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2016-10-13

シアターコクーン『るつぼ』〜歴史的には重要だが、戯曲自体が古くなっていると思う

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 シアターコクーンアーサー・ミラーの『るつぼ』を見てきた。演出はジョナサン・マンビィである言わずと知れた有名作で、1953年に初演された赤狩り批判の芝居だ。

 舞台は17世紀末、マサチューセッツにあるピューリタン的な村セイラムである主人公であるジョン・プロクター(堤真一)は、貞淑な妻エリザベス(松雪泰子)がいるにもかかわらず、奉公にきていた若い娘アビゲイル(黒木華)と性的関係を持ってしまった。それ以来アビゲイルはジョンに惚れている。そんな中、アビゲイルその他の娘たちがバルバドス出身の奴隷であるティチュバ夜の森儀式を行い、アビゲイルのいとこでパリス牧師の娘であるベティ病気になってしまう。村人たちの今までの不満や軋轢が表面化して魔法の噂が広がり、魔女狩りが始まる。アビゲイルをはじめとした娘たちは魔女告発する聖女として扱われるようになり、エリザベス告発される。ジョンは仲間たちとともにエリザベスを守ろうとするが、結局はジョンが処刑されることになる。

 これ、歴史的に非常に重要な芝居で、1950年代にこういう戯曲を書くことが大変勇気ある行動だったというのはわかるのだが、今見るとミソジニーがひどく、掘り下げも甘い感じで戯曲が古くなっている気がした。このプロダクションについては、ひとりだけ赤いドレスを着たアビゲイルが映える暗いセットとか、役者の演技などは良かったと思うのだが、それでも話にずいぶん広がりがなく、強引だという印象を受けた。

 まず、プロクター未成年のアビゲイルに手を出さなければこんなことにはならないわけであって、いやそもそもこんなに事態がとんでもないことになったのはお前のせいだろうと思ってしまうところがある。このプロダクションの堤プロクターは完全に良い人として演じられているわけではなく、山ほど欠点のある人間ではあるのだが、それでもちょっと責任感がなさ過ぎではという気がする。さらにアビゲイル自身が実は抑圧的なピューリタン社会被害者なのに、その行動を相対化したり、のしかかる抑圧を批判するような視点がほぼ無い。セイラム結婚前に女性性的関係を結ぶと娼婦として蔑まれ、それによって女性社会的地位信頼性(裁判における証言の価値も)が全て失われてしまうような社会である。おそらくこの演出に出てくる黒木華アビゲイルはそういうことをうすうすわかっていて、だから自分名誉のためにプロクターに執着しているのではと思うところもあるのだが、この女性抑圧の要素がきちんと有機的に展開に取り込まれていない。一方でよき妻エリザベスもかなり薄っぺらに描かれてて、ただ我慢しているだけだし、最後に「自分が冷たい女だからあなたが離れて」みたいな台詞を言うのはあまりに不自然で、プロクターが妻を精神的に追い込んでしまったモラハラ夫にしか見えなくなる。全体的にセイラムは家父長制的な抑圧と腐敗のせいで魔女狩り突入してしまったように見えるのだが、どういうわけかその腐敗の責任を弱い立場の若い女たちに転嫁しているようで、見ていて物凄く掘り下げが甘い芝居に見える。

 また、構成の緊密さなどのほうもこの間見た『橋からの眺め』のほうが巧みなのではという気がした。とくに『るつぼ』は第一幕終盤あたりで娘たちが人々を告発し始めてから聖女に祭り上げられるあたりの展開がちょっとすっ飛ばし気味というか、いつのまにか話が進んでいて緊密さに欠けるように思う。『橋からの眺め』はものすごく小さい規模の家庭のドラマギリシャ悲劇みたいなスケール感にまで広げてしまう意外性があったと思うのだが、『るつぼ』は社会に内在するものすごく大きな問題をとらえようとしているわりに、なぜか「若い女が怖い」みたいなところに縮んでいってしまうので、尻すぼみな感じがする。

2016-10-10

グロテスクとユーモア〜『エンジェルス・イン・アメリカ』

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 トニー・クシュナーエンジェルス・イン・アメリカ』を両国のblack Aで見てきた。tptによる上演で、門井均演出、第一部・第二部に分かれていて全部で6時間弱くらいある。初演は1990-1993年だが、第二部「ペレストロイカ」は2013年に改訂されており、これは日本初演だそうである

 話は80年代半ばのニューヨーク舞台である。あらすじはかなり説明しづらく、この時代のエイズ流行をある点ではリアルに、ある点ではシュールに描いた作品だ。エイズに苦しむゲイ青年プライアーと恋人であるユダヤ系ルイス、クローゼットなゲイである法廷書記のジョーと妻のハーパー(ふたりはモルモン教徒である)、実在の弁護士であるロイコーン(一時期ドナルド・トランプの代理人だったらしい)、三組の物語が交錯する。この他にプライアーの親友であるアフリカンの看護師ドラァグクイーンであるベリーズプライアーの母であるハンナが主要人物として登場する。

 プライアーの病気に脅えたルイス恋人を振ってジョーと付き合いはじめ、夫のジョーに愛されていないのではと思ったハーパー精神的に極めて不安定になりはじめる。恋人に去られたプライアーはベリーズに助けてもらいながら病気と闘い、やがてプライアーの夢に天使があらわれるようになる。ロイコーン赤狩り急先鋒で非常に汚いことをしてきた弁護士で、エイズで死にかけているのだが肝臓癌のフリをし、一方でジョーを可愛がってワシントンDC司法省ジョーを働かせようと画策している。息子のジョーゲイだと知ったハンナソルトレイクからニューヨークに出てくるが、ひょんなことからプライアーを助けるようになる。プライアーは天使と戦って生き延びるが、ロイコーン自分電気椅子に送ったエセルローゼンバーグの幻影に脅えながら死んでいく。ルイスジョーハーパーはそれぞれ別れる。最後はプライアー、プライアーとは別れたが友人に戻ったルイスベリーズハンナがセントラルパークのベセスダ噴水で天使の像を見ながら話しているところで終わる。

 この芝居はおそらくかなり大がかりな特殊効果やプロジェクションなどの技法を使って上演することもできると思うのだが、このプロダクションは特殊効果の点ではわりとシンプルで、白い壁にふつうの照明をあて、ほとんど小細工は使っていない。ただ、セットは意図的にごちゃごちゃとした雰囲気を目指したもので、左側には透明な椅子を積み上げ、右側にはバーのようなテーブルや寝椅子などを置き、中央部にもテーブルなどいろいろな物を置いている。車輪付き衣装掛けをドアとして利用しており、ここをくぐって登場人物が入場するというような演出もある。同じ舞台で一度にいろんな場面が起こったりもするし、ひとりの役者が何役も演じる。何しろ6時間弱もあるのでかなりタフな芝居である

 初めて見たのだが、とくかく戯曲の完成度は凄いと思う。三組の全く接点がなさそうな人間たちをきちんと絡ませてそれぞれに納得いく終わり方を用意し、そつなくまとめている。前半の病気の告知シーンはとてもよく書けており、プライアーがカポジ肉腫を見せて病気をさらりと告げるとルイスがすごいショックを受けるところと、ロイコーン医者エイズのことを告知されて「自分は男とセックスするがゲイではない」とか「肝臓癌にしとけ」とかやたら横暴な発言をするところの対比が非常に鮮やかだ。何しろつらい病気人間同士の確執の話なのでかなりヘヴィなのだが、一方でけっこう気の利いた台詞もあって笑える。最後のプライアーのスピーチは、ちょっと長いと思うところもあるが基本的にはユーモアがあり、明るいトーンで終わると思った。

 一言で言うと、この芝居のキーワードは「グロテスク」なのではないかと思った。ここで言うグロテスクというのは、いささか気味が悪いが単に不愉快というのではなく、何か心引かれるところがある奇怪さである原作戯曲にもいろいろなグロテスクな要素があるのだが、この演出はそれをシンプルなやり方で強調しているように思った。

 プライアーはエイズで体中に肉腫ができてしまい、またお尻から出血するなどのたいへんな目にあうのだが、自分の体を気にするプライアーに対してエセルが体の斑点を見ながら「ガンなんでしょ、これ以上人間らしいことなんかない」みたいな台詞でさらっと流すところからもわかるように、人体から血が出たり腫れたりするのはグロテスクだが人間らしいこととして描かれていると思う。これはハーパーもそうだ。精神安定のための薬をたくさん飲んだハーパー南極に行った夢を見て、そこでなんかモフモフしたものを出産するという幻想を語る。この台詞だけで語られる異常妊娠の様子はグロテスクなのだが、あまり恐ろしい感じはせず、むしろちょっとユーモラスで、夫に愛されずつらいめにあっているハ−パーの人間味を示すものとして淡々と語られていると思った。このプライアーとハーパーの描写では、様相は違っていても病に苦しんでいる人々が直面する様々なグロテスクなものを人間らしいもの、恐れる必要のないものとして描いていると思う。

 一方でロイコーンについては、最初のジョーを呼びつけておいてサンドイッチを食べながらひっきりなしに電話をかけまくる場面からして、この2人とは別種のグロテスクさを感じさせるような演出になっている。ホモフォビックなのに男性セックスするのが好きで、自分病気も否認し、権力のために人を操るのが大好きなロイはとにかく矛盾に満ちた人間だ。彼のグロテスク存在感については肯定されているとは言えず、むしろどんどん孤独な死という悲惨な運命につながっていくものとして描かれていると思った。ロイグロテスクさはプライアーやハーパーが帯びているグロテスクさとは異なり、もっと惨めなものである

 天使については、黒い翼をまとって歪んだ乳房(もちろん作り物で、不自然にねじれてる)を丸出しにして出てくるというヴィジュアルである。これは明らかに人間とはかけ離れたグロテスクさを持っており、台詞人間離れしている。視覚的な面で一番奇怪といえるのはこの天使なのだが、なんでもアメリカ天使ヴァギナを4つ持っていてプライアーに物凄い快楽をもたらしたそうで、独特の奇矯なエロティシズムを持った神秘的存在として描かれている。

 そういうわけで、三種類のグロテスクさをうまく醸し出した演出が良かったと思うのだが、いくつか気になる点もあった。一番気になったのはけっこう台詞のもたつきやトチりが多く、とくに早口でしゃべらないといけないところでつっかえたりするのが見られたことである。全体的に台詞に難しいところがあると思うし、タフな芝居なのでこれは少々しょうがないところもあるのかもしれない。プライアーだけ抜群に台詞回しが美しいと思ったのだが、なんと演じている寺本一樹が実際に第二部の翻訳者だということで、まあそれなら台詞が板に付いているのは当たり前なのかなと思った。

 あと、細かいところだが、最初にロイジョーが話す場面で出てくるサンドイッチ電話椅子にのせられて隅っこに片付けられ、そのまま何場が演じた後また同じサンドイッチが取り出されて食べものとして使われるという演出はどうなのかなと思った。舞台から一度はけるならともかく、ずーっと隅っこに放置されていたサンドイッチがまた使われてもあまり美味しそうとは思えないので、もう少しはけ方を工夫したほうがよかったのではと思う。というのもこの芝居の前半では飲食を介したコミュニケーション重要で、ジョールイスホットドッグを食べて仲良くなるという場面もあったりするので、もう少し食べものの入退場には工夫をしてもいいんではという気がした。

2016-05-05

父の抑圧とギリシア悲劇〜NTライヴ『橋からの眺め』(ネタバレと字幕解釈あり)

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 NTライヴで『橋からの眺め』を見てきた。アーサー・ミラー1950年代に書いた芝居で、イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出、マーク・ストロング主演である

 舞台50年代ブルックリン波止場の近くに住んでいるシチリア系の一家。家長波止場労働者であるエディ(マーク・ストロング)と妻のビアトリス(ニコラ・ウォーカー)は、ビアトリスの姉の娘で孤児になっているキャサリン(フィービ・フォックス)を引き取り、実の娘のように大事に育てていた。キャサリンタイピストとして就職するのと同時にビアトリスのいとこであるマルコとロドルフォがシチリアで食い詰めてアメリカ密入国してくる。地域の習慣で、エディ一家は不法移民であるふたりをかくまって暮らすようになる。マルコシチリアに妻子がいるため金を作って帰国したいと考えているが、若く独身のロドルフォはキャサリンと親密になり、結婚を考えるようになる。キャサリンを独占したがるエディはロドルフォを敵視し、地域不文律を破って移民局に密告を…

 舞台は四角くほとんど何も置かれていない平たいセットで、ただし三方が透明なバーで囲まれており、役者はこのバーに座ることができる。奥に入退場できるドアがついている壁がある。たまに椅子とか布とかが出てくる程度で大道具小道具は最小限であるクライマックスではここに血の雨が降って舞台が真っ赤になる。

 全体的に家父長が支配する家庭における抑圧を描いた作品で、エディがキャサリンに寄せている不健全虐待的な執念が悲劇を呼ぶという作品である。エディは家長として自分男性性に強いこだわりを見せているが、エディの力はどんどん衰退し、剥奪されていく。まずはキャサリンが週給50ドル(エディが言っていた週平均30〜40ドル給与より多い)を得て自立しはじめ、エディがもちあげられない椅子マルコが持ち上げることで肉体的な敗北も明示される。エディのホモフォビア(若くてハンサムなロドルフォがゲイでないかと疑うところ)も、エディの男性性に対する非理性的な執着を示している。

 この芝居では、男性性への執着がギリシア悲劇的な運命の力というモチーフに結びつけられている。家庭劇なのだが、構成も演出も単純化されており、弁護士アルフィエーリがコロスの役をつとめる。エディはキャサリン自分の手元に置いておこうと異常な行動をとるので、ふつうに演じるとただの不気味で抑圧的なアホに見えそうなものだが、マーク・ストロングが極めて人間味のある演技を披露しているので、異常ではあるがある種の尊厳を持った悲劇的人物としてエディが多面的に提示されている。さらにアルフィエーリがコロスとしてしっかり機能しているので、運命の抗いがたい力が前面に出てきて、本当にギリシア悲劇にそっくりである

 なお、字幕で"punk"がずっと「ホモ」と訳されており、これは明らかに侮蔑として使用されているので侮蔑語が使われているのはいいのだが、訳語としてこれが適切なのはちょっと疑問があった(ふつうは「チンピラ」とか「不良のクズ」みたいな感じだろう)。まずOEDを見たところ、1940-60年代の用法で"homosexual"っていうのがあり、45年の用例はなんとケルアックである。さらにレビューなどを検索してみたところ、マーティン・ゴットフリートの伝記の中に「この"punk"に"homosexual"の含意があることをミラーは理解しており、ミラーは別の芝居でもその意味使用していて、イギリスでは上演時に問題になったこともある」というような記述がある。どうやら他にもこのpunkにhomosexualの意味が含まれて使われていることを分析したレビューはあるようなのだが、ちょっとアクセスできないものがあったりして読めなかった。なお、こちらの論文によると"weird"もたぶん"queer"に近い意味だろうということだ。もう少し補足で調査をしたいところだが、伝記の情報が正しいのなら、字幕解釈としては適当と思われる表現だったということになると思う。

2015-10-29

モラハラ男と不安な女〜『スコット&ゼルダ』

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 銀河劇場で『スコット&ゼルダ』を見てきた。フランク・ワイルドホーン作曲のミュージカルで、スコット・フィッツジェラルドとゼルダ・セイヤーの人生を描いた作品である。もとのアメリカ版とはかなり演出を変えているそうだ。

 話は精神病院に入院しているゼルダのところに記者のベンが取材に来て、ゼルダが過去の話をするという『市民ケーン』ふうの枠に入っている。アメリカ南部のモンゴメリ出身で自由な精神を持つ美女ゼルダ・セイヤー(濱田めぐみ)は作家としての成功をめざす若者スコット・フィッツジェラルド(ウエンツ瑛士)と運命的な出会いをし、2年程離れて求愛期間を過ごした後、結婚してニューヨークで暮らし始める。スコットはすぐにベストセラーを書き、2人はジャズエイジの華として社交生活を送るが、スコットがゼルダ虐待するようになり、さらにスコットの仕事もうまくいかなくなっていく。ゼルダは精神を病み、スコットも酒浸りになって、2人は破滅に向かっていく。

 実は私はそんなにフィッツジェラルドが好きではないのだが、このミュージカルは良くできていて面白いと思った(ただ、かなりつらい話だと思ったのでちょっとよく読み取れてないところがあるかもしれない)。セットは中央に回転ドアがあり、両側に階段があって上にバルコニーがついていて、その後ろの部分にオーケストラがいるというもの。複雑な場面転換はそれほど無く、精神病院もゼルダとフィッツジェラルドの社交生活も大部分がこのセットで展開し、ベンに人生を語るゼルダがそのままスコットとの物語に切れ目無く入っていったりする。3時間近くあるということでちょっと長すぎるのだが、こういうつらい話はこれくらい長いほうがいいかもしれない。ゴシップ記者がゼルダと話すことで「書くとは何か」という主題がどんどん明らかになっていくという構成はとても良い。また、歌手とダンサーを分け、スコットがタイプライターに向かって執筆する周りでダンサーが床を踏みならして踊ることで執筆の進み具合を示すなど、文学を主題とした作品としてはかなり気の利いた演出をしていると思う。

 一番の見所はスコットのモラハラ夫ぶりである。ウエンツ演じるスコットは、見た目はハンサムだし才能にも満ちているのだが何か決定的に精神に空隙があり、自分の愛する女性にも人権とか自由とかがあるということに全く思い至らない。ゼルダの日記を勝手に自分の作品に流用するなど妻の尊厳を傷つけるようなことを四六時中しているにもかかわらず、それの何が悪いのか全く気付いていないのである。ゼルダが離婚を切り出した時、スコットはゼルダを監禁するなどのひどい虐待を加えるのだが、この他人の心を全く理解しないサイコパスっぷりは殴る蹴るなどの暴行よりもかえって怖い。これはたぶんウエンツの「キュートだけどなんか抜けてる」個性がいい方向に働いていると思う。

 ゼルダはこのモラハラ夫スコットに対抗しようとするのだが、自分を証明したいという不安にかられているゼルダが選ぶ手段はあまりうまくいきそうもないようなものが多く、かなり悲惨な結末に突っ込んでいって、最後はゼルダもスコットも共倒れになってしまう。単に夫に虐待されっぱなしの妻ではなく自分にできる範囲で抵抗しようとするゼルダは勇気があるが、不安に苛まれてかつての自由な精神と才気を失ってしまっているように見え、非常に痛々しい。最後にゼルダをボロボロにしたスコットが病院の妻のもとを訪れて自分の罪を理解し、ひどい後悔に苛まれる場面は、心が痛む場面ではあるが、あんなに虐待しておいてこういうオチとはいささかきれいにまとめすぎかもという気はする。一応、最後にベンが作家としての決意を新たにするという少し明るい結末があるのだが、それでもかなり救われない話ではあった。

 

2015-05-29

これはクィアな悲劇か?〜ナショナル・シアター・ライブ『二十日鼠と人間』

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 ナショナル・シアター・ライブ『二十日鼠と人間』を吉祥寺オデオンで出てきた。なぜかブロードウェイで上演された作品である。主演は今をときめくクリス・オダウドとジェームズ・フランコ、演出はアンナ・D・シャピロで、スタインベックが自分の小説を戯曲化したものらしい(一応原作は小説なのだが、ほとんど戯曲みたいな小説らしい)。これはアメリカ人は皆知っている話で、ジョージとレニーはフォーク・ヒーローみたいな扱いらしいのだが、私は原作を読んだことがなくてあまり知識がなかったこともあり、新鮮な印象で見ることができた。

 主人公は恐慌中に季節労働者として働いているジョージ(フランコ)とレニー(オダウド)で、ジョージは小柄で賢い男だが、レニーは大男で怪力であるものの、おそらく何かの知的障害を持っていて行く先々でトラブルを起こしている。ジョージはそんなレニーを親友としていたわり、一緒に小さな農場を買って暮らすことを夢見て貯金をしているが、なかなかうまくいかない。レニーが前の職場でトラブルを起こしたため、2人は新しい働き口にやってくるが、そこで働いている右手のない老人キャンディが2人の夢を知り、自分が障害を負った時にもらった補償金を出すので夢の農場の仲間に入れてくれと言ってくる。ところがひょんなことからレニーは誤って農場のボスの息子カーリーの妻を殺してしまい、悲劇が…

 セットは最初と最後に出てくる川辺、農場の宿舎(ベッドがついた壁が上から降りてくるという大胆な装置転換がある)、宿舎に入れてもらえないアフリカンの労働者クルックスの部屋(読書家という設定で本がたくさんある)、納屋などで、美術はわりとオーソドックスだと思った。時代背景が重要な芝居なので、もちろんモダナイズはない…のだが、貧困に押しひしがれまともな家にも住めず、一生命令される立場であり続ける登場人物の姿はモダナイズしなくてもじゅうぶん、現代的だ。

 主演のクリス・オダウドとジェームズ・フランコの演技はとてもよかった。オダウドはもともと喜劇役者なので面白みがあるのだが、愛嬌のある演技と最後の悲劇のメリハリが非常にある。フランコは食い詰めた季節労働者にしては容姿がゴージャスすぎるかもしれないが見ているうちにそんなこともふっとんでしまい、オダウドと息もぴったりで、最後の涙を流しながら相棒を殺そうとするところは非常に心に迫るものがある。

 それで、見ていてこの作品ってかなりクィアなんじゃないかと思った。この作品における異性愛というのはとにかく絶望的なものである。男たちは金がなさすぎて女を口説く余裕すらなく、女といえば娼婦しかいない貧困生活にどっぷりとつかっているのだが、かといって女がいる男が幸福かといえば全くそういうことはなく、カーリー夫妻は極めて不仲で新婚二週間で離婚の危機である。不満をもてあましたカーリーの妻がやたらに男たちに色目を使い、その結果レニーが全くの勘違いでカーリーの妻を殺してしまうという展開はミソジニーを感じさせるところもあるが、この演出ではカーリーの妻(レイトン・ミースター)はそれなりに孤独でかわいそうな女性として描かれているところもあり、そこまで激しいミソジニーは感じなかった。またまた、ものすごい美人なのに小悪魔っぽくてトラブルを起こしそうだということで宿舎の男たちみんなから避けられているというあたり、この作品では異性愛が可能性として提示されてもことごとく拒否されるという展開になっていると思う。一方、ジョージとレニーは男性同士で、性愛でも血縁の情でもない友愛の絆によって結ばれており、これが孤独労働者たちの中にあって2人を特別な存在とするものとして描かれている。この恋人でもなければ血縁でもなく、利益があるわけでもないのに家族を作ろうとする男たち2人の関係がある種の聖性すら有する純粋な愛として描かれているというところは非常にクィアな作品だと思ったのだが、このクィアな関係が幸福な結末を迎えることはなく、レニーが障害ゆえに犯罪を犯したことでジョージはレニーを殺す羽目に陥る。2人の友愛が成就しなかったのは、こうした型にはまらない人間関係、障害、貧困などを迫害する社会制度のせいであり、レニーが社会に押しひしがれトラブルに巻き込まれることを予想しつつレニーを守るろうとするジョージの姿は、運命が決まっていてもそれに抗おうとする古典的な悲劇のヒーローだ。男性中心主義的、異性愛中心主義的、かつ資本主義的(現代の再演なので、ネオリベラリズム的といっていいと思う)な社会の中でヒエラルキーの下層に追いやられている男たちの運命が非常に丁寧に描かれていると思う。