言葉が選ばれていることに対して、やはり差別的ではないかと異議が申し立てられているわけです。

しかし、日本での整形手術は人権侵害とされず、アフリカでの女性器切除は人権侵害とされます。この差はどこにあるのでしょうか。この差について答えることが、AmanoJackさんに答えることになります。

まず、日本での整形手術を考える場合、制度上は教育・就職など公的な活動において、その人の顔による差別を受けることはありません。しかし、アフリカでの女性器切除の場合(私の乏しい知識によれば)、女性器切除を受けていないことは差別の対象になります。日本でも女性差別がたくさんありますが(だからこそきれいになって男にもてるという選択がかなり有利な選択肢にもなる)、アフリカの方がより女性差別が激しく、十分な教育も受けられず、貧困に苦しむことになります。このような差別的状況の中では、女性器切除を受けて大人の女として結婚することがほとんど唯一の選択肢となります。このような構造が人権侵害的だと言えます。アフリカの女性にとっては、合理的な選択かもしれませんが、そのように強制する(あるいは内面化させる)差別的な権力が人権侵害となります。つまり女性の選択が人権侵害なのではなく(母親が娘の女性器を切除することが多いと聞きます)、そうさせる構造が人権侵害なのです。

私が、

AmanoJackさん、民主主義国家で、経済的に困窮せず、基本的人権が守られていて、十分な教育を受けて、合理的な判断が行われると思われる年齢に達してから自己責任で行う「包茎手術」と、女性器切除を一緒にするの?

ブクマコメント書いた時に力点があったのは「民主主義国家で、経済的に困窮せず、基本的人権が守られていて、十分な教育を受けて」という点です。これらに代表される基本的人権が保障されている時、女性器切除という選択肢は合理的なものではなくなります。あらゆる基本的人権が保障されて、その上で「非合理だけど伝統を守りたい」という理由で女性器切除を受けることを許すかどうかは議論が分かれそうな気がしますが、とりあえずは女性器切除に対して反対の声を上げつつ、アフリカ経済格差搾取)を解消していくことによって、女性の教育や経済的自立が可能になることが大事ではないでしょうか。

おまけ

というわけで、岡真理さんは(そしてたぶんid:font-daさんも)、普遍的な人権承認していると思います。普遍的人権承認しつつ、その適用に差別的な眼差しがありうること(人権vs野蛮な文化という構図)を告発しているのであって、id:tari-Gさんの、

tari-G ハテナ櫓, 6/6層目 今回改めて「人権の普遍的尊重」をハテサ達等がきちんと承認できていない事が明確に。だがこの「世界を観る上でのイロハのイ」が駄目ではどんな問題でもまともな答えが出る筈もない。やれやれ… 2009/09/25

http://b.hatena.ne.jp/tari-G/20090925#bookmark-16214506

というコメントは、明確な誤読であろうと思います。

font-dafont-da 2009/09/25 12:07 「岡真理子」さんではなく、「岡真理」さんです。訂正されましたら、このコメントは削除をお願いします。

sadamasatosadamasato 2009/09/25 12:32 ご指摘ありがとうございます。岡さんの名前を書いた二か所のうち、一か所の名前を間違えていました。さっそく、修正しました。

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