ユニクロのチラシとAppleの時計についての雑感


ユニクロのブランドイメージと折り込みチラシとのギャップがずっと気になっていて、数年前に『ユニクロの広告が美しくない件』というメモも残していたのですが、最近『ユニクロのチラシを佐藤可士和にやらせない柳井社長。その理由とは?』っていう記事を見つけて、メモを残した当時の記憶が呼び覚まされました。


ユニクロの原価率」も、「柳井社長がチラシにどの程度関与しているか」も、「佐藤可士和さんにはダイレクト・レスポンス・マーケティングはできない」のかという点も、いずれもぼくはよく存じ上げませんが、ユニクロのしたたかさは「マーケティング的な」分析などしなくても、誰しもが感じていることと思います。ニクいというか、巧いんです、何かにつけて。技術というよりも、センスですね。これが柳井社長のセンスに依存するところならば、ユニクロの永続性はどうなのだろうと心配したり。


センスと言えば、Appleの未来眼のセンスが問われるApple Watchが発表となりました。その昔iPhoneが発表されたとき、ぼくは「Phone」という呼び名が気に入らなくて「電話ならいらない、スーパーなザウルス(古い!いわゆる "PDA" ですね、シャープ製)がほしい」と叫んでいたりしたものですが、結局のところiPhoneは高速通信機能を持ったスーパーなザウルスであり、「電話」はもはや特別な存在ではなくiOSアプリが提供する一機能になりました。Apple Watchははたしてインテリジェントな時計なんでしょうか、小さいiPod touchなんでしょうか、高機能なデジタルリストバンドなんでしょうか。スマートフォンが徐々にサイズアップしているトレンドを見るにつけ、あのサイズの窓を通した対話がもたらす新世界は左記のどれにも当たらない気がします。ぼくらがまだ何も気づいていないだけなのか、時計サイズの小さく使いにくいタッチOSデバイスでしかなかったのか。時計をする習慣のないぼくにはしばらく答えが見つからないのでしょう。


「服」という日常生活の必須アイテムをなんとなくカッコよく見えてしまうブランドづくりと巧みな流通・販売手法を駆使して売りまくりグローバル展開も着々と進めているユニクロのことを思う浮かべると、パソコンと音楽とモバイル生活に革命を起こしてきたAppleがここから始める「時計」の世界は、テクノロジーから想像力を働かせるだけでは見えてこないのかもしれないなあ、と思うのは彼らの取り組みを買いかぶり過ぎなのだろうか。


しっかしユニクロさん。サンフランシスコで立ち寄った店舗には戦慄と感動を覚えましたね。なにせ日本の店舗と区別がつかないのですから。海外でもあのチラシやってるんだろうか?やってないよね、きっと。