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2018-03-13

ことばは肉となる〜『シェイプ・オブ・ウォーター』におけるすべての言語と聖遺物(ネタバレあり)

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 ギレルモ・デル・トロ監督最新作『シェイプ・オブ・ウォーター』を見てきた。

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 舞台60年代初頭のボルティモアである政府研究所で夜間の掃除婦をしている口のきけないイライザ(サリー・ホーキンズ)は、同僚のゼルダ(オクタヴィア・スペンサー)や同じアパートに住むゲイ画家ジャイルズ(リチャード・ジェンキンス)と助け合いながら暮らしていた。ある日、政府研究所アマゾンの半魚人などと呼ばれている謎の生物が運ばれてくる。この生き物に興味を持ったイライザはゆで卵を分けてあげ、手話を教え、すぐ恋に落ちる。しかしながら軍人ストリックランドはこの半魚人(名前がわからないので便宜上、こう呼称する)を虐待し、殺害後に解剖することを提案する。思いあまったイライザは友人たちと協力して半魚人の救出を試みるが、そこに意外な助っ人が…

 全体的に、ことばの力が強力なモチーフとなっている映画だったように思う。この映画では言語、それも一種類とはかぎらないさまざまなコミュニケーション手段としての言語で人に意思を伝えることが知性と優しさの証であり、こうした言語に長けていることが重視される。この映画わずかなりとも肯定的に描かれている人々は皆、それぞれ特有言語を持っていて、それを使っていろいろな意思とか感情を共有しようとする。イライザは子どもの頃にのどを切られた状態で捨てられていた孤児なので口がきけないが、おそらくこの映画の中ではもっと言語に長けた人物だ。手話ができるし、顔の表情も豊かで、音楽も好きだしダンスもできて、いろいろな手段で人に意思を伝える能力を持っている。一見意思疎通が不可能そうな半魚人ともコミュニケーションをすることができ、同族である人間に対しては堂々と助けを求めることができる。おそらく「イライザ」、つまりバーナード・ショーの『ピグマリオン』のヒロインと同じ名前を持っているところがポイントで、『ピグマリオン』ではヒロインであるイライザが年長の教育ある男性言語を与えられていたが、この映画では逆にイライザが言語を与える側にまわる。イライザから言語を与えられた半魚人を見たボブ(マイケル・スタールバーグ)は、半魚人に知性や人格があると確信するが、これはこの映画における言語重要性を示すプロット上でも重要な展開だ。ボブは実はソ連スパイであり、英語ロシア語を流暢に操り、さら科学にも通じているという設定だ。イライザの親友ジャイルズは絵が得意で芸術的センスがあるのだが、この映画の中では絵も意思を伝える手段としての一種言語であると思う。ゼルダは大変なおしゃべりなのだが夫とあまりうまくいってないみたいで、それをイライザに話すことで心の安らぎを得ているらしい(ベクデルテストは冒頭でタイムカードを前にゼルダイライザ、ヨランダがやりとりするところでパスする)。しかしながらゼルダは非言語コミュニケーションもけっこう得意であり、イライザが時間通りに現れないというだけで何かトラブルが起こったことを察知するし、さらイライザの表情だけで、半魚人とセックスしたことを見破ってしまう。半魚人救出チームに加わった人々は、周りの人の話を聞き、表情や態度を読むことでものごとを解決するタイプの連中だ。

 一方で悪役であるストリックランド自分だけで言語占有しようとする人物である。序盤でストリックランドが妻とセックスする場面があるのだが、これは大変よくできた伏線になっていて、ストリックランドセックス最中、妻が声をあげるのをやめさせようとする。中盤でストリックランドは口のきけないイライザに対して、しゃべらない女のほうが性欲をそそるというようなことを言ってひどいセクハラをするのだが、ストリックランドは常に自分だけがしゃべっていたい、他の者の言語を抑圧したいと考えている。最後ストリックランドが半魚人にのどを切られ、命ではなく声を奪われるのは、このように他の人間言語と声を尊重しなかったことへの報いだ。

 この作品ヒロインイライザだが、一方で語りの枠を作っているのは、最初最後ナレーションをしているジャイルズだ。ジャイルズは芸術家で、おそらくこの映画の中では最も特権的で、かつ監督に近い立場を有している人物だと言っていいと思う。この映画エンディングは若干曖昧なのだが、私の解釈では、おそらく最初最後シークエンスは完全にジャイルズの頭の中だけで起こっているもので、映画現実ではないと思う。デルトロ映画は全体的にカトリック的なイメージが濃厚だが、ジャイルズの語りの枠に入っているところではカトリック的なイメージが炸裂している。オープニングシーンでは、全てが水没しているのにランプだけはあかあかとついているあたり、聖書ヨハネ福音書の「闇に光が輝き、闇はそれに勝てない」という記述を思わせる一方、途中でゼリーがあかあかと目立つ絵を描いていたジャイルズの作風に似てるところがある。ヨハネ福音書の冒頭はことばと光の力に関する記述なのだが、ジャイルズは芸術家なので、実際は何が起こったのかわからず、ひょっとしたら悲劇に終わったのかもしれない王子様(半魚人)と王女様(イライザ)の恋を無理矢理ことばによってハッピーエンドで終わらせる力を持っている。ジャイルズは作中で幸せ家族の絵を描いて取引先にボツにされていたが、あの終わりはジャイルズが描いた幸福最高傑作の絵なのではないかと思う。ヨハネ福音書にある「ことばは肉となる」という記述よろしく、ジャイルズは芸術のことばによって物語に形を与える力を持っている。

 そこでもうひとつポイントになっていくるのが、ジャイルズが半魚人に対して、自分たちは2人とも"relics"だという台詞だ。このrelicというのは文字通りには「過去遺物」だろうが、一方で「聖遺物」、つまり聖なる存在痕跡として残していったものという意味もある。ジャイルズがここで使うrelicという言葉は、おそらく最初ナレーションでジャイルズが述べる、この話は「美しい王子の治世の最後」の物語だという台詞呼応する。この「美しい王子」というのはおそらく時代的に63年に暗殺されたジョン・F・ケネディ(カトリックだった)を指すのではと思われるが、ジャイルズはおそらく自分のことを、暗殺のような突発的な暴力によって希望が奪われることがなかった穏やかな時代遺物だと考えていると思われる。さらに、ジャイルズの広告画家としての仕事写真に取ってかわられているという設定もあるので、ジャイルズは精神的にも、芸術的にも、既に自分過去のものになりつつあると考えていて、それを暴力の脅威にさらされる神聖存在である半魚人の境遇と重ねている。半魚人はアマゾンでは神として崇められていたそうで、最後の場面で「やっぱり神なのかも」というような行動をとるし、一度死んで復活するというのは明らかにイエスイメージだ(ついでに言うと、イライザの復活は聖母の被昇天だろう)。ジャイルズの想像力の中では、聖遺物であった半魚人とその王女イライザは復活したが、ジャイルズ自身は復活できない遺物としてこの世に残るほかない。しかしながらジャイルズは芸術家であるので、この2人の物語と、それに対する信仰を後世に残すことができる。この作品ではものごとを伝え、理解しあうための言語としての芸術信仰と分かちがたく結びついていると思う。

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