ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

永本哲也「 1534年2月下ライン地方における宗教改革思想・再洗礼主義の伝播 〜ヤコブ・フォン・オッセンブルクによるミュンスター再洗礼派の宣教分析を通じて〜」紹介


今年、永本哲也「1534年2月下ライン地方における宗教改革思想・再洗礼主義の伝播 〜ヤコブ・フォン・オッセンブルクによるミュンスター再洗礼派の宣教分析を通じて〜」という論文を『エクフラシス』3、2013年(161-177頁)に掲載していただきました。

論文が公刊されてから、結構時間が経ってしまいましたが、どんな内容なのか、みなさまにご紹介させていただきたいと思います。

ちなみに、『エクフラシス』3号の目次は、こちら。http://iemrs.blog111.fc2.com/blog-entry-59.html

この論文で私が分析したのは、ミュンスターで再洗礼派が公認された直後の、1534年2月にドイツ北西部の下ライン地方で行われたミュンスター再洗礼派の宣教と再洗礼主義の伝播についてです。

宗教改革は、始まって10〜20年でヨーロッパの広い範囲に急速に広がった社会運動でした。近年の研究では、宗教改革思想が伝播する際に、パンフレットや一枚刷りのビラなどの印刷物が果たした役割の大きさが非常に強調されています。

しかし、16世紀の社会ではまだ文字が読める者は少数派でした。そのため、スクリブナーが主張したように、印刷物だけではなく、口頭でのコミュニケーションを含めた全てのメディアを考慮に入れて、宗教改革思想の伝播を検証する必要があるでしょう。

問題関心の出発点。Scribner, R. W., Oral Culture and the Diffusion of Reformation Ideas, in: History of European Ideas 5, 1984, pp. 237-56.

この論文では、1534年2月にミュンスター再洗礼派の使者ヤコブ・フォン・オッセンブルクたちが行った宣教によって、再洗礼主義が下ライン地方でいかに伝播していったのかを、主に彼の審問記録に依拠して分析しました。

その際、もちろん印刷物だけでなく、口頭でのコミュニケーションを含む全てのメディアを考慮に入れながら、伝播のメカニズムを検証しました。

ヤコブの審問記録から明らかになった、再洗礼主義の伝播の特徴は以下の通りです。

ヤコブが宣教する場所の選定は、既にミュンスターで行われていました。ミュンスターの指導層は、使者や手紙によって下ライン地方における再洗礼主義の支持者の動向を把握していました。それは、彼らが再洗礼派統治の前から当地の宗教改革派と接触を持っていたため可能になりました。

そして、彼らは、支持者が居住し、確実に宣教が成果を上げられることが見込まれる場所にヤコブたち使者を派遣していました。その際、使者たちに下ライン地方の支持者たちに向けた手紙を預けていました。

ヤコブや他の使者たちは、下ライン地方各地を周り、ミュンスターで奇跡が起こったこと、もうすぐ神の罰が下されるので、新しきエルサレムであるミュンスターに来るよう支持者たちに告げました。また、ミュンスターで預かった手紙を彼らに渡しました。

それに応じて、36人がヤコブたちと共に、ミュンスター行きを決意しました。彼らの中に使者から手紙を受け取った者は含まれていなかったため、彼らは皆使者から直接口頭でのメッセージを受け取った者だと思われます。

このように、この時期の下ライン地方の宣教は、手紙と口頭での説得によって行われており、より効果的だったのは、口頭での説得でした。このことは、宗教改革思想の伝播のメカニズムを明らかにするためには、やはり印刷物以外のメディアも考慮に入れる必要があることを示していると思います。

拙稿の分析結果によって、私が非常に限定された時期・地域で行ったような、全てのメディアを考慮に入れて宗教改革思想の伝播を分析する、実証的なケーススタディーを積み重ねていくことの必要性が明確になったのではないかと思います。

今後は、時期や地域をより広げて、北ドイツや低地地方一帯での再洗礼主義の伝播のメカニズムを明らかにしていきたいと思っています。