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2017-04-29

[]ジョン・ヴァーリィ『ブルー・シャンペン』

ヴァーリィはジョン・ヴァーリィ『汝、コンピュータの夢(〈八世界〉全短編1)』 - logical cypher scapeジョン・ヴァーリィ『さようなら、ロビンソン・クルーソー(〈八世界〉全短編2) - logical cypher scapeジョン・ヴァーリィ『へびつかい座ホットライン』 - logical cypher scapeと八世界シリーズを読んできたので、それ以外も読もうかと

1986年(邦訳1994年)の短編集

ブルー・シャンペン (ハヤカワ文庫)

ブルー・シャンペン (ハヤカワ文庫)

プッシャー

公園で遊ぶ幼い少女に近づき、何度も練習してきた物語によって巧みに近づいていくイアン

すわ事案か、という感じで話は進むのだが、結局イアンはお話によって少女を(帰るのを忘れてしまうくらい)楽しませたあと、立ち去っていく。

実は、相対論的時間をこえる友人作り。


ブルー・シャンペン

バブル〉は、月軌道上に浮かぶ、無重力で球形になった巨大なプール

クーパーは、金メダルを取り逃した元水泳選手で、今は〈バブル〉で救助員をしている。

そこに、体験テープでスターとなったメガン・ギャロウェイと撮影チームが訪れる。

ギャロウェイは、過去に首の骨を折る大事故に遭い、後に「黄金のジプシー」と呼ばれることになる人工外骨格を装着している。が、その障害を機に、体験テープの女優となる。体験テープは、俳優の体験した感覚・感情などを記録して、視聴者もそれを追体験できるというもの。

クーパーは元々、水泳かセックスかという感じの男性で、今は、同僚のアンナ=ルイーゼをルームメイトとしている。アンナ=ルイーゼから、ギャロウェイとはそのような関係にならないほうがいいと忠告を受けるも、次第にギャロウェイへと惹かれていく。

クーパーは、結果的にギャロウェイから手痛い裏切りを受けることになるのだが、その裏切りの証拠が何よりもギャロウェイがクーパーを愛していた証拠ともなっている、という。

クーパーを主人公としているような話の構成になっているが、実際の物語の主眼はギャロウェイで、金メダルを取り損ねた挫折を抱えていたクーパーだが、ギャロウェイやアンナ=ルイーゼが抱えていたものの方がはるかに大きかった、というような話でもある。

未来を舞台にしているが、八世界シリーズほど身体改変技術などが発達しているわけではないので、ギャロウェイの「黄金のジプシー」というのも、この世界ではまだかなり異例の技術として描かれている

地球生まれと月生まれのあいだにある差別感情的なものも垣間見える


タンゴ・チャーリーとフォックストロットロミオ

分量的にも内容的にも、この短編集のメイン作品といってもいい作品。

「ブルー・シャンペン」の続編だが、「ブルー・シャンペン」では脇役だったアンナ=ルイーゼ・バッハが主人公となっている。

「ブルー・シャンペン」では〈バブル〉をやめ、警察学校へ入るため月へ戻ったアンナ=ルイーゼだが、本作では警官となっている。しかし、ある意味ではまじめすぎて、上官の機嫌取りなどができないために、万年見習生となってしまっている。

かつて、異常なほどの感染力と致死率をもつ謎の病原体が発生したために、誰も接近できないように自動迎撃システムを起動させたまま放置されたステーション「タンゴ・チャーリー」

ところが、不意なことがきっかけで、一人の少女と多くの犬がその中で生存していることが判明する。

アンナ=ルイーゼはこの件を担当することになる。

少女を救うべきか否か

ステーションでAIと犬たちと既に死んだ母親だけを話し相手とし、奔放な生活をしてきた少女は、言葉は通じるがなかなか話が通じない。

また、かつて起きた未知の病原体への恐怖の記憶はまだ根強く残ってもいた。

そして、アンナ=ルイーゼのもとには、特ダネを掴んだギャロウェイが姿を現す。アンナ=ルイーゼとギャロウェイは、上層部の意向に反して、少女を救い出すべく協力関係を築く。

タンゴ・チャーリー月面接近の際の攻撃シーンなど迫力ある描写や、アンナ=ルイーゼとギャロウェイが警察上層部を出し抜くアイデアを実行したり、なかなかサスペンスフルな展開で、次々とページが進んでいく。

無事少女を救い出すことはできるのだが……


選択の自由

こちらはジョン・ヴァーリィ『さようなら、ロビンソン・クルーソー(〈八世界〉全短編2) - logical cypher scapeにも掲載されていた作品

感想もほぼ同じなので省略


ブラックホールロリポップ

同じくジョン・ヴァーリィ『さようなら、ロビンソン・クルーソー(〈八世界〉全短編2) - logical cypher scapeにも掲載されていた作品

やはり、この話面白い

人語を話すブラックホールが実在したのか、ザンジアの妄想だったのか、それは誰にもわからない

ところで邦題は「ブラックホールロリポップ」だが原題はLollipop and the Tar Baby

ロリポップは、ザンジアが乗る救助艇にザンジアがこっそりつけた名前


PRESS ENTER■

テクノホラーといった感じの物語

収録作品の中で唯一、ほぼ現代の世界を舞台にした作品

一人暮らしをしているヴィクターの隣人クルージが、突然の死を遂げるところから始まる。

自殺のようだが遺書がない

クルージの部屋にはコンピュータが置かれており、スクリーンには「TO RUN PRESS ENTER■」の表示(ちなみに、この最後の■はカーソルのこと。この世界の舞台はおそらく80年代で主人公はコンピュータのことを全く知らないらしく、「これはカーソルというらしい」というようなことが書かれている)。エンターキーを押すと、遺書らしき文章を吐き出すプログラムが動き始める。

警察はほぼお手上げ状態になり、代わりに、アジア系の若い女性がクルージ宅を訪れて、残されたデータの解析を始める。

天才ハッカーであるクルージは何故死んだのか、というのが物語の大枠となるのだが、その枠にくるまれているのは、ヴィクターとリサの愛の物語となっているのが、やはりヴァーリィという感じである。

ヴィクターは、朝鮮戦争の帰還兵で、北朝鮮捕虜となって洗脳を受けていた。

50歳のヴィクターに対して、25歳のリタはヴェトナム系アメリカ人(中国人と日本人の血も入っている)で、難民としてのカンボジア生活を生き延び、今はハッカーとなっている。

お互い、過去に傷を抱えた者同士が愛し合うようになるが、この作品も非常に苦い結末を迎えることになる。

[]美女と野獣

とりあえず、見たよというメモ

エマ・ワトソンが魅力的だったわけだけど、大量の本を見たときのシーンが一番よかったな

2017-04-24

[]科学における美とは何か

といった大上段な問いに答える用意はないのだが、ロバート・P・クリース『世界でもっとも美しい10の科学実験』 - logical cypher scape『現代思想2017年3月臨時増刊号 総特集=知のトップランナー50人の美しいセオリー』 - logical cypher scapeとを連続して読んだので気にかかるところである。

科学哲学美学は、自分にとって興味のある二大分野なので、その2つが重なる問いという意味でも気になる。

というわけで、ちょっと考えてみようかと思ったのだけど、自分自身が科学に直接従事した経験がないために、個人的な体験として、科学に対して美しいと感じたことがない。そのため、考え始めるとっかかりがなかった。


人の行為としての科学

とりあえず、ロバート・P・クリース『世界でもっとも美しい10の科学実験』 - logical cypher scapeにおける、「第3章Interlude ニュートンベートーヴェン比較論」「第9章Interlude 科学の芸術性」あたりが考えやすい。

この本はそもそも、タイトルから分かるとおり、科学の中でも「実験」に焦点を当てている。科学における美しさというと「理論」が注目されがちであるが、「実験」にも美しさがあるということに改めて注意を向けている本だ。

その上で、科学者、特に実験家としての科学者芸術家に、実験を芸術作品に喩えて、科学と芸術を類比的に扱っているのが、先に挙げた2つのInterludeだと言える。

実験とは、何より特定の人間によって考案されるものであり、さらにそこには実験家のインスピレーションや技術が必要とされる。

ここで言われているのは、実験というと、理論を確かめるために、ある意味では機械的にないし理詰めで行われるものであり、芸術活動にあるようなひらめきや個人の才能とは無縁のものと思われがちなところ、そうではないのだという指摘だろう。

もちろん、そうした要素は芸術における必要条件でも十分条件でもないだろうから、科学(実験)=芸術ということではない。

ただ、これを読んで「そうか」と思ったのは、ここで「科学(実験)の美しさ」を論じられる際に対象とされている「科学(実験)」というのは、アート(技芸)としての人間の営みのことなのだな、ということだ。


科学の美しさという時、科学が対象としている自然現象の美しさという面ももちろん含まれているのだろうけど(ことに「理論」の美しさという際にその側面はより大きくなるように思えるが)、こと、実験の美しさといった際には、その実験を創り上げた行為の美しさなのかな、と思った。

先ほどの本では、美しい実験の特徴として、基礎的であること、効率的であること、決定的であることを挙げているが、少なくとも効率的であることと決定的であることは、対象となっている自然現象の側の性質ではなくて、人間の行為の側の性質だろう。


認知的価値と美的価値

「科学の美しさ」という言葉は、人によって何か違和感を覚えさせるものだろう。

実際、『現代思想2017年3月臨時増刊号 総特集=知のトップランナー50人の美しいセオリー』 - logical cypher scapeでは、そうした当惑を記したり、科学と美を切り離して考えようとしたりするものも見受けられる。

自分も当初は、この違和感を共有していたのだけれど、今では普通に認めてもいいのでは、という気になっている。

科学という行為に対する価値として、重要なものは「認知的価値」だろう。

様々な理論や実験、考察などの科学的行為があって、そうした個々の行為は、まずは、認知的価値によって評価されているはずだ。

つまり、より自然現象(なりなんなり対象となっているものごと)について知識を得られるかどうか、という評価だ。

しかし、同じ行為に対して、同時に「美的価値」による評価をすることに、何か問題があるようにも思えない。

つまり、「美しい」という形容は、メタファーなどではなく、文字通りのものなのではないだろうか、と思う。

実験を始めとする科学的営為が、芸術行為と同一視はされないとしても、広い意味でのアート(技芸)であるとするならば、それに対して美的評価を下すのは、むしろ当然のようにも思える。


無論、「科学は美しい」に対する違和感や当惑、異論が間違っているというわけではない。

「認知的価値」と「美的価値」とを混同するようであれば、おそらくそれは問題だろう。

ある行為に美的価値があるからといって、認知的価値があるとも限らない(=美しいからといって正しいとは限らない)し、その逆もそうだ(=正しいからといって美しいとは限らない)。

とりあえず、この2つの価値は独立しているのではないか、と当面は仮定しておくのが穏当なのではないかと思う。

もっとも、科学の美しさを論じる中には、そこに真と美の一致を見出そうという論もあるし、一致とまでは言わないまでも、美が発見の手法となるという主張も見られる。

だから、絶対に無関係だとも、とりあえず今のところは判断できない。

美の主観性

カントに従えば、美の特徴は、主観的であり、普遍妥当性をもち、無関心的であることである。

科学は美しいという時、美は主観的なものだが、科学は客観的なので、科学が美しいというのはおかしい、と言われることもある。

ただこれも、科学という行為を、認知的価値と美的価値という2つの側面から評価することが可能だと捉えるのであれば、そんなに可笑しいことではない。

つまり、科学を認知的価値という客観的な価値で評価することもできるが、一方で、美的価値という主観的な価値で評価することもできるだろう、という話で、普通は前者で評価されることがもっぱらであるということだろう。


美の無関心性

美の対象となるものは、それそのものへの関心のみで鑑賞されるということ

つまり、この食べ物は美味しいとか、この椅子は座り心地がいいとかいうのは、栄養補給とか身体の休憩とか実用的な関心からもたらされているから、美的とは言えないのだ、という話である。

そう考えると、科学というのも、まずは「認知的価値」という実用的な関心があるのだから、美的とは言えないのではないかとも言える。

ところで、ロバート・ステッカー『分析美学入門』によれば、カント自由美と従属美という2つを考えていた、と。

自由美、というのは上述したとおり、無関心性による美

従属美、というのはそれ以外ということになる。

ステッカーは、後者も美として扱っていこう、という考えのようだ*1

確かに、無関心性で条件を絞ってしまうと、そもそも美の範囲としては狭すぎるような気はする。

美食は、本当の意味では美ではないというのもなんか実感とはあわないというか(食については、そもそも単なる快であって、普遍妥当性持ってないのではというような反論もありうるけれど、それにしたって、建築はどうなのだ、工芸品はどうなのだ、と色々言いつのることはできるはず)

まあ必ずしもカントに従わなければいけない理由はないのだから、科学も美的な対象になると考えてもいいはずだ。


「美しい」と美的概念

美学の基礎的なところの再確認となるが、美学において美的と呼ばれるのは必ずしも「美しい」に限らない(というか、次第に拡張されてきたっぽい)。

「美しい」だけではなく「崇高」だとか「雄大」だとか「かわいらしい」だとか「エレガンス」だとか、そういった諸々を含めて美的と呼ぶことが多いので、ここでもそれに倣う。

例えば、ロバート・P・クリース『世界でもっとも美しい10の科学実験』 - logical cypher scapeの「第7章Interlude 科学と崇高」では、崇高が扱われている。

科学について「美しい」とはどういう感覚なのか、個人的にはあまりピンとこないのだが、「崇高」というのは少し分からないでもないかなと思う。

「エレガンス」というのは、科学に対して使われることの多い語だと思うのだけど、これが一体どういう概念なのかというのは、どうも掴みがたい。大雑把に言えば「美しい」に似たようなものだとはいえるのだろうが、微妙に区別されているようにも思える。


美的概念と非美的概念

先に述べた通り、『世界でもっとも美しい10の科学実験』において、美しい科学実験は、「基礎的」「決定的」「効率的」だという。

また、エレガンスな科学や美しい科学は、時に「単純さ」「シンプルさ」と結びつけられることがある。

「基礎的」「決定的」「効率的」「単純さ」「シンプルさ」といった性質は、非美的な性質であろう。

「この実験は美しい」「この理論はエレガントだ」という時、それは「この実験は基礎的で決定的で効率的だ」「この理論はシンプルだ」と言い換えられるのだろうか。

美的概念は、非美的概念に基礎づけられているとしても、非美的概念には還元されない、とりあえず仮定しておくのであれば、そのような言い換えはできないということになる。

芸術作品や自然観賞において、そのような仮定はもっとものように思えるが、科学についても果たして同様なのだろうか。

そもそも科学に「美しさ」は関係ないのだと考える人は、非美的概念に還元できてしまうと考えているのかもしれない。

発見との関わりでいうならば、つまり、「より美しい理論を探すのがよい」みたいな話をする場合、その「美しい」は、例えば「単純である」などに置き換えてしまってもよいのではないか、というような気もする。


また、あるいは、芸術作品や自然観賞についての美的な概念も含めて、非美的な概念へと還元できると考える人というのは、それなりにいそうだなという感じもしている。件の『現代思想』を読むと、美しさを進化的に、あるいは神経科学的に説明できてしまうだろうというようなことを述べている人たちも見受けられるからだ。これはちょっと違うような気はしている。


知覚をゆるがすこと

崇高の話とも繋がるが、『世界でもっとも美しい10の科学実験』では、科学実験が、知覚のあり方を変えるというような話をしている。見えなかったものが見える、見え方が変わる、など。

これを自分は、優れた芸術作品にもある効果なのではないかなと思うのだけど、その点で、この観点から考えるというのはとっかかりがありそうだなと思う。

そういう経験に触れたときに感じる言葉が「美しい」なのかどうかは分からないけれど、そこに美的評価・概念が関わってくることはありそうだと思う。


ところで、直接的にはあまり関係ないが、『化石の意味』を読んでいると、17世紀くらいだと山並みというのは、無秩序で美しくないと思われていたということが分かって、驚いた。崇高美というのは、確かに最近の話といえば最近の話なのかもしれない。

[][][][]ロバート・P・クリース『世界でもっとも美しい10の科学実験』

古代から現代まで、物理学における「美しい」科学実験について紹介するとともに、科学実験における美についての哲学的エッセイがまとめられている本

筆者の専門は哲学科学史で、『フィジックス・ワールド』誌でコラムを担当している。

ちなみに、訳は青木薫。案外とこの人の翻訳書を読む機会がなかなかなかった。


『世界でもっとも美しい10の科学実験』ロバート・P・クリース - 僕帝国幻想を見て気になったので、手にとった。

世界でもっとも美しい10の科学実験

世界でもっとも美しい10の科学実験

序文 移り変わる刹那

第1章 世界を測る―エラトステネスによる地球の外周の長さの測定

Interlude なぜ科学は美しいのか

第2章 球を落とす―斜塔の伝説

Inetrlude 実験とデモンストレーション

第3章 アルファ実験―ガリレオと斜面

Interlude ニュートンベートーヴェン比較論

第4章 決定実験―ニュートンによるプリズムを使った太陽光の分解

Inetrlude 科学は美を破壊するか

第5章 地球の重さを量る―キャヴェンディッシュの切り詰めた実験

Inetrlude 科学と大衆文化の融合

第6章 光という波―ヤングの明快なアナロジー

Interlude 科学とメタファー

第7章 地球の自転を見る―フーコーの崇高な振り子

Interlude 科学と崇高

第8章 電子を見る―ミリカンの油滴実験

Interlude 科学における知覚

第9章 わかりはじめることの美しさ―ラザフォードによる原子核の発見

Interlude 科学の芸術性

第10章 唯一の謎―一個の電子の量子干渉

Interlude 次点につけた実験

終章 それでも科学は美しくありうるか?


序文 移り変わる刹那

実験の美しさについて、深いこと、効率的であること、決定的であることの三要素を挙げている

深い=自然について深い事柄を明らかにし、世界に関する知識を塗り替える

効率的=実験の方法、要素の組み合わせが効率的

決定的=結果がはっきりと示される


この本ができた経緯

2002年、筆者がコラムを書いている『フィジックス・ワールド』誌で、読者を対象に、一番美しい実験を挙げるよう依頼

ネットでも評判となり、数百以上の実験が集まった

もともと、「物理学の実験」として集めたので、物理学の実験が多いが、それでも物理学に限らず様々な分野の実験が集まった

時代順に10個の実験。一つの例外を除き、得票数はほぼ同じ(二重スリット実験は、もっとも多くの票を集めた)。


第1章 世界を測る―エラトステネスによる地球の外周の長さの測定

どのような実験かという詳細については、このブログでは省略する

この実験の特徴として、

色々なやり方で再演されるという意味で「抽象的」とされている

エラトステネスの実験を再現することは、ゲティスバーグの戦いを再現することとは違うと書かれている。

また、地球の長さを直接測定することなく、影からでも確かなものを引き出せるという、実験がもつ性質を示している、とも。

この実験の美しさを雄大さに見て取る

小さなものを測定することで、大きなものを明らかにするという雄大さ


Interlude なぜ科学は美しいのか

科学や実験が美しいと語ることに対する異論として、(1)見当違い(2)エリート主義的(3)大衆受けを狙っているだけ、という3つをあげ、特に(3)について検討している

ところで、ここでは美とエレガンスは違うということが書かれている。美は真理への足掛かりになるが、エレガンスはならないと。詳しくは、ポランニーの論文を参照とのこと


第2章 球を落とす―斜塔の伝説

ピサの斜塔の実験について、ガリレオの記述や科学史家の研究をもとに、実際あったのかどうかという疑問に対して答えていく

やはりこの実験も、エラトステネスの実験と同じく、様々なやり方で再現されている

Inetrlude 実験とデモンストレーション

実験とデモンストレーションの違いについて

実験とは、何かをはじめて明らかにするパフォーマンスの一種であり、結果は不確実。上演者と観客が同一であるようなパフォーマンス

デモンストレーションは、実験の要点をおさえて再提示したもので、上演者と観客が異なる。博物館などで見ることができるのはデモンストレーション。観客と現象のあいだに距離を作り出す

今日の画期的な実験が、明日のデモンストレーションになるとも。

デモンストレーションは、実験をプロセスなのではなく、すでにわかっていることを確かめるだけのものだと誤解させる原因にもなっているという注意も書かれている


第3章 アルファ実験―ガリレオと斜面

ガリレオの斜面に球を転がした実験。加速度という概念が考案されることになった

運動を記述する際に、空間から時間へと観点の変化をもたらした

先の二つの実験との違いは、実験のための装置をあらたに作り上げたこと

ガリレオ専門家であるコイレは、ガリレオの実験装置が貧困であり、価値がなかったとこきおろしたが、1961年、セトルが当時手に入ったものだけを使って再現した

斜面の実験独特の美しさ=パターン・法則が現れる美しさ

Interlude ニュートンベートーヴェン比較論

ニュートンがいなくても誰かが微積分や引力理論を作っただろうが、ベートーヴェンがいなかったら彼の作品はこの世にはなかった、という科学者芸術家の差異を強調した対比

また、カントは、「天才」が科学者にはないが、芸術家にはあるという。

科学はすでに定まっている世界のあり方を探求する。自分の作ったものをステップを踏んで説明することができる。

芸術は想像力・創造力により生み出さされ、芸術家が全体の構成に責任を負う。創造を説明することができない。

(説明できるかできないかが、カントのいう「天才」の有無の違い)

科学者も自分の理論の構造に責任を負う

ニュートンの理論体系には、別の説明の仕方もありえた。

ニュートンの偉業には想像力が果たした役割が大きい。

もちろん、科学と芸術は何から何まで類似しているわけではないが、差異ばかりではなく類似性もあるという指摘

もしアインシュタインがいなかったら、相対性理論はどのようなものになったか


実験は自動的なプロセスではない。カントのいう「天才」が関係してくるところもある。

科学と芸術は異なるが、科学もやはり、個々の科学者独創性・スタイルがかかわっている。


第4章 決定実験―ニュートンによるプリズムを使った太陽光の分解

科学的方法とは、「仮説を立て検証し、仮説を立てること」ではなく、「現象を見る」こと


ニュートンは何百も実験を行ったが、その中で同僚を納得させられる実験として選び出されたのがこの「決定実験」(王立協会論文に発表された実験)

そのため、デモンストレーションの要素がある


史上初の「学術誌上の論争」を産み出した

あと、これはトリビア的なネタだが、

ニュートンの「巨人たちの肩の上に立ったおかげ」という言葉は、批判してきたロバート・フックの身長が低いことを前提としたあざけりの言葉だった、とか


Inetrlude 科学は美を破壊するか

キーツをはじめとして、ニュートンの光学が、ひいては科学が自然から美を奪ったと考える詩人たちがいる。ゲーテは、反ニュートン的な色の科学を作っている。

しかし、一方で、ニュートンの目で見るようになった詩人もいた。科学が美を深める、という見方もある。


第5章 地球の重さを量る―キャヴェンディッシュの切り詰めた実験

キャヴェンディッシュ:宇宙は測定できる物体のみでできており、それらを測定することを自らの仕事とした人。最初の論文化学の測定に関するもの、死の前年に発表した論文天文学の測定に関するもの

「実験家の気配り」実験の妨げになるものをあらかじめ測定し、補正しておくこと

地球の重さ(密度)をはかることが目的であったが、今ではニュートンの法則に出てくる比例定数Gを求めるのに使えることがわかっている(当時のキャベンディッシュはどちらも知らなかったが)

キャベンディッシュの実験の美は、誤差を丁寧に取り除いていった、端正で簡素な美だと述べられている。


Inetrlude 科学と大衆文化の融合

作品に科学を取り入れた演劇『コペンハーゲン』について


第6章 光という波―ヤングの明快なアナロジー

神童ヤング。複数の言語をマスターし、ロゼッタストーン解読も行っている。

王立研究所で、当時の科学を簡潔にまとめた連続講義をしており、その中で「エネルギー」という言葉が、今日的な意味で初めて使われた。

2つのスリットをつかった光の干渉の実験は、実は再現するのがとても難しい、らしい。一般向けの本の中には家でもできると書かれているが、筆者は実際にやってみても、うまい結果を得られなかったと書いている。

また、ヤング自身の記述の中にも、回析と干渉を取り違えていることがあることがわかっている。


Interlude 科学とメタファー

メタファーアナロジーは科学にとってありかなしか

メタファー派は、それは教育や伝達には役に立つが、科学にとっては不必要だと考える。

一方で、そもそも科学には、メタファーが必要不可欠だと考える人々もいる

ここでは、メタファーの機能を3つに分類している

(1)フィルター

「男はオオカミだ」「愛はバラだ」

一次主題(男、愛)の特徴を取り出し、それ以外にフィルターをかける

(2)創造的役割

一次主題と二次主題が逆転する

「光は波である」というときの、「波」が単なるアナロジーではなく、専門用語になる。さらに、エーテルが否定されて、媒質なしに伝わる光に対して、科学者たちの側の「波」概念が変化

また、「エネルギー」も同様。もともとは別の意味で、最初は運動エネルギーのことしかささなかった

(3)何かに対する全体像をすっかり塗り替えること

地球は生物よりも一個の細胞に似ている」など

これら3つは厳密には区別できないし、混ざることもある

メタファーとそうでないものは区別できない


第7章 地球の自転を見る―フーコーの崇高な振り子

フーコーの振り子が持つ魅力の一つ=視覚の多義性を暴くこと

振り子が動いているように見えるか、地球が回転しているように見えるか


当時からこの実験は人気で、より大きな振り子が使われるようになり「壮麗さ」が加わった


1851年ロンドン万博水晶宮、入場客の流れを管理するために初めてタイムスタンプが使われるようになる、といった歴史的な年で、この年、フーコーの振り子も、ランスノートルダム大聖堂のほか、世界各地(ヨーロッパだけでなく、リオデジャネイロセイロンにも)に設置された


振り子は、博物館にある他の展示物とは違う

インタラクティブ性がなく、人間とは無関係に動き、直観に反した事実を示す

Interlude 科学と崇高

バーク、カントエーコを踏まえて、フーコーの振り子を崇高美としてとらえる

「人間の知覚の不完全さを――というよりむしろ、人間の知覚と自然のメカニズムとの食い違いを――露わにするからなのだ」

振り子を「見て」自転を「知る」のか、自転を「見る」のか

知識や教育が知覚にどのように影響するのか、知覚を矯正・教育するのか

といった点を指摘して終わっている。


第8章 電子を見る―ミリカンの油滴実験

ミリカンがいかに油滴実験を成功させたかに至ったか

電荷の測定は、他にも多くの科学者が試そうとしていて、多難だった話

この章でも「実験家の気配り」が出てくる

測定データのうち、うまくいなかったものを「捨て」ていて、そのことは論文にも書かれているのだけど、のちにこの点について、データのねつ造ではないかと色々言われるようになってしまったこととか


この実験の美しさについて筆者は、シラーが「われわれを感覚の世界にしっかりと繋ぎ止めながら、概念の世界へと導いていくれる」というような種類の美である、としている。


Interlude 科学における知覚

装置を介在して「見る」ことは、比喩的な口語表現なのか

また、美とは感覚的なものということが強調されるが、科学と美について考えるなら、科学における知覚を考える必要がある。

科学における知覚と、日常における知覚は、本質的には変わらない

知覚とは、外見の規則性や不変性のようなものをとらえること

(リンゴを見るとき、角度によって異なる形に見える、視覚、触覚、嗅覚それぞれ異なる感覚が刺激される、がそれらをあわせて「同じ」物体として認識する)

=予測される多数の射映(見かけ)からひとつの地平を把握すること

予期される地平が裏切られて驚かされる可能性を「神秘的」と呼ぶ。

その驚きを受け入れるのが、科学的な気質

実験によって、典型的な事例が起きるとき、その世界でそれを「見て」いる(ex.ミリカンの油滴実験)


第9章 わかりはじめることの美しさ―ラザフォードによる原子核の発見

アルファ線の研究

アルファ粒子を打ち込むと原子核にはじかれて〜、というのは後付けで言われた理屈で、実験当初はよくわかっていなかった。

ここでも「実験家の気配り」が。助手のガイガーによる散乱の測定

ラザフォードも誰も、当時はこの結果が画期的ななことだとはわかっていなかった

Interlude 科学の芸術性

筆者は、ラザフォードの実験を再現する計画をたて、物理学者に話をしたら、爆笑された

実験とは熟練の技であり、筆者の計画は、突然ヴァイオリン職人のところへいってストラディヴァリウスを作ろうとしているのですが、と言っているのと同じようなものだ、と

こうした、熟練の技がいることを、ここでは「芸術的な仕事」と呼んでいる。

また一方で、そのような芸術的な仕事も、時がたてば、規格化されていくということも


第10章 唯一の謎―一個の電子の量子干渉

最後は、電子の二重スリット実験

これまでの実験が、基本的には一人の科学者の名前と結びつけられていたのと違い、この実験には複数の科学者がかかわっている。

最初は、ファインマン思考実験だったようだ。実際にやれるとは思われていなかったらしい。

ドイツのヨーンソン、イタリアのメルリとポッツィ、日本の外村


この実験は、基本的で、効率的で、かつ説得力がある

明晰さ、予期された驚きの宇津久井佐

エラトステネスの実験が、大きなスケールで見ることならば、この実験は小さなスケールで見ること


Interlude 次点につけた実験

惜しくもこの10の実験に選ばれなかった実験が、物理学に限らず複数紹介されている

[][][]『現代思想2017年3月臨時増刊号 総特集=知のトップランナー50人の美しいセオリー

各分野の著名人専門家50人に「お気に入りの、深遠で、エレガントで、美しいセオリーは何か?」に答えてもらう企画

もともと、『知のトップランナー149人の美しいセオリー』という海外の本があって、それの日本版というもの。元ネタの方は読んでない。


生物学地球科学物理学数学社会科学哲学などなどといった諸分野から50人が選ばれているので、様々な分野を広く概観できる一冊として読むこともできる。

一方で、そもそも「美しいセオリーとは何か」という視点からも読むことができる。

書き手の方もそれぞれで、前者に振っている人、後者に振っている人、両者の観点をそれぞれ取り入れようとしている人がいる。

まあ、一つ一つの記事は短いので、そこはよしあし。

養老孟司 面白さは多様性に宿る

まあ、談話だからなー

単純さと美しさや真理は関係ないのでは、という指摘は「ふむ」と思ったけど、まあうん


茂木健一郎 美しいセオリーはない。

塚田稔 脳の美しい記憶ダイナミックス 神経回路網の分割とダイナミックス

池田清彦 美しい理論と現象整合性

進化論の話

マーティン・J・S・ラドウィック『化石の意味』 - logical cypher scape読んだばかりだから、キュビエとラマルクの紹介に納得がいかないけどw

ここでは、美しさを「シンプルさ」と置き換えている(人間の脳は、シンプルさを美しく感じる、と)。そのうえで、生物学が発展にするにつれて、自然の複雑さがわかってきて、美しさと現象整合性の両方を満たすのは難しくなっている、と


長谷川眞理子 ダーウィンの淘汰による進化の理論

タイトル通り


倉谷滋 銀河英雄自然選択伝説 科学的に美しいセオリーとは何か?

冒頭から「美しいセオリー」というテーマ設定にかみついているw

ここでも「美しさ」と「単純さ」を並べることを批判している

また、ダーウィン進化論セオリーかと問いただす(「こういう特集では必ずダーウィンを持ち出す輩がいる」と書いてて、いや、たった一つ前で長谷川さんがww って笑ってしまった)

倉谷さんが美しいセオリーとしてあげるのは、ヘッケルの反復説

美しいセオリーとは正しいセオリーのことで、人間の理解可能性とは独立している、と締めている

渡辺政隆 聖女のお告げ

こちらも進化論

長沼毅 どんなものでも、どこにでも

タイトル通りで、これは生物地理学の仮説だそう

実際には旗色悪くなっている仮説らしいが、ここから微生物学の話をしている


郡司ペギオ幸夫 生命理論の存在様式 トマス・ブラウンの壺葬論


岡ノ谷一夫 ハンディキャップの原理

まあ、これもタイトルにあるとおり

「余剰装飾の原理」と訳したほうがいいのでは、という指摘があった。なるほど。

2ページと短い


山極寿一 美しいセオリーはときには危険な道を開く

「暴力は共感性の暴発から起こった」という山極自身が抱いている仮説について


佐藤文隆 排他律というお呪い

松井孝典 自然定数の微調整

人間原理について

川上紳一 ミランコビッチ理論 地球科学におけるエレガントな理論

ミランコビッチ理論とは、氷期・間氷期のサイクルを、地球の軌道や地軸の傾きから導き出す理論

一度は、観測データとの不一致が大きくなって忘れられたが、1976年に別のデータから復活する。

ミランコビッチ理論が何故エレガントか、という理由として、理論に内在的な理由よりもむしろ、ミランコビッチという科学者が生涯をかけて作り上げたこと(ちなみに彼は第一次大戦中に戦争捕虜となったさなかにも研究を続けていた)と、それが一度忘れられながらも復活したことといった、その理論が辿った経緯を挙げていることが、他と違う理由に思えて面白い。


佐藤勝彦 物理法則、相対性理論は美しい

基本的には、タイトル通り相対性理論の話だが、美しいセオリーとは何かについての見解が、模範的な科学者という感じがある。

例えば「私の好きな言葉は「美は真、真は美」という、イギリス詩人、キーツの言葉だ。」と美と真の結びつきを挙げている。ホーキングから、「真は美だが、美は必ずしも真ではない」と言われたそうだが(それにしてもこれも美と真を結び付けており、池田や倉谷といった生物学者組と見解が異なるのが、ほんとお手本のように見事に表れている)、それでも美の探求が真へと導かれる、と美による真の発見を説いている。

物理法則の美しさとして、対称性を挙げつつも、それだけではなく、対称性の破れも挙げている。

また、美とは何かという問いは、進化心理学において説明可能である、とも述べている。


池内了 慣性の法則 世界で最も美しい法則


細谷曉夫 アインシュタイン特殊相対性理論

特殊相対性理論の美しさの理由として、「数学的な洗練度」でも「仮定の単純さと結論の重大さ」でもなく、「その論法が操作的」であることを挙げている。

実際、アインシュタイン論文の構成を説明し、現在、一般的な説明の仕方と少し異なっていることを説明している。


松野孝一郎 見果てぬ夢としての古典論から量子論


池上高志 物理学の理論はアクロバティックである。

美しい理論は、難しさの崎に垣間見えるもの

スピングラスの理論」というものを紹介している

美しさの理由として「様々な解釈可能性」を挙げている。


黒川信重 絶対数学 数学の究極単純理論

タイトル通り「絶対数学」という分野について紹介している。

「この文章によって、絶対数学という究極的に単純な数学があるということを一人でも多くの人に知って」もらいたいとのことである。


砂田利一 美しさは邂逅にあり

オイラーの公式とかリーマン予想とかの話?

数学の研究に伴い、数学の中の異なる分野同士が「邂逅」したという話がされていて、様々な理論の思いもよらない出会いに美しさを感じているらしい。


渕野昌 美は一本の毛で男をひつぱるだろう

冒頭で、美とは何か、数学とは何かと問い直しつつ、むしろ、国籍も文化もばらばらでありながらも数学者同士で話すと、「数学の美」について話がかみ合ってしまうという経験が書かれている。

そのうえで、どんな時に数学の美を感じるかを挙げていて、分かりやすくて面白い。

(1)深淵な定理に容易に理解できる短い証明が与えられたとき

(2)「遠いものの連結」(西脇順三郎が詩の定義としたもの)

(3)定理の証明などが、(1)とは逆に簡単ではなく、複雑で精緻な展開がなされているとき

(4)得られた結果が予想を大きく裏切るとき(驚きを美として感じるという)

この4つの共通点としてさらに、人間の思考能力の限界と関わっているのではないかとも論じている。

数学の美は、「超越的で永遠の感覚を伴ったもの」でありつつも、人間の限界という、人間的なものでもある、と。


岩間一雄 ビットコイン その理論的完璧さ

ビットコインの説明


津田一郎 ガリレオからニュートンへ 因果関係を否定する法則の定式化


加藤文元 「狂っているのに美しい」について

再び数学分野から

数学特有の美として「狂っているのに美しい」ことをあげる

虚数、非ユークリッド幾何学など


高瀬正仁 数学を創造する心 数学における「美」とは何か

客観的な「数学的な美」はないが、歴史上、数学者が美しいと語ることは何度もあったとして、それら数学史の中の出来事を列挙している。

タイトルにあるとおり、ガウスやベルヌーイ、岡潔らの創造の心に美が宿っているという結論


三宅陽一郎 理論を包むビジョン 科学、工学、哲学、そして人工知能

美しさの話はあまりなく、人工知能研究は、科学、工学、哲学三位一体という話がされている

(こういうところが美しい、と多少触れられてはいるが)


岡田美智男 モジモジ感から醸し出される〈内的説得力〉

とあるロボットティッシュくばりをやらせてみたところ、なかなか受け取ってもらえなかったが、モジモジしたように見える手の動きや、学生の手作りのため、どこかヨタヨタとした雰囲気のせいか、おばあちゃんが「受け取ってくれた」という話を紹介したうえで、

お気に入りのセオリーとして、バフチンの「不完結な言葉は、内的説得力をもつ」という言葉を挙げている。

このロボットの不完結さが、おばあちゃんから、ティッシュを受け取るという対話・協力を引き出したのではないか、と


円城塔 第二種永久機関は存在しない

第二種永久機関と小説の話


柄沢祐輔 スモールワールドネットワーク

スモールワールドネットワーク建築


山内朋樹 動いている庭 迂回、すなわち技巧

この人、肩書が「美学/庭園論/庭師」となっている。

ジル・クレマンというフランスの庭師が1985年に提起した「動いている庭」という理論が紹介されている。

勝手に生えてきた植物を刈らずにそのままにしておいて、植物の生える場所が年々動いていくということを組み込んで、庭を作っていくという話、らしい。


宮本省三 セザンヌとお茶を 中間世界の理論

セザンヌ哲学の話なのだけど、リハビリテーションに応用されている理論の話、らしい


河本英夫 美と真


森山徹 カラスの投石

エッセイのような短編小説のような4ページだった。

比較心理学の人らしい


吉川浩満 功利主義

功利主義と二重思考

(ちなみに、美しい理論は「自然淘汰説に決まっている」が、最近のお気に入りとして功利主義について書いたという)


山本貴光 理論の理論 世界を理解する方法

「理論」や「セオリー」の語源。漢語の「理論」は英語のtheoryよりも古く「論じること」に重点。

ギリシア語の「テオーリアー」は「見ること」「見られるもの」といった意味。

アインシュタインが残したという、経験と公理、命題、理論の関係についてのスケッチの紹介。


大澤真幸 社会学史上最も美しい理論


飯田隆 論理学から形而上学を引き出す

ウィトゲンシュタインの『論考』について

何故そこに人が魅了されてしまったかという理由として、タイトルにある「論理学から形而上学を引き出」しているように見えることを挙げる。

現在では、一階述語論理や標準論理だけでなく、さまざな拡張論理などがあることにふれ、論理学の理論は一つではなく、むしろ他の形而上学プラグマティックな配慮によって決められるとし、論理学から形而上学を引き出すような理論は決して美しはないと述べている(それでも哲学者はそれに魅了されてしまう、とも)


坂井豊貴 美は重要ではない

タイトルは、留学先の教授の言葉

理論を作る際に、美を目的にしてはならない、とでも言えるのかもしれない。

坂井は、理論に美しさを感じることは認めるが、それはむしろ人を惑わしてしまうものである、というところから「美は重要ではない」という言葉を重視する。

人をその美しさによって惑わす理論の代表例として、アローの不可能性定理を挙げている。


三浦俊彦 神視界の人間的彩色 ベイズの定理

「美しい」を統一度、複雑性、人間的性質の三要素で定義した美学者がいるらしい。

で、これに当てはまる理論として「ベイズの定理」を挙げている。

「モンティ・ホール問題」と並ぶものとして「子供の性別問題」というのを紹介している。

「私には二人の子供がいて、少なくとも一人は男である。二人とも男の確率は何でしょう?」という問題。

ベイズの定理は、神の視点であるはずの数学に、発話の文脈、ストーリー上の視点、そういったものを持ち込んでしまうものなのだ、と。そこが人間的性質だ、と。

「モンティ・ホール問題」って何回説明読んでもいまいちよくわからなかったけど、こっちの話は「なるほどー」と思った。単に、「少なくとも一人は男である」時の条件付き確率なんじゃなくて、「少なくとも一人は男であると親が述べている」時の確率だ、と。


高橋昌一郎 「美しいセオリーシンポジウム開幕!

あーなんなんだろうなー

またシンポだよ、っていう。

しかも自分の本の宣伝だよっていう。


内井惣七 ライプニッツの究極の理論

こっちも自著の宣伝といえば宣伝だけれども、モナドロジーを情報論的解釈で読み解くという、内井説の概略を紹介している。


伊藤邦武 宇宙論における美的調和の導出


山内志朗 美しい唯名論

神秘主義的なものとしての唯名論について紹介されているのだけど、4ページという短さの中に詰め込まれているので、いまいちよくわからなかった。


上野修 美しいエチカ

『エチカ』のミニマリズムの美しさについて


納富信留 美を観想すること、あるいは、魂の出産

「美を観想する」とはどういうことか。観想はセオリーギリシア語語源の方。

うーん、これもうちょっとちゃんと読んでおくといいんだろうなあという予感は抱きつつも、後半になってきてちょっと疲れてしまい、内容把握できぬまま。


近藤和敬 ある理論が美しいと言われるとき、その真の理由は何でありうるか

小泉武夫 「発酵」から読める二つの美しさ

吉村作治 シンプルな楽しさ

福嶋聡 〈未来の自分〉と読書

[][]『日経サイエンス2017年3月号』

特集:脳を作る 脳を見る

実験室で誕生 脳オルガノイド  J. A. ノブリヒ

オルガノイドとは培養された臓器のこと

体細胞から幹細胞を作り、そのうち神経性外胚葉を培地で培養して、人間の脳のオルガノイドを作る研究

医学的な研究を目的としている。

マウスによる実験だと、人間にはあってマウスにはないような遺伝的特徴が関係する病気などには使えない。

が、脳オルガノイドは、人間の細胞から作った脳なので、その点問題はない。

まさに、水槽の中の脳とでもいうべきものが作れるようだが、筆者によれば、感覚器は生成されないので、この脳が何かを考えたり意識をもったりすることはないという。

また、この記事を読む限り、左右の軸がなかったり、血管がなかったりなど、実際の脳とは違うところも色々あるようだ(血管については今後の課題として、いずれ作るつもりのようだが)

ジカウイルス感染による子ども小頭症の研究に実際に使われている


透明化で見えた脳回路 CLARITY法の衝撃  K. ダイサーロス

脳は不透明なので、奥の方まで見ることができない(体を透明にするよう進化した動物も、神経系は透明にできていない)

ハイドロゲルポリマーを(遺体の脳に)注入することで透明化し、蛍光することで、神経細胞の結線を見えるようにする技術(CLARIY法)を開発

やはり筆者が開発したもう一つの技術「オプトジェネティクス」と組み合わせることで、脳機能をより明らかに。オプトジェネティクスは、脳内の要素を光によってオンオフする

オプトジェネティクスで、ある経験をしているときに活性化する市安房集団を特定。CLARITY法で、その細胞集団がどのように配線されているかを観察

ドラマチックだった太陽系形成  L. T. エルキンズ=タントン

磁気を帯びた古い隕石の発見

太陽系形成期の微惑星は、熱くならないので磁場は生じないと考えられていたが、この発見により、ダイナモ効果による磁場が生じていたと考えられるようになった。

アルミニウム放射性同位体の放射熱が熱源

また、年代測定の発展により、太陽系形成が従来考えられたよりも早く進んだことが分かってきた

原始惑星系円盤の寿命は300万年(!)

小惑星プシケの探査で、本当に小惑星に磁場が生じたか調べる(2023年打ち上げ2030年到着予定)

筆者が、高校時代に習ったものとはまるで違う云々ということを書いていたのだけど、アメリカの高校だと太陽系形成理論って習うのだろうか。自分は高校時代に地学選択してなかったので、日本で習うかどうかよく知らないけど

新発見! 文化が促すシャチの種分化  R. リーシュ

種分化には、異所的種分化(地理的隔離)と同所的種分化があり、従来は前者のみと考えられていたが、現在では後者も あることが分かっている。それでも、哺乳類による例は見られていない。

シャチは、海に生息し、長距離を泳ぐ能力もあり、地理的には隔離されていない。

一方、同じ海域に生息していても、食べるものの違いで「エコタイプ」と呼ばれるグループに分けられることが、研究によってわかってきている。アザラシを好むグループとか魚を好むグループとか。

そして、このエコタイプ間では、交流がないということだ。

水族館などでの交配によれば、異なるエコタイプ同士のつがいからも、繁殖能力のある子が生まれているので、まだはっきりと種分化したとはいえないが、このままの状況が続けば、いずれこのエコタイプの違いにより種文化していくのではないか、と。

で、このエコタイプの違いというのは、文化的な違いだとされている。

遺伝的な差ではなく、後天的に獲得されている違いだから。

食べるものの違いは、狩猟スタイルの違いとしてあらわれているほか、シャチは音を使ったコミュニケーションをとるが、この音の使い方もエコタイプによって異なる(アザラシなどをとるグループは、獲物に気付かれないように音をなるべく使わないが、魚をとるグループは、そういうことがない)。

さらに、よく使う音のパターンみたいなものが、家族グループごとにあって、音の類似が遺伝的な近縁とよく一致しており、交配の相手を、なるべく違う音を使う者から選ぶという行動もみられるという。

こうした文化による隔離は、人類における乳糖耐性の進化などにも考えられるのではないか、と述べられている。

「ノー」と言えるロボット  G. ブリッグズ/M. シュー

反乱よりも、人間による不完全な命令などの方がロボットにとっては問題だろうという話


サイエンス考古学

クジラを食べる/磁石の進歩/空飛ぶ車/働く女性/鉄道と水運

100年前の記事。空飛ぶ車構想、複葉機の時代からあったのか

フロントランナー挑む 「世界」を理解するため人工知能をつくる  松尾豊(東京大学

情報系の分野では、研究と起業は一緒というような話


NEWS SCAN

●海外ウォッチ
  • サルが作った石器

サルが、石の中のミネラルを舐めるために石同士を叩き割って残された石の形状が、オルドワン石器やそれよりさらに古い石器と見分けがつかないという例が発見されている。

これらのサルはこうした石を道具としては使っていない

現在発見されている石器については、石だけでなく、それを使用した痕跡もあわせて発見されているので、このことによって、直ちに最古の石器などに実は石器ではなかったという疑いがかかるものではない。


  • 視覚を備えた植物

1907年に植物に眼点細胞というものが発見されており、植物に「目」があるかもしれないという考え自体は古いが、最近になって再浮上

2016年、シアノバクテリア細胞体全体をレンズとして利用して細胞膜に像を投影していることを発見

*1:うーん、確か松永さんだったと思うのだけど、無関心性ってどうよ、みたいな話やtwitterブログでしていたような気がするし、おそらく無関心性と美については何か議論があるのだろうけれど、そこまで勉強できていない……

2017-04-15

[][]マーティン・J・S・ラドウィック『化石の意味』

サブタイトルは古生物学史挿話で、16世紀から19世紀にかけての古生物学

作者は、もともと地質学・古生物学研究者であったが、のちに科学史家となった。

日本語訳は2013年に刊行されたものだが、原著は1972年と40年以上前に刊行された本である*1

とはいえ、自分の不勉強もあるだろうが、古生物学史というのはあまりよく知られていないものと思うので、勉強になった。

キリスト教的なバイアスのかかった考え方が、何人かの大科学者によって刷新されていったという歴史をつい思い描きがちであるが、それが誤りであることを教えてくれる。

キュビエは、キリスト教的価値観から進化論に反対していたわけではないし、ライエルの斉一説(この言葉については普通の理解が実は正確ではないことが書かれているのだが)はすでに当時に一般的になっていたのであるし、ダーウィンへの反対者も進化という考えに反対していたわけではなかった、ということがわかる。  

第一章 化石

第二章 自然の古物

第三章 生命の革命

第四章 斉一性と進歩

第五章 生命の祖先

訳者あとがき

文献案内

用語解説

参照文献

第一章 化石

16世紀最大のナチュラリスト コンラート・ゲスナーを中心に、16世紀についての章


現代人からすると、化石というのは生物由来のものであるが、当時は、あるスペクトルのもとに広がっていた。つまり、よく生物に似ているものから全然似ていないもの(鉱物など)へ。


  • 3つの新機軸

ゲスナー『化石物について』は、そのような「化石」についての著作だが、3つの新機軸が現れている。

(1)言葉による記述を補うための挿絵の使用

(2)標本コレクションの使用

(3)文通によって協働する学者共同体の形成


自然を記述することが単純に神の創造物を記録するという価値があり、それとは別に、功利主義的動機があった。魔術ないし薬としての効用

化石の「本性」より「能力」が優先されていた


ゲスナーやアグリコラ等によって、生物などによく似ているものがあることがわかり、それに基づいて分類されるようになったが、必ずしも、生物の遺骸だとは考えられなかった

当時の、新プラトン主義ないしアリストテレス主義が、十分な説明を与えていたから。

宇宙は類縁のネットワークであり、何らかの「形成力」が石に対して働いた。当時のナチュラリスト化石を自然の「図像imagines」「模像icones」と称していた。

生物の「自然発生」が信じられており、例えば魚の「種子」が地中に流れ込み、石が魚に似た形になった


生物起源という考えがないわけではなかったが、化石が発見される「位置」の問題(海の生物が山から見つかる)があって、海に近い地層から発見されたもの以外には当てはまらなかった


第二章 自然の古物

17世紀化石は生物起源のものであることが認められるようになり、地球の年齢が論じられるようになる。フックとステノが中心に取り上げられる。


ステノ(本名:ニールス・ステンセン)が、フィレンツェでのサメの研究から、舌石が間違いなくサメの歯であると確信するようになる

顕微鏡で有名なロバート・フックもまた、生物起源説を信じていた

石の中で成長するという考え方を拒んだが、目的論的見解は維持しており、むしろ、目的論において、この形態をしているのだから生命由来だと考えたらしい。

一方で、アンモナイトなど現生種とは似ていないものをあげ、リスターは生物起源説を拒む


ジョン・レイは、フックとリスターをあげて、生物起源説の賛否双方をまとめた

生物起源説の問題点

(1)現生種との相違

→絶滅を含意するが、神の創造が不完全だったことになる。まだ発見されていないだけで地球のどこかにいるのでは、とも考えられた

(2)位置の問題

→「大洪水」が用いられたが、化石が地層の中に埋まっている理由が不明

→ステノ:地層の堆積について論じ、化石が生命の歴史の証拠となるという新しい視点を導入した


  • 地球の歴史は数千歳であるという聖書的な時間

当時は、化石について考えるうえで、数千年という短さは問題にならなかった

(むしろそんなに長時間残るはずがないという懸念すらあった)

また、地球の歴史と人類の歴史はほぼ同じものだと考えられており、聖書文献学的な歴史研究と自然の歴史の研究があまり区別されていなかった


ステノ→化石を「大洪水」の時代のものと考える

大洪水は、大量の水の創造と消滅という問題がある

フック→「地震」を採用

また、老いる地球という考えや、地球の「幼年期」には巨人族がいたという伝統的信念とも適合する考えをもっていた


定向的時間というキリスト教的な概念枠組み

フックとステノには、デカルトも影響を与えていた

→熱い恒星から冷たい惑星へ・地殻が崩壊することで不規則な地形が形成というデカルトの考え

フックとステノは、年代学と合理性の双方を満たすように、地球史を構築


そこから影響を受けたトマス・バーネット地球の聖なる理論』

地球を7つの時期にわける

「大洪水」を物理的に説明することに努める

デカルトによる地殻の崩壊で地形を説明することで、山が無秩序である(地球は秩序正しくなければならないという観念に対して)ことを説明

しかし、化石の生物起源的解釈とあわない


化石が生物起源であることと大洪水の信念とを結合させ、包括的に説明

ただし、大洪水の機構は何一つ説明できなかった


    • ルイド

アリストテレス的な、種子による化石説明


    • レイ

もともと生物起源を受け入れる用意があったが、バーネット、ウッドワード、ルイドらの議論があって、態度を保留しつづけた


ウッドワード理論は、問題があったが、受容されていった

べレムナイトの鞘がオウムガイがもつような殻室であることわかったり、現生のウミユリが発見されたことで、生物起源説への証拠が増していった(それまで、べレムナイトもウミユリも類似する現生種がないとされてきた)

化石の非生物的解釈は、18世紀の初頭に消えていった(「貝石」「魚石」のような言い方も消えていった)


  • 18世紀前半

第一紀岩」「第二紀岩」「第三紀岩」という文類


化石の生物起源、ステノやウッドワードのように地層を堆積物とする理解をもち、聖書と理性の双方に適合

ライプニッツは、慣習的時間尺度を採用したが、レイは、地球の歴史が人類の歴史より長くなることを予見


  • ビュフォン

冷却する地球という観念から実験をおこない、数万年という時間尺度を採用


第三章 生命の革命

ジョルジュ・キュビエを中心に扱った章


フランス革命後、パリ自然史博物館として旧諸機関が再編統合される

当時、イギリスは科学に対する国家の援助はほぼない。

ドイツは、鉱山学校を中心に科学者集団が成立していた。

パリ自然史博物館は、他にないほど多分野を網羅した研究センターとなった


  • 「絶滅」

キュビエ解剖学における2つの合理的原理

(1)部分の相関:生体の各器官の相互依存性

(2)形質の従属:機能から類縁性を決定

→これらの法則から、古代生物を発見していく→メガテリウムマストドン

アジアゾウアフリカゾウが別種であることを明言し、さらに化石ゾウ(マンモス)が別個の種であるとして、「絶滅」という考え方を確固なものとしていく

(ちなみに、ビュフォンはヨーロッパからゾウが発見されたことで、昔の地球は今よりも熱かったことの証拠だととらえていた)


  • 「革命」とド・リュックの地質学

キュビエは地球史が「革命」によって区切られていると考えた

Revolutionという単語はもともと天文学地学用語だったようなのだが、フランス革命以後、激変というような意味が加わり、キュビエもそのような意味をこめている。

マンモスが寒さに適応していたことがわかる。環境の漸進的な変化ではなく、激変が絶滅を引き起こしたと考えた。

イギリスナチュラリスト聖書の「大洪水」と地質学を和解させようとし、激変が近い過去にあったことを論じた

キュビエは、聖書との和解という点は取り入れることせずに、ド・リュックを取り入れた。

このあとにも出てくるが、キュビエは、進化論に反対したために、保守的な考え方の持ち主だったと考えられがちだが、当時のフランスの知的風土において、宗教と科学はすでに切り離されていたようで、キュビエは私的には誠実な信徒だったようだが、彼は科学で聖書説明しようとはしなかった

キュビエは「革命」を長期的な海の侵入と考えていた


現在作用している観察可能な過程との類比で、過去の出来事を推測する方法論のこと

独仏など大陸での用語に由来し、ふつう、英語圏で「斉一説uniformitarianism」と呼ばれる考え方だが、本書では、「現在主義」と呼称する。

これの意味は第3章ではわからないのだが、第4章でライエルが出てくるとわかる。

先に書いておくと、一般にライエルが生み出したと考えられている現在主義的な考え方は、むしろライエル当時には既に多くの地質学者にとっては一般的な考え方となっていた。

ライエルに独自な部分はむしろ、地球史を「定常」的にとらえる考え方の方で、本書ではこちらを「斉一説」と呼ぶ


  • 絶滅(キュビエ)vs進化(ラマルク)

化石でしか発見されない動物について、絶滅か進化か移住かの3つの選択

移住は、少なくとも大型陸生四足動物についてはもう言えない


    • ラマルク

→キュビエよりも古い知的伝統に属す

種は実在しない

「存在の階梯」を前提とする

永遠に近い長い時間尺度を採用した定常的地球

化石証拠をあまり用いない

→生物は、少しずつ変化していくが、決して消滅しない


    • キュビエ

種は自然界を科学的に研究するための基本単位

ラマルクが想定するよりはるかに短い時間尺度(ただし、当時の地質学では常識的な尺度)

キュビエは、宗教的な創造を擁護して進化に反対したのではなく、科学的な立場の違いによって反対していた


ジョフロワ・サン=ティレールが、エジプト遠征から持ち帰った動物のミイラ

→形態の変化が起きていないことから、キュビエは進化が起きていない証拠とした


ラマルクは、進化を論じるうえで化石証拠を用いず、むしろ、キュビエの研究がのちのダーウィン進化論に説得力を与えることになった

キュビエとブロンニャール→時代を遡るほど生物の形態が今より遠ざかることと、化石が地層の同定に使えること

パリ周辺が、海水と淡水が交替している→大陸の沈降と隆起

キュビエ『地球革命論』

突然の変化で生物相は絶滅し、他の大陸からの移住で新しい生物相ができる(生物の起源を移住で説明した)


キュビエは、激変(カタストロフィ)という語は使わず、革命(レボリューション)という語を好んだ

ジェイムソンによる英訳において、ジェイムソンが、最新の革命を「大洪水」と同一視する注釈をつけた

そもそもキュビエは、最後の革命の時期に人類はまだいない、もしくはまだ原始的で革命の原因にはなりえなかったと論じている

科学と宗教は互いの領分に入るべきではないとキュビエは考えていたが、イギリスにおいて、キュビエを支持したのは宗教的権威を擁護したい人々で、、キュビエの革命を大洪水と考えた。

バックランドは、科学と聖書を結び付け、科学を歪曲したとフレミング批判された


  • 層序学とキュビエの革命理論の結びつき

アルプスですら比較的最近(第3紀)に堆積したことが判明(ブロンニャール)

累層の間に動物相の不連続がみられるが認められてくる

ド・ボーモン

造山が、複数の異なる時代に起きていたことを証明

キュビエの革命に物理的な説明を与える


  • 生命の歴史に「前進的」または「定向的」概念生じる

キュビエは、「存在の階梯」に反対し、生命を大きく4つの分岐にわけ、すべての生命を一つの系列にすることは排除したが、分岐の中では序列を認めたし、ある程度は、前進的・定向的な化石解釈を暗黙に認めていた

ニベアによるプレシオサウルスの復元、マンテルによるイグアノドンの発見が相次ぎ、第二紀が爬虫類の時代だという考えが浮上

さらに、植物化石の研究が、この方向性を加速

ブロンニャール息子が化石植物を研究し、さらに、植物化石から第一紀(主に石炭時代)は現代よりも熱かったと結論

地球はかつて熱く冷却していったという地球物理学議論(かつて、ビュフォンが主張していたが一度忘れられ、フーリエによって復活した考え)

地球と生命の歴史は、ともに定向的な性格を有する


  • キュビエとジョフロワ

もともと親しかったが、次第に険悪に

ジョフロワは胚発生から、キュビエが考えるほど、体制は安定していないと考えるようになる

キュビエ的な方法論で、生命が環境に適応したと論じ、そこから、生命が変化していくという非キュビエ的な結論へと至る

ヒヨコ孵化の実験で、環境の変化で奇形を作ることを発見

ラマルクの非科学的信念(生命自身に備わる前進的傾向)を採用せず、ラマルクが嫌悪したもの(地質学における革命)を採用して、進化論を作ることができた

キュビエは、ジョフロワの地質学解剖学における間違いを発見し、容赦なく攻撃した

生命が単一の系列につながるか否かという、自然に対する哲学対立

キュヴィエの攻撃と勝利によって、その後30年にわたり、進化論非科学的のレッテル


それだけでなく、イギリスでは、生物が「デザインに満ちていること」という神学的な伝統がキュビエと結びつき、ラマルクやジョフロワへの批判につながった

ただし、筆者は、神学がただ有害だっただけという従来的な歴史観には異を唱える

デザインの豊かさへの関心は、種の起源や高等な形態を生み出す機構を考えることを妨げたが、一方で、化石種の研究を推し進める原因にもなり、進化論の証拠につながったから


  • まとめ

1830年頃までに、キュビエ的な考えを中心に古生物学地質学の総合が起きた

地質学的時間尺度の長大化/累層の同定と対比が可能に

「革命」による生命の歴史の区切り

山脈の隆起による環境変化→絶滅

冷却する地球と生命の進歩という、定向的な歴史


これらは、科学雑誌の増加、多数の論文相互参照のネットワークなどによって表された


第四章 斉一性と進歩

チャールズ・ライエルを中心にした章

ライエルが科学的な地質学を創りあげたわけではない。1830年までに既に科学的な合意はあった。


1807年創設

ライエルは31歳で副会長に

やはり国家の援助はほぼなく、会員の寄付に依存

天文学が貴族の科学なら、地質学中産階級の科学

イギリスでは、独仏と異なり、科学者と実務家・技術者は、社会的に区別されていた


  • バックランド「洪水説」への反対

ライエルは、バックランドの講義を受けており、彼への反対がまず動機としてはあった

地質学者プレイフェアの現在主義的な見解に同調

    • スクロープ

火山の研究

バックランドに反対し、プレイフェア的な結論へ

地質学的証拠から、より長大な時間的尺度が必要だと考える

時間を長くすれば、突発的に見える出来事も、緩慢で漸進的な変化に「アイロンがけ」される

定向的モデルと生命の進歩には合意

生物学的側面からバックランドへ反対

定向的モデルを当然視

絶滅種と現生種の混在から、漸次的絶滅を提唱

(大洪水以後の「ヘラジカ」は人類の狩猟による絶滅であると考えるなど)

    • ライエル

スクロープやフレミングの総合へ

生物は漸次的に絶滅し、また漸次的に生じてくると考えることで、キュビエ的な種の実在性と、プレイフェア的な地質学的原理を適合させる


  • ライエル2つの原理

(1)過去に作用した過程は現在作用している過程と同じ=現在主義

スクロープやフレミングと同じ方針

(2)過去の過程は、現在の過程が用いているものと異なる活力の度合いでは作用しなかった

こちらは異論のある原理

→ハットン的な定常モデルへ

(ハットンは18世紀の人物

定常モデルは、科学的にも神学的にも優れているとみなした


  • 定常的モデルvs定向的モデル

(1)冷却していく地球へ反論

(2)化石的証拠へ反論

→進歩しているように見えるのは、化石保存の偶然

不連続にみえるのは、記録されていない期間があったせい


  • ライエルの三要素

(1)現在主義方針

いくつかの例外をのぞいて、当時の多くの研究者が合意

(2)変化の漸進的(段階的gradual)性格の強調

セジウィックら同時代人から反発される

(3)定常的モデル

スクロープら友人からも反対される

確立されていた物理的・古生物学的証拠に反する

ライエルは、1830年の時点で「変わり者」であった


  • 「自然の斉一性」の創造的混同

「斉一説」(ヒューエルの命名)

地球史の「斉一性」と方法論の「斉一性」と科学の自立を保証する形而上学的な「斉一性」


  • 漸進的な変化

ダーウィンはこれに追随し、いずれ進化論

ライエルおよび、デエ(仏)、ブロン(独)は同時期に、動物相の変化が少量ずつかつ漸進的で急激なものではないと確信

セジウィックであっても、動物相の変化に漸次的な性格があることは認めていた。彼は、ド・ボーモンの研究を支持し、連続性の法則には反対しつつも、ライエルの漸進的な変化にもいくらかは同意していた


「シルル系」の画定

化石第一紀と第二紀の間にある漸移岩から、シルル系として画定される累層を名づけ、シルル動物相が世界各地で一様であることがわかった→定向的モデル・生物の「前進的」モデルへの証拠

デ・ラ・ビーチ→デヴォンの漸移岩から石炭紀の植物発見→ライエルからもマーチソンからも反対されるが、デヴォン動物相は、シルルと石炭紀中間的だといことがわかる

→ライエルの原理について、「変化は漸次的である」は立証されていき、「定常的である」ことはますます否定されていく

さらに、セジウィックによる「カンブリア系」の提唱(セジウィックマーチソンとの間の論争)


いずれにせよ種の起源は、わからないまま

化石の地層があることには変わりなく、そして初期の生命は、三葉虫など明らかに複雑で適応的な構造を持っていた

「デザインに満ちている」ことがますます強固に


進化論に対する代案ともいうべきアイデアを出していた

ダーウィンは自らの著作の中で、自分の進化論かそうでなければ素朴な創造説か、という二者択一を装っていたが、実際には、当時、オーウェンの考えが説得力あるものとみなされ、オーウェンダーウィン敵対者となっていく

適応とデザイン、キュビエ的な伝統を重視

4つの主要分類は明瞭に区別しつつも、その中では、ジョフロワ的な「構成の一致」の原理が有効→オーウェンが「相同」と名付ける

相同は、「理想型」というオーウェン形而上学的信念にもとづく

1848『脊椎動物骨格の原型と相同について』

現生動物の多様性は、潜在的イデアが時間を通じて具現した結果

オーウェンの考えについて

現代から見ると

・因果的機構への関心が比較的欠如している点

観念論形而上学的に依拠していた点

から古臭く、非科学的にも見えるが

当時からすると

化石生物と現生生物を、デザインに満ちた自然という観点から

・意義深い「計画」に従って発展してきた自然という観点から

説明していたことにより、知的に説得力をもつものであった。


第五章 生命の祖先

チャールズ・ダーウィンを中心にした章


職業化

→ジェントル・ナチュラリストから、研究所・博物館・大学の教職員へ(科学者という新たな職業)

国際化

→国家意識の急速な成長と同時に、国際会議や国際プロジェクトの進行


  • ハインリヒ・ブロン

ダーウィンのような進化論には至らなかった「負け組」とされるが、ダーウィン進化論を当時の科学者が受け入れられるようになるには、彼の古生物学的総合が必要だった

1850年 パリ科学アカデミーから賞を受賞(国際化)

学生からそのままアカデミーに職を得て、ハイデルベルクの教授職にとどまりつづけた(職業化)


  • ブロンの「創造力」と二つの法則

種の生成について「創造力」という言葉を使ったが、ここでいう「創造」とは、神による創造ではない。神が直接手を下すのではなく、「二次的」作用因によるもの。そしてこの「二次的」作用因というのは、自然的、物理的なものであると考えられていた。

ここでいう「創造力」とは、具体的にどんなものかは明らかではないものの、重力や化学親和力など同じく、物理的なものが想定されている

化石証拠からの一般化から二つの法則を導く

(1)内因的法則:前進的傾向、肯定的かつ生産的

(2)外因的法則:適応的潜在能力、否定的かつ禁止的

19世紀、古生物学は発生学との類比がよくなされていた

発生学では、機械論的説明から、法則による説明へと関心が移っていた(ウォーレスが「法則」を論ずるのも同じ知的伝統)


  • ブロンとラマルク

ラマルクと同意見のもの

(1)種の実在

(2)漸次的な変化

ラマルクと見解が異なるもの

化石記録の不完全性

化石記録が完全ではないことはブロンも認めるが、見本として役に立つ程度には信頼できるとした

→生命が「進歩」してきたのは確かだと思われる

→一方、ラマルクのような種の転成は認められない。分類をまたぐ共通祖先も見当たらない。そして、相同はオーウェンの考えが説得的な説明をしていると考えられていた。


マルサス人口論品種改良から、種生成の因果的機構について1842年までに概略ができていた

が、ライエル以上に、化石の証拠が不十分だと考えざるを得なかった

科学界に受け入れられるために、自分が有能な研究者であることをわからせる必要があり、フジツボの研究→ダーウィンの仮説の証拠ともなる

ブロンの2つの法則に対して、「前進的」な変化も、(フジツボのような)「退行的」な変化も、適応的な1つの法則で説明する

自然状態では種の変化は緩慢すぎて観察できない(→現在主義適用できない)→品種改良による育種で見えるようにする


ダーウィン議論の受け入れられやすい点

・生物地理学の解釈

解剖学と発生学に関して、オーウェンの原型が「形而上学的」すぎると思っていた読者には、好意的に受け入れられた

ダーウィン理論の課題

人為選択と自然選択類比が妥当か

化石記録が不完全であることを利用していること


ウォーレスの発表により、慌てて要約を出すことに

→そのため、短く、専門家以外にもよく読まれた


自然選択が「創造力」の因果的機構であることを認めた


    • ピクテ

フランスの古生物学

自然選択によって種が変化し、新種が生まれること自体は受け入れた

しかし、類似した種間での小規模な変化では認められても、これをより大規模な変化に適用することは困難だとした。特に、化石的証拠がないのが難点

当時の古生物学者の一般的な反応


化石記録の不完全さをダーウィンが強調しすぎていることに反論

ダーウィンが、時間的尺度を増大させすぎていることにも反発

ダーウィンによる地球史の長さの見積もりは、現在考えられているものから見ても、長すぎであった)


ダーウィンに反対したが、進化そのものに反対したわけではなく、ダーウィンが主張する進化の機構に反対した

オーウェンの主張に神学的要素が全くなかったわけではないが、しかし、進化の原因が自然的なものであることは疑っていなかった


    • ライエル

ダーウィンに自説を公開するよう促したのはライエル

しかし、生命の進化自体を認めることは、ライエル自身の誤りを認めることでもあり、複雑

それでもライエルはダーウィン賛同した

人類の歴史についての本で軽く言及したのみだが、ダーウィン進化論が人間の来歴に関わってくることを見抜いていた

化石証拠が欠如していることを説明するあまり、古生物学が証拠を示すことができる可能性に触れそこねた。始祖鳥に言及しておきながら、それが進化の証拠になることを見抜けなかった


  • 属や科レベルでの検証
    • ゴードリ

フランスの古生物学者で、ギリシアの地層から、哺乳類中間形態について研究

ウマなどについて系統樹を描く(ブロンやダーウィンも「樹」を書いたが仮説的なものにとどまる)

しかし、進化と系統発生については認めていたが、「機構」についてはダーウィンに反対

自然選択が、運と闘争によるもので、自然の均衡と調和を重視する従来の価値観に合致しなかったから


    • ハクスリー

始祖鳥やコンプソグナトゥスの発見が相次いだことで、これらをダーウィン進化論の証拠とする


    • ウマ進化の再検討

ロシアの古生物学者コワレフスキーや、アメリカの古生物学者マーシュの再検討により、より原始的な哺乳類との中間種がわかったり、ウマ科の系列がより明らかになった

西ヨーロッパ以外での研究の発展


  • 自然選択という機構への疑い

門レベルにおいては、いまだ、ダーウィン的な緩慢で漸次的な変化による進化の証拠はなかった

共通起源の証拠がない

さらに、ケルヴィン卿により、熱力学観点から地球の歴史を再計算しなおしたことにより、ダーウィンが考えるような長大な時間の見積もりはできなくなってしまう


ダーウィンは、自身の時間の見積もりを取り下げ、自然選択という機構の考察は、18世紀後半において棚上げされる

しかし、そのことが、進化についての考察を自由にしたという利点もあった、と述べられている

・「適応放散」という再解釈

・「突然変異」という跳躍的な進化(現在いわれる「突然変異」とは異なる意味)

有害な点もあって、系統発生を反復する個体発生という考えは悪影響をもたらしたとしている。

また、スペンサーによる社会進化論など、より広範な影響があったことにも触れられている。

*1:翻訳に用いたのは1985年版のようである

2017-04-10

[][]ウォルトンにおける想像のobjectについて

ケンダル・ウォルトンフィクションとは何か』田村均訳について、

以前、高田さんが

ウォルトンにおける想像の対象 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

という記事を書き、田村氏が、「表象体の対象(an object of a represenation)」と「想像活動のオブジェクト(an object of imagination)」は別の概念であり、ゆえに、後者についてはobjectを対象とは訳さずオブジェクトと訳すとしていることに対して、このような区別はないと批判した。

これに対して、田村氏本人から、やはり区別はあるとして以下の反論が書かれた。

田村均「事物と私たちの想像論的なかかわりについて : ケンダル・ウォルトンの「想像活動のオブジェクト」の概念をめぐって」『名古屋大学哲学論集』13: 1–21 (2017).

さらにこれに対して、松永さんより

ウォルトンの「想像の対象」と「表象の対象」 ? 9bit

という記事が書かれており、ここでは、やはりこの2つの区別はないということを高田さんとは別の点から論じている。


ウォルトンの、「対象」に関する議論は、以前自分が読んでいた時にも、なんかよく分からないなあと思っていたところでもあり、個人的な整理も兼ねて、以下にメモを残しておくことにしたい。

また、以下では敬称略で書くこととする。

ちなみに、いつでも手のひら返しする準備は出来ている


最初の印象

高田、田村、松永による主張をそれぞれ読んだ際に、最初、どれに対しても「確かにウォルトンはそんなこと言ってたよなあ」と納得していたが、むろん、高田・松永と田村とでは解釈が対立しているので、3人ともが全く正しいということはない。

その上で最初自分は、どちらかといえば田村寄りであり、また、松永の主張があまりピンときていなかった。

だが、検討するにつれて、松永の指摘が田村の主張を崩す上でかなりピンポイントで妥当なものだということが分かった。

また、松永によって4月9日に書かれた追記については、全面的に首肯するところである。


個人的な見解

想像のobjectと表象のobjectを区別する理由は、やはりないのではないか。

ただ、確かにウォルトンは、objectという言葉に対して、普通とはちょっと違うニュアンスを付け加えているところはある。

とはいえこれは、松永が追記で指摘した通り、対象が想像活動の中で果たす役割なりなんなり(機能とか特徴とか言ってもいいかもしれない)であって、定義ではないのではないかと思われる(というか、ウォルトンは個々の概念に対して、必要十分条件による定義を避けている傾向があるように思う。そもそも一番基礎になるはずの「想像」について定義でてきないって言ってるし)


ウォルトンにおける想像と表象について

ウォルトンは、フィクションについて説明する時に、まず「想像」とは何かというところから説明を始める。

ちょっと面倒なので詳しい説明は省略するが、切り株を使った想像とか人形やおもちゃのトラックを使った想像とか小説や絵を使った想像とかが出てくる。

切り株や人形やおもちゃのトラックや小説や絵は、想像の小道具と呼ばれる。

小道具のうち、想像を機能としてもっているものを特に「表象」と呼ぶ。

つまり、想像には色々な種類の想像があるのだけど、その中に、表象を使わない想像と表象を使う想像があるということになる。

ウォルトン表象のobjectという時、表象を使う想像のobjectと解するのであれば、概念上、区別するものではなさそうだなという感じがする。


さて、想像のobjectと表象のobjectを区別すべきかどうかについて、論点は以下である。


まず、高田は以下のように述べている。

想像のケースでも表象のケースでも、「対象object」という語はそのごく標準的な意味、つまり「xがyの対象であるのは、yがxについてのものであるちょうどそのときである」という仕方で使用されている。これは別にウォルトンの特殊な語用などではなく、志向性哲学で扱われる際の標準的な仕方だろう

http://at-akada.hatenablog.com/entry/2016/11/04/230902


これに対して、田村は以下のように述べる。

おそらく批判者は、「そのものについての想像活動を命令する」という言葉から、想像活動の向かう先(志向的対象)になるものがあることは自明であり、したがってそれが想像活動のobjectである、というように推論したと思われる。この推論は、想像活動の object の標準的な意味に関しては成り立つが、そのウォルトン的な意味に関しては成り立たない。つまり、表象体の object を捉える想像活動の志向的対象が、ウォルトン的な意味での想像活動の object であるということには必ずしもならない。

田村論文 第19節


田村は、想像のobjectには、標準的な意味のほかにウォルトン的な意味があって、標準的な意味では、想像のobjectと表象のobjectは区別されないという高田の批判は確かに成り立つが、ウォルトン的な意味では、成り立たないとしている。

そこで問題は、想像のobjectにそのようなウォルトン的な意味があるのか、ということになると思われる。


objectについて

ウォルトンのいうobject、特に彼が表象のobjectという時、1つ気をつけておきたいことがある。

これについて松永は

想像/表象の対象の話は、シャーロック・ホームズドラえもんを「虚構的対象」と呼ぶような言葉づかいや考え方とウォルトンの理論とのちがいが顕著に出るケースなんだろうと思う

と述べているところがある。

ウォルトンは、彼自身の存在論的立場から、シャーロック・ホームズドラえもん、あるいはゴッサム・シティのように実在しないものについては、それを対象objectとは呼ばない。

彼が、objectと呼ぶものは、全て実在するものである。

表象の対象objectという時、特にこの表象というのは、小説や絵のことをさしており、さらに、表象によって虚構的真理が成り立っているものと説明されているところから、シャーロック・ホームズなども表象の対象objectになっているように考えてしまいたくなるが、そうではない。

ウォルトン説明の中では、ドン・キホーテは実在していないので対象objectではない、というようなことが述べられている。

実在するものが、フィクションや想像に対してどのような寄与をしているのか、という観点で見ていった方が理解しやすいのかもしれない。


田村の議論について

田村は、20〜22節において、想像のobjectと表象のobjectは相互に独立であることを論証している。

ここでは、「想像のobjectである→表象のobjectである」及び「表象のobjectである→想像のobjectである」それぞれの反例を示すことで、表象のobjectと想像のobjectのあいだに必要十分条件が成立してない、つまりこの2つが同値ではないことを示している。


  • 想像のobjectである→表象のobjectである

これについて田村は、『ワイアット・アープ』はケヴィン・コスナーについての虚構的真理を生成しないので、ケヴィン・コスナーは想像のobjectであるが、表象のobjectではないとしている(21節)。

これに対しては、松永による反論によって崩されるだろう。

つまり、『ワイアット・アープ』はケヴィン・コスナーについての虚構的真理を生成している、である。

実は、松永について自分が最初に違和感を覚えた箇所の1つがここなのだが、考えてみれば、これはもちろん成り立つ。人形遊びにおいて、「この人形は赤ん坊だ」という虚構的真理が成り立つのと同様に、『ワイアット・アープ』において、「ケヴィン・コスナーはワイアット・アープだ」という虚構的真理が成り立つからだ。

ケヴィン・コスナーについての虚構的真理について注意すべき点はあるが、既に松永が指摘している通りなので省略する(ケヴィン・コスナーかつワイアット・アープである人物がいるわけではないなど)。


  • 表象のobjectである→想像のobjectである

田村は、ワイアット・アープは表象のobjectではあるが、想像のobjectではないと述べる(20節)。

しかし、その理由は、ワイアット・アープはウォルトン的な意味では想像のobjectになっていないから、というものである。

しかし、ウォルトン的な意味なるものが、想像のobjectという言葉に含まれているのかという点で、対立が生じているのであるから、ウォルトン的な意味があるから違う、というのはどうも論点先取に見えてしまう。

(ちなみに、標準的な意味ではワイアット・アープが想像のobjectでもあることを認めている(第17節))


objectのウォルトン的な意味

ここで、田村がウォルトン的な意味としているものについて確認しておこう。

ウォルトンの議 論の筋道を追うかぎり、想像に生き生きとした実体性を与えるというウォルト ン的な意味においては、ワイアット・アープは観客の想像活動の object として 想定されるものではなかった。

(田村論文 第20節)

つまり、「xがyの対象であるのは、yがxについてのものであるちょうどそのときである」が、対象の標準的な意味だとすると

「xがyの対象であるのは、xがyに生き生きとした実体性を与えるものであるちょうどそのときである」が、対象のウォルトン的な意味だと言い換えることができるのではないだろうか。

さて、これについては田村も検討している。

ここで持ち出されるのは、ウォルトンがpp.26-27であげている2つの事例である。

すなわち、(1)演劇と映画とアニメーションの事例と、(2)エルサレムについての受難物語の事例である。


(1)演劇と映画とアニメーション

ここで言われているのは、実在する役者が、想像を生き生きとしたものにするということである。

演劇では、観客の目の前に生身の役者がいて、想像に実体性を与えている。

映画では、目の前にあるのはスクリーンに投影される映像だけれど、この映像は想像のobjectではなくて、やはり役者が想像のobjectであり、役者が想像に実体性を与えている。そして、アニメーションには、想像のobjectがないので、映画や演劇の方が生々しい、と。


(2)エルサレムの受難物語

エルサレムについての物語を聞く時に、エルサレムについて知らない人は、自分がよく見知った街になぞらえることによって、想像に実体性を与えていた、と。

ここでは、鑑賞者の見知った街が、想像活動の対象objectになっている。


この2つの事例は、確かに、対象objectが、想像に生き生きとした実体性を与えるという役割を果たしていることを述べている。

それは間違いないが、ではこれが、対象objectの定義たりえているかといえば難しい気がする。

つまり、ここでは「objectであるならば、必ず実体性を与える」かどうかと、「実体性を与えるものであるならば、必ずobjectである」かどうかという、必要十分条件が検討されてはいないからだ。


「実体性を与える」ことによって、想像のobjectと表象のobjectは区別されるか

さらにいえば、ここを論拠として、想像のobjectと表象のobjectを区別するのはさらに難しいように思える。

映画の事例についていえば、ここで「想像のobjetではない」とはっきり述べられているのは映像の方である。では、映像は何なのかと言えば、想像を促すものprompterなのである。

映画の事例では、想像を促すものと想像の対象が違うよ、ということを説明するために挙げられており、想像の対象と表象の対象が違うということを説明する事例にはなっていない。

映画の役者が、想像の対象ではあるが表象の対象ではない、ということが明示されていればよいのだが、そのようなことはないし、映画の役者もまた表象の対象になりうることは松永の指摘通りである。


エルサレムの事例はどうだろうか。

エルサレムが、受難物語という表象のobjectであることは確かだろう。そして、エルサレムが、生き生きとした実体性を想像に与えていないことも確かだ。しかしこれは、表象のobjectは実体性を想像に与えない、ということに過ぎない。

ここで、表象のobjectは実体性を想像に与えていないのだから、想像のobjectではない、とは言えない。既に述べた通り、これは論点先取のおそれがある。

逆に、表象のobjectが実体性を与えていることもある。

これは『キングコング』におけるニューヨークの事例だ。

これを田村は、表象のobjectを想像のobjectとしても利用する事例であるとしている。

表象のobjectは、実体性を与えていることもあれば、与えていないこともあるということだ。


では、想像のobjectでありながら実体性を与えないものはあるか。

あるいは、実体性を与えながら想像のobjectではないものがあるか。

これについては、ウォルトンの挙げてる例から判定できるものはないように思える。

松永の指摘を挙げるなら

田村は「想像活動のオブジェクト」のvivacityを強調するが、それは反射的表象(たとえば演劇)や描写(たとえば映画)のケースではそうなるというだけの話である。

http://9bit.99ing.net/Entry/78/

としており、これが当てはまるのであれば、実体性を与えながらも想像のobjectではないものがあるといえる。

ただ、松永追記にあるとおり、ウォルトンはobjectが「当の想像にsubstanceを与える」と述べている。単にvivacityなのではなく、substanceであることが重要なのだと考えると、「描写」の存在を反例と単純にみなしてよいのかどうかは疑問である。

反射的表象は、対象の一種のはずなので、対象の中でも反射的表象に限るということであれば、想像のobjectでありながら実体性を与えないものがあるということにはなるが、そこまで言えるのかどうかは難しい


区別は実際曖昧だと田村も認めているのではないか

例えば映画『ワイアット・アープ』において ワイアット・アープは観客の想像活動の object ではない と、ウォルトンが明示 的に言うかというと、恐らくそういうことはない (7)

(田村論文 第17節)

(ア)の命令が表象体の object にかかわり、(イ)の命令が想像活動の object にかかわる。ウォルトンはこの二つを区別しているのである。その区別の提示 は期待されるほど明瞭ではないが、二つを混同してはいない。

(田村論文 第23節)

この2つの区別を、ウォルトンは明示的に記していない。これは、上の2つの記述からして田村も認めるところだろう。

しかし、映画の事例とエルサレムの事例から分かる通り、ウォルトンは、対象について、生き生きとした実体性を与えるという働きがあることを論じている。

ウォルトンがこのことをわざわざ論じているのは何故か、と考えた際に、これが対象objectの定義なのではないか、あるいは、このことを汲んだ形で訳すことによって、ウォルトンが対象objectという言葉にこめたニュアンスをはっきり示すことができるのではないか。

そのように考えた場合、対象objectをあえて「対象」と訳さずに「オブジェクト」と訳し分ける理由は見えてくる。

また、対象objectの定義の中に、「生き生きとした実体性を与える」を組み入れた場合、しかし、「生き生きとした実体性を与え」てはいないように思われる対象objectがあることも分かる。その違いとして、表象のobjectと想像のobjectが区別されたのではないか。

しかし、「生き生きとした実体性を与える」ことが、対象objectの特徴や効果であるということは言えても、定義とまでは言えないと考えるのであれば、この区別はもちろん成り立たない。単に、そういう効果を発揮しない対象objectもあるというだけの話になる。


実体性substanceとは何か

ウォルトン議論として分かりにくいのは、これが一体何なのか必ずしも判然としないからなのではないか

先ほどの「描写」の議論とも重なってくるが、例えば、VRによって与えられた触覚は、触覚についてのvividさ(生き生きとした感じ)を与えるだろう。これは、触覚の「描写」だと言えるが、さらに想像に「実体」っぽさを与えているようにも思える。

しかし、触覚を与えるVR装置は、映画における映像と同じく、想像のobjectとはなっていないだろう。

とすればこれは、実体性を与えるが、想像のobjectではないもの、と言えるかもしれない。

が、そもそもウォルトンが言っている実体性はそういう意味ではなく、VRによって与えられる触覚も、映画における映像、あるいはアニメーション映像と同じようなものだとも言えるかもしれない。ただ、そうだとすると、じゃあその実体性とは一体何なのか、ということが気になってくる。


想像のobjectでありながら、実体性を与えないものはあるのだろうか。

これは結構難題で、想像のobjectであれば実体性を与える、と言ってしまってもいいような気はしているのだが。

あえていうならば、鑑賞者自身かもしれない。

極度に没入感の高い映像やVRを鑑賞している時、もちろん「自分がそれを見ている」という虚構的真理は生成されるので、鑑賞者自身は想像の対象となっている。というか、鑑賞者自身が想像の対象となる、というのはウォルトンの理論にとってかなり重要なポイントだ。

ただそこではおそらく、生身の自分のままでは決して見たり体験したりすることのできないものを鑑賞していることになるはずで、自分の存在は、想像に対して「生き生きとした」「実体性」に寄与しないのではないか、という気がする。

もっともこれについて、田村は

こうして想像活動の object は、その実体性によって、私たちの想像に一定の制限を与えるものともなっている。例えば、スーパーマンごっこでスーパーマン役を割り振られた子どもが、スーパーマンなら飛んでみろ、と周囲の子どもに強要されたとき、想像活動の object としての自己は、その実体性(身体)の制約を通じて、その子の虚構世界での振る舞いを制限するだろう。

(田村論文 第39節)

「実体性」は、「生き生きとした」とはむしろ逆の、「制限」という形でも働く、ということを述べている。

ただ個人的には、先に挙げた映像体験において鑑賞者自身は、「生き生きとした」方向だけでなく、「制限」という方向でも、あまり寄与しなさそうだなという感じがする。

もっともここらへん、何ともいえないところで、映像鑑賞やVR体験において鑑賞者の身体はほとんど何も寄与しないとしても、少なくとも鑑賞者自身が「視線を向ける」ことは、想像に「実体性」を与えそうだとも言える。加速度センサーを用いたHMDによるVRなどは、特にその傾向がありそうだ。


ごっこ遊びと実体性

ウォルトンが、フィクションごっこ遊びとして説明することの肝は何か

というと、フィクションというのがまるっきり現実とは切り離されてあるのではなくて、何らかの意味で現実とも繋がっているということにあるのだろう。

それは例えば、小道具が虚構的真理を生成している、という考えに現れている。

切り株をクマだと考えるごっこ遊びをしている間は、現実に切り株が2つあれば、クマも2頭いることになるし、もし切り株がなければ、クマもいないということになる。現実にどのようになっているのかという状況が、虚構の内容にも影響を及ぼしている。

あるいは、鑑賞者自身も対象となるという考えもそうだ。

「鑑賞者自身がワイアット・アープが銃を撃っているところを見ている」ことが虚構的真理になる、と述べることで、鑑賞者(という現実世界の住人)と虚構世界とが結びつくことが可能になる。

ここで興味深いものが、反射的表象reflexive representationと呼ばれるもので、表象自体が表象されているもののことを指す。

例えば、『ガリバー旅行記』は、読者の読んでいる本それ自体が、ガリバーが書いた本であるという体になっている。

鑑賞者自身が対象となっているケースや、反射的表象のケースは、まさにそれが対象であり、想像に実体性を与えていることが、鑑賞体験における面白さのもとになっているのだろう。



役者と登場人物

ところで、この話のもう一つ分かりにくいところは、映画や舞台の例において、役者と登場人物の両方が、対象となっているところだろう。

例えば田村が出している例として『ワイアット・アープ』がある。

田村は、『ワイアット・アープ』における想像の対象はケヴィン・コスナーで、表象の対象はワイアット・アープであると述べる。

これ素直に読めば、俳優は想像の対象であり、キャラクターは表象の対象になっている、という区別のように思われるが、ちょっとそうではない。

例えば、『シャーロック』において、ベネディクト・カンバーバッチは対象であるが、シャーロック・ホームズは、実在しないので、対象ではない(既に述べた通り、ウォルトンが採用する存在論において、実在しないものは表象の対象とならない)。


ただ、この役者と登場人物って違うよね、という常識的な直観が、ではこれをどのように区別するかということで、想像の対象と表象の対象という区別に仕立てあげられているような気もする。


『ワイアット・アープ』におけるワイアット・アープは、『ワイアット・アープ』という表象の対象である。これは問題ない。

次に、ワイアット・アープは、『ワイアット・アープ』を鑑賞している人の想像の対象であるか。

これについては、既に述べている通り、標準的な意味であれば、想像の対象であることは田村も認めているところである。

田村は、ウォルトン的な意味において、つまり「生き生きとした実体性を与える」という点で、ワイアット・アープは想像の対象にならないとしている。

ところで、『キング・コング』におけるニューヨークのように、表象の対象が想像の対象のように「実体性を与える」ことがあることも、田村は認めている。

ではなぜ、ニューヨークはokでワイアット・アープだとダメなのか。

あるいは、『戦争と平和』におけるナポレオンであればどうなのか。

田村の議論を追う限り、おそらく見知っているかどうかを一つのポイントとしているように思われる。ニューヨークは見知っている街なので、想像に実体性を与えるが、ワイアット・アープは見知っていないのので、実体性を与えない。一方、ケヴィン・コスナーという俳優は、少なくともその映像を通してではあるが、直接見えているので、想像に実体性を与えている、と。


しかし、そもそもニューヨークが『キング・コング』に実体性を与えていて、それがニューヨークが見知った街だからだとして、その時の見知っているは、かなり広い意味で解釈してよさそうである。

つまり、渡米したことのない日本人にとっても、ニューヨークであることは、『キング・コング』の想像に対して実体性を与えているように思われる。

戦争と平和』におけるナポレオンの事例(あるいはこれは普通の日本人にはなじみにくい例だと思うので、例えば司馬遼太郎の小説における新撰組坂本龍馬に置き換えてもよいと思うのだが)も、鑑賞者は決して、歴史上の人物を直接見知っているわけではないけれど、そうした人物が対象となっていることで、想像に実体性を与えているように思われる。

ワイアット・アープが実体性を与えていないように思えるのは、歴史上の人物としてはマイナーだから、というくらいしか理由が思いつかない。

だとすれば、理論上は、ワイアット・アープが、ウォルトン的な意味でも想像のobjectになることもありうるように思える。


『ワイアット・アープ』におけるケヴィン・コスナーは、『ワイアット・アープ』を鑑賞している人の想像の対象である。これは問題ない。

次に、ケヴィン・コスナーは、『ワイアット・アープ』という表象の対象であるか。

繰り返しになるけれども、『ワイアット・アープ』は、ケヴィン・コスナーについての虚構的真理を生成しているという松永の指摘により、これは表象の対象であると考えたいのだが、

今、、twitter上で、松永・高田両名による、反射的表象の検討の中で、俳優は表象の対象になっていないこともあるのではないか、という指摘が出てきている。

ちょっとこの議論は、自分にはよくつかめないでいる。


ここは、演劇で使われる舞台装置や大道具・小道具は、想像の対象にはなっているが、表象の対象にはなっていないのではないか、と問えるのかもしれない。


想像の対象と表象の対象の外延は一致しているのか問題

どの立場をとるかによって、外延が変わってしまうので、外延から攻めていくのは難しい気がしたのだが

俳優や舞台装置・大道具と、登場人物(ワイアット・アープやナポレオン)・作品の舞台(ニューヨークなど)とは、何か違うグループに属しているような感じはする。

ただ、その違いを表現する適切な方法として、想像の対象と表象の対象を使ってよいのかどうか、というのは自分にはよくわからない。

両者とも、想像の対象であり、なおかつ表象の対象である(つまりこの2つの概念に区別はない)としても、実体性を与えるやり方が、ワイアット・アープとケヴィン・コスナーとでは異なる、という可能性は十分ある。


仮のまとめ

表象の対象が、想像の対象ではないということを断定できるものはないのではないか、ということで、表象の対象と想像の対象とが完全に独立した概念である、という考えは否定できる気がする。

だが、想像の対象と「実体性を与える」ということとのあいだにはわりと強いつながりがあって、高田や松永が反論するほど、切り離せないような気もしてきている。

「実体性を与える」というのが、あくまでも想像の対象の効果や特徴であって、定義ではないとしても、実体性を与えるのに想像の対象ではないものや、想像の対象ではあるのに実体性を与えないもののよい例がうまく思いつかないからである。

2017-04-05

[]ガレス・L・パウエル『ガンメタル・ゴースト

21世紀半ば、飛行船が飛び交い、没入型ゲームが人気を博し、中国と英仏との間で緊張が高まる未来世界を舞台にした、痛快冒険SF

国家的な陰謀に巻き込まれ、自分の人生がひっくり返されてしまった、元記者の女性、隻眼の猿、英皇太子の3人が、自分たちの人生を取り戻すべく陰謀を暴いていく冒険譚

テンポよいストーリー、適度に外連味があり適度に現代的なガジェット、魅力的なキャラクター配置で、楽しいエンターテイメントになっている。

猿がかっこいいです、猿が


1950年代に、フランスイギリスの一部になる形で、英仏連合国家が出来たという歴史改変世界で、連合100周年記念式典を目前に控えたロンドンとパリが舞台。

本作では、ブログ風のニュース記事が何度か差し挟まれて、物語と直接関係ないところも含めてこの世界の雰囲気が伝わってくるようにできている(物語の中で起きた出来事が、その記事のヘッドラインにちらっと出てきたりして、この出来事はそういうふうに報道されたのかというのも分かるようになっている)。

1ページ目から、イギリス国王がテロに遭い、からくも一命を取り留めたというニュースで始まっている。また、香港返還をめぐって英中関係の雲行きが怪しくなっていることや、火星へのライトセール宇宙船計画されていることや、セレスタ社という企業の存在もうかがえる。


この作品の世界設定としては、さらに以下のようなものがある。

スカイライナーと呼ばれる大型原子力飛行船。船内は、国家からの自治を獲得している。

多くの人は、ソウルキャッチャーというデバイスを脳に埋め込んでいる。これは、記憶・人格のバックアップシステムで、死後にこれから記憶を再生することができる。といっても、これはSFでよくある、人格のソフトウェアアップロードを可能にする技術には至っていなくて、限定的なものであるようだ。

また、没入型MMOゲームが人気を博しており、その中でも、セレステ社による「高射砲(アクアク)マカーク」が大ヒットとなっている。「アクアク・マカーク」は、メインキャラクターである猿の名前で、第二次世界大戦をモデルにした世界のエースパイロットである。ゲームプレイヤーは、マカークと共にミッションに挑む。


元記者のヴィクトリアは、別居していた夫が殺されたという報せを受けてロンドンを訪れる。

セレスタ社で記憶についての研究をしていた夫は、殺されただけでなくソウルキャッチャーを奪われていた。

ヴィクトリアは、本作の主人公であるが、かつてヘリコプター事故に遭い九死に一生を得て、脳の半分以上がジェルウェアという機械に置き換わっている。後遺症で、文字が読めなくなってしまったために記者を辞め、リハビリで棒術を修得している。

彼女自身、夫を殺した「笑い男」に襲撃され、記者時代に身につけた怪しいところを探し出す直観と棒術を頼りに、真相を暴くべく行動する。

夫のソウルキャッチャーは殺人犯に奪われてしまったわけだが、彼は自分のバックアップゲーム機に隠しており、ジェルウェアによって記憶力向上しているヴィクトリアはこれを回収し、自分の脳内で走らせる。

本作では、ヴィクトリアにしか見ることができない彼女の夫が登場し、ヴィクトリアは時々彼と会話する。周囲からは、突然虚空と会話しはじめる怪しい人にしか見えないのだが。

別居していたことからも分かるとおり、うまくいかなくなっていた仲なのだが、また元に戻ることができるのではないかという期待も抱いていた関係でもあって、また、夫はそもそも記憶のバックアップでしかないので、ヴィクトリアがスイッチを切ってしまえば消えてしまう。そういう関係が面白い。夫のポールは、殺人犯を見ているだけでなく、セレスタ社という陰謀の中心に位置する会社で働いていた研究者で、重要情報を知っているのだが、微妙に役に立っていないw

ヴィクトリアは、彼女の名付け親である提督が艦長をつとめるスカイライナー「テレシコーヴァ号」に乗船する。


もう1人の主人公である、イギリス皇太子メロヴィクは、パリ第一大学に留学中である。

若くしてフォークランド諸島従軍した経験もあり、また、父である英国王テロで重傷を負ったこともあり、同年齢の青年と比べて、はるかな重責を負っているのだが、母への反発もあいまって、王室から離れて自由になれないかと思っている。

パリで知り合ったガールフレンドであるジュリーからの誘いを受けて夜に抜け出したところ、AI人権運動へと連れ込まれる。いわく、人気ゲームのAIキャラクター「アクアク・マカーク」は、自律したAIとなっている。ひいては、これを助け出さなければならないので、一緒にきてほしい、と。

向かう先は、イギリス王妃にしてブルターニュの女公爵であるメロヴィクの母が経営するセレスタ社の研究所。

メロヴィクの権限も使いつつ入り込んだ研究所で目にしたのは、巨大なコンピュータ、ではなく、コンピュータに繋がれた本物の猿だった。

と同時に、メロヴィクは自分の正体にまつわる隠された真実を知ることになる。

ここに天才ハッカー少女のK8も加わり、セレスタ社への反撃が始まる。


とにかく、マカークがかっこいいんですよ

眼帯をした隻眼のエースパイロットで、二丁のリボルバーもお手の物でハードボイルドな猿

実物も人語を喋るし酒も飲む

ナチスドイツニンジャ部隊と戦ったり

猿同士のドッグファイトとか

ウィングスーツで飛行船から飛び降りたり


ストーリーはわかりやすく、映像で見てみたい感じもある。

本人たちは永遠のユートピアを作るつもりで世界を支配しようとするカルトな権力に、自らのアイデンティティを奪われてしまった者たちが挑み、その陰謀を暴き、倒す


ところで、ニュース記事の中で、系外惑星に生命の徴候発見か、みたいなのが一行混ざってたりするのだけど、これは物語中では拾われていない

ただ、あとがきによると、三部作になっていて、三作目で作者の別シリーズである宇宙SFとも関わることになるらしいので、このあたりのネタが出てくるのかも。

ちなみに、本作の中で、火星キーワードとなっている。