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2020-01-01

2018-06-24

[][]ドミニク・ロペス『画像を理解する』

Dominic Lopes "Understanding Pictures"

ドミニク・ロペスによる描写哲学入門書

同じテーマのものとして過去に読んだものは

ジョン・カルヴィッキ『イメージ』(John V. KULVICKI "Images")前半(1〜5章) - logical cypher scape

ジョン・カルヴィッキ『イメージ』(John V. KULVICKI "Images")後半(6〜9章) - logical cypher scape

ネルソン・グッドマン『芸術の言語』(戸澤義夫・松永伸司訳) - logical cypher scape

S.E.P.「Depiction描写」 - logical cypher scape

Mulcom Budd “How pictures look” (マルコム・バッド「画像はどのように見えるか」) - logical cypher scape

リチャード・ウォルハイム「画像的表象について」 - logical cypher scape

ベンス・ナナイ「画像知覚と二つの視覚サブシステム」 - logical cypher scape

ベンス・ナナイ「画像知覚と二つの視覚サブシステム」 - logical cypher scape

ケンダル・ウォルトン「表象は記号か」 - logical cypher scape

描写について説明する立場としては、経験説、類似説、記号説、ごっこ遊び説、認知説がある。

この本では、第1部で類似説と経験説、第2部で記号説とごっこ遊び説、第3部で認知説、第4部で応用的な話という構成

第1部と第2部において、描写の理論における各説(ロペスにとってはライバルの立場)の紹介、3部と4部がロペスの立場ということになる。

なお、カルヴィッキとグッドマンが記号説、バッドは類似説、ウォルハイムとナナイは経験説、ウォルトンごっこ遊び

第1部は、知覚的なものとして画像を説明する立場

第2部は、シンボル的なものとして画像を説明する立場

とロペスは整理していて、自身の認知説は、この両者を折衷するものとしているようだ。

その際、ガレス・エヴァンズを持ってくることによって、知覚と記号とを結びつけている。


また、第1部と第2部において、描写の理論に求められる制約条件を洗い出している。

多様性制約

現象学的制約

二面性制約

能力制約

認知説はこれらをうまく説明出来るよ、という組み立てになっている。


ロペスは自分の説のことを、aspect-recognition theoryと読んでいる。

描写を、アスペクトと認知という2つから特徴付けている。

アスペクト」というのは、簡単に言ってしまうと、見ているもの(コミットメント)と見えていないもの(非コミットメント)がある、という特徴。

遠近法に従って描かれた絵であれば、奥にあるものは手前にあるものに隠れて見えなかったりするだろうし(明示的非コミットメント)、

線が省略気味に描かれている漫画であれば、人間の鼻が(実際にないわけではないのに)なかったりするだろう(暗黙的非コミットメント

アスペクトは、画像的表象が、他の表象(例えば言語とか)とどこが違うのかということを説明するし、また、画像の多様性の説明にも使われる。


「認知」というのは、画像に描写されている対象が何か分かるのは、実際にその対象を見たときにその対象が何か分かるという認知能力と同じ認知能力が働いている時である、ということ。

例えば、ある絵がヒマワリの絵であるというのはどういうことかというと、ある花がヒマワリだと認知する能力でヒマワリだと認知できるから。何故、認知できるのかというと、エヴァンズの情報システムという考えを援用して、ヒマワリの絵がヒマワリの情報を運んでいるから、と述べている。

(なお、他の立場について簡単に説明すると、以下のようになるだろう。「ある絵がヒマワリの絵であるのは、ヒマワリの視覚経験を引き起こすから」「ヒマワリと類似しているから」「ヒマワリのメイクビリーブをするための小道具となっているから」「ヒマワリを指示する記号だから」)



第4部の応用編では、フィクションの画像と、変奏としての画像を扱っている

後者は、ピカソが描いた《草上の朝食》とか、他の画家が描いた絵をさらに描いているような絵についての話。


I Pictures as Perceptual

1: Representation and Resemblance

2: Depiction and Vision


II Pictures as Symbols

3: Goodman's Symbol Theory

4: Symbols and Substitutes

5: Pictorial Reference


III Aspect Recognition

6: Pictorial Content

7: Pictorial Recognition

8: Pictorial Meaning

9: Pictorial Experience


IV Applications

10: Fictive Pictures

11: Picturing Pictures


I Pictures as Perceptual

知覚的なものとして画像を説明する立場について

1: Representation and Resemblance
  • ピーコック説について

ロペスは、ピーコック説のみでバッドには特に触れていない

また、カルヴィッキやSEPでは、類似説として取り上げられているのは、アベルやハイマンで、ピーコックもバッドも言及されていない。

また、カルヴィッキは、ホプキンスも類似説として取り上げているが、SEPでは、ホプキンスとピーコックを、どちからといえば経験説に近い類似説として取り上げている

バッドは確かに、視覚経験における類似なので、純然たる類似説という立場ではないのかもしれない。


描写の理論は、画像の様式やタイプをフルレンジで説明できなければならない。

フルレンジとは、遠近法に基づいたような絵画だけでなく、コンスタブルの絵もキュビストの絵もクワキウトル族の絵も、ということ

(p.32)

描写の理論は、絵画主題のように見える(似て見える)というのはどういうことか説明すべき

(p.36)

2: Depiction and Vision
  • ゴンブリッチのイリュージョン説(『芸術と幻影』)とウォルハイムのSeeing-in説

イリュージョン説は、普通の視覚経験と画像の視覚経験は連続したものであり、後者は前者の特殊例と考える

Seeing-in説は、前者と後者が非連続的なものだと考える

二面性について、ゴンブリッチは、同時に経験するわけではないと主張。アヒル−ウサギ画像の知覚のアナロジーで説明している。が、このアナロジーは成り立っているのか、という問題あり

  • ウォルハイムのSeeing-in説

Seeing-inとは、雲に顔を見るとか。自然現象に対するSeeing-inと画像のSeeing-inの違いは、後者は意図による正誤の規準がある。

この説は、多様性制約や現象学的制約にも適応する。

    • Seeing-inとSeeing-asの違い

(1)内容の違い

Inは個物や性質だけでなく事態も内容として持つが、asは事態を内容と持たない。また、見る者の概念リソース認識論的構えとかかわってくる

(2)localized requirement

asはこの要件に縛られる。inは縛られない。

(3)二面性との関係

二面性は、inの性質、asはそうではない

  • 強い二面性と弱い二面性

ウォルハイムは、画像的経験に二面性は必要essentialだとしている。ロペスはこれを「強い二面性」と呼ぶ。

必ずしも全ての画像に、二面性があるわけではないのでは、という反論(例えば、ウォルトンに従うと、トロンプルイユは画像ではないことになってしまう)

対して、画像的経験と二面性は両立concistentするという主張を、ロペスは「弱い二面性」と呼ぶ。

ロペスは、二面性をスペクトラムで考える。

表面についての経験がないトロンプルイユ、二面性の経験はあるが同時には生じていないもの、同時に生じているもの、と

ところで、Nanayだったら、このあたりは注意と知覚の違いで説明するところだろう。

Bence Nanay ”Threefoldness" - logical cypher scape

二面性制約

強い二面性と弱い二面性を区別して、前者をリジェクトするような説明としての二面性制約

描写の知覚的理論は、二面性のあるもの、注意が切り替わるもの、表面について経験していないものなど、画像的経験のフルレンジを説明すべき

(p.51)

II Pictures as Symbols

3: Goodman's Symbol Theory
  • 能力制約

グッドマン説は、画像に関する能力に関する以下の2つの特徴について、説明できないのでは?

生成性:ある一つの絵の見方が分かると、同じシステムに属する他の絵についても理解することができる

(言語との違い。単語の意味を覚えるように、絵の意味を覚える必要はない)

Transference:見知らぬものについての絵を見ても、それがどのようなものか理解できる

(例えば、見知らぬものについて、それの画像を見ることで、それがどのようなものか学ぶことができる)

4: Symbols and Substitutes

記号説は、描写の知覚的説明と両立しない

第4章は、画像は、指示的ではないから記号的ではないという方向での挑戦を紹介する

画像は、指示的ではなく、対象の代理物であるという考え

ウォルトンが、表象を指示的なものと考えていないということについては、

ケンダル・ウォルトン「表象は記号か」 - logical cypher scape

ウォルトンとグッドマン - Kendall Walton, 表象は記号か - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめも参照

また、カルヴィッキも、ごっこ遊び説として、ゴンブリッチの『棒馬考』に触れている。


代理として使われる芸術と、指示に使われる芸術


ウォルトピア思考実験

言語と画像の違い

メイクビリーブ

ロペスは、ウォルトンについて、表象についての考えをラディカルに変えたと述べている。

全ての画像をフィクションととらえるウォルトンに対して、2つの誤りを指摘

(1)絵画の情報を運ぶ役割を軽視している

絵画の大多数は、art picturesじゃなくてdemotic picturesだと

(2)使用と意味を区別できていない

ロペスは、意味をmeaningとsenseにわける。senseは、使用の文脈にまたがっている意味の部分

画像にもsenseはある

ウォルトンは、画像のsenseがメイクビリーブという使用に依存していると考えるが、ロペスは特定の使用に依存しないと考えている。

メイクビリーブにも主張にも使うことができる。

ゆえに、ウォルトピア思考実験自明ではない→言語におけるウォルトピアもありうるし、画像における反ウォルトピアもありうる

想像との関係についても、ロペスは2点から反論する

(1)表象を見ているとき、表象されたものを見ているのであって、見ることの想像は必要ないのでは

紙幣を見ている時、女王を見ることを想像しているというのは不自然では

(2)多くの画像的経験と想像的代替物の模範ケースの間にギャップがある

前者はたいて感情的参加がない


5: Pictorial Reference

画像が、指示的な記号(denotative symbol)システムであることは認めつつ、それを知覚的な説明と矛盾しないようにする方向を目指す


  • 画像による指示の理論

指示の理論として、記述説と因果説*1を比較

画像的指示(pictorial reference)についての記述説も因果説も適切ではない。一方で、画像は主題について誤表象することがあって、画像の内容は画像が指示しているものとマッチしている必要はない。他方で、画像はその主題をある性質を持っているものとして表象しているのであって、独立テーゼは誤っている。(p.99)

知覚経験と画像は、どちらも、何を表象しているかについて、その内容と起源に依存しているという点でパラレル。

ハイブリッド説へ

カプランによるハイブリッド説を検討したのち、エヴァンズによるものへ


  • エヴァンズ

エヴァンズは、言語的指示についてハイブリッド説を

情報ベースによる同定が、起源と内容の両方の要素を持つ、というもの

    • 情報システム

知覚、記憶、コミュニケーションが情報システムの構成要素

情報状態は、人間の認知の中で特有の位置を持つ

情報状態は、サブパーソナルなレベル(神経的なプロセス心理学的なメカニズム)によって説明される。

情報状態は「信念から独立」で「非概念的」

    • 情報ベースの同定(identification)

情報を持つものは、2つの方法でそのソースを同定できる

(1)因果をたどってソースを同定する方法

(2)その内容に基づいて、ソースを同定する方法→mode of identificaiton(このmodeのうち一つは記述だけど、他にもある)

正しくソースを拾い上げられる同定=well-grounded

誤ったソースの同定=ill-grounded

  • 情報システムと思考(thought)

サブパーソナルな情報システムと、パーソナルな思考

(思考とか意図とか信念とかそういったものをパーソナルレベルと呼ぶらしい)

情報ベースな思考というものもある

情報ベースな思考は、思考であるので、「ラッセル原理」と「一般性制約」という制約に従う。

    • 知覚的指示

  • エヴァンズ理論を用いた画像的指示のモデル

画像は情報システムの一部であり、個々の画像は、その主題からの知覚的情報を運ぶ。対象を同定することのできる、対象からの情報を画像が運んでいるときのみ、画像はその対象を表象している。画像を理解するためには、見る者は、その内容に基づき画像のソースを選び出す、画像的mode of identificationを用いなければならない

ある対象や対象の種類が、画像の情報のソースとなっているときのみ、それは画像の主題となっている。が、画像の内容は、その主題表象するにあたって、その主題を同定する基づけとなっているので、取り除けない役割を果たしている。ソースと内容というふたつの要素が、同定がwell-groundedであるという要件においてバランスをとっている。

p.107


III Aspect Recognition

6: Pictorial Content

アスペクトについて

画像に特有な特徴として、詳細さがあると考えられている。

グッドマン説では、アナログさや相対的充満と言われる要素であるが、画像に必要だとはいえない

レツキは、ある表象が、その情報のソースがFであるということ以上に詳細な情報を伝えないものをデジタル、より詳細な情報を付け加えるのがアナログとして、言葉はデジタル、画像はアナログとした。が、ピーコックが、文でも伝えることができると批判している

詳細さについての神話は、デネットにもみられる。画像や視覚的経験と心的イメージの違いとして細部が決定されているかどうかをあげている。虎をイメージするのに線の本数を決める必要はないが、絵に描く場合は決まっている必要がある、と。


詳細さではなく選択が、画像にとって特有な特徴だとロペスは論じる

選択には、2つのタイプがある

選択(1):(ゴンブリッチが論じているように)世界の情報はとても多いが、メディウムは限られており、何を描くか選択が必要→画像に特有というわけではない

選択(2):描写の構造的特徴に由来する。ある特定の視点から表象しなければならないので、画像は、主題がある性質を持っているように、あるいは持っていないように表象→4つの可能性(用語はネッド・ブロックから借用)

・Fにコミットメント

・非Fにコミットメント

・非明示的に非コミットメント

・明示的に非コミットメント

明示的な非コミットメントは、言語的記述にはない

画像におけるコミットメントと非コミットメントの総体を、「アスペクト」と呼ぶ


様々な方法で、コミットメントしたり明示的に非コミットメントしたりする


全ての画像が、ある点では非明示的に非コミットメントしているので、画像は必然的に選択的である。

画像は、空間的特徴を表象するために他を表象することを妨げるから、選択的なのである。


描写システムとは、pictorial referentsとpictorial predeicatesの組み合わせによって作られるすべての画像の集合

画像がアスペクト的であることは述語の可能な組み合わせに制約を課す


  • 描写システムは慣習的ではない

ルイスによる慣習の分析によれば、慣習とは規則性のことで、その規則性は恣意的に選ばれたもの

描写システムは、必ずしも恣意的だとは限らないので、慣習的だとは言えない


7: Pictorial Recognition

この章は前半が知覚における認知の話、後半から画像と認知の話となる

「画像は、見る者がそのソースを認知することに基づいて、その主題からのアスペクチュアルな情報を運ぶことで、表象している。(p.136)」


  • 知覚における認知

認知能力というのは、知覚に基づいて、以前あったものと同じものだと同定できるように情報を集めること

認知には、(1)特徴(2)個体(3)種類の3つの形式がある。

変化しても認知できることをダイナミックな認知能力と呼ぶ

顔の認知は、ダイナミックな認知。表情が変わっても同じ顔だとわかる。

認知がダイナミックであるというのは、異なるアスペクトのもとで、特徴、個体、種類を認知するということ

あまりにも変化の程度が大きいと認知できなくなることもある

認知可能な範囲での多様なアスペクトの種類=「ヴァリエーションの次元」

生成性:認知能力の重要な特徴

あるアスペクトである対象を認知できるときに、同じアスペクトで他の対象も認知できること

(ある一定の歳月の加齢があっても同じ人の顔だと認知できて、他の人についても、同じ歳月の加齢であれば認知できるなら、その加齢というアスペクトにおける認知能力は生成的)


    • 知覚と思考の関係について

知覚は、思考の基になる

思考というのはエヴァンズによれば、ラッセル原理と一般性制約を満たさなければならない

知覚によって構成される思考もこれらを満たす。

ダイナミックで生成的な知覚というのは、対象や種類についての概念を与える

ラッセル原理は要素を識別することができるかとかで、一般性制約は同じ種類の項目だったら入れ替えても成り立つかとかいう条件で、概念的であるかどうかみたいなこととかかわっている話のはず。ダイナミックで生成的な知覚というのは、色々なアスペクトでも対象を認知できることで、それはその対象についての概念を持つことだ、みたいな話)

一方で、アスペクトの概念を持つことではなく、アスペクチュアルな情報自体は非概念的


    • 認知と思い出すこと

認知recognitionと思い出すことrecallは別もの

哲学の支配的な考え方では、認知は記述的同定に還元される。だが、もしそれが正しいと認知は非概念的なものではないことになる

Recognitionとrecall(記述的同定)が違うことをエヴァンズは描いている


  • 画像的認知

絵画がなにを表象しているか同定することは知覚的認知能力を使っている

画像の主題を認知する能力は、認知のダイナミズムを拡張すること


画像認知は二つのレベルで働く

1:内容認知:画像のデザイン(画像の表面)からアスペクトを提示されるレベル

2:主題認知:しかじかの特徴を持つものを(内容)を主題として認知するレベル

この二つはお互いに関係しあう(アヒルーウサギ画像)

しかし、内容の中に主題を認知するのとデザインの中に内容を認知するのは異なるスキル


表面の多様性アスペクト多様性がある

前者は内容認知によって、後者は主題認知によって説明される

    • 能力(Compitence)

画像の認知能力はシステム相対的

システムに応じて画像の認知の速度と正確性が変わるという経験的証拠もある(マンガ、写真、線画などで比較)

生成性:親しみのある対象の新しい画像を解釈する能力

転移transference:画像を通して見知らぬ対象を同定する能力

    • 類似

画像と主題の類似はアスペクトとシステムに相対的


  • basically portray

絵が何かを描いているというのは、適切な知覚者がそれを認識することができるということにもとづいて、その対象ないし情景からの情報を絵が具体化している、ということ



8: Pictorial Meaning

画像の意味がどのように定まるか

ロペスは、作り手の意図と画像の意味とを切り離す


9: Pictorial Experience

アスペクト認知説は、経験によって描写を説明しないが、画像経験について説明する

認知から経験を説明することで

(1)普通の視覚経験に似たものとして説明しなくてすむ

(2)画像経験が、アスペクチュアルな性質を反映していることを許容する

というメリットがある

ウォルトンの透明性の議論から、ウォルトンが写真を、信念から独立した反事実的依存によって作られるので絵画と異なるとしている点に反論。

→情報システムの信念独立性や、画像内容が非概念的であることについて

ウォルトンは、信念独立の反事実的依存だけでは透明性に十分ではないというところから、真の類似性が必要で、二階の同型性を提案するが、ロペスはこれに対しても反論

透明性を、知覚のモダリティから考える

デザインの性質と内容の性質が同じモダリティで知覚されうる=透明なメディア

ラジオは聴覚的に透明)

レツキの知覚理論にでてくる「固有の質」

→透明性と二面性


IV Applications

10: Fictive Pictures

フィクションの画像については、メイクビリーブによって説明している

「ふりをする」


11: Picturing Pictures

ピカソが、モネの「草上の朝食」をもとに作った作品など、何か別の絵を描き直したような絵=variation

Variation画像の意味は何なのか

クーパーヤスタインバーグ、あるいはウォルハイムはそれぞれ、variation画像の主題などはオリジナルのそれと同じであり、variationの意味について、作者の側からアプローチする

ロペスは、そういった面があることは否定しないが、variationの意味はそうではないと考える

Variationとオリジナルのマッチング

しかし、マッチングだけでは十分ではない。マッチング関係は対称的だが、variation関係は非対称

因果関係が、この非対称性を説明する

グッドマンによる対照例示による説明は、とても重要だが、説明にはなっていないとロペスはいう。

主題認知や内容認知ではなく、variation認知というものをあげている。


参考

Lopes『図像を理解する』 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

*1:原文では、genetic theory

2018-06-19

[]科学基礎論学会シンポジウム「宇宙科学の哲学の可能性――宇宙探査の意義と課題を中心に」

6/16・17に千葉大で行われた科学基礎論学会のうち、16日のシンポジウムに参加してきた。

近年、宇宙科学・探査についての人文社会科学的アプローチが増えてきている。

全然フォローしきれているわけではないが、これまでこのブログで扱ったものとしては、以下がある。

「宇宙倫理学研究会: 宇宙倫理学の現状と展望」 - logical cypher scape

稲葉振一郎『宇宙倫理学入門』 - logical cypher scape

『現代思想2017年7月号 特集=宇宙のフロンティア』 - logical cypher scape

宇宙倫理学に先行して、宇宙人類学関係の著作が出ているのだが、そちらは読めてない。

また、このブログでは取り上げていないが、昨年12月に、「将来の宇宙探査・開発・利用がもつ倫理的・法的・社会的含意に関する研究調査報告書」が発行されている。


呉羽真「宇宙探査と科学の価値」

本シンポのオーガナイザーで、上述の報告書の代表者である呉羽さんから、本シンポジウムの背景などについて。

なお、呉羽さんは、昨年度まで、京大の宇宙総合学研究ユニット特定研究員であったが、任期切れで、今年度からは阪大に所属しており、こっちではロボットAI関係のことをやっているらしい……

まあ、色々な話をしていたのだが

宇宙探査・宇宙開発事業というのはとかく金がかかるわけで、社会のリソースを割くだけの価値・意義があるのか、という話はよくある。

フィリップ・キッチャーという人が、科学的なアジェンダ設定の問題を論じていて、有意義性(いわゆる「役に立つ」だけでなく、人類の知識を向上させるという点も含めた上での有意義性)というものをあげている。

で、呉羽さんとしては、しかし、宇宙科学というのは、キッチャーのいう「有意義性」だけでなく「文化的価値」もあるのではないか、と。

簡単に言うと、宇宙の話はよく「夢」という言葉とともに語られやすい(法律の中にまで「夢」という言葉が使われている!)けど、この「夢」とか「ロマン」とか「運命」とか漠然と言われているものを、もう少し細かく内実のあるものとして論じていくことはできないのか、とか。

その一つの端緒として、示唆的なものとして、地球観の変化みたいなものがあるのではないか、という話をしていて、地球がかつて「ゆりかご」としていつか出ていくものとして語られていたのが、近年は「家」というイメージになっているのでは(近年の宇宙SFや、「宇宙船地球号」という言葉がすたれ「ホームプラネット」という言葉が使われるようになってきている傾向など)という話をしていた


  • そのほか

The Global Exploration Roadmap January 2018.pdf

今後の宇宙探査のロードマップ


宇宙科学の哲学の関連として、アストロバイオロジー哲学とかSETI哲学とかいった分野もできているみたい。

気になる!


寺薗淳也「惑星探査の過去・現在・未来」

探査機から得られる情報を分析するシステムの研究を行っている寺薗さん

JAXAで広報されていたことがあるとのことで、話がとても聞きやすかった。

内容としては、タイトルにあるとおり、惑星探査の歴史、というようなもの

ツィオルコフスキー「運命」論に触れて、その内実はもっと深掘りされるべきだろう、と。例えば、今後民営化が進むのは不可避だけれど、一部の宇宙へ行きたい人の「運命」を人類全体に敷衍してもよいものか、とかいったことを、ちらっと提起していた。


伊藤邦武「宇宙における野生の思考」

宇宙科学や宇宙探査にかかわる哲学について直接何か関わっていたわけではないけれど、京大時代に話を聞いたり、JAXAの「宇宙の人間学」研究会から出版された本を読んだりしたときに、気になった点について

まず、宇宙探査によって、心理学社会学、芸術学などの人文社会科学分野においても意義にある知見が出てきているのは、確かなことだろう、と。

ところで、この「宇宙の人間学」研究会というのは「人間学」という言葉をカントからとっていて、また、カントコスモポリタニズムを宇宙へと広げていこうというような考えが前提とされている。

で、それがちょっと気にかかるなあ、という話で、カントじゃなくてルソーの考えを紹介している。講演タイトルにある「野生の思考」はルソーから。

カント的に考えると、確かに、カントは実践理性とかの普遍性を述べているので、宇宙の話に使えそう。

だけど、例えばルソーは、自然状態、市民社会、都市を非連続的に捉えている。つまり、宇宙に近代や民主主義理念を拡大するといったって、別様から考えることも可能なのでは、という指摘。

宇宙における「自然状態」が一体どういうものか、いまだ分からないのだから、と。


(今回のシンポジウムを通して、特に言及はなかったが)稲葉『宇宙倫理学入門』をちょっと思い出したりしていた。

つまり、宇宙における「自然状態」ということについて、今いる地球人とは全然違う人々が全然違う共同体を作っていく可能性はあるなあ、と。


面白かったのは、カントから宇宙を考えるというのも一理あって、実はカントは、比較惑星論みたいなことを書いている、という話。もちろん、当時の知識が前提なので、今から見たら変なことを言っているのだけど、面白い。

暑いところの方が知性が低い、というまあちょっとアレな前提があって、そこから水星人は知性が低く、土星人は知性が高く、地球人はその中間くらいということをカントは書いているらしい。


そもそも、他の惑星に人がいるという発想はどこからと思って、家に帰ってからちょっとググったのだが、17世紀フォントネルの『世界の複数性についての対話』という著作があって、この中で、月や他の惑星にも人がいるという話がされているみたい。

世界の複数性についての対話 - Wikipedia




立花幸司「宇宙科学の哲学の可能性」

とても面白い発表だけれど、一方で、会場から一番質問が集中していたよう気がする

倫理学と宇宙医学・宇宙行動科学について

立花さんの、元々の専門はアリストテレス倫理学

アリストテレスの徳倫理学についての特徴を3つ挙げている

(1)経験的な知見との整合性を重視する

(2)徳の定義よりも、徳の発達・獲得・教育を重視する

(3)理論は人をよくするためにある

こうしたことから、現代の心理学的な知見との整合性があり、また社会実装への応用ができる徳倫理学の可能性を、立花さんは模索しており、その際に出会ったのが、宇宙行動科学だった、と。

宇宙行動科学というのは、宇宙医学から派生してきた分野で、宇宙飛行士の健康、特に心理的・行動面での健康を扱う。

ISSでの活動も長期的になっており、mental healthならぬbehavior health/performance

というものも重視されるようになっている、と。

で、これって「徳」というものを考える上で、重要な経験科学的な知見になるんじゃね、と。

ISSのような閉鎖環境下では、パフォーマンスが発揮できるかどうか、というのも普通の環境とは変わってくる。

こうした宇宙行動科学の知見というのは、その応用として、例えばチリ鉱山の事故の際に使われているらしい。あの事件の時、NASAの担当者が招聘されて、閉鎖環境での生活を余儀なくされている人たちに対して、どのような情報をどのようなタイミングで与えるのかプレッシャーを軽減させるのか、といったアドバイスが求められたりしていたらしい。


話としては面白いけど、それ本当に徳倫理学の話になるのだろうか、とか

宇宙環境が人間の活動にとって過酷な場所だとすると、そういった場所での活動を倫理学が利用するのは問題ないのか、とか

そういった質問が会場からは飛んでいた


感想

かなり色々な論点があって面白そうだな、と思った。

さて、呉羽さんの発表でも少しあったし、なんとなく議論の背景として共有されていたけど、あまりはっきりとも言及されたなかったような気がする話として、そもそも何故近年、宇宙科学・宇宙探査についての人文社会科学的アプローチが増えているか、という点があるかと思う。

つまり、宇宙開発当局からの要請、という側面が結構あるということ。

宇宙開発は巨額の予算が必要になる一方、一般の人たちにとってはメリットがわりとふわっとした分野であり、予算獲得という面では色々と厳しい点もある。

宇宙開発には意義がある、という主張を、哲学とか人文社会科学を使って、よりサポートすることはできないだろうか、という思惑があるということである。

とはいえ、リソースには限りがあるという前提のもと、宇宙探査はした方がいいのか、しない方がいいのか、という議論は結局のところ、かなり政治的な話であって、哲学という学問が何か言えることってそんなにあるのかな、というのは謎

(つまり、哲学を使っても「宇宙探査はやるべき」とも「やらないべき」とも特に言えないのではないか、と)

その一方で、確かに科学的探求が持っている価値とは一体何なのか、特に、宇宙科学などでよく言われるような価値(文化的価値)とは一体どのようなものであるのか、についての分析は、哲学として取り組んでみても面白い問題かもしれない。

また、哲学の自然化が進む中で、立花発表のように、宇宙科学からの知見を哲学に持ってくるというのも、面白いところだと思う。

[]冲方丁『マルドゥック・アノニマス3』

冲方丁『マルドゥック・アノニマス1』 - logical cypher scape

冲方丁『マルドゥック・アノニマス2』 - logical cypher scape

シリーズ第3巻

スクランブルとヴェロシティは全3巻だったけど、アノニマスはまだ続くー


スクランブルの登場人物とか出てきてるんだけど、スクランブルとかもうだいぶ忘れてしまってるー。アノニマス2巻ですらちょくちょく忘れているという鳥頭なんであれなんですが。


ハンターは《評議会(カウンシル)》を招集し、「天国への階段(マルドゥック)」をのぼり《円卓》へ迫るための、「勢力」作りを着々と進行させていた。

ウフコックによる「善なる勢力」構想が、イースターによって承認され、ハンターとクインテットに対抗すべく、有力なメンバーが招集される。議員、警察、検察ポルノ業界のビジネスマンカジノ協会、裏世界のキーマン

ウフコックの働きは、秘められたままではあるが、報われることになるはずだった。


ルーン・バロットは、ハイスクールの卒業を間近に控え、大学への推薦入学を決める。潜入の仕事を続け精神をすり減らすウフコックにとって、彼女の卒業と進学を祝うことは貴重な慰めとなっていた。


深い絶望と後悔、誘惑への抵抗の中、一筋の希望として、再びネズミと少女がタッグをくむところで3巻は終わり、4巻へと続く。

[]『ゲームSF傑作選 スタートボタンを押してください』

D.H.ウィルソン&J.J.アダムズ編 中原尚哉古沢嘉通

タイトル通り、ゲームをテーマにした作品を扱った短編集で、意外と(?)ビターな後味の作品が多かったような印象


「1アップ」「キャラクター選択」がわりと好き

「救助よろ」「猫の王権」「リコイル!」「ツウォリア」「アンダーのゲーム」「時計仕掛けの兵隊」あたりも面白い


アーネスト・クライン 序文

『ゲームウォーズ』(『レディプレイヤーワン』の原作)の著者による序文がついているのだが、読んだときは、誰なのか知らなかったので、「編者でもないしこの人は一体誰なんだろう」と思いながら序文を読んでいたら、最後に「(それぞれの作者がどのような作品を書いたのか早く知りたいという旨の文のあとに)〆切に間に合わなかったのが私だけなのかも早く知りたい」と書いてあって、「原稿落としたから序文だけ書いてんのかよww」となってしまった。どこまでマジでどこから冗談なのかよくわからんけど。

桜坂 洋「リスポーン」

リスポーンとは、ゲーム中で死んだ後に、真だ場所から離れたステージで復活すること

直接的にゲームについては書かれていないが、ゲーム的な繰り返しの生が描かれる、桜坂っぽい。

牛丼屋でワンオペバイトしている主人公の「おれ」が、強盗に刺殺される。と、「おれ」の意識がその強盗へと移り変わる。殺された本人なのだと主張するが相手にされず、刑務所へ。ところが、今度は刑務所内で殺されてしまい、殺したヤクザに意識が移り変わる。


デヴィッド・バー・カートリー「救助よろ」

MMORPGにハマって引きこもりになってしまった元カレをゲームから引っ張り出すために、別れるきっかけとなったゲームにログインする主人公

冒頭から、現実世界(現代ないし近未来の普通の大学やその寮が出てくる)のはずなのに、主人公が剣を装備している、というちょっとしたズレが描かれているのだが、実は、現実の方が改変されていっているという話

退屈でパッとしない現実世界と自分が主人公たりえるゲーム世界とどちらがいいか、というよくあるテーマだが、この作品の場合、登場人物たちは、現実世界に回帰するのではなく、現実世界を記憶ごとゲーム世界へと改変してしまう。ほんの少しだけ残った、かつての現実世界の残滓に思いを寄せてしまう結末が、独特の味わいを持たせている。


ホリー・ブラック「1アップ」

ネトゲで知り合った4人のティーンエイジャーのうち、1人が病気で亡くなってしまう。彼の葬儀で初めてオフで顔を合わせた3人は、彼の部屋のPCに、奇妙なテキストアドベンチャーゲームが遺されているのを発見する。

そのゲームをプレイすることで、彼の死の真相へと迫っていくことになる。


チャールズ・ユウ「NPC

タイトル通り、ゲームのNPCを主人公にした一作。

何らかのバグが生じて、NPCがPCへと変容を遂げる。これまで、宇宙基地の一労働者で名前もなかったのが、様々なミッションをこなすようになるのだが、一方で、自由を失った感覚を感じるようになっていく

チャーリー・ジェーン・アンダース「猫の王権

とある脳神経疾患(この作品内の架空の病気)への治療としても用いられるVRゲーム「猫の王権

障害により、かつての性格が失われ社会生活を送れなくなったパートナーが、VRゲーム内の猫の王国では有能な王の補佐官となっている。

そして実はそのゲームはただのゲームではなく、現実にある経済学などの問題の解決にも寄与しているのだという


ダニエル・H・ウィルソン「神モード」

世界が少しずつ崩壊していく話


ミッキー・ニールソン「リコイル! 」

ゲーム開発会社に見習い的に入り込んでる主人公が、深夜に、会社に忍び込んできた強盗に遭遇してしまう


ショーナン・マグワイアサバイバルホラー

他の長編シリーズのスピンオフらしい


ヒュー・ハウイー「キャラクター選択

育休中に、ゲーマーの夫に隠れてゲームをしていた妻

FPSで敵を倒すのではなく、戦闘が起こっている場所から離れることで、隠れ面みたいなものを見つける話

今までゲームをしていなかった妻がゲームをしているのを見つけたゲーマー夫は、喜ぶのだけど、全然戦わないので「え、何そのプレイ」みたいになる。妻は、FPSで見つけた秘密の庭で庭園を作っている(普通にプレイしていると戦火に巻き込まれて廃墟と化してしまう商店の地下にある)。


アンディ・ウィアー「ツウォリア」

火星の人』のアンディ・ウィアー

交通違反罰金を支払おうとしたら、そもそもそんな違反は記録されていないと返されてしまう主人公

彼のもとに、ツォリアと名乗る者から連絡がくる。それは、彼が学生時代に書いていたプログラムだった。途中で停止してしまわないように、何万時間だか処理を続けろ、と書いていて、本当にその何万時間の処理を実行した結果、全人類の端末にハッキングしかけられる高度AIになってしまった、という

で、このツォリアなのだが、口調が完全に一昔前の2ちゃん語で、プログラミングされた当時のネットスラングを使っている、ということなのだろうが、その会話のおかしみがウィアーっぽいし、それを2ちゃん語に訳してる翻訳もGJ

中原訳

コリイ・ドクトロウ「アンダのゲーム」

タイトルは「エンダーのゲーム」からとられている

ネトゲで、自分が女の子であることを隠してゲームをやらなければならない(小学生までは親から変質者対策としてアバターを女性にするのを止められていた。ティーンエイジャーになると、女がゲームやってんのかよ的な偏見もある)ことに違和感を覚えていた主人公

(ところで、女性アバターの話だと「救助よろ」でも、元カレの好きなキャラクターの胸が無駄に大きい云々という記述がある)

学校に、とある有名女性ゲームプレイヤーがやってきて講演する。彼女は、少女たちのクランを作っていて、メンバー募集をしていた。

そのクランに参加してしばらく、ゲーム内通貨のゴールドではなく、現実世界のマネーを稼ぐ方法があると誘われる。

それは、強力な護衛に守られた施設の中で、Tシャツを作る労働者たちを殺害すること

しかし、彼女が殺しているのは、貧困国の少女たちがわずかな賃労働をするために使っているPCなのだった


ケン・リュウ「時計仕掛けの兵隊」

バウンティ・ハンターのアレックスは、とある政治家の依頼で、その政治家の息子を捕まえる。

父親のもとへと連れ帰る途中の宇宙船内で、その息子が作ったテキストアドベンチャーゲームをプレイする

それは、とある王女が、自分の召使である自動人形とともに、王宮に隠された、自動人形に心を与えるアイテムを探すゲームだった。

一方、ライダーとその父親が、アンドロイドの意識と権利をめぐって、考え方が対立していたことが分かってくる。

このゲームの内容と、ライダー自身の境遇がやんわりと重なっていて、実は、というのが明かされる。

「いかにもこの著者らしい余韻を残す一編」という解説コメントがつけられているが、まさにそんな感じ

2018-06-13

[][][]『新潮2018年7月号』

新潮 2018年 07 月号

新潮 2018年 07 月号

佐々木敦の「これは小説ではない」において、キャロル『批評について』が言及されていると聞いたので、読んでみた。

『批評について』未読だけど……。

今月掲載文の半分くらいが『批評について』への言及にあてられている。

キャロルの批評観に同意する部分もあるが、そうでない部分もある、と。

同意できない部分としてあげられているのは以下の3つだろうか。

同意できない、というか、佐々木自身が批評として書いてきた作業と、一致しない箇所といってもよいかもしれない。

(1)評価

(2)意図主義

(3)分類


(1)評価

キャロルは批評のコアを「評価」だというわけだけど、佐々木自身は、自分のやっていることは「それが何をしているか」を調べることだとしている。

「それが何をしているか」というのは、「作品がどのように動作しているのか」とも言い換えられる。

作品の働き、仕組みを記述したいし、そういうことをしてきた、というようなことを書いている。

ところで、この点について、キャロル的な観点から考えると、そのような作品の仕組みの解明や記述という作業は(例えば)「研究」と呼べばいいのでは? となる気がする。

「研究」と「批評」が別ものだとして、それを分ける基準は評価をしているか否かというところにあるのではないか、ということなのではないかと思う。

キャロルの主張は、事実として何が批評と呼ばれているか、ではなくて、規範として何が批評と呼ばれるべきか、なので

事実として、佐々木敦の文章は批評と呼ばれてはいるけれど、評価を含まずに作品を論じている文章については、別の呼び方をしてもいいのではないか、と。

実際、評価を含んだ文章も書いているわけで、その2つは区別して、片方を批評、もう片方を批評以外の名前(「研究」とか)で呼んだ方がいいのではないか、と。

まあ、キャロルの主張が本当にただの名付けの問題なのかどうかよく分からないが。

仮に名付けの問題だったとしても、評価の有無で文章の種類(名付け)を分ける意味はないという反論もありうる。


(2)意図主義

佐々木は、作品の働き・仕組みに注目しているので、キャロルがいうような意図主義には同意できないとしている。

作品は、作者の意図に反した誤作動を起こすこともあるが、それは必ずしも失敗とはいえないからだ、と。

キャロルの意図主義がどのレベルの意図主義なのかまだちょっとよく分かってないのでなんとも言えないけれど、実際的意図主義だとすると(おそらくそうんだろうけど)、まあ確かに意図しない動作が作品にとって失敗とは言い切れないなあ、とは思うんだけど

仮説的意図主義くらいだとすると、佐々木の考えと両立しそうな気もしないでもない。

作品というのは人工物であって、人工物には目的があってそのためにデザインされている。そのデザインがどう働くか、というのは、やはり目的に照らして理解されるものなのではないか、と。で、人工物の目的は、作者の意図(仮説的なものでよい)によって同定されるだろう。

例えば、作者はネコの絵のつもりで描いたけど、イヌの絵になってしまっているケースがあったとして、その作品が何をしているかというと、作者の意図に反してイヌを表象していると思うけど、その絵の目的に照らしていうと、目的通りの動作(イヌを表象する)を行っていると思う。


(3)分類

キャロルは、批評における評価の客観性は、作品をどのジャンルに分類するかという客観性に依存しているというようなことを言っている。

ところで佐々木は、ジャンル横断的に批評を行っており、この点にも不一致があるようである。


後半は、ドゥルーズの話をしていた。

で、次回は、視覚的なものや「描写」について扱うと予告されていた。

最近、「描写」について関心があるので、気になる。まあ、分析美学的な描写論の話するわけではないと思うけれど。

[]ケンダル・ウォルトン表象は記号か」

Kendall L.Walton Are Representations Symbols?

美学論文アンソロラマルク+オルセン編『美学と芸術の哲学:分析的伝統:アンソロジー』 - logical cypher scape)から


1974年に書かれた論文

表象のコアは指示ではない、ということを主張している。

なお、「表象のコアは指示である」はグッドマンが『芸術の言語』で主張している。

この論文の解説は以下の記事も参照

ウォルトンとグッドマン - Kendall Walton, 表象は記号か - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ


表象は指示的な記号のフレームワークで説明されることが多い(というかグッドマン)が、そうじゃない表象もある、という話

特に、言語と画像を対比させている。

画像は全てフィクションである、というMimesis as Make-Believeでも展開されている主張がなされている。

イントロダクション

実在物を描写しているとか表象しているとかを、ウォルトンはこの論文で「描写qしているdepict_q*1」、「表象qしているrepresent_q*2」と表記する

そのうえで、それはマッチングによって行われているのではない、と論じている

マッチングとは、表象の内容と対象の性質などが一致していること

例えば、モーツァルトの絵は、髪がくるくるしていて赤い服を着た男性の絵であり、モーツァルト表象qしている。で、実際に、あの絵の通りに、髪がくるくるしていて赤い服を着た男性がいたとすると、その男性とこの絵はマッチングしていることになる。でも、そのことはその絵がモーツァルト表象していることにとって必要でも十分でもない。

何を表象しているかは、作者の意図、因果関係、タイトルや慣習的なしるし、内容などによって決まる

実在している何かについての表象は、それを指示している、というグッドマンの主張に対しての反論

ただ、言語と画像についてウォルトンは扱いが異なる

言語については、何も指示していない、あるいは架空の対象を指示しているような表現についてとりあげつつも、それらも確かに、指示的なスキームで理解できるものだとしている。

一方で、画像についてはそうではない。

ここで、ロペスがウォルトピアと呼んだ思考実験が出てくる。

画像を指示的に使わない社会(ウォルトピア)の思考可能性があるんだから、画像表象にとって指示は本質じゃない、という。

バイソン画像を、実在のバイソンを指示するためには使わないし、そういう慣習が一切なくて、その社会に暮らしている人は、そのような使い方を意図したことがない、と。

言語のフィクションへの使用は、ノンフィクション的な使用に寄生的だけど、画像は違う、と言語と画像を区別している

架空の対象への指示の話をもう少ししてる。

可能的対象への指示として分析できないか、という話に反論している

どの可能世界のどの対象かどうやって選びだすのか問題とか

エッシャーの絵はそもそも不可能存在なのでは、とか

虚構世界を仮定するという方法

虚構的対象への指示はマッチングによって行われていて、誤表象は不可能になるのでは、という指摘が面白かった

あとの方見ていくと、フィクションというのは、誤表象も正しい表象もなくて、対象を作るのだ、みたいなことも言ってる


述語と比較

そのうえで、表象は命題を表現するためのものではなく、メイクビリーブの小道具だ、という話が出てくる

プレイヤーが輪にボールを入れるという行為は、彼がゴールした、ということを真にする、が、行為は述語ではない、というアナロジー

まとめ

*1:qは下付き文字

*2:qは下付き文字

2018-06-11

[]【告知】投稿した『PRANK! Vol.6 特集:日本アニメの新世紀』が夏コミ

5月のコミティア・文フリで発行された『PRANK! Vol.6 特集:日本アニメの新世紀』が、夏コミでも発行されるとのことです。

自分は、こちらで、「渦巻きの上を走る――オープニング・エンディングに見る非物語的映像表現」というタイトルで、主に『少女終末旅行』のOP映像を例に取り上げながら、テレビアニメのOP・ED映像について論じています。

詳しくは【告知】『PRANK! Vol.6 特集:日本アニメの新世紀』に寄稿しました! - logical cypher scape

【同人誌】「【試し読み】PRANK! Vol.6 特集:日本アニメの新世紀」イラスト/LandScape Plus [pixiv]

C94 日曜日 

東地区“ナ”ブロック−34b

サークル名「LandScape plus」

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