古くさい教育、偏った教育とは?〜『はじまりへの旅』(ネタバレあり)

 マット・ロス監督作『はじまりへの旅』を見てきた。

 アメリカの大森林で世間から隔絶した暮らしをしているキャッシュ一家が主人公である。左翼知識人でアメリカの資本主義にうんざりしているベン(ヴィゴ・モーテンセン)はナイフで動物を狩って料理する自給自足の暮らしをしており、6人の子どもたちにサバイバルスキルから数カ国語、量子力学まで広くカバーする英才教育を施している。しかしながらベンの妻レスリー躁鬱病で実家の近くの病院に入院中で、自殺したという知らせが入る。仏教徒だったレスリーが実家の祖父母の意向でキリスト教式に葬られそうだということを知った子どもたちはベンを説得し、一家が所有するバス、スティーヴ号に乗って祖父母の家があるニューメキシコに向かうが、保守的な祖父ジャック(フランク・ランジェラ)はベンを葬儀から排除すると息巻いていて…

 とても笑えて最後は穏やかな感じでオチがつくコメディで、楽しく見られる作品である。キャッシュ家の父ベンを演じるヴィゴ・モーテンセンがまさに当たり役で、素晴らしい演技を見せている。ムキムキマッチョなのになんかちょっと暗いところがあってやたら知的という難しい役どころにまさにピッタリで、とくに途中のヒゲを剃って傷つきやすそうな表情を見せるところなどはとても良かったと思う。長男のボウを演じるジョージ・マッケイ(『パレードへようこそ』に出ていた)をはじめとして子役たちも生き生きしている。ベクデル・テストはおそらく娘のキーラーとヴェスパーの会話でパスするのではと思うのだが、ただエスペラント語だったりするのであまり自信はない。

 ちょっと面白いのは、この作品で対立する教育方針を示しているベンとジャック、どちらも今の感覚からすると「古い」ということである。ジャックはものすごくリッチで保守的なので、まあ一般的な意味で「古い」のだが、一方で左翼のベンの教育方針もかなり古い。いまどき珍しいような古典的左翼である上、フェミニズムとかゲイライツ、あるいはスラッカー文化とかが全然入ってないむかーしのお堅い左翼教育を子どもたちに施していて、ひょっとするとヒッピー世代よりも古いんじゃないかと思うレベルである。たとえばアメリカの映像作品で子どもに偏った教育をしている左翼カップルというと『ダーマ&グレッグ』のダーマの両親、アビーとラリーがまず思い浮かぶのだが、この2人は西海岸のヒッピーらしく正式に結婚していないし、性差別とかセクシュアルマイノリティの差別にも関心があったし、あとラリーはスラッカーっぽいところがあった。しかしながらベンとレスリーは「キャッシュ夫妻」でどうも正式に結婚しているらしい上、妻が夫の姓を名乗っているという物凄く伝統的な夫婦で、展開からしてもどうもベンが家長権をふるっていたらしい。ボウが一目惚れした女性にいきなり求婚したりするあたり、どうもキャッシュ夫妻は家父長制とか結婚制度について子どもたちの批判的思考を養うことは全くしていないらしいし、またベンは性教育で強姦を異性間で起こる犯罪として話していて、子どもの誰かがストレートじゃないかもという発想が無いのではと思う。さらにベンはめちゃくちゃきちんとした家庭人で、マリファナ吸って友達とだべるなんてことはほとんどしなそうだ。ベンは伝統的な男らしさにかなり縛られており、妻を失った一因もそれなのでは…と思うところがある。ボウの求婚話やベンの反省などの描き方にはこういう伝統的な男らしさの問い直しが少し見られるとは思うのだが、ただ全体のバランスからいうとあんまり深められてはいないのが残念である。

 ベンの教育方針は子どもを危険にさらすことがあるので虐待になり得るし、娘の生前の信仰や遺志を一切認めないジャックの考え方も相当におかしいのだが、一方でこの映画には、一般的に普通と思われている家庭の教育は本当に普通なのか、ということも問うている。これが顕著に表れるのはジャックの妹ハーパーの家でのエピソードで、ハーパーは子どもたちをごく「普通」のアメリカの子どもたちとして育てようとしているのだが、ハーパーの息子たちはゲームばっかりしていて勉強は全然せず、大人になってトラブルとかが起こったとしても全然身を守れなそうな頼りない子たちである。さらにハーパーはレスリー躁鬱病で自殺したことについて、息子たちが動揺しないようこれを隠し通そうとするのだが、これは明らかに良くない。ほんの幼い子どもたちならともかく、ティーンの子に精神の病(珍しいものではないし、子どもたち自身やその友達がかかったっておかしくはないものだ)について一切教えないというのは相当に過保護だ。この映画にはこういうバランス感覚があり、ベンはおかしいしジャックも変だが、一方で一番普通に見えるところにも実は問題がある…ということを、ユーモアをまじえて優しく諷刺している。

 なお、この映画は音楽の使い方がとても上手で、終盤でガンズ・アンド・ローゼズの「スウィート・チャイルド・オ・マイン」が使われるところは舌を巻くうまさだった。普通に使うとセンチメンタルになるところを、映画の文脈に非常にきちんとあわせて、意味があるように使っている。この曲がこんなにちゃんと映画で使われたのを見たのは始めてかもしれない。