2010-09-05
東浩紀氏のポストモダン・哲学史理解について
雑記 | |
忙しさにかまけて、日記をかなり放置していたのですが、「どの口がそれを……PartII(追記あり)」(http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20100903/p1)というエントリに付けたブックマーク、
「東氏が「カンニングは許せん」と言えても、「カンニングをツイッターで告白するのはおかしい」と言うのは自己矛盾になるということ。ポモ系リベラルとは、まことにハードな立場ですなぁ…。」(http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20100903/p1)
に関する補足をここで書いておきます。
ポストモダンについて
ポストモダニストが責任を問うなど笑止千万、ということか。『逆境ナイン』に曰く「それはそれ‼ これはこれ‼」とのことだが……
と書かれたように、ポストモダンは責任を問うことができないという意味で、私はブックマークコメントを書いたつもりはありません。
id:Fondriestさんが
「本来」ポストモダンは相対主義や無責任と同一視できるようなものではない。これは東の個人的資質に過ぎないのでは。そんな区分けを認めないのがポストモダンだとしても。
と指摘されているように、私もポストモダン自体が相対主義とか無責任であるとは考えません。しかし東氏は相対主義的で無責任な言動をしながら、それをポストモダンの立場のせいにしているので、揶揄を込めて「ポモ系リベラルとは、まことにハードな立場ですなぁ…」と書いたのです。
東氏がポストモダンを相対主義的なものと理解しているらしいことは、孫引きですが、『リアルのゆくえ』で、
東 たとえば、なぜ歴史の問題すら解釈次第という立場なのかと言われたら、それはぼくがポストモダニストだからです。ぼくにしてみれば、高橋哲哉氏が靖国問題であんなにポジティヴな話をしてしまえることに違和感がある。だからそれは、ある種の知的訓練の中でそういうポジションを取らざるを得なくなってしまったということでもある。
大塚 その話を聞いてしまったら、ポストモダンっていうのは、何もかもから距離を取れて、すごく楽な思想だっていう話になっちゃうよね。
東 楽と言えば楽ですが、楽じゃないと言えば楽じゃない……(苦笑)。
と発言していたり、
デリダを通ってしまうと、歴史的真実とか言えなくなる
言うということはデリダを裏切る
という文脈で話をしていたのだが、本では南京の部分だけが残された
それがネットにコピペ
ばーっと批判
様々な見方、無限の寛容を認める
テロリストを認めるということに近い
そういうことを言っている人間が、
右翼とか保守主義に対しては、ほとんど愚直に対して真理だと言う
これは非常に難しい問題
従軍慰安婦は、軍の命令なんかはなかったんじゃないか
南京大虐殺は、あっただろうけど規模は小さかったんじゃないか
全ては解釈ゲーム
という講義での発言から伺えます。
おそらく東氏は、デリダの脱構築という立場を、「あらゆる言説は真理ではなく単なる解釈に過ぎず、すべての言説は解釈ゲームに過ぎないフラットなものである」というような立場であると理解しているのではないでしょうか。
何のための脱構築か
しかし、デリダは間違いなく「ホロコースト否定論者に発言の場を与えるべき」とか「すべては解釈ゲームなので、ホロコーストはなかったという言説もあり得る」などとは決して述べないでしょう。高橋哲哉は『デリダ』の用語解説の中で、形而上学的言説が二項対立を作り出し、ある一方の項を上位に置く形而上学的思考について、
脱構築的言説は、こうした広義の形而上学的思考を支配している諸概念の階層秩序的二項対立を解体し、現実の力関係を変形すべく介入する。
としています。例えば形而上学的思考は、男/女の二項対立を作り出し、男性が優位なものとし女性を抑圧する暴力的な言説を形成してしまう。この二項対立を解体し、形而上学的言説の暴力を暴露するのが脱構築の目的となります。
しかし、東氏にとって現状は、「インターネット等によりすべてがフラットになった世界」なので、脱構築における力関係の暴露と変形という目的はなくなり、脱構築はただ単にすべてを相対化するものになってしまいました。デリダにとって国家の戦争犯罪の否認は他者への暴力的な力関係を温存し強化するものであり批判の対象ですが、東氏にとってはすべてがフラットなので力関係は目に入らず許容すべき言説になるというわけです。
私は、ポストモダンとは、近代形而上学の暴力を暴露し、力関係を解体していく営みであると理解しています。それ故、ポストモダンの目的をオミットし、現実にあふれている暴力的な力関係を無視して相対主義的な立場を強弁する東氏を、本来のポストモダンとは違うという意味で「ポモ系」という言葉遣いをしてみたのですが、分かりにくかったかも知れません。
そもそも哲学史をちゃんと理解しているのか?
私は、東氏はポストモダンや哲学史の理解が怪しいのではないかという疑念がぬぐえません。
そもそも大陸系の哲学の一部はとうの昔に科学ではなく文学になっている
強力に科学志向の論理実証主義(のち英米系の分析哲学)と、強力に文学志向のハイデガーに分化するところから20世紀の哲学は始まった。
したがって、「科学と文学」「論理と詩」に分化してしまった20世紀の哲学を今後どうするべきか、というのはきわめて重要な問題です
こういった「科学と文学」、「論理と詩」という二項対立をたてることが、そもそもポストモダン的ではありません。ハイデガーは哲学を「科学と文学」という二項対立でくくることを決して許容しなかっただろうし、デリダも自分の哲学が「科学ではない文学だ」と考えなかっただろうと思います。東氏がハイデガーを読んでいないだろうということは、
たとえばフランスだとわかりにくいのでドイツの例で行くと、フッサールの科学的誤謬を衝くのは意味があるけど、ハイデガーの誤謬は衝いても意味がない。あれはカルナップが同時代に正確に指摘したように科学よりも詩に近い言語だからです。
フッサールなんて、けっこうまじめに科学と哲学の統合を考えているのだけど、1920年代あたりにそのプログラムがどうも破綻する。それで開き直ったはてにハイデガーが出てくる。他方でウィトゲンシュタインも初期の論理実証主義を捨て、謎めいた日常言語分析に足を踏み入れる。
という発言からはっきり分かります。ハイデガーをきちんと読めば、科学用語を哲学のメタファーに用いること自体に反対しているのが分かりますから、そもそも「ハイデガーの科学的誤謬を衝く」ことができません。ハイデガーは科学的な哲学に反対しましたが、科学もそこから可能になるような知の営み全体を考察していたという点では、「開き直って詩の言語を使ったハイデガー」などという理解もあり得ません。ウィトゲンシュタインだって、確かに『論考』的な言語観は捨てましたが、「言語使用の探求を通して、形而上学的な病を治療する」という哲学理解は一貫していたように思えます。
「ハイデガーやデリダは哲学を文学にした」という哲学史理解はどのような根拠に基づいているのか、ちょっと分かりかねます。
また、東氏のソクラテス理解もおかしなものです。
教育や大学の起源を考えるにあたって、ソクラテスという存在は外せません。でも彼はべつに弟子たちに哲学を教えてわけではない。金持ちが主催する飲み会へ参加しては、酒を飲んでツッコミを入れていただけです。彼自身に体系があったわけじゃない。でも彼がいると何となく議論が活発になる。そういう人だった。
普通ソクラテスと言うと、飲み会というよりも広場で議論しているイメージが強いのではないでしょうか。「町の広場で人々と問答を繰り返し、しかもそのことで人から金銭を受け取ることは一切しなかった」みたいな記述は哲学史の教科書で見かけますが、「金持ちが主催する飲み会へ参加しては、酒を飲んでツッコミを入れていた」みたいな記述にお目にかかったことがありません。『饗宴』では確かに宴会の中で議論していましたが、ほかのプラトンの対話篇で酒を飲みながら議論をしていたシーンがあったという記憶はありません。東氏は、どのような根拠で上のようなソクラテス像を描き出したのでしょうか?
私は、以上のように、東氏のポストモダン理解や哲学史理解はおかしいのじゃないかと考えています。しかし、東氏の理解の根拠となるようなテキストがあれば、どなたでも結構ですからご指摘いただければ幸いです。
- 372 http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/
- 98 http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20100903/p1
- 87 http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/sadamasato/20100905/1283673783
- 85 http://b.hatena.ne.jp/
- 65 http://b.hatena.ne.jp/hotentry/knowledge
- 62 http://search.yahoo.co.jp/search?p=不在の騎士&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=
- 57 http://bookmark.fc2.com/search/tag/科学・学問
- 49 http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/
- 44 http://ezsch.ezweb.ne.jp/search/?query=肉を食べない宗教&start-index=16&adpage=4&ct=1301&sr=0101&t=20101103114139&filter=1
- 35 http://ezsch.ezweb.ne.jp/search/?sr=0101&query=普遍的
ひどいと仰るのなら、具体的に論拠を挙げて下さい。デリダや哲学を詳しくご存知のようですから、是非とも浅学の私にご教示下さい。
私が知りたいのは、デリダが「全ては解釈で、歴史修正主義にも発言の場を与えるべきだ」と主張していると解釈できるような論拠、あるいは私が依拠している高橋哲哉のデリダ解釈が間違っているという論拠、ハイデガーやデリダにとって「哲学は詩・文学だ」と解釈できるような論拠、ソクラテスが金持ちの宴会で酒を飲みながらツッコミを入れていたと解釈できるような論拠です。
なお、大変申し訳ないのですが、以後、論拠にならないような「いやっほう」さんの書き込みがあった場合は、単なる荒らしと判断して削除しますので、よろしくお願いします。
まず、脱構築についてはsadamasatoさんと同じく、二項対立のみならず我々の認識、言語に潜む「暴力」を顕在化させる営みと理解しています。その根底には、ナイーブな相対主義とは異なり、ある不可能な「正義」が存在する。その「正義」とは簡単に言えば、他者への開け、有り得たかもしれない別のあり方の開示であり、さらにその他者への応答可能性としての責任が不可避のものとして立ち現れてくる、という事だと思います。
そうであるならば、歴史修正主義がそこから派生することは考えがたい事態です。にもかかわらず、東氏の歴史修正主義的傾向をポストモダンの帰結と捉えるようなブコメが散見されたため、あのコメントを書きました。
ポストモダニズムを、単に全てがフラットで等価値になった相対主義として把握することは、その敵対者による過度な単純化以外にはあり得ないと思います。そこでsadamasatoさんの
>おそらく東氏は、デリダの脱構築という立場を、「あらゆる言説は真理ではなく単なる解釈に過ぎず、すべての言説は解釈ゲームに過ぎないフラットなものである」というような立場であると理解しているのではないでしょうか。
という解釈ですが、「すべては解釈ゲームである」ということと「フラット」の間に飛躍があるように感じます。少なくとも引用文中において東氏は「フラット」とは述べていないようですが、他で彼はそのような発言をしているのでしょうか。
私自身は、彼がそこで念頭においているのは、『存在論的、郵便的』における「否定神学システム」ではないかと思います。脱構築(ゲーデル的脱構築)の結果として唯一の大文字の他者を見出す「否定神学」は「単純な経験論へと回帰」(P104)するとされ、そこで、明らかに高橋氏らを指す政治的コミットメントのみならず後期のデリダの仕事からも距離をとると彼は書いています。そうであるならば、彼の立場が現実には単純な悪しき相対主義と区別できないとしても、それに到る理路は異なるのではないかと考えます。
次に哲学と文学を巡る東氏の哲学史理解についてですが、
>たとえばフランスだとわかりにくいのでドイツの例で行くと、フッサールの科学的誤謬を衝くのは意味があるけど、ハイデガーの誤謬は衝いても意味がない。あれはカルナップが同時代に正確に指摘したように科学よりも詩に近い言語だからです。
sadamasatoさんの主張は、元々科学用語を使用しないハイデガーについて、「科学的誤謬」を指摘しても意味がないと述べる東氏はハイデガーを読んでいない、ということだと理解しましたが、ここでハイデガーの「誤謬」に「科学的」という形容詞を付加しなければならない必然性はないと思われます。カルナップのハイデガー批判は、論理的クラスの混同についてで、(自然)科学的な誤りを指摘したものではありませんので、ここは論理的誤謬を衝いても意味がないということだと解釈できます。いずれにせよ、この一文から東氏がハイデガーを読んでいないと判断することは拙速に過ぎるのではないでしょうか。
また、ハイデガーが「科学もそこから可能になるような知の営み全体を考察していた」 というのは彼のどのような仕事を念頭に置かれているのでしょうか。これはむしろフッサール的な超越論的基礎付けの試みのように思えますが。ハイデガーにとって科学技術は存在忘却のひとつの究極形であり、彼の存在論から科学が可能になるとは言い難いと思います。
さらにハイデガーの独特の文体、用語を、哲学的というより「文学的」と形容することは、肯定的であれ、否定的であれさほど珍しいこととは思えません。特に「転回」以降、ヘルダーリンへの沈潜、伝統的な哲学の専門用語ではなく日常用語を彼独自の仕方で解釈して使用するスタイル、詩作と思索の一致の追求等、新たな哲学言語を生み出したという点において、それを詩的言語に擬えることは的外れではないと考えます。
デリダについても、『フランス哲学・思想辞典』(弘文堂)から引用しますと、
>70年代のデリダは、いわば最も「文学」に接近した面があり、そこから、脱構築は哲学を文学に解消するものだと言う(ハーバーマスに見られるような)誤解も生じた。(高橋哲哉)
とありますように『弔鐘』、『絵葉書』のような実験的テキストを「文学」として捉えることは、東氏に特有なことではありません。
ただソクラテスについては、東氏の描写の根拠は私にも分かりません。ソフィストと混同しているかのように見えますが、まあトリヴィアルな問題ではないでしょうか。
私自身は、東氏の問題は彼の哲学的議論の欠陥にあるのではなく、彼自身がそれを裏切ってしまっていることにあるのではないかと考えています。
以上、長文で失礼しました。
まず、「すべてが解釈ゲームでフラット」という話ですが、解釈ゲーム=フラットとはならないのは当然で、これは私の書き方が悪かったです。解釈ゲームだとしても、このゲームの暴力的な権力関係を暴露する方向に進む可能性は脱構築にあるでしょう。
私の東氏に対する理解では、脱構築の結果、あらゆる言説が解体され、結局個々の経験や実感にだけしか依拠できない、故に各人の経験や実感はすべてフラットであるということになります。それ故東氏は、南京事件否定論に場所を与えるべきと主張するし、南京の虐殺記念館に行って「南京大虐殺に実感がわかない」というような批判をしたりするのでだろうと考えます。
ハイデガーについてですが、東氏の一連のツイートを読めば、ソーカルとの絡みでハイデガーが出てきているのは明らかですから、ここで科学的誤謬と言っているのは、ソーカル的な科学用語の濫用という文脈であることは明らかです。カルナップが詩的言語だと指摘していて、文学の科学用語の濫用を批判しても仕方がないという文脈です。そもそも、自身の哲学に科学用語を取り入れることに慎重だったハイデガーがこの文脈で出てくるのは、ちょっとでも彼の著作を読めば有り得ないことだと思います。
ハイデガーと科学ですが、『存在と時間』を読めば、基礎存在論を、科学論や人間学を含む領域存在論がそこから可能になるようなものとして構想していたことは明らかです。科学的知が立脚している存在理解をも解き明かすものとして、彼の基礎存在論があります。また、『現象学の根本諸問題』や『論理学』講義を読めば、論理実証主義や分析哲学がいかに生じるのかを、アリストテレスなどまで遡って論じています。フッサールの基礎づけ主義とは異なる形で、科学的知・命題論理的知を包括するロゴスを明らかにすることを目指していたと言えます。
また、後期ハイデガーの存在忘却としての科学ですが、これも単に否定されるべきものとしてあるわけではありません。存在の自己離去に基づく形而上学の命運として、科学的知も引き受けるべきものとしてあります。科学的知が成立する場所を、存在の自己覆蔵性に基づく形而上学の歴史の解明を通して明らかにすることが重要な課題でした。科学的知は否定されるべきものではなく、それが可能になる場所を問うことがハイデガーにとって大きな問題だったということです。
文学と哲学ですが、Fondriestさんが引用している高橋哲哉の言葉の通り、文学に解消したという「誤解」でしかないので、それが一般的な哲学史理解だと言い張られるのは問題だろうという話です。論理実証主義などの立場から見れば、詩や文学に見えるという話で、厳密で科学的な言語使用か文学かという二項対立は、かなり特殊な哲学史理解ではないでしょうか。「ハイデガーやデリダは、同時代の言語分析哲学やマルクス主義の哲学者たちから、詩や文学でしかないと批判された」という哲学史理解ならば一般的とも言えましょうが、「20世紀以降、哲学は科学と文学に分裂した」という哲学史理解は一般的でないでしょう。
以上のような理由から、やはり私は、東氏のポストモダン・哲学史理解自体がどうにも納得しかねるわけです。
まず最初の論点ですが、結局のところ問題なのは、「全てが解釈ゲーム」から個々の実感や経験がすべてフラットなものとして立ち上がってくるかということになるかと思います。たとえ「真理」というカテゴリーが脱構築されたとしても、それが即あらゆる経験を平等に取り扱わなければならないということに繋がることにはならないでしょう。東氏がそのような解釈に傾くに当たっては、前のコメントでも触れましたが、後期デリダのアポリアとしての脱構築不可能な「正義」という概念を彼が受け入れないことにあるのではないかと推測します。結果として、皮肉なことに彼自身が「否定神学」として批判する素朴な経験論へと東氏自身が回帰している用に見えます。
東氏がハイデガーを読んだかという点についてですが、
>ハイデガーについてですが、東氏の一連のツイートを読めば、ソーカルとの絡みでハイデガーが出てきているのは明らかですから、ここで科学的誤謬と言っているのは、ソーカル的な科学用語の濫用という文脈であることは明らかです。
sadamasatoさんは指摘しておられませんが、その文脈で言うならフッサールが出てくることもおかしいということになります。なぜならフッサールも自身の哲学に科学用語を取り入れることはしておりません。すると東氏はフッサールも読んだことがないとお考えでしょうか。
正直に言って、大学に入学したばかりの学生に向かってならともかく、南京大虐殺ではなく彼のフィールドである哲学において、彼が基本文献を読んでいないというのは考え難いと思います。原則的に批判対象には最大限のcharityをもって解釈するべきです。Twitterのような制限のあるメディアならばなおさらそれが必要でしょう。その上で彼の考えを斟酌するのであれば次の様になると考えます。
まず、フッサールもハイデガーも共に著作において一部のポストモダニストが行ったような科学用語の濫用、誤用は行っていないという事は前提として置いた上で、仮定として彼らに対して科学的誤謬の指摘がなされたと考えれば、それはフッサールにとっては有効であるかも知れないがハイデガーに対しては無意味である。なぜならカルナップが行ったような論理学的カテゴリーに基づく批判ですら詩的言語の性質を持つハイデガーの言説に対しては不毛であるからだ。
つまり、ハイデガーに対する論理学的批判の不毛さとパラレルに、ソーカルらによる科学用語の誤用という批判も無効であると彼は判断していることになります。この対置の適切さについては議論の余地があります。例えば、詩的表現として非論理的な文を書くことは、科学の信頼性に寄生する形で科学用語を濫用することと同じではありません。しかしながら、論理が科学の根底にあることを考えるならば全くの見当違いという訳でもないでしょう。論理的批判を無効にできるようなタイプの言説であれば、科学的な誤謬の指摘はそれ自体としては正当なものだとしてもトリビアルなものに留まるでしょう。
いずれにせよ、「読んでいないだろう」と判断する前に別の解釈の可能性を熟慮することが必要ではないでしょうか。そうでなければ単なる藁人形叩きに堕する危険性があります。
次に、ハイデガーにおける科学の位置づけですが、sadamasatoさんが書かれていることは私も考えてみましたが、「〇〇もそこから可能になるような知の営み全体を考察していた」という表現では、普通空欄には肯定的価値を与えられた内容が入るのが普通ではないでしょうか。例えば、
「マルクスは真に平等な社会の実現もそこから可能になるような知の営み全体を考察していた」
とあればおかしくありませんが、
「マルクスは労働者の困窮化もそこから可能になるような知の営み全体を考察していた」
とあれば、論理的には矛盾しませんが(困窮化をもたらすような社会構造を探求したという意味で)、例え、労働者の困窮化が革命の条件であるとしても違和感を感じます。
科学という知のあり方がただ単に否定されるべきものではなく、『科学的知が成立する場所を、存在の自己覆蔵性に基づく形而上学の歴史の解明を通して明らかにすることが重要な課題でした』としても、ハイデガーの目標はやはり「本来的」な存在理解の回復であり、科学自体にそれと同様の価値が与えられているわけではありません。そうでなければ彼の晩年のペシミズムはどう説明されるのでしょうか。ですから、ハイデガーにおいて科学にもっと肯定的価値を与えている記述があるのかと疑問に思ったため、質問させていただきました。
そういう訳でsadamasatoさんが述べられた意味での科学の位置づけから、なぜ『「開き直って詩の言語を使ったハイデガー」などという理解もあり得ません。 』と繋がるのか私には理解できません。
最後に文学と哲学の問題ですが、
>文学と哲学ですが、Fondriestさんが引用している高橋哲哉の言葉の通り、文学に解消したという「誤解」でしかないので、それが一般的な哲学史理解だと言い張られるのは問題だろうという話です。
東氏も哲学が文学に解消するなどと主張しているのではなく、「文学」的哲学と「科学」的哲学という二つの方向性があることを述べているに過ぎません。そして高橋氏が「誤解」としているのは、文学に「解消」するという点であって、「文学」的であるという事ではありません。引用部の続きですが以下のようになっています。
『脱構築的経験における「文学テキスト」の範例性は明らかであるが、デリダは「哲学」のみならず「文学」の制度性をも問い直そうとしているのだから、彼のエクリチュールの散種的、彷徨的性格を「文学」と同一視することはできない。』
そもそもデリダ自身次のように述べています。
『脱―構築はきわめて控えめであると同時にきわめて野心的でもある、と言うことができます。野心的だというのは自分自身を文学テキストと同等に置くからであり、また控え目だというのは自分自身が諸々のテクスト解釈の一つでしかないことを認めるからです。』「脱構築と他者」
「文学」や「詩」であることを分析哲学からの批判として否定的にしか見ないsadamasatoさんの理解の方が特異であるように見えます。そのように「哲学」と「文学」の間に強固な境界線を引くこと自体がポストモダン的ではないのではないでしょうか。
東氏が考える意味での大文字の他者としての正義を受け入れないとしても、もし「郵便的」が否定神学への抵抗であるならば、「歴史的真実なんてない」などという相対主義への抵抗としても機能してもよさそうな気もするのですが、どうなのでしょうか。「歴史的真実などない」という立場をとってしまった瞬間、現在の経験や実感が特権化される「単純な経験論に回帰」することになってしまいますから。鶏が先か卵が先かみたいな議論になってしまいますが、正義を受け入れなかった結果相対主義に陥ったというよりは、初めから相対主義的であったというほうがしっくり来ます。
基本的には、私が東氏の哲学的素養を低く見積もり過ぎているということになるでしょう。特にtwitterは140字の制限があるメディアなのだから、言葉足らずなところをこちらが好意的に補うべきだというのも確かに一つの見識です。とは言え、「ハイデガーの科学的誤謬」を論理的誤謬と読み替えて、しかもそれを「論理的クラスの混同を衝いても仕方がない」と解釈した上で、カルナップが行ったような批判は無意味だから科学的誤謬を衝くのも無意味だ、と理解するのはちょっとアクロバティックにすぎるような気がします。カルナップの名前が出てきたのは、彼がハイデガーを「詩的言語で書かれている」と評したという文脈で出ていて、カルナップが論理的クラスの混同を批判したという文脈でもありませんし、ハイデガーの「解釈学的ロゴス」の内部に入って、「論理的クラス」とは別の意味でそのロゴスの不徹底なり破綻なりを「論理的に批判する」ことは意味があるでしょう。
哲学は科学と文学に分化したというのが東氏の説で、私はハイデガーは「科学的知とその根源を明らかにする存在史的思惟」を目指していたので別に分化しているわけではないと主張しているわけです。科学自体に高い価値を見出しているか否かは関係ありません。そもそも、中世にだってアリストテレス-スコラ的な論理的な哲学と、新プラトン主義-神秘主義的な哲学の二つの系譜があり、科学と文学の分化が今更起きたというのもどうなのでしょうか?
私が、東氏が「ハイデガーは詩だ」と断ずることに違和感を覚えるのは、彼が「哲学は文学で、比喩として使っているんだから、科学用語の濫用だと言われても」という文脈だからです。ハイデガーの哲学は、思索(含む科学的知)と詩作の両方にまたがる言葉の問題を扱っていましたから、ハイデガーを詩的であるとい評することは可能でしょう。しかしハイデガーの哲学自体は、独特な造語で分かりにくいにせよ、厳密に言語を使っていますから、「比喩だから大目に見て」というものでは全くありません。ハイデガーやデリダに文学「的」とか詩「的」であるという側面はあるのは事実でしょう。しかし、彼らの哲学を「文学だ」と断じたのは東氏で、いやそれは違うだろうという単純な話です。
>鶏が先か卵が先かみたいな議論になってしまいますが、正義を受け入れなかった結果相対主義に陥ったというよりは、初めから相対主義的であったというほうがしっくり来ます。
鶏か卵かのような循環に陥ることは避けられませんが、「初めから相対主義的」だから相対主義に陥ったというのは、実は何も説明していないのと同じです。悪人だから悪をなしたと考えるより、善人でもあるに関わらず悪をなした考えるほうが思想的に「面白い」問題ではないでしょうか。
>基本的には、私が東氏の哲学的素養を低く見積もり過ぎているということになるでしょう。特にtwitterは140字の制限があるメディアなのだから、言葉足らずなところをこちらが好意的に補うべきだというのも確かに一つの見識です。とは言え、「ハイデガーの科学的誤謬」を論理的誤謬と読み替えて、しかもそれを「論理的クラスの混同を衝いても仕方がない」と解釈した上で、カルナップが行ったような批判は無意味だから科学的誤謬を衝くのも無意味だ、と理解するのはちょっとアクロバティックにすぎるような気がします。カルナップの名前が出てきたのは、彼がハイデガーを「詩的言語で書かれている」と評したという文脈で出ていて、カルナップが論理的クラスの混同を批判したという文脈でもありませんし、
「アクロバット」というより「器械体操」程度ではないかと思いますがそれはさておき、これは東氏が誤解を招く表現をしているのですが、私の記憶に間違いがなければ、カルナップはハイデガーのテキストを肯定的に「詩」であると述べたのではなく、「詩」なら許されるかも知れないが哲学としては無意味だ、ということで一種の皮肉だったと思います。ハイデガーとカルナップとくれば後者による形式論理学的見地からのハイデガー批判というのは、分析哲学と現象学に関心を持つ者にとっては常識に属することです。ですからそこで論理的誤謬が問題になっているということは容易く予見できます。
そしてたとえ「アクロバティック」だとしても、この解釈には大きな利点があります。それは東氏が「ハイデガーを読んでいない」という仮定が不要になることです。そのような主張はただ単に彼の哲学的素養を過小評価することに留まらず、専門領域に関わる基本的文献に目を通すことない人物でも、アカデミズムにおいて哲学者として通用するということをも含意するということを自覚されているでしょうか。東氏がハイデガーを読まずに、しかもハイデガーが著作で科学的概念を哲学的に使用しているという全くの誤解をもってこれまで論文、著作(そもそも『存在論的、郵便的』には多くのハイデガーからの引用、言及があるのですが、どうやってハイデガーのテキストを読まずにそれが可能なのでしょうか)を発表し、それに他の学者も全く気づかなかったなどということがあり得るとは思えません。sadamasatoさんが学生もしくは教員としてアカデミズム内部に居られるのでしたら、それが可能か自問されてみるべきですし、そうでないなら専門性を尊重するべきです。
そもそも東氏が批判される原因のひとつは、彼が歴史学の研究を全く無視した上で素人の「実感」に基づき歴史修正主義的発言をしたことでした。歴史事実関係の議論以前の問題として、専門性の無視が修正主義者の特徴であることはつとに指摘されています。それだけに東氏を批判するにおいて、同様の専門性の無視は特に慎むべきです。
>ハイデガーの「解釈学的ロゴス」の内部に入って、「論理的クラス」とは別の意味でそのロゴスの不徹底なり破綻なりを「論理的に批判する」ことは意味があるでしょう。
それは勿論そのとおりなのですが、カルナップはそもそも「解釈学的ロゴス」を批判しているのでありません。拙訳ですが、
『カルナップの批判は、思われているより専門的で根本的なものである。まず彼は、問題となっている(ハイデガーの)文が感覚与件によって確証されえないということを非難しているのではないし、中心的な問題は、その文が奇妙な新語を用いていることでも、通常の用法に反していることでもない。主要な問題はむしろ無(Nichts)の概念の論理形式が侵されていることにある。ハイデガーはこの概念を、名詞としてだけではなく動詞としても用いているが、現代の論理学によればそれはその両者のどちらでもないのである。』(Michael Friedman, Carnap, Cassirer, Heidegger. Geteilte Wege. Frankfurt 2004, S. 25)
すなわちカルナップの批判が無効であるのは、記号論理学による外からの批判は不毛であるという意味で、ハイデガーにはあらゆる論理的な批判が不可能、もしくは無意味だというわけではありません。
>哲学は科学と文学に分化したというのが東氏の説で、私はハイデガーは「科学的知とその根源を明らかにする存在史的思惟」を目指していたので別に分化しているわけではないと主張しているわけです。科学自体に高い価値を見出しているか否かは関係ありません。
いいえ、それは端的に無理です。
『明らかにここにおいてハイデガーとカルナップは興味深い仕方で一致しているのである。ハイデガーが展開しようと試みているような「形而上学的」思考は、論理学と自然科学の権威と優越性をあらかじめ失墜させた上においてのみ可能なのである。そのような失墜を強力に支持するハイデガーとは異なり、カルナップは是が非でもそれを押し留めようと決意しているのだ。』(ibid, S. 26)
つまりsadamasatoさんはハイデガーの存在論の議論自体が、形式論理学と自然科学的方法を拒絶することで成立していることを無視しています。そのような拒絶の上で理解され位置づけられた「科学」をもって「分化しているわけではない」と主張することは不可能です。
>そもそも、中世にだってアリストテレス-スコラ的な論理的な哲学と、新プラトン主義-神秘主義的な哲学の二つの系譜があり、科学と文学の分化が今更起きたというのもどうなのでしょうか?
東氏もその分化が20世紀になってはじめて起きたとは述べておりません。科学の飛躍的な発達によってそれが先鋭化したとも言えるでしょう。それよりそもそもその二つの系譜があることを認められているのであれば、なぜsadamasatoさんが、東氏の哲学の科学と文学という二方向への分化という哲学史理解に執拗に反対されるのか分かりません。
>私が、東氏が「ハイデガーは詩だ」と断ずることに違和感を覚えるのは、彼が「哲学は文学で、比喩として使っているんだから、科学用語の濫用だと言われても」という文脈だからです。ハイデガーの哲学は、思索(含む科学的知)と詩作の両方にまたがる言葉の問題を扱っていましたから、ハイデガーを詩的であるとい評することは可能でしょう。しかしハイデガーの哲学自体は、独特な造語で分かりにくいにせよ、厳密に言語を使っていますから、「比喩だから大目に見て」というものでは全くありません。ハイデガーやデリダに文学「的」とか詩「的」であるという側面はあるのは事実でしょう。しかし、彼らの哲学を「文学だ」と断じたのは東氏で、いやそれは違うだろうという単純な話です。
正直に言って、どんな意味で「単純な話」と言ってられるのか分かりかねるのですが、まさか、哲学は文学ではないと言いたかっただけだという意味ではありませんよね。もしそうならそれは下らない藁人形たたきに過ぎません。前のコメントにも書きましたが、東氏も、哲学が文学そのものになり解消するなどという主張はしていません。問題は東氏の、『「科学と文学」「論理と詩」に分化してしまった20世紀の哲学』という哲学史理解が妥当かどうかということで、sadamasatoさんはその分化を認めないという意見でしたが、少なくともデリダやハイデガーに「文学志向」である側面があるということは理解されたと思います。彼の哲学史理解の妥当性という問題については本来それで議論は終わりです。彼自身が言っているようにそれは「哲学史的にかなり一般的な理解」だと私も思います。
『我々は、カルナップと共に普遍的妥当性の理念としての形式論理学を保持し、それに従って数学的に精確な哲学に自らを限定するか、もしくはその結果として真の普遍的な妥当性という理念を諦めることになるが、ハイデガーと共に論理学と「精確な」思考から自らを切り離すことができる。もし私が誤っているのでなければ、これこそが20世紀に典型的な「分析的」と「大陸的」伝統の間の裂け目の根底にあるジレンマなのである。』(ibid. S161)
そして、ハイデガーやデリダが「文学志向」であるかないかという問題と、彼らの哲学を「文学」として科学から擁護できるかどうかは別の問題です。前者を否定すれば当然後者について論じる必要はなくなりますが、、そのつもりで彼らは「文学的」ではないと主張されてきたということでしょうか。
もしそうであれば、それは不要な悪手であったと言わざるを得ません。
以上、また長文で失礼しました。
>「アクロバット」というより「器械体操」程度
器械体操でも、G難度くらいの読み方だとは思います(笑)。正直、常人には無理な読みというということで。
>そしてたとえ「アクロバティック」だとしても、この解釈には大きな利点があります。それは東氏が「ハイデガーを読んでいない」という仮定が不要になることです。そのような主張はただ単に彼の哲学的素養を過小評価することに留まらず、専門領域に関わる基本的文献に目を通すことない人物でも、アカデミズムにおいて哲学者として通用するということをも含意するということを自覚されているでしょうか。
この点については私はよく分からないので、逆に詳しそうなFondriestさんに質問しますが、東氏は、哲学のアカデミズムの内部で哲学者として評価されているのですか?浅田彰や柄谷行人といった批評家の系列に属していて、哲学のアカデミズムの内部で哲学者として評価されているというイメージではなかったのですが、いかがでしょうか。もちろん、哲学のアカデミズムで評価されるというのが具体的にどういうものかというのは難しいのですが、例えば哲学の学会や学会誌に呼ばれたり寄稿したりという感じでしょうか。
>つまりsadamasatoさんはハイデガーの存在論の議論自体が、形式論理学と自然科学的方法を拒絶することで成立していることを無視しています。
ハイデガーは、形式論理学と自然科学的方法で哲学を規定することはできないと考えていますが、それが科学と文学の分化を意味するわけではないというのが私の発言の趣旨です。何度も申し上げましたように、ハイデガーの構想した哲学は、形式論理学と自然科学的方法がどこから生じるのかを射程に収めたものです。形式論理や自然科学的方法を至上のものとする態度を採らないと、分化するということになるというFondriestさんの主張が理解できません。Fondriestさんが紹介している、デリダの「文学テキストに同等に置く」というデリダの「野心的」な試みは、科学と文学を分化させたうえで文学に身を置くという意味では全くないでしょう。自然科学的方法を採らなければ、科学と文学の分化を認めたことになるということになるのか、私にはまったく理解できません。
また、Michael Friedmanは読んだことがありませんが、彼もハイデガーの哲学をして「哲学は文学になった」と評しているのでしょうか?「分析的」と「大陸的」の伝統の違いは、「科学」と「文学」の違いだというのが彼の結論でしょうか?
「詩的である」ということ「文学的である」ということと、「科学と分化した文学志向」ということは全く違うと重ねて申しあげておきます。
確かに素人が準備も練習もなしにやれば、怪我をする位の難度でしょう。しかし前のコメントで述べたようにカルナップの批判は非常によく知られたものですから、精々「部活」程度と言ったところでしょうか。例えば、英語、独語版のWikiのハイデガーの項にも言及されております。「無理」だとおっしゃるのなら、カルナップの論文は言及されることが稀で専門家にしか知られていない、等の論拠を持ってお願いします。
>哲学のアカデミズムの内部で哲学者として評価されているのですか?浅田彰や柄谷行人といった批評家の系列に属していて、哲学のアカデミズムの内部で哲学者として評価されているというイメージではなかったのですが、いかがでしょうか
東氏は現在狭義の「哲学者」として活動しているわけではありませんが、教養学部科学哲学専攻で、Ph.Dを取得しています。博士論文は『存在論的、郵便的』で、審査者の一人は他ならぬ高橋哲哉氏です。ただ浅田氏にしろ柄谷氏にしろ狭義の哲学者ではなくとも、sadamasatoさんが想定しているようなハイデガーに関する誤解を見逃すとは考えられません。
>ハイデガーは、形式論理学と自然科学的方法で哲学を規定することはできないと考えていますが、それが科学と文学の分化を意味するわけではないというのが私の発言の趣旨です。何度も申し上げましたように、ハイデガーの構想した哲学は、形式論理学と自然科学的方法がどこから生じるのかを射程に収めたものです。形式論理や自然科学的方法を至上のものとする態度を採らないと、分化するということになるというFondriestさんの主張が理解できません。
なぜsadamasatoさんがそれを理解できないかの理由は非常に簡単です。それはsadamasatoさんはハイデガーの観点からしか哲学を見ていないからです。当たり前のことですが、カルナップ、ノイラートらの論理実証主義者を始めとして、ハイデガーの存在論の前提である論理学と自然科学的方法の否定を認めない他の多くの哲学者の存在を考慮せずに哲学史を語ることはできません。ある意味でsadamasatoさんにはそもそも「哲学史」というものが全く視野に入っていなかったということです。
ハイデガーがいくら彼の存在論から論理学と科学についてその根拠を解明したところで、カルナップらにとってはそれは全て「無意味」です。彼らにとってはハイデガーは論理学と科学を無視した結果、言語による擬似問題に囚われているに過ぎません。
例えば、物理学ではよくアインシュタインらを否定する「トンデモ」さんがいますが、彼らはまず現代の科学における基礎概念、パラダイムを全否定した上で彼ら独自の「理論」を開陳します。その「理論」がどんなに「厳密な」概念規定をしようが、既存の科学的方法を否定した時点で物理学者からまともに取り扱われることはないのは当然のことです。それと同じことです。(念のためですがハイデガーがトンデモだと言っているのではありません。)
ハイデガー以前では、カッシーラーらの新カント派にしろフッサールの現象学にしろ科学的認識の根拠とその基礎付けが目標であり、科学的方法や論理学そのものを否定することはありませんでした。ですから東氏も「フッサールの科学的誤謬を衝くのは意味がある」と述べている訳です。
>また、Michael Friedmanは読んだことがありませんが、彼もハイデガーの哲学をして「哲学は文学になった」と評しているのでしょうか?「分析的」と「大陸的」の伝統の違いは、「科学」と「文学」の違いだというのが彼の結論でしょうか?
Friedman自身は「文学」という表現を使ってはいなかったと思いますが、引用したように論理学の普遍的妥当性をめぐって両者の乖離が決定的になったと考えています。「大陸的」というのは地理的区分ですが、当然のことながら様々な潮流がその中には含まれます(そもそもカルナップらウィーン学派も「大陸的」です)。それらのスペクトルの両極を表現するものとして「科学」と「文学」という言葉を使うことは適切です。
>「詩的である」ということ「文学的である」ということと、「科学と分化した文学志向」ということは全く違うと重ねて申しあげておきます。
Entschlossenheitの表明はたいへんハイデガー的な実践だとは思いますが、ここではArgumentationをお願いします。