芸術家が死ぬまで〜『この世界の片隅に』

 『この世界の片隅に』を見てきた。

 第二次世界大戦中、広島出身で結婚により呉に移住したすず(声優:能年玲奈)の暮らしを描いた作品である。すずは広島の郊外にある海苔業者の純朴な娘で、絵を描くのが得意の夢見がちな少女である。そんなすずが呉に住む北條家の息子に見初められ、結婚して親元を離れる。呉が空襲、広島が原爆で大変なことになり、すずも空襲で片手を失う大けがをするが、なんとか終戦まで生き延びる。

 全体的には精密な時代考証によるリアリティに富んだ美しい映像で女性の暮らしを綴るもので、よくできた作品だと思った。すずは芸術的な想像力を持った女性なのだが、ちょっと浮き世離れしたところに能年玲奈の声がよく似合う。いろいろと野心的な手法も使われており、すずの描いた絵を取り込んでヒロインの想像や心境を示すやり方はうまい。とくにすずが空襲で爆弾にやられるあたりで絵のタッチが変わり、あまり凄惨な描写はしないで悲劇を浮かび上がらせるあたりはとても巧みだ。

 一方で、この絵の使い分けがあまり一貫していないと思えるところも少しあったのが残念だ。アニメの中で現実に起こったこととすずにだけ見えていることは厳密にタッチを変えて描き分けたほうが統一感が出るのではと思うのだが、何度かちょっと曖昧さを感じるところがあった。とくに最後に青葉が出てくるところはかなりリアルなタッチで船が描かれていたのだが、あれはすずが描くような幻想的で余白に生き生きしたものを感じさせるタッチで描いたほうが美的に効果が高いんじゃないだろうか…

 で、このすずの想像力とリアリティの間の描き分けにちょっと曖昧さがあるという点と関係があるのではと思うのが、すずの芸術家としてのキャラクター造形にジェンダーバイアスの入り交じった半端さが見受けられるということである。すずはとても絵が上手な女性で、子どもの頃に幼馴染みの水原のかわりに海の絵を描いて学校に提出してやったことがあった。水原とすずは互いに憎からず思っているのだが、結局すずは北條周作と結婚する。ところが水兵になった水原があるとき休暇中に北條家を訪ねてきて、そこですずが最近絵を描いてないのではと心配するところがある。水原とすずは芸術への愛によって結びつけられており、水原のほうがおそらくすずの絵のことを気にかけてくれているのだが、結局この2人は結ばれず、すずはもっと家庭的な周作を選ぶ。やがてすずは空襲で絵を描く利き手も失うことになり、最初は絵が描けなくなったことに苦しんでいるのだが、だんだんそれが曖昧になるというか、たいしたきっかけもなく夫の世話とか、戦災孤児を拾って育てることとかによって日常に戻っていくようになる。すずには男性であれば許されているのかもしれない絵の力をのばすという道は全く開かれていないし、結局芸術の世界につながっている水原とは結ばれず、家庭に入ることによって生きていくという展開になる。ある意味でこれは芸術家が死ぬまでの作品であると言えるかもしれない。全体としてこの映画は女性の暮らしをとても丁寧に描いた作品だし、ベクデル・テストもパスするのだが、ヒロインについては芸術を捨てて家庭に入るという古典的な女性像なのではと思う。

 また、原作(未読)をカットしすぎなのかつながりが悪いと思えるところがいくつかあった。北條のお父さんの行方不明から入院がわかるまでの経緯はかなりすっ飛ばしており、もうちょっとお父さんの行方を捜すような場面があったほうがいい。また、すずが敗戦後にいきなり外国のお米を食べて生きてきたとかいう場面ももっと伏線がないと唐突にすぎる。途中の闇市の場面で台湾米が売られているというところがあるのだが、ここはすずの主観に結びつけられた撮り方になっておらず、すずは全体的に闇市でものを買うといったことに不慣れな女性として描かれているので、いきなり外地からきた米を食っているとかいうような発想が湧いてくるのはずいぶん突然だ。闇市の場面ですずが逡巡した後に台湾米を買うとかいうような展開があれば敗戦時の台詞にすっとつながる伏線になると思うのに、そういう描写を省略しすぎだと思う。さらにすずと水原を突然、周作が2人っきりにするのがあまりにも衝撃の展開で何の前触れもなくてビックリだったのだが、あとで原作のほうのあらすじだけ見たところ原作では周作にも別に深い仲だったことのある女性がいて、しかもそれが作中に出てきた娼婦のリンでそれをすずも知っていたということなので、たぶんそれを省略していなければもっと丁寧な展開に見えただろうと思う。少なくとも、夫のほうにもいろいろ昔の恋愛について複雑な経験やつらいことがあったということなら、まだ妻の過去の恋に対して過激な行動に出るという理由が推測できるからあんなに唐突な展開には見えなかったのではと思う。ちなみにリンとすずの場面はとてもよくできているが短く、やはりちょっと不消化感があった。リンはあれだけキャラが立っているのだからもうちょっと出てきたほうがいいのではないだろうか。