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2016-12-31

[]『フィクションは重なり合う』委託・冬コミ新刊・ナナフェス新刊情報(2016.11.06更新)

2016年はいつになく色々と出ているので、ここに情報をまとめておきます。

今後、この記事は随時更新され、タイトルに更新日が入っていく予定です。


(1)『フィクションは重なり合う』

(2)冬コミ新刊『MIW』←new!

(3)「アイドルは音楽である」『ユリイカ2016年9月臨時増刊号』

(4)「批評系同人座談会」『アレvol.1』

(5)ナナフェス4th

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2016-12-30

[][][][]『フィクションは重なり合う』kindle版リリース!

Kindle ダイレクト・パブリッシングサービスを利用して、販売を開始しました。

おーすごい、自分の本がAmazon


フィクション哲学アニメ批評・文芸批評を架橋する一冊!

分析美学ウォルトンによるごっこ遊び説など)やマンガ評論(伊藤剛の「マンガのおばけ」)を用いて、『SHIROBAKO』や『キンプリ』などのアニメ作品、『耳刈ネルリ』や『夢幻諸島から』などの小説作品から「分離された虚構世界」を見出し、それが鑑賞体験にどのような効果をもたらすかを論じた長編評論「フィクションは重なり合う――分離された虚構世界とは何か」

付録「二次元アイドル比較」では、『アイマス』『ラブライブ!』『うたプリ』『アイカツ!』『プリパラ』などの人気作品から『ナナシス』や『あんスタ』といった今後ブレイク必至のアプリゲームまで、二次元アイドルコンテンツ全20作品について、企画概要や略史、主要スタッフなどのデータ、並びに独自の基準による比較チャートを掲載!


※印刷版と内容は同じですが、kindle版では一部の図版がカラーになっています。

Amazon内容紹介より)

続きを読む

2016-11-28

[][]ジュリオ・トノーニ/マルチェッロ・マッスィミーニ『意識はいつ生まれるのか――脳の謎に挑む統合情報理論

意識を経験科学的に測定するには一体どのようにすればよいのか、という本。

「統合情報量」という新たな物理量を提案し、これを測定することによって、意識の有無を調べることができるとする。

心・意識の科学に関する本を読むの、考えてみると結構久しぶりだったのだけど、なかなか面白かった。着実に進展しているのだな、すごいな、と。

個人的な感想として、この本を読む限りでは、統合情報理論は必ずしも意識のメカニズム説明にはなっていないと思うのだけど、経験的に検証可能なリサーチ・プログラムになっていて、意識を研究するに当たってかなり重要な一歩となっているのではないか、という感じ。

この本は、一般向けに書かれた著作となっており、専門的な記述は少なく、むしろエピソードや具体例を交えて書かれており、読む分にはかなりすらすらと読めるものとなっている。

ちなみに、まえがきで述べられているが、本書の構成は対称的になっており、5章を中心に、1章と9章、2章と8章、3章と7章、4章と6章とが対応しているように書かれている。


第1章 手のひらに載った脳

第2章 疑問が生じる理由

第3章 閉じ込められて

第4章 真っ先に押さえておきたいことがら

第5章 鍵となる理論

第6章 頭蓋骨のなかを探索してみよう

第7章 睡眠・麻酔・昏睡――意識の境界を測る

第8章 世界の意識分布図

第9章 手のひらにおさまる宇宙

追記(20161130)

■ 大泉匡史さん「意識の統合情報理論」セミナーまとめ(20161129)を読んだ。

「Exisntence: 意識は存在する」を入れた時点で「哲学的ゾンビの可能性」とか「意識とは幻想であり存在しない」という議論はあらかじめ排除される、と宣言しているのであって、IITはそういう意味ではハードプロブレムそのものを相手にしない、と宣言しているとも理解できる。じっさい、脳の状態と意識の状態とは同一であるとするidentityをこの理論では前提としているので、explanatory gapとかそういう議論は射程外にある。

pooneilの脳科学論文コメント: 大泉匡史さん「意識の統合情報理論」セミナーまとめ(2/5)


pooneilの脳科学論文コメント: 大泉匡史さん「意識の統合情報理論」セミナーまとめ(3/5)

こっちで統合情報量φの計算方法について紹介してる。詳しいとこまではわからないが、まず内的情報量というのがあって、それは、現在のネットワークがとりうる過去のネットワークの状態の確率となる(ベイズの定理がでてきた)。これを因果のレパートリーと呼んでる、多分。

で、統合情報量は、ネットワークを切断して、切断する前と後のレパートリーを比較したもの。ネットワークの要素が多くなればなるほど、切断する場合分けが増えていくので、実際の脳について統合情報量を計算するのはほぼ不可能となる、ようだ。


(吉田コメント) そしてこのconstellationの議論が納得いかない最大の理由は、意識のcontentの議論を回避した上でqualiaだけ議論しようという点に無理があるということ。IITでは内的な情報量を考慮することを徹底しているため、外界の刺激が何で、なにが表象されて、ということは理論の外にある。その事自体はIITを他の理論と峻別する非常に重要な点なのだと思うのだけど、それゆえにIITでは表象を扱うことができず、意識のcontentの議論を行うことができない。そのような状態で「クオリア」だけを取り出して扱おうというのは無理だろうと思う。

pooneilの脳科学論文コメント: 大泉匡史さん「意識の統合情報理論」セミナーまとめ(4/5)

以前私はIITがある種の表象主義であり、NCCの後継であり、だからこそCristof KochがIITの擁護者になったのだということを書いたことがあるが、この考えは撤回しないといけない。IITはNCCでやっていることとは随分違うことをやっている。

では以前指摘したNCCとIITの連続性とは何かというと、脳活動=意識状態とする「同一説」的な考え(クリックのastounishing hypothesisというのも同じ)のことだとわかった。しかし同一説、つまり無媒介的に脳の状態と意識の状態とを同じものとする考えは(おそらく)すべての神経科学的アプローチで前提していることだ。そうなるとなぜ心の哲学で機能主義表象主義が必要とされたのかって話に戻る必要がある。

pooneilの脳科学論文コメント: 大泉匡史さん「意識の統合情報理論」セミナーまとめ(5/5)

ふむふむ

統合情報理論は、意識の内容を扱ってない、か。

追記ここまで


統合情報理論について

統合情報理論は、「情報量が豊富で、それらが統合されたシステムにおいて意識は発生する」というかなりシンプルなテーゼによって成り立っている。

情報量が豊富とはどういうことか、それは豊富なレパートリーの中から選ばれているかということ。

例えば、部屋が明るいかどうか判定するシステムがあったとする。このシステムを、フォトダイオードによって作った場合は、「明るい」か「暗い」のたった2つのレパートリーから判定する。これに対して、人間がこのシステムである場合は、「赤い」「青い」「暖かい」「冷たい」「明るい」「暗い」など様々なレパートリーの中から判定することになる。

それが統合されているとはどういうことか。

これについては、2つに分けておこう。

まず、意識経験の統合性だ。意識経験は統合されたものである。例えば、目の前に白い豆腐があったとして、「白さ」だけとか「四角さ」だけとかを経験することはない。それらが全て統合された状態で経験される。あるいは、本書の中で挙げられた例としては、ルビンの壺が挙げられる。女性の顔として経験されるか、壺として経験されるか。いずれにせよ、1つのものとして経験される。

もう一つ、システムの統合性がある。

オン・オフの回路を持った要素がいくつかあるシステムがあったとしよう。1つの要素をスイッチした時にどのようになるか。

例えば隣り合った要素はそれに反応するが、それ以上離れた要素とは繋がっていなくて反応しないという場合、これは統合性が低い、ということになる。

逆に、1つの要素を刺激して、その刺激がシステムの他の要素全てに波及する場合、統合性が高い、ということになる。

しかし、意識が発生する場合において、統合性が高いだけではだめである。統合性の高いシステムは、情報量が少ないことがある。例えば、1つの要素をオンにすると、全ての要素が一斉にオンになるようなシステムは、統合性は高いが情報量は少ない。

1つの要素をオンにすると、その影響がシステムのあらゆる要素に波及するのだが、それぞれの要素の反応が一様ではない場合、統合情報量Φが高い、と定義される。

本書では、デジタルカメラの例が出される。

これは様々なレパートリーに対応した素子があるという点で、情報量は豊富である。しかし、これらの素子同士は繋がっていないため、統合性は低い。

例えば、デジタルカメラでルビンの壺図形を写した場合、「1-Aは白い、2-Aは白い……5-Eは黒い……」(ここでいう1-Aとかはセルの位置を表すとする)みたいな感じで、各セルごとに各素子が情報を持っているかもしれないが、それらの情報が統合されていないので、デジタルカメラ自身にはそれが壺に見えたり顔に見えたりはしない。


統合情報理論は、必ずしも意識が発生する脳神経系メカニズム説明となっているわけではない、と思う。

というのは、意識経験が統合性という特徴を持っていることや、情報の統合性の低いシステム(例:デジタルカメラ)が意識経験を有していないことは、おそらく間違っていないと考えられるが、

意識経験が統合性という特徴を持っていることと、意識を実現するシステムが高い統合性を有することの間に、メカニズム的な連関があるかどうかはこれだけだとさっぱり分からないからだ。

ハードプロブレムって、物理的なシステムが一体どのようにして意識を生じさせるのかという問題であるが、

統合情報理論は、ある物理的なシステムと、意識経験との間には、類似した特徴がある、というところまでしか言っていない、ように思う。


  • そもそも意識経験における統合性は、意識経験を定義づける特徴なのか

まずこれが難問。

ただ、ほんのちょっとだけ想像してみたに過ぎないけど、統合性のない意識経験はなさそうという気はする。

個人的に、意識を意識たらしめる最大の特徴は現象性だと思っている。つまり、デジタルカメラみたく、「1-Aは白い、5-Eは黒い」みたいな認識ではなくて、目の前に現れているように知覚されること。視覚に限らず、五感全てについて神経の刺激というデータじゃなくて、それがまさに私たちが経験しているように経験されること。

ところで、その現象性という特徴をまさしく言い換えたのが、統合性じゃないのか、というと、確かにそうだよなあとも思う。

あと、ルビンの壺とかが例に出てきてしまったせいだけど、これって知覚の特徴じゃないのか? という素朴な疑問も出てきたのだけど、じゃあ知覚経験と意識経験というのは、何が同じで何が違うのかということを検討しなければならなくて、知覚の哲学入門読まなきゃあとなってしまった。


  • システムの統合性と、意識経験の統合性はそもそも同じものなのか

現象性を統合性と言い換えることのメリットは、そうすることで、物理システムの特性として説明できる点だと思う。

でも、個人的には、ここに説明のギャップが埋まっていると思う。

システムの統合性ということは、個々の要素がどのように接続されてネットワーク化されているかということで考えることができる。デジタルカメラは個々の素子がネットワーク化されていない、人間の大脳−皮質系は、それぞれの神経細胞が複雑にネットワーク化されている、というように。

統合情報理論は、神経細胞が複雑にネットワーク化されていることによって、大脳−皮質系に意識が生じると説明している。何故なら、神経細胞の複雑なネットワークとは、統合性が高く情報量の豊富なシステムだからであり、意識とは、統合性が高く情報量の豊富な経験だからだ。

さて、ハードプロブレムがハードなのって、神経の挙動と、意識経験が似ても似つかないからだと思う。

この本でも、医学生が解剖実習で脳を見る驚きから始められているが、脳という物体は細胞の塊でしかない。一方、実際に経験される意識というのは、細胞の塊でも電気信号でも化学物質でもなくて、映像や音声や触覚や情感が総合されたような現象である。

つまり、脳(及びその活動)と意識は、似ても似つかない(ように思える)。ここにギャップがあるような気がする、というのがハードプロブレムだ。

ただ、意識の現象性を統合性と言い換えることで、脳の物理システムとしての特徴も統合性と呼ぶことで、いや、実は意識と脳の活動でこの統合性という点で似てるでしょって言ったのが、情報統合理論なのでは、と。

「確かに似てますね」及び「似てることを示せば説明になりますね」の2つを了解する人にとっては、この理論は、意識の十全な説明になるのではないだろうか、とは思う。

ただ、もとよりハードプロブレムを論じている人は、これじゃ納得しねーだろーなー感がある。

僕は、確かに似てるかもしれない、というところには結構了解しつつある。

似てることが説明になっているのか、というところでややひっかかりを覚えている、という感じ。


システムの統合性と意識経験の統合性には関係がある、ということを認めたとしてもなお、「情報量が豊富で、それらが統合されたシステムにおいて意識は発生する」という統合情報理論テーゼを即座に認めることはできない。

というのも、情報量が豊富で、それらが統合されたシステムでありながら、意識が発生しないシステムがありうるから。

いや、わかんないけど。

これは経験的なものではなくて、思弁的な想定にすぎないけど、哲学であれば、結局その可能性を排除できないものは、定義としては使えないことになる。

現状のインターネットやAIは、トノーニ的にはおそらく、十分に高い統合情報量φを持っていないシステムだから、当然意識も持っていないことになると思うんだけど、でも、ネットワークのつなぎ方いかんでインターネットに意識が宿ることを否定していない理論だと思う。

いや、未だ実現できてないから信じられないだけかもしれないけど、十分に高い統合情報量φを持てば、インターネットにも意識が生じるってホントかよ、とはやはり思ってしまう。情報量も統合性も豊富なシステムではあるけれど、意識が生じてないこともありうるのではないか、と。

で、結局、意識が生じているか否かの確認について後戻りしてしまうわけだけど、

別冊日経サイエンスでコッホとトノーニの人工知能の意識を測る | 日経サイエンスという記事、てっきり統合情報量による意識の測定のことが載っているのかと思ったら、もっと全然シンプルな問いかけによって意識の有無を判定するという、あたかも意識版チューリングテストのような提案がなされていた。そんなシンプルな質問1つで意識の有無が判定できるのか、あるいはその質問は、意識以上のものを必要とはしていないだろうか、などの疑問もあるけれど、確かに結構妥当なような気もするみたいなもので、この判定テストと組み合わせると、もしかして経験的にも調べられる?

統合性のない現象性はあるのか

現象性のない統合性はあるのか

このふたつを、思考実験的に想像するのはなかなか難しいんだけど 


ここまで統合情報理論に対して批判的に書いたけれども、統合情報理論は、実はかなりいい線いってるんじゃないかと思う。

そもそも、統合情報理論がとりあえず目指しているものって、「意識と相関した神経活動(NCC)」を見つけることだと思う。

で、これにある程度の目処をつけている。

逆に、意識と相関した神経活動って、発見すれば神経科学的には超重要な発見であり、意識研究に大きな一歩だけれど、かといって、上述した問題をクリアできるわけではないように思う。何しろあくまでも「相関した」ものだから。多分。

このあと書くけど、本書は、例えば「ロックトイン症候群」とか「最小意識状態」とか、あるいは現在の臨床技術では徴候を見つけられないけれど、実は意識がある患者だとか、そういうコミュニケーション困難ないし不可能な人の意識の有無を発見できるか、という観点から(も)書かれている本である。

目指すはまず、意識の有無を測定することなのだ。

意識の有無を測定するためには、確かに意識の定義が必要にはなるが、意識のメカニズム的な説明までは必ずしも必要ない。

例えば、質量の測定方法は随分前から分かっていたはずだが、質量がどのように生じるのかというメカニズムヒッグス粒子とかで今まさに解明中というところだろう。

意識を、統合情報量という物理量で測定できる、ということと、意識がどのように生じるのか説明できる、ということは必ずしも一致しないだろう。

それからもう一つ。

統合情報量の高さは、意識にとって十分条件ではないかもしれないけれど、必要条件である可能性は高く、それだけでも意識の測定にとってはかなり意味があるのではないか。

例えば、心臓の鼓動があることは、生きているかどうかを測定する重要な指標ではある。ところで、脳死が人の死であるという立場に立つのであれば、心臓の鼓動があることは、人間が生きていることによって必要条件ではあるが十分条件ではない。心臓の鼓動があっても、脳活動が停止していれば、その人は死んでいるから、それだけでは生死の判定には使えない。しかし、心臓の鼓動がなければ、間違いなくその人は死んでいる。

統合情報量も、十分に高いからといって意識があるとは即座には言えないかもしれないが、十分に低ければ意識がない、と判定できる可能性は高い。

いやまあ、それを満たすだけなら、別に統合情報量以外にも色々あるので、必要条件を満たしているからすごいとはさすがに言えないんだけど、なんか結構いい感じの測定方法っぽい。少なくとも、人間相手には結構使える測定っぽいということはあって、その意味で結構すごいと思う。


第1章 手のひらに載った脳

医学生が解剖実習で脳を目にしたときに生じた疑問という形で書かれている章。

まあ、導入。

ところで、この本を読みながら、意識について考えていると、どうしても意識のない状態、ひいては死について考えざるをえなくなるところがある。

死について想像すると、というか、想像しようとしても想像が全くできないのだが、まさにその想像の埒外にあるということによって、不安感・恐怖を喚起される。

本当に怖ろしい……


第2章 疑問が生じる理由

哲学的ゾンビや、IBMワトソン石黒浩のジェミノイドの話など

あと、小脳基底核ゾンビでは、という指摘(意識なしで体を動かすことができる)


第3章 閉じ込められて

この章では、意識に関わる臨床的な事例が多数紹介されていて、科学読み物としては一番読みやすく、面白い章かもしれない。

びっくりしたのは、全身麻酔をかけた患者の中に、手術中に意識を取り戻している人が結構いる、ということ。意識が戻っても、神経の活動自体が阻害されているので痛みを感じてはいないようなのだけど、その一方で体を動かすことも全くできず、自分の意識が戻っていることを伝える手段もない。なので、かなりのトラウマになるとか。また、意識が戻ってはいるが、その時の記憶を失っている人も多いとのことで、報告数以上にそういう人は多い、とか。

それから、ロックトイン症候群や最小意識状態の患者についての話。昏睡と植物状態の違いとか(昏睡は、ある状態からある状態への移行期)。

ロックトイン症候群は『潜水服は蝶の夢を見る』で有名になった奴。

コミュニケーションをとれない患者にも意識がある場合があるようだが、それをどのようにしたら発見することができるのか。

「意識に相関した脳活動NCC」を特定することによって。

NCCの候補として、ニューロンの活動量やニューロンの同期発火などが考えられるが、どちらも実施に測定してみると、睡眠中や麻酔のかかっている間と覚醒時とでそれほど変わりがなく、活発に活動していたり同期していたりする。また、脳に損傷を負った患者の場合、意識を回復しても活動量は低いままである。


第4章 真っ先に押さえておきたいことがら

視床−皮質系と小脳との比較

ここは結構、統合情報理論に至るための肝で、ニューロンの数は、視床−皮質系よりも小脳の方が多い(知らなかった!)にもかかわらず、小脳に意識が発生しないということ

ニューロンの数は、意識に関係していないようだ、と。

小脳はある種のゾンビ、という指摘にはっとした。


第5章 鍵となる理論

この章がどういうこと書いているかの説明は、大体上で述べたとおり

これよりさらに専門的な説明大泉匡史「意識の統合情報理論 」- RIKEN Brain Science Institute - 理化学研究所(pdf)で読める。

外的な情報量と内的な情報量の違いという説明があり、レパートリーの話で、シャノンの情報量みたいな話なのではと思うのだけど、この説明では、因果性によって説明している。本書でも、統合情報量について、因果性への言及が度々出てくるので、情報と因果の関係が気になるのだけれど、このあたりは全然理解できてない。

それから、排他の公理という、本書では出てこない言葉も出てくる。

これは、本書では、5章の後半やそれ以降にちょくちょく出てくる、チェーンとコアの話である。実は統合情報理論において、意識が発生するのは、統合情報量が最も高いシステムであると、「最も高い」という限定がついている。

例えば、人間の脳には、感覚器からの入力系がくっついている。これもシステムの一部と言えば一部だが、視床−皮質系に対して統合性は高くない。切断してしまっても、視床−皮質系の統合情報量は変わらない。この、切断しても統合情報量が変わらない、というのがポイントで、それは「最も高い」システムではなかったということになる。

で、本書の方でははっきりした説明がなかったのだけど(ちょっと1文くらいで軽く触れられている程度)、インターネットに意識が生じないのは多分、この排他の公理によるのだと思う。


第6章 頭蓋骨のなかを探索してみよう

統合情報理論観点から、脳の解剖学的知見を見ていくものとなる。

視床−皮質系と小脳の違いを、統合情報理論から見ると、脳梁の有無が目立つ。小脳には脳梁がない。また、各部位についてもそれぞれを結び付けている神経線維がない。小脳に入ってきた情報は、処理されると小脳の他の部位にはいかずにすぐに出力される。一方、視床−皮質系は、近距離、遠距離さまざまな部位とつながる繊維がのびている。

また、感覚システム、運動システム、基底核、活性化システム(脳幹)が、意識にはあがってこない理由についても、統合情報量φの高いコアの部分に含まれていないことによって説明される。

また、意識が発生するにあたって、ある一定の時間がかかっていることについても、まさにこのネットワークの複雑さから説明される


第7章 睡眠・麻酔・昏睡――意識の境界を測る

ここから先は、実際の測定フェーズに入るのだが、統合情報量φは実際に測定するのが難しい(この本は一般向けなので、Φが実際にどのように計算されるのか書かれていないのだが、要素が8つくらいのシステムなら計算可能だが、脳のように要素が多いシステムだと計算がやたら大変らしい)

しかし、近似値なら測定することができる、と。

統合情報量というのは、ある刺激をシステムの要素に与えたときにそれが他の要素にも広がっていくかということで測られる。そのため、単に脳波を測定するというだけではだめで、「揺さぶり」をかける必要がある。

そのための装置が、TMS脳波計である。

これは、経頭蓋磁気刺激法(TMS)と脳波計の組み合わせである。

TMSとは、磁場を脳に近づけると、目がちかちかしたり、舌に変な味を感じたりするという現象を利用して脳を研究する手法である。この現象自体は、20世紀初頭から知られている。

これを、夢を見ていない睡眠時、夢を見ている睡眠時の被験者、麻酔をかけられている患者、昏睡状態を脱したばかりの患者などで測定し、理論が示す通りの結果が得られている。

また、昏睡状態を脱しながらも意識を回復していない患者について、臨床上の判定では意識がないことになっていた女性について、TMS脳波計の測定では、意識を示す兆候が見られた。そしてその後、実際のその女性は意識が回復した。


さらに、意識の測定を定量化できないかということも提案されている。

画像ファイルを圧縮するような要領で、脳波計の記録を圧縮する。単純な記録の場合(つまり情報量は豊かだが統合性が全然ない(少ない要素しか反応していない)場合と、統合性は高いが情報量は豊かではない(多くの要素が反応するがその反応が一様である)場合)は、圧縮すると、圧縮度合いは高くなり、複雑性は低いということになる。逆は、逆になる。

覚醒時、ロックトイン症候群の患者、最小意識状態の患者、睡眠時、麻酔時、植物状態の患者のデータを、この値にそって並べると、意識があるかないかの境界線が引ける。


睡眠時、ニューロンイオンチャンネルが開き、カリウムが放出されることが分かっている。カリウムの放出が進むと、ニューロンは静かに安定するか、活発化するかの二極化する。このことによって、情報の豊かさや統合性が失われるのではないか、と。

また、麻酔は、睡眠とは違って、ニューロンの活動を抑制するように働く。


統合性と、意識の現象性はイコールなのかどうかと冒頭に疑問を書いたけれど、眠りに落ちていく際に、少しずつ意識を失っていくことを、各知覚や運動モジュールの統合がほどけていく様として想像するのはそれほど難しくなく、なんだかイメージに合致しているような気がしてくる。


第8章 世界の意識分布図

動物や機械に意識があるかどうか、という話

これはまだ、「かもしれない」という話しかできないけれど、動物ごとにそれぞれ異なる統合情報量を持っているのではないか、と。

で、いずれ測定できるようになるのではないか、と。

統合情報理論は仮説をたて、それを実際に測定して検証できるし、その結果如何によっては間違っている可能性もある、ということがこの章でコメントされている。


第9章 手のひらにおさまる宇宙

また、医学生の視点に戻って、意識についてなんか色々

エーデルマンの著作のタイトルの元ネタにもなった、ディキンソンの詩が引用されていたり。

統合情報量φは、ある物理的システムが揺さぶりを加えられたらどのような反応を返すか、という「潜在的に~しうる」値である。しかし、意識とは起きているときは常にあるはずなのに、それを計測するのに「潜在的に~しうる」値なのは変ではないか、と考えるが、質量も、もし物体を動かそうとしたらどれだけ抵抗するか、という「潜在的に~しうる」値である。そして、動かそうとしない時だって、物体には質量がある。統合情報量も、質量や電荷のように基本的性質の仲間とはならないか


それから、自由意志についても触れられている。

ここは記述が短くて意味をつかめていないのだが、「情報の密度が薄まると、因果関係も弱くなる」「情報の密度が濃ければ、因果関係も強くなる」

統合情報理論は、情報量が最大に高まった時に意識が発生する理論である

ということから、意識と情報と因果には何か関係があって、それが自由意志の問題と関わっているのではないか、という推測というか連想のようなことが書かれている。


訳者あとがき

訳者は、外文の人で、クレジット見る限り、監修とかもついてないっぽいんだよね

元々一般向けに書かれている本だからというのもあるだろうけど

で、あとがきでは、人文的な教養もうかがえて読みやすいだとか、分離脳ってカルヴィーノの『まっぷたつ男爵』っぽいよねとか、この本の主要な部分とはまるで関係ない(分離脳は例として何度か出てくるが、別に著者らが発見した事例ではないわけで)ところばかり触れられていて、逆に面白かった。


関連書籍

というか、今まで自分が読んだ意識関係の本

ジェラルド・M・エーデルマン『脳は空より広いか』 - logical cypher scape

筆者略歴を見るに、トノーニはエーデルマンとの共著があるらしい。

統合情報理論は、意識の脳神経系メカニズム的な説明がないと散々書いたが、そのような説明をしているのがこちらのエーデルマンの本ということになる。統合情報理論より前の本だけど、エーデルマンも、統合と変化を重視している。

意識の現象性とは、識別であるというエーデルマンの主張を認めるなら、先述した、別冊日経サイエンス所載の、コッホとトノーニによる意識測定テストも妥当に思えてくるだろう。


ニコラス・ハンフリー『赤を見る』 - logical cypher scape

盲視の話から、意識と感覚について論じる本。

ハンフリーは最近『ソウルダスト』という本があって、そっちではさらに進化論観点から意識を論じているらしい。


スーザン・ブラックモア『「意識」を語る』 - logical cypher scape

「脳から見た心の世界 Part3(別冊日経サイエンス)」 - logical cypher scape

ジョン・ハリソン『共感覚』 - logical cypher scape


金森修『動物に魂はあるのか』 - logical cypher scape

これ、科学の本でも心の哲学の本でもなく、思想史の本だけど、本書の8章に出てきたデカルトモンテーニュ対立みたいなのを、ヨーロッパ思想史全体の中から紹介している本


logical cypher scape

ジェグォン・キム『物理世界のなかの心』 - logical cypher scape

『シリーズ心の哲学3 翻訳編』 - logical cypher scape

山口尚『クオリアの哲学と知識論証』 - logical cypher scape

あんまり直接関係ないけど、心の哲学関係

2016-11-16

[][]『日経サイエンス2016年12月号』

もうちょっと読んでから、感想記事まとめようと思っていたのだけど、なかなか読めなかったので、とりあえず以前twitterに投げたコメントを拾い集めておく

シン・ゴジラの科学

ゴジラvsダイオウイカ、待ったなし https://pic.twitter.com/BTBISzNIPZ

シン・ゴジラの科学わりと面白かったけど、たんぽぽ計画もってきて記事をしめるのはやりすぎではww

ゴジリウム、ゴジリン、ゴジリオン(新元素の名前候補)

長沼先生がゴジラの細胞膜についてがんがん仮説立ててて面白い(放射性物質を膜でこしとって熱源とし、その温度差を利用して発電するバイオ原子力電池→その電気を利用して細胞膜の微小空間内で核融合

尾頭課長補佐の笑顔を返せ(松本准教授が、長寿命の核種が残っている可能性を指摘)

ゴジラウナギだった?!(ゴジラの行動がウナギの遡上に似ているという話。ウナギがお堀にいるなんて知らなかった)


解析図折り紙の展開図がー


人新世

日経サイエンスの人新世特集、まだ最初の記事だけをちらっと読んだところなんだけど。地質年代の「世」の定義がどういうものか知らないのでなんとも言えないけど、人類の活動が地層に痕跡残すのは分かるとして、それが世って言えるほど長いのかってのは気になる。

完新世ですら1万年しかないのに、さらに時代区切っちゃったら短すぎたりしないの? 長さは関係ないの、大丈夫? って素人的には思ってしまう


地質学的な特集なのかと思ったら、地質学の話は一つ目だけであとは環境問題とか人口問題とか格差問題とかの記事だった

最後がゲノム編集の記事

生殖細胞への遺伝子操作が「一線」になるとして、わりとやりたがっている派の科学者のコメントを中心に記事が書かれている。法的・倫理的にまずいのではという考えもありつつも、技術的に可能だから、遅かれ早かれその時は来るだろう、と。精子をターゲットとした不妊治療から始まるのではないか、と。


「ゲノム編集」初の人体応用 中国で肺がん患者に  :日本経済新聞

ワシントン=川合智之】英科学誌ネイチャー(電子版)は15日、中国四川大学の研究グループが生物の遺伝子を自在に改変する「ゲノム編集」技術を初めて人間の患者に適用したと報じた。ゲノム編集は将来の治療への応用が期待されるが、人体への応用は始まっていなかった。

(中略)

一方、昨年4月には中国の別の研究チームがヒト受精卵でゲノム編集を実施したと発表、子供に副作用遺伝する生命倫理上の問題があると論争になった。

これ、この記事の最後に載ってた奴かな。「中国の研究グループが、HIV感染症への抵抗性を確立するためにヒト胚(胎児になることはできない)のゲノム編集を試みたという。(p.96)」

CRISPRって何なのか、何かで読んでおきたいとは思いつつ

2016-11-11

[][][]森元良太・田中泉吏『生物学哲学入門』

哲学観点から、主に進化論・進化の総合説を主軸に生物学史を追っていくような形の教科書

普通に生物学の勉強になった。

これ、もちろん明らかに「生物学哲学」の本だと思うし、読んでいて結構「哲学者っぽい書き方だな」と感じるところはあるんだけれども、扱っている話題のほとんどは生物学の話題なので、普通に進化生物学入門として読んでもいいのではという感じもする。


個人的に面白かったのは、トンネル効果のしみ出し(そんな論法ありなのか!)、選択のレベル論争(経験的な対立じゃなくて哲学的な対立だったのか!)、断続平衡説(そういう評価の仕方ができるのか!というかあんまりよくわかってなかったことに気付いた)

種の個物説ってやっぱりあんまりよくわからない。メンバーシップ関係と全体部分関係って、違うのは頭ではわかるのだけど、種に関していうと何が違うのかがよくつかめない

種の反実在論って、当たり前の言い方を捨てなければならないというコストは確かにでかい。

関係的本質主義ってのもなんかすごい考え方だなーとか

微生物の多細胞性とかもなんか面白かったり。

生物学の哲学入門

生物学の哲学入門

[序 章] 生物学哲学への誘い

生物学哲学とは何か

進化論への関心

生物学哲学の展開

本書の概要

[第1章] ダーウィン進化論から進化の総合説へ

1.1 ダーウィン進化論

1.2 ダーウィニズムの失墜

1.3 集団遺伝学の誕生

1.4 進化の総合説

[第2章] 集団的思考と進化論的世界観

2.1 集団的思考

2.2 進化論的世界観

[第3章] 利他

3.1 利他性とは何か

3.2 血縁選択

3.3 形質群選択

3.4 選択のレベル論争

[第4章] 大進化

4.1 大進化の理論

4.2 断続平衡説に対する評価批判

4.3 生層序学における化石記録の見方

4.4 断続平衡説と進化の総合説

[第5章] 発生

5.1 発生学と進化の総合説の関係

5.2 ホメオボックスの発見から進化発生学へ

5.3 進化発生学がもたらした変化

[第6章] 種

6.1 種と分類

6.2 種タクソンの存在論的身分

6.3 種カテゴリーに本質はあるのか

6.4 微生物本質主義


[第1章] ダーウィン進化論から進化の総合説へ

まあ、章タイトルそのまま、ダーウィニズムの説明とその後の進化論

ダーウィンは一本の樹を、ラマルクは複数の樹を考えたという整理が分かりやすかった

ラマルクというと獲得形質遺伝と強く結び付けられているけれど、ラマルクの中ではあくまでも付随的な話に過ぎなかったらしい。

ダーウィン自然選択説が認められるのは、1930〜40年代

それまでに2つの反ダーウィニズムの動向があった

(1)ネオ・ラマルキズムと定向進化説

これらの考え方は、20世紀に入り、ヴァイスマンの生殖質説の登場で支持を失う

これは、体細胞生殖細胞のうち、遺伝に関わるのは生殖細胞の方だけ、ということを示した説

(2)メンデル学派と突然変異説

変異は連続的か離散的かで、自然選択説を支持する生物測定学派とメンデル学派が対立

また、自然選択は、新しい形質の出現を説明できないとして、突然変異説が人気を得た

こうした対立に対して、フィッシャー、ライト、ホールデンの集団遺伝学が調停を行う。

集団遺伝学の創始者フィッシャー、ライト、ホールデンという3人の名前は知っていたのだけど、3人それぞれがどういう研究しているのかは知らなかった。わりと違うことを論じていたんだなあと。フィッシャーとライトは、遺伝的浮動の重要性について激しく対立していた、とか。ホールデンは、工業都市でガの色が暗くなる工業暗化について数学的に説明した人

進化の総合説

遺伝学者ドブジャンスキー

フィールドワークを重視する、ルイセンコ以前のソヴィエト遺伝学でもって、ライトの説を

ジュリアン・ハクスリー(ダーウィンの犬と言われたハクスリーの孫)は、進化の総合説を一般の人に広める。

鳥類学者マイアと古生物学者シンプソンが、専門家への影響が大きい

コラム

集団遺伝学の背景には確率・統計論的アプローチ、分子生物学の背景には物理学的アプローチという違いがあるという指摘


[第2章] 集団的思考と進化論的世界観

マイアは、ダーウィンの偉業は集団的思考を生物学に持ち込んだことだとする。

この章の前半では、統計学の歴史が簡単に触れられる。

ラプラスガウスによるガウス分布の証明

ケトレーによる平均的人間という新概念の考案

そして、ゴールトン

彼は、ガウス分布正規分布normal distributionと呼び変える

誤差論を進化論へと持ち込んで、集団遺伝学への先鞭をつける

集団的思考は、アリストレス的本質主義以来の正常と異常という考え方を変化させる。

生物測定学派とメンデル学派の調停はフィッシャーが「分散」を導入したことによる


進化論的世界観は、決定論的世界観か非決定論的世界観か

決定論的世界観は、不確定性は人間の無知によって生じるだけで、現実世界には存在しないというもの

非決定論的世界観は、不確定性は世界そのものに備わっているというもの

この二つの世界観が進化論において議論される際には、遺伝的浮動フィクションか否かという形で論争される。

前者は、遺伝的浮動は人間の認知能力の限界のため、説明上必要になるフィクションだと考える。

後者は、量子レベルの非決定性が進化現象まで「しみ出す」と考える。

進化はDNAという分子の突然変異から始まる。突然変異とは化学的な変化で、それは量子力学によって記述できる。というものである。

そんな馬鹿なとも思うのだが、デイヴィッド・ステイモスは、トンネル効果によってDNA突然変異が起き、それが表現型にも変異を及ぼす実例を挙げている。

決定論的世界観論者も、しみ出しそのものは認める。しかし、その頻度について争っている。


[第3章] 利他

ここでいう利他性とは、あくまでも生物における適応度の得失についての利他性と限定し、

また、進化論で特に論じられたのが、利他性の起源の問題ではなく普及の問題であるとしたうえで、

ハミルトンの包括適応度を用いた血縁選択説がまず紹介される。

もう一つ、群選択説というものがある。

1960年代まで支持を集めていたが、60年代後半から70年代にかけて批判されることになるが、その後、形質群選択説という新しい説が現れる。

血縁選択説と形質群選択説のあいだで、選択のレベル論争というものがある。

これ全然わかってなかったんだけど、経験的な争いじゃなくて哲学的な争いだった。

というのも現在においては、このふたつのモデルが現象に対して同等の予測をするということで、両者は見解の一致をみているからだ。

ウィルソンとソーバーは、「なぜ」普及するのかを説明するのは、形質群選択説だと、

ステレルニーなどの広義の個体主義は、どちら「も」同等に説明できると考えているそうだ。

これは、実在論と規約主義道具主義対立であるらしい。


[第4章] 大進化

この章は、グールドの断続平衡説とはどのような説で、どのように評価されてきたかということと、新たにとらえなおし方が論じられている。

この章も、断続平衡説ってそういうことだったのか、と思い直すところがあった。

結論からいうと、断続平衡説は、進化のパターンとプロセスの両方について述べている説なのだけど、プロセスについて言っていることが時期によって異なっていて、それがこの説の評価しにくさにつながっている、と。

もともと断続平衡説は、マイアの異所的種分化理論の古生物学への適用として提唱された。これ自体は、種の定義次第で真になってしまう主張だったので、あまりうまくいかなかった。

で、異種的種分化理論の適用という形であれば、進化の総合説とも整合的だった(そもそも進化の総合説の派生理論だった)のだが、のちに種選択理論をプロセス説明として用いるようになり、そこで進化の総合説と対立的になってしまう。

これに対して本書は、そもそも断続平衡説というのは、プロセス説明をする理論ではなく、19世紀以来の生層序学が暗黙的に前提としてきたを定式化したものなのではないか、と提案する。パターンについてのみの主張とみなせば、断続平衡説に問題点はなくなる。

では何故、グールドプロセスについての理論として提案したのか。

それはこの説が提案された時代というのが、古生物学を単なる記述的な学問から理論的な学問にしよう、進化的古生物学の意義を示そうという動きがあった時代だったからではないか、としている。


[第5章] 発生

発生学・形態学は総合説の中では軽視されてきて、近年によってようやく接近してきた

形態学の始まり=ゲーテ

ヘッケルの反復節:進化と発生を結び付ける

進化と発生の切り離し

ヴィルヘルム・ムー:進化と発生を結び付けるのは時期尚早→実験発生学

生殖細胞系列と体細胞系列の分離」

ヴァイスマンの生殖

ただし、発生と遺伝は切り離されていなかった

モーガンとその弟子らが、染色体説を実証し、遺伝も発生から切り離される

遺伝子型と表現型の分離」

遺伝という言葉の意味

もともと:親子間の類似性をあらわす

19世紀ヘッケル反復説が出たころ:系統発生的な祖先とのつながりもさす

20世紀:世代間の表現型の関係←遺伝子の名付け親であるヨハンセンによって遺伝学が、発生から分離して確立される

マイア

「究極要因と至近要因の区別」1970年代、総合説で発生を扱わない理由として用いられる

「集団的思考と類型学的思考の区別」マイアが、ダーウィンを集団的思考、それ以前の形態学を類型学的思考と区別して、ダーウィンを称揚

1980年代初頭

ホメオボックスの発見で、進化と発生が再び近づく

進化論と発生学の総合はいま行われている最中→進化発生学とは何かという問いに答えるには時期尚早

エピジェネティック遺伝

発生システム論→進化とは集団における遺伝子頻度の変化、という従来の考えから、発生システム全体の進化へと考えを変える

全体論になっていて、何が原因であるかを特定できないという批判


形態学の歴史と進化発生学については倉谷滋『形態学 形づくりにみる動物進化のシナリオ』 - logical cypher scapeが面白かった。


[第6章] 種

種タクソンの存在論

伝統的には、種タクソンは自然種の典型例とみなされてきた、これは本質主義を前提とする

体系学により本質主義が否定される

ギゼリンとハルによる個物説登場→生物学哲学では主流に

しかし近年、新しい本質主義が復活

・関係的本質主義

祖先子孫関係という関係的性質(外在的性質)を本質ととらえる。祖先子孫関係という関係的性質は予測的役割を果たすので本質となりうるというもの

・恒常的性質クラスター

必要十分条件によって定義するのではなく、性質クラスターによって定義する。性質D1~Dnのクラスター。すべてを共有しなくてもよい。

性質クラスターを構成する性質は恒常性を持つとされる=因果メカニズムが背景にあるということ


カテゴリーについて

多元論と恒常的性質クラスター

種概念はたくさん提案されているが、そのどれもが当てはまるような解決法として、この両者は似ているが、多元論とは違って、恒常的性質クラスター説は、恒常性が成立していることに着目する→基礎的な因果メカニズムの実在


微生物学との関係

微生物とは?

真正細菌古細菌、真核生物のうちの原生生物と酵母菌を指すのが慣例

単細胞生物と思われがちだが、多細胞性を有すると主張する微生物学者もいる(社会性細菌の細菌間コミュニケーションが、多細胞生物の細胞コミュニケーションと同等)

哲学者オマリーとデュプレは、動物・植物・菌類をむしろ「巨生物」と呼ぶことを提案

巨生物中心主義への継承

生物の3ドメインのうち2つは微生物バイオマスでも微生物の方が多い。

歴史的に見ても、微生物のみが存在していた期間の方が長い。グールドは生命史を「細菌の時代」と。

地球への影響も大きい

メタゲノミクス研究

群集のゲノム集合全体を解析

遺伝子水平伝達が頻繁に生じていることが判明

遺伝子水平伝達は、生殖隔離を阻害

カテゴリー反実在論や種の排除主義という道もありうる