脳死

脳死の問題点」とかいうキーワードで検索して来ている人があったようだが、第一に問題なのは何をもって脳死とするかとかいった点にある訳ではない。脳死の判定基準自体に曖昧さがあるとか、本当にそれが不可逆的であるのかといった予備的問題しか法は扱わない。しょせん法とはそういうものだ。
問題なのは脳死であれ何であれ、ついさっきまで生きていた人間をモノ扱いする事に、当人であれ家族であれ、あるいは近しい人々がたえられるかという点にある。それは心肺の停止で定義される従来の死であっても全く同じである。
人が死んだからといっていきなりモノ扱いし、身体の一部を切り刻み、臓器を取り出して他所様の延命の手だてとする事、これをすんなり受けいれられない感情が根強くある、それが問題なのである。死とは科学的、医学的に定義され、規定されるだけのものではないからだ。死をいたんで涙する、喪に服す、葬式をとりおこなう等々の行ないを通じて人は死んでゆくのである。
たとえ生物としては死んでいなくとも、社会的にあるいは政治的に死ぬ、すなわち社会から抹殺される、政治家としての活動が封じ込められるといった死も死であろう。
生物としての死をむかえたからといって、いきなり人間でなくなるものではない、という思考法があるのを忘れてはならないと言いたいのである。