ミュンスター再洗礼派研究日誌 このページをアンテナに追加

2005-10-14

[][]ドイツでも『はだしのゲン』が読める。 01:58 ドイツでも『はだしのゲン』が読める。 - ミュンスター再洗礼派研究日誌 を含むブックマーク

ドイツでも、かなり日本の漫画が出版されています。市の図書館にも、結構漫画が置いてあるので、たまに読みに行くのですが、今日は『はだしのゲン』(ドイツ語タイトル: Barfuß durch Hiroshima)が置いてありました。

この巻は、被爆して、身体中火傷だらけになり、親族からも疎まれるようになった政二さんとゲンの交流を描いた巻だったのですが、改めてその凄まじさに驚きました。この巻では、被爆者に対する差別がこれでもかというほど徹底的に描かれ、政二さんは汚い、臭い、化け物、原爆の毒がうつるなどと、親族から徹底的に疎まれながら死んでいきます。政二さんの怨念が漂ってきそうな容赦のない描写が続きますが、これと似たようなことは現実にずいぶんと起こっていたのでしょう。

現在ドイツでは、4巻までしか発売されていないようです。ドイツで発売されているのは、だいたい日本でも人気がある漫画か、オタク向けの漫画が多いような気がします。その中で『はだしのゲン』は、かなり異色な作品に見えるかもしれませんが、ぜひ最終巻まで出してほしいものです。

ちなみに、日本のWikipedia『はだしのゲン』の項目は、誰かが悪戯をしたらしく、

隆太はフリーザに騙され、自分達がナメック星から盗んできたドラゴンボール闇市で叩き売りされた事により隆太は、ヤクザの男2人を魔巻光殺砲で殺害した。それにより、警察に捕まりそうに成った隆太は別のヤクザに助けられ、ヤクザの子分(スーパーーサイヤ人)として働く事に成る。

などと、とんでもないことになっていました。

2005-08-11

[]講演会が終わりました。 02:21 講演会が終わりました。 - ミュンスター再洗礼派研究日誌 を含むブックマーク

長崎原子爆弾が投下されてから60年目に当たる8月9日(日本時間ではすでに翌日になっていたのですが)、無事、ここしばらくの懸案だった発表を終えることが出来ました。

今回の講演会は、私が頼まれたときは非常に小規模な催しだったはずなのですが、何故かどんどん話が大きくなっていき、本来広島長崎の60周年を偲ぶことが目的だったのが、原発含めた核、あるいは戦争に反対する講演会になるなど、極めて政治色が強くなって行きました。終いには、ミュンスター大学で一番立派なホールで講演会が行われることになり、発表者も9人まで増え、地元の新聞社やテレビ局が来ることになるという、大袈裟な講演会になり(幸いなことに、結局テレビは来なかったのですが)、私が当初聞いていた話とは、全く違うものになっていました。

しかし、すでに色々なところに宣伝され、私も広島から来た日本人などと紹介され、客寄せパンダとして使われ、途中で降りれない状態になっていました。講演会そのものに関しては、私は失望と憤りしか感じませんでした。

そんなわけで、今回の講演会そのものには、個人的に非常に憤りを感じる部分が多かったのですが、自分の限られた講演時間や、悪条件、自分の乏しい知識、能力の中で、最大限やれることはやったし、結果も出たという意味に限定すれば満足しています。

[]被爆者の多様性とわかりやすさのトレード・オフ 02:21 被爆者の多様性とわかりやすさのトレード・オフ - ミュンスター再洗礼派研究日誌 を含むブックマーク

私が話したのは、戦後被爆者が、健康、経済的困難、差別、罪悪感などに苦しまなければならなかったこと、そして彼らが、そのような生活や精神状況の中で、一方では沈黙し、一方では反核、平和運動に参加してきたこと、しかし、そのような態度決定は、絶えず揺れ動く、動的なものであったことです。

私はこのような内容を説明するために、様々な証言を読み、一般的なパターンをある程度把握した上で、そのパターンを、被爆者の生の声を使って再構成するという手法を取りました。今回の発表は、余り予備知識がない人を対象としたものなので、一方で被爆者の戦後の精神生活の概略を見通せることに気を配り、他方で、単なる概略で終わらせないように、被爆者自身の血の通う生の声に語らせることに気を配りました。私がかなり悩んだのは、この概略性と具体性のバランスですが、個人的にはそれなりにバランスは取れていたのではないかと思っています。

また、もう一つ悩んだのが、単純化の度合いです。被爆者の精神生活に、ある程度共通する部分はあるにしても、実際には、個々の被爆者毎に違います。また、1985年の被団協による調査を元にした石田忠氏や濱谷正晴氏の研究を見れば、被爆した距離、状況、あるいは原爆症の急性症状が出たかどうかで、被爆者の精神生活は、かなり異なることが分かります。また、2005年にも、朝日新聞社による1985年以来の大規模なアンケート調査、さらに日本被団協によるアンケート調査も行われています。

より厳密に被爆者の精神生活について語るならば、このようなアンケート調査の結果も紹介し*1、ある態度を取る被爆者がどの程度の割合だったのか、あるいはどのような被爆状況に置かれていたのかを紹介する必要があります。

ただし、私に与えられた時間は、15分しかなかったので、このような詳細な分析結果を紹介することは、時間的に不可能でした。また、無理矢理詰め込むとしたら、具体的な証言は全て削除し、本当に無味乾燥な概略、しかも非常に複雑で分かり難い概略になることは不可避です。そのため、私は、そのような被爆者の間に横たわる違いを無視し、あたかも、被爆者全員が様々な苦しみを、同じように感じていたかのように語るしかありませんでした。私としては、様々な被爆者がいるということを隠蔽しかねないこのような語り口には正直抵抗がないことはなかったのですが、限られた時間の中で出来ることは限られているので、単純化せざるを得ませんでした。

私は、学問の良いところは、分かりやすい物語に流されることなく、事実ににじり寄ろうとすることで、現実の複雑さに近づいていけることだと思います。ただ、現実を単純する事を拒否すればするほど、因果関係を複雑に説明せざるをえず、分かり難くなり、学問の重要な機能である経済性が犠牲にされることになります。現実は複雑かつ、動的なものなので、物語から離れ、現実の方に向かおうとした場合、必然的に分かり難くなります。かといって、余りに単純化すると、今度は現実からかけ離れていきます。私がずいぶん考えざるを得なかったのは、この二つのバランスについてです。

その結果、余り予備知識がない人が大半を占めるであろう今回の発表では、わかりやすさを取り、被爆者内部の様々な違いは、あえて言及しないことにしました。それに関しては、聞いてくれた人が、自分の頭で補完してくれることを信頼するしかありませんでした。

ただ、やはり限られた時間の中で、明示できないにせよ、色々な被爆者がいるということを、聞いている人に仄めかすための工夫はしました。そのため、私は、紹介する被爆者証言に、大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』に載せられていた、医師の松坂義孝さんの文章を入れました。彼は、広島被爆者が全員苦しんで死んでいくのではなく、普通の人間として社会に復帰し、他の人と同じように生きることも可能ではないかと、被爆者の苦しみばかりが強調される風潮を批判していました。

私の発表でも、基本的には被爆者の戦後の精神生活を、苦しみに焦点を当てて、紹介しているので、聞いている人に、被爆者は全員苦しんでばかりいたという誤解をさせかねません。しかし、1985年の被団協調査を見ても分かるとおり、実際には、全ての被爆者が肉体的、精神的に苦しみ続けたわけではありません。そのため、普通の人のように生きた、あるいは生きようとした被爆者もいたのだということを、聞く方達に、汲み取ってもらわなければならず、そのために松坂氏の言葉を紹介することは、今回の発表にとって決定的に重要でした。

ちなみに、被爆者が普通の人間として社会に迎え入れられ、普通の人間として生きていくことが出来るかというテーマは、昨年一部で大きな話題を呼んだこうの史代さんの『夕凪の街 桜の国』の主要なテーマでした。そのため、私は、こうのさんも、もしかすると、私と同様松坂さんの言葉が胸の何処かに引っかかって、このテーマを選んだのかもしれないと、勝手に推測しています。

また、被爆者の二つの態度について発表することは決まっていたものの、結局結論が見えないまま、出来る部分から作業をしていかざるを得なかったので、最後の最後まで、何処に着地するか自分で良く分からないままでした。しかし、最終的に、結論部分を書いているときに、被爆者の態度が、沈黙か、運動への参加に綺麗に別れているわけでもなく、長年沈黙していた人が数十年立って声を上げ始めたり、一度語り始めた人が再び沈黙をしたりと、決断が揺れていることを書こうと思いつきました。この揺れは、被爆者が決して一様ではなかったこと、また個々人の内面も絶えず揺れ動いていたという、被爆者の多様性を示唆するもので、他で単純化した部分を、最後で大分取り戻せる結論だと思いました。最後の最後で、(私にとっては)納得が出来る終わり方を思いつくことができたので、やはり、納得が出来ないときは安易に答えを出さず、納得行くまで待ってみるものだと思いました。

[]全力は尽くしたが、しかし・・・・ 02:21 全力は尽くしたが、しかし・・・・ - ミュンスター再洗礼派研究日誌 を含むブックマーク

こうして、原稿を書き終わり、パワーポイントのファイルを作り終えれば、もう仕事の大半は終わったようなものだということは分かっていたので、講演当日は、わりと気楽な気分でした。前日に原稿をチェックしてくれた友達も、内容は良いと言ってくれたので、お世辞が混じっているにせよ、恥をかくほど酷いことはないだろうと思うことが出来ました。

また、当日私の発表の前に、広島平和記念資料館からお借りした「ヒロシマ、母たちの祈り」というDVD の一部を流すことになっていたので、映像の力で、聴衆に原爆の破壊がどのようなものだったかを直感的に理解させることが出来ると思っていました。また、本番を想定して、DVDパワーポイントの操作、そして原稿の読み上げも入念に予行演習しました。そのため、準備したことがきちんとできれば、少なくとも悪い発表にはならないということには自信があったので、始まる前から勝ちが決まった試合に赴くような気分でした。やはり、入念な準備に基づく根拠のある自信というのは、良いパフォーマンスに凄く重要なことだと、今回の件で、つくづく思い知らされました。

結局、主催者の稚拙な不手際のせいで、講演会の準備を非常にわずかな時間でやらざるを得ず、私も思ったような準備が直前にできず、かなり焦った状態で本番を迎えざるを得なかったのは誤算でした。私は最初の発表だったので、バタバタしたまま、発表になだれ込むことになりました。そのため、原稿の読み上げは、ところどころ不明瞭になるなど、思ったより良くない出来でした。ただ、パワーポイントの操作は、一つのミスもなく、全体の流れは完璧だったので、総合的に言えば、十分自分のベストは尽くせたと思います。

自分の出番が終わった後は、正直私は他の人の発表を聞く気もなく、ひたすらだらけていました。第一部が終わり、休憩に入ったとき、わざわざ見に来てくれた友人たちが、良かったと感想を言ってくれました。また、他の人たちたちからも話しかけられ、一様に良かったと言ってもらえました。もちろん、このような状況で、酷い発表だったと言われるわけがないので、お世辞も半分入っていたのでしょうが、少なくとも悪くはない発表はできたと思ったので、ホッとすると同時に、若干嬉しかったです。特に、この日ピアノを弾いてくれた女の子は、分かりやすかったし、感動したと真剣な面もちで詳しく感想を言ってくれたので、本気で言ってくれているのだと思い、素直に嬉しく感じました。

その翌日、ある韓国人の友達から、良く準備したのは分かるし、上手く構成されていたが、素っ気なかったと歯にものを着せぬ感想をもらい、もう一人図書館で突然話しかけてきた学生からは、他の発表者と違って、今まで知らなかった情報を知ることが出来たので良かったと言われました。今後、他の友達からも、もっと詳細な感想を聞くつもりですが、とりあえず、今までの感想を聞く限りでは、自分の目的はきちんと果たせたようなので安心しました。ただ、発音のおかしさについては、何人かに指摘されたので、これは今後の課題としなければなりません。

ただ、私の発表は上手く行ったにせよ、我々の講演会は、全体的に言えば、少なくとも私の目から見れば、酷いと評価せざるを得ないものでした。9人も発表者を呼び、7時から11時まで4時間続くという当初の計画自体が正気の沙汰とは思えないし、しかもそのただでさえ長い講演会が、さらに間延びして、夜中の12時半まで続くというのは、ほとんど拷問に近いと言えます。しかし、そのような拷問が、冗談ではなく現実に行われたというのが、昨日の我々の講演会でした。

主催者のいい加減さ、無計画さ、聴衆に対する配慮と敬意の絶対的欠如、マスコミに対する広報にはやたら積極的なくせに、講演会そのものの内容を充実させようという意気込みが見られない態度など、私は本当に失望しました。特に、今日主催者に電話を掛け、多すぎる発表者、そして長すぎる講演について、もっと聞く人のことを考えて計画すべきだったと非難したところ、彼の口から、そもそも当日何人来るか分からなかったし、会場に来る聴衆のことはどうでも良かった、講演を当日ビデオ撮りして、後でテレビ局で流すことになっていたので、何時間続こうが知ったことではなかったという言葉を聞いたときは、さすがの私も完全にブチ切れ、あきれ果てました。これほど腹が立ったのは、いったい何時以来なのか記憶にないほど、腸が煮えくり返りました。

全体を通じて本当に腹が立つのが、彼らが、自分たちの主張を押しつけること、広げることにはやたらと熱心なくせに、自分たちがやっていることを、他人がどのように感じるかということに全く無関心なことです。どうやったら自分たちの主張が、他の人たちに理解されるのかと言うことを全く考えていないので、あさっての方向に向かって、しない方が良いような努力ばかりして、肝心な部分が疎かになってしまうわけです。私は、彼の言葉を聞いて、そもそも、わざわざ会場まで足を運んでくれる聴衆に対する配慮や敬意のなかった講演会なのだから、ああなるのも当然だと思いました。

しかし、講演会そのものは酷かったにせよ、私とピアノを弾いてくれた女の子の日本人コンビは、劣悪な状況の中でベストを尽くし、良くやったと思います。彼女も事前に会場のピアノを使えるかどうか分からないと言われ、下手をすれば、それまで必死で練習してきた結果が水の泡になりかねないところだったので、会場入りしたときはこちらがたじろぐような凄い剣幕でした。しかし、結局ピアノが使えることになったので、怒ったら良い演奏ができなくなると精神状態を切り替え、本番では見事な演奏を聴かせてくれました。

二人とも、講演会が始まる前から、主催者の余りのいい加減な態度に憤りと徒労感を感じていたのですが、それでも約束したことは守る、引き受けた責任は全うする、厳しい状況の中でも全力を尽くすという、日本人の美徳を発揮し、良いパフォーマンスを見せたと思います。ただ、そのような美徳は、そのような美徳を持たない人々にとっては、実質的には単なる搾取の対象でしかありません。だからこそ、我々は、余計に腹が立つわけです。

それでも、わざわざ講演会までご足労頂いた聴衆の方々には罪はないので、できるだけ良いパフォーマンスを見せたいですし、パフォーマンスの出来は今後の自分に対する評価、また自らの自尊心に関わることなので、やはり全力を尽くさないわけにはいきません。この日の講演会で、日本人の評価は、上がることはあっても、下がることはなかったと言うことは、確信が出来ます。講演会自体はともかく、我々は来てくれた方々に対して、恥ずかしくないパフォーマンスをすることができたと思います。

文中にやたらと自画自賛が出てきて辟易されている方もいらっしゃると存じますが、正直現在の私は、抑えることのできない怒りと徒労感で一杯であり、せめて、他人から誉めてもらうとか、自分で自分を誉めることでもしないと、どうにもやり切れない気分です。しかし、彼らのために無駄に力を尽くしたことは癪に触りますが、被爆者の方々のことを、限られた時間の中であるにせよドイツできちんと伝えることができたという、それだけを心の慰めにし、失った貴重な時間は無駄ではなかったと思いこむより他ありません。

*1:ただし、これらの調査が、統計学的にどの程度の信頼性があるかは、社会調査の知識に欠ける私には判断が難しく、使うとしたら使うとしたでかなり悩まなければなりませんでしたが。

2005-08-08

[][]女の子と遊ぼう。 06:57 女の子と遊ぼう。 - ミュンスター再洗礼派研究日誌 を含むブックマーク

もう、発表の期日も明日に迫ったということで、仕上げの段階に入っています。今日の朝10時からドイツ人の友達に講演の文章を直してもらう約束をしていたので、それに間に合わせるために、昨晩は明け方まで文章やパワーポイントの直しを入れていました。

そのため、寝不足でふらふらの状態で友達のところに行き、それから2時ぐらいまで3時間以上根を詰めて、文章を直してもらっていたので、終わった時は、さすがに疲労困憊になっていました。しかし、自分で書いたドイツ語を直してもらうのは、いつもながら少々辛い経験です。文中に残る間違いは数知れず、文章を赤で埋め尽くされるので、自分のドイツ語能力の無さを再認識させられるからです。しかし、単語の選択の際、あるいは意味が通じない場合でも、辛抱強く私と話し合って、丁寧に直してくれる友人には感謝感謝です。

しかし、思ったより文章直しが長引いたせいで、待ち合わせの時間に遅れてしまいました。現在開催されているミュンスターの州立博物館での第二次大戦に関する展覧会を、ある日本人の子と一緒に見に行くことになっていたのですが、二人とも月曜に博物館が閉まることを忘れていて、結局今日は見れませんでした。

私はすでに疲れ切って何もやる気力がなかったので、彼女を誘ってしばらくカフェで休みました。我々は綺麗な景色が見れると言うことで外に座ったのですが、最初晴れだったのに、どんどん雲行きが悪くなり、最後には雨が降り出したので、散々でした。天気が悪いだけならまだ良いのですが、日が陰ると、途端に気温も下がり、震えるような寒さになってきました。そのため、二人で話す内容も、夏はいつやって来るのだろうと言う、さみしいものになってしまいました。

しかし、毎日ジャンパーを着て生活しているミュンスター人にとって、インターネットで見る日本の暑さは遠い別世界のことのようです。8月に入っても、長袖を着ない日がないので、何とかもう一度夏の暑さを味わいたいのですが。

その後、彼女と別れ、インターネットでもしようと、図書館に行くと、入り口で知り合いの韓国人女性とたまたま会いました。彼女と立ち話をしていると、たまたま明日の講演会でも発表する予定の反核運動家の学生が通りかかり、この間のデモ集会が地元紙で採り上げられていたと教えてくれました。また、土曜の私の演説で、何人かの人が泣きそうになっていたと教えてくれました。

私は、原稿を読んでいる最中には、一呼吸入れる時に、ちらりと聞いている人の方を見るだけだったので、そのことに気づきませんでした。私の演説は、被爆者に関する基本的な情報をまとめただけのものだったので、私は余りに無味乾燥すぎるのではないかと心配していたのですが、そうは受け取られなかったようです。それを聞いて、手間を掛けた甲斐があったと思う一方、聴衆の要求水準は余り高くないと言うことが分かり、明日の講演に対する心配も大分無くなりました。

その後、前から一度いっしょにご飯を食べようと約束しつつ、まだ行っていなかったので、今日はその女性といっしょに日本食を食べに行きました。彼女も博士課程の学生なので、お互いの研究の話しも若干しつつ、ドイツ料理の悪口と、日本料理の礼讃をしながら、彼女は焼き鳥、私はラーメンに舌鼓を打ったのでした。

彼女は、今二冊も翻訳の仕事を抱えているそうなのですが、羨ましい限りです。学術書や論文の翻訳の仕事というのは、どうやって回ってくるものなのでしょうか。私も、ミュンスター再洗礼派関係で、日本に紹介しなければと思っているドイツ語論文は、色々あるのですが。

そんなこんなで、食事をした後、家路に向かいました。私は、帰りのバスに揺られながら、そういえば今日は朝から晩まで、3人の別々の女性と二人きりで過ごしたという、大変女性に縁がある一日だったことに気がつきました。日頃の女っ気のない、殺伐とした生活を考えると、大変希有な日だと嘆息しました。

いよいよ明日は、講演会当日なのですが、知り合いのロシア人の仕切が非常にグダグダなせいで、講演会はあさっての方に向かっており、講演そのものの成功は、かなり危ぶまれる状況にあります。意味もなく発表者の数が増え、その結果講演時間がやたらと長くなりそうなので、居眠りをせずに乗り切れるかどうか心配です。

しかし、催しとしては失敗し、途中で聴衆が皆帰ってしまうなど、会場に気まずい空気が流れることが予想されるにせよ、とりあえず自分の責任の範囲内で全力を尽くし、聞いている人に聞いた価値があったと思ってもらえるように努めるより他ありません。

[] Lebenssituation der Überlebenden von Hiroshima und Nagasaki nach dem Abwurf der Atombomben  08:43  Lebenssituation der Überlebenden von Hiroshima und Nagasaki nach dem Abwurf der Atombomben  - ミュンスター再洗礼派研究日誌 を含むブックマーク

こんなところでドイツ語の文章を掲載して読む方がいるかどうか分かりませんが、何方かの某かの参考にならないともしれないので、土曜日の演説で使った原稿を掲載してみます。

Vor 60 Jahre wurden zwei Atombomben von amerikanischen Bombenflugzeugen abgeworfen: am 6. August 1945 um 8. 15 Uhr über Hiroshima und am 9. August um 11. 02 Uhr über Nagasaki. Die Atombomben sind über den beiden Städten explodiert und haben sie vollständig zerstört.

Die Einwohner der Städte wurden von den Hitzewellen der Atombomben getötet oder schwer verbrannt. Die starken Druckwellen haben fast alle Gebäude in der Stadt zerstört. In der Stadtmitte sind sehr große Feuer ausgebrochen. Weil die Leute aus dieser Hitze fliehen wollten, sind sie ins Wasser gegangen und dort gestorben und die Flüsse füllten sich mit ihren Leichen.

Weil fast alle Krankenhäuser zerstört wurden und sowohl die Ärzte als auch die Krankenschwestern getötet oder schwer verletzt wurden, konnten die Verletzten nicht ausreichend ärztlich behandelt werden. Obwohl Soldaten aus der Umgebung zur Hilfe ins Stadtzentrum kamen, konnten nicht alle Verletzten behandelt werden. Da die Krankenhäuser überfüllt waren und es nur wenige Medikamente gab, mussten die Ärzte manche Verletzte im Stich lassen.

Wenn die Bürger der beiden Städten die Explosionen ohne schwere Verletzungen oder Verbrennungen überleben konnten, waren sie weiterhin durch die Strahlenkrankheit bedroht. Bis zur achten Woche nach der Explosion ist der größte Teil der Überlebenden durch akute Strahlenkrankheit gestorben. Wenn man diese Phase überlebt hatte, drohten trotzdem große Folgeschäden durch die Strahlenkrankheit wie zum Beispiel Blutkrebs.

Die Überlebenden litten nicht nur an Krankheiten, sondern auch an den traumatischen Erinnerungen. Auch in der Gegenwart, 60 Jahren nach dem Abwurf der Atombombe, müssen sie Angst nicht nur um ihre Gesundheit, sondern auch um die Gesundheit ihrer Nachkommen haben. Zusätzlich können sie das unvorstellbare Jammerbild von vor 60 Jahren nicht vergessen: wie die Hölle auf Erden. Obwohl sie von Leuten, die unter Trümmern begraben waren und nicht aus dem Feuer fliehen konnten oder sich wegen schweren Verletzungen und Verbrennungen kaum bewegen konnten, um Hilfe angefleht wurden, mussten die Überlebenden damals deren Rufe nach Hilfe verweigern. Deswegen fühlen sich die Überlebenden als Sünder und leiden auch in der Gegenwart unter diesem Gefühl. Für den großen Teil der Überlebenden sind die Ereignisse, die vor 60 Jahren in Hiroshima und Nagasaki passiert sind, noch nicht beendet.

Während man auch in Japan fürchtet, dass die Ereignisse von Hiroshima und Nagasaki in Vergessenheit geraten, engagieren sich viele Leute, damit sich das Elend durch die Atombombe nicht wiederholt. Deswegen finden viele Veranstaltungen um Hiroshima und Nagasaki in diesem Jahr zum 60. Jahrestag statt. Zum Beispiel die 55. Pagwash Konferenz von den internationalen Wissenschaftler in Hiroshima, die Internationale Bürger Konferenz für no more Hiroshima, no more Nagasaki in Tokyo, die Konferenzen gegen Kernwaffen in Hiroshima und Nagasaki, das Kunstprojekt Pikadon, das friedliche Filmfestival in Hiroshima und noch viele weitere verschiedene Veranstaltungen. An diesen Veranstaltungen nehmen auch die vielen Überlebenden teil, um Ihre Erlebnisse zu überliefern und die Gefahr der Kernwaffe bekannt zu machen.

unsociologueunsociologue 2005/08/10 04:22  件の演説、素晴らしい成功を収めたようで、何よりです。準備のご苦労は大変だったのではないかと推察します。母語を操る人に直しを入れてもらうというのも、楽なことではないでしょうし。演説の方は、実際に起きた現実の持つ重みが、伝わったのではないかと愚考します。まだ発表が残っているようですが、そちらも頑張ってください。それではまた

saisenreihasaisenreiha 2005/08/10 23:18 やる前は、果たしてどうなることやらと戦々恐々としていましたが、やってみると案外たいしたことはなくて、案ずるより産むが易しでした。ドイツ語の直しは、私自身というよりは、友人に多大な時間と労力をいつも掛けさせてしまうのが、一番辛いです。自分がもっとドイツ語が出来れば、こんなに迷惑を掛けずに済むのにという感じでしょうか。でも、できないしものはできないし、仕方がないのですが。講演会の方も終わりましたが、私の発表に関して言えば、成功したのではないかと思います。というよりも、思ったより凄くハードルが低かったことに驚き、同時に腹が立ちました。ただ、プレゼンテーションの訓練としては、これ以上ない状況だったので、大分度胸が着いたので、総合的にはやって良かったと思います。