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2020-01-01

2018-06-19

[]科学基礎論学会シンポジウム「宇宙科学の哲学の可能性――宇宙探査の意義と課題を中心に」

6/16・17に千葉大で行われた科学基礎論学会のうち、16日のシンポジウムに参加してきた。

近年、宇宙科学・探査についての人文社会科学的アプローチが増えてきている。

全然フォローしきれているわけではないが、これまでこのブログで扱ったものとしては、以下がある。

「宇宙倫理学研究会: 宇宙倫理学の現状と展望」 - logical cypher scape

稲葉振一郎『宇宙倫理学入門』 - logical cypher scape

『現代思想2017年7月号 特集=宇宙のフロンティア』 - logical cypher scape

宇宙倫理学に先行して、宇宙人類学関係の著作が出ているのだが、そちらは読めてない。

また、このブログでは取り上げていないが、昨年12月に、「将来の宇宙探査・開発・利用がもつ倫理的・法的・社会的含意に関する研究調査報告書」が発行されている。


呉羽真「宇宙探査と科学の価値」

本シンポのオーガナイザーで、上述の報告書の代表者である呉羽さんから、本シンポジウムの背景などについて。

なお、呉羽さんは、昨年度まで、京大の宇宙総合学研究ユニット特定研究員であったが、任期切れで、今年度からは阪大に所属しており、こっちではロボットAI関係のことをやっているらしい……

まあ、色々な話をしていたのだが

宇宙探査・宇宙開発事業というのはとかく金がかかるわけで、社会のリソースを割くだけの価値・意義があるのか、という話はよくある。

フィリップ・キッチャーという人が、科学的なアジェンダ設定の問題を論じていて、有意義性(いわゆる「役に立つ」だけでなく、人類の知識を向上させるという点も含めた上での有意義性)というものをあげている。

で、呉羽さんとしては、しかし、宇宙科学というのは、キッチャーのいう「有意義性」だけでなく「文化的価値」もあるのではないか、と。

簡単に言うと、宇宙の話はよく「夢」という言葉とともに語られやすい(法律の中にまで「夢」という言葉が使われている!)けど、この「夢」とか「ロマン」とか「運命」とか漠然と言われているものを、もう少し細かく内実のあるものとして論じていくことはできないのか、とか。

その一つの端緒として、示唆的なものとして、地球観の変化みたいなものがあるのではないか、という話をしていて、地球がかつて「ゆりかご」としていつか出ていくものとして語られていたのが、近年は「家」というイメージになっているのでは(近年の宇宙SFや、「宇宙船地球号」という言葉がすたれ「ホームプラネット」という言葉が使われるようになってきている傾向など)という話をしていた


  • そのほか

The Global Exploration Roadmap January 2018.pdf

今後の宇宙探査のロードマップ


宇宙科学の哲学の関連として、アストロバイオロジー哲学とかSETI哲学とかいった分野もできているみたい。

気になる!


寺薗淳也「惑星探査の過去・現在・未来」

探査機から得られる情報を分析するシステムの研究を行っている寺薗さん

JAXAで広報されていたことがあるとのことで、話がとても聞きやすかった。

内容としては、タイトルにあるとおり、惑星探査の歴史、というようなもの

ツィオルコフスキー「運命」論に触れて、その内実はもっと深掘りされるべきだろう、と。例えば、今後民営化が進むのは不可避だけれど、一部の宇宙へ行きたい人の「運命」を人類全体に敷衍してもよいものか、とかいったことを、ちらっと提起していた。


伊藤邦武「宇宙における野生の思考」

宇宙科学や宇宙探査にかかわる哲学について直接何か関わっていたわけではないけれど、京大時代に話を聞いたり、JAXAの「宇宙の人間学」研究会から出版された本を読んだりしたときに、気になった点について

まず、宇宙探査によって、心理学社会学、芸術学などの人文社会科学分野においても意義にある知見が出てきているのは、確かなことだろう、と。

ところで、この「宇宙の人間学」研究会というのは「人間学」という言葉をカントからとっていて、また、カントコスモポリタニズムを宇宙へと広げていこうというような考えが前提とされている。

で、それがちょっと気にかかるなあ、という話で、カントじゃなくてルソーの考えを紹介している。講演タイトルにある「野生の思考」はルソーから。

カント的に考えると、確かに、カントは実践理性とかの普遍性を述べているので、宇宙の話に使えそう。

だけど、例えばルソーは、自然状態、市民社会、都市を非連続的に捉えている。つまり、宇宙に近代や民主主義理念を拡大するといったって、別様から考えることも可能なのでは、という指摘。

宇宙における「自然状態」が一体どういうものか、いまだ分からないのだから、と。


(今回のシンポジウムを通して、特に言及はなかったが)稲葉『宇宙倫理学入門』をちょっと思い出したりしていた。

つまり、宇宙における「自然状態」ということについて、今いる地球人とは全然違う人々が全然違う共同体を作っていく可能性はあるなあ、と。


面白かったのは、カントから宇宙を考えるというのも一理あって、実はカントは、比較惑星論みたいなことを書いている、という話。もちろん、当時の知識が前提なので、今から見たら変なことを言っているのだけど、面白い。

暑いところの方が知性が低い、というまあちょっとアレな前提があって、そこから水星人は知性が低く、土星人は知性が高く、地球人はその中間くらいということをカントは書いているらしい。


そもそも、他の惑星に人がいるという発想はどこからと思って、家に帰ってからちょっとググったのだが、17世紀フォントネルの『世界の複数性についての対話』という著作があって、この中で、月や他の惑星にも人がいるという話がされているみたい。

世界の複数性についての対話 - Wikipedia




立花幸司「宇宙科学の哲学の可能性」

とても面白い発表だけれど、一方で、会場から一番質問が集中していたよう気がする

倫理学と宇宙医学・宇宙行動科学について

立花さんの、元々の専門はアリストテレス倫理学

アリストテレスの徳倫理学についての特徴を3つ挙げている

(1)経験的な知見との整合性を重視する

(2)徳の定義よりも、徳の発達・獲得・教育を重視する

(3)理論は人をよくするためにある

こうしたことから、現代の心理学的な知見との整合性があり、また社会実装への応用ができる徳倫理学の可能性を、立花さんは模索しており、その際に出会ったのが、宇宙行動科学だった、と。

宇宙行動科学というのは、宇宙医学から派生してきた分野で、宇宙飛行士の健康、特に心理的・行動面での健康を扱う。

ISSでの活動も長期的になっており、mental healthならぬbehavior health/performance

というものも重視されるようになっている、と。

で、これって「徳」というものを考える上で、重要な経験科学的な知見になるんじゃね、と。

ISSのような閉鎖環境下では、パフォーマンスが発揮できるかどうか、というのも普通の環境とは変わってくる。

こうした宇宙行動科学の知見というのは、その応用として、例えばチリ鉱山の事故の際に使われているらしい。あの事件の時、NASAの担当者が招聘されて、閉鎖環境での生活を余儀なくされている人たちに対して、どのような情報をどのようなタイミングで与えるのかプレッシャーを軽減させるのか、といったアドバイスが求められたりしていたらしい。


話としては面白いけど、それ本当に徳倫理学の話になるのだろうか、とか

宇宙環境が人間の活動にとって過酷な場所だとすると、そういった場所での活動を倫理学が利用するのは問題ないのか、とか

そういった質問が会場からは飛んでいた


感想

かなり色々な論点があって面白そうだな、と思った。

さて、呉羽さんの発表でも少しあったし、なんとなく議論の背景として共有されていたけど、あまりはっきりとも言及されたなかったような気がする話として、そもそも何故近年、宇宙科学・宇宙探査についての人文社会科学的アプローチが増えているか、という点があるかと思う。

つまり、宇宙開発当局からの要請、という側面が結構あるということ。

宇宙開発は巨額の予算が必要になる一方、一般の人たちにとってはメリットがわりとふわっとした分野であり、予算獲得という面では色々と厳しい点もある。

宇宙開発には意義がある、という主張を、哲学とか人文社会科学を使って、よりサポートすることはできないだろうか、という思惑があるということである。

とはいえ、リソースには限りがあるという前提のもと、宇宙探査はした方がいいのか、しない方がいいのか、という議論は結局のところ、かなり政治的な話であって、哲学という学問が何か言えることってそんなにあるのかな、というのは謎

(つまり、哲学を使っても「宇宙探査はやるべき」とも「やらないべき」とも特に言えないのではないか、と)

その一方で、確かに科学的探求が持っている価値とは一体何なのか、特に、宇宙科学などでよく言われるような価値(文化的価値)とは一体どのようなものであるのか、についての分析は、哲学として取り組んでみても面白い問題かもしれない。

また、哲学の自然化が進む中で、立花発表のように、宇宙科学からの知見を哲学に持ってくるというのも、面白いところだと思う。

[]冲方丁『マルドゥック・アノニマス3』

冲方丁『マルドゥック・アノニマス1』 - logical cypher scape

冲方丁『マルドゥック・アノニマス2』 - logical cypher scape

シリーズ第3巻

スクランブルとヴェロシティは全3巻だったけど、アノニマスはまだ続くー


スクランブルの登場人物とか出てきてるんだけど、スクランブルとかもうだいぶ忘れてしまってるー。アノニマス2巻ですらちょくちょく忘れているという鳥頭なんであれなんですが。


ハンターは《評議会(カウンシル)》を招集し、「天国への階段(マルドゥック)」をのぼり《円卓》へ迫るための、「勢力」作りを着々と進行させていた。

ウフコックによる「善なる勢力」構想が、イースターによって承認され、ハンターとクインテットに対抗すべく、有力なメンバーが招集される。議員、警察、検察ポルノ業界のビジネスマンカジノ協会、裏世界のキーマン

ウフコックの働きは、秘められたままではあるが、報われることになるはずだった。


ルーン・バロットは、ハイスクールの卒業を間近に控え、大学への推薦入学を決める。潜入の仕事を続け精神をすり減らすウフコックにとって、彼女の卒業と進学を祝うことは貴重な慰めとなっていた。


深い絶望と後悔、誘惑への抵抗の中、一筋の希望として、再びネズミと少女がタッグをくむところで3巻は終わり、4巻へと続く。

[]『ゲームSF傑作選 スタートボタンを押してください』

D.H.ウィルソン&J.J.アダムズ編 中原尚哉古沢嘉通

タイトル通り、ゲームをテーマにした作品を扱った短編集で、意外と(?)ビターな後味の作品が多かったような印象


「1アップ」「キャラクター選択」がわりと好き

「救助よろ」「猫の王権」「リコイル!」「ツウォリア」「アンダーのゲーム」「時計仕掛けの兵隊」あたりも面白い


アーネスト・クライン 序文

『ゲームウォーズ』(『レディプレイヤーワン』の原作)の著者による序文がついているのだが、読んだときは、誰なのか知らなかったので、「編者でもないしこの人は一体誰なんだろう」と思いながら序文を読んでいたら、最後に「(それぞれの作者がどのような作品を書いたのか早く知りたいという旨の文のあとに)〆切に間に合わなかったのが私だけなのかも早く知りたい」と書いてあって、「原稿落としたから序文だけ書いてんのかよww」となってしまった。どこまでマジでどこから冗談なのかよくわからんけど。

桜坂 洋「リスポーン」

リスポーンとは、ゲーム中で死んだ後に、真だ場所から離れたステージで復活すること

直接的にゲームについては書かれていないが、ゲーム的な繰り返しの生が描かれる、桜坂っぽい。

牛丼屋でワンオペバイトしている主人公の「おれ」が、強盗に刺殺される。と、「おれ」の意識がその強盗へと移り変わる。殺された本人なのだと主張するが相手にされず、刑務所へ。ところが、今度は刑務所内で殺されてしまい、殺したヤクザに意識が移り変わる。


デヴィッド・バー・カートリー「救助よろ」

MMORPGにハマって引きこもりになってしまった元カレをゲームから引っ張り出すために、別れるきっかけとなったゲームにログインする主人公

冒頭から、現実世界(現代ないし近未来の普通の大学やその寮が出てくる)のはずなのに、主人公が剣を装備している、というちょっとしたズレが描かれているのだが、実は、現実の方が改変されていっているという話

退屈でパッとしない現実世界と自分が主人公たりえるゲーム世界とどちらがいいか、というよくあるテーマだが、この作品の場合、登場人物たちは、現実世界に回帰するのではなく、現実世界を記憶ごとゲーム世界へと改変してしまう。ほんの少しだけ残った、かつての現実世界の残滓に思いを寄せてしまう結末が、独特の味わいを持たせている。


ホリー・ブラック「1アップ」

ネトゲで知り合った4人のティーンエイジャーのうち、1人が病気で亡くなってしまう。彼の葬儀で初めてオフで顔を合わせた3人は、彼の部屋のPCに、奇妙なテキストアドベンチャーゲームが遺されているのを発見する。

そのゲームをプレイすることで、彼の死の真相へと迫っていくことになる。


チャールズ・ユウ「NPC

タイトル通り、ゲームのNPCを主人公にした一作。

何らかのバグが生じて、NPCがPCへと変容を遂げる。これまで、宇宙基地の一労働者で名前もなかったのが、様々なミッションをこなすようになるのだが、一方で、自由を失った感覚を感じるようになっていく

チャーリー・ジェーン・アンダース「猫の王権

とある脳神経疾患(この作品内の架空の病気)への治療としても用いられるVRゲーム「猫の王権

障害により、かつての性格が失われ社会生活を送れなくなったパートナーが、VRゲーム内の猫の王国では有能な王の補佐官となっている。

そして実はそのゲームはただのゲームではなく、現実にある経済学などの問題の解決にも寄与しているのだという


ダニエル・H・ウィルソン「神モード」

世界が少しずつ崩壊していく話


ミッキー・ニールソン「リコイル! 」

ゲーム開発会社に見習い的に入り込んでる主人公が、深夜に、会社に忍び込んできた強盗に遭遇してしまう


ショーナン・マグワイアサバイバルホラー

他の長編シリーズのスピンオフらしい


ヒュー・ハウイー「キャラクター選択

育休中に、ゲーマーの夫に隠れてゲームをしていた妻

FPSで敵を倒すのではなく、戦闘が起こっている場所から離れることで、隠れ面みたいなものを見つける話

今までゲームをしていなかった妻がゲームをしているのを見つけたゲーマー夫は、喜ぶのだけど、全然戦わないので「え、何そのプレイ」みたいになる。妻は、FPSで見つけた秘密の庭で庭園を作っている(普通にプレイしていると戦火に巻き込まれて廃墟と化してしまう商店の地下にある)。


アンディ・ウィアー「ツウォリア」

火星の人』のアンディ・ウィアー

交通違反罰金を支払おうとしたら、そもそもそんな違反は記録されていないと返されてしまう主人公

彼のもとに、ツォリアと名乗る者から連絡がくる。それは、彼が学生時代に書いていたプログラムだった。途中で停止してしまわないように、何万時間だか処理を続けろ、と書いていて、本当にその何万時間の処理を実行した結果、全人類の端末にハッキングしかけられる高度AIになってしまった、という

で、このツォリアなのだが、口調が完全に一昔前の2ちゃん語で、プログラミングされた当時のネットスラングを使っている、ということなのだろうが、その会話のおかしみがウィアーっぽいし、それを2ちゃん語に訳してる翻訳もGJ

中原訳

コリイ・ドクトロウ「アンダのゲーム」

タイトルは「エンダーのゲーム」からとられている

ネトゲで、自分が女の子であることを隠してゲームをやらなければならない(小学生までは親から変質者対策としてアバターを女性にするのを止められていた。ティーンエイジャーになると、女がゲームやってんのかよ的な偏見もある)ことに違和感を覚えていた主人公

(ところで、女性アバターの話だと「救助よろ」でも、元カレの好きなキャラクターの胸が無駄に大きい云々という記述がある)

学校に、とある有名女性ゲームプレイヤーがやってきて講演する。彼女は、少女たちのクランを作っていて、メンバー募集をしていた。

そのクランに参加してしばらく、ゲーム内通貨のゴールドではなく、現実世界のマネーを稼ぐ方法があると誘われる。

それは、強力な護衛に守られた施設の中で、Tシャツを作る労働者たちを殺害すること

しかし、彼女が殺しているのは、貧困国の少女たちがわずかな賃労働をするために使っているPCなのだった


ケン・リュウ「時計仕掛けの兵隊」

バウンティ・ハンターのアレックスは、とある政治家の依頼で、その政治家の息子を捕まえる。

父親のもとへと連れ帰る途中の宇宙船内で、その息子が作ったテキストアドベンチャーゲームをプレイする

それは、とある王女が、自分の召使である自動人形とともに、王宮に隠された、自動人形に心を与えるアイテムを探すゲームだった。

一方、ライダーとその父親が、アンドロイドの意識と権利をめぐって、考え方が対立していたことが分かってくる。

このゲームの内容と、ライダー自身の境遇がやんわりと重なっていて、実は、というのが明かされる。

「いかにもこの著者らしい余韻を残す一編」という解説コメントがつけられているが、まさにそんな感じ

2018-06-13

[][][]『新潮2018年7月号』

新潮 2018年 07 月号

新潮 2018年 07 月号

佐々木敦の「これは小説ではない」において、キャロル『批評について』が言及されていると聞いたので、読んでみた。

『批評について』未読だけど……。

今月掲載文の半分くらいが『批評について』への言及にあてられている。

キャロルの批評観に同意する部分もあるが、そうでない部分もある、と。

同意できない部分としてあげられているのは以下の3つだろうか。

同意できない、というか、佐々木自身が批評として書いてきた作業と、一致しない箇所といってもよいかもしれない。

(1)評価

(2)意図主義

(3)分類


(1)評価

キャロルは批評のコアを「評価」だというわけだけど、佐々木自身は、自分のやっていることは「それが何をしているか」を調べることだとしている。

「それが何をしているか」というのは、「作品がどのように動作しているのか」とも言い換えられる。

作品の働き、仕組みを記述したいし、そういうことをしてきた、というようなことを書いている。

ところで、この点について、キャロル的な観点から考えると、そのような作品の仕組みの解明や記述という作業は(例えば)「研究」と呼べばいいのでは? となる気がする。

「研究」と「批評」が別ものだとして、それを分ける基準は評価をしているか否かというところにあるのではないか、ということなのではないかと思う。

キャロルの主張は、事実として何が批評と呼ばれているか、ではなくて、規範として何が批評と呼ばれるべきか、なので

事実として、佐々木敦の文章は批評と呼ばれてはいるけれど、評価を含まずに作品を論じている文章については、別の呼び方をしてもいいのではないか、と。

実際、評価を含んだ文章も書いているわけで、その2つは区別して、片方を批評、もう片方を批評以外の名前(「研究」とか)で呼んだ方がいいのではないか、と。

まあ、キャロルの主張が本当にただの名付けの問題なのかどうかよく分からないが。

仮に名付けの問題だったとしても、評価の有無で文章の種類(名付け)を分ける意味はないという反論もありうる。


(2)意図主義

佐々木は、作品の働き・仕組みに注目しているので、キャロルがいうような意図主義には同意できないとしている。

作品は、作者の意図に反した誤作動を起こすこともあるが、それは必ずしも失敗とはいえないからだ、と。

キャロルの意図主義がどのレベルの意図主義なのかまだちょっとよく分かってないのでなんとも言えないけれど、実際的意図主義だとすると(おそらくそうんだろうけど)、まあ確かに意図しない動作が作品にとって失敗とは言い切れないなあ、とは思うんだけど

仮説的意図主義くらいだとすると、佐々木の考えと両立しそうな気もしないでもない。

作品というのは人工物であって、人工物には目的があってそのためにデザインされている。そのデザインがどう働くか、というのは、やはり目的に照らして理解されるものなのではないか、と。で、人工物の目的は、作者の意図(仮説的なものでよい)によって同定されるだろう。

例えば、作者はネコの絵のつもりで描いたけど、イヌの絵になってしまっているケースがあったとして、その作品が何をしているかというと、作者の意図に反してイヌを表象していると思うけど、その絵の目的に照らしていうと、目的通りの動作(イヌを表象する)を行っていると思う。


(3)分類

キャロルは、批評における評価の客観性は、作品をどのジャンルに分類するかという客観性に依存しているというようなことを言っている。

ところで佐々木は、ジャンル横断的に批評を行っており、この点にも不一致があるようである。


後半は、ドゥルーズの話をしていた。

で、次回は、視覚的なものや「描写」について扱うと予告されていた。

最近、「描写」について関心があるので、気になる。まあ、分析美学的な描写論の話するわけではないと思うけれど。

[]ケンダル・ウォルトン表象は記号か」

Kendall L.Walton Are Representations Symbols?

美学論文アンソロラマルク+オルセン編『美学と芸術の哲学:分析的伝統:アンソロジー』 - logical cypher scape)から


1974年に書かれた論文

表象のコアは指示ではない、ということを主張している。

なお、「表象のコアは指示である」はグッドマンが『芸術の言語』で主張している。

この論文の解説は以下の記事も参照

ウォルトンとグッドマン - Kendall Walton, 表象は記号か - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ


表象は指示的な記号のフレームワークで説明されることが多い(というかグッドマン)が、そうじゃない表象もある、という話

特に、言語と画像を対比させている。

画像は全てフィクションである、というMimesis as Make-Believeでも展開されている主張がなされている。

イントロダクション

実在物を描写しているとか表象しているとかを、ウォルトンはこの論文で「描写qしているdepict_q*1」、「表象qしているrepresent_q*2」と表記する

そのうえで、それはマッチングによって行われているのではない、と論じている

マッチングとは、表象の内容と対象の性質などが一致していること

例えば、モーツァルトの絵は、髪がくるくるしていて赤い服を着た男性の絵であり、モーツァルト表象qしている。で、実際に、あの絵の通りに、髪がくるくるしていて赤い服を着た男性がいたとすると、その男性とこの絵はマッチングしていることになる。でも、そのことはその絵がモーツァルト表象していることにとって必要でも十分でもない。

何を表象しているかは、作者の意図、因果関係、タイトルや慣習的なしるし、内容などによって決まる

実在している何かについての表象は、それを指示している、というグッドマンの主張に対しての反論

ただ、言語と画像についてウォルトンは扱いが異なる

言語については、何も指示していない、あるいは架空の対象を指示しているような表現についてとりあげつつも、それらも確かに、指示的なスキームで理解できるものだとしている。

一方で、画像についてはそうではない。

ここで、ロペスがウォルトピアと呼んだ思考実験が出てくる。

画像を指示的に使わない社会(ウォルトピア)の思考可能性があるんだから、画像表象にとって指示は本質じゃない、という。

バイソン画像を、実在のバイソンを指示するためには使わないし、そういう慣習が一切なくて、その社会に暮らしている人は、そのような使い方を意図したことがない、と。

言語のフィクションへの使用は、ノンフィクション的な使用に寄生的だけど、画像は違う、と言語と画像を区別している

架空の対象への指示の話をもう少ししてる。

可能的対象への指示として分析できないか、という話に反論している

どの可能世界のどの対象かどうやって選びだすのか問題とか

エッシャーの絵はそもそも不可能存在なのでは、とか

虚構世界を仮定するという方法

虚構的対象への指示はマッチングによって行われていて、誤表象は不可能になるのでは、という指摘が面白かった

あとの方見ていくと、フィクションというのは、誤表象も正しい表象もなくて、対象を作るのだ、みたいなことも言ってる


述語と比較

そのうえで、表象は命題を表現するためのものではなく、メイクビリーブの小道具だ、という話が出てくる

プレイヤーが輪にボールを入れるという行為は、彼がゴールした、ということを真にする、が、行為は述語ではない、というアナロジー

まとめ

*1:qは下付き文字

*2:qは下付き文字

2018-06-11

[]【告知】投稿した『PRANK! Vol.6 特集:日本アニメの新世紀』が夏コミ

5月のコミティア・文フリで発行された『PRANK! Vol.6 特集:日本アニメの新世紀』が、夏コミでも発行されるとのことです。

自分は、こちらで、「渦巻きの上を走る――オープニング・エンディングに見る非物語的映像表現」というタイトルで、主に『少女終末旅行』のOP映像を例に取り上げながら、テレビアニメのOP・ED映像について論じています。

詳しくは【告知】『PRANK! Vol.6 特集:日本アニメの新世紀』に寄稿しました! - logical cypher scape

【同人誌】「【試し読み】PRANK! Vol.6 特集:日本アニメの新世紀」イラスト/LandScape Plus [pixiv]

C94 日曜日 

東地区“ナ”ブロック−34b

サークル名「LandScape plus」

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2018-06-10

[]ベンス・ナナイ「画像知覚と二つの視覚サブシステム」

Bence Nanay “Picture Perception and the Two Visual Subsystems”

https://www.semanticscholar.org/paper/Picture-Perception-and-the-Two-Visual-Subsystems-Nanay/ddfd7a7276afa17a0e8b486659ac137392c21ecc?tab=abstract


描写の理論に関する論文

二面性の経験を神経心理学的にフォローする議論

ナナイは、ウォルハイムの弟子らしく*1、二面性によって画像を説明する立場にたっている。

二面性によって画像を説明するというと経験説だが、経験説に対しては、画像経験に「二面性を同時に経験する」ことが必ず伴っているとは限らない、という批判がある(ロペスによる強い二面性と弱い二面性の区別)が、ナナイは、注意と知覚とを区別することでこれに応答している(Bence Nanay ”Inflected and Uninflected Experience of Pictures” - logical cypher scapeBence Nanay ”Threefoldness" - logical cypher scapeでも述べられている)。


二面性とは、画像の経験は、描写されている対象についての経験と画像の表面についての経験とがある、というものだが、

Nanayは、描写されている対象については腹側皮質視覚路において、画像の表面については背側皮質視覚路において、表象されている、という仮説を立てている。


ところで、一般的には、視覚の意識経験は腹側で処理された情報が関わっていて、背側はあまり関わってないと考えられている(意識との関連性と腹側・背側がきっちり分けられるのかどうかというのは議論があるっぽいんだけど、意識の本とかたいてい腹側の話をしている)。

そうだとすると、背側の方で表象されたからといって、意識にのぼるとは限らないということになる。

Nanay的には、二面性は知覚されていればよくて、意識されている必要はないい

意識されないんじゃあ、経験とは呼べないのではないかという気もしてくるが、この論文の中で「経験説」という言葉は使われていなくて、Nanayは自分の立場を二面性についての「知覚説」と呼んでいる。

ウォルハイムの説を改訂した立場だとも述べている。

いずれにせよ、画像ないし描写であるためには二面性が基礎的だと考えているっぽいので、Nanay説をウォルハイム説と同じグループに分類しても構わないだろうとは思う。

ロペスの認知説は、二面性は基礎的じゃなくて、認知能力が基礎的で二面性は派生的なことだとしている点が違う。


Introduction

Picture perception and the two visual subsystems

腹側皮質視覚経路と背側皮質視覚経路についての簡単な説明

腹側は、ものの形とかを知覚する。

背側は、動きとか距離とかを知覚する。

どちらの経路か失調するかによって症状が変わるので、それで機能が調べられたりしている

例えば、背側経路が損傷していると、optic ataxia→ものを認識することはできるが、操作したり自己中心的な位置に位置づけられない

腹側経路が損傷していると、visual agnosia→対象に働きかけられるがそれがなにであるかがわからない

腹側経路と背側経路が、対象に対して異なる性質を帰属させているのは、健康な人でも起きている→三次元エビングハウス錯視ミュラーリヤー錯視などほかの錯視でも同様のことが起きる)では、同じ大きさのチップが、違う大きさに見えるが、そのチップを掴ませるとちゃんとつかむことができる(手は正しい大きさをちゃんと把握できている)


The argument

ナナイの主張は、以下の4つの命題から構成される。

(a)The depicted object represented by ventral perception

(a)描かれた対象は腹側知覚によって表象されている

(b)The depicted object is not represented by dorsal perception

(b)描かれた対象は背側知覚によって表象されていない

(c)The surface of the picture is represented by dorsal perception

(c)画像の表面は背側知覚によって表象されている

(d)The surface of the picture is not represented by ventral perception

(d)画像の表面は腹側知覚によって表象されていない

以下、それぞれの命題について解説している。


  • (a)The depicted object represented by ventral perception

これは特に議論の分かれるところではない

Visual agnosiaの患者に線を書き写させるとできるのだが、その線が不可能物体を描いているかどうか尋ねても答えられない

(つまり、腹側経路が損傷していると、描かれている対象を表象できていない)


  • (b)The depicted object is not represented by dorsal perception

背側知覚というのは、対象を自己中心的egocentricな空間に位置づけるという知覚。

自分に対して、どれくらいの距離や角度にその対象があるのか、という知覚で、これによって手を伸ばして掴むとかができる。

自己中心的な空間に位置づけるとはどういうことか→対象に対してインタラクトすること、エヴァンズは、自己中心的な空間のことをアクション空間として理解している

絵の中に描かれたものについて触ったり掴んだり匂いを嗅いだりすることができない

絵の表面は触ったり掴んだり匂いを嗅いだりすることができる

ところで、この理解だと、絵に描かれたものは、遠いものと同じようなものだということになってしまう

操作することができるかどうかは必要ではない

自分が動いたら、距離が近くなるという期待することが必要


  • (c)The surface of the picture is represented by dorsal perception

Matthenは、「表面は、背側知覚によって表象されうる(can be represented)」と主張した

対して、ナナイは、「表面は、背側知覚によって表象されなければならない」という、より強い主張を主張する

絵を斜めの向きから見ても絵の中の対象は歪んで見えない現象

→Pirenneが、表面の向きについての知覚が補正していると説明した

→その後、これに対する疑問が挙げられるようになった

→腹側経路と背側経路の知覚の区別を導入することで、補正説がすくいあげられる

→Prenneやそれに対する疑問において言われていた「表面の向きについての知覚」は腹側経路によるもの。背側経路によって、表面が知覚されていると考えればよい


  • (d)The surface of the picture is not represented by ventral perception

(a)〜(c)の主張は、表象しなければならない、あるいは表象していてはならない、という主張だけど、こっちは、表象していなくてよい、という主張になる。

表面の特徴を認知する必要はない。

普通は、画像の表面を腹側で知覚していることはないのだけど、腹側で知覚したからといって、画像経験でなくなるというわけではない、と。

ナナイは、seeing-inと美的鑑賞とを区別(ウォルハイムの二面性の説明は、この二つを区別していないので曖昧になっているというのが、ナナイの主張)

(1)絵の表面へ腹側的な注意を向けることは、美的鑑賞にとって必要

(2)美的鑑賞は、seeing-inにとって必要ではない

ゆえに

表面への腹側的な注意はseeing-inにとって必要ではない

→(d)

Two objections

考えられるうる2つの反論

  • (1)絵の中の絵はどうなる?

Aという絵の中にBという絵が描かれていて、Bという絵の中にCが描かれているとする。

Bは、描かれた対象なので、腹側で知覚されているけれど背側では知覚されていない。

ところで、CをBの中に見る(seein-in)ためには、Bは背側で知覚されていなければならないはず。

しかし、Bは背側で知覚されていないので、CをBの中に見るという経験が生じないことになる。

となると、Cを描いたBという絵がAという絵の中に描かれているということが説明できなくなってしまうのではないか、と。

これに対してナナイは、CはBの中に見えない、CはAの中に見えているのだと主張する方向へと進む。


  • (2)背側が失調してる人にとって画像経験はない?

画像経験であるためには、画像の表面が背側で知覚される必要があるが、背側経路が失調している人は、画像的な経験ができないということになるのか?

実験でこれを確かめた例は存在していないが、ナナイが、背側経路が失調している患者とともに研究している研究者に話を聞いたところ、患者に画像が見えないということはないと思う、と言われたらしい(private communication)。

これってナナイ説に対する反例ではないのか、と。

ナナイは、しかし、これは問題ないという。

そもそもこうした患者にとって、普通の生活においてもあまり支障はなくて、中心窩の視覚なんかは腹側で補ってしまっているのだ、と。画像経験も、腹側で補っている可能性がある、と。


Conclusions: Twofoldness revisited

ウォルハイムの二面性概念にあった曖昧さを、明確にした上で、経験的にテスト可能な形に、改訂したのが、自分の知覚説だよ、という結論。

[]ベンス・ナナイ「トロンプ・ルイユと画像知覚の腹側/背側説明」

Bence Nanay ”Trompe l’oeil and the Dorsal/Ventral Account of Picture Perception”

https://philpapers.org/rec/NANTLA-2


2008年の論文であるベンス・ナナイ「画像知覚と二つの視覚サブシステム」 - logical cypher scape]の内容をもとに膨らませて書いているような感じ

こちらは、2014年論文


画像の知覚については、心理学哲学の両方で議論されているけれども、とても異なったものとなっている。その違いを埋めるのがこの論文の目的だとされている。

トロンプルイユは、哲学では他の画像とは異なるケースだとされているけれど、心理学では画像知覚を説明するための重要なケースだと考えられている。

ナナイは、自身の、腹側経路と背側経路によって画像知覚を説明する説は、心理学的な説明でもあり哲学的な説明にもなっており、この両者をつなぐものになると論じている。


  • 1 Trompe l’oeil

トロンプルイユが、哲学的描写議論心理学的な描写議論では扱いが違うという話

哲学心理学の違いは、関心の違いかもしれない(哲学は、画像の経験に、心理学は、知覚のメカニズムに)

  • 2 The Dorsal/Ventral Account of Picture Perception

腹側経路と背側経路の違いについて、エビングハウス錯視で説明


  • 3 The Dorsal/Ventral Account of Picture Perception as a Psychological Theory

Optic ataraxiaの患者が、絵の線の長さなどをうまく評価できないという話とか

補正説の話とか

いくつか心理学研究から、この背側経路と腹側経路による説明が心理学的な理論となっていることを説明


  • 4 The Dorsal/Ventral Account of Picture Perception as a Philosophical Theory

ウォルハイムの、二面性の説明の中にある曖昧さを指摘

以下の二つの使い方が混ざっている、と

(1)美的価値に関係なく、二面性は画像の必要条件である

(2)二面性は、名作の美的鑑賞における重要な要素である

ナナイは、(1)を画像的二面性、(2)を鑑賞的二面性として区別する

そして、現代の議論では、後者の鑑賞的二面性は、Inflectionとして議論されている、と

ホプキンスは、ウォルハイムの二面性の説明が正しければ、画像経験はdisjointなものか矛盾したものになってしまう、と批判する

ナナイは、画像的二面性は、無意識的なものだから、ホプキンスの批判はあたらないとする


  • 5 Back to Trompe l’oeil

トロンプルイユにおいて、実は、描かれた対象は、腹側でも背側でも表象されている

トロンプルイユでも、表面は背側で表象されていて、腹側では表象されていない

トロンプルイユは、描かれた対象は腹側、表面は背側、という点で、心理学でいわれているように普通の画像経験と同じ

一方で、描かれた対象が背側でも表象されているという点では、哲学で指摘されているように、普通の画像経験とは異なる。