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2016-12-30

[][][][]『フィクションは重なり合う』kindle版リリース!

Kindle ダイレクト・パブリッシングサービスを利用して、販売を開始しました。

おーすごい、自分の本がAmazon


フィクション哲学アニメ批評・文芸批評を架橋する一冊!

分析美学ウォルトンによるごっこ遊び説など)やマンガ評論(伊藤剛の「マンガのおばけ」)を用いて、『SHIROBAKO』や『キンプリ』などのアニメ作品、『耳刈ネルリ』や『夢幻諸島から』などの小説作品から「分離された虚構世界」を見出し、それが鑑賞体験にどのような効果をもたらすかを論じた長編評論「フィクションは重なり合う――分離された虚構世界とは何か」

付録「二次元アイドル比較」では、『アイマス』『ラブライブ!』『うたプリ』『アイカツ!』『プリパラ』などの人気作品から『ナナシス』や『あんスタ』といった今後ブレイク必至のアプリゲームまで、二次元アイドルコンテンツ全20作品について、企画概要や略史、主要スタッフなどのデータ、並びに独自の基準による比較チャートを掲載!


※印刷版と内容は同じですが、kindle版では一部の図版がカラーになっています。

Amazon内容紹介より)

続きを読む

2016-07-29

[][][]『ナラティヴ・メディア研究』第5号

2015年11月に行われたマンガ研究フォーラム「マンガのナラトロジー ―マンガ研究における〈物語論ナラトロジー)〉の意義と可能性」での発表論文が収録されたもの。

森本浩一が発表を行い、野田謙介、中田健太郎、三浦知志、三輪健太朗がコメンテーターとしてコメントした。

進行は佐々木果


全然気付いてなかったのだけど、この森本浩一って『デイヴィドソン 「言語」なんて存在するのだろうか』*1の人か

森本論文が30ページほどあるが、それ以外はこの森本発表に対するコメントとして書かれたものなので、2〜4ページ程度の短いものとなっている。

ナラティヴ・メディア研究」第5号について(森田直子

ナラトロジーとマンガ研究の転換点(夏目房之介

まんがのナラトロジーの意義と可能性(佐々木果)

物語経験の時間性(森本浩一)

マンガにおける語り手の問題と物語論の適用可能性について(野田謙介)

「マンガのナラトロジー」を振りかえって(中田健太郎

イエロー・キッドの物語(三浦知志)

マンガ論に「物語」を取り戻すこと ―森本浩一「物語経験の時間性」を受けて―(三輪健太朗)

物語におけるリアリティ ―森本浩一氏の物語論を巡って―(赤羽研三)

あとがき(謝辞をかねて)(森本浩一)

f:id:sakstyle:20160729234437j:image:medium

ナラティヴ・メディア研究会のご案内

冒頭の夏目論文と佐々木論文は3ページほどで趣旨説明のようなもの


森本浩一 物語時間の経験性

リクールの『時間と物語』や現象学的な方法を参照しつつ、受け手の自己同期という観点からのナラトロジーが論じられる。

分析美学への言及はほぼないが*2、分析美学フィクション論とも通じる議論がそこかしこにあって楽しい(正確に言えば、分析美学以前・以外でもなされている議論であって、分析美学で「も」論じているというだけであって、フィクションや物語について論じると、分析系でも現象学系でも同じあたりを論じることになるのだろう)。

明示されてない箇所の想像的補完とか、物語である以上語り手がいるとか。


受け手は、語り手と物語の登場人物のそれぞれに自己同期する。

これは、その人物の視点に立つということではなくて、物語世界の存在の前提となること

ここでは、受け手の構えを4つに分類している

対語り手のN1、N2

対登場人物のP1、P2


  • N1

フィクションの中で」という限定がかかっていることを受け入れ、つまり、表象されるとおりに存在するものとして受け入れること

N1で、受け手は、語りから、文体、絵柄、カメラワークとモンタージュといったかたちで提示される描写から、「印象」を受け取る

これは登場人物の感情というわけではなく、状況把握である。

この「印象」を「語り」から受け取るという話、面白かった。特に、それが第一に置かれているところが。


  • N2

こちらは時間構造について。

形式上、未来にいる語り手が過去形で語ることについて受け取るという構造。


N1とN2は、物語の内容を余すところなく伝達する

しかし、物語経験のすべてではない

「没入」や「現実性」のための前提となる作業であるが、まだ、「没入」や「現実性」へは切り替わらない。


  • P1

人物を生き生きととらえる(=知覚する)のであり、そのことで物語の「筋」をたどる


  • P2

P1では、語られる順序のとおり受け取る。

しかし、語られる順序と実際の時間順序は異なる。人物の「自己」ないし「人格」へと集約させていくことになる。


物語経験の目的=行為の再現

再現的知覚=人物が自己へと集約されることで一個の自立した全体として立ち現れること


再現再現である限り、「現実」に対して、必ず何かを欠いている。その欠如をどのように補って「現実」に近づくかが、再現に課せられた最大の課題となる。つまり、あるメディアによっては直接的に表現できないことを、「描写」を通じて間接的に再現するところにこそ、「再現的知覚」のリアリティが成立するのである。p.38

ここから先、映画とマンガについて、この「欠如」を通じて論じられていく。

映画は、「動き」を表現することはできるが、これは再現としての自由度を奪うものであるとしている。小説であれば、一文の中に複数の時点の出来事を混ぜて書くことも可能だが、映画ではそのようなことはできない。

写実性の高さは、「現実」としての「知覚」との混同を生じさせるもので、「再現」としての「知覚」ではないとも。

映画の「欠如」を補い物語的実存を「描写」するものとして、一つはモンタージュをあげる。

またもう一つに、ストーリーにとって余剰な細部をあげる。これが「印象」を生じさせる。

マンガについては、小説と映画の中間であること、そして言語に注目する。

映画のような知覚的写実性、カメラワークや編集なども使える一方で、言葉による自由度も用いることができる。

マンガにおいて、言葉の果たす役割は大きいとして、言葉が時間的推移を駆動していくと論じる。

また、創作過程からも、マンガと小説の近さを指摘する(映画は脚本、絵コンテ、撮影と異種な3段階のメディアを通じて作られるのに対して、小説は書くことによって成立する。そして、マンガでは「ネーム」において既に言葉が出来上がっていることがほとんどであろうことをもって小説との近さとしている)


野田謙介 マンガにおける語り手の問題と物語論の適用可能性について

マンガを読む物語経験の中にも語り手はいるのか

マンガの「音」を物語経験の中で聞いているのか


三浦知志 イエロー・キッドの物語

一枚の風景画でも物語になりうる

マンガが複数のコマで成り立っていることと、物語であることを区別する

森本論に従えば、物語は自己同期によって成立するのであって、複数のコマは必ずしも必要ではない。

ただし、一枚絵は、読む順序がマンガほどに定まっていないという違いがある


三輪健太朗 マンガ論に「物語」を取り戻すこと ―森本浩一「物語経験の時間性」を受けて―

森本のいう「物語」があくまでも「人物」の実存再現を中核においてあるという前提に対して、ボードウェルが映画を「アクション」と「ムーブメント」に区別していることをあげて、「人物」を中核としないジャンルの存在を指摘する。

また、森本が「欠如」から各メディア特性を論じていたところから、ベンヤミンの「視覚的無意識」のようにメディアを通すことで知覚可能になるものについて指摘する。


赤羽研三 物語におけるリアリティ ―森本浩一氏の物語論を巡って―

知覚の二つの様相の区別

ロジャー・フライの「観るlook at」と「見るsee」の区別

ドゥルーズの「光学的−音声的イメージ」と「感覚運動的イメージ」の区別

リアルな知覚とそうでない知覚

森本における写実性とリアリティの区別


研究フォーラム発言録

研究フォーラム当日の発言録は、以下のサイトにまとめられている。

【発言録】 2015.11.14「マンガのナラトロジー」(1/3) – M studies


3/28にこの記事をブクマしたあと、5/15になってようやくこの記事を読み、面白かったので早速『ナラティブメディア研究』も入手したのだが7月になるまで読めていなかった。何故2ヶ月おきなのか、自分。

まあそれはともかくとして、以下は5月にフォーラム発言録を読んだ際の感想。

このマンガのナラトロジーの奴、なんかかぶって見に行けなかったんだよなー、と思ったら、ガルパンだったw チケット既に予約してて、直前になってこれがあるって気付いたんだよ*3https://twitter.com/sakstyle/status/714455368802312192


読んだ。すごく面白い。しかし、美学が必要だ。/ミメーシスないし同期によって物語経験が生じる/ナレーション/リクールか https://twitter.com/sakstyle/status/731684993546620929

三浦さんのコメントの一枚絵から物語が生じるか、はすごく興味がある。三輪さんのコメント超面白い! 知覚の縮減の話と人物の「アクション」でなく「ムーブメント」で動く物語について https://twitter.com/sakstyle/status/731685474880774144

野田さんから、海外ナラトロジー研究についての報告(認知/コンテクスチュアル/トランスメディア)/森本さんの議論では、「読みの時間」は重要視されないという三輪さんからの指摘!https://twitter.com/sakstyle/status/731685909658107904

リクールとかフッサールをベースにしているし、物語という言葉に込めている意味もちょっと独特なので、議論の大枠は異なっているのだけど、どうしてもウォルトンやカリーのことも想起する議論だ。マンガ(必ずしも言語に寄らないメディア)にも語り手いるよねって主張はカリーっぽい。https://twitter.com/sakstyle/status/731686488283316225

自己同期とかも、ウォルトンの自己についての想像をちょっと思わせるというか。ここで、中田さんが存在論的と言っているのはそういうことではないかと。ウォルトンは、読者は虚構世界に自分を拡張するって言ってるのと通じるのではないかと。https://twitter.com/sakstyle/status/731687210898980864

すごく些細な語用的な話なんだけど、こういう話を「存在論的」って呼ぶの、個人的にはやっぱりなんか違和感がある。まだ、存在論一歩手前の話だと思うんだよね、そこは。まだ、そこまでは美学の領域だ、みたいなwhttps://twitter.com/sakstyle/status/731687748210286592

ちょっと気になったのは、「キャラ/キャラクター」の話の時、人間かそうでない(ステレオタイプ)かみたいな話になってるけど、それは「フラットキャラクター/ラウンドキャラクター」なのではないかと。「キャラ」という言葉を多義語のまま使っている感。https://twitter.com/sakstyle/status/731688735138451457

物語メディアには「欠如」があるというところも気になったんだけど、そこは三輪さんがコメントしている。メディアを通すことによる欠如もあるけど、メディアを通すことによってのみ知覚されるものが、フィクションの面白いところじゃないかっていうのは、自分の個人的な主張https://twitter.com/sakstyle/status/731689570698305536

フィクションは重なり合う』で、これはフィクション固有の経験なんだ!って繰り返し書いてるんだけど、「分離された虚構世界」を知覚できるのって、フィクションメディアを通してだけだからって意味。現実では知覚できない世界を、フィクションを通してなら知覚できる。プリズムジャンプとかね。https://twitter.com/sakstyle/status/731689968725155845

人間の「アクション」(行為)でなくて「ムーブメント」(非人間的な運動全般、自然や機械の運動、つまり偶発的な、世界の中で偶発的に起こる運動)で駆動する物語(例えばコメディやメロドラマ)もありますよねっていう指摘も好き。楽しい。https://twitter.com/sakstyle/status/731690580833538048

ウォルトンルソーの絵について、女がジャングルにいるのではなく

、女がジャングルの夢を見ているのが虚構的真理だと言っているけど、あのあたりが微妙に納得できないというか。「想像を指図されたこと」と「虚構的真理」とって物語ないと区別できかねるとこがある気がするがhttps://twitter.com/sakstyle/status/731794955421655040

絵が一枚しかないときって、それはどう特定されるのかってhttps://twitter.com/sakstyle/status/731795077975040001

*1:この本読んだはずなのにブログに記録がない?

*2:皆無というわけではないが

*3:これは3月ブクマ時のコメント

2016-07-26

[][]ポンピドゥー・センター傑作展

東京都美術館

ポンピドゥー・センターは実は去年行ったのだが、一部改装中で、常設展のうち20世紀前半の方は全く見れなかったのだった。


この展覧会は、すでに広く宣伝されているように「1年1作家1作品」という形式で展示がなされている。

普通の展覧会というと、ジャンル別だったりグループ別だったりに並べられることも多いと思うが、この展覧会は両隣に全然違う作品が並んでいたりする。

それから、1作家1作品というのが効いている。全部で71点あるのだけど、つまり単純に言って71人の作家(2人で1作品のものがあるので+αがあるけど)がいることになるけれど、そうなると知らない作家が相当多い。もともと自分は有名な人しか知らないし。

そうすると、この時代ってキュビスムっぽいのとか抽象画っぽいのとか流行ってたんだなーというのがなんとなくわかった。

もともと有名な2,3人しか知らなかったりするけど。例えば、キュビスムだとピカソとブラックとか。実際には、それ以外にもキュビスムの絵を描いている人はいたりするわけで。ついでにいうと、この展覧会でピカソもブラックもキュビスム以外の作品が出てる。


地下一階、1906年~1934年は斜めの壁

1階、1935年~1959年はジグザグの壁

2階、1960年1977年までは円壁(1975〜1977は円壁の外だが)

という配置になっていて、これもまたそれなりに面白かった。

円壁は、複数の作品を一望に会することができるし、この時代の作品はわりと大きめのものが多いので、好みの空間であった。


  • 1911 ロジェ・ド・ラ・フレネー「胸甲騎兵」

なんか、フランツ・マルクっぽい感じかなと思ったけど、今思い返すと、色とかだいぶ違うか。

ジェリコーリスペクトで描かれたらしい


  • 1912 クプカ「垂直の面1」

マレーヴィチっぽい奴


解説によると、芸術家一家に育ったマルセル・デュシャンはこの頃もう絵は描かなくなっていて、自転車の車輪を椅子にのっけただけのこの作品を作ったと。のちに「レディメイド」と呼ばれる。展示されていたのは戦後に作り直されたもの。

でもって、レイモンは、マルセルの次兄で、こちらはどこが馬なのかはよく分からないが、しかしまあ十分に彫刻のていはなしているものである。

ここから先は完全に想像で実際はどうだったか分からんけど、兄が真面目に作品作ってる横で、マルセルは、「あーめんどくせ、これでいいだろw」とかやって、兄から呆れられたりなんだりしていたのではないかという絵図が思い浮かんだw


シャガール本人と妻子の肖像

花嫁姿の妻に、赤いシャツを着たシャガールが肩車している。その赤と白のコントラストが画面を縦に分割している。上下に紫がアクセント的に入っている。

このカラーリングがビビッドで目に止まる。さらに、背景の街に対して人物が明らかに巨大で、川の上に浮かんでいるのも、また何とも楽しい。


  • 1918 マニェッリ「抒情的爆発8番」

未来派の人らしい。

抽象画。赤い細長い三角形が画面真ん中を切り裂くように描かれていて、勢いがあって、好き


この作品は、分析的キュビスムっぽいことを、あまりキュビスムっぽくない見た目でやってる作品だと思う。平面的な画面構成にヴァイオリンがぽつんと置かれているというもの。

面白かったのは、作品そのものではなくて、あからさまにこの作品だけ人気がなかったことで。

このフロア、ざっと2週したんだけど、どのタイミングで見ても、全然見てる人がいなかったw


  • 1923 フレシネ「オルリーの飛行船格納庫」

この人は芸術家ではなくて建築家

コンクリート作りの飛行船格納庫で、展示されていたのは、その格納庫を建てているさいちゅうの記録用フィルムだった。

なんか映像作品かなーと思ったら、そういうわけでもなかった。


  • 1924 1925

24年と25年は、モダンな感じのイスが


下から見上げる感じで描かれたエッフェル塔

よかった


  • 1929 ルイ「楽園の樹」

いわゆるアウトサイダーアート

絵画の素養はなく、突然神のお告げを受けて絵を描き始めた人らしい。

そこそこサイズも大きく、南国の樹のようなクジャクの羽のような模様が描かれており、迫力がある。細かいドットが打たれていたり。

これは思わず「なんだこれ」と目がいく。

隣(1928)が、藤田の自画像(サイズ小さめ)だったりするので、いっそう際立つ、というか。

ちなみに、逆の隣(1930)も素朴派の画家。こちらはもろ、アンリ・ルソーっぽい画風。並んでいる人々の顔がちょっと不気味


有名な奴

本物見れてありがたや、という感じ

構図すごいなー


  • 1934 ゴラン「くぼんだ線のある新造形主義的構成32番」

タイトル通り、モンドリアンからの影響を受けている。

板を張りつけていてちょっとだけ立体な


画中画っぽかった。


  • 1939 カルダー「4枚の葉と3枚の花びら」

モービルとスタビルの中間的な作品だとか。

1939年に作ってたのかーという感じ。でもまあ、まだ戦争始まったばかりの頃か。

カルダーの作品は、うまく説明出来ないけど、なんとなく好き


  • 1941 クレパン「寺院」

これまたアウトサイダーアート

突然神のお告げをうけて300作品作ったとかいう人の151作目。

東南アジアの寺院みたいなものが描かれているのだが、ヤバイのはその上にもやみたいなものがあって、その中に頭部だけが何十個も描かれているところ。

禍々しいというか、そういうヤバさのある絵。


  • 1945

この年は作品はなく、代わりにエディット・ピアフの「バラ色の人生」(作曲が1945年)が流されている。フランス語でいうと「ラヴィアンローズ

そういえば、この展示会は1年1作品で、年表的に配置されているのだった、ということをここで思い出させる。

展示には、もちろん何年って全てに書いてあるし、大雑把に見れば時代が流れているのは分かるのだけど、やはり展示を年表に見立てて観るというのは普段はしていないことなので、意識していないと忘れてしまう。そんな時、遠くからかすかに「バラ色の人生」が聞こえてくる。次第に大きくなっていく。終戦が少しずつ近づいてくる。そして、1945年特異点的な位置を占めているので、ここで戦争が終わったんだな、という時間感覚・歴史感覚がなんとなく実感される作りになっている。

この1945年だけ変えた、というのはなかなかよかった演出だと思う。

ところで、戦中だから作品も戦争っぽいかとか、戦争が終わると明るくなったりするか、というとそんなことは全然なかったりする。


  • 1947 ヴィルグレ「針金――サン=マロ、ショセ・デ・コルセール」

落ちていた針金を拾って組み合わせた、とかなんとかそういう作品

まるで、人がダンスしているかのように見えるのだが、しかし、よく見てみると、当たり前なのだが、ただの針金であって、人ではない。

いや、針金であっても、折り曲げたり丸めたりして、人の形を模したものにすることは可能だろう。しかし、この作品は決して人を模してはいない。なんだけど、踊ってる人のようにも見えてしまう。

だがどう見てもそれは人ではなくて、踊っている何か、踊っている人ではない何かなのである。



グレー、カーキ、黄土色などで描かれた抽象画。筆致の荒々しさが印象に残った。

解説によると、画家の穏やかな作風の時期の作品だったらしいが。


抽象的な作品がばばっと続いたあとに、パッと具象的な作品がくると、やはり目を引く。

ただ、やはり抽象的な作品が多く描かれた時代の中の具象画なのかなという感じもする。

黒ストーブとベンチが並べられた無機質な部屋。窓や壁、床は直線で構成されている。


  • 1957 アンタイ「未来の思い出」

黒いカンバスから絵の具を剥いで描かれた作品

ひっかいたかのような白い十字が描かれている

アクションペインティング的なものらしい

ところで、1950年代はモノクロな作品が多かった印象。モノクロ写真とかジャコメッティの彫刻とか。


映像作品。『12モンキーズ』の着想源にもなった作品らしいが、ちょっと長かったので見るのパスした。


  • 1964 モルナール「イコン」

朱色に塗られたカンバスに金色の直線

朱色と金色という組み合わせが見ているとくらくらさせる

1970年代にはコンピュータによる制作も始めた人らしい


  • 1972 ヌムール「白い騎士」

こちらは、黒いカンバスに赤い直方体が描かれている。

ある意味では、「イコン」とも似ている。けれど、もちろん違う作品で受ける印象は異なるのだけど、この両作品の違いというのはいったい何だろう。もちろん、色や大きさが違うんだけど。


  • 1971 アス「光のトリプティック」

白一色に塗られた三幅対


「アールブリュット」という概念を提唱した人


  • 1973 ユクリュー「墓地6番」

大きめの作品。最初、写真かと思ったのだが絵だった。表面を磨いて、印刷物っぽい質感にしたのだとか。かなり近づかないと絵だとわからない。


70年代はあと、ポップアートやオップアートなどがあった。 

2016-07-25

[]『帰ってきたヒトラー

アドルフ・ヒトラーが現代のドイツに突如タイムスリップしてきたら、という話

コメディだと思って笑って見ていたら後半になるにつれて笑えなくなってくる、という感じで話題になっていた作品だが、そういう評判を最初から知って見ていたせいか、最初からシリアスなものとして見てしまって、「最初は笑えて次第に怖くなる」という本来あるべきこの作品の経験があまりできなかった。

まあ、そうは言っても、何カ所か笑った場所もなくはないけど。

それなりに面白い作品ではあったと思うけど、個人的には楽しみきれなかった。


ヒトラーが突如、現代のドイツタイムスリップしてくるというところから始まるのは先述した通り。

この話は、ヒトラーともう1人主人公がいて、彼は、売れないフリーのカメラマンなんだが映像作家なんだかジャーナリストなんだかみたいな人で、派遣だか非常勤だかで入り込んでいた放送局からクビにされる。で、たまたまタイムスリップしてきたヒトラーを見つけて、新しいモノマネ芸人だと勘違いして、ヒトラードイツのあちこちを巡るというドキュメンタリーを撮影する。

ヒトラーは大ヒット。件の放送局では、あらゆる番組にヒトラーをゲスト出演させて、センセーションを起こす。

さらに、タイムスリップしてからの日記を執筆すると、これも大ヒットし、映画化することになる。この作品の冒頭シーンの撮影風景などが入ってきて、メタフィクションと化していく。

このあたりで、ヒトラーを売り込んだ当の本人が、芸人ではなくて本物だと気付いてヒトラーを止めようとするのだが……という話。

ヒトラーとカメラマンがドイツを巡り歩くところは、フェイクドキュメンタリータッチで撮影されており、現代ドイツにおける雇用移民に対する市井の不満が語られ、その声をヒトラーが拾い上げていく。

主人公のカメラマンは、おそらく大して考えていなくて、状況にわりと流されている感じだが、

一方で、放送局の副局長の男は、野心はあるが能力が一歩及ばず、良識はあるが視聴率の前には排外主義的なネタに手を出さざるを得なくなっていく感じが描かれている。


この作品の面白いところは、やはり、ヒトラーがリアルなところで、

本物のヒトラー(の映像)をあまりちゃんと見たことはないけれど、本物と思わせるところがある。

それは、彼の語りの上手さで、予想を裏切るようなとこから話を始めて、観衆の注目を集めたり、急には答えられない質問を出して相手のペースを乱したりして、自分の話の中へと引き込む。話している内容は理路整然としており、あからさまにヤバイことは話さないのだけれど、自分に任せれば全てうまくいくと思わせるようなことを話している。


冒頭から、ヒトラーPOVがあったり、モノローグが入ったりして、ヒトラー自身に焦点化させるようにできている。

思うに、それほど笑えなかった理由がそこにあったような気がする。

ここでの笑いは、現代ドイツで、ヒトラーの格好をしてヒトラーのような演説をして自分はヒトラーだと名乗る男の異物感にある。前半において、多くの登場人物がヒトラーに対して笑っている。この、ヒトラーモノマネ男が笑える、彼のしゃべり方が現代ドイツにおいてはチグハグなところがあって笑える、というのは客観的には分かる。

ただ、映画の観客としては、現代ドイツ人側よりもむしろタイムスリップしてきたヒトラー側の視点からこの状況を見ているので、ヒトラー自身は至って真面目に話している、話が通じなくてむしろ困惑するということの方が分かってしまって、ヒトラーを見て笑うというよりは、回りから笑われてる感覚になる。

ヒトラー自身、状況を理解していき、自分がコメディアン的な立場に立たされることを理解するけれど、その上で彼はそれを利用して現代ドイツで再び自分の政治力を強めようと行動しはじめるし、それはヒトラーのモノローグとして描かれているので、映画の観客としては「最初は笑えていたのだが」という感覚にはなりにくい気がした。

「最初はみんな笑っていた」というのは確かにその通りだけど。

あと、ヒトラー自身は自分からギャグを言っているところがほぼなくて、回りが勝手に笑っているだけなんだけど、ヒトラー自身からギャグを言っているシーンもわずかながらある。しかし、そのギャグはブラックすぎて、完全にドン引きするタイプのもので(作中でヒトラーからそれを言われた側もドン引きしていた)やはり笑えない。


笑えないから悪い、という話ではなくて、むしろだからこそ、フェイクドキュメンタリーの部分で、ヒトラーがどんどん手応えを感じてくところが、見ていて面白かった部分ではあった。

(ちなみに、ヒトラー視点で物語が進むというだけであって、ヒトラーの気持ちになったり、ヒトラーの思想に共感したりするようになる、ということではない)

ただ、「最初は笑えてやがて怖くなる」というよく見かける感想が、個人的にはピンとこなかったということ。


あと、現代ドイツの政治状況とかあまりちゃんとは知らないから、そのあたりでわからなさはあった。

フェイクドキュメンタリーで拾われている街の声が、どのくらいリアルなのかという肌感覚は微妙につかめないし

あと、ヒトラーが、右翼系の小政党の本部に乗り込んで、党首と対談もとい説教するシーンがあるのだけど、あれもその政党を知らんので、本来のあのシーンの面白さまでは分からないところがある。


後半では、メタフィクション的な作り方をしている部分があって、(作品内の)現実なのか劇中劇なのかよく分からなくなるみたいな展開になったりするのだけれど、そのあたりは何というか若干中途半端な感じがするというか。

うーん。

そこに至る前の、あのおばあちゃんとかは、結構よかったと思うんだけど。言ってることはクリティカルなんだけど、形式的には全くヒットしないあの感じ。


ところで、これ見ているとどうしても鳥肌実のことを思い出してしまう。

といっても、自分は名前を知ってるくらいで、鳥肌実演説芸自体は見たことがないのだけど。

Twitterで「帰ってきたヒトラー 鳥肌実」で検索すると、ある程度ヒットするので、それほど外した連想ではないだろう。

で、これまたよく知らないのだけど、鳥肌実は、もともとただの「芸」であり「ノンポリ」だったらしいが、近年では、ガチで右傾化・政治化してきたという噂も聞いたりする。

2016-07-24

[]小川哲『ユートロニカのこちら側』

企業による個人情報収集が著しく進んだ結果、少しずつ自由の概念が変わっていった世界を舞台にした連作短編集

第3回ハヤカワSFコンテスト大賞作品

アメリカを主な舞台にしているからなのか、どこか翻訳小説のような文体で書かれている。

SFではあるのだが、SF的アイデアの部分は必ずしもこの作品の中核に据えられているわけでもない。

第一章から第六章はそれぞれ主人公も時間軸も異なる独立した物語となっているが、一部、重複して登場する登場人物たちもいる。

4章の後半あたりから面白くなってくる。


情報銀行を経営しているマイン社は、カリフォルニアフロリダアガスティア・リゾートと呼ばれる特別区を次々と建設しはじめる。この特別区の住民になると、視覚情報や音声情報を含むあらゆる個人情報をマイン社に提供する代わりに、働かなくても暮らしていけるのに十分な収入を得ることができる。また、区内は治安もよく、各種カルチャーなども取りそろえられている。

情報銀行と取引をする個人には、情報等級というものが割り当てられていて、安定性の高い情報を提供する者は等級が高いようになっている。

サーヴァントと呼ばれるAIが生活に広く普及しており、様々な仕事・生活上のアドバイスを行っている。

特に、アガスティア・リゾート内の治安は、収集された個人情報をもとに予測された犯罪傾向をもとに行われる予防措置によって維持されているが、この予測を行っているのもサーヴァントである。


どうも『ユートロニカの向こう側』って書き間違えてしまいがちなんだけど、『こちら側』


アガスティア・リゾートへの移住を目指す夫婦の話

妻の方がアガスティア・リゾートへの移住に熱心になり、何年もかけて情報等級をあげて、夫婦そろっての移住についに成功する。

しかし、夫の方は、アガスティア・リゾートの暮らしに馴れることができず、次第にふさぎ込み、ついに療養所へと行くことになる。リゾートには彼以外にも、ここの生活に馴染めず、サナトリウムで過ごす人々がいた。


  • 第ニ章 バック・イン・ザ・デイズ

アメリカの田舎で生まれ育ち、そこから飛び出してきたリードは、両親とも半ば縁が切れていた。故郷を土砂崩れが襲い、両親が亡くなると、両親との関係も良好だった姉ではなく、自分の方にだけ、弁護士から情報の開示があった。

彼の生まれ育った町ではかつて、マイン社の実験が行われていた。町民のほとんどがある時期に視覚情報をはじめとする個人情報をマイン社に提供し、報酬を得ていた。当時、未成年だったリードはそのことを知らされてはいなかった。

休暇をとり、八王子の研究所へ行くと、その当時のデータをもとに過去の町を体験できるシステムが待っていた。幼い頃の、とある日の夕方。

両親の視覚情報をもとに再現しているので、彼らが見ていなかったマンガの内容は白紙だが、日記の内容は再現されている。


  • 第三章 死者の記念日

刑事の話。リードの上司であるスティーブンソンが主人公。

とある殺人事件を、アガスティアリゾート内での警察機構であるABMの捜査官と一緒に捜査することになる。

警察の仕事にもサーヴァントがだいぶ入り込んでいて、現場の情報を入力すると自動的に容疑者リストをあげてくれて、それを一人一人当たっていく。

だが、ABMはさらに違っていて、彼らはサーヴァントが犯罪を起こしそうだと判定した人物をそれとなく診療所へと誘導するのが仕事で、実際の殺人犯の捜査などはしたことがない。

なので、捜査に役に立たないし、話もあまりかみ合わない。スティーブンソンは、サーヴァントに従って仕事することになんとなく不自由さを感じているのだが、ABMの人間はそもそもそういう発想があるということ自体理解できていない。

ただ、この話は、そういう話だけはなく、スティーヴンソンと妻とのすれちがいや、スティーヴンソンの思い出にも多くさかれている。彼が寮に住んでいた時のルームメイト、オリビエとの思い出

  • 第四章 理屈湖の畔で

個人情報をもとに犯罪傾向のプロファイリングを行うシステムを開発した男ドーフマンの話。

一日のあらゆることをスケジューリングしてから行動する。トイレの中で誰にも読まれない四コママンガを描く。

犯罪傾向が予想された人は、本人にもそれと気付かれないように診療所へ誘導し、その危険性を下げる。

(未来の)被害者だけでなく(未来の)加害者も助けるプログラムを、ドーフマンは作ろうとしていた。

しかし、自分の妄想に取り込まれてしまった男について、診療所に入れることに成功するも、その男は外部のジャーナリスト人権侵害を訴えて、まんまと出ていってしまう。そのジャーナリストと会っている席で事件が起きてしまう。

その後、世論の高まりのもと、犯罪傾向が予想された場合、逮捕が可能となる法改正が進められ、ドーフマンはそれに対して慎重論を唱えるべくマスコミの取材にもこたえるのだが、インタビューを恣意的に切り取られてしまう。

それにぶち切れたら、自分がつかまりそうになる。


日本人の女子大学生ユキが主人公。曾祖父の代から続く左翼系の家系で、当然のように、マイン社のやり方に反発している。

学者だった祖父は、認知症の可能性が出てきたときに、投薬治療を拒否した。健康だが自分の性格が変わってしまうことよりも、自分の意志によって認知症になることを選んだのだった。家族はその自由を尊重したが、その後の介護の負担へとはねかってくる。徘徊するようになった際、祖父に発信器をつけるかどうかで親戚と揉めたりする

ユキは、高校時代からアメリカへ留学した後、マイン大学へと進学する。もう1人の日本人留学生とともに、リゾートへのテロ計画を進め始める。彼女自身は全く本気ではないが、一種の遊びとして彼と計画を練り上げていく。

プロファイルにひっかからないように自分たちの行動をコントロールして、ついにテロ実行の日を迎えるが、ABMの元刑事だという男に見つかってしまう。



牧師アーベントロートが主人公

息子が命を狙われていて、孫と暮らしている。

彼の父親は、アガスティア・リゾートの初代区長。その父親に反発して牧師となる。息子は、さらにそこから反発して無神論者となり、その一方でアガスティア・リゾートが進むと人類から意識がなくなるだろうという論文を発表して世間の反感を買い、ついに命を狙われるまでになった。

牧師は、かつて妻との間に諍いがあった。あまり気質があわず、妻は離婚しようとしたのだが、カトリック牧師という立場上、彼は離婚を認めなかった。結果的に彼女はどこかへ行方をくらましてしまう。彼は、妻は世間に対しては病気であると偽っていた。

牧師としての最後の日々において、スティーブンソンと会って自由について話していた。スティーブンソンは市警をやめてABMに入って、ユキたちを助けていた。



作者インタビューhttps://cakes.mu/posts/11547