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だましたつもりでだまされた

2014-08-12

人にものを頼むという冷たさ

「自分でやったほうが早い」でチームは滅ぶ

ということらしいのですが、ちょっと個人的な経験に照らしたときにはいろいろと納得できない部分も多かったので、ちょっと意見を書いてみることにします。

あくまでも個人的な見解なので、一般論として合っているかどうかは知りません。


私個人これまで何度か会社に勤めてきた経験があるのですが、その中には決定的に他人にものを頼むのが下手な上司もいました。
もう辞めた会社なのではっきり思っていることを言ってしまえば、そこには上司としての仕事ができない人のテンプレートのような人もいました。

上司本人はうまく隠しているつもりのようでしたが、非常に猜疑心の強い性格をしておりその上臆病で自分が任せた仕事について自分に責任が及ばないかを常に気にしているタイプの人だったのです。


しかしその人は上司という立場もあり、部下に自分の仕事を任せることが日常業務として避けられないものでした。


そうした人から仕事を任されるということがいかに部下にとって負担かということは、その時その場所で経験してみないとおそらくわからないことかと思います。



上司は個人としては仕事はそれほどできない人ではありませんでした。
ですので部下に任せてしまわなくても、自分で直接やってしまえる業務もたくさんありました。

しかし「上司」という役職上自分でやろうと思えばできた業務もあえて他の人に振り分けることで、その部下の成長だかを助けるために任せるということ選んでいたようです。

ちなみにその会社では某有名企業コンサルタントにかなり高額な顧問料を支払ってコンサルを受けていたので、上司本人ではなくそのコンサルタントの意見でやっていたという可能性もあります。



上司は部下に仕事を任せるときに、決して丸投げはしませんでした。
きちんと仕事を任せる前には丁寧な説明を行っていました。
本人(と有名コンサルタント)は実際にその業務を振り分けるときにはしっかりと計画を立てて人選をしていたようです。
また上司自信がそれまでの業務経験において培ってきた自己流のコツについても、私を含む部下を前に長々とご高説をしていただいたこともあります。

そして部下に任した業務についてはまるで探偵でもいるのかというくらいに徹底的に監視をしていました。
おそらく他の社員が出社しない休日に出勤して、書類やPCの中身を細かくチェックしていたんじゃないかと思います。


さて、それで業務がうまくいったかというと全然そうではありませんでした。
最初はかなりやる気を持って入ってきた中途採用での若手は数ヶ月ですっかりやる気をなくしてしまっていましたし、数年勤務をしてきたベテラン社員はそんな上司の目を盗めるような重要書類の隠し方や、他の社員にはわからないような自己流の営業術を身につけるようになっていました。


正直な意見を言わせてもらえば、そこまで疑うんだったらいっそ全く部下任せの丸投げをするか、それとも人に任せず全部自分でやってくれた方が最終的な仕事のクオリティはかなり高くなったんじゃないかと思えます。




*****



私が上記のエントリーを呼んで思ったのは、そうした「見守る上司」と「成長の伸びしろのある部下」という構図はあくまでもビジネス理論における建前であって、実際にはそうした理想的な関係が築けていることはごくレアなケースということです。

もっとも私が知らないだけで、世の中の企業の多くはそうした善良な人間関係で仕事を回すことができているのかもしれませんが、私は寡聞にして知りません。

いっそキレイ事で語られるビジネス理論なんて無視して、その上司本人の考えで動いてくれた方が現場はもうちょっと楽になったり、成長の機会があったんじゃないかと思えるくらいです。

ちなみにその上司は非常にビジネスに関するハウツー本が大好きで、たくさん読破したことを自慢にしていました。


上司が自分の仕事を任せるために部下を見守るということ自体は間違いではないと思います。

ですが往々にしてあるのが、それが「見守り」ではなく「自主的に自分の言うとおりになってくれるようにする監視」になっているような場合です。

「自主的に」というのがポイントで、実際にああしろ、こうしろとはっきりいうのではなくて、あくまでも教えられる本人の方から自発的に上司の望むような仕事ができるようになるということを求めてきたりします。


わかりづらいので例を出せば、例えば何か製品のデザインをする場合に上司がそれまでの経験上「赤色」を用いていたとします。
しかし新しく入った部下はそれを知らないと「青色」でデザインをした方がよいと思ったりします。
その時上司は一旦部下に仕事を任せた手前、はっきりと「赤にしろ」という指示は出しません。

しかし「赤でなくてはならない」という気持ちを持っていることで、部下周辺にいる他のスタッフに間接的な言い方で根回しをしたり、部下と一緒に働く先輩などから「赤にしろ」と匂わせるように有言・無言の圧力をかけていくというような方法をとっていきます。

その結果、部下に多少なりとも空気を読む能力があると、「ああ、こういうときには赤にしなきゃいけないのか」ということがわかってくるので、直接指示を受けない形で上司に赤いデザインの製品を提示するようになります。

そしてそれが繰り返されることで数ヶ月もすれば同じようなケースにおけるデザインは必ず「赤色」にするように処世術を身につけるようになっていきます。


こうしたやり方を続けていくと当然ですがスタッフはみな内向きになっていき、顧客の意見や仕事の質よりも上司の顔色がまず大切になってきます。
上司が納得しないと結局OKは出ないのですから、自分でものを考えてもムダということに気づくからです。



ここで面倒なのが、そんな圧力をかける上司自身が部下に対して行った自分の行動を決して悪いことと認識していないということです。

自分の中では「部下に仕事を任せ、自分の持っている知恵を間接的にわからせている自分」という理想の上司像ができあがっているのかもしれません。



理想的には上司が部下に「仕事を任せる」ということはある意味「なるに任せる」ということです。
任せれば当然自分の想定外の行動があり、そこから起こるだろう不測の事態もありえます。

ですが仕事ができる上司や私が実際に経験したような臆病で猜疑心の強い上司の場合、自分にとって想定外のことが起こるということは耐え難いものであったりします。
もっと突き詰めれば、自分以外の仕事の仕方がわからない・許せないために何が何でも自分にとって見えやすい視野の中に物事を閉じ込めておきたいということのようにも思います。

この「なるに任せる」という姿勢は案外にかなり難しく、本当に任せることができる人なんておそらく世間的にはごくわずかなんじゃないかなというふうに思ったりもします。
ちなみにこの「なるに任せる」は丸投げをして責任を放棄するのとは全然違います。


誰だったか確かJ-POPの有名な歌かなんかで「普通の恋人は理想の恋人」みたいないことを言っていたものがあったように思います。
つまり世間的には“普通”として思われているような関係は実際にはほとんどなくて、現実にはそんな“普通”ができていれば理想的な関係と言えるくらいみんな何かしらのトラブルを抱えているというような意味です。


冒頭のエントリーや多くのキレイなビジネス理論の作者さんたちはよほど“普通”な人間関係に恵まれた職場で勤務をされているのかもしれません。
ですが私のようなドロッドロの人間関係の職場を経験してきた人間にとってはむしろそうした理想論優先のビジネス理論は迷惑だと感じることもあります。

ひねくれていますね。すみません。

2014-05-04

根強い甘えの構造


最近読んだ本なのですが、「やめられない ギャンブル地獄からの生還(帚木蓬生著:集英社)」の内容があまりにもインパクトがすさまじかったので、そこから考えたことを少し書いてみようかと思います。




まず感想文から先に書くと、この本では主にパチンコ・パチスロにハマってしまい、そのために人格も人間関係社会的地位も何もかも失って転落して病院に来た人たちのことや、またそうした人への救済策がまとめられています。
描写そのものが非常に肉薄的なのと、実際に精神科医の立場からギャンブル依存症の人たちを見てきたという著者の視点がおためごかしなしのものすごくリアルなものであるということもあって、切なくなりつつもつい最後まで読んでしまうという本になっています。
壊れた人間がどんな思考回路で動くようになるかということが非常にわかりやすく書かれているので、人の暗部に興味がある人などはぜひ一度読んでみることをおすすめします。

ちなみに本の中では日本の国策としてのギャンブルのありかたやパチンコが公然と「ギャンブルではない」と扱われている現実、さらにはギャンブル依存症は病気として認知されているものの治療に薬品などがほとんどいらないため金にならないという理由で医学会がほとんど興味も示さないといういろいろな社会的な暗部への提言もされてます。
ですが政治的な色彩が強いわけでもなく、どこか巨悪の存在があってそれをみんなで打ち倒そう!といったようなおかしな意見にはなっていないので、どのような政治的立場の人であってもわりと反感なく読むことができるのではないかと思います。(逆に政治的な主張がある人にとっては「もう一声言えよ!」とか思えるかもしれませんね。知りませんが)。

私がこの本を読んだ目的も別にパチンコやギャンブル業界を悪にしてそれを叩きたいといううような気持ちがあったからではなくて、むしろどうしてギャンブル(や、その他の行為や物に対して)依存症になってしまうのかという人の心理的なところに興味があったからです。
そういう意味でこの本はまさに私の読書に求めていたものを120%以上に満たしてくれるものだったと言えます。
もし多少脚色はあったとしても、実例として登場してくるギャンブル依存症の患者さんたちの「患者」になるまでの流れはとてもリアリティがあり、またそうした依存症状は特別な性格や生活をしている人にだけ起こるのではなく、誰でもどんな瞬間にも起こりえるという恐怖感を感じさせてくれるものです。
決しておもしろおかしく他人ごととして読めるレベルではまとめていません。

描写や転落していく人のとった選択などについてもいろいろ感じるところはあったのですが、今回のエントリーで書きたいのはそこではなくて、本書の中でも度々登場してきた「甘え」についてです。

他の依存症に関する本も読んだのですが、そこではアルコール依存症について詳しく説明をしていて、そこで登場してきた言葉に「イネーブラー(enabler)」というものがありました。
イネーブラーとは直訳すると「共依存者、影の援助者」といった意味のもので、要するにアルコール依存になってしまっている人に対し、それをむしろ助長させるような行動を無自覚にとっている家族や恋人のことをさします。
わかりやすい例を出せば、小林幸子が紅白でも披露したことのある「やんちゃ酒」という歌に出てくるような人のことでしょうか。→やんちゃ酒 歌詞
簡単にいえば、酒を飲んでは失敗を繰り返す状態にある人に対し、本人のプライドや健康を気遣って尻拭いをしたり、しまいにはさらにお酒を飲めるように世話をしてあげるような存在のことです。
アルコール依存に関していうと、このイネーブラーの存在が鍵になっていることが多いとのことで、無自覚であるがゆえにお互いに悪い方向に向かっていることを知らずに関係を続けているという悪循環ができています。
(しかし、これが国民的歌番組に登場する歌だということに、アルコール依存症に関していかに甘い認識でいたのかということがうかがえてぞっとしますね)。

で、話をギャンブル依存症へと戻しますがギャンブルの場合はアルコール依存症と違って依存症であることをその度に周囲に知らせるようなことはしないで、内緒で借金したり使い込みをしたりしてギリギリになってやっとばれるというパターンが多いんだということです。
ただ問題はそうして借金や使い込みがバレたとき、まず周囲が最初にとるのは本人に謝罪をさせて代わりに返済をしてあげるということです。
周囲にしてみれば、ギャンブルで失敗したのは本人も恥ずかしかろうから今回は周囲でなんとかして、ゼロからスタートさせてあげればきっと昔のように戻るはずというふうに思うものですが、実際は決してそうではないと上記の本ではいいます。
むしろそうして返済をされることになると、本人は額を畳にすりつけて涙ながらに「もうしません」と言っていながら内心では「これでまたパチンコができる」とほっとしているのだと書かれています。
ちなみにこのあたりの態度と内心の違いについての描写はかなり生々しく書かれているのでぜひ本を読んでもらいたいです。

その上で本書では、「そうした周囲が尻拭いをしているうちは、本人が何をどう言ってどんな態度をしていても絶対にギャンブル依存症は治らない」と断言しています。
一番いいのは借金は借金としてとりあえず返済しないで放置しておき、病院などへの通院や自助グループへの参加を通して依存状態から復帰しながら本人に返させるとつきはなすことであると著者は言います。


******


さて、前置きが長くなりましたがここからが私個人が考えたことと、言いたいこととしてまとめたいことになります。
先日友人の一人が会社を辞め、実家からも出て一人で生活を始めたという状況がありました。
その女性は私と比較的付き合いが長く、まじめな性格で話ができる友人として大切にしてきた人でした。
ただ真面目すぎる性格と人が良いということもあって、仕事や家庭でどうしても損な役回りになってしまうことも多く、たびたび「なんで私がやらないといけないの?と思ったりする」というような愚痴をこぼすこともよくありました。

よくある話(私も経験があること)ですが、仕事や家事をするとき最初はそれぞれに分担してあったはずのことが、仕事が遅い人やさぼりがちな人がいると、それを早く終わらせたいが
ために他のできる人がやってしまうようなことがあります。
やる側にしてみれば、「今回はこっちにたまたま時間があったからやってあげたんだ。きっと感謝しているはず」くらいの気持ちなのですが、やってもらった側にしてみれば「これで次回からはあの人にやってもらえる」というお互いにとって都合のよい解釈をしてたりします。

最初はゴミ捨てだとか掃除のエリアだとかわずかのことでも、それが積もり積もるといつのまにかする人ばかりに仕事が集まり、しない人はされっぱなしになっても全く罪悪感を感じなく当然のことのようになったりします。
不公平を正そうとして会議や意見調停などをしても、結局それは一時的なことで普段からしてこなかった人がその日から心を改めて雑用をするなんてことはまずありません。
いつのまにかズルズルと同じような状態に戻っていくだけか、下手をすると「こっちに仕事を押し付けた」と逆恨みをされてしまったりします。

そんな状況が職場でも家庭でも同じようにおかれたことから、友人はもういやだ、とばかりに仕事をやめて一人でやり直しをすることを選んだということです。
当然いなくなった穴埋めは誰かがしなくてはいけませんが、彼女に言わせれば「これまで私ができてきたことなんだからできないわけがない」と知ったこっちゃないという態度です。
実際そうして生活を離脱してからしばらくして、もとの職場の同僚が彼女が担当していたことを代わりにすることになって「辛くて泣いてるのを見たよー」という連絡を彼女によこしてきたんだそうです。

さて、そんな彼女なのですが。
私の目から見て彼女は比較的勤勉な性格をしていましたし、それまで周囲の人を気遣って先回りした気遣いをしてきた人ですから、一人になってもきっとうまくやっていくだろうくらいに思っていました。
私も少なからず同じような経験をしてきたこともあって、生活を始めた頃は何かと世話をしたり急に一人になって寂しくないかと連絡をまめにしたりしていました。

ところがそんなこんなで時間が少し経過したとき、彼女がちょっとしたトラブルに巻き込まれてしまい、書類やら手続きやらで面倒なことをしなくてはならなくなってしまいました。
それまで実家ぐらしや会社勤務のときにはなんやかやと自分一人でそうした手続きをしなくてはいけないということはなく、周囲の誰かしらが手伝ったり協力したり助言をくれていたりしていたわけです。
家族や元同僚に頼ることもできたのかもしれませんが、啖呵を切って出たことでなかなか元のところに頼るということもできづらいようで、面倒な手続きに関しては私のところに連絡が来るようになりました。
私も一人では大変かろうと思い、自分の仕事はあるものの出来る範囲で協力はしていました。
最初は。

ところが手続きが思ったよりも長引いてくると、電話での問い合わせや書類の申請などの作業についてしなくてはいけないことを最初から私の方に回すようになってきました。
そうした作業は彼女自身経験したことがなく大変なのはわかるのですが、最初は「自分でやろうとしてるんだけどわからなくて」という態度で私のところに助言を求めてきたのが、いつのまにか「○○さん(私)ならやってくれるだろう」という甘えがスケスケの態度で当然のように頼むようになってきたところについカチンと来ました。
それで私の方も仕事が忙しいしあまり他人のことにかまっていられないと、少し距離を置くようにしたところ、今度は自分がいかにかわいそうで大変かというようなことを言い出してこちらがまるで冷血な人非人とでも言いたそうな態度に変化してきました。
ああこれはもう距離を置くしかないなと思い、結局それから連絡をきり手続きがどうなったかも知りません。

人の甘えという気持ちは面倒なもので、親切にしようとするとそれが相手にとって依存心のような本来それまで持っていなかった気持ちを引き出してしまうのかもしれません。
ある意味上記の友人の件に関していえば、依存症のような重篤な症状ではないものの、本来彼女が持っていなかった依存心のようなものを私が引き出してしまったのではないかと非常に反省していたりします。
ですがかといって、私が彼女に何ができてどう接するべきだったかということについての答えはまだわかっていません。

人は誰でも依存症になる可能性があるとともに、イネーブラーになってしまう可能性もあるのだなということを、今かなり切実に思っています。

2014-01-17

個人的になんでかイラッと来る人の特徴とか

大変久しぶりではあるのですが、個人的な愚痴を少々。

前々からうっすらとは気づいてはいたけれども、私にはどうしても受け付けない嫌いなタイプというものがあります。
嫌いなタイプというよりも苦手なタイプというのかもしれないですが、話をしているといちいちイラッとしてくるというか、話の途中から「あーやっぱり話かけなきゃよかった」と感じてしまう種類の人です。
ダイレクトに「こういう人!」と類型するのが難しいので、とりあえず実例を会話として挙げてタイプを説明してみます。

【会話1】
私「○○さんて、ホント人が見てないところで仕事手抜きばかりするよね。結局手抜きは誰かが処理しなきゃいけないのに、あれってどうにかならないのかな」
苦手なタイプの人「うーん。でも、○○さんも頑張ってるところもあるし、手抜きすることだけを責めるのはいけないと思う」


とかまあ、そういう感じでぬるりとした返答をしてくる人たちです。
まとめると、こちらが批判や悪口めいたことを言おうとすると何が何でも擁護できる部分を探してたしなめるように言ってくるというような感じかと思います。
確かに、人の悪口とか言うのはよくないですね。わかってますよ。
でもそういう人と話をしているとなんとなく、「人の悪口は言ってはいけないものだから絶対に言わない」という一つの絶対条件の上で自分の意見を言っている節があります。
なにも私だって人の陰口をコソコソ本人のいないところで言うのが素敵な趣味と思っているわけではないのです。
会話における私の目的としては、○○さんが私が知っているところだけでなく他の人からもわかるところで手抜きをしてるかどうかを確認したいということもあったりします。
仮にそこで○○さんが本当に他の場面でも手抜きをしているという事実がわかったなら、仕事上それを正すための何らかの手段を講じないといけないからです。

そういう意味でちょっと裏読みをした言い方をすれば、最初の会話で苦手なタイプの人がしているのは“擁護”ではなく“保身”であると言えます。
○○さんと苦手な人が昔からの知り合いとかでとても親密な間柄なら擁護をしているということもあるかもしれません。
ですが同じ同僚という立場で特に庇い立てする必要がない場面で過剰に擁護をするという場合、悪口を言ったことで自分もその人を攻撃することに加担したという事実から逃げる保身のための行動であるようにもとれます。
私が苦手だと感じるのはまさにその「保身」のニオイがセリフや態度の端々に漂い出ているような場合で、目の前に対応しないといけない問題があるにもかかわらずあくまでも自分は関わりたくないという見て見ぬふりの意識です。

別に保身がダメとか、クズ人間を擁護する人はいらないとかそういうことを言いたいのではありません。
私が嫌なのは、自分の保身を一般論のキレイ事を使って逃げにしているということです。

そこでもうちょっと極端な例をあげてみます。

【会話2】
私「☓☓(人の名前)、マジでうざい。死んでもらいたい」
苦手なタイプの人「どんな事情があっても、『死んで』とか言うのはダメだよ。死んでいい人なんて一人もいないよ」


これも同じような会話ですが、この場合最初の会話と違うのが私の方がより個人的な感情が強くなっていて、苦手な人の方がより理由をきれいな一般論に求めているということです。
個人的な話をすると私は「死ね」という言葉は本当に死んでもらいたい人にしか使わないのですが、ともかく感情的に激高をしているところに良い子の意見を言われていさめられるというのはとても興ざめなものです。
仮に苦手なタイプの人の身内に病弱な人がいたり、いじめられて過ごしてきた過去があったりということがあるなら、私にも反省する余地はあります(「死ね」という発言の撤回は絶対しませんが)。
しかし私が「うわ!この人苦手」と感じるときの人はまず絶対にそうした個人的な経験もなく、ただ周辺の情報とか薄っぺらい道徳観とかを優先させて発言してます。

「死ね」という言葉は確かに重いものではありますが、そのくらい強い怒りという感情を持っているところにどこかで聞きかじった道徳論とか持ちだされても、ただただイライラの種が増えるだけで正直迷惑です。改心なんてしません。

と、いうところで最後にちょっと微妙な例の会話を挙げます。

【会話3】
私「この前▲▲(作品の名前)の新しい巻読んだけど、なんかつまんなかったなー。展開にちょっと無理があると思うし、残念だな」
苦手な人「そうかな。あのくらいの流れの方が面白いって思えるよ。ネットとか見ても批判してる人が多いみたいだけど、私はすごくあの作品好きだからこれからも応援する」


たぶんこのセリフを最初に持ってきてたら、「なんで?何にイラつくの?心狭くない?」と思う人もいるでしょう。
ですが、上の会話1・2と同じ人がした発言だとしたらまた違ったふうに聞こえるのではないかと思います。
そこまで細かく理由を書くのも冗長なので、上二つの会話と3番めの会話のつながり方の解釈は読む人におまかせします。


*****


まとめですが、こういう「擁護に見える保身」行動をする人というのは、意見にもう一つの共通した特徴があります。
要するに、自分には意見がないけれども反射的に反論をしたがる、ということです。
仕事に手抜きをする○○さんも、死んで欲しいと願う☓☓さんも、面白くない作品の作者の▲▲さんも、私としては真っ向からくる反論ならそれはそれでいいと思うしその意見まで私の思い通りにしたいとは思いません。

手抜きで困ってないならその仕事のしわ寄せはご自分でされればいいだろうし、クソみたいな人物でもいなくなっちゃダメなら最後までご自分がお世話してさしあげればいいだろうと思うし、面白くない作品でも応援したいなら最後まで買ってあげればいいからです。

ただイラつくのが保身を一般論に逃げている上に、人の意見をいちいち揚げ足とってくるということです。
さらに面倒なのがこの手のタイプの人は一般論を自分の味方のように振舞っているので、部分的な会話だけを周囲が見たら「とてもよい人」のように映るという点です。
負の方向の感情である怒りや批判はその部分だけを見ると悪く見えてしまうということも、うまく逆手にとれる要素になってますし。

ある意味、自分には何の意見も行動力もないからとりあえず社会的に悪とされる感情を見せている人を叩いて「自分には正しい意見がある」という優越感にひたりたいだけなのかもしれないですね。
おっと、「叩く」んじゃなくて「優しく教え諭してあげる」ですか。


あまりにも最近ムカつきすぎたので長々と書いてしまいました。
なお「そんなこと書いちゃいけないよ」とかいう批判はいりません。
もらっても心改めません。

2013-05-30

立たないものを無理に立たせてどうするの?

ちょっとほとぼりが冷めてきたみたいなんで復活させようかと思います。

いきなりコピペから入ります。

ある日、泣き声がしゃくに障ったので妹を殺した。
死体は井戸に捨てた。次の日見に行くと死体は消えていた。

5年後、些細なけんかで友達を殺した。
死体は井戸に捨てた。次の日見に行くと死体は消えていた


10年後、酔った勢いで孕ませてしまった女を殺した。
死体は井戸に捨てた。次の日見に行くと死体は消えていた

15年後、嫌な上司を殺した。
死体は井戸に捨てた。次の日見に行くと死体は消えていた

20年後、介護が必要になった母が邪魔なので殺した。
死体は井戸に捨てた。
次の日見に行くと死体は消えずそのままだった。


「意味がわかると怖い話」系ではおなじみのお話なので、怖い話好きな方なら一度は目にしたことがあるお話ではないかと思います。
創作にしてはよくできた話だとは思いますが、私はこの話を初めて見た時からなんとなくこの話には本来とは別の気味の悪さを感じてたんですね。
ただこういうネタ話をナントカ論とかとして片付けるのはちょっと無粋かなと思ったこともあって黙っていたんですけど、いい機会なんできちんと書きだしてみようと思います。

この話がどうして「意味がわかると〜」という話として分類されているかというと、明言されていないまでも本来あるはずの死体がなくなっていたのは話の語り手(おそらく男性)の母親がこっそりと片づけをしてくれていたということがオチの部分でわかるからです。
その部分だけを見ると「ダメな息子でも最後まで自分なりの愛し方をしてくれていたよい母だったのに」というふうに感じられるかもしれません。

ですが、あえて逆の見方をすれば「息子がしでかした失敗をこっそりと隠すようなことをしていたために、息子は最後まで自分の行いを正すことをせず、あまつさえ愛情を注いでいた自分さえも殺した」というふうにもとれるわけです。
最初の段階や早い時期に死体をそのままにするもしくはきちんと対処をしたなら、もしかしたら翌日以降に冷静になって自分のしたことを振り返り違った生き方を息子はしていたかもしれません。
悔い改める可能性は極めて低いですが、少なくともそれ以後の殺人は防げた可能性は高くなります。
しかし母親がとった方法はその息子の間違いを「なかったことにしてあげる」という方法でした。

*****

さて、そろそろキナ臭い匂いを感じてきた男性の方もいるかもしれませんが、ここから先にはちょっとフェミ臭い話になっていきます。
フェミ死ねとか思ってる人は読まない方がいいですよー

個人的な経験ですが、私は昔から母親から「男は立てて動かすもの。それをどう操るかが女の生き方よ」というふうな教育を受けて育って来ました。
自分の親について悪くいうのはどうかと思いますが、あえて精一杯客観的な視点で言えばそういう母は父を操っていたかというと決してそういうわけではなく、むしろ言いなりになるという名の内助の功を貫いてきたというタイプの人に見えました。
あからさまな殴り合いを子供に見せないでいたというのは両親なりの気遣いだったかと思いますが、それでも思春期には何度か朝顔を合わせる母の顔に青あざができているのを何度か見かけたという記憶があります。

しかし外から見たそうした夫婦の姿はとても外部からは評判がよく、地域の人や仕事関係の人が「よい奥さんですね」「奥さんがいるから○○さん(父)はこんなに仕事ができるんですね」といったことを言っていたのを何度も耳にしてきました。
そうしたよい評価を母に与えてくれる人のほとんどがよく口にしていたのが「妻というのは前に出過ぎず、夫を立てながら上手に軌道修正していくのが理想的」といったまあどっかの大河ドラマで聞いたようなお話でした。
なおこの話はNHKのナントカの妻とかいうくだんない話が放映される何十年も前から聞いていました。
要するに今時の中年世代の方にとってはマジにそれが「いい妻」のモデルだったんだと思います。

ただ救いであったのは母は決して卑屈な性格の持ち主ではなかったということで、父のことを立ててはいるものの操れないまま、それでも自身のプライドを失わずに私にたくさんのことを教えてくれました。
唯一、私が納得できる「よい妻の姿」を除いて。

その後私は社会人になり、母や父のことも忘れて自分のセクシャリティに正直にしばらく生きていたのですが、なんとそれから何年もしてから自分よりも年下の後輩から同じ主旨のセリフを聞くことになったのでした。

確かどっかのバカ政治家脊髄反射的に女性蔑視の発言をしたときについて、世間話の一つとしてとりあげたときでしたが、

「そんなの男に勝手に言わせておけばいいんですよ」

とさらりと気にもしてないような言い方でした。
そのニュアンスには確実に母が昔から私に言っていた言葉と同じものが含まれていました。

男なんて強がっているだけなんだから、言いたいように言わせておけばいい。
どうせ主導権は女が握っている。
女がいなきゃ何にもできないんだから。

と。

*****

さて話を最初のコピペに戻します。

この話が「意味がわかると〜」として扱われるのは、その裏側に「自分を深く愛してくれていた母を知らずに殺してしまった」という悲劇性があるからです。
その「愛」が美談として多くの人にとって思えてしまうのは、それが母としてあり得べき姿の一つとして受け入れることができる気持があるからではないかとも思ったりします。

深読みのしすぎと思われても仕方がありませんが、それでもこの話を読んだ人は愚かな行いをした母親を蔑む気持よりも、息子のために頑張ってきた気持が報われなかったんだねという悲しみの気持を持つことの方が多いのではないかと思います。

さてこれに非常によく似た事例がまたNHK大河ドラマには登場しています。
多分本当の史実ではないような気がしますが、近藤勇とその妻に関するエピソードです。

あまり歴史には詳しくないので細かいディティールは忘れましたが、確か近藤勇が何かどうしてもお金を渡さなければいけないような状況におかれていたものの、どうしてもそのお金を用意できなかったというシチュエーションのときだったかとと思います。
近藤は一応見栄のためにないことはわかっているもののお金を探すふりをします。
そこでなぜかなかったはずのお金がそこに揃っていることに気が付くのです。
それは実は近藤勇の妻がこっそりと用立てをし、夫のメンツを立てるために本人に告げることなくお金をしまっておいたのでした。
この話を聞いて「美談だ」と思う人は多分、最初のコピペにある母親の行動も美談だと思うんじゃないかな−と思います。

殺人とお金の用立てということは犯罪であるかどうかという違いはあるものの、いずれも妻(女性)の心理の根底にあるのは「男性に恥をかかせてはいけない」という一方的で自己満足的な親切心であることで共通しています。


*****

ここから本題です。
私が今回言いたいのは、男性がどうとか女性がどうとかいうことよりむしろ、そうした誰かのメンツを守るための行動が、本当に本人のためになるのかよという気持です。


私は昔から「男を立てるのが女の役目」と近所の子供に比べて厳しくしつけをされてきた方だとは思っていますが、物心ついて以来ずっとそれは間違った考えだと思い続けてきました。
間違った、というよりもそれをしていても長期的には絶対に何の役にも立たないという確信を持っていたと言ってもいいです。

なぜならたとえ私が妻なり母なりになったとき、夫や息子に対し恥を欠かせないよう、プライドを傷つけないようにと必死に行動をしていったとしても、そんな私の活動なんて家庭という枠を一歩出れば全く役に立たないものになってしまうからです。

私の「良妻」ぶりが優秀であるほど、家庭内にいる夫や息子にとっては心地よく、失敗があっても勝手にもみ消しをしてくれるような環境になります。
ですがそんな夫や息子は男性的であればあるほど厳しい会社環境に出ていかなければいけなくなるわけで、そこで家庭内と同じように失敗やプライドがへし折れるようなことがあったとしても、それを誰かが守ってくれるなんてことは絶対にありえないからです。
ましてグローバル化だかなんだかが進めば進むほど、失敗やプライドの損傷となる出来事は頻発されていくわけで、専業主婦として自宅に滞在している妻が会社にこっそり忍び込んで懐にお金を忍ばせていくようなことでもしない限りは妻的役割をしてあげることなんて不可能になります。

むしろ本来的にそのパートナーなり子供なりを支えることを考えるのであれば、失敗やプライドの損傷に関わる事例が起きたときにそれを本人の力で乗り越えられるようにしていくというのが筋なんじゃないかな?とか思うんですが、どうでしょうね。

昔の哲学者に「結婚はいいことだ。良い女 と一緒になれば君は幸せになれるし、悪い女と一緒になれば君は哲学者になれる」と言った人がいたようですが、これはある意味あたっていると思います。
少なくとも上記に記したような良妻と長く一緒にいても、大した男にはならないように思うからです。

付け加えればこの話は女→男という関係にかぎらず、私から見てくっだらないオトコ社会の中でも同じようなことが行われているように感じます。

部長の言うことは間違っている、だけどもメンツを潰してしまってはいけない。

みたいなシチュエーションです。
こういうとき本音でズバッと「間違ってます!」とかいうヤツは煙たがられたり嫌われたり、あるいはKYとか言ってリストラ候補になったりしますよね。

しかしここでまたクソジジイどもが大好きそうな歴史っぽいことを引き合いに出して言いたい。
江戸時代とかそのへんの武士さんて、自分の失敗が分かったときって腹切ってたんじゃねーの?
本人が失敗したことが言外にわかってるとき、周囲で一緒にもみ消してあげるのって、本当に武士っぽいことなのー?

*****

さらにタチが悪いのは、企業とか仕事するときには最初のコピペのごとく、本人のためを思って必死でもみ消しをしようとしてくれている人に対して感謝もしないで、自分だからまあ当然みたいは不可思議な自己愛を強く持っていることなんですよね。

自分だけなぜかプライドが曲がらずにすんでる、失敗がなかったことになってるって薄々気がついててもそれを「誰かのおかげだ」って謙虚に感謝できないヤツって、もしかしたら家庭内で良妻だか良母だかに同じようなことを子供のときからこっそりやってもらってんじゃね?


まあ、結論としては夫や息子を一人前に育てたかったら悪女になるんだねってこと。

2013-03-11

そろそろ崇高さについて語る話があってもいいんじゃないかという話

読書感想文です。つまんないですよ。

先日思いついてサン=テグジュペリの「夜間飛行」を読みました。
小説自体は10代の頃に文庫本を購入して読んでたんですが、そのときはなんとなく有名そうな海外の作家という認識しかなく、どういう時代背景があってこういう話ができたのかとかいうことも気にせずただ話の筋だけを追うような読み方をしていました。
なので十数年の時間が経過したときに残っていたのは、その上空の描写の美しさと大人の世界の厳しさみたいなものでしかなかったりします。

ぼんやりしたあらすじしか覚えてないまま読み返してみてまずショックを受けたのは新潮文庫の最初についているアンドレ・ジッドの短い書評で、どうして10代のときはこの部分を見落としていたんだろうかとちょっと情けない気分にもなりました。
どこを引用したらいいかわからないくらい素晴らしい文章なんですが、あえて引用するなら

…『夜間飛行』の主人公は、非人情になることなしに、自分を超人間的な美徳にまで高めている。(中略)人間の弱点や、ふしだらや、自堕落なぞは、世人の親しく見聞して知っているところでもあり、また今日の文学が、あまりにも巧みに描写提示してくれるところでもある。



と、ある部分です。
さらにこの文章の直後には、

人間の緊張した意志の力によってのみ到達できるあの自己超越の境地、あれこそが今日僕らが知りたいと思うところのものではないだろうか。



と続きます。
この文章を読んで、どうして最近の創作物全般に自分が昔ほどの興味を感じてしまったのかがなんとなくわかったようにも思ったのでした。
ちょっと大げさな考え方かもしれませんが創作物というのは根幹的には人間の生き方をさまざまな側面から観察して表現するものなわけで、その切り口がここ10〜20年くらいの間にかなり狭まったものになってしまっているんじゃないかというわけです。
リアリティ」という言葉を使うとなんとなくカッコイイようですが、実際に創作として形にするときには欲だとか底意地の悪さだとかケチ臭さだとか嫉妬や見栄とか、あえて人の中にあるマイナス面にばかり焦点をあててしまいがちになります。
かつてはうそ臭い「人とはこうあるべき」系の文学もちょっとや流行ったりしたようですので、そういう大人の説教臭い創作物に対しての反動もあったかと思いますが、あえて反社会的、反規範的、反正義的と世の中から扱われるものばかりがよい創作として扱われ続けてきたんじゃないかというような気がします。
卑俗な例ですが、80年代くらいに流行ったマンガといえば必ずといっていいほど不良が登場してきて大人やら社会やらに反抗しては「オレらしく生きる」ことが素晴らしいというような描写がされてきました。

それらブームが一段落したらそれまでのような極端な不良=カッコイイという感じはだいぶなくなったみたいなんですが、そのぶん「人間」の描き方がちょっと陰湿になってきたというか、汚さ(物理的にも精神的にも)とか残虐さのリアリティばかりが追求される傾向もあったんじゃないかという印象があります。
そんで、それらのまた反動として今ではあまりにも汚すぎるものを見るのが嫌だ!という作者たちによる「日常系」みたいな悪者が全くいない、目的もなく悩みもなく達成すべき目標もないという話に行き着いてしまっているように思うのです。
正直今の創作トレンドを悪く捉えて言えば、そもそも「物語」として成り立ってないんじゃないかというような気さえします。

創作物の良し悪しだとか売れる売れないの判断基準は私の気持ちで決まるものではないのでなんとも言えないところと一応断って話を進めれば。

私は今だからこそ「夜間飛行」の序文にかかれているような崇高な人間の姿というものが創作で描かれて欲しいと思います。
震災のあと、勇敢で滅私的な行動があれほど美談として語られた背景もそこにあるんじゃないかという気がするのですが、人としての「崇高さ」とはどういうときに感じられるものなのかということを提示する創作物は、はっきりいってほとんど全く見かけることができてないんじゃないかと(私が知らないだけかもしれませんが)。

ただこの「崇高さ」とやらを持ち上げるとどうしても「軍国主義」とか「大義のために簡単に捨て駒になる人間を推奨している」みたいな捉え方をされてしまう可能性があるので、日本という国においては特にめんどくさい問題ではあるのですが。

ようするに軍国主義とか捨て駒玉砕が嫌われるのは「イイ思いしてる上のやつらのためにバカ正直に死ぬやつら」みたいな底辺身分という見られ方をされるからなんでしょうが、そういう「どうせ人の上に立つやつらは保身とか欲にまみれたクズ人間」という拭いがたい意識を持ってしまっているというのも一つの問題のような気がします。

夜間飛行』で描かれているのは、厳格な支配人リヴィエールと彼に使える監督、そして危険な郵便飛行をする操縦士ファビアンです。
支配人リヴィエールの組織運営方法は、今の労働基準で見るとブラック企業と言われても仕方のないもので、危険の高い夜間飛行の継続にはいかなる言い訳も許さないとして暴風雨だろうがなんだろうが絶対に飛び立つことを強制し、途中で引き返したり不時着したものにも厳しい罰を与えます。
操縦士たちと支配人の間に立つ監督は、勤勉な操縦士たちと厳格な支配人の板挟みになりながらも支配人の命令には逆らうことなく従います。
支配人リヴィエールは自分では夜間飛行には出かけません。
ただ危険な飛行の命令を出し、その安否を無線を通じて確認するだけです。

作中の名言には、

「愛されようとするには、同情さえしたらいいのだ。ところが、僕は決して同情はしない、いや、しないわけではないが、外面に現さない」

「部下の者を愛したまえ、ただ、彼らにそれと知らさずに愛したまえ」



というものがあり、その言葉どおりリヴィエールは全く弱みを見せないで操縦士たちの行動を管理します。
ところが不思議なことに、作中においてはこうした人道無視ともとれるリヴィエールの管理方法に反論はしても恨んだりするような操縦士は登場しません。
エンジニア全体の規律のためにわざと首切りをされる年配のエンジニアも、最後まで食い下がりはしてもそれを恨みに思って復讐を匂わせるような行動はとらずに飛行場を去っていきます。
危険なフライトによって困難な場面に遭遇する操縦士ファビアンも、飛びながら組織やリヴィエールに対しての恨み事を全く漏らしません。
さらに結婚して間もないファビアンの妻も、夫の行方不明を聞いてからも悲しみを表現しこそすれリヴィエールを責めたりしません。
夜間飛行』の話を美しくしているのは、空の描写の美しさばかりではなくそうした登場人物たちの一種の潔さにあるのではないかというような気さえしてきます。

人としての崇高さとは一体どういうときに到達でき、またその瞬間に人はどんな感覚を得ることができるのかということは、哲学的でありながらとても身近な問題のようにも思います。
また「軍国主義」のような一つの方面にだけに偏ったものではなく、さまざまな方面、瞬間、場面、心理、人間関係の中で描くことができる大きなテーマでもないかという気がします。

商業的な成功があるか流行るかどうかなんて知ちゃこっちゃないですが、私は今とても痛烈に、人としての崇高さへの到達を感じさせてくれるような創作物が読みたいです。