普遍的人権と文化

ちょっと待って、「女性器切除」の話題! - キリンが逆立ちしたピアスというエントリのブックマークで、id:andalusiaさんからid:コールをいただきました。ブックマークの100字では収まらないので、ここにお返事を記すことにします。同様に、id:AmanoJackさんへのお返事もここに書きます。

身体の保全と民族の知識・文化および伝統的慣行の尊重

「どんな人間も、自らの身体を誰からも傷つけられない」というのは守られるべき基本的人権だと考えてよいでしょう。同様に、「民族の知識・文化および伝統的慣行の尊重」も、文化的アイデンティティーをもった人格の保護という点で、人権の尊重であると考えられます。では、女性器切除の場合は、andalushiaさんのおっしゃるように、身体の保全と文化的アイデンティティーの尊重という二つの人権の衝突と考えてよいでしょうか?私は衝突とは考えません。

まず、人権とは普遍的なものでなければなりません。ですから私は、

andalusiaさん、「人権を侵害する民族の知識・文化および伝統的慣行の尊重=人権の尊重」 ではないと思います。さもなければ人権は文化・社会に相対的なものになってしまい、普遍的な人権はありえないことになります 2009/09/24
http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/font-da/20090923/1253674546

と書きました。ある特定の文化・慣習には適用されない人権ならば、それは普遍的な人権とは呼べなくなります。このコメントに対してandalushiaさんから、

sadamasato さんへ、だからそれが人権と人権の衝突なんじゃないの? 「自己の文化を享有する権利は、人権に含まれる」ということ自体をまさか否定はしないですよね?
http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/font-da/20090923/1253674546

とお返事をいただきました。andalushiaさんの言いたいことは分かります。人権を侵害する文化を否定することは、その文化に属する人の文化的アイデンティティーを傷つける行為ではないか、ということです。しかし、それはあまりにも伝統や文化を固定的に考えているために生じる二項対立ではないかと思います。元のエントリに張られているリンクhttp://d.hatena.ne.jp/gordias/20070625/1182738048に紹介されている映画などは、アフリカの伝統の内部から女性器切除に向き合ったものとして評価されているようです。伝統の内部から伝統を変えていく動きがありうるということを見落としてはなりません。そして、そのような伝統の内部から、伝統を越えて伝統を変革していくような運動を可能にするのが、普遍的な価値なのです。単に伝統に囚われているだけでは、伝統は変えられません。伝統の中にいながら、同時に普遍的なものにコミットメントしうるからこそ、伝統の内部から伝統を刷新していくことが可能になるのです。そしてこのような普遍的な価値を、我々は人権と呼んでいるわけです。

font-daさんのエントリに引用されている岡真理さんの文章は以下の通りです。

フェミニズムイスラーム」「普遍的人権主義 対 文化相対主義」といった粗雑で安直な二分法――二分法とはえてして粗雑で安直なものだが――による議論は、したがって、問題の本質を隠蔽するための中立性、客観性を装った装置にすぎない。そこでは、ムスリム女性であることとフェミニストであることが、あるいは自文化の伝統に主体的に参与することと、普遍的人権を信じそれを実践することが、あたかも相互に排他的で、両立不可能なものとして前提されている。

文化か、普遍的価値か、という二項対立を厳しく批判している文章です。そして、この二項対立を生みだしているのは、「野蛮な文化」を啓蒙してやろうという差別的な眼差しであると岡さんは主張しているのです。彼らは野蛮な文化だから、それを否定して啓蒙してやらなければ人権が守れないという差別的な思考が、「文化を守る」vs「文化を否定して人権を押し付ける」という二項対立を固定化してしまうのです。更に、野蛮な文化の連中に人権を啓発してやるという思考が、経済格差(先進国による搾取の問題)に起因するアフリカの女性たちの様々な人権問題に関する自らの責任を回避しつつ、あたかも人権の守護者のような意識を生み出してしまうことも批判されるわけです。

「文化的アイデンティティーを守ること」と「身体の保全」という二つの人権が衝突するように考えることは、アフリカの野蛮な文化は内発的に女性の人権を守るように動いていかない、という前提を含んでしまってはいないでしょうか。文化を尊重しながら、その文化の内部の運動を通して女性の身体保全という人権を可能にしていくということ、そのようなことが目指されるべきではないでしょうか。そしてそのような運動にとって、普遍的人権という価値が大きなよりどころになるのではないでしょうか。

整形手術と女性器切除との間

font-daさんのエントリの冒頭には、女性器切除という語自体にも、差別性が含まれているのではないかという指摘があります。このhttp://africa.u-shizuoka-ken.ac.jp/j/Essays1/Circumb.htmlというページに書かれているように、「一人前の大人とみなされ、自分の生活を有利にしよう」と女性器切除を受けるのと、「美人とみなされ、自分の生活を有利にしよう」と整形手術を受けるのと、どれくらいの差があるのだろうかということです。片方では非常にグロテスクな呼び方で呼ばれ、もう片方では形を整えてよりきれいになるというニュアンスが与えらています。どちらも、自らの生活を有利にしようとする目的合理性に支えられている行動にもかかわらず。同じ目的合理性に支えられた行動でありながら、前者は野蛮な印象与える言葉が選ばれ、後者は野蛮でない印象を与える言葉が選ばれていることに対して、やはり差別的ではないかと異議が申し立てられているわけです。

しかし、日本での整形手術は人権侵害とされず、アフリカでの女性器切除は人権侵害とされます。この差はどこにあるのでしょうか。この差について答えることが、AmanoJackさんに答えることになります。

まず、日本での整形手術を考える場合、制度上は教育・就職など公的な活動において、その人の顔による差別を受けることはありません。しかし、アフリカでの女性器切除の場合(私の乏しい知識によれば)、女性器切除を受けていないことは差別の対象になります。日本でも女性差別がたくさんありますが(だからこそきれいになって男にもてるという選択がかなり有利な選択肢にもなる)、アフリカの方がより女性差別が激しく、十分な教育も受けられず、貧困に苦しむことになります。このような差別的状況の中では、女性器切除を受けて大人の女として結婚することがほとんど唯一の選択肢となります。このような構造が人権侵害的だと言えます。アフリカの女性にとっては、合理的な選択かもしれませんが、そのように強制する(あるいは内面化させる)差別的な権力が人権侵害となります。つまり女性の選択が人権侵害なのではなく(母親が娘の女性器を切除することが多いと聞きます)、そうさせる構造が人権侵害なのです。

私が、

AmanoJackさん、民主主義国家で、経済的に困窮せず、基本的人権が守られていて、十分な教育を受けて、合理的な判断が行われると思われる年齢に達してから自己責任で行う「包茎手術」と、女性器切除を一緒にするの?

とブクマコメント書いた時に力点があったのは「民主主義国家で、経済的に困窮せず、基本的人権が守られていて、十分な教育を受けて」という点です。これらに代表される基本的人権が保障されている時、女性器切除という選択肢は合理的なものではなくなります。あらゆる基本的人権が保障されて、その上で「非合理だけど伝統を守りたい」という理由で女性器切除を受けることを許すかどうかは議論が分かれそうな気がしますが、とりあえずは女性器切除に対して反対の声を上げつつ、アフリカの経済格差(搾取)を解消していくことによって、女性の教育や経済的自立が可能になることが大事ではないでしょうか。

おまけ

というわけで、岡真理さんは(そしてたぶんid:font-daさんも)、普遍的な人権を承認していると思います。普遍的人権を承認しつつ、その適用に差別的な眼差しがありうること(人権vs野蛮な文化という構図)を告発しているのであって、id:tari-Gさんの、

tari-G ハテナ櫓, 6/6層目 今回改めて「人権の普遍的尊重」をハテサ達等がきちんと承認できていない事が明確に。だがこの「世界を観る上でのイロハのイ」が駄目ではどんな問題でもまともな答えが出る筈もない。やれやれ… 2009/09/25
http://b.hatena.ne.jp/tari-G/20090925#bookmark-16214506

というコメントは、明確な誤読であろうと思います。