殿様の通信簿

2日間ほどでサクサクと読み終えた。戦国から江戸時代の7名の「殿様」のことが書かれている。「殿様」と言っても最後の二人、内藤家長と本多作左衛門は徳川家康の家臣で、あまり「殿様」という感じではないけれど。

ほほう、と思って印をつけていたところをメモ。

ある意味、中世の終わりは、「知性」による支配の幕開けの時代であった。それは、ナポレオンの生きたヨーロッパも、光政の生きた日本も変わらない。近世になると、中世のような、神仏への信仰ではなく、人間に知的な判断でもって、社会が動くようになる。のちに近代と呼ばれる時代の幕開けであるが、まだこの時期には、官僚制が完全には発達していない。官僚制が十分でなければ、個人の人格がそれをになうほかない。ゆえに、この時代、すべての判断が一人の「生身の治者」に集中して求められた。治者は超個人的知性をもたなければ、つとまらない。この時代の要請からして、ナポレオンも池田光政も「超個人的知性」をもとめられており、膨大な本を抱えて、旅行していたのであろう。(P. 66)

江戸時代は、実は、二つの時代で出来ている。関ヶ原合戦からの五十年が一つ。それ以降の江戸時代がもう一つである。関ヶ原以降の五十年は戦国以来の気風を残しており、光政は、その時代の人であった。ところが綱政の時代、元禄以後になると、人間の気質も違ってきた。ようするに、世の中が太平になったといってよい。大名は、公家のように弱々しくなってゆき、『源氏物語』の世界に耽溺するようになった。公家趣味は何も綱政に限ったことではない。戦場を疾駆し、馬上、権力を奪ったのは、もはや祖父や曽祖父の時代のことであり、生まれながらにして貴族である彼らは、ひたすら高貴なもの、美しいものに憧れた。羨望の的になったのは−京都の宮廷文化であり、この憧れは、天皇への憧れにつながり、二百年以上もつづいて、明治維新のときに、大名たちが権力の中心に、天皇をもちだしてくる伏線になっていった。(P. 86)

思うに、この国には「物事は長い目で判断しなくてはいけない」と考える美風がある。「今さえよければいい」という思想を断然否定するものであって、自分一代ではなく、世代を超えた長期的な視点を大切にする思想である。「日本人はすぐに過去を忘れてしまう」と、したり顔で語る人がいるが、実は、そうでもなく、日本人の思想の根底には、世代を超えた判断基準、長時代性を求める思想が、やはりある。歴史を観ることによって、自分の物の見方をひろげる、という考えに立つ人が少なくないように思う。(P. 279)

人というのは不思議なもので、自分のことばかり考えているうちは、自分のことはわからない。いったん、自分のことを離れて、他人の人生をも凝視するこことの余裕を持つと、存外に、自分のことがわかってくる。(P. 280)

殿様の通信簿 (新潮文庫)

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