しょうもないロマコメ~『アイリッシュ・ウィッシュ』(配信)

 Netflix配信のセント・パトリックス・デーのホリデイロマコメ『アイリッシュ・ウィッシュ』を見た。

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 編集者のマディ(リンジー・ローハン)は担当をつとめているアイルランド出身の小説家ポール(アレクサンダー・ヴラホス)に恋をしていたが、ポールはマディの親友エマ(エリザベス・タン)と結婚することになってしまう。結婚式でアイルランドに行ったマディは願い事が叶うという石のベンチでポールとの結婚を願ったところ、翌朝マディはポールと結婚することになっていた。ところがマディは地元で会ったジェイムズ(エドワード・スペリーアス)と妙にウマがあってしまい、ポールとの結婚に疑問を抱き始める。

 とにかくアメリカ人がアイルランドに抱いている妙なファンタジーが詰まった作品…なのだが、そのわりに全然アイルランドっぽいところが活用されていない。何しろマディの恋の相手になるポールはアイルランド人という触れ込みだが全然アイルランド人っぽくなく(演じているのはウェールズ人)、家族はみんなポッシュで方言のない英語をしゃべっているし、住んでいるお屋敷はどう見ても昔は不在地主の持ち物でしたみたいなお屋敷である。さらに地元で会うジェイムズはイングランド人だし、舞台をアイルランドにする意味はお願いがかなうベンチくらいしかない。私の偏見かもしれないが、アイルランドにはいろんなタイプの面白くてホットでオーセンティックなアイリッシュアクセントでしゃべれる男優がたくさんいるはずなのに(キリアン・マーフィもアンドルー・スコットもドーナル・グリーソンもポール・メスカルもロバート・シーハンもバリー・キョーガンもアイルランド人である)、ウェールズ人やイングランド人の男優が出てくるのはよくわからない。

 脚本も全然ダメで、いろいろおかしいところがある。まず、マディが編集者らしいのになぜかポールの小説を書いている…?ような展開になっていて、いったいこの版元はどうなっているんだみたいな仕事ぶりだ。また、お願い事をした翌朝にはマディとポールが結婚することになっているらしいのに一切性交渉の気配がなくて、まるで昔の映画みたいにカマトトである。最後にマディとジェイムズが再会するくだりもちょっとたるい気がする。しょうもないロマコメである。

お菓子をめぐるサクセスストーリー~『パリ・ブレスト〜夢をかなえたスイーツ〜』(試写)

 『パリ・ブレスト〜夢をかなえたスイーツ〜』を試写で見た。実在するパティシエであるヤジッド・イシュムラエンの人生に緩く基づいた作品である。

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 モロッコ系のヤジッド(リアド・ベライシュ)は母にネグレクトされてろくにかまってもらえずに育つ。まともな里親に巡り会ってそこでお菓子作りの楽しさに触れるが、その後も施設に入ったりして厳しい環境で暮らしていたが、どうにか高級店のキッチンにもぐりこんで修行し、だんだんパティシエとして頭角を現すようになる。挫折もしたがなんとか支援してくれる人も見つけ、念願の国別対抗パティシエコンテストに出場する。

 先日レビューを書いた『ラインゴールド』同様、移民の成功物語…なのだが、ヤジッドはより生育環境が悲惨で(里親はしっかりした人たちだが)、またちょっとばかり非行もあるがそんなに大変な犯罪をしているわけではなく、貧困やあまりお菓子作りなどに理解を示さない環境との戦いが大きな要素になる。施設に入っている間はいろいろウソをついたりごまかしたりして遠くの店まで修行に通っており、他の子にはガールフレンドに会いに行っているフリをして出かけるなど、苦労の連続だ。パティシエになっても野宿状態というお金のなさで、他のエピソードを見てもたぶん生育環境が貧しすぎたせいで里親以外に頼れる人がなく、調理を学ぶのが精一杯で、生活スキルみたいなものを見つける余裕がなかったのだろう…という感じがする。ネグレクトがひどかった実母とはあまり会いたくないもののまったく心配していないわけではないというような微妙な関係で、そのあたりもリアルである。

 出てくるデザートはどれも大変凝っていて美味しそうで、見るだけで楽しい。ヤジッドの暮らしぶりはかなりキツいのだが、デザートの豪華さはそれと対照的で、まるで夢の世界から来たような完成度だ。たぶんヤジッドにとっては、暮らしはいくら貧しくとも、この豪華絢爛なお菓子のほうが本当の自分があるところなんだろうと思う。

『芸術新潮』に『異人たち』のレビューを書きました

 『芸術新潮』4月号に『異人たち』のレビューを書きました。書誌情報は以下の通りです。

 

北村紗衣「クィアな時空が解放するもの――『異人たち』」『芸術新潮』2024年4月号、p. 121。

 

 

『毛皮のマリー』と『薔薇の葬列』に関する論文を書きました

 武蔵大学の紀要に『毛皮のマリー』と『薔薇の葬列』に関する論文を書きました。お世話になった香川檀先生の退職記念号です。書誌情報は以下の通りです。

北村紗衣「1960年代の「鏡よ、鏡、鏡さん」――寺山修司毛皮のマリー』と松本俊夫薔薇の葬列』における『白雪姫』の影響」『武蔵大学人文学会雑誌』55.2 (2024)、233-252。

『日経新聞』に『RHEINGOLD ラインゴールド』の批評を書きました

 『日経新聞』3月22日夕刊に『RHEINGOLD ラインゴールド』の短い映画評を書きました。ウェブ版でも読めます。

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ナン・ゴールディンの薬害問題との戦いを描いたドキュメンタリー~『美と殺戮のすべて』(試写)

 『美と殺戮のすべて』を試写で見た。タイトルからはよくわからないが、写真家のナン・ゴールディンに関するドキュメンタリー映画である。

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 姉の死やクィアコミュニティとのかかわりに根差した芸術活動、セックスワークで苦労した話など、ゴールディンの人生の話が語られる一方、大きな主題はオキシコンチンの薬害に対する抗議活動である。オキシコンチンオピオイド系の鎮痛剤だが依存性があり、多数の犠牲者が出たため販売元のパーデュー・ファーマ社が訴えられる事態となった。自らもこの薬害の被害者であるゴールディンは、パーデュー・ファーマ社を創業し、美術パトロンとしても有名なサックラー一族に対してアートを用いた抗議活動を行った。犠牲者の証言は非常に悲惨なものが多く、一応補償金が支払われてパーデュー・ファーマ社もなくなったとはいえ、死んだ人は帰ってこないし、サックラー一族はいまだにこの薬を売ったお金で大金持ち…ということで、なかなかやりきれないもののとりあえずは前に進もう、という終わり方になる。

 私はナン・ゴールディンの作品とかに全く詳しくないのだが、予備知識が全然なくてもきちんと理解できるように作ってある。ゴールディンがいろいろつらいことを乗り越えてとにかく行動的に芸術家として執拗とも言えるくらい粘り強く薬害問題に立ち向かう姿は、芸術が不正なお金で支援されているのを見過ごせないという厳しい倫理観に基づくものだ。見ていてけっこうキツい作品だが、骨太でよくできたドキュメンタリーである。

静かなロマンティックドラマ~『パスト ライブス 再会』(試写)

 セリーヌ・ソン監督『パスト ライブス 再会』を試写で見た。 

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 ソウルに住む12歳のノラはヘソンと思い合っていたが、ノラがカナダに移住することになる。12年後に2人はネット上で再会し、ビデオチャットで交流を深めるが、結局ノラ(グレタ・リー)は韓国に行ってヘソン(ユ・テオ)と会うことができなかった。さらにその12年後、ヘソンは既に結婚しているノラとニューヨークで再び会う。

 移民の経験を織り込んだ、大変よくできたロマンティックドラマである。イニョン(縁)がキーワードになっており、東アジア的な価値観がいたるところに見え隠れする一方、ノラはかなり北米の文化にも馴染んで作家として活動しており、ふたつの文化を身につけて暮らしている人の生活をリアルに表現している。終盤でノラとヘソンは韓国語で会話しているのにノラの夫アーサー(ジョン・マガロ)は韓国語がわからないので置いてきぼりになるところでは、ふだんは圧倒的な多数派言語である英語が少数言語となる様子が描かれており、ここは通常の言語環境の裏返しみたいな感じで面白い。

 ただ、アジアやヨーロッパの恋愛映画だとこの種の展開はけっこうあると思う…というか、こういう劇的な展開にならず、女性が少しだけいつもの人生行路から出て行って戻ってくる、みたいな映画は古くはデヴィッド・リーンの『逢びき』から『花様年華』、最近は『マダム・イン・ニューヨーク』までいろいろあると思うし、もうちょっとドラマティックな話ではあるが雰囲気は『別れる決心』なんかにも似ていると思うので、そこまで珍しい感じの映画ではないと思った。こういう映画がアメリカで斬新な作品として非常に受けているのはたぶんその種のロマンティック映画をアメリカの観客が見慣れていないからなのかな…という気がする。縁というような考え方は、私は別に全然ロマンティックとは思わない…というか、むしろうまくいかなかった人間関係を諦めるためにある考え方だと思うのだが、そういうものがアメリカなどではけっこうロマンティックに感じられるのかもしれないと思う。