革命的ドジっ子の物語におけるセクシュアリティとトランクの認識論〜『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』(ネタバレあり)

 『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』を見た。

 原作『幻の動物とその生息地 (ホグワーツ校指定教科書 (1))』は学校用の教科書という設定なので物語が無いので、映画はこの本の著者で魔法動物に目が無い研究者ニュート・スキャマンダー(エディ・レッドメイン)が1920年代半ば、イギリスを出てニューヨークに行き、行った先で魔法動物をうっかり落っことしたりしてトラブルに陥る一方、闇の魔術と戦うハメに…という物語である。

 とにかくニュートがとんでもないドジっ子だ。容易に持ち歩きできるサイズの使い込んだトランクに魔法で自分用の研究室とミニ魔法動物園を仕込んでいるのだが(これがすごくデカくてまるで『ドクター・フー』のターディスみたい)、飼っている動物がどいつもこいつも飼い主に似たのがとぼけた連中ばっかりで、しょっちゅうトランクから外に出ようとする。ニュートは優秀な研究者であるはずなのだが動物の管理は全くなっておらず、けっこうデカくて危険そうな動物もうっかり逃がしたりしてしまう。こいつ大丈夫かと思うところがないでもない。

 しかしながら全体の物語を見ると、この「トランクからいろんな動物を逃がしてしまうドジっ子魔法使い」という設定はある種の哲学的な重要性を帯びているように見える。というのは、この物語においては魔術を隠しておいて人にさとられないようにするということの是非がプロットの鍵だからである。アメリカの魔法使いたちの評議会MACUSAは自分たちの身を守るため、人間と魔法使いが交流することを極端に嫌い、魔法を一切、魔法使いでない人間(ノー・マジ)に悟られないようにしようとしている。ニュートははっきりとこの過剰に防衛的な態度を批判しており、魔法使いと人間の隔離政策に異を唱えている。おそらく本人の意識にはのぼっていないのだろうが、彼がトランクからだいたいは素敵だがたまにとんでもないこともある魔法をこぼして歩き回っているのは、この自分たちの特性を秘匿しようとする態度に対する反抗心の無意識な現れだろうと思う。このせいでニュートは人間であるパン屋のジェイコブと得がたい出会いをし、さらに闇の魔術からニューヨークを守るんだから、ニュートのドジっ子ぶりは実は革命的なのだ。ちなみにMACUSAの建物で何重にも魔法をかけた扉にアロホモラ(開錠呪文)がきかず、クイニー(アリソン・スダル)が困っているところでジェイコブがドアを人間力…で脳筋的にこじあけるところがあるが、おそらくジェイコブとニュートはいろんなものをオープンにすることができるという共通点を持っているのだと思う。

 一方で秘匿することの悪を象徴しているのがクリーデンスとグレイブズのストーリーラインである。このストーリーラインは象徴的にぼかしてあるが、私はこれは所謂「クローゼット」なホモセクシュアリティと児童性的虐待のメタファーだと思う(この映画の魔法使いがセクシュアルマイノリティを意味してるのではということは英語圏では既にたくさん言われている)。エズラ・ミラー演じる若者クリーデンスは狂信的なキリスト教徒で魔法の弾圧を訴えているメアリー・ルー・ベアボーン(サマンサ・モートン)の養子なのだが、実は魔法使いでそれを隠している。しかしながらベアボーンはそんなクリーデンスを悪に傾いていると思って疎んじており、ひどい身体的虐待を加えている。前にアナ雪のレビューでも書いたが、英語ではin the closetとかcloseted、つまり「クローゼットに入っている」で「同性愛者であることを隠している」という意味であり、自らの性質である魔法の力を押し込めて暗いところに隠しているクリーデンスはクローゼットな同性愛者を象徴しているのではないかと思う。そこに近づいてくるMACUSAのお偉いさんであるグレイブス(一応コリン・ファレル)は一見、ものわかりがよさそうで同じ魔法使いとしてクリーデンスを助けてくれるのかと思いきや、実はクリーデンスを利用する気満々だった。これは子ども狙う性的虐待者を象徴していると思う。とくにグレイブスがクリーデンスを薄暗い路地に連れ込んで、ボディタッチなどもまじえながら言葉巧みに甘言で説得するところはまるで若者を狙う性的プレデターみたいだ(ネタバレになるので詳しいことは言えないが、グレイブスの正体が映画の最後でわかると全くこの誘惑が甘言による性的搾取にしか見えなくなる。グレイブスには既にほとんどのハリー・ポッター読者が知っている前科がある)。ところが狂信的な母親に虐待されているクリーデンスは不安な子どもなので、本性を隠して自分を利用しようとするグレイブスに頼ることでより傷ついてボロボロになってしまう(オチはちょっとオーランドのゲイクラブ襲撃を思い出すところもある)。

 ここで本来、クリーデンスを助けられる力を持っていたのはティナ(キャサリン・ウォーターストーン)か、あるいは最後にどうにかクリーデンスが作ったオブスキュラスをなだめようとするニュートのような人物である。ここで、しょっちゅうトランクから自分の正体をダダ漏れにしているニュートが魔術(同性愛のメタファー)を押し隠した結果できた闇であるオブスキュラスに対抗し、テロに走りかけた子どもを助けられるような強靱な精神と倫理観、思いやりの持ち主であることがわかる。この映画では、自分の正体を開けっぴろげに周りに知らせてしまうちょっと抜けた開放性が強さとか美徳といったものにつながる。自分を押し隠すことは人を破壊するが、そのへんにちょろちょろこぼしまくっているニュートは破壊されない勇気を身につけている。

 この映画においてトランクというのは、ものを隠しておきつつ、常に中身がぶちまけられてしまう可能性をも秘めている両義的な存在だ。クローゼットは持ち運びができない重たいものだが、トランクは一時的に何かを運ぶためのものなので、家の中に隠してはおけず、クローゼットよりはるかに中身が漏れる可能性が高い。当然運搬の途中で中のものが外に飛び出したりするし、旅行中に必要があれば自分で中身を出さないといけない。一方でトランクは公道とかバーとかに比べるとずいぶん私的なものだ。この、基本的にはしまっているが開く可能性を常に秘めているトランクは、ニュートのドジで柔軟なスタンスを象徴していると思う。彼は大胆なカムアウトはしないが、その正直な気持ちが常ににじみ出ており、そしてそのにじみ出る個性を気にしていない。ここにニュートの強さがある。そしてこの映画が訴えているのは本当の気持ちを押し隠さずに自分とつきあっていくことの重要性だろうと思う。たぶんこの映画は、自分を隠していて苦しんでいる子どもや若者たちの背中をそっと押してくれる作品なのだ。

 なお、この作品はベクデル・テストはパスする。ただ、いくつかのレビューで指摘されているように、ジャズエイジの映画なのにアフリカンがとても少ないのはちょっと気になった。カルメン・イジョゴ演じるMACUSAトップ以外はほとんどアフリカンが出てこない。ハーレム・ルネサンスふうの魔女とか見たいんだが…

↓タイトルはこれをパロっています。すいません。

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