土曜日の夜は寝つけない

小森収『土曜日の子ども』を読んだのはもう数ケ月も前のことで、それについての感想は前に書いたのだけれど*1、どうやら自分の思っている感想とは違う見方が大半だったことを最近よく実感している。ただ人と話していくつか意見を共有していくうちに、そうした意見に対する新しい見方のようなものも出てきたので、それを含めてもうすこし丁寧なかたちで書いておこうと思う。ただ、肝心の本自体を後輩に貸してしまっているので、細かい部分を確認できていない。ゆえにあくまで走り書きとして。手もとに戻ってきてから、そのあたりは詰めていくつもり。また抽象的ではあるが、内容について触れている部分もあるので、気にする方は読まれぬよう。




 まずアウトライン。『土曜日の子ども』感想をネットで探してみるとマイナス意見として、
・なぜここまで暗い事件なのか/たんに不快なだけではないか
・なぜ事件が唐突に終わるのかよくわからない
 といったものがいくつか見つかったので、それについて自分の深読みを書いておく。
 またそれと並列して、
・なぜいままでの「日常の謎」系統の作品とちがって淡々とした文体なのか
 ということについても改めて書いていくことにする。



 まず『土曜日の子ども』について考えるさいに重要なのは、いままで書かれてきた「日常の謎」についての前提を共有することだと思う。本の帯には法月綸太郎が「『日常の謎』への挽歌」と書いている。ではどのような意味で「挽歌」足りうるのか。それがたんに典型的な日常の謎のような舞台で起こる嫌な話であればそうは書かないだろう。だからこそ、このジャンルが培ってきたものと、『土曜日の子ども』との違いを見ていく必要がある。

『土曜日の子ども』の視点人物は、最初の話の時点では、書店でアルバイトをしている学生として描かれる。そこにやってくるのは、どこかで聞いたことのあるような行動をする客だ*2。一部の読者には親しみのある舞台設定だが、読者が感じるのはむしろそこからやってくる「日常の謎」といわれるジャンルとのギャップによる驚きだろう。その定義についてはあまり深く考えることはしないが、「日常の謎」と呼ばれるジャンルの初期作品は、いわゆる私小説のようなかたちで綴られている。おそらくそれこそが最初に共有されたイメージなのだろう。そこでは謎の解決(解釈)≒世界観の変容≒視点人物の成長というストーリーの軸が用意されており、ジャンルの深化・変遷のうちにそれは定式化されていったように思う。

 けれども『土曜日の子ども』はその軸を正面から崩している。そこではいわゆるあたたかい人間ドラマは描かれていない。むしろ露悪的でさえある。けれどもそれがたんに後味の悪い結末だからといって、無理やり読者から嫌悪感を引き出そうとすることを目的とする作品だとみなすかどうかは別の話だと思う。また、日常の謎というジャンルには「日常の地続きにある悪意」をほのめかす話もあったはずなのだから、ギャップを感じるというのも不思議な話だ。
 このギャップを仮にあるものとして前提とするなら、ジャンル変遷のうちに定式化されていった「世界観の変容」は、「世界観の(肯定的な≒優しい)変容」と言い換えておくべきだろう。つまりここでは「悪意」の存在が忘れられていることになる。そうでなければ、ギャップを感じることはできないからだ。いや忘れられてなどいない、と反論することも十分可能だろうが、ここではあえてそう言ってみることにする。いわゆる嫌な話と日常ものは、現在では読後感が対極的な立ち位置にあるものとして扱われている。ではなぜそのようなものとしてみなされるのか。それは「日常の謎」がもっていた視点人物の設定にあったのではないかと思う。

 日常における謎の解決が、正の側面を照らしていた場合と、負を照らしていた場合とでは、視点人物のとる行動は変わる。前者では好感とともに出来事に寄り添おうとするが、後者では一定距離を保とうとするからだ。だが日常の謎で後者における話に触れたさいの不快な読後感は、じつは巧妙に和らげられている。それはひとえに一人称視点の文体によるもので、出来事に対する距離のとり方が、読者に対してストレスのないようになされているのだ。どういうことか。
 その考え方の前提として、まず北村薫の謎の描き方について考えてみる。巽昌章は『論理の蜘蛛の巣の中で』*3で、北村薫の「砂糖合戦」の手法について、以下のように言及している。

(…)「内面」を直接描かず、代わりにささいな兆候から推理と解釈と文学的連想を引き出すことによって、その悪戯は象徴的な暴力へと姿を変え、さらにこの世界の中に根深く潜む「悪」そのものを象徴するに至る。

 このようなことは『空飛ぶ馬』に収録されているほかの作品についても同様だろう。イメージを先行させることで、あからさまなものを登場させずにおいている。ただしその周囲を描き、連想させることで本質を浮かび上げてみせるのが、北村の特徴といえる。それはしばしば出来事に対する非接触にちかいものでもある。「赤頭巾」では円紫の解釈を聞いた「わたし」は話の最後で、ある人物と遭遇することになる。

「――どうしました、大丈夫ですか」
 声が天井から響くような遠いものに聞こえた。私は柿の実を手にしたまま棒立ちになっていた。(…)


ここでの描写は、視点人物である「私」と「悪意」との距離感をそのまま表している。文字通り「私」にとって「悪意」は遠くにある恐ろしいものであり、自分のほうに近づいて来たならば、それが過ぎ去ってしまうまでは身をかたくするほかはない。こうした態度は続編『夜の蝉』の「朧夜の底」においても描かれている。

 エレベーターで、《その人》と乗り合わせる可能性のあることに気が付いたのだ。
 空想の中の《その人》には表情はなく、能面を白く塗り潰したような顔をしていた。《それ》は男か女かも分からない。
(…)その白い唇の動きが目に浮かんだ。
 だらしないことに、私は再びエレベーターに乗る気力を失った。


 ここでの描写も基本的にはおなじ原理によるものだろう。「悪意」が近づいてくるならばこちらからは接触しないようにする。けれどもそうした記述がみせる対外的な態度は、描写の一側面にすぎない。「悪意」に対する「私」のこうした距離感は同時に、そのまま「私」自身のパーソナルな部分を映し出すことも避けようとする。なぜなら「私」は、自らのつよい感情を記述しようとはしていないからだ。「赤頭巾」において、「私」はあくまで「棒立ちに」なるだけで、自身のうちにある悪意(あるいはそれに準ずるもの)に踏み入ろうとしない。それらは文字通り、意識的に避けられている。
 だが、北村から「日常の謎」を継承した(といわれている)加納朋子の〈駒子シリーズ〉となると話は変わる。北村作品の「私」の視点で意識的に省かれたものが、加納作品の入江駒子の視点では、そもそもない(推理小説的にいうならば、気づかない/気づけない)ものとして描かれてしまっている。シリーズが進んだ『スペース』ではそのような人物であることを、他者の視点から分析されてもいる。

 一方、入江さんは、ひたすら自分の興味あるもの、きれいなもの目掛けて、突進していく。ほかのものは一切見えていないような感じで、ある意味、それは幸せなことなのかもしれない。
 きれいに見えたものは、近づいてみると火傷しそうに熱いかもしれない。鋭い刺や毒を持っているかもしれない……そんな風に考えてみたりは、きっとしないんだろうなと思う。

 また加納の別シリーズである〈アリスシリーズ〉では、作中の時間経過とともに常軌のような、ある種の無垢さをもった人物像を逆手に取った成長をするキャラクターが描かれるのだが*4、こちらは〈駒子シリーズ〉よりは読まれてはいない。
 短絡的な見方ではあるものの、日常が悪意を描かないものとして(あるいは忘却されたものとして)思われてしまう理由として、こうした描写による距離感の扱いがあったのではないかと思う。イメージはその本質に先行してしまう。もちろん「日常の謎」というジャンル作品を個別具体的にみていけば、それぞれちがった見方が出てくるはずだろうが、負の側面への接近がなされにくいイメージが存在していることは否めない。そう仮定したうえで『土曜日の子ども』をとらえてみる。

 だがその前にこれまでの話をいったん整理しておく。「日常の謎」というジャンルが初期において定式化された物語の側面として、一人称視点の人物が謎に出会うことによって、いままで見えていた世界を解釈しなおし、成長するというものがある。またその解釈はしばしばその人物にとって好意的なものとして描かれ、反対に否定的なものは意図的に避けられてしまう傾向がある。その結果、後者のイメージは前者にくらべ、それほど伝播していないという印象がある。けれども『土曜日の子ども』は「日常の謎」というイメージを前提としながらも、前者どころか、部分的にはこうした謎−解釈のプロセスさえ描こうとしていない。これはどういうことなのか。


 まず一人称による謎との距離感がちがうのは特徴的だ。『土曜日の子ども』は他作品とくらべ、ハードボイルド的といえるほど内面を描いていない。以前のジャンル作品であれば、多かれ少なかれ、自身の内面の変化は描いている。だが『土曜日の子ども』はあくまで起きた出来事を淡々と記述するのみだ。また内面を描かないということは、変化を描かないということでもあるだろう。ここでは成長という定式化されたものがあらかじめ失われているとみることもできる。
 またこれは全編を通して描かれる探偵役のスタンスとも呼応しているように思う。探偵役は必要にかられたさいに推理する一方で、他人の事情には深く立ち入ろうとはしない。探偵役らしく自分の解釈を必要以上に喋らないのはおそらくこの探偵役の意識からくるもので、『土曜の子ども』にいくつかオープンエンドのような、いわゆる解決/解説の書かれない短編があるのもこのためだと思われる。宙吊りにされた謎であるならば、それは好意的にも、否定的にも解釈することはできないだろう。よって成長もまた、ない。そのように見える。

 だが定式化された物語が排除されていくなかで見えてくるのは、むしろ視点人物自身の生(成長)に対する希薄さだ。いままでの日常の謎における視点人物であれば、謎(そしてその解決)と遭遇するたびに新たな世界を認識していたが、この物語ではそのような機会はやってこない。ましてや探偵役は視点人物の庇護者としては描かれていない。〈円紫さんと私シリーズ〉や〈駒子シリーズ〉では、視点人物は庇護者(探偵役)を通じて世界との向き合い方をすこしずつ身につけ、成長していく。だが『土曜日の子ども』には、庇護者はいない。これもまた、成長が描かれない理由のひとつでもあるだろう。そのきっかけをあたえて(世界の多面性を知らせて)くれる人物がいないのだ。
 結果として、淡々とした文体(=視点)は、まるでその人自身の希薄な世界認識のありようそのものに見えてくる。その人が見ているあらゆるものに意味づけされたものはなく、日常がみせる豊かなありようとは隔絶されているかのような印象。多くの読者が感じている「無彩色/暗い」といったイメージは、おそらくこうした文体からやってきている部分が大きい。この一人称描写からわかるのは、視点人物がいる場所が変わらないまま、膨大な時間経過だけが短編ごとのあいだに示されているということだけだ(このことは、作中に出てくる固有名詞から推察できる)。そして時間軸があとの話になるにつれ、視点人物が自分の身の振り方に対して消極的である描写が強調されていく。

 この消極的な態度のツケが回ってくるのが、おそらく最後の短編なのだろう。結末は苦しいことこのうえないが、ただこの短編で重要なのは(記憶が曖昧なのでちょっとあやしいが)、「〜ように見えた」「思った」といった「内面」の記述がはじめてあらわれているということだ。つまり、最後の事件を通してはじめて、視点人物の意識が変化している。ただこれは成長というよりは、ようやく世界と向き合わなくてはいけなくなっったのだということに気づいた、必要にかられた結果なのではないか。ある世界での出来事に向き合うためには、それに向き合う行為者をその世界に置かなくてはならない。その理由については物語の最後のくだりに示されている。

 話が前後してしまうが、負の側面に対して一定距離を保とうとする(あるいは考えないようにする)のが従来の視点人物だったといえる。もちろんそれは人間として自然な行為だろう。しかしそれは安全な物語世界での手段、あるいは庇護者がいた場合での、一時的な手段でしかない。視点人物が感じる日常の豊かさと同様に、ほんらいの日常には暴力的なものが存在しているはずで、それは往々にして解決不可能な問題をはらんでいる。定式化された物語では、その問題を扱うことができないのではないか。

 ゆえにそうした物語形式への「挽歌」として、『土曜日の子ども』のような物語が採用されたとみることは可能だろう。作中で起きる事件は、われわれが目にする日常とほとんど同じレベルで起きうるものであるし、前述したように、現実世界の固有名詞が作中のところどころに顔を出している。それは、読者の現実と作中の現実が地続きであることを意味している。現実に起きうる事件との距離のとり方を描く以上、それまでの安全な物語世界は否定せざるをえない。けれどそれは同時に解決することもできない。ならどうしたらいいのだろうか。

 その回答が『土曜日の子ども』が採用した文体なのではないだろうか。世界解釈の仕方としては、従来の一面的な方法では対応しきれない。ゆえにただ淡々と起きたことだけを記述することで、世界それ自体と向き合う。個人の感情を排して、出来事を記述するということは、ただたんに無味乾燥な記述だということにはならない。それは、感情によって流されてしまうことや、先入観による誤謬を防ぐ手段としても機能するはずだ。そしてそれはまた、探偵役が世界をみつめる方法でもある。最終話以前の短編は過去回想として記述されている。それはおそらく、最後の事件を終えた視点人物による語り直しであるということを意味してもいるからなのではないか。

 また『土曜日の子ども』にはいくつか真相やほんらいならありそうな後日談の描かれない、唐突に終わりをむかえる(いわばオープンエンド的な)短編があるが、リドルストーリーとはちがって、文脈から描かれていない部分を解釈することができる余地が残されているものがある。もしかすると過去の事件当時、視点人物はそうした真相には気づいていなかったのかもしれない。
 もし視点人物が過去の出来事を再構成することで、探偵役とおなじ視点に立ち、ようやく事件の裏にあった出来事に気づく(すなわち世界を再解釈する)機会を得たのだとしたら、その物語の記述は、過去の自分に対する「優しいまなざし」(≒庇護者)へと変わるのかもしれない。そしてそのまなざしは、読者にとっては再読という行為なのであり、読者自身もまた世界を再解釈することになる。そこにあるのはまさしく、「日常の謎」というジャンルが定式化してきた物語でもあったはずだ。

 長い暗い夜を過ごして朝をむかえるために、物語は要請される。けれどそれは夜を忘れてしまうことを意味しない。夜は毎日かかさずやってくる。夜中にふと目が覚めてしまったときにできることは、夜をみつめつづけること以外にないのだ。

*1:2014年8月/9月/10月 - ななめのための。

*2:競作五十円玉二十枚の謎 (創元推理文庫)

*3:論理の蜘蛛の巣の中で「第四回 盤から落ちるもの」より。おもに言及されているのは『盤上の敵』のほう。

*4:螺旋階段のアリス (文春文庫)虹の家のアリス (文春文庫)の二作のみ。それぞれの作品を比べるとゆるやかだが大きな変化を遂げていることがわかる。