大正野球娘。

電車の行き帰りに軽く読める本を、と思って買ったのだが、失敗だった。しかも、長時間の移動用に三冊まとめ買いしてしまったので、ゲンナリも三倍に。

大正野球娘。 (トクマ・ノベルズedge)

大正野球娘。 (トクマ・ノベルズedge)

ブックマークのタグで「サブカル保守」という言葉を見かけたが、これはもう「サブカル保守」を通り過ぎて、「サブカルバックラッシュ」と呼んでもいいのでは?という気分になった。

表題から想像するのと真逆のメッセージ

タイトルを見て、「大正デモクラシーを背景に、権利意識が強まった少女達が野球を始める」という話を想像していた。しかし、少女が野球を始めるのは確かだが、権利意識とはまったく関係がなかった。野球を通して少女達が自立していく話を想像していたのだが、むしろ逆で、野球を通して少女達が男に愛されるようになるという話であった。

とにかくこの作品が発するメッセージは、「親の定めた結婚には決して異議を唱えない」、「女の幸せは男に愛されること」、「女は、男を立てることによって逆に男を操縦する、それが男女関係円満の秘訣」という家父長制や異性愛中心主義を肯定するメッセージばかりである。

さらに、「乙女らしくお淑やかに」という言葉が嫌になるほど繰り返されるのが腹立たしいし、アンナ先生が出てくるたびにバストやヒップが大きいことが執拗に繰り返されるのも嫌な気分になる。ここに出てくる少女達は将来的に男性優位の規範に従属することが決まっているし、外国出身の職業婦人は徹底して性的な眼差しの元に晒され続ける。

この話をまとめると、「自分に無神経な発言をした許嫁に意地を見せたい小笠原晶子のために、彼女と友人の少女達が野球をする話」となる。ここだけ見ると、無神経な男を懲らしめる話、に見えるが実はそうではない。結局野球でも女は男に勝てないし、小笠原晶子も男を立てながら操縦するすべを学ぶことによって幸せになる。小笠原晶子の許嫁も、自分の出来る範囲の誠意だけを見せればいいだけで、愛されるに足る人間になる努力などは必要とされない。

そしてほかの少女達も自分を愛する男を見つけてハッピーエンド!である。女が野球をやると言っても、決して男には勝てないし、少女達達が3イニングだけの練習試合に勝ったとしても、9イニングあれば必ず男が勝つと執拗に繰り返される。結局、男の権力は脅かされないし、少女のお遊びに付き合えば、パートナーを見つけられるご褒美まで付いてくる。

オタク?の夢

この小説は、さえない主人公の元に美少女が押し掛けてきてやがて結ばれる、というパターンの物語に実はそっくりである。福満しげゆきが「自動的に彼女がいる漫画」と文句を言っているような物語のパターンである。このパターンでは、男は愛されるに足る人物であるから愛されるのではなく、自動的に愛されるのである。それと同じで、『大正野球娘。』も親が許嫁と決めたら、自動的に男は愛されることになる。愛されるのに理由はいらない。せいぜい、野球の相手をしてあげるだけでよいのである。しかも、結局女は男を負かすことはない。

実に都合の良い夢である。何もしなくても、どんな人間でも、自動的に愛されるし、女に負かされるということもない。さらに、百合的な少女同士の交流も出てくるが、それも異性愛中心主義を決して脅かさない程度の話である。少女同士がデートしても、片方は自分の許嫁に申し訳ない気持ちを持ちながらのデートであるし、片方も自分が親の決めた結婚に従うことはもう決めている。自分たちの性愛を脅かさない範囲内で、女の子同士がキャッキャする姿が見たいという、実に男に都合のいい夢が描かれているのである。

リアリティーのよりどころ

もちろん、このような批判に対する言い訳も、作者は用意しているだろう。「大正時代とは、そういう時代だ。少女達は親の決めた許嫁に従ったし、乙女はお淑やかに男を立てることが理想とされたのだ。それに、女が野球をやっても男に勝てないのも事実だ」と。

しかし、そのリアリティーのよりどころを、そのような「家父長制は当時の常識」や「女は野球で男に勝てない」という点に求めるという選択がそもそも恣意的である。目隠しして打席に立ってホームランとか、大リーグ養成ギブスといった点にはリアリティーを求めないのに、男の都合の良い点にはリアリティーを求めるところがそもそも問題である。

なるほど、時代風俗についてはよく調べてあるのかもしれない。しかし、男に都合の良い少女ばかりで、リアリティーのある少女は存在しないのだ。

まとめ

一言で言うならば、男に都合のいい夢を詰め込んだ小説といえよう。そしてその都合のいい夢を詰め込むのに、大正時代という時代が実に都合がよかったのだ、ということになる。