日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

田園写真、2


家を出るから、生まれた場所は故郷になる。
つまり自分にとっての現在ではなくなるわけだ。

家を出るには理由があり、その人にとっての必要、必然があってのこと。
もちろん、僕にもある。
18歳の時、進学をとっかかりとして、家出をする。
公的な家出。

出たはいいが生きるっていうのは大変で、紆余曲折、迷ってばかりの20年間だった気がする。
未だ自分の中に解決できないどころか、深刻、かつ直視しなければならない問題があり、それが自分の人生を窮屈なものにしている。

それがここのタイトルの意味なわけです。

写真と言葉について、2  荒木経惟「センチメンタルな旅、冬の旅」

今さらながら、すでに古典的な存在になりつつある、この写真集について考えてみたいと思います。
有名なこの文章は、アラーキーの最初の自家版写真集『センチメンタルな旅』からの再録で、後のこの本でも色あせることない、一貫した意思の表明です。

その文章の内容ですが、写真集の中身については「新婚旅行のコースをそのまま並べただけ」だとか「日常の単々とすぎさってゆく順序になにかをかんじています」という程度にとどめられています。

ここで重要なのは、アラーキーは声高く「私写真家宣言」をしていることであり、それがこの本の冒頭にあることだと思います。もし、この文章が巻末にあるあとがきのようなものであったならば、印象は変わっていたことでしょう。
くわえて手書きで、しかもわざと左手で書いていることも写真家に対する想像をふくらませる要因になっていると思います。(アラーキーも最初から有名ではなかったわけだし)

当初「センチメンタルな旅」に文章はなく、紀伊国屋書店の当時の社長、田辺茂一という方のすすめでアラーキーはこの文章を書いたというのは有名な話です。
その理由に「当時でも、今さらあんなことは当り前のことだし、わざわざ書く必要ないことだと思っていたからね」(デジャ=ヴュ20号 1995)と話されています。

写真を撮る人というのは、ふだん言葉を置き去りにして、一種のカンのようなもので写真を撮っていると思います。むしろ言葉で理尽くめにされた撮り方は、避ける傾向にあると言えるでしょう。
それでも、撮るきっかけというものはあるのだし、撮り進めるにつれて、写真家の中にいろんな想いが降りつもっていくのは当然のことでしょう。アラーキーにとって、その結果が「センチメンタル」だとか「旅」という言葉だと思います。

写真についての意識と無意識は、たやすく説明できるものではなく、無自覚で乱雑な説明をすることは、写真を見る人に写真の見方を限定してしまう危険にさらすことになります。

写真家にとって必要かつ言うべき言葉とは何か、これからも考えていきたいと思います。

センチメンタルな旅・冬の旅

センチメンタルな旅・冬の旅

デジャ=ヴュ (第20号) 荒木経惟─私小説

デジャ=ヴュ (第20号) 荒木経惟─私小説