『物語の外の虚構へ』リリース!

(追記2023年6月)
sakstyle.hatenadiary.jp

一番手に取りやすい形式ではあるかと思います。
ただ、エゴサをしていて、レイアウトの崩れなどがあるというツイートを見かけています。
これ、発行者がちゃんとメンテナンスしろやって話ではあるのですが、自分の端末では確認できていないのと、現在これを修正するための作業環境を失ってしまったという理由で、未対応です。
ですので、本来、kindle版があってアクセスしやすい、っていう状況を作りたかったのですが、閲覧環境によっては読みにくくなっているかもしれないです。申し訳ないです。

  • pdf版について(BOOTH)

ペーパーバック版と同じレイアウトのpdfです。
固定レイアウトなので電子書籍のメリットのいくつかが失われますが、kindle版のようなレイアウト崩れのリスクはないです。
また、価格はkindle版と同じです。

(追記ここまで)

(追記2022年5月6日)


分析美学、とりわけ描写の哲学について研究されている村山さんに紹介していただきました。
個人出版である本を、このように書評で取り上げていただけてありがたい限りです。
また、選書の基準は人それぞれだと思いますが、1年に1回、1人3冊紹介するという企画で、そのうちの1冊に選んでいただけたこと、大変光栄です。
論集という性格上、とりとめもないところもある本書ですが、『フィルカル』読者から興味を持ってもらえるような形で、簡にして要を得るような紹介文を書いていただけました。


実を言えば(?)国立国会図書館とゲンロン同人誌ライブラリーにも入っていますが、この二つは自分自身で寄贈したもの
こちらの富山大学図書館の方は、どうして所蔵していただけたのか経緯を全く知らず、エゴサしてたらたまたま見つけました。
誰かがリクエストしてくれてそれが通ったのかな、と思うと、これもまた大変ありがたい話です。
富山大学、自分とは縁もゆかりもないので、そういうところにリクエストしてくれるような人がいたこと、また、図書館に入ったことで、そこで新たな読者をえられるかもしれないこと、とても嬉しいです
(縁もゆかりもないと書きましたが、自分が認識していないだけで、自分の知り合いが入れてくれていたとかでも、また嬉しいことです)


(追記ここまで)


シノハラユウキ初の評論集『物語の外の虚構へ』をリリースします!
文学フリマコミケなどのイベント出店は行いませんが、AmazonとBOOTHにて販売します。

画像:難波さん作成

この素晴らしい装丁は、難波優輝さんにしていただきました。
この宣伝用の画像も難波さん作です。

sakstyle.booth.pm

Amazonでは、kindle版とペーパーバック版をお買い上げいただけます。
AmazonKindle Direct Publishingサービスで、日本でも2021年10月からペーパーバック版を発行が可能になったのを利用しました。
BOOTHでは、pdf版のダウンロード販売をしています。

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キム・チョヨプ『この世界からは出ていくけれど』

韓国のSF作家キム・チョヨプによる短編集
キム作品の邦訳としては『わたしたちが光の速さで進めないなら』『地球の果ての温室で』に続く3冊目となる。1、2冊目も存在は知っていたのだが、書評等読んでもあまりピンと来ていなかった。3冊目は書評等を読んで、知覚や認知に関わるSFだということを知って、非常に気になって読んでみることにした。
読んでみたらこれは大当たりで、非常に面白かった。
知覚・認知ネタもあるが、収録作品の中では、宇宙というか異なる惑星を舞台にした作品も多かった。
収録作「ローラ」の中に「愛することと理解することは違う」という印象的なフレーズが出てくるが、愛する者を理解することができないことを巡る作品が多くでてくる。
あるいは、自分らしく生きようとすることに伴う孤独、とでもいうような事態が繰り返し描かれる。
自分の知覚・自分の文化・自分の性質そうしたものに従って生きようとした時に、しかし、それが愛する者、ごく近しい者から理解されない。あるいは、愛する者がそのように生きようとしているが、自分にはそれが全く理解できない。
SF的ギミックにそれほどウェイトを置かず、登場人物たちのエモーショナルな部分が描かれている。しかし一方で、SFネタとしても結構面白いネタが使われている気がするし、SF的なワンダーさも味わえる作品になっていると思う。
「ローラ」「マリのダンス」「古の協約」あたりが特に面白かった。

最後のライオニ

主人公は、様々な惑星を探索しては資源や情報を持ち帰ってくる種族の1人なのだが、恐怖心をあまり持ち合わせない彼らとしては珍しく、怖がりであり、いわば落ちこぼれであった。
そんな彼女に、彼女を名指しで、廃墟となったとある惑星の探索についての依頼がくる。
彼女の種族は、冒険家ではあるけれど、見返りのない土地には赴かない実際家でもあって、その惑星は見向きもされていなかった。
しかして彼女は、その惑星にわずかに残っていた機械たちに捕まり、セルというロボットから「ライオニ」という人間と勘違いされる。
なぜセルは、彼女のことを「ライオニ」だと思っているのか。そもそも、この惑星の人間は、ライオニは何故いなくなったのか。
マスターに忠実なロボットものであり、そういうのが好きな人には刺さるだろう。
主人公は、当然自分はライオニではないと言い続けるのだが、後半になって、下位の機械たちからこの惑星で起きたこと、セルとライオニの間で起きたことを全て聞かされ、かつ、セルの寿命ももう長くないことを知らされた後、ライオニのふりをしてセルに接する。
一方のセルも、どこか彼女がライオニではないことを察しつつ、ライオニだと信じて接する。
主人公は、彼女の属する種族の中では落ちこぼれなのだが、それについても意味づけがなされて終わる。

マリのダンス

主人公はフリーのダンス講師。マリという少女に一時的にダンスを教えていたことを回想する形で語られる。
ある種の薬害で、5%程、視知覚障害が生まれるようになっている。マリはその患者(モーグと呼ばれている)の1人。
主人公は、目が見えない*1マリに、視覚の美であるダンスが理解できるのか、そもそもなぜダンスを教わることができるのかと訝しがるが、好奇心から結局引き受けることになる。
果たしてマリは、主人公が思うよりは踊れる、というか動けるわけだが、教えるほどに、差異もはっきりとしてくる。
マリは、ダンスのような動きはするけれど、しかし決してダンスではなかった。少なくとも、主人公が理解するダンスはしていなかった。マリは、目が見えないので、モーションキャプチャー的な装置を介して、体の動きを知るのだが、それゆえに、細かな部分の動きはあまり理解できない。というか、そこに意味があるということ自体が理解できないのである。
しかし、マリはなんとダンスを発表する機会を得てくる。しかも、グループで。
モーグたちは、独特のデバイスでネットワークを作り上げていた。それは別にモーグ用に開発された技術ではない、一種のVRのようなものなのだが、モーグでない者の多くには情報が過剰すぎてあまり受け入れられていなかった。
しかし、モーグたちは、そこを非常に豊かな情報量の世界として生活していた。
主人公からダンスを教わっていたのはマリ一人だが、そのネットワークを通じて、ほかのボーグたちにも教わった内容が伝えられていた。
主人公も、そのネットワークを体験させてもらうが、彼らが体験している一部しか体験できない。それは声の世界であった。
主人公は、モーグを視覚が「欠損」した者だと思っている。しかし、マリは、むしろモーグたちは新しい感覚を得ている者なのだという。
ただ、マリたちは、単にダンスの発表をしようとしているわけではなかった。
後天的にローグ化してしまう薬物を散布することを計画していたのだ。
マリは、ダンスをそのための手段としてしか考えていなかったのか。それとも、彼女なりにダンスに何かを見出していたのか。

ローラ

この作品なんか読んだことあるなと思ったのだが、【キム・チョヨプ来日決定! 記念企画第2弾】新刊『この世界からは出ていくけれど』より傑作短篇「ローラ」をWeb全文公開!【2カ月限定】|Hayakawa Books & Magazines(β)で無料公開されていたので、その際読んだのだった。それを読んだ時も面白いなと思ったが、再読してやはり面白かった。
本短編集のタイトルは、収録作のいずれかのタイトルでもない(「この世界からは出ていくけれど」という作品はない。なお、日本語版オリジナルタイトルらしい)が、もし仮にいずれかの作品を短編集全体のタイトルにするならば、言い換えれば、この短編集を代表する作品はどれかと聞かれれば、自分なら「ローラ」を選ぶと思う。
主人公はかつて『誤った地図』というノンフィクションを発表して、それがそれなりに話題になったことがあるライター。
「誤った地図」というのは、人間の脳内にある固有感覚に基づく自分自身の身体の地図が、実際に持っている身体とズレてしまっている、ということをさす。具体的には、身体が欠損しているという感覚に悩まされている人たちを取材している。実際には五体満足であるのに、例えば脚がないという感覚をもっていて、脚を切り落としてほしいと訴えている。あるいは、それとは逆に、トランスヒューマニストたちのことも取材している。彼らは、実際の身体にはない機能を付け加えようとしている。
主人公は一体なぜそんな本を書いたのか。
それは実は、元恋人のローラのことを理解するためだった。
彼女は子供のころから、自分に3番目の腕がある、という感覚に悩まされていた。そして彼女はついに、義腕を3番目の腕としてとりつける手術を決行する。
主人公は、彼女がそのような感覚を持っていて、さらに手術まで考えているということをかなりギリギリになるまで聞かされていなかった。そのためひどく混乱してしまう。
『誤った地図』では、自分の身体に違和を覚えるという意味でローラと似ている人たちを取材しているが、彼らは自分の腕なり脚なりを切り落としたいと考えている点でローラと異なる。トランスヒューマニストは、それまで自分の身体になかったものを付け加えるという意味でローラと似ているが、彼らは別に身体感覚に違和を持っているわけではない。
結局主人公は、本一冊を書いてもローラを理解することはできなかった。
さらに悪いことに、ローラの第三の腕手術は失敗する。腕の取付自体はできたのだが、接合がうまくいかず、自分の思うようには動かせず、さらに化膿を起こしてしまう。しかし、ローラはその腕を外そうとはしなかった。
実はその後も、主人公とローラは、別れたりくっついたりを繰り返す、という微妙な関係を続けている。
ローラの3本目の腕をめぐる2人の距離は埋まらないままだが、しかし、2人は共に生きようとしている。

ブレスシャドー

これも舞台は地球とは異なる惑星
もともと人類が入植した惑星だが、この星ではコミュニケーションが大気中の分子を通じて行われ、逆に、音は用いられない。
大気中の分子、とは要するに匂いのことだが、彼らは分子を明確に意味としてデコードするので、「匂い」のようなものとしては知覚していない。聴覚的コミュニケーションと異なり、その場に居合わせなくてもコミュニケーションができるという特徴がある。
また、この惑星は外気が汚染されていて、人々は地下施設で生活している(あまり大気が拡散していかない環境)
主人公のダンヒは、まだ子どもだが、分子が意味を持つことに強い関心をもち、(飛び級的に)研究員として働き始めた。
その研究所には「怪物」が隠されているという噂があったのだが、実はその正体は、極地で発見されたかつての人類の子どもだった。移民宇宙船の中で冷凍睡眠されていた中の唯一の生き残りであった。
彼女(ジョアン)はもちろん、匂いでのコミュニケーションはできないが、翻訳機を用いながら、同世代のダンヒと少しずつ心を通わせていく。
しかし、元々人間関係の狭いコミュニティの中、ダンヒ以外はジョアンのことを真に受け入れることはなかった。
ダンヒとジョアンの友情と、しかし、それでも埋められないジョアンの孤独

古の協約

主人公は、惑星ベラータの司祭の一人である女性
この星に、地球からの探査船が訪れる。地球との関係が途絶えて久しいベラータは、地球人一行を歓迎する。彼らは他の惑星の探査計画もあり、しばしの滞在ののち、ベラータを去る。
この物語は、主人公が、去っていた地球人科学者の一人へ書いた手紙、という形をとっている。
出会った直後から2人は意気投合し急速に親しくなっていくのだが、彼と地球人たちは、ベラータに隠された秘密に気づいてしまう。
それは、ベラータ人が惑星の大気に含まれる毒性の成分のため、30歳を前に亡くなる短命であるということ。しかし、彼らが宗教的な禁忌としている植物が解毒剤になっていることだった。
地球人たちは、そのことをベラータの人々に伝えるが、宗教的な怒りを向けられて、ほうほうの体で去っていくしかできなかった。
主人公は、しかし、この宗教的な禁忌の裏に隠されたさらなる秘密を、直接は打ち明けることができず、去っていった後に手紙として伝えることにしたのである。
これは、ベラータの司祭にしか伝えられていないことなのだが、今は人類以外、ほとんど生命がいないように見える(少なくとも動物はいない)惑星ベラータだが、実はもともとはそんなことはなかった。しかし、入植直後の人類が次々と死んでいくのを見たベラータの生物が、大気中の有毒成分の量を減らすために、長きの眠りについてくれたのだった。これがベラータに入植した人類と、ベラータの原住生物の間に取り交わされた「古の協約」だった。
毒性が薄まり、生きられるようになったとはいえ、それでも短命にならざるをえなかった。しかし、人類のために、自らの時間を譲ってくれた原住生物に人々は敬意を抱き、この主教的禁忌を生み出したのだった。そしてまた、世代を経るごとに少しずつこの毒性への耐性が生じていることに、一縷の希望を託すのだった。
ベラータ人女性の主人公と、地球人科学者の男との間に、文化の違いから壁が生じている話で、主人公は、彼が自分たちのことを本当に思って提案してくれていることを知った上でなお、その提案を拒まざるをえない

認知空間

これもまた地球とは異なる惑星の話
認知空間と呼ばれる幾何学的な構造物があって、それが社会の集合的記憶や科学的知識の蓄積を担っている社会。
認知空間という名前からヴァーチャルなものかと思ったけど、物理的な実態のある空間で、この社会の人々は、ある一定の年齢以上になるとその空間の中に入って、そこを登っていっていろいろな知識を得るようになる。一方、個人的な記憶・知識を極端に軽視している。
主人公のジェナの幼馴染であるイヴは、幼少期から低成長で、肉体的に認知空間に入ることがかなわなかった。しかし、イヴは、認知空間には限界があって、それだけが知識の総体ではないのだと考えるようになっていた。
ジェナは、イヴの親友であったが、認知空間に入れるようになってからは次第に疎遠になっていく。ジェナは、イヴがそのように考えるのは、認知空間に入れない無知ゆえのものだと思っていた。
イヴは若くして死んでしまうのだが、その遺品のノートを読んでいくなかで、ジェナはイヴの考えが正しかったことを知る。
この作品は「ローラ」にも似ていて、一方的に欠損がある、劣っていると思っていた者が、実はその欠損・劣位ゆえにまったく異なる認知の仕方をしていて、そこに優劣はなかった、あるいは、もしかするとより優れた認識を持っていたのかもしれない、という話になっている。

キャビン方程式

これは地球が舞台
天才的な物理学者の姉を持つ妹が主人公
ある時姉が、とある障害をもつ。それは、彼女の脳内の時間が非常に遅くなってしまうという障害。当初、生きているのに何の反応もせず、閉じ込め症候群か何かのように見えたのだが、実はものすごく反応速度が遅くなっていることがわかる。
妹は必死に看病して様々な治療法を試すのだが、ある日、姉は失踪してしまう。
数年後、失踪した姉からの手紙には、地元にある観覧車の幽霊の噂話について書かれていた。
幼いころから筋金入りの唯物論者であった姉が、なにゆえに、そんなローカルな幽霊話に興味を持ったのか。
それが実は姉の研究していた時空バブルへとつながっていく。
テーマ的には、本短編集のほかの作品群と通じあう話ではあるのだけど、個人的には(特に最後が)あんまりピンとこなかった作品だった。

*1:正確には、目や視神経に問題はなく、それを認識する脳領域に障害がある(なので、単に視覚障害ではなく視知覚障害という書き方なのだろうと思う)わけだが、簡便のため、ここでは単に「目が見えない」と書く

フリオ・コルタサル『八面体』

1974年刊行の短編集『八面体』に加えて、『最終ラウンド』(1969年)から3編と短編小説について論じたエッセーを加えた短編集。
コルタサルについては、これまで以下の2つの短編集を読んだ。『動物寓話集』は彼の初期短編集で、『悪魔の涎・追い求める男他八篇』は、『動物寓話譚』『遊戯の終わり』『秘密の武器』『すべての火は火』から10編を採録した日本オリジナル短編集で、1950年代から1960年代の作品が入っている。
『八面体』は上述の通り1974年のもの。コルタサルは70年代半ばから政治運動へ傾倒して創作活動が少なくなっていき、1984年に亡くなっている。このため『八面体』は、これ以降にも短編集は出ているものの、作家にとって後期の作品集となるらしい。
以前2作の短編集のどちらかの解説に、これらに加えて『八面体』も読んでおけば、大体おさえたことになる的なことが書かれていた記憶があったので、読んだ。
フリオ・コルタサル『奪われた家/天国の扉 動物寓話集』(寺尾隆吉・訳) - logical cypher scape2
フリオ・コルタサル『悪魔の涎・追い求める男他八篇』(木村榮一・訳) - logical cypher scape2


文体として、普通なら句点で区切れるようなところも読点でつないで、文が長くなっているみたいなのが見られた気がする。
登場人物や舞台について説明的な文章がなく、何が起きているのか、登場人物たちの関係がなんなのか、読み始めは掴みにくい。そのため、上の特徴とあわせて、多少読みにくい文章かなとも思うのだが、少し読んでいると意外とするすると入っていける。
面白かったのは「リリアナが泣く」「セベロの諸段階」「シルビア」かな。後ろの2つは、ちょっと不思議な出来事が起きる、という点で、小説としての面白さが分かりやすい。
「手掛かりを辿ると」も面白いか。

八面体

リリアナが泣く

病気で余命わずかな男が語り手で、リリアナは妻の名前
病室で無聊を慰めるために書いている手記という体裁で、友人でもある主治医への感謝や見舞いに来る友人・家族の様子などを綴りながら、次第に、自分の死後、葬式での友人たちやリリアナの様子などへと話題が移っていく。
これが、主人公の想像なのか、実際に起きることの描写なのかが、読んでいて次第に曖昧になっていく。
非常に献身的な友人が1人いて、彼が様々な手配や遺された家族の心理的ケアなどやってくれていて、主人公も、彼にしか任せられない、彼はきっとこうしてくれるだろうなど、全面的に信頼していることをうかがわせるが、最終的に、彼とリリアナが結ばれることになる。
まあ、夫が死んだ後に、未亡人が夫の友人と親しくなっていくという展開自体は、ありがちな話だとは思うが、それを夫自身の手記という体裁で、かつ、そう至る経緯がわりと詳細に描かれるので、これはNTR妄想なのでは、みたいになっているのが面白いといえば面白い。
さらに、最後の最後に、主人公は奇跡的に回復するのだが、もう少しだけリリアナが独りぼっちでなくなる夢を見させてくれ、と言って終わる。

手掛かりを辿ると

主人公の文学研究者フラガが、詩人ロメロの半生を研究する話。
この詩人というのは、非常に評価が高いのだが、その人生の大半が謎に包まれているため、これについて調べてみようと思い立つ。
で、調べているうちに、関係者のふとした発言から、ある女性の存在にいきあたる。婚約したのだが結局別れた女性がいて、2人の間には娘がいた。その娘に話を聞き、残されていた詩人からの手紙を入手する。
こうして、この詩人が、自らの病気により相手が未亡人になってしまうことを不憫に思い、相手の可能性を閉ざさないように結婚をとりやめていた、ということが分かり、それをもとにsた伝記を出版し、主人公は一躍時の人となる。
がしかし、主人公はある時に気付いてしまう。それは、自分が都合良く解釈した物語に過ぎないことを。そしてそのことを、授賞式のスピーチで暴露する。
娘から渡された手紙は、そのように解釈できるように都合良く選別された手紙であって、実際のところ、詩人は相手を思いやって別れたわけではなく、手ひどい扱いをしていたのである。
主人公は、自分と詩人とを、栄誉に浴するためにごまかしをおこなった点で、同じ穴の狢だったのだと

ポケットに残された手記

地下鉄の中で出会った女性を追いかけるゲームをしている主人公
と書くと何やらいかがわしいが、というか実際いかがわしいが、駅から事前にどのルートを通るか考えておいて、どこまでその女性の通る道と一致するか、みたいなことをしている。
そんなことを不特定多数を相手にしていたら、ある時、一人の女性と実際に親しくなる

隣人の娘を一晩預かることになった夫婦マリアノとスマル。
夜になって、馬のいななきが聞こえてくる。つながれていない馬が家の周りを歩いていた。
それに気付いて妻の方が、馬が家の中に入り込んでくるのではないかという恐怖で、恐慌を来す。夫も警戒する。一方の娘の方は、何も気付かずすやすや眠っている。

そこ、でも、どこ、どんなふうに

夢であって夢でない存在、それは友人のパコで、そこにいないのに近くにいるように感じられる。
亡霊のようであるが、まだ死んではいないし、亡霊とも違う。
パコは病気を患っているようでもある。
語り手本人も、なんだか上手く説明できないことをなんとか言葉にしようとしていて、何が起きているか分かりにくいが、友人たちへの思いが書かれている、気がする。

キントベルクという名の町

雨の日、ヒッチハイクしていた女性リナを乗せたマルセロは、キントベルクにたどり着き、そこで一晩雨宿りする。
リナをなぜか小熊にたとえている

セベロの諸段階

セベロの家に親族郎党が集まっている。
セベロの息子から声をかけられて、セベロの寝室に赴くと、セベロは寝ていて妻が着替えさせている。発汗段階だという。
その後、いくつかの「段階」があって、「時計の段階」では集まった人たちに対してそれぞれセベロから数字が言い渡される。
なんかそういう謎の儀式的なことで夜をあかすことになる。
言い渡される数字に何か意味があるらしいのだが、読者に対してその意味は明示されない。
焦点人物となる男は、これをあんまり真面目に受け取っていないようだが、集まった人によってはもっと深刻に受け取る人もあれば、もっと軽く扱っている人もいる。

黒猫の首

「ポケットに残された手記」同様、電車で出会った女性に対して「ゲーム」をする男の話で。こちらは、電車の手すりを握っている手を握るというもの(それは限りなく痴漢なのでは)
ムラート娘の手を触るところから始まるのだが、このムラート娘がその誘いにのってくる。で、なんか勘違いしないでくださいよ的なことを言いつつ、男の部屋へと入っていく、というなんかポルノみたいな展開。
この短編集は、この作品以外も、性的な場面やエロティックな描写があったが、この作品は特にそのウェイトが大きいものだった。
ただ、行為のさいちゅうに、女が蝋燭を探してきてみたいなことを言って、男は取りに行くのだけど、何故か部屋から裸で閉め出される。大家や隣の住人からどやされる、みたいなことを心配して終わり、みたいな話だった気がする。

最終ラウンド

シルビア

とある別荘地に、3家族くらいが集まって長期休暇を楽しんでいる。
主人公は独身だが、友人たちは子どもがいて、子連れでそれぞれの家にいってはバーベキューなりなんなりしている。
主人公は、子どもたち(2歳から7歳まで)と一緒に、見慣れない若い女性シルビアがいるのに気付く。ふとした拍子にシルビアのことを目で追っており、主人公はシルビアに惹かれ始める。
彼女について質問すると、シルビアは「みんなの友だち」なのだという。そして大人たちは「子どもの作り話」だという。
子どもたちがみんな揃わないとシルビアは現れない。休暇が終わって去っていく家族もいるので、子どもたちが揃わなくなって、シルビアとはもう会えないなってところで終わる。

旅路

夫婦が電車の切符を買いに駅にやってくる。
知り合いに、この乗り換えでここに行くといいよと言われたので、それを買いに来るのだが、その話を聞いた夫が経由地も目的地も忘れてしまう。
なお、駅に着く直前くらいに、夫が妻に対して乗り換え内容を伝えているシーンがあって、読者は経由地も目的地も分かっている。その直後くらいに、夫がどっちも思い出せなくなり、夫が妻に対して、さっきお前に言っただろ、俺はこういうの忘れやすいからお前に言ったんだ、とか言い出すのだけど、妻もちゃんと覚えていない。
その夫婦のおぼろげな記憶から、駅員がサジェストしていって、なんとか最終的には切符を買うことができる。
なお、電車にはそこから乗るのではなく、さらに車で移動した別の駅から乗るという行程

昼寝

主人公ワンダは思春期の少女。唯一、主人公が女性なのではないか。というか、登場人物がほぼ全員女性だ。
夫婦が主人公になっている作品は、女性「も」主人公になっているとはいえたかもしれないが、基本的にはここまで全ての作品が男性主人公であった。
近所にいる友だちテレシータが、悪友みたいな感じで、叔母たちが顔をしかめるような性的な話題、サブカルチャーなどを共有している。
自慰行為を叔母に見られて手ひどく叱られたりもする。
少女2人の、ある種のシスターフッドというか、性的なものへの興味を描いているのだが、最後の最後で、主人公の性被害の記憶が描かれている。
三人称小説だが、主人公の意識の流れで描かれていて、時間がいったりきたりしながら、回想なのか現在時点の話なのか明示されないまま進行する。

短編小説とその周辺

コルタサルによる短編小説創作論
作品の構想がえられた瞬間を「(自分が)短編小説になる。」と形容している。
短編小説を書く作家と詩人との類似性を強調し、長編小説と区別している。

キム・スタンリー・ロビンスン『未来省』

パリ議定書に基づき、気候変動に国際的に対処するために発足した組織、通称「未来省」の活動を中心に、気候変動に見舞われる2020年代後半以降の世界を描く。
火星三部作のキム・スタンリー・ロビンスンの新刊ということで、面白そうだなと思って読むことにした。
今まで読んだことのあるロビンスン作品は下記の通り。
キム・スタンリー・ロビンスン『2312 太陽系動乱』 - logical cypher scape2
キム・スタンリー・ロビンスン『レッド・マーズ』上下 - logical cypher scape2
キム・スタンリー・ロビンスン『グリーン・マーズ』上下 - logical cypher scape2
キム・スタンリー・ロビンスン『ブルー・マーズ』上下 - logical cypher scape2
ところでこの本、パーソナルメディアというところが版元で、ソフトウェア会社で出版も手がけているところだった。出版部門から出ているのほとんどが技術書で、小説はこの本が唯一とかなのではないか。ソフトウェア会社というかTRON関係の開発をしていて、本書の解説を坂村健が書いてたりする。


2025年、インドを破滅的な熱波が襲い、2000万人もの人々が死亡するというところから物語は始まる。
これをきっかけとして未来省が設立されることになる。
未来省トップに就任したメアリー・マーフィーと、インドでの熱波を体験し九死に一生を得たフランク・メイ、この2人が物語の主軸となる。
とはいえ、この作品の特徴的なところは、物語が無数の断片から構成されていく点にある。
106の節にわけられており、短いものだと1節あたり見開き2ページしかないし(とはいえ二段組みだが)、長くても10ページ程度だろうか。4~5ページ程度の節がもっとも多いのではないか。そんな感じで、比較的短い分量の節で構成されている。
(ところで、各節は数字が付されているだけで、小説の場合、こういう時は目次がついていない方が普通だと思うのだが、本書は目次がふされている。しかも、1行目の文の冒頭を便宜的にタイトルのように扱ってずらりと目次に並べられて、結構スゴイ)
節が変わるごとに、人称や語り手・語り口が次々と変わっていく。メアリーとフランクの物語は繰り返しでてきて、作品全体を貫く縦糸となっていくが、1回だけしか出てこない登場人物・エピソードも多い。そして、そもそも出来事・事項の解説みたいな節も多い。
このため、物語というよりノンフィクションに近い、という紹介のされ方もしている。
実際、事実をベースにしている部分もあり、ノンフィクションっぽいといえばノンフィクションっぽいが、ただ、意外と三人称の節は少なくて(メアリーやフランクが登場するところは三人称)、一人称のクセの強い語りが採用されているところが結構ある。そもそも、次々と語り手が変わっていくという手法自体、ノンフィクションではなくこの作品が小説であることを強調しているとは思う。
とはいえ、独特の小説であることは確かだろう。



本作品は、気候変動に立ち向かう人々の物語、のように紹介されていることが多く、実際、未来省は気候変動対策のために作られた組織であり、登場人物たちもそれを目的として行動している。
がしかし、筆者の目論見はむしろ、気候変動を奇貨として、人類社会がポスト資本主義へと移行する様を描くところにあったのではないだろうかと思われる。
実際、キム・スタンリー・ロビンスンは度々、未来社会としてポスト資本主義世界を描いてきた作家である。もちろん、それをいうなら環境問題にも関心を持っている作家なので、気候変動対策の話もまた間違いなく本作の主題ではある。
ただ、本書については、このポスト資本主義、もっとはっきり言ってしまえば社会主義への傾倒がはっきり見られる作品である。
まあ、だからどうということでもないのだけど、


メアリーは、元々アイルランド外務大臣経験者で、様々な分野の専門家が集まる未来省を束ねることになる。また、諸外国の(特に中央銀行の)トップとの交渉にも携わる。
本作はこういう作風なので、物語性は薄く、メアリーのドラマもあまり起伏は多くないのだが、彼女の物語で盛んに強調されるのが、アイルランド人であることだった。
メアリーの特徴ともされるアイルランド人っぽさって何なのか、欧米で生活したことのない自分にはあまりピンとこないが、スイスでアイルランド人が働くこと、というのが何某か意識されているように思う。
そう、アイルランド人っぽさとあわせて、スイスの国民性もまたしきりに強調される。
気候変動はグローバルな課題であり、未来省も多国籍な職場であり、国民性・国民の気質みたいなものをやたら気にするのも不思議と言えば不思議な話なのだが、火星三部作も、スイス人への着目みたいなのはあったし、ロビンスン的には何かしらの裏テーマなのかもしれない。あるいは、手癖か。
正直、自分にはアイルランド人っぽさとかスイス人っぽさとか言われてもあまりピンとこないところではあるし、逆に、アジア諸国への”解像度”は相対的に低そうだし、そこんとこどうなのと思わせる箇所でもあるが、ヨーロッパの中では小国であるアイルランドやスイスがキーを握っている、というところが何かポイントなのかなー。
それ以外の国だと、インド、中国、ロシアの作中でのプレゼンスが高い。
インドは、何せ2000万人の被害者を出しているので、未来省の動きよりも早く色々とやっている。太陽光を防ぐための大気への粒子撒布というジオエンジニアリングも、先に勝手にやったりしている(期間限定だが効果をあげる)。


国民国家的な枠組みは最後まで維持されるというかわりと重視されているが、その国民概念を支えるものとして、言語への注目もある。あまり、中心的なテーマではないが、言及自体は少ないが。
スイスは公用語が4つあるが、ロマンシュ語公用語としているのはスイスをスイスたらしめてるものの一つだろう、とか。


スイス話というと、ロビンスン自身がチューリッヒ滞在歴があるためか、チューリッヒへの愛着も結構強く描かれている気がする。チューリッヒという街の過ごしやすさというか。


さて、もう一人の主人公とでもいうべきフランク・メイだが、彼はインドで難民支援事業に携わっていたが、2025年の熱波に襲われる。人々とともに湖へと逃げるが、その町の住民はフランク以外全滅する。フランクは偶々生き残るが、それによりPTSDを発症する。
しかして彼は、いちどヨーロッパに戻るが、インドのテロ組織に入ろうとする。が、白人であるために断れる。それでも何かできることはないかと考え、メアリーを彼女の自宅で脅迫する。
フランクはその後うまく逃げて、チューリッヒ市内で逃亡生活を続けるが、最終的には逮捕される。メアリーは、収監されたフランクに面会するようになる。
この2人の不思議な関係が、物語の縦軸となる。
メアリーがフランクに対して最初に抱いた感情は、当然ながら恐怖であり、その後、面会に行ったのもその恐怖を和らげるためではあった。しかし一方で、脅迫時に彼から言われた「(未来省は)やれることを全てやっていない」という言葉は彼女の中に残り続ける。
メアリーは何故フランクと面会するのか、メアリーにもフランクにもその理由ははっきりとは分からないまま、この面会は2人の習慣となっていく。
次第にフランクは、刑務所の外にも行けるようになる(就労だかボランティアだかでだが、アルプスの山へ訪れることも可能で、門限さえ守れば結構自由そうな雰囲気がある)。
フランクに誘われて、メアリーはアルプスの山に動物を見に行ったりもする。
ついにフランクの刑期が終わると、彼はチューリッヒ市内の組合住宅で暮らすようになり、そうなってからもメアリーは定期的にフランクと会い続けた。
しかし、フランクには悪性腫瘍が発見され、メアリーは彼が亡くなるまで交流を続けることになる。メアリーはフランクのホスピスにおいて、かつて死別した夫との最後の日々を思い返すようになる。
メアリーは、未来省の長官として多忙な日々を送り続けるわけだが、フランクとの交流、そして彼の死を通じて、自分がかつて経験したある種のトラウマ(つまり夫の死)と再度向き合うことになる。メアリーが未来省トップから離れたあとも物語は続くが、彼女の第二の人生の始まりまで物語は描いていくことになる。
メアリーとフランクの個人的な物語は、この作品の本題である、人類がいかに気候変動に立ち向かうかという物語とはあまり関わりがない。むろん、メアリーとフランクに人生は、気候変動に大きな影響を受けたものであるが、メアリーにとってフランクとの面会はあくまでもプライベートに属するものだし、フランクの脅迫は表立ってメアリーに政策・仕事に影響は与えていない。しかし、ともすればマクロな話一辺倒になりがちなテーマの中で、彼らの物語が、個人に着目する視点を与えてくれる。


テロ
気候変動にいかに対応するか、本書が提案するのは、氷河の融解を食い止める技術であったり、炭素回収へのインセンティブとなる金融政策であったりするわけだが、地味に効果をあげているのが、実はテロである。
ある時期に集中的に富裕層の個人ジエットなどを対象とした攻撃が行われ、航空機需要がガタ落ちするのである。
これの犯人は不明である。
なお、未来省の中には汚れ仕事を担当する裏の部署が存在することが示唆されている。ある時期に、メアリーは、この部署を取り仕切っている部下からその存在を示唆されるのだが、これはメアリーが言うように迫ったからであり、この部下は、こういう部署の存在はトップが知らないことこそが重要なのだといって、その詳細は決して明かさない。
そして、基本的に未来省のことは、メアリー視点で描かれるので、読者もそれ以上のことは分からずじまいである。
テロ、ということでいうと、フランクによる脅迫事件以外にも、未来省庁舎への爆弾テロなどが起きる。この際、メアリーはスイスのシークレットサービスの手によって、アルプスへと避難させられる。登山経験のない彼女は辟易するのだが、最終的に、山中に隠された空軍施設でスイス内閣の大臣たちと面会することになる。未来省だけでなくスイスにある国連機関が攻撃を受けていて、これに対して、スイスは「スイスへの攻撃だ」と徹底抗戦の姿勢を示したためである。
これはメアリーにとっても未来省にとってもスイスにとっても転機になる出来事として描かれている。
他には、ロシア人によって未来省の幹部職員が暗殺される事件もある。
本作の中のロシアは、基本的にプーチン失脚後のロシアであって、国際的な枠組みに基本的に強調してくれる、良いロシアとして描かれるが、それをよく思っていない守旧派もいて、そちらの仕業、という話


前半は、氷河の融解をどうやって阻止するかという話が、技術的な話としてはわりと中心で、氷河と地面の間にある水をくみ上げて、氷河が滑り落ちるのを阻止する、という策をやっている。


巻末の坂村健の解説でも触れられているが、本書は、原子力への言及が少ない。
というか、温暖化ガスを減らすにあたって、エネルギー問題をどうするかはかなり重要なファクターなはずだが、ほぼ「クリーンエネルギー」の単語だけで濁している。
クリーンエネルギーの内実は、少ない言及から察するに、太陽光発電と思われる。
インドでは大規模な太陽光プラントができたというような話が書いてあった気がする。
エネルギー問題より、空気中からの炭素除去技術とかのイノベーションとかについての言及が多い。
核融合については、本作のタイムスパンの中では実用化されない、という見込で外されたのだとは思うし、作中の未来省があんまり検討していないのもそのせいかと思う。
通常の原子力については謎といえば謎。
アメリカの原子力空母への言及はあるのだが、これは南極の基地として使われるようになる。
航空機や船舶も、電力飛行船や電力船に移行していて、主に太陽光で賄っているっぽい。


動物保護
後半からは、かなり動物保護運動への言及が増える。
生息回廊やハーフ・アースプロジェクトなど(いずれも実在するプロジェクト)
物語の後半の年代では、地球全体の人口自体が減少フェーズに入っている模様。
そういえばキム・スタンリー・ロビンスン『2312 太陽系動乱』 - logical cypher scape2も動物保護的なイメージが使われていたなーと思うので、ロビンスンの好きなモチーフなんだろうな、と思う。
まあ、メアリーとフランクがアルプスに野生動物見に行くシーンも、効いているのかなとも思う。


ポスト資本主義
本作で一番中心的に描かれる気候変動対策は、カーボンコインである。
空気中の炭素を回収するとその量に応じて発行される通貨で、炭素回収へのインセンティブとするものである。これと炭素税の組み合わせで、石油資源を負債化させる(燃焼させると損する。採掘をやめると得する)ようにもっていく。
金融理論的には、量的緩和政策の一種であり、MMTも作中に出てくる。
連邦準備銀行欧州中央銀行、中国財政部に、いかにこの政策を実行させるか、というのがメアリーと未来省の腕の見せ所となってくる。
未来省では、既存のSNSに代わる分散インターネット的な仕組みを構築する。ネットワーク上の個人情報を個々に管理できるブロックチェーンで、ここに決済システムを組み込むことで、グローバルな電子通貨システムを生み出すのである。
カネの流れを完全に追跡可能にして、は富裕層の「逃げ道」を防ぐのに用いられる。
カーボンコインで何かしらズルされるのを防ぐというのもあるが、それ以上に本書では、貧富の格差を縮小させることも目的として描かれる。作中では「マルクス主義DX」なる単語も出てくる。
経営者と従業員の賃金格差を10対1まで縮減させる政策とか。
また、一部インフラについては国有化の方向に舵が切られ、また、様々な組織が協同組合化していく。
パリ占拠(2030年代のパリ・コミューン?)であったりとか、アメリカでの学生ローンをめぐるストや中国の十億人労働者による天安門デモなどが世界的に連鎖して発生したりとかいったエピソードも出てくる。アフリカ連合による鉱山の国有化エピソードとか。



人間以外の何かによる一人称で語られる箇所が何カ所かあったりする(光子、暗号、市場など)。
鍵括弧なしで、対話篇のように描かれている節がいくつかある。
未来省の会議などの議事録、という体裁の文章も何か所か。
「読者への課題とする。」とかいった文が出てくる節もあった。


〈2000ワット社会〉、新しい様々な指数、認知エラー、ジェボンズパラドックスなどなど……
(タイムリーにこんな記事。
国連報告書“国民の豊かさ”日本24位 世界は格差拡大し二極化 | NHK | 国連人間開発指数」は、本書でも言及があった気がする。それにしても1位がスイスというのがまたなんとも)



1節で完結する掌編小説的なのもたくさんある。
あと、場合によっては、語り手が同じなのかな、と思わせるものもあるのだが、固有名詞が出てこなかったりするからよくわからない。
色々なエピソードがあるが、
難民の話が何回か出てくる。北アフリカあたりからスイスへ移動してきた人・家族の話。結構面白かった記憶。
ダボスに集まってる富豪たちが突如軟禁されて「再教育」を受けるエピソードも
ロサンゼルスで大洪水が起きて、語り手がカヤックに乗って、遭難してる人を救助してく話とかもあった。同じように船持ってる人たちが協力し合って、高速道路まで連れていくという。これも面白かった。
かなり最後の方、メアリーがもう退職したあとだったと思うが、「〈ガイア〉の日」という、全世界で同時に歌うイベントなのもあった。未来省は、金融政策とかだけじゃなくて、宗教的なものも必要だと考えていた(ただし、〈ガイア〉の日は未来省発のイベントではない)

ルーシャス・シェパード『タボリンの鱗 竜のグリオールシリーズ短編集』

竜のグリオールシリーズから「タボリンの鱗」「スカル」の2編が収録されている。短編集とはいうが、「スカル」は中編サイズだと思う。
ルーシャス・シェパード『美しき血(竜のグリオールシリーズ)』 - logical cypher scape2の訳者あとがきを読んだら、「タボリンの鱗」関係の部分があったようなので、こちらも読むことにした。
刊行順としては『タボリンの鱗』が先で『美しき血』が後なのだが、それとは逆順で読むことになった。しかし、それがわりと正解だった気がする。作中世界の時系列順としては、大ざっばにいうと『美しき血』→「タボリンの鱗」→「スカル」なので。
(ただし、「タボリンの鱗」はタイムスリップしているので単純にこの順ではないし、『美しき血』には「タボリンの鱗」よりもあとの出来事も出てくる)
どちらの作品も、確かに、いわゆるファンタジーを期待して読むと困惑するだろうが、しかし、個人的には結構面白かった。
また、全然ファンタジーではないか、といえば、そういうわけでもない。
「タボリンの鱗」は、はっきりと竜のグリオールが直接暴れる話だし、
また、「スカル」は確かに現在の中南米の政情不安をそのまま描いたような作品で、また「アメリカ」への批判・風刺みたいな側面もあるのだろうけれど、しかし、あのラストとか、やはり竜がいた世界だからこその味というか、昏い魔力への願望みたいものがなんとなく漂っている。

タボリンの鱗

古銭を扱うジョージ・タボリンという男が、グリオールの麓の娼館でシルヴィアという娼婦と出会う。たまたま手に入れたグリオールの鱗をいじっていると、なんと2人は、グリオールがまだ若い竜だった時代へとタイムスリップしてしまう。
グリオールは横たわっておらず、テオシテンテもまだない時代の原野で、まだそこまで巨大化しておらず自由に空を飛び回っているグリオールに、2人は突然追い立てられる。
こうして2人のサバイバル生活が始まるのだが、この平原には、彼ら以外にもやはりタイムスリップしてきた人たちがいることを知る。
タボリンは、そうやってタイムスリップしてきた家族の娘が虐待されていることに気づき、彼女を保護する。こうして、タボリンとシルヴィアはその娘ピオニーとともに疑似家族のようなものをつくっていく。
最後、再び元の時代に戻ってくると、グリオールがテオシンテを焼き払っているところに出くわす。このテオシンテの最後は『美しき血』では、簡単に記述されているにとどまっていたところだったが、こちらで詳細に記述されている。
最期の断末魔のようなもので、グリオールはいよいよ本当に死ぬのだが、その過程で何千人もの人々を焼き殺している。大火災が発生し、そしてグリオールは崩れ落ちた。
(若い方と死ぬ直前の両方の)グリオールの物理的パワーを味わうことのできる作品となっている。
ところで、シルヴィアがグリオールの不思議な力について、とある本から引用してタボリンに語るシーンがあるのだが、その本の作者が、何を隠そう『美しき血』の主人公であるリャルト・ロザッハーである。ただし、本作では「リチャード・ローゼチャー」と訳出されている。これは『美しき血』の訳者あとがきの方でも触れられていて、「タボリンの鱗」ではリチャード・ローゼチャーと訳したけど、『美しき血』でドイツ人だと分かったのでリヒャルト・ロザッハーとした、と。
また、本作は脚注が度々挿入されているのがちょっと面白い。上述のロザッハー(ローゼチャー)についても脚注で触れられている。また、メリック・キャタネイのグリオール毒殺計画が、テオシンテの財政にとって大きな負担となり、それにより周辺の都市国家との武力衝突につながった旨の注釈もある。このあたり『美しき血』ではカルロスがそれらしきことをいっていたかなと思う。
注釈の中では、南極圏バイカル湖にも竜がいる、ということが述べられていて、この世界がやはりこの現実世界の中に位置づけられていることが分かる。
一番最後の節が、シルヴィアの著作からの抜粋で、後日、シルヴィアがタボリンとピオニーのもとを訪れた話になっている。
グリオールが死んだあと、その遺体はばらばらに切り裂かれてあちこちへと売りさばかれたのだが、タボリンはこれによってグリオールは地球中を支配するようになった、という。
グリオールの力を信じるかどうかで、シルヴィアとタボリンの立場はいつの間にか逆転していた。

スカル

タイトルのスカルは、グリオールの頭蓋骨(スカル)のこと。
なんと舞台は21世紀(2000年代~2010年代頃)である。
グリオールが死んだ後、その亡骸は切り取られてあちこちに売却されていったが、頭蓋骨はテマラグアの皇帝のもとに運ばれた。テマラグアはその後、カルロス8世、アディルベルト1世、2世、3世と続き、アディルベルト4世の代で君主制が廃止される。そして、1960年代には頭蓋骨のあるジャングル周辺に、まるでグリオール周辺にテオシンテができたように、再び街(シウダ・テマラグア)ができあがる。
その街でとある奇妙な教団を率いた女性ヤーラと、ヒッピー崩れのアメリカ人男性スノウとの物語となる。
冒頭、グリオールが死んでから現代までの期間についての歴史が足早に語られたあと、ここからはヤーラという女性についての物語だ、といって、憶測と風聞と創作混じりの話になる、と釘を刺して始まるのが、結構ワクワクする。
基本的に3人称で書かれているが、第2節だけは、スノウの回顧録からの抜粋という形をとっている。
物語の最初、ヤーラは、グリオールの頭蓋骨に住み着いている少女なのだが、その周辺には彼女とグリオールの「信者」たちが自然発生的に集落を形成している。また、彼女は多額の現金を誰かに渡している。
スノウは、テマラグアに流れ着いてきたアメリカ人で、女好きの冷笑家の無職というクズっぽい奴なのだが、ヤーラに惹かれてしばしの間、グリオールの頭蓋骨で同棲するようになる。しかし、この頃のヤーラは、たびたび宗教的トランス状態に陥ることがあり、スノウは、周辺の信者たちの信仰にものれず、疎外感と恐怖を感じて逃げ出してしまう(スノウは、ジョーンズタウンを想起している)。
アメリカの実家に戻ったスノウは、やはりそこでもろくに仕事をしてないのだが、雑誌にテマラグアでのヤーラのことを回想した記事を書いていて、それが第2節に抜粋されている。
テマラグアで、スノウは、とあるゲイバーに入り浸っているのだが、そのゲイバーには人妻が夜遊びしにきていて、スノウはそっちが目当て。ただ、この人妻たちは、右翼や軍人の妻たちなので、手を出すとヤバイとかなんとか。
スノウが、シウダ・テマラグアに滞在していたのは2002年から2008年とされている。
で、10年後、スノウは、中米のとあるカルト教団が突如消えたというゴシップ記事を見つけて、再びテマラグアを訪れるのである。
(なお、この記事の中で、グリオールの頭蓋骨は、メガラニ*1属の頭蓋骨と書かれている)
ゲイバーのマスターから、今のテマラグアでは、POV(組織暴力党)が勢力拡大しており、ゲイは生きにくくなっていることや、ヤーラについて聞き回るのはやめるように言われるが、スノウはその警告を軽視する。
当時ヤーラが現金を渡していた相手がPOVであることが分かる。そして、ゲイバーのマスターはPOVに殺されてしまう。
この頃、スノウは英語講師をやっていたのだが、教え子の母親と親密になりかけていた。彼女の夫がPOVの幹部であったので、スノウはついにその母親と関係をもって、POVについての情報を探る。そして、田舎の村に、ヘフェ(指揮官)とだけ呼ばれる謎の男がいることが分かり、スノウはその村へと向かう。
果たしてヘフェと遭遇し、半ば無理矢理ヘフェに連れて行かれると、そこには大人になったヤーラがいた。
ヤーラによれば、頭蓋骨が消滅したあと、そこに倒れていたのがヘフェだったという。グリオールの生まれ変わりだとヤーラは信じている。彼女はヘフェを育て、今ではヘフェの使用人のような存在になっている。ヘフェは残虐で、この村の男たちをみな殺しているが、ヤーラはヘフェをこの国の指導者にしようと考えているようだった。
スノウは、ヘフェの客としてヘフェの家に泊まることになる(ヘフェに軟禁されている、といってもいい)。再び、ヤーラと寝るようにもなる。
ヘフェの家には奇妙な部屋があって、そこでヘフェは「空を飛んでいる」。その部屋は、非常に天井高の高い部屋で、鎖が何本もぶら下がっており、ヘフェはそれを掴んで跳躍しているのだが、その様子がほとんど「空を飛んでいる」ようなのだ。そしてまた、ヘフェはその部屋で人を殺してもいる。
最終的に、ヤーラとスノウは協力してヘフェを殺すことに成功する。
トラックに乗って2人が走り去るシーンで終わるのだが、そこでは残虐な男の支配から逃れられた解放感を覚えつつも、竜の復活をどこかで願っているという喪失感もないまぜになっており、なかなかビターで味のある結末になっている。
ところで、このヘフェの、人間の姿をしているけれど人間離れした身体能力と性格をしているところと、最期、致命傷を負いながらもなお歩き出して逃げようとしたところをマチェーテで斬られるところに、どことなく寄生獣っぽさを感じた。


最後に筆者の覚え書きがあるのだが、シェパードは実際にグアテマラ滞在経験があり、ゲイバーについてのエピソードやPOV幹部の妻との関係についての話が、その頃の実体験をベースに書かれているらしい。POVも実在する政党だとか。また、テマラグアがグアテマラをもとにした名前だというのも明言されていた。
覚え書きの最後に、在グアテマラ・スペイン大使館占拠事件(1980年)について触れられていて、何だそのヤバイ事件は、と思って、Wikipedia読んでみたら、まじでやばい事件だった。農民と労働者が窮状を訴えるために首都で抗議行動を行い、そのままスペイン大使館を占拠し、スペイン大使や元副大統領を人質にとった。が、グアテマラ政府はスペイン大使、元副大統領がいるにもかかわらず、大使館を焼き討ちに。大使はかろうじて逃げ延びたが、元副大統領やスペイン領事は死亡し、スペインはグアテマラとの国交を断絶した、という事件……。
シェパードは、この事件が起きたときにグアテマラにいたらしい。
ところで、本書巻末に池澤春菜の解説があるのだが、池澤春菜池澤春菜で、2019年のチリ暴動に巻き込まれた話を書いている。

グリーオルシリーズ

sakstyle.hatenadiary.jp
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*1:ググってみたところ、オーストラリアに生息していた絶滅したオオトカゲらしい

林健太郎『ワイマル共和国』

タイトル通り、ワイマル共和国14年の歴史についての本
1963年刊行の本だが、分かりやすくて読みやすい本であった。とりあえず、ワイマル共和国史について最初に読むにはよさそうな本であった。
というか、なんでパウル・フレーリヒ『ローザ・ルクセンブルク その思想と生涯』 - logical cypher scape2から読み始めたのか、自分。ルクセンブルクの伝記もそれはそれで面白くはあったが、よく分からない箇所も多かったわけで、そのあたりがこの本を読んで大分解消したし、ルクセンブルクやドイツ革命周りで知りたかったことは、大体こっちの本に書いてあったなあと思った。
いやしかし、14年しかないのだなあ、ワイマル共和国
なんか途中で「共和国から成立して5年」みたいなこと書いてあるんだけど、そこに至るまでの出来事が多すぎて、読んでいて「え、まだ5年しかたってないの、このボリュームで」と思ったりした。

第一章 共和国の成立

帝政ドイツにも憲法と議会はあったけれど、政府は議会とは独立に構成され、議会には責任を負っていなかったという意味で、議会政治ではなかった。
大戦末期にヒンデンブルクルーデンドルフが、いよいよもうまずいと掌をかえして、社会民主党、中央党、進歩人民党による内閣が成立する
キール軍港の反乱がおきて、その後、ドイツでもっとも保守的とされたバイエルンミュンヘンでまず革命が起きて、バイエルン王が退位する(連邦国家なので皇帝以外にも王が各地にいた)
なかなか退位しなかったウィルヘルムもオランダへと逃亡。
ドイツの左翼として、オップロイテとスパルタクス団という2つの集団がいた
オップロイテは金属労働組合から端を発したグループで、スパルタクス団はリープクネヒトやルクセンブルクを中心としたグループ
どちらも、暴力革命により議会主義を排して社会主義化を目指すという点で一致していたが、革命の戦術に違いがあった(後述)。
オップロイテは、ルクセンブルクの伝記にもでてきていたんだけど、いまいちどういうグループかよく分からなかった。

第二章 民主主義か独裁化

で、労兵協議会(ソヴィートないしレーテ。評議会と訳されることが多いような気がするけど、本書では協議会となっている)とは何か
これは、マルクスエンゲルスの理論の中にもレーニンの思想の中にもなかったもので、ロシア革命の中で自然発生的にでてきた組織だという。
そもそもロシアには労働組合がなく、労働者の代表機関がなかったため、革命の中でそれに代わるものとして生じた。また、当時は戦争中で、兵営も人々の生活拠点になっていたので、労働者と兵士による組織となった。
レーニンは、これをボルシェヴィキ独裁のために利用した。
もともと、労働組合が存在していた西欧では不必要な仕組みであったが、大戦中に労組が戦争遂行のための組織と化していたドイツでは、あらためて労働者を代表する組織としてレーテがつくられ、また、ロシア革命の影響もあり、革命の「シンボル」として重視されるようになった、と。


社会民主党の首脳部はだいぶ保守化していて協議会を警戒していたが、協議会を構成している労働者たちの多くは社会民主党の支持者で、国民議会に権力を委ねることになる。
仮政府の首脳となったエーベルトは、軍のグレーナーとの間に密約を交わしていた。評議会の動きに軍が反発していたため


ソヴィエトないしレーテの説明が分かりやすかったというか、今まで全然ちゃんと分かってなかったことがわかった。

第三章 一月蜂起

オップロイテとスパルタクス団との違い
先に述べた通りオップロイテは労働組合がベースなので当然労働者たちのグループだったのに対して、スパルタクス団はルクセンブルクなど言論人中心なので、実は労働者とは距離があった。このため、スパルタクス団は基本的に街頭デモを通じて労働者に働きかける方法をとったのであり、そこから自然発生的に革命へといたるということを考えていた。それに対してオップロイテは指導部が秘密裏に作戦を立ててそれにしたがって革命を起こすという考えだったので、スパルタクス団のやり方とは相いれなかった
スパルタクス団は、別の左派グループと一緒になりドイツ共産党を結党するが、オップロイテはこれへの参加を拒んだ。
1月、ベルリンでデモが発生し、これが革命につながると考えたリープクネヒトらが革命委員会を発足させ、一月蜂起が起きる。
いわゆるスパルタクス団の蜂起などといわれているが、本書ではこれはスパルタクス団の蜂起ではなかった、と述べている。確かにリープクネヒトが参加していたし、また、オップロイテからも参加者がいたが、しかし、あくまでもデモから自然発生的に生じたもので、スパルタクス団やオップロイテが起こしたものではなかった。
で、結局ぼやぼやしている間に、軍が出動して鎮圧されてしまう。その鎮圧の過程で、リープクネヒトとルクセンブルクも暗殺されてしまう。
ところで、当時から極左の中でスパイの挑発行為によるものという説があったが、これは証拠が薄弱であると退けられている(ルクセンブルクの伝記に書いてあった話だが)。
ローザ・ルクセンブルクについて一節をさいて論評されている。
彼女は非妥協的な革命家でありつつ極左的冒険主義を退け、ボルシェヴィキ一党独裁を批判したので評価されているが、これはやや偶像化されたものである、と。内乱こそスパルタクス団にとって有利だと述べたりしていたし、また、大衆の「自発性」への宗教的に近い信頼があって、しかし、それはある種の幻想だったのだと。
この「自発性」への信頼については、伝記の方でも繰り返し述べられていた。あちらの方では、その点をルクセンブルクマルクス主義者としての優れたところとして評価していたけれど、まあ、マルクス主義者じゃない側からみると、そういう感じの評価になるよなあ、と思った。


終戦から「スパルタクスの蜂起」までの流れや、ローザ・ルクセンブルクの人物評価など、いまいちよく分からなかった部分も含めて、本書の1~3章までを読んで大分整理できた。
これくらいの感じの解説が読みたかった。


仮政府のノスケは、軍隊を出動させて極左への取り締まりを行った。このため、皆殺しのノスケなどと言われて忌み嫌われた。
また、仮政府は、軍隊とは別に義勇軍もつくったが、これは右翼的な人物たちの根城みたいになって、のちのち共和国への禍根となってく(ひいてはナチスへとつながっていく)。

第四章 憲法と平和条約

最初の国民議会選挙が行われ、社会民主党、中央党、民主党、国家人民党、独立社会民主党、人民党が議席を得る。
ベルリンはまだ焼け野原だったので、ワイマルで議会が招集され、エーベルトが議会によって大統領に選出される。
社会民主党、中央党、民主党による連立政権ができるが、この3党のつながりを「ワイマル連合」と呼ぶ。国家人民党などの右翼、独立社会民主党などの左翼を除いた中道政党のあつまり。
ワイマル憲法の特色として、大統領権限の強さと「経済生活」の項における社会主義的政策が挙げられる。
しかし、後者は、共和国がそもそも経済的になかなか安定しなかったので、あまり実現はしなかった。


とにかく、政党がたくさん出てくるし、内閣が次々替わるし、連立の顔ぶれも変わるしで、となかなか大変なんだけど、巻末に、選挙結果の表と内閣の年表がついているので、都度、それを見返しながら読むと、あまり混乱せずにすんだ。

第五章 カップ一揆

ミュンヘンでは、アイスナーが政権を担い安定させていたが、アイスナーが暗殺されたのち、「バイエルン・レーテ共和国」が宣言されるも、直後に共産党が再度革命を起こして政権を担う。しかし、ベルリンの中央政府は共産政府を許さず、軍が送られ壊滅する。
もともと保守的なミュンヘンでは、そもそも共産政権は受け入れられていなかった。左翼のアイスナーがミュンヘンで受け入れられていたのは、ミュンヘンに反ベルリン意識があったため。共産政権壊滅後は、ミュンヘンは(やはり反ベルリン意識によって)右翼化していく。右翼団体が乱立し、その中の一つに「ドイツ労働者党」があり、その党員としてヒトラーがいた。
一方ベルリンでは、右翼政治家であるカップによるカップ一揆が起きる。このため政府は一時ベルリンを離れるが、社会民主党の指示によりベルリン市民はゼネストによる抵抗を行い、カップ一揆は失敗に終わる。
ゼネストを率いたのは労働組合だったので、組合は労働者内閣を要望する。結局、組合の要望通りの内閣は作られなかったが、内閣の顔ぶれ自体は変わる。
新内閣成立に伴い、国防相のノスケが退職し、代わりにゲスラーが就任する。そして、ゲスラーのもとで軍の長官となったのがゼークトであった。
ノスケは、反共産主義者であり、軍隊による取り締まりを行い、国軍を強化させた人物ではあるが、一方的に軍を助長させてはこなかった。これに対してゼークトは、政府から半ば独立した集団として国防軍をつくりあげていき、ゲスラーもこれを容認した。
1920年選挙において、社会民主党は退潮する(163議席→102議席


ドイツが連邦国家であるというのは知っているけれど、実際それがどういうものかという認識は全くなかったので、それぞれの州で革命が起きたりなんだりしているのが、最初よく分からなかった。
ワイマル史としては、このバイエルンの存在が結構重要っぽい
あと、地図見ると驚くのだが、プロイセン州が巨大で、ワイマル共和国の半分くらいはプロイセン州になっている。第二次大戦後は分割されたので、今はないらしいが。

第六章 内外の難問

コミンテルン加盟をめぐり独立社会民主党が分裂する。
独立社会民主党はそもそもベルンシュタインやカウツキーによる党で、彼らは、戦争中に戦争反対を掲げて、社会民主党から離れたが、一方で、リープクネヒトやルクセンブルクのような暴力革命には批判的で、その点では社会民主党とあまり変わりはなかった。
一方で、普通の党員には極左寄りの者たちも多く、コミンテルン加盟の賛否が割れる。結局、コミンテルン加盟派は共産党と合流し、コミンテルン加盟反対派は社会民主党と合流することになり、独立社会民主党は消滅する。ただ、コミンテルン側もかなり傲慢な態度であったため、これに反発して共産党にはいかなかった者たちもいる。
その後、ドイツ共産党は、コミンテルンの方針転換に何度も振り回されることになる。
当時のドイツ共産党の指導者レヴィは、コミンテルンとの意見対立があった。
マンスフェルトで蜂起が起きるが、コミンテルンは当時世界革命路線を撤回していたので、これを批判する。そして、それはレヴィによるマンスフェルト蜂起批判と全く同じ内容だったのだが、レヴィはコミンテルンと対立していたので、罷免されてしまう。
ソ連のラデックは、右翼であるゼークトと接触し、ドイツ軍との関係を深めていく。
ドイツの外務省の中には、「東向き政策」と「履行政策」という二つの政策があった。前者はソ連と手を結び、ポーランドと戦うというもの。後者は、ヴェルサイユ条約での賠償を履行して西側諸国との協力関係を強化するというもの。
内閣は基本的に履行政策側だったのだが、外務省内部には「東向き政策」推進派がいた。
賠償などの内容を具体化させるジェノア会議において、西側諸国がソ連にも賠償を要求する権利があることを示唆され、ドイツは、「東向き政策」に転換して、ソ連と単独でラッパロ条約を締結する。
外相ラーテナウ暗殺
ヴィルト内閣の瓦解とクーノ内閣


コミンテルン加盟後、ドイツ共産党は基本的にコミンテルンの方針通りに動くのだが、このコミンテルンの方針というのが結局ソ連国益に沿ったもので、ソ連の事情が変わるところころ変わる。ドイツでの革命に反対したり、革命させようとしたり。

第七章 一九二二年の危機

イギリスは反対していたがフランスがルール占領を行う。
(賠償をめぐって、イギリスは無茶な賠償だという認識がありこれを緩める方向をもっていたが、フランスは厳しい対応をとっていた。ルール占領についても、英仏のこうした差異があった)
クーノ内閣は「消極的抵抗」策をとるのだが、工業地帯での生産力低下はむしろドイツ自体に対してダメージを与えることになる。
「消極的抵抗」のせいだけではないのだが、悪名高いインフレーションが発生する。
中産階級が没落し、コンツェルンが出現する。
もともとドイツは労働者階級の中から経済的に豊かになった中産階級がうまれ、この層が結構厚かったのだが、ここが没落していく。
クーノ内閣が退陣し、シュトレーゼマンの「大連合」内閣(ワイマル連合+人民党)が発足する。
シュトレーゼマンは人民党の右派政治家で、戦中は「勝利の平和」論者であった*1が、戦後、ドイツを立て直すためには「履行政策」をとるしかないと方針転換した。
彼の首相としての功績は、消極的抵抗の中止とレンテン・マルクの発行による、インフレーションの解消。
レンテン・マルクを発行したのはライヒスバンク総裁のシャハトであり、この功績によって称賛されている。ただ、このアイデア自体は蔵相のヒルファーディングに由来するのだが、彼はレンテン・マルク発行前に辞職してしまったので、あまり功労者とみなされていない(ヒルファーディングは学者として優秀だったが、政治家としては実行力不足だったと評されている)
地方政府において、左右それぞれのクーデターが起きる。
まず、バイエルンの右翼的政権発足について
バイエルンでは「ドイツ労働者党」がナチスに改名し、突撃隊を創設するなどして勢力を拡大していた。
バイエルン人民党がカールを擁立して右翼政権をたちあがるのだが、それと同時期に、ルーデンドルフを戴いたヒトラー一揆計画(ミュンヘン一揆)が実行される。バイエルン人民党ヒトラー一揆と一瞬だけ手を結ぶのだが、ヒトラーナチスをよく思っていなかったので、即座にヒトラーは切り捨てて、ナチスミュンヘン一揆自体は失敗する。
一方、ザクセン、テューリンゲン両州は、もともと共産党の地盤が形成されており、そこにコミンテルンの方針転換があって、革命が起こされた。しかし、中央政府によって即座に鎮圧される。
ところで、社会民主党は革命に否定的だったので、ザクセン、テューリンゲンの鎮圧には賛成していたのだが、一方、同じようなことが起きているバイエルンが黙認されていることの不釣り合いに対して批判が起き、社会民主党は政府を離脱することになる。

第八章 シュトレーゼマン時代

6つの内閣で外相をしたシュトレーゼマン
履行政策のもと、シュトレーゼマン外交は効果をあげる。
ドーズ案が成立し、共和国の経済は次第に安定していく。
本書は、かなりシュトレーゼマンを高く評価している(シュトレーゼマンは、ナチスからは平和主義と批判され、戦後は逆にシュトレーゼマンの平和主義は本気ではなかったと批判されたらしいが、筆者は、こうした評価はあたらないとしている)。


この時期、2つの重要な裁判が行われる。
1つはミュンヘン裁判で、ヒトラーを被告としたものだが、ヒトラーはこの裁判の席で弁舌をふるい評価を高めていく。有罪判決を受けるものの、かなり軽めであり、獄中でも優遇をうけ『わが闘争』を書くことになる。
もう一つはマグデブルクでの裁判で、ナチス党員がエーベルトの戦中におけるストライキを国家反逆罪だったと訴えたもので、エーベルトは無罪とされるが、国家反逆だったという事実認定はされる。これがエーベルトの積み重なった心労へのとどめとなり、彼は早逝する。
ドイツの官僚は、戦前の体制がそのまま維持されており、それ自体は仕方ないとしても、司法官に右寄りの者が多く、戦後の裁判でも、右翼に甘く左翼に厳しい判決がでがちで、上の2つはそれらを象徴している。
マグデブルクの裁判でいわれているのは、いわゆる「匕首伝説」で、ドイツが戦争に負けたのは国内の左翼のせいだ、という右翼のプロパガンダ


エーベルトが亡くなったため、1925年に初の大統領選挙が行われた。
第1回投票の結果は、ヤレス(国家人民党・人民党)1040万、オットー・ブラウン(社会民主党)780万、マルクス(中央党)390万、テールマン(共産党)190万、ヘルパッハ(民主党)150万、ヘルト(バイエルン人民党)100万、ルーデンドルフナチス)30万であり、過半数をこえなかったため、第2回投票が行われることになった。
第2回投票では、第1回投票で立候補していなかった者も立候補できるようになっており、右派政党は、ヒンデンブルクを担ぎ出す。
第2回投票では、ヒンデンブルク1465万、マルクス1375万、テールマン193万となり、ヒンデンブルクが大統領となった。
中央党のマルクスとの差は僅差であり、左派の敗因は、共産党が独自候補を下げなかったためだと、分析されている。
そもそも大戦中の参謀総長であったヒンデンブルクが、大統領となる、というのは諸外国にとっては衝撃であり、そもそもヒンデンブルク自身、当初は辞意していた。
ただ、彼は良くも悪くも無思想の人間であり、そのため、請われれば大統領になるし、そして、意外にも(少なくとも当初は)あまり右傾化することもなく、立憲体制の擁護者となった。
また、現場たたき上げの軍人であったヒンデンブルクは、参謀出身のゼークトをあまりよく思っておらず、独断でことを進めていたことをきっかけに、ゼークトを罷免する。
しかし、その後、国防軍に実力者として登場してきたシュライヒャーは、ゼークトよりもさらにくせ者であった。共和国が滅ぶ要因となる人物である。
防相もまた、ゲスラーからグレーナーへと人が代わる。

第九章 経済復興と社会主義

1920年代後半、ドイツは経済復興をとげ、労働時間の改善、失業保険の充実がみられるようになる。労働時間については政策的に掲げられた8時間/日自体は達成されなかったものの、相当改善することになった。
ただし、経済復興はアメリカ資本の流入によるものであり、短期信用が多く、その基盤は脆弱だった。
のちの共和国崩壊の要因として、社会民主党に対して「社会化(国有化)」政策を行わなかったことが批判されることが多かったらしいが、筆者は、そもそも当時のドイツで社会化は現実的ではなかったと述べている。
一方で、社会民主党の責任として、筆者は、官僚(司法官)改革と中産階級の取り込み・民主主義の擁護をしなかったことを挙げている。
司法官が右翼に甘かったことは既に述べた通りだが、それを統制する改革が必要だった、と。
また、ドイツはそもそも中産階級が発展していた国だったのに、社会民主党はこの層をあまりに軽視していた。次第に、労働者階級の利益だけを代表するようになってしまったため、国政政党としてよくなかった、と。また、イデオロギーとしては社会主義を掲げていたために、民主主義の擁護ということができていなかった、と。
軍艦建造の予算に、社会民主党が反対するという出来事が起きる。この建造費はそれほど高いものでもなく、ヴェルサイユ条約に反するものでもなかったのだが、社会民主党内部に反軍拡の声が強く、これに反対していた。その後の選挙でもこれを争点としてしまう。
選挙後成立したミュラー内閣は、改めて軍艦建造の予算案を提出するのだが、社会民主党はやはり反対する。この予算案自体は成立するのだが、社会民主党ミュラーおよびその内閣は、自分の提出した案に自分に反対するというよく分からないことをする羽目に陥る。

第十章 経済恐慌の襲来

ドーズ案は5年の計画だったので、その後の計画としてヤング案が提案される。
ヤング案は賠償的にも軽くなるだけでなく、ラインラント撤兵も約束され、かなりドイツにとってよい内容であった。
しかし、右翼によるヤング案反対運動が起きる。右翼にとっては、賠償額減額よりもヴェルサイユ体制の打破が重要だった。右翼の大物政治家のフーゲンベルクとヒトラーが結びつき、シャハトが右翼化する。
そして、シュトレーゼマンが若くして亡くなってしまう。
世界恐慌に先駆けて、アメリカ資本の流入減少による失業が増加。
失業保険の国庫負担が間に合わなくなり、失業保険の負担率増加を行おうとして、蔵相ヒルファーディングは失脚してしまう。ヒルファーディングはマルクス主義経済学者でもあったので、資本家側が攻撃してきたのである。
ヤング案はなんとか議会を通過して成立するが、議会の論点は、再び失業保険の負担増へと向かう。
中央党のブリューニングが妥協案を提出するが、社会民主党がこれを蹴って、ミュラー内閣と社会民主党は下野することになる。
ここで陰謀家のシュライヒャーが暗躍する。彼は自分が表立って政治の舞台にたつことはせず、傀儡をたてることを画策しており、ブリューニングに白羽の矢を立てた。ヒンデンブルクにブリューニングを推薦し、ブリューニング内閣成立
これ以降、議会の多数派ではなく、大統領が擁立した内閣=大統領内閣時代が訪れる。

第十一章 大統領内閣

ブリューニングは、大統領の緊急令発令により法律を成立させ、さらに国会解散へと手を打つ。
しかし、ブリューニングの誤算があった。
ブリューニングは、国家の危機に際して、大統領の権威を高めることで対応しようとした。そしてそれは、ワイマル憲法が想定していることでもあった。
しかし、この頃のヒンデンブルクへ右翼政治家たちが接近しており、もはやヒンデンブルクは、ブリューニングが期待するような憲政の支持者ではなくなっていた。ヒンデンブルクはもともと帝国軍人であり、右翼からの働きかけを受ければ、容易にその思想に染まっていった。
また、国会解散でブリューニングは勝てると思っていたのだが、選挙結果は、ナチス共産党の躍進、社会民主党の漸減、国家人民党の大幅減であった。
ミュンヘン一揆に失敗した後のナチスは、2つの新戦術を掲げていた。
1つは資本家への接近、もう一つは国防軍と対立しないこと
ナチス躍進により、海外資本の引き上げが起きて、経済はますます悪化した。
ブリューニングは独墺関税同盟を成立させることで、経済の回復を図ろうとした。既に多民族帝国でなくなったオーストリア共和国は、民族的にはドイツ人で構成されており、独墺の接近は自然なことであったが、しかし、ヴェルサイユ体制は国境の変更を禁じていた。むろん、関税同盟であればそれに抵触することはないが、英米への事前の根回しをブリューニングが怠ったため、フランスが反発。資本引き上げによりオーストリアの銀行がつぶれ、連鎖的にドイツ経済の悪化へと繋がった。
共産党ナチスが接近
ナチスと資本家を仲介したシャハト
グレーナーは反ナチだったが、シュライヒャーがナチスに接近
そして、大統領選挙へヒトラーが出馬することになる。これへの対抗馬として、もう高齢のヒンデンブルクが再び擁立され、再選することになる。
もともとヒンデンブルクは右翼政党の支持により大統領になったが、今度は、反ナチスの左翼政党の支持による当選で、ヒンデンブルク自身は変わっていないのに、支持政党がまるっと逆転する事態となった。
ナチスとの協力関係を模索するシュライヒャーにより、グレーナー辞任劇、ブリューニング罷免が起きる。


ナチス共産党は、いずれも共和国体制の打破を目指していて、議会制民主主義を軽んじているという意味で似ていたようだ。
また、共産党は、社会民主党の方をより危険視・敵視していて、ファシズムの危険性を軽視していた、というのもあるみたい。

第十二章 共和国の最期

ブリューニングの後、シュライヒャーが担ぎ上げたのは、パーペンであった。
パーペンは国民的には無名の人物で、シュライヒャーとしては傀儡にうってつけではあった。
1923年7月選挙の直後、国会が解散され、11月にも選挙が行われた。
この7月選挙と11月選挙の間に、ベルリンでストが起きたのだが、この際、ナチス共産党の共闘があった。資本家への接近を続けていたナチスが、もとの支持層である労働者への人気をてこ入れするために行われた協力関係であったが、あまり功を奏さず、11月選挙においてナチス議席は減少する。ナチス人気はここでピークをすぎたと思われた。
ところで、シュライヒャーの傀儡としてたてられたパーペンだが、パーペンにも野心はありシュライヒャーと対立した。
結局パーペンは失脚し、シュライヒャーはついに傀儡者を見つけられず、自身で内閣を組織することになる。
シュライヒャーはヒトラーを警戒し、ナチス内部の反ヒトラー派であるシュトラッサーを通じてのナチス工作を行うが、既にナチスは完全にヒトラー派で占められており、この工作は失敗する。
そして、パーペンによるシュライヒャーへの反撃が始まる。元々反ヒトラーだったパーペンが、ここにきてヒトラーと組む。また、首相となったシュライヒャーは、あらゆる階級に対して政策を約束せざるをえず、元々の支持基盤であったユンカーと対立してしまう。
この結果、シュライヒャーは退陣。翌年、シュライヒャーはナチスによって殺されている。
ヒンデンブルクヒトラーを嫌っていたが、まだヒトラーをコントロールできると思っていたパーペンにより、ヒトラー内閣が成立する。パーペンは副首相の立場につくが、しかし、ヒトラーをコントロールできるわけもなく、授権法の成立などをなすすべもなく見守るしかなかった。


全然どうでもいい話だけど、ミュラーとかゼークトとか出てくると、どうしても銀英伝がちらつく

*1:これに対して「和解の平和」を主張した3党がのちのワイマル連合となる

ルーシャス・シェパード『美しき血(竜のグリオールシリーズ)』

超巨大な竜グリオールを描く連作シリーズの最終作。
グリオールシリーズは、以前、第1作目の短編集であるルーシャス・シェパード『竜のグリオールに絵を描いた男』 - logical cypher scape2を読んだ。
第2中短編集として『タボリンの鱗』があり、本作は3作目であり、唯一の長編作品となる。今回、刊行順ではなく『タボリンの鱗』は飛ばして先に『美しき血』から読んだのは、他の人の感想とかを読む限り、『タボリンの鱗』はちょっと異色の作品で、本作の方が普通に面白そうだったので。
筆者が2014年に70歳で亡くなったため、これが遺作となった。


グリオールは、何千年にわたって全く動かず横たわっていて、その周辺にテオシンテという町ができている。町の住人たちからは信仰の対象ともなっており、また、実際に人々の精神に働きかけていると信じられている。
本作の主人公リヒャルト・ロザッハーは、グリオールの血がある種の麻薬となることを知り、これを販売して巨万の富を稼ぐ。
そんなロザッハーが、妻や部下から裏切られたり、グリオールへの信仰に目覚めたり、テオシンテと周辺国をめぐる謀略に巻き込まれたりしていく物語で、彼の半生を描いていく。
なお「竜のグリオールに絵を描いた男」の主人公であるメリック・キャタネイも登場する。また、「タボリンの鱗」のエピソードもかかわってきていたらしい。


ロザッハーはもともと血液学を専攻しており、その延長で、グリオールの血液について研究することを思い立つ。
ところが、グリオールの血液採取を依頼した男と報酬をめぐりトラブルを起こし、グリオールの血液を注射されてしまう。すると、彼の感覚に変化が生じ、目に見えるあらゆるものが光り輝いて見えるようになり、その頃世話になっていた娼婦のルーディの姿が理想の女性に見えるようになった。
しかし、その後、ロザッハーが眠りから目を覚ますと、4年の月日が経っていた。彼はその間、グリオールの血液をもとにして作った薬マブの販売で巨万の富を得ていた。妻となったルーディは、よきビジネスパートナーとなっていたが、一方、夫婦としての関係は完全に冷え切ったものになっていた。ロザッハーは4年間の間に起きたことを知識としては思い出せたが、自分で体験したという感覚はなくなっていた。
彼はもはや研究者ではなくなり、麻薬組織のボスとなっていた。
マブは、それを取り締まる法律がそもそも存在していないので、違法というわけではなかったが、当然ながら、教会と議会はそれぞれよく思っていなかった。ロザッハーは、教会や議会とも色々と取引を持ちかける。
そうした中で、議員のブレケとの知己を得る。また、グリオールを殺す策を議会に上申しにきたメリック・キャタネイとも出会う。


その後、また時間が飛んだり、暗殺されかけたり(そしてそれを未来の自分からの警告で回避したり)する。
妻と部下からの裏切りにあった後、かつての使用人であったマルティータと再会する。彼女は、ロザッハーの知らぬところでロザッハーとの子を妊娠し、そのままロザッハーの屋敷を追い出され、流産していた。しかし、彼女はロザッハーに対して依然好意的であり、ロザッハーは彼女のもとに身を寄せる。
マルティータの店にいた鱗狩人に連れられて、グリオールの翼のもとへといく。「ひらひら」という虫に襲われて、顔におおきな傷跡が残る。一方、そこの生物群集の豊かさや静謐さに魅了されていく。
そして、マブをもとにグリオール信仰の宗教をたちあげていく。
かつての娼館を立て直し、表向き娼館としつつ、「グリオールの館」という聖堂の建築に取りかかる。
ブレケが、ロザッハーの動向をさぐるべくスパイを送り込んでくる。この女スパイであるアメリータとも恋愛関係が生まれる。彼女は、芸術的才能を発揮するようになる。
ロザッハーは、人と比べて著しく老化が遅くなっており、マルティータとの間もそうであったが、アメリータとの間でもその差が目立つようになっていく。彼はようやくそれがグリオールの血を大量注射されたためではないかと気付き、アメリータにも注射するのだが、アメリータには違う効果が出る。
ブレケは、隣国のテマラグアへの領土的野心を抱き、また、やはり隣国で宗教国家であるモスピールとも緊張関係を抱えていた。
ブレケとロザッハーは再び手を結ぶことになり、ロザッハーは渋々ながら、テマラグアの皇帝カルロスの暗殺計画に加担することになる。
平原に住むチェルーティというアウトサイダーな男と、そのもとにいる謎の存在フレデリックフレデリックは、かつてグリオールの翼の下にいたものの正体で、もとは人間だったらしいのだが、今は不定形で残虐な獣のような存在になっている。そのフレデリックにカルロスを殺させようという計画だった。
こうしてロザッハーは、チェルーティ、フレデリックを連れてテマラグアへ密かに潜入するのだが、そこで出会ったカルロスは、まごうことなき善人で優れた統治者であった。ロザッハーは、カルロスがナルシストであることを見抜くが、そのナルシズムが彼の善政や勇気をの源でもあった。ロザッハーは、カルロスに自分と似たものを見いだすが、だからこそ、その違いもはっきりしており、罪悪感に苛まれる。


もともとは科学の徒であり、グリオールに対してもその超常的な能力を全く信じてはいなかったロザッハーが、次第次第に、自らもまたグリオールによって使役されているだけの存在だったのではないかと思うようになる。
彼はしかし、その人生の大半を、ある種の犯罪者・謀略者として生きた。その過程で裏切りにもあうが、ブレケとは互いに騙し合いをしていたりしている(ただその点でブレケの方が若干上手ではあったのだが)。
彼は、グリオールの血の効果によって、老化が止まって(ないし著しく遅くなって)いたので、周囲の人々が先に老いて亡くなっていったりしていく。ただ、最終的には、決して不老不死になったわけではなく、彼もまた老いて死んでいくことになることが示唆されているが、グリオールの力が失われたからなのだろう(キャタネイの策がうまくいったのか、グリオールは滅ぶ)。


ところで、この作品はもちろんファンタジーなのだが、本作では、完全な異世界ではなく、どうもテオシンテは南米あたりにあるらしいということが示されている。
テオシンテ、テマラグア、モスピールは明らかに架空の地名・国名であるがしかし、テマラグアがグアテマラのもじりなのだろう。
そして、ヨーロッパやアジア、ロシアといった地名も出てくるし、ロザッハーがドイツで生まれ育った人物であることも明示されている。ロザッハーは、グリオールのもとの生物群集に対して、当初は、ウォレスやフンボルトを引き合いにだして理解しようとしていたりもする。
実は、他の人の感想記事見たりした時は、このあたりが一体どうなっているのかが気になったのだけど、読んでみると意外と違和感なくすんなり読めてしまうし、逆に、現実世界の中にテオシンテがあることが何かの仕掛けになってる感じもしなかった。