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2017-08-15

[]冲方丁テスタメントシュピーゲル』3下

堂々の完結!

帯によれば、「10年がかり」とある。

自分は2009年からの読者なので、この物語との付き合いは8年ということになる。

これまでの感想

冲方丁『スプライトシュピーゲル』『オイレンシュピーゲル』 - logical cypher scape

あんまりちゃんと感想メモ書けてなかったけど、読んだ本の記録1 - logical cypher scape(『テスタメント・シュピーゲル』1感想)

冲方丁『テスタメント・シュピーゲル2』上巻 - logical cypher scape

『テスタメント・シュピーゲル2』下巻 - logical cypher scape

冲方丁『テスタメントシュピーゲル』3上 - logical cypher scape


全てが落ち着くべきところに落ち着いた、まさに大団円

それはある意味予定調和なのだけれど、しかし、ここに至るまで、本当にこの終わりにたどり着くことができるのか、という様々な問題・事件が降りかかってきていた。

あとがきには「同じ事件・異なる物語が交錯し衝突する同時多発ストーリー」とある。

本当に、同時にいくつもの様々な出来事が並行して多発する作品であったが、また終わってみると、作品世界内で十数年に及んで発生した様々な事件が、それぞれ別個のものと思われてきた事件が、一つの大きな事件であったということが明らかになっていく物語でもあった。

そしてその全てが解決する。

そして主人公たちはみな新しい道へと向かうことができるようになる。

とてつもない希望の物語だ。

お話だからそうなるのは当然、なのか。

いや、あらゆるキャラクターが死力を尽くしてこの結末をもぎとったのだ、と確かにそう感じられるから、とてつもない希望の物語になっているのだ。



3巻の下巻は、やはり前半、ガラテア・コンプレックスを完成させていくくだりが、本当にやばくて、何度も泣きかけて

陽炎が、黄色い感じとかヘイジョーシンとか言い出すのとかもすごくいいし

水無月シャーリーンを翻弄する小気味よさとか

鳳の口上、もう一体何巻ぶりだよとか

そして、すべての戦力が集結しての反転攻勢

ここから物語はいわば怒涛の解決編を突き進んでいく

特甲猟兵のことは正直残念でならないけれども、一つ一つに確かに決着がついていく

「報われざること一つとしてなからんことを」!

2017-08-09

[][]金杉武司「自己知と自己認知」(『シリーズ新・心の哲学1認知篇』)

『シリーズ新・心の哲学』の中で、とりあえず自己知の章だけ読みたかったのでそれだけ。

ただ、他の章も気になったものがあるので、後日また読むかもしれない。

第1章は、フォーだーの思考の言語説(LOT)及び概念原子論とそれに対する認知心理学プロトタイプ説などの反論の整理らしい(フォーダーは2008年に『LOT2』という著作を出しているらしい)

第2章は、いわゆるウォーフ的な言語相対性仮説について

シリーズ 新・心の哲学I 認知篇

シリーズ 新・心の哲学I 認知篇

序論  思考の認知哲学[太田紘史]

 1 思考の構造

 2 思考と合理性

 3 思考についての思考

? 認知の本性

第1章  概念の構造とカテゴリー化[三木那由他]

 1 はじめに

 2 カテゴリー化の心理学

 3 概念原子

 4 諸理論の統合

 5 情報原子論と二重説の批判的検討

 6 おわりに

第2章  思考について考えるときに言語の語ること──言語学認知神経科学観点から[飯島和樹]

 1 はじめに

 2 言語が世界を色づけるのか?

 3 知覚的な数、言語的な数

 4 文と思考を組み立てる

 5 おわりに

第3章  思考の認知科学合理性[太田紘史・小口峰樹]

 1 人間の思考は合理的

 2 ヒューリスティクスバイアス

 3 言語との類比からの議論

 4 生態学合理性と「ツールボックス

 5 二重プロセス理論から三部分構造モデルへ

 6 結 語

? メタ認知の本性

第4章  自己知と自己認知 金杉武司

 1 はじめに

 2 直接性と確実性

 3 面識説

 4 内的知覚説

 5 自己知と現象的意識

 6 自己解釈説

 7 合理性

 8 自己知の説明から心と自己の理解へ

第5章  他者理解──共感とミラーニューロン[信原幸弘]

 1 他者の心を理解するとはどのようなことか

 2 他者の心はどのようにして理解されるのか

 3 心の身体性

 4 ミラーニューロンと暗黙的シミュレーション

 5 むすび

読書案内

あとがき[信原幸弘]

事項索引

人名索引

自己知と自己認知

自己知の特徴として、「直接性」と「確実性」をあげる。

確実性はさらに、不可謬性と網羅性に分析される

面識説

内観によって説明する説

内観によって自分の心的状態を観察するが、普通の知覚と違って、観察対象との因果的な媒介過程を通じて形成されるわけではない

認識対象が認識状態の一部を構成する

見えと実在のギャップがないので、不可謬性を含意する(ガートラーは面識説でも誤りうることを主張するが、他の知覚とはその理由が異なる)

クオリアについては妥当しそうだが、命題的態度には問題がある

内的知覚説

同じく内観によって説明する説

面識説とは違い、普通の知覚と同様、因果的な媒介過程があると考える

アームストロングによる「自己スキャニング」

認知科学における、ニコルズとスティッチの「モニタリング機構理論」

この説では、直接性はあるが、完全な確実性(不可謬性)はない


自己知と現象的意識

第5節で、自己知と現象的意識(クオリア)との関係が論じられており、実を言えば、この節が一番気になっていたのだが、議論の内容が全く理解できなかった……

ゾンビ論証に背景にあるものの考え方と、面識説・内的知覚説の背景にあるものの考え方をそれぞれ比較している。

ゾンビ論証においては、思考可能性が形而上学的可能性を帰結するとしているが、物理学者は、思考可能性から形而上学的可能性は帰結しないと考える。なぜなら、水がH2Oでないことが思考可能だからといって、その形而上学的可能性は帰結しないのと同様だと。

これを筆者は、見えと実在にギャップがあり、現象的状態を、「隠れた本質」があるものとして理解することだと述べる。

一方、面識説には、見えと実在にギャップがなく、内的知覚説には、見えと実在にギャップがある。

ここから、面識説は、ゾンビ論証を支持する見解に一致する、と述べる。

ゾンビH2Oの話もちょっとよく分からないところもあるんだけど、まあわからないではない。

面識説と内的知覚説の違いも、わかる。

しかし、その2つから、なんで面識説とゾンビ論証支持派とがつながるのかが、全然ピンとこない。

自己解釈説

ここから先は、特に、命題的態度の自己知について。

自己認知と他者認知では、そのプロセスに本質的な違いはないとする説

ライルやデネットの説として知られる。

近年、認知科学では、カルザースによる「解釈的感覚アクセス理論」がある。

同じ認知科学でも、ニコルズとスティッチの「モニタリング機構理論」などからは反論されている。

他者認知は、他者の行動を外部から観察して、そこから解釈によって他者に心的状態を帰属すると考えられる。

自己認知(自己知)についても、自分の行動を観察して、そこから解釈によって自分の心的状態を知るのだ、と考えるのが自己解釈説である。

この場合、直接性も確実性もない、ということになる。

自己認知の方が他者認知より確実性が高く見えるのは、使える証拠の量が多いから、。


合理性

これに対して、主体が命題的態度を持つためには主体合理性でなければならず、主体合理的であるならば、命題的態度の自己認知には確実性がなければならないとする立場が、合理性

シューメイカーなどの立場とされる。

また、確実性だけでなく直接性も必然的だとする。

主体合理的であるためには、主体が自己帰属させる命題的態度にコミットメント、つまりその命題の真理性を引き受けていなくてはならない。

さて、この命題的態度の自己帰属コミットメントにおいて、主体は「透明化」されていると言われるのだが、このことについては、モランならびに、モランが引用するエヴァンズの見解が紹介されている。


信念を自己帰属させる際、主体の眼はいわば、あるいはときに文字通りに、外界へと向けられる。「あなたは第三次世界大戦が生じると信じているか?」と問われたとき、私はそれに答えるために、「第三次世界大戦は生じるだろうか?」という問いに答えるために目を向けるのとまったく同じ外界の現象に、目を向けるに違いない。私は、Pかという問いに答えるための手続きを遂行することによって、自分がPと信じているかという問いに答えようとするのである。(Evans1982,225)

(p.194)

ここでは、自己認知は、内観によって説明されていない。

「自分はPを信じている」と言える(そういう信念についての自己知がある)ためには、Pの真理性にコミットメントしていなければならない。だからこそ、「Pを信じているか」という問いは「Pか」という問いとして変換されるのであり、この時、「私」という主体と「~を信じている」という態度は「透明化」されている。

合理性説は、この透明化手続きによって、自己知の直接性を説明している。

「P」という判断から、「Pを信じている」という信念を自己帰属させるのは、自己解釈ではなく技能知にもとづく、ともしている。


鈴木本における自己知の見解

鈴木貴之『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう』 - logical cypher scapeでも、自己知について言及されている。

意識の表象説及び物理主義から、内観説の立場はとれないと述べられている。

内観説は、内観という内的知覚の対象が主体の内部にあるというものだが、表象説において、そのような対象は存在しない。

また、現在の科学によれば、内観のための感覚的器官は存在しない。

というのが、その理由であるが、それ以上はそれほど内観について多く論じられてはいない。もっとも、認知科学において、内観説の一種である内的知覚説を支持しているならば、現在の科学において〜のところは、必ずしもそう言い切れないのかもしれない。

さて、内観説の代わりに、鈴木本で挙げられているのは、エヴァンズ(Evans 1982)による考えである。

エヴァンズによれば、外界についての知覚(赤いリンゴ)が生じれば、それについての信念(「赤いリンゴがある」)が生じ、そこからさらに「私は赤いリンゴがあるのを見ている」という信念が形成されていく。

ここでは、外界についての信念が生じれば、それに「私は〜見ている」を形式的につき加えるだけで、意識経験についての信念が生じるので、そこに推論は必要なく、直接性があることになる。

金杉論文でも鈴木本でも、同じEvansの”The Varieties of Reference”という本が参照されている。


金杉論文では、命題的態度についてを分けていたので、鈴木本の命題的態度についての考えにも触れておく。

鈴木本では、命題的態度を、意識的な命題的態度と無意識的な命題的態度にわけ、後者は行動に直接結びつくわけではなく、本来的表象ではないとしている。

一方、意識的な命題的態度については、それの内語(音声イメージ)を知覚しているのだと論じている。


自己知と少し離れるが、イメージの意識体験について、鈴木本の主張が面白いのでメモっておく。

鈴木本は、意識の表象説の立場をとり、意識体験は全て知覚体験だとする。

そして、内的なイメージ・内語・思考もまた、知覚体験なのだと主張している。

内的なイメージは、真正ではない知覚体験なのだ、と。

これについて、古典的実験の実例をあげている。被験者に白いスクリーンを見せて、何かある色をイメージしてもらう。そして、そのスクリーンに薄く色を映すが、被験者はこれに気付かないという。知覚とイメージが同じ体験なのだと述べられている。

2017-08-05

[][]鈴木貴之『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう』

サブタイトルは「意識のハード・プロブレムに挑む」

意識の自然化に挑むものであり、「本来的表象はすべて意識経験である」という「ミニマル表象理論」を展開する。

結論部に筆者の主張がまとめられているので、一部を以下に引用する。

◎意識経験は全て知覚経験だ。そこで経験されるのは、外界にある事物のさまざまな性質だ。

(中略)

◎本来的表象とは、生物の神経系において、感覚入力と行動出力を媒介する内部状態だ。(中略)

◎本来的表象によって表象されるのは、事物の物理的性質ではなく、表象システムに相対的な性質だ。経験される性質は、事物の物理的性質に還元不可能だ。

◎経験される性質は、事物の客観的な性質だ。

(p.218)


何年か前に、この本に関するWSを見に行ったことがあった

科学基礎論学会WS「現実とフィクションの相互作用」「意識のハードプロブレムは解決されたか」科学哲学会WS「心の哲学と美学の接続点」 - logical cypher scape

この上述の記事の中のメモで「経験される性質は、物に帰属される性質だが、物理的性質には還元されない」と書いているのだけど、ここよくわからなかったのでWS終わった後に筆者である鈴木さんに念押しして聞いたところだったかと思う。

経験されるのは、経験の媒体の性質ではないのであって、物の方の性質だが、表象システムに相対的なので、還元できないということかな

意識経験は、神経系と外界の事物の合わせ技で生じているということなのかなーとも思う。物理主義的に理解するという意味では、神経系と外界の物理的な事実にスーパーヴィーンしているのだろう、と。

表象システムに相対的という、この論のポイントが、グッドマンに由来しているのも面白い。

面白いのは内容理論かな

色とか、波長として経験されるのではなく、色として経験されるのはなんでだってのが、意識の現象性の問題のポイントだと思っていて、それに対する答えとしては、今まで読んできた意識理論の中では、一番、その問題に答えようとしている形の答えだった。

あと、知覚という表象と信念という表象の違い、というのが、意識のハード・プロブレムの根底にあるのではないか、という指摘が、今まで考えてなかったところで面白かった。


1〜4章は、既存の議論の整理

5〜7章が、筆者の立場からの議論

序論

第1章 意識のハード・プロブレム――特別な難問

 第1節 物理主義――問題の背景

 第2節 なぜ意識の問題は特別な難問なのか

第2章 意識のハード・プロブレムは解決不可能か

 第1節 思考可能性論証――ハード・プロブレムは解決不可能?

 第2節 新神秘主義――ハード・プロブレムは人間には解決不可能?

 第3節 タイプB物理主義――ハード・プロブレムは解決不要?

第3章 意識の表象理論――もっとも有望な理論

 第1節 クオリアにかんする志向説――クオリアとはなにか

 第2節 志向説を一般化する――意識経験は知覚経験である

 第3節 さらなる反例に対処する

 第4節 意識経験の一般的特徴を説明する

第4章 意識の表象理論の問題点

 第1節 意識経験と表象の関係――表象が意識経験となるには

 第2節 物理的性質と経験される性質の関係――色は表面反射特性

 第3節 意識経験の実在性――なぜそこにないものが見えるのか

現在地点の確認

第5章 本来的志向性の自然化――表象とはなにか、もう一度考えてみる

 第1節 自然主義的な志向性理論――いかにしてあるものは別のものを表すことができるのか

 第2節 本来的志向性と派生的志向性――意識経験と文や絵の違い

 第3節 本来的表象の自然化(その1)――なにが本来的表象なのか

 第4節 本来的表象の自然化(その2)――本来的表象はなにを表象しているのか

第6章 ミニマル表象理論――意識と表象の本当の関係

 第1節 ミニマル表象理論――本来的表象は意識経験である

 第2節 自然主義観念論(その1)――物理的性質と経験される性質の関係

 第3節 自然主義観念論(その2)――そこにないものが見える理由

 第4節 ミニマル表象理論から言えること

第7章 ギャップを無害化する

 第1節 3つの応答の試み

 第2節 知覚と思考――ギャップの正体

結論、または間違いさがしのお願い

用語解説

参照文献

あとがき

人名索引

事項索引


序論

意識の問題と、自己の問題、自由意志の問題、心身問題はそれぞれ別の問題であると指摘している


第1章 意識のハード・プロブレム――特別な難問

物理主義とは何か、ハード・プロブレムとは何かの説明

 

第2章 意識のハード・プロブレムは解決不可能か

逆転クオリアゾンビ論証、新神秘主義、タイプB物理主義への反論

逆転クオリアゾンビについては、そもそもその概念自体が不整合じゃない? という点と

ゾンビそのものが思考可能なのではなく、ゾンビが思考可能な状況が思考可能なのではないの? という点が指摘されている

逆転クオリア概念の不整合性として、青と赤が入れ替わったとして、他の色との関係なども考えないといけないのでは、という指摘は、なるほどーと思った

 

第3章 意識の表象理論――もっとも有望な理論

意識を表象によって説明するのが一番有望だということを示す章

意識経験は、感情なども含めて、全て知覚経験であること

意識経験の特徴である、自己知、注意を向けること、統一性なども、表象理論と整合的であること

が示される


第4章 意識の表象理論の問題点

表象理論の問題点があげられる章

第1節 意識経験と表象の関係――表象が意識経験となるには

意識は表象であるとしても、表象の中には意識でないものもある。意識である表象と意識でない表象を区別するものは何か

意識であるためには、高階の表象である必要があるという立場を、高階表象理論と呼ぶ

高階表象理論の中には、二階の表象は一階の表象を対象とする知覚であるとする高階知覚理論と、そうではないという高階思考理論とがある。

特殊な高階思考理論として、意識経験が質的な性格を持つことと意識的な心的状態であることを独立の問題だと考えるローゼンサールの立場を紹介している。

いずれにせよ、筆者は高階表象理論は、説得的ではないと考えている

高階表象は必要ではないという立場としては、

タイのPANIC(抽象的で非概念的な志向的内容)理論

バースのグローバル・ワークスペース理論

前者は、言語や概念的な思考ができないと意識をもてないことになるのが問題

後者は、そのような問題をもたないが、行動制御への利用が意識であることの条件とするので、今度は条件がゆるすぎるという問題


第2節 物理的性質と経験される性質の関係――色は表面反射特性

個人的には、意識の問題というのはここが一番ポイントなのではないかと思っている。

リンゴのもつ表面反射特性などの物理的性質と、赤さという経験される性質は、どのような関係にあるのか

タイはむしろ、網膜の錐体細胞が反応する波長における反射率という物理的性質と対応しているのだと論じるが、いずれにしても、経験される性質との関係はわからない

物理主義者は、表象の対象と表象の対象の提示様式(mode of presentation)の区別*1によって解決しようとする。

しかし、提示様式の違いによって説明できるのか

意識経験においては、表象媒体が意識経験に現れることなしに、表象内容が意識経験に現れる(中略)提示様式の担い手である脳状態が意識経験に現れることなしに、赤さそのものが意識経験に現れる。これは、意識経験の基本的な特徴であると同時に、きわめて不思議な特徴だ。そして、表象の提示様式を持ち出すだけでは、意識経験である表象だけがなぜこのような特殊な性格を持つのかが、説明できないのだ。(p.113)

このあたり、源河亨『知覚と判断の境界線』 - logical cypher scapeとも関連しそうな議論

筆者によると、意識の議論でこの「透明性」はあまり指摘されない論点らしいが、ウィリアム・シーガーという人が論じているらしい。

意識が表象であることを強調すると意識の特殊性が、意識の特殊性を強調すると物理主義が維持しがたくなるという物理主義者のジレンマ

(注69)*2経験される性質が物理的性質にほかならないことを、提示様式の違いによって説明しようとすれば、提示様式の担い手となる非物理的な存在者が必要となる。これは、経験にセンス・データが現れることを認める、非物理主義的な弱い志向説にほかならない。(p.245)

個人的には、筆者の「ミニマル表象理論」もわりとセンス・データ説的なものと紙一重なところがあると思う。

筆者自身、この理論を自然主義観念論と呼んでいたりする。

むろん、センス・データ説と違って自然化されていて、それはこの後の章を読めばわかるのだけれども。

「経験される性質は、事物の物理的性質に還元不可能だ」というあたり

第3節 意識経験の実在性――なぜそこにないものが見えるのか

このあたりの話は、もろにセンス・データとの関連で源河亨『知覚と判断の境界線』 - logical cypher scapeにもあったような話題かと

幻覚や錯覚の経験について

筆者は、「物理主義者は、意識の自然化を達成するために意識経験の実在性を否定するか、直観を守るために物理主義放棄するか」選ばなければならないという(p.116)。

第一の選択肢をとるものとして、信原やデネットがいるというが、このみちは、筆者によれば意識経験そのもの否定であり、消去主義ないしラディカルな修正主義であり、ローゼンサールの立場同様、あまりすすめられたものではない、と。


第5章 本来的志向性の自然化――表象とはなにか、もう一度考えてみる

従来の理論

まず、自然主義的な志向性理論として、ドレツキの共変化理論、ミリカンの目的論的な理論とその問題点を紹介(例えば、目的論的な表象理論は外在主義的な表象理論と緊張関係にあるなど)

また、共通の問題点として

(1)心的な表象にも心的ではない表象にも、また意識的表象にも意識的ではない表象にもあてはまる理論になっている

(2)表象される対象の性質と経験される性質の関係が説明できていない

(3)志向的内容への存在論コミットメントをもたない 

本来的表象について

続いて、本来的表象と派生的表象とを区別する

そして、表象を持つものと持たないものとの違いについて

この世界の存在者を段階を追って説明していく

(1)岩や植物など動かない存在者

(2)自ら運動する能力を持つが、周囲のあり方に関係なく、決まった仕方でのみ動く存在者

(3)周囲のあり方に応じて運動の仕方を変化させるタイプの存在者

(4)自分自身と離れた世界のあり方に応じて、行動を変えることができるタイプの存在者

生物は、この第四段階に至ると、本来的表象を持つようになる、と。

ある生物Oの内部状態Sが本来的表象である⇔「Sがあるとき、そしてそのときにのみOはφする」を満たす行動φが存在する(p.137)

本来的表象は、3種類に区別される

単純な認知システムしかもたない生物は「オシツオサレツ表象」をもつ

複雑な認知システムをもつ生物では、これが「記述的な表象」と「指令的な表象」とに分化する。

本来的表象はなにを表象しているのか

ここが、特にこの本の中では面白かったと思った部分かなー

「内在主義的な内容理論」と「消費理論」によって説明する

本来的表象は、世界をありのままに写し取ることを目的とするのではなく、みずからの生存にとって有用な仕方で世界を分節化することを目的とする。この点を明確にするために、事物それ自体のあり方を写し取る表象再現表象と呼び、事物をみずからの関心に応じて分類する表象を分節表象と呼ぶことにしよう。(中略)本来的表象は必然的に分節表象だということだ。(p.142)

(このような考え方は、ユクスキュルの環世界やハイエクの感覚秩序と同様の発想だという*3

そのうえで、本来的表象の志向的内容というのを、表象システムの持つ構造=質空間に位置づけるという「内容理論」を展開する。

例えば、色は、明度、彩度色相の3つの次元からなる色立体の空間の中に位置づけられる。

表象する性質が構成する空間が、この色立体と同型の構造を持つのであれば、その表象は色を表象することになる。

筆者自身が指摘しているように、これは色はともかく、他の性質についても同じように当てはまるかどうかという問題はあるけれど、面白い

表象表象しているものは表象システムに相対的に決まるという考え方を、グッドマンから継承しているらしい

また、この考えた自体は、グッドマンから由来して、クラークが本格的に展開しているそうだ。

クラークは、音や形についても質空間を構成できると考えているそうだ。

オシツオサレツ表象については、消費理論によって説明される

記述表象は、内容理論によって説明される。

記述表象ならびに内容理論は、オシツオサレツ表象ならびに消費理論の特殊形態という位置づけで、消費理論の方が本質的

消費理論は、誤表象説明することができ、物理主義が使える道具立てで説明可能。


第6章 ミニマル表象理論――意識と表象の本当の関係

ミニマル表象理論:ある表象が本来的表象である⇔その志向的内容は意識経験の内容となる(p.158)

もともと、表象理論の問題点として、意識的表象とそうではない表象との違いが説明できないというものがあったが、ミニマル表象理論では、本来的表象であればそれは全て意識経験になるというのが、ミニマル表象理論

意識のハード・プロブレムと知覚or信念

意識の表象理論について2つの要素がある

・意識経験はすべて知覚経験である

・意識経験は、文や信念・欲求などと同様の表象である

前者は修正の必要はないが、後者には修正の必要がある、というのがミニマル表象理論のポイント

意識経験となる表象とそうでない表象とは、そもそも種類が異なる(本来的か派生的か)表象であり、この点を見逃していることによって、意識のハード・プロブレムが生じていたと。

また、注103の中に書かれているのだが、意識のハード・プロブレムの背景として、わりと重要だと思われることが書かれている。

心に関する二つの見方がある。

・心的なものを、主体の経験や一人称的な視点から理解する見方

(この場合、心的なものの典型は知覚や感覚)

・心的なものを、主体の行動を生み出す内部状態として理解する見方

(この場合、心的なものの典型は信念や欲求

前者は、デカルトなど過去の哲学者、後者は、現代のココロの哲学心理学

ハード・プロブレムの根底にあるのは、この2つの見方の緊張関係だ、と。

あんまり考えたことなかった観点だった


反例と思われるものについての検証

意識的ではないが、行動を生じさせるような表象の例として、盲視やプライミング、命題的態度、高次の性質などを挙げるが、これらに対処可能であることを論じている


物理的性質と経験される性質

経験される性質は、主体表象システムの在り方に相対的な、外界の事物の性質である

表象システムの相対性によって、人間と異なる生物種によって経験が異なること、また同じ人間でも個人間で経験が異なることがあることが説明できる。

これは、二次性質の話ではないか、という指摘に対して、一次性質も事情は同様だとしている。

一次性質と二次性質の違いは、対象の物理的性質と経験される性質のあいだに同型性が成り立つかどうかの違い

長さは、物理的なそれも経験されるそれも、直線状の一点に位置づけられるが、色は、方や空間における一点、方や色立体の中の一点として位置づけられているもの、という違い

経験される性質は、物理的性質には還元不可能である。

一方で、知覚から物理的性質に到達できないわけではない。

また、経験される性質は、あるタイプの知覚表象システムを持つ個体すべて(つまり人間という種に属する個体は(基本的に)すべて)表象可能だという点で、客観性をもつとされる。

物理的性質は因果的効力を持つが、経験される性質は因果的効力をもたない。

物理的性質は、意識経験に直接現れることはない。が、思考や文においては、表象することができるし、霧箱による放射線の観測などのように、間接的に知覚することは可能。このことを筆者は、「物自体を知覚することはできないが、思考することはできる」と述べている。

意識の自然化に成功したのか

筆者はイエスでもありノーでもあるという

経験される性質は、なんらかの物理的性質に還元されることによって、物理的世界に位置づけられるのではないということだ。物理的性質を持つ事物からなる環境のなかに本来的表象を持つ生物が存在すするという、それ自体としては物理主義的に理解可能な事態が成立することによって、物理的性質に還元不可能な精鋭つが、物理的世界の新たな構成要素となるのだ。このような考え方を、自然主義観念論と呼んでもいいだろう。(p.178)

意識の自然化を、意識経験を物理的性質に還元することではなく、物理的な世界に独自の身分を与えることとしている。

このあたりは、なんというか、分かったような分からないような感じというか。

ここまでの議論は十分理解できるものなのだけど、なんかやっぱり、だまされているような気にもなる、不思議な感じがする。


意識経験の実在性について

幻覚や錯覚の問題

事物そのものを経験しているわけではないので、誤った経験が起こるのも当然

しかし、かといって、経験される性質が物理的性質と無関係なわけではない

どのような性質を経験するかは、世界の物理的なあり方によって決定される(=ミクロ物理的な事実に付随する)

繰り返し経験したり、複数の主体が経験したりすることができるという点で、経験される性質は客観的


動物やロボットの意識など
  • 動物

ミニマル表象理論からいえば、本来的表象をもっていれば意識経験をもっているので、動物も意識を持っているといえる。

また、神経系や行動を調べれば、どのように表象しているかもわかる。色の識別行動を実験で確かめれば、色という性質を経験しているかどうかわかる

しかし、表象システムに相対的であるので、コウモリと同じ経験を人間が経験することは不可能。

動物にも意識があるといって、人間と同じような意識であるというわけではない。例えば、他の動物が知性を持っているといっても、人間と同程度の知性ではなく、もっと原初的な知性であるように、意識にも、原初的な意識がある。

  • 乳幼児

神経系がある程度発達すれば、意識は生じると考えられるので、胎児のある段階から意識があると考えられる。

ただし、動物や乳幼児は、意識についての自己知は持たないのではないか、とも。

  • 人工物

ミニマル表象理論に、物理的な組成に関する制約はないので、理論上はロボットも意識をもちうる

第7章 ギャップを無害化する

知識論証に応えるというもの

知覚と思考を区別すること(非命題的な知識と命題的知識)で、これに応えている

知覚(本来的表象)は、自己中心的表象内容を持ち、それゆえ非概念的な内容を持つ表象となる。

思考は、推論関係を形成するため、概念である

また、そもそも知識論証で問題になっていることは、二元論においても同様に成り立つというチャーチランドによる指摘が紹介されている。

知識論証による問題は、自然化の問題とは別問題ということだ。

(参考)知識論証というと山口尚『クオリアの哲学と知識論証』 - logical cypher scape

*1:意味と意義の違いみたいな区別

*2:細かい話だが、脚注を巻末にまとめて載せるスタイルの場合、本書のように本全体の通し番号で注をふっているスタイルの方が、個人的には好ましいなあと思っている。章ごとに注番号がリセットされるスタイルのは、どの章の注かわからなくなることが

*3:参考文献の中にハイエクがあって、「なぜ?」と思っていたのだけど、こんな議論もしてたのね、ハイエク

2017-07-29

[][][]鈴木雅雄+中田健太郎編『マンガ視覚文化論 見る、聞く、語る』

鈴木雅雄編著『マンガを「見る」という体験』 - logical cypher scapeの続編

前著が、シュールアリスムとマンガとの比較という観点があったのに対して、こちらはよりマンガ中心である。

タイトルが示す通り、視覚文化論とのかかわりから論じられるものが多いが、それだけにとどまらず、聴覚文化論や物語論との接続がなされている。

表現論というところから始まって、マンガを読む際に、読者がどのような体験をしているのか、というところまで踏み込んでいるとも言えるかもしれない。

刺激的な議論が多くて、非常に面白かった

マンガ視覚文化論: 見る、聞く、語る

マンガ視覚文化論: 見る、聞く、語る

序章 「見る」ことから「語る」ことへ(中田健太郎

1 表現論と視覚文化論――「読む」のか「見る」のか

表現論」から二十年――マンガと近代について考えること(夏目房之介

マンガ、あるいは「見る」ことへの懐疑――いがらしみきおとマンガの「限界」(三輪健太朗)

「マンガと見なす」ことについて――「体験としてのマンガ」と少女マンガ様式(岩下朋世)

2 感覚の広がり――「見る」から「聞く」「感じる」へ

フキダシのないセリフ――私はあなたの声を作り出す(鈴木雅雄)

吹き出しの順序と帰属について(細馬宏通

漫画を「見る」という現象――人間とメディウムを中心にして(泉信行

3 語るイメージの近代――「読む」ことと「聞く」こと

まんがの形式化と物語(佐々木果)

初期ストーリー漫画におけるキャプションとフキダシ――漫画の語りに必要な言葉とは何か(森田直子

漫画を「聴く」という体験――漫画における音声表象の利用についての歴史的素描宮本大人

4 マンガのフレームとシステム――ふたたび表現をめぐって

多段階フレーム試論――目のひかりからコマへ(伊藤剛

切りとるフレームとあふれたフレーム(中田健太郎

反復の悪夢――漫☆画太郎と出来事の連鎖石岡良治

終章 観察者の行方――ポスター、絵本、ストーリー・マンガ(鈴木雅雄)

序章 「見る」ことから「語る」ことへ(中田健太郎

論文の内容と結びつきを紹介するものだが、後半で、中田自身の論も展開されている。

すなわち、マンガの中での「読む」シーンについて

まずは、『黄色い本』や『僕の小規模な失敗』における、登場人物が本や手紙を黙読しているシーンについて。読者が、登場人物の読書を追体験するようになっているシーンだが、単に黙読というわけではなく、様々な知覚がそこに加わってくることを指摘している。

さらに『花もて語れ』における朗読を取り上げ、語り手の語り口がイメージ化され、さらにコマ枠の変化やフォントの使い分けなどによっても語り口を現していく技法により、複雑化された知覚の断片の混ざり合いを見て取る。

「見る」などの読者の知覚について着目することで、従前の記号論物語論の延長にとどまらない議論が可能になると論じている。

1 表現論と視覚文化論――「読む」のか「見る」のか

表現論」から二十年――マンガと近代について考えること(夏目房之介

マンガ表現論といわれる言説の歴史を振り返ったうえで、「コマ」という概念に着目する。

「コマ」という概念が、実は曖昧であることを意識しつつも、しかし「コマ」概念こそが、視覚文化史を画するものなのではないか、と

テプフェールを取り上げるとともに、江戸時代の出版物の中に見出される「コマ」のような表現にも言及している。しかし、江戸時代にはこの「コマ」のような表現は結局定着しない。

「コマ」の、視覚文化史における「近代」を見出すが、一方で、これは必ずしも明確な始点を持たないのではないかとも述べて、近代を自明視することに注意を促している。


マンガ、あるいは「見る」ことへの懐疑――いがらしみきおとマンガの「限界」(三輪健太朗)

理論的には、映画批評理論やベルクソンを参考にしつつ、具体例としては、いがらしみきおを挙げながら、いがらしみきお作品が、マンガにおける「見る」ことの限界を描くことを通して、人間の知覚の限界をも示そうとしていることを論じている。

視覚と言葉、視覚と時間の2つのテーマがそれぞれ論じられている。

風景が言語化されてしまうことで失われてしまうもの

運動が固定化されてしまうことで失われてしまうもの

人間の知覚は、そうしたものを取り逃してしまう


「マンガと見なす」ことについて――「体験としてのマンガ」と少女マンガ様式(岩下朋世)

「マンガとは何か」という問いを「マンガとはいかなる体験か」という問いのかたちにとらえなおす

(例えば、コマ枠がない作品でも、マンガとして体験することは可能である)

そのうえで、1950年代の、絵物語と漫画やスタイル画の登場について論じている。


2 感覚の広がり――「見る」から「聞く」「感じる」へ

この章は、マンガ読者にとって、マンガで描かれていることがどのように現象しているか、という観点に特に着目しているものが集められているようだ。

フキダシのないセリフ――私はあなたの声を作り出す(鈴木雅雄)

音と絵が同期していないコマから、そもそも「瞬間が加算されて「出来事」が作られるのではなく、まず「出来事」があるのであって」、現実世界でもマンガを読む際にもそれは同じなのではないかと。

擬音語とも擬態語ともいえるような言葉について

マンガと呼ばれる宇宙では、分析すれば時間的なものと考えるのが合理的でありそうな要素と、同じく分析すれば空間的なものと考えるのが妥当に思えるそれとが区別されることなく共存し、協力し合って出来事を語っている。(p.129)

フキダシについても、その順序が不確定になるような例をあげて、単に音声の再現になっているわけではないと論じる

さらに、ナレーションや内語とセリフが混在する表現

ここでは、想起や思考と発話が同時に現象しながら時空間が作り出されている(おそらく現実でも同様に行われていること)

そして、『ベルサイユのばら』などに見られるフキダシのないセリフへと論は進む

フキダシのないセリフの形で提示されている言葉は、発話者が「実際に」口にしたものであると同時に、そしてそれ以上に、特定の聞き手が受け取った言葉なのではないか。(p.140)

そのセリフを「客観的」な音声情報としてだけでなく、聞き手(だけ)にとってとりわけ強い情動的な価値を持ったものとして示そうとするならば、やはり何らかの手段が発明されねばならないだろう。(p.141)

もはやそれが実際に発せられた言葉であるかどうかなど問題でなく、恋人たち2人は互いの思考を何一つ包み隠すことなしに共有しているというのが、読者の印象なのではなかろうか。(p.143)

また、泉信行によって論じられた、登場人物の誰かから見られた主観的なビジョンが描かれている事例とも類比されている。

最後に、このようなマンガのあり方の歴史性について、スモルデレンがあげた「ラベル」から「フキダシ(バルーン)」への変化という論点をあげている。

吹き出しの順序と帰属について(細馬宏通

吹き出しをどのような順序で読むか、またどの吹き出しがどの登場人物帰属するか、ということには、おおよその通例があって、マンガを読み慣れた読者は戸惑うことなく読んでいくことができる。

しかし、それはあくまでも通例であって、ズレる事例というのもある

筆者は、ワークショップの中で、参加者にどのような順序で読んだかクイズ形式で質問し、判断が揺れる事例を示す。

しかし、これらは単に読みにくいというわけではなく、むしろそこで複数の読みの中で揺れることが、その作品を読む楽しみや、その作品のテーマへとつながっていくことがあるというころを論じている。

細馬による吹き出しの帰属から作品を読み解く論としては、「ONE PIECE」の揺らす吹きだしの帰属と宛先 – マンバ通信も面白い。

漫画を「見る」という現象――人間とメディウムを中心にして(泉信行

泉がこれまで自ら行ってきたマンガ論へのアプローチの仕方を解説している。

マンガの紙面上に描かれていることにとどまらず、それがどのように読者にあらわれているのか、という観点から論じてきていたというのがわかる。

(泉は、紙面上に描かれていることを「表現」、読者の中でのあらわれを「表象」と呼び分けているようである。ここでいう「表象」は、心的なそれを指す)

さらに、感情移入や同一化といったことを、ボディマップ(の複製)という観点から考えていく(泉は、ラマチャンドランやダマシオなどを参照している)

このとき、「感情移入」や「同一化」といった言葉が、雑に使われがちであることを指摘している。

同一化させられるのは、思考なのか、感情や情動なのか、あるいは感覚なのかといったことを区別しなければならない。

例えば、痛そうな体験を描いたエッセイマンガを取り上げ、ここでは「痛い」という感覚については読者に同化させつつも、その登場人物の行為(つい痛いことを繰り返してしまうこと)には同化させないことで、異化を生じさせていることを論じている。

3 語るイメージの近代――「読む」ことと「聞く」こと

この章は、マンガ論と物語論を接続するような試みがなされている論が集められている感じ。

まんがの形式化と物語(佐々木果)

この論文はちょっとむずかしてくわかりにくかった


初期ストーリー漫画におけるキャプションとフキダシ――漫画の語りに必要な言葉とは何か(森田直子

キャプションとフキダシが、マンガにおける「語りnarration」にどのように用いられているかを論ずる。

マンガにおける語り手については、グルンステン(2011)による整理が参照されている。

(1)絵を並べることによる語り(視覚的提示monstrationとmonstrateur)

(2)言葉による語り(キャプションrecitatifとrecitant)*1

(3)絵と文字を組み合わせることによる総合的な「語り」(narrationとnarrateur)

また、議論をすすめる枠組みとしては、スモルデレンによる「ラベルからバルーン」へが参照される

遡ると中世美術においてもフキダシのようなものが見出される。しかし、スモルデレンは、「イエローキッド」によるフキダシの使用を画期として、それ以前と以後を区別した。

中世美術などに見られるのは「ラベル」で、人物名を示すなど「ラベル」的に使われており、声の表象とは用いられていない。これが、音声表象へと変わったのが「バルーン(フキダシ)」である。

キャプションが、マンガにおける語りにおいてどのように用いることができるか、という点について、テプフェール作品をちょっとおもしろい方法で分析している。

テプフェール作品は、言葉はキャプションとして書かれており、フキダシとして書かれてはいないのだが、筆者は、フキダシに置き換えてみるということをしている。

テプフェール作品は、キャプションをフキダシに変えてしまっても読めてしまう。

一方で、フキダシに変えてしまうことで、もともとあった効果がなくなってしまうところもある。

前者については、キャプションが普通「叙述」だと思われがちなところ、フキダシに変えてしまっても違和感ないということは、「提示」的なところがあったということである。

また、後者については、例えば、絵による語りとキャプション(言葉)による語りのズレによってもたらされるものである。ズレがアイロニーを生んでいた。


漫画を「聴く」という体験――漫画における音声表象の利用についての歴史的素描宮本大人

マンガにおける音声表象について、理論面と歴史面の両方について素描している。

例えば、フレームの外の声

シオンが映画について、視点と聴取点が分離されることを挙げたとを念頭に、『のらくろ上等兵』にもやはり、視点と聴取点が異なる表現技法があらわれていることを指摘する

また、マンガにおけるオノマトペについて、夏目、四方田、笹本、佐々木、泉による議論を紹介している。

オノマトペは、「代用サウンド」であるだけでなく、内面などをあらわしているものであることもある。映画理論における、「物語世界内の音」「物語世界外の音」といった分類と、マンガにおけるオノマトペ議論をつなげていく。

佐々木は、オノマトペを「誰による知覚か」と問い、音声表象の問題から語りの問題へとつなげていく。単なる音声表象ではない、と。

この論では、冒頭に、有名な藤子不二雄による『新寶島体験の記述が引用されているが、そこで藤子が「轟音を確かに聞き」というところに注目している。

さて、歴史的側面として、まず夏目が戦前戦中のマンガについて、オノマトペがあまり使われておらず「静か」であると述べていたところから始まる。

これに対して、無声映画との対比から、オノマトペがないからといって当時の読者にとって「静か」だったとは限らないということと、また実際に、オノマトペが様々な手法で使われていた事例をあげている。

また、物語世界外の音の使用についても、紹介している。


4 マンガのフレームとシステム――ふたたび表現をめぐって

多段階フレーム試論――目のひかりからコマへ(伊藤剛

紙面を区切るものとして、コマ、目、目の中のひかりなどを段階的にとらえるという議論

脚注におる「物語空間」というのがちょっと興味深かった

「物語世界」には含まれないような「仮想的なカメラ」を置くことができるような「空間」(p.332)

切りとるフレームとあふれたフレーム(中田健太郎

フレームというと「切り取る」ものと考えられることが多いが、あふれたものとして捉えるという論

あふれたフレームの具体例として「シール」をあげる

平面でありながら多層的であるあり方としての「シール」

絵の上に重なるフキダシ、スクリーントーン、コマそのものを実際にシールにしてしまった事例など

フレーミングレイヤリング

フキダシによる多層性により、「超越論的イメージ」が作品空間に貼り付くことや時間の多重性

イメージの時間とフキダシの時間

マンガのコマはフキダシという治外法権地を認めつつ、テクストとイメージという相容れないはずのものを、「おなじ物質で」あるかのように同居させている。(中略)マンガのなかではさまざまな水準のものが、たとえば「経験的なイメージ」と「超越論的イメージ」が、唯物論的世界と観念論的世界が、実在のものと認識されるものが、ひとつの物質性のもとにとらえられているのだから。(p.358)


反復の悪夢――漫☆画太郎と出来事の連鎖石岡良治

任意の時間を、階段→トラック→爆発というオートマティズムへとつなげてしまう恐ろしさ


終章 観察者の行方――ポスター、絵本、ストーリー・マンガ(鈴木雅雄)

マンガを視覚文化論の中に位置づけるために、ポスターや絵本と比較する

近代の視覚文化というか、美術は、ナラティブに奉仕しない芸術を目指したのだとグリーンバーグによって宣言されたが、いまや実際にそうではないことがわかっている

マンガは映画と比較されてきたが、それ以外にも、時間を生み出す近代のイメージとして、ポスターや絵本をあげる

そして、ポスターは「重ね合わせ」、絵本は「連結」、マンガは「並置」を手段としてきたいのではないかと論じている。

[][]土屋健『カラー図解 古生物たちのふしぎな世界 繁栄と絶滅の古生代3億年史』

講談社ブルーバックスから、古生代について1冊にまとめたハンドブック

古生代については以前、同じ著者によるいわゆる黒い本シリーズを読んだけれど、こちらはそのエッセンスをコンパクトにまとめた本とも言えるかもしれない。

黒い本シリーズだと、古生代ハードカバー4冊のボリュームだけれど、新書1冊なので手軽

それでいて記述のレベルとしては、黒い本とも遜色がないと思う。項目を精選することでコンパクトにしたと思う。

黒い本との大きな違いとして、イラストを、CGイラストレーターの服部雅人が担当している点がある。むかわ竜のプレスリリースにおけるCGイラストも担当した、古生物イラストレーターである。

ただの個人的な好みだが、CGイラストはかっけーなー、というのがあって読んでいた楽しかった。

プロローグ−前夜−

 そして、生命は“爆発”した

 エディアカラの“変わった生物”たち

 キンベレラという存在

 左右相称動物がしだいに増えた?

 そして、「古生代」へ

第1章 勃興

 物語の幕が上がる

 部品の化石

 化石の王様、登場する

 幻惑するもの

 動物たちにいったい何が起きていたのか

 “史上最初の覇者アノマロカリス

 一つ眼、四つ眼、五つ眼、瓢箪

 どのような景色を見ていたのだろう?

 カンブリア爆発

 完成されていた内部

 そのとき我らが祖先は……

第2章 節足動物と軟体動物の支配

 時代は第2幕へ

 最近注目のフェゾウアタ

 “カンブリア生物”の生き残り

 新たな節足動物の台頭

 そして、三葉虫は立体的になる

 新興勢力「頭足類」

 まだまだ弱かった我らが“祖先

 第1の大量絶滅事件

 大量絶滅から一夜明けて

 “カンブリア動物”の生き残りが火山灰の中に

 王蟲と子連れ

 築かれた“ウミサソリ王国”と、生き残り三葉虫

 サカナ、“頭角”をあらわす?

第3章 革命

 変化の時代

 カンブリア紀の“最後の生き残り”

 “魚たちの時代”の到来

 アンモナイト祖先。丸くなる

 三葉虫類、最後の“大抵抗”

 第2の大量絶滅事件

 そのとき、陸上世界では……

 脊椎動物の上陸大作戦

第4章 祖先たちの王国

 最初に名づけられた時代

 先陣

 大森林

 大森林の住人たち

 最後の時代

 最強の両生類、登場

 爬虫類は空圏、水圏へ

 単弓類、覇者となる

 “剣歯”登場

エピローグ

 “終わり”がやってきた

 その後……

プロローグ−前夜−

古生代よりも前の話


第1章 勃興

第1章はカンブリア紀

第2章 節足動物と軟体動物の支配

第2章はオルドビス紀シルル紀

第3章 革命

第3章はデボン紀

第4章 祖先たちの王国

第4章は石炭紀ペルム紀

エピローグ

*1:eにアクサン

2017-07-18

[][]ギガ恐竜展2017

幕張はやっぱ遠いなあと思いつつ、なんか幕張行くことが最近多いなあ

(ライブと恐竜展、あとBLAME!の映画を幕張で見た)

なかなか色々見れて面白かった


福井県立博物館から来たものが多かった。

実際、展示の一番最後は福井コーナーだったし

もっというと、入り口前のロビーに、恐竜博士来てたし


1 恐竜とは?

冒頭、いきなり恐竜ではない奴から

フィトサウルス類

主竜類の仲間だけど、恐竜ではなく、確かに脚を見ると横から出ている

ワニに似ているが、鼻が眼の近くにある

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初期の恐竜について、解説パネルによると、タンザニアで発見されたニャササウルスによって、恐竜の出現が三畳紀中期まで遡るかも、と


コエロフィシスの産状化石の展示が、プロジェクションマッピング的な感じでわかりやすいものになっていた

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2 さまざまな形の恐竜たち

おお、ドラコレックス・ホグワートシアだあ

と思ったら、今ではパキケファロサウルスの幼体だと考えられているという解説つき

(ただし、自分がこの種を知ったダレン・ネイシュ『世界恐竜発見史』 - logical cypher scapeにもそのことは書いてあったようだ)

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ティアンジェノサウル

やっぱ、アンキロサウルス類ってかっこいいよね

子どもの頃は地味だなと思ってたんだけど、この年になって、鎧竜のかっこよさに目覚めたところある

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帆のある恐竜

というコーナーなのに、最初にいるのがディメトロドンw

こいつ結構すきだけど

このステゴサウルス類のヘスペロサウルス、解説についている復元画だと骨板は2列だけど、復元骨格の方は1列になっている。なぜ?

一眼レフ持ったお姉さんがいて、めっちゃ撮りまくっていた。別の場所に別のステゴサウルスがいたのだけど、そこでも撮っていて、剣竜ガチ勢っぽかったw

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ヤンサウル

今回の展示の目玉

めちゃでかい

全身骨格だけでなく、椎骨、上腕骨、大腿骨などの実物が来ていた。大腿骨だけで、自分の身長よりでかいくらいの大きさ

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シエンシャノサウル

全身骨格が組まれてたけど、一部実物らしい。

実物とレプリカの色の違いがかなりはっきり出てた。

烏口骨も発見されたらしいんだけど、展示してるのはレプリカっぽかった

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3 恐竜の内部を探る

皮膚とか脳とか呼吸方法とかの話

ワニなどもクシャミやあくびをするので、恐竜もクシャミやあくびをしただろう旨解説があったのだけど、そもそもワニのクシャミやあくびを見たことがない。

恐竜の生態は、現生生物(特にワニと鳥)の生態から類推されることが多いけど、現生生物にあまり興味ないな、自分ということに改めて気付いてしまった


4 恐竜の生活

様々な復元方法ということで、全身骨格、模型、アニメーション、復元画(ところで、CGアニメーションを単に「CG」と表記していたが、復元画もCGによるイラストだったので、どうなんだそれは、と思わなくもなかった。あと、復元画の方、何の解説もなく、3分の1くらい恐竜じゃないイラストだったようなw)

アロサウルスやディノニクスの復元模型の他、トリケラトプスの復元模型は、右半分は皮膚がついてて、左半分は骨や筋肉が見えるようになっているもので面白かった

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足跡化石はいつ見ても、なんでこれ足跡だってわかったのって感じだw


卵の化石は、縦に3列並んでいる巣の化石とかあった

あれ、下の奴不利になったりしないんだろうか

細長い形した卵多いけど、球状の卵もあった。あれって、転がっていかないんだろうか。


ブラキロフォサウル

ミイラ化石で、筋肉のあとが残っているとかなんとか


二足歩行と四足歩行

いくつも並べられていて、福井博物館的な雰囲気が

真ん中の中足骨が左右の中足骨に挟まれていく構造を、アークトメタサークルというそうです

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わりと最近ニュースになっていた「ベイビー・ルイ」ことベイベイロンもいた



アニマンタルクス

こっちはノドサウルス類だけど、やっぱりかっこいいよ鎧竜

照明のせいであんまりうまく撮れてないけど

恐竜展は、「写真撮影歓迎」って書いてるけど、照明の位置的にうまく撮れないことが多い。

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ニジェールサウルスの歯が、横に並んだ独特な並びしているのは知ってたけど、さらにデンタルバッテリーになってるって知らなかった。結構、見た目が気持ち悪いというか、自分の苦手な感じの見た目だったので、写真撮らなかったw



テチスハドロス

イタリアで発見された、島嶼化したイグアノドン

イタリア恐竜ってそういえば全然知らない。こいつと他に、もう一種イタリア恐竜がいた。



5 恐竜の大移動

ヨーロッパからアジアへ、アジアからアメリカへ、アメリカからアジアへといった、時代によって大陸の位置が変化したことによる、恐竜の移動について扱っているのが

特に、様々なティラノサウルス類の展示があって、よかった。


ワイレックス

しっぽから先が食いちぎられて発見されたティラノサウルス・レックス

共食いしていたのではないか、と

頭骨がめっちゃバランスよいなあと思ったのだけど、あとで検索したら、ワイレックスは頭骨は全然出てなくて、スタンをモデルにしているのではないかと推測している人たちがいた

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ティラノサウルス類としては、ユウティラヌス、ディロング、ビスタヒエベルソル、ゴルゴサウルス、ラプトレックス、タルボサウルスがいて

ディロングは思ってた以上に小さかった。

ユウティラヌスとディロングは、まだ前肢に指が3本ある

ゴルゴサウルスは、ティラノサウルスを小さくしたような感じ。

ラプトレックスは白亜紀後期の小型のティラノサウルス類。こいつは前肢が小さい

あ、あと、後ろ足はアークトメタサークルっぽかった

ティラノとゴルゴとタルボ、区別つけられる自身はないけど、見比べると確かに、頭骨の幅が違うなあというのが分かった。というか、ティラノが別格で頭がでかい気がする。

下の写真は、ディロングとゴルゴ

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角竜もいくつか

プシッタコサウルストリケラトプス、スティラコサウルスなど


アジア恐竜

タイで発見された恐竜など、ここらへんは福井行ったときに見たなあと


6 日本で繁栄した恐竜たち

ここは福井コーナー

フクイベナートルの脳の模型があったのが面白かったかな 


7 恐竜繁栄のなぞ

K-Pg境界の実物が飾ってあった

[]『ロード・オブ・ウォー

ヨルムンガンド』のアニメを見ていた頃に、元ネタらしいと聞いて、見てみたいなあと思いつつ気づけば5年が過ぎ、なんとかプライムさんのおかげでようやっと見れたw

ニコラス・ケイジ演じる武器商人の話

一発の銃弾が工場で造られ実際に銃から発射されるまでを銃弾視点で映していくOP映像から始まり、テンポよく進んでいく。


現代における悪というのはこういう感じなのだろうか。

いわゆる悪って、これぞ極悪人というタイプもいれば、狂信者タイプもいれば、いわゆるアイヒマンタイプもいるのだと思うけれど、

ニコラス・ケイジ演じるユーリはそのどれでもない。

彼は武器商人としての才能があった、というタイプ。

悪をなそうと思って悪をなしているわけではないし、何らかの政治的・宗教的確信を抱いているわけではないし、命令や状況に従っただけの凡庸な人間というわけでもない。

自分の才覚がどこにあるのか気づき、それを活かした結果が、戦争・紛争につながっていた。

でも、自分から戦争・紛争を起こそうとしているわけじゃないから、自分は悪くないだろうと思っているけど、はたから見たら、お前が武器売ったせいだろう、と。

彼自身も、戦争・紛争・人殺しが悪であることはおそらく分かっていて、その点では完全に倫理観が麻痺しているわけれではないのだけれど、武器を売ること自体が悪だという感覚は薄くて、その点に関しては倫理観が麻痺しているように見える。ただ、部分的に麻痺していること自体が、彼の武器商人としての才能なんだろうと思わせる。


物語やキャラクター、設定などは『ヨルムンガンド』とは全然違うが、いくつかのシチュエーションなどについては、「あ、ここを元にしてあのシーンにしたのかな」と思わせる部分もあった。まあ、武器商人という同じものをテーマにしているので、参考文献などが同じだったということなのかもしれない。

そういう意味でいうと、シュピーゲルシリーズなんかも見ていて思い出すところはある(っていうか、主にダイヤが)

ロード・オブ・ウォー (字幕版)

ロード・オブ・ウォー (字幕版)


主人公のユーリは、子どもの頃に、家族とアメリカへと亡命してきたウクライナ人

いまだ冷戦が続く80年代、武器商人になることを決意し、弟を相棒にして兵器の売買を始めるようになる。

この頃の大物武器商人は、政治的な背景をもって、どこに売るかということを決めており、ユーリは「素人」と相手にされないが、ユーリは安くさばいて高く売るという原則に忠実に、グレーな売買をしていく。

いくつもの名義のパスポートを所持し、賄賂を駆使し、違法スレスレの輸出入を行う。

そのうちに、インターポールの捜査官にも追われるようになる。

この捜査官は、ユーリから「法の番人」と揶揄され、ちょっとジャベールっぽいw 彼は絶対に法律に従うから、ユーリも法の抜け穴をうまくくぐって、「合法」という証拠をそろえる。

あるとき、マフィア取引したときに、支払いをコカインで行われてしまう。

ここが今まで相棒だった弟とユーリとの分かれ目になってしまうのだが、弟はコカイン中毒になってしまって、結局施設に入らざるをえなくなってしまう。

この弟、本当はシェフになりたかったのだが、ユーリから誘われてしぶしぶ始めてしまう。チョロい感じの人なので、始めたらわりとノリノリ(?)なところがあったのだが、おそらく良心の呵責や戦場のストレスがあったのだと思う。無実の人が殺されているところを見て憤るシーンなどがある。一方、ユーリはそういうところは見て見ないようにすませる。

ユーリは、コカインを始め麻薬にも手を出しているのだが、全然、依存症にはならない。

ところで、後半、アフリカで「ブラウン・ブラウン」というコカインと火薬を混ぜたものを勧められるシーンがあるのだが、「あんたの火薬だからな」と笑顔で勧められるというブラック・ユーモアなシーンがあったりする。


ユーリは、初恋の人でもあるが高嶺の花であった同郷の美人モデルを、自らもそれなりに金持ちになってきたときに、策をこらすることで、結婚までこぎつける

妻はユーリが何か怪しいことをしていると気づきつつも、何もいわず、ユーリは家族には内緒で武器商人を続けていく。

ソ連崩壊の際には、異様なまでに喜び、妻も両親もちょっと引いている。

むろん、ウクライナ人にとってソ連崩壊は喜ばしいニュースではあるだろうが、ユーリにとっては、安く買える武器がざくざく出てきたという意味での喜びなので。

叔父が軍人だったのでこれ幸いにと、買い付けに向かう。

かつて、ユーリのことを「素人」だと相手にしなかったかつての大物武器商人が、ソ連崩壊ではユーリに後れを取る。

その後、ユーリはアフリカに武器を卸すようになり、リベリア独裁者大統領とその息子とも取引をするようになる。

リアルにヒャッハーな世界で、スーツ姿で商売の話するユーリという絵図には、独特の異様さがある。


もう一度武器商人へと引き戻した弟が、結局、良心の呵責をおさえきれず、死ぬことになってしまったり、

インターポール捜査官から夫の仕事についていよいよ知ってしまった妻が、彼のセーフハウスを暴いたり、

と、ユーリは次第に追い詰められていき、ついに逮捕の日が来てしまうのだが。