ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Naomi Benaron の “Running the Rift” (4)

 あとひとつ、「ジェノサイドを引き起こす人間そのものの悲劇性」を物語る例を紹介しておこう。虐殺が始まったあと、主人公のジャンは、ランニングの指導をしてくれていたフツ族のコーチの家を訪れる。そこの家政婦とジャンの会話がこうだ。"I am angry with all Tutsi for killing our president. You have destroyed everything good in our country." "Grandmother, I am not a killer. I am the same person I was two weeks ago, last month, last year." (p.287)
 昨日引用した箇所もそうだが、「昨日の友は今日の敵」、大統領の暗殺によって一気に情勢が変化し、友人や隣人が突然、殺人者となる。これが短期間で全人口の7分の1もの人々が殺されるという惨事につながったようだ。ともあれ、隣人よりも自分の信じる善を、正義を愛するがゆえにジェノサイドが起きる。
 ぼくはたまたま先月、ホロコーストを扱った小説、Philippe Claudel の "Brodeck" を英訳で読んだのだが、そのあともやはり、ベルジャーエフの『人間の運命』を引用した。「キリストは『なんじの隣人を愛せよ』と教えたが、『なんじより遙か遠く離れているものを愛せよ』とは教えなかった。この区別は非常に大切である。なぜなら、遠いものへの愛――つまり『人間一般』あるいは『人類』にたいする愛――とは生きた人間への愛ではなく、まさに抽象的観念や抽象的善への愛にほかならないからである。ところが、われわれは往々にしてこのような抽象的観念を愛し、そのために生きた人間を犠牲にしてしまうことがある。たとえば、革命のとき人々がふりかざす『ヒューマニズム』がそれである。…ヒューマニズムの説く愛は抽象的、非人格的な愛である」。
 このベルジャーエフの指摘を頭において、上の "Running the Rift" の引用文や、昨日紹介した "My friend Daniel. We had dinner with you and your girlfriends. You sat with him. .... He did not have an evil thought in his head. What happened to all your talk about unity and justice?" というくだりを読みかえすと、それが書きようによっては、いくらでも深く掘り下げることのできる箇所であったことがわかる。そこをあっさり片づけている点がぼくにはもの足りないのだ。ジェノサイドという道徳的難問について、ああでもない、こうでもないと思索を深めてこそはじめて、言葉は、小説は、文学は、数字や映像に劣らぬ、いや、おそらくそれ以上に効果的な表現手段となりうるのである。